私の選ぶ一首(流氷記・流氷記抄から)

佐 藤 通 雅
色のなき映画のシーン叩き雨 排水口より水ほとばしる(春香号)
「流氷記」は網走の生活が素材になっている。その日々をドキュメンタリー風に、どんどん詠んでいる。《事実》の重みがどうしても先行するから、一首としての凝縮度は犠牲になる。ことばも既成のものに傾くから、作品としての自立に欠ける。川添はそういうことを覚悟で、短歌形式をほとばしらせているのだろう。その情熱をまのあたりにするおもしろさが「流氷記」にはある。《人間》をしかとみる手ごたえといってもいい。他方、秀歌をえらぶとなるとはたと困る。たいていが凝縮度に欠けるからだ。辛うじて私は、どしゃ降りの連作をあげる。抄出したのもそのひとつだ。川添が作品の自立をめざすのは、《事実》から離陸したときだろう。そのときになっても、熱情が保たれているかどうかは、外部の者にはわからない。

田 中    栄
花びらはしきり降りつつ夜の広場桜木銀河のごとくに浮かぶ(桜伝説)
「しきり」は「しきりに」の方が正当であろう。客観的な叙景歌であって「銀河のごとく」が眼目。夜咲いている桜木の美しさが感じられるであろう。夜桜というと石田波郷の「夜桜やうらわかき月本郷に」を思い出すが、月がなかったのかも知れない。公園などで外灯の光があるようだ。桜の歌の多いなかでこの比喩が一番利いているように思った。

中 野  照 子
帰り道下るは桜通りにて獣の匂いの満つる坂道 (桜伝説)
土屋文明を困らせた川添作品はどんな一首であったのだろうか。若きこの作者の新鮮な表現と純一な抒情は印象的であった。 あげた一首「獣の匂い」は、食に関わる店なども並ぶ「桜通り」か、あるいは文字通り桜が続く道であり「獣」は花見の人や雑踏の喩とも思われる。「坂道」はこの一首の風通しの役を果たしている。 歳月は人間を太らせ豊かにし、また変えもする。が、若き日に見せた資質は変わらぬはずであり、どこかに光っている。この一首、
壮年川添英一の、今を生きる力ある歌といえよう。

利 井 聡 子
魚のごとかすかに口の動く見ゆ凍りたる夜の電話ボックス(流氷記抄)
全く物音の絶えた夜、電話ボックスのあかりが一人の女を浮かび上がらせる。女の唇のみがかすかに動く。愛憎のドラマの一コマを読者に想像させてしまう。この歌からは作者の姿を捕らえる事は出来ない。歌自身が独自の歩みを持ち、歌自身が読者に訴えかける。そして又、「魚のごと」という形容がいい。所詮水の中でしか生きられぬ魚。電話ボックスはまさに水槽となり、わずかに動く唇は、制約された中で生きる人間社会へのかすかな抵抗を象徴しているように思えてならない。

前 田  道 夫
幾重にも階積み上げて流氷のごとき都会が目のあたり見ゆ(春香号) 作者の流氷への想いは熱い。六号の後記にも記されているが、網走の旅では歌が溢れるほど出来たとある。 真に羨ましいかぎりである。 旅から帰って都会のビル群にも流氷を重ね合わせて見てしまう。「流氷のごとき都会」 は都会もいつか流されて消え果ててしまうのかもしれない。 そのような絶望の想いを感じ取ることが出来る。 流氷のごときではあるが流氷の持つ美しさはない。「階積み上げて」に都会の危うさを憂うる気持ちを汲み取ることが出来る。どの集を見ても佳作が多く一首に絞り込むことが難しかった。

遠 藤 正 雄
マスコミに乗る彼よりもいい仕事している誇り持ちて生くべし(春氷号)
作者はかつて、角川短歌賞候補に選ばれ、その時の受賞者が俵万智であったとのこと。マスコミといえば、タレントの人気稼業もさることながら、当時の『サラダ記念日』はマスコミにもてはやされ、わずかの期間に二百万部が売れたという…。そんな事を思い起こしつつ読ませていただいた。生涯、日の当たらぬ私にとって、励ましの歌であり、作者の生きざまの歌であると思った。この一首の隣に次の歌が並んで居り、共鳴。返礼も賀状もくれぬ一群はお前なんぞと思っているのか

榎 本 久 一
堅雪は氷となりて我ばかり滑りて転ぶ街角のあり(流氷記抄)
折角何もかも捨てて来た網走にもまだ馴染めなかった時の違和感の一首だろうか。北方指向には或る種の自虐なども伴うのだろうが、疎外される場にわざわざ自分を立たせながら、それが現実ともなれば、正面切っては受け入れ難いのだろう。旅行者ではないが終生当地に埋もれ切れない者の孤独感をこの一首に見る。旅行者でなく、終生の永住者ではない作者に、批判の言葉は向けようとすれば向けられるが、自分の思いに体を張った経験はそうざらに得られるものではない。脱帽するばかりである。

塩 谷 い さ む
風吹かぬ夏の湿りを伝いくる貨物列車の土たたく音(秋声号)
じめじめと蒸し暑い夕凪の中を走って来る真っ黒な貨物列車が延々と連なっている。土たたく音と作者は言っているから、踏切ではなく、野原にでもいるのだろうか? 私はふっと彼の大陸を何日もかけて、勝算のない作戦に向かった貨物輸送の日を思い出している。真夏の蒸し暑い有蓋車の中に閉じ込められて、全線へ向かった日の事が脳裏を走る。蒸気機関車から吐き出す煙で前方にいる兵隊の顔からは黒い汗が流れていた。また暑い夏が来る。

井 上 冨美子
顔を見て声聞くだけで励まされし中川イセに今逢いに行く(春氷号)
この度のオホーツクに向かう機上で詠まれたのでしょうか。八年ぶりに人生の恩師であられる中川イセ氏の元に飛んでいきたいような逸る気持ちがこちらにも熱く伝わってきました。「今逢いに行く」この言の葉で川添先生の思いが充分に伝わってきます。流氷記春香号に載っていました中川イセ氏とのスナップ写真、お二人共とってもいい笑顔で何も言うことはありません。「つらかりしもあれど網走思うたびさわやかな風身を吹き抜ける」この一首に網走に定住していた者としてほっとする思いです。

松 永 久 子
成績に隔てし部分この頃は一気に生徒ほどきゆくらし(春氷号)
「和やかに教師と生徒という立場ほどかれつつ午後冬の日を浴ぶ
」卒業期の生徒を詠まれた一連の中、この一首にひかれた。 何と言っても生徒は成績の良し悪しに学校での一人の立場を大きく縛られるようである。その現実に詮無く身を置いている生徒達だが、卒業まで後二十日という時期ともなれば、成績の呪縛からもさらさら心解かれてゆく。独り立ちの自覚がめっきり育ち出す。そんな生徒らの急速な心の変化成長の様子が実にうまく表出されていると思う。

高 階  時 子
箸使うものなどなくて洞窟のマクドナルドの喧噪つづく(桜伝説)
世相を風刺した作品がいくつかあるが、 中でもこの一首が最も好きだ。 自動販売機と言い、マクドナルドのハンバーガーといい、若者は何の抵抗もなく、たやすく買い求める。箸すら使う必要がないものばかり。私はマクドナルドの店にも入りたくないし、缶ジュースも飲みたくない。きっと作者もそうだろう。若者で賑わうマクドナルドはまさしく薄暗く得体の知れない洞窟だ。 作者の感じる「洞窟」という表現によってこの一首はよりいっそうの毒を持つ。

角 田 恒 子
和やかに話しかけ来る生徒増え卒業まであと二十日となりぬ (春氷号)
卒業の日が近づいて、 教師と生徒の間の雰囲気が穏やかなものとなってくる。その一時期の感じが上句に平明に表現されている。一年間のさまざまの出来事も今はむしろ懐かしく思われ、 別れの時が近づいている。教師としてのある安堵感が言外に感じられる。「我に向かい座る生徒ら一陣の風のごと笑む瞬間があり」も授業中の生徒との心の通い合う時をとらえて 「一陣の風のごと笑む瞬間」と巧み。二首とも作者の生徒に対する温かな目が感じられて好感がもてる。

鈴 木  悠 斎
歌作るこころにひそみいるらしきかなしみまとい生きゆく我か(流氷記抄)
小生は川添氏に二十数年前たった一度お会いしたきりの短歌の門外漢ですが、氏の生き様にひそかにひかれるものがありました。年賀状や風の便りに聞く氏を小生は勝手に、怒りと悲しみの人と思い続けてきました。それがこの歌によって間違っていなかったと納得した次第です。歌や詩を作る人間は誰しも悲しみや寂しさというものを持っているものですが、この歌ほどそれを端的に表現したものはないと思います。他にもいい歌は沢山ありますが、小生の最もひかれたのはこの一首です。

遠 藤  正 雄
この国は平和に満ちて仔牛などグルメの皿に殺されて乗る (秋声号)
減反、使い捨て、芥の山。 それにしても何でも買えて何でも食べられる有り難い平和な国である。この頃はグルメの旅が流行し、どこそこの何とかで、うまいものを食って来たと、食通ぶって土産話をする人もいる。豊かになった為に、毎日限りなく殺生が行われている。 魚類、貝類、卵から動物に至るまで、魚は目刺しに、鶏や仔牛まで丸焼きにされる。同じ命を持つものの最後の姿である。 「グルメの皿に殺されて乗る」 作者は人間が動物を意のままにしている悲しい現実を歌い上げている。

横 山  政 夫
やり切れぬことわりなれど非常識時に多勢で常識に勝つ(桜伝説)
ディスカッションは本来、相手の意見に充分耳を傾け、相手を尊重するが故に、異論があれば意見を言い、そのことで、ことの本質に迫る共同作業である。その共同作業によって、お互いに高め合うことができるのだが、その作業の本質からかけ離れ、勝ち負けを争い傷つけ合う偽物が横行しているように思えてならない。 常識のある人間は、そのような傷つけ合う「議論」に参加したくないが故に、つい主張のトーンが弱くなってしまう。相手を尊重せず、異論を認めない「非常識」の強さだけは、遠慮したいものだ。

光 藤 彬 子
流氷記一枚一枚心込め夜を込め夜明け近くまで折る(春香号)
作者と机を並べて一年。個人誌を作ることになった経緯から、この七号が出されるまでを知っている私から見ると、この個人誌は作者の心が折り込まれて出来上がっているのだとわかる。それぞれの号の表紙の色を考え、歌を選んでワープロで打つ。表紙は何色にしようかと、その号のイメージを膨らませていく時の作者の楽しそうな顔。少年がちらりと見える。印刷で手を汚してしまうこともあるが、紙を汚してはいけない。少しの狂いもなく紙は切断されていく。さあ、製本だ。ていねいにていねいに紙は折らなくては…。一枚一枚折っていたらもうこんな時間になっていた。寝不足だ、と出勤して来る。今日は早く帰らなくちゃ、と会話が始まる。作者の歌への愛が伝わってくる一首である。

高 田 暢 子
次々と歌生まるるも感情の過敏となりてゆく部分あり(春香号) この歌に、先生の凄さというか、感情の豊かさを感じました。私なんて「歌を考えろ」といわれると、頭ですぐに考えてしまいます。 次々とあふれ出す感情を、その時その時に歌にするのには、心の準備というか、日頃からしっかりと見る目、感じる目を養うことが大切なのだということを教えてくれた一首でした。

若 田 奈 緒 子
桜開きつつある夕べの電話にて網走沖には流氷残る(桜伝説)
先生の歌を読んでいると網走という土地が大好きなことがよく分かります。暖かな春の歌なのに網走とつながるところがやっぱりすごいです。八号の初めの方の歌は、桜や雪柳を歌ったものが多くてとてもきれいな桜道が浮かび上がりました。薄紅色をした桜の花びらは暖かい春の代表で、網走はその名前だけでも寒そうな流氷のイメージなのに、その二つを歌にする、ということはなかなか思い浮かばないと思います。それが出来る先生はしゃべったり笑ったりするように自然に歌を作っているんだなあと思います。

菅 納 京 子
新雪に一足一足置いて行く猫の歩みの一コマが見ゆ(春氷号)
いつも緊張感が保たれているものが多い先生の歌の中で、これは可愛らしさが滲み出ており、私にとって印象が強い一首となりました。夜の間に猫が作った足跡を、朝になって先生が見つけられたのでしょうか。私は、可愛らしい仔猫が寒さに凍えそうになりながら、一歩一歩進んで行く様子を想像しました。同時に、網走の寒さも伝わってきました。歌を作るには、観察力の鋭さか必要なのですね。この歌を読んで小さなことにも目を向ける先生の細やかな心が感じられました。

秋 月  亮 子
墓あれば墓にも慣れて墓守りの人らと挨拶交わして帰る(秋声号) 日一日と人間の細胞は新陳代謝を繰り返し一時とて同じヒトは存在しない。 しかし日常の暮らしの中では今に続く明日を当然のように錯覚して過ごしている。 ましてや死を意識することは稀である。 墓守りの人は自分の内にある死者との対話の時間を持つ人であろう。 墓という現世と過去とを繋ぐ空間と、挨拶という現在進行形との取り合わせが、移ろい行く時と、生きている人のぬくもりを感じさせ、興しろい一首だと私は思った。 (冬待号)いにしえも今も変わらず人入れて墓地も団地もゆうぐれてゆく

竹 田  京 子
仔猫・猫・固い貝殻・貝の肉…買いますかわいらしい奥さん(夜の大樹を) 仔猫と親猫を籠に入れ、抱きかかえて固い殻の貝の肉を僕は買います…。色白で愛らしい奥さん。
昔、私の両親が清水寺の下の方に借家を借りて住んでいて、京極の『錦』という料亭に板前と仲居として働いていた頃があり、その十年余りの間が両親にとっては最も幸せな時代でもありました。そしてその両親に育てられた私の十年は少々京都育ちなのかも知れません。その私が生まれも育ちも違う作者の一首を評するのですから、多少の異和感があるのは免れないかもしれません。この一首、まず「都会の日常詠」と評するとして少々一般的すぎる(批評の)傾向であることに気付きます。又、上句を「作者の才気」と評したら少々作者に失礼かも知れませんが、地上に生きる仔猫と猫/海辺に常に生きる貝との対照、寸分の隙もない言葉の連結が特異な個性を生み出しています。又「買いますかわいらしい奥さん」と結んでいる点、フェミニストであった氏の本質が顔をのぞかせています。そして春の陽ざかりで呼び止められたのは氏の目交いの愛らしい若い奥さんであり、あの若い日の私であるような気がするのは、私の知る限りの氏の生き生きとした美しい髪膚が今も私の眼裏に息づいているゆえかも知れません。尚最後にこの一首が過去、現在を問わず性愛を中心にしたすこぶる大衆的な世界から発せられる特異で俗な罠にかからないことをお祈りしています。

遠 藤  正 雄
コンピューターのシナリオ通りに人動き次々武器の餌食となりぬ(桜伝説)
便利な世になるに従い、逆にコンピューターに人が使われている。金銭の出し入れも買い物も会話の用がなく、機械の声が繰り返すのみである。ボタン一つで他国からミサイルが飛んでくるし、機械の狂いや目標の狂いがユーゴーの空爆をも思わせる。今や、人の手で作った核がその人の手で墓穴を掘っている。 ゴミ処理に手を焼いている人間がクローン牛の危険性を論じているのである。 人は常に安全と危険の狭間の中で、またうわべの繁栄が人の心まで貧しくしてしまう危険の中で暮らしている。