私の選ぶ一首

米 満  英 男
平和ゆえ平和の言葉なき民とまずゲンダーヌは語り始めぬ(麦風号)
この歌のあとに「日本名北川源太郎拒否しウィルター人ゲンダーヌとして死す」という作品がある。 この《ゲンダ》と《源太》の間をつなぐひとすじの糸、 否、荒々しく太い縄の中に充満する、そのゲンダーヌの心の中の忿怒と自恃の思いが、 まざまざと見える気がする。右の歌を、掲出する歌の底に沈めて再読するとき、「平和ゆえ平和の言葉なき民」 というフレーズの重さがずしりと読み手にこたえるばかりか、そのあとゲンダーヌが何を語り、作者自身がどう聞き、どう受け止めたかまで、はっきり感じとれる。

古 賀 泰 子
次々に桜の枝より放たれて花びら集まるひとところあり(桜伝説)
桜を詠まれた多くの作品の中で私はたいへん地味なこの一首に心ひかれた。
情景そのものは、必ずしも珍しいということはないのだが、捉えどころがおもしろいと思ったのである。ということは、作者がしっかり見ているということになるのだ。 桜が散る時は、本当に、次々に散って行く。「桜の枝より放たれて」もひとつの見方である。一番好きなところは「花びら集まるひとところあり」で、 花びらがまるでいきもののように歌われている。花びらの妖しさでもある。

遠 藤  正 雄
麦笛にするためナミ子姉ちゃんより貰いし一つの麦の茎欲し(麦風号)
青空の下にひろがる麦畑は追憶を呼ぶ。幼ごころをそそる麦畑の色彩と匂い。作者は童心に還りながら、ナミ子姉ちゃんを麦秋の景色の中に浮かび上がらせている。
一連のこの歌は「沸きて来て溢るる醜き感情を抑えつつ夕べの坂下りゆく」に始まり「すれ違う人あるいはと振り返り一人の人を捜しつつ過ぐ」に至るまで、 その主人公が作者の心の中に瑞々しく生き続けている。 私はふと、この連作を小説にしたら、題名を考えながら、 原稿用紙は何百枚になるだろうか…。絵なら水彩画がいいと思った。 (麦風号)

利  井  聡 子
流氷に巨大に咲きし青き花輝きにつつ開きゆく海(流氷記抄)
私はまだ流氷を見たことがない。敷き詰められた真っ白い流氷原にポッと青い花が開いたように海が顔を出す。何と美しい風景であろうか。近づいてくる春。作者の心の鼓動も聞こえてくるようである。次第に海の青い花は大きくなってゆく。自然のダイナミックな動きをナイーブな作者の眼が余すところなく描いた一首。この作品を読んで、たまらなく流氷が見たくなったのは確かである。

前 田  道 夫
我もまた無数の枝を伸ばしつつ紅あざやかな木と真向かいぬ (春菊号)
無数の枝を伸ばすということは勿論成長を意味することではあるが、 同時に日々の生活が生まれる喜怒哀楽の数々をも刻み込んでいくことでもある。鮮やかな紅も唯美しいと見るだけではなく、「紅葉の群れ鮮やかな痛みとも涙あふるるまでに見ている」「悲しみの数だけ紅く染まる木々あわれ人生の終末が見ゆ」等の作品からも作者にとっては痛み悲しみを伴う色でもあると窺うことが出来る。 写照が鮮明であるとともに心境のよく表れている作品であると思った。

東 口    誠
トナカイと流氷を渡り国境の思想などなき民族ありき(麦風号)
毎号多彩な歌に圧倒される思いで読んでいる。
十年前訪れたユーゴーの民族紛争は、解決が新たな対立を生む悪循環となっていくようで、あの時あった多くの少年少女たちの顔が思い出される。選んだ歌は、複雑な政治体制にまだ支配されることのなかった人々の平和でダイナミックな生き方を髣髴とさせ、現代人の不幸に思い至らしめる迫力がある。
歌が小さく技巧的になりつつある昨今、このような作品に接することができるのはまことにうれしい。

籠 嶋 敦 子
山桜しきり散りつつ雷の光るとき時止まる花びら(桜伝説)
雷の光る一瞬を散る花びらが動きを止めるという凄さ。 雷光に怯えたのか、それとも雷の美に酔ったのか、戦慄的な美がある。 さらに一首「誰ひとり通らぬ坂道滑走し夜を羽ばたく桜花あり」鳥に喩えている詩的イメージの豊かさ。 「花びらはしきり散りつつ夜の広場桜木銀河のごとくに浮かぶ」、波郷の「夜桜やうらわかき月本郷に」一句の眼目は「うらわかき月」ではなかろうか。「本郷」は読者と一瞬にして現実界に引き戻す効果があり浮いていない。 しかし川添作品には「うらわかき月」に相当する核がない。 桜木が銀河のようだとの比喩は膾炙されてはいないだろうか。 はや陳腐である。私にはこの一首、生きているとは思えない。 歯に衣を着せずに言えば、「流氷記」には、雑談短歌が多すぎはしないか。 それらが秀作を曇らせている。百の雑作品より十首の秀歌が望まれる。作品構成上の技巧だといっても、 日記帳の周辺をいつまでも徘徊すべきではない。 川添氏はこの辺で数に見切りをつけ質を尊ぶべきではなかろうか。 佐藤通雅氏指摘の「事実からの離陸」を選択すべき岐路にさしかかったと思われる。

本 田  重 一
斜里岳の雪の形を見て決める種蒔き時あり土ほぐれゆく(春香号)
斜里岳は標高千六百米頂上は二峰に分かれ、 知床半島の付け根のあたりに急峻な姿を見せる。
土地の農家は朝夕眺めて暮らす事になるが、 五月から六月にかけて次第に山容を鈍色に変え、山襞に残る雪渓の白さが目に付く。丁度この頃春の播種期が終りを迎えて「別れ霜」の時が近づいたのを知るのである。
かつて網走在住の経験のある川添氏は、 我々の生活感をより深く抉り取られた。 「見て決める」その背景をしっかりと押さえている処に、 旅行者の視点を越えた心の働きが感じられる。

若 田 奈 緒 子
教室の全員いずれいなくなる死ぬ順番は神のみぞ知る(麦風号)
私はこの歌を読んで、 一年生の時に川添先生からこの話を聞いたことを思い出しました。 「神様はもう死ぬ順番を知っていて、この教室の中の誰が一番早く死ぬかももう決まっている」 という話でした。あの時すごく、悲しいというか寂しい気持ちになったのを覚えています。 でも二年生になって歌になったこの話を読むと寂しいというよりおもしろい気がしました。 そして一年前の今ごろオツベルの事について、 いろいろ考えていた国語の時間をなつかしく思い出しました。

高  田  暢 子
帯となり川となりして花びらは空へと向かう満天の星 (桜伝説)
桜が満開の時期、 少し強い風が吹くとすぐ桜の花びらが舞い上がって三、四日ですぐに散ってしまう。けれどその舞い上がった瞬間が一番、桜を見ていてきれいな時。それが天まで届くようで空に輝く無数の星になる。無数の星なんて今ではプラネタリウムにでも行かない限り、この辺では絶対に見られないが、たとえプラネタリウムでも満天の星の美しさと、 桜が満開の時の美しさを知っていれば、私たちにもこの歌の良さが伝わると思いました。

中 村 佳 奈 恵
花びらはしきり降りつつ夜の広場桜木銀河のごとくに浮かぶ(桜伝説)
この歌を読んで最初にすごくきれいな情景が浮かび上がりました。先生が作られた歌は見たもの感じたものがそのまま歌になっているんだなあと思いました。
桜伝説の歌は、桜という題材を使って、縦横無尽に想像力をひろげ、さまざまな情景を短歌の中に込めて、私に見せてくれました。特にこの歌は、夜の広場に散る桜のようすを、銀河にたとえて美しく、まるで星空を見ているように雄大で、幻想的な一首です。私の心をとらえて離さない歌のひとつでした。

田 那 村 紗 帆
逢わざりしと言えども心は通い合う中川イセとのたまゆらの逢い (春氷号)
この春氷号の中川イセ氏の一連はほとんどよかったです。 その中から一首だけを選ばなければいけないのは残念ですが、私は、この中川イセ氏にあてた手紙のような一首が一番よかったです。 あまりうまく表現できないけれど、 先生にとってイセ氏との思い出と会っている時間がとても貴重で、 貴重だからこそ会わなくても心が通い合っていると思えるのは大切なことだから、 そう思える先生がうらやましく思えました。

塩 谷  い さ む
聖戦のつもりであまた血を流す良いも悪いもないではないか(麦風号)
聖戦って何だろう。お互いに自分の方が正しい。相手が悪いと言う。自分の方がいつも聖戦である。大東亜戦又然り支那事変がその最たるもの。 他人(相手)の土地へ入って行って暴挙なりと追討する。人間がこの世にある限り「聖戦」は続くんでしょうね。