流氷記に寄せて
               久  野   正  純
昨年六月『流氷記』一号の恵贈を受けてからはや一年、十号を重ねるにいたった。一連の個人誌を出すということは並みでない苦心と煩瑣な仕事を要することで、それを継続する強靱な意欲にただただ頭の下がる思いである。
 川添君とは一別以来、三十数年になるが、その間の消息を具体的に知ったのは一号誌の巻末によるもので、私はそこに一筋の姿を彷彿するとともに昭和四十一年三月、中学卒業のアルバムの寄せ書きに、君が端正な書体で『初一念貫徹』と書いていたのを鮮明に思い出した。君が俗に妥協せず、阿らず、君の生活信条である志を貫くこと、志に徹することの基本姿勢は、あの中学生の時にすでに凛乎として確立されていたのだと三十余年経ったいま新たな感慨をもって当時を回顧している次第である。
 歌について私は不勉強の門外漢で云々する資格はなく、老残の日々の楽しみに流氷記を読み、勉強させてもらっている。
 川添君の歌は、まことに奔放自在で、万象に心を放てば忽然として詞章を成すの境に在りというべきか。歌調簡潔平明で清冽な余韻と深い含蓄をもって迫ってくるものを覚える。

私の撰ぶ一首

阿  川   弘  之
いいように言われて黙って来たけれど僕には僕の言い分がある(紫陽花)
 短歌にかういうユーモラスな味がにじみ出るのは結構なことだと思ひました。

山 崎    猛
流氷原心残りし墓標にて果てまで幾多の沈黙続く(紫陽花)
現実的な流氷原から伝わってくる大自然の息遣いに圧倒される。記憶の中での流氷原は時に哀しく苦しみを含んで脳裡を駆けてゆく。 見る人の心の裏側を映して、刻々と光が薄らぎ、手の温もりまで失ってしまう。 数時間の生命を懸命に燃やし続ける妻の魂が氷海に放たれてしまった。 この一首から私は昨年十月亡くなった妻の姿を見た。三十数年流氷を追い求めたが、本物の流氷を見ることが出来なかった。 今、流氷原の彼方に、置き忘れられたように輝く雲の一端に、あの優しい眼差しを感じている。流氷原は闇と化す。

山 内 洋 志
地平まで歪つに凍る氷塊のこのまま無念のまま果てるのか(紫陽花)
『流氷記』毎号楽しく味わわせていただいております。 先生が網走で過ごされた四年の月日の多くを隣人として付き合わせていただいた私としては、良き読者の一人であらねばと、『流氷記』が届くたびに隅々まで味わっております。
紫陽花号を読み始めて間もなく、私の心のアルバム「あばしり」にある一枚の写真と重なったのがこの歌でした。 私には歌の素養も絵心も写真の技術も何もないけれど、あの流氷原の、人を寄せつけない寂しくも力強い風景、 そして先生がたびたび詠んでいる海明け間近のオホーツク海の美しさは、 私の心に焼き付いております。 先生の詠む流氷の歌は、一枚の写真のようにリアルで、ある時は色鮮やか、ある時は白一色の静寂の世界、私も先生と同じ視線で、あの流氷群を眺めていたので、 感じるところはあまり違わないのだろうけれど、それを表現する力となると私の場合はゼロ、先生の才能というか、 歌を次々と生み出す力に尊敬の念をもって一つ一つ味わわせていただいているところです。春、南の風が吹き込むと一夜にして、あの塊が去っていく。 取り残された塊は、身を削りながら姿をとどめようとするけれど、いつか静かに、誰にも見取られずに消えていく。きっと無念のまま果てるのだろうと、そんな情景と観る者の心情をありのまま写しているこの歌が好きです。 歌のよしあしは判らない、 でも「好きだ」という読み方があってもいいのではないかと勝手に思っています。
読み進めるに
未開封のままゴミ箱に捨てられる流氷記もあり音沙汰もなし
さらに
筆不精とは明らかに違うもの無視という気を感じておりぬ
を見つけ、どきっとして筆を持った次第です。
先生が教えている子供たちのものと思える感想を読みました。
若々しくみずみずしい感覚に触れ、川添先生は益々いい教育をしているなと感じました。教育も短歌も奥は深いですね。とことんつきつめて欲しいと思っています。長くなりました。ご健勝をお祈りします。

 井 上 富 美 子
生まれてより今までどれだけ糞尿をしたのか数えている生徒あり
この一首を拝見したとき、思わず笑ってしまいました。でもすぐに、これはすごいと思った。この生徒の鋭い視点に気づきました。ごくごく当り前にやっていること、 何の疑問も持たず日々を送っている私に、 もっともっと真剣に生きていかなければと教えられたような気がしました。 そう思うと、色々なことが、こんなことでいいのか、どうなのかと頭の中で右往左往しています。地球上で起きている戦争、環境汚染、この不景気など、 今は人間が試されている時なのかもしれませんね。 (紫陽花)

古 賀 泰 子
一面の麦が見たくて麦畑匂いあふるる山間に来し(麦風号)
「麦」をテーマの一連からこの一首を選んだ。最近、麦畑というものをあまり見かけなくなり、青い麦の穂が、花屋の隅っこにおかれる時代である。「一面の麦が見たくて」は、何でもない表現であるが、かつてそういう麦を見た経験がなければ歌えないし、 作者の内部に在るいろいろな思いを込めた表現であろうと思われる。「麦畑匂いあふるる」は少し調子がよすぎるようにも思うが事実なのだろう。 そういう山間に来ている作者。 この歌は麦畑を恋い思う作者のさびしい歌なのかもしれない。

前 田  道 夫
ただ一つ波間に浮かぶ氷塊の白く輝きながら溶けゆく(春氷号)
春の訪れとともに消え残った流氷であろうか。 それも輝きながら溶けつつあると表現されている。 滅びに向かう一瞬の美をかいま見る思いである。 この集の前半は「網走流氷への旅」を詠んだ作品で占められている。作者には四年間の網走での生活があり、十数年ぶりに再び訪れた網走である。 網走でのかつての生活には他の作品からも窺えるが辛いこともあれば楽しいこともあった筈、 さまざまな想いが去来するなかでの旅にあっては、 観光だけでは見えないものも作者は充分に見て感じていると思われる。

遠 藤  正 雄
諍いと思えばテレビの声音にて家族は家は肉声もなし(紫陽花)
諍いとテレビの音声の取り合わせが面白い。テレビの画像、自動販売機、ワンマンバス等々。それ等から肉声は全く聞く事が出来ない。むかし、タバコ屋には看板娘がいた。 短い会話の中に心のときめきがあり、潤いがあった。 井戸端会議には、無駄なお喋りにも近所付き合いがあり、ストレス発散の場でもあった。諍いは、若いエネルギーの表れであり、平穏の裏を返すと、悲しい諦めでもある。私の家族は七人に膨れ上がった。朝な夕なに二人の孫の肉声が響きわたる。賑やかすぎるが有り難いことである。

吉 田  健 一
幾度も魯迅『故郷』を語りゆくそのたび違う授業となりぬ
中学教師である作者は毎年決まった時期に魯迅の『故郷』についての講義をするのであるが、生徒の顔触れは毎年変わる。それに応じて授業の中身も大分変わったものになる。単純に読めば以上のような内容であるが、それだけでなく、年齢を重ねるごとに自分自身変わっていくし、それにつれて『故郷』についての解釈も変わっていく、こんな意味まで含んでいるであろう。
私の好きな一首であるが、《魯迅『故郷』》という言い方はどうか。《魯迅の『故郷』》とすぺきであろう。 (冬菊号)

塩 谷 いさむ
筆不精とは明らかに違うもの無視という気を感じておりぬ
お返事を出そうと思いながら筆不精なものでついつい遅くなったまま失礼しております… 嘘をつけ、よく言うわと思うような絵空事をしゃあしゃあと言う人がいる。 初めから返事なんか書く気も無いくせに。 当初から明らかに無視されているという雰囲気が何となく判るものである。無視というより強い嫉妬の感情が伝わってくる。 が…他人は他人。好漢川添英一の今後の創作への意欲と、流氷に真向って行く勇気と努力への真摯な姿に声援を送り続けたいと誓っている。ご健康とご自愛を祈りながら。 (紫陽花)

 利 井  聡 子
叫びつつ殺意のごとく華やかに生徒は竹刀はずませて打つ(秋声号)
「殺意のごとく華やかに」は『夭折』や『夜の大樹を』に見られた彼独特の美学の片鱗を見たようである。 その対象が若々しい生徒であり、竹刀である故、「殺意のごとく華やかに」をしっかりと受け止める事が出来た。 生徒の躍動感は「叫び」や「はずませて打つ」で充分発揮されている。 彼独特の手法でしっかりと地に足のついた作品と思う。 しかし、時として、この手の表現はバランスを失い歯の浮くような作品を作り出していく事も否めない。今後、言葉を練り奥深い作品を期待して止まない。

  榎 本  久 一
紫陽花の眠りの夜の空間を胎児となりてさまよい遊ぶ(紫陽花)
短歌形式日記帳を、幼児が玩具箱を投げ散らしている形で、繰り広げているような中から、魅力を感じる一首だ。胎児の遊ぶ羊水の小世界と紫陽花の夜の空間とが、 おのずから眠りにまで溶け込んでいる心憎さ。 喩える物と喩えられる物があまりにも密着し過ぎるとの評ができるかもしれない。 母性追慕の歌ととられても仕方がないだろう。 次の「窓越しにテレビの画面は青々と夜の紫陽花の辺りを揺らぐ」また「否応もなく捕まるを肯ないて携帯電話にすがる人見ゆ」などに心ひかれた

遠 藤  正 雄
風に揺れ小さき白き韮の花ささやかなれば忘れずにいる(秋声号)
世の中は時代とともに変わっても、 豊かで美しい自然に変わりはない。 媚も虚飾もなく風に揺れている韮の花の存在に詩を発見された。下句を素直に詠まれた心情が快く一首を引き立てた。常々仕合わせというものは小さくてよい、と思っている。柚子の実を風呂に浮かばせて寛ぐ事も小さな仕合わせの一つである。風たちぬ、いざ生きめやも。迂回の道のタンポポもよい。湖の見える青葉並木もよい。夏は夏の月、秋は秋の月もよい。四季折々に歌に親しめる幸せを感じる。
どこにでも携帯電話というゲーム孤独がなくなる訳ではないのに(麦風号)
携帯電話が氾濫して、 全くゲーム遊びをしているように思えるこの頃である。 用らしき用もないのに、電車の中から、時にはそこに見えている人にさえ電話している。とりもなおさず人間はみな、若きも老いも孤独なのだ。孤独ゆえに、遊びのようにケイタイを楽しんでいるのだろう。一体、「自由な時間」とは何だろうか。その答えは「孤独な時間」である。 もとより我々は、生まれた時も死んでゆく時も一人ぼっちである。 「孤独がなくなる訳でないのに」言い得て妙。

本 田 重 一
全員が百年以内に死ぬること既定の事実として授業する(麦風号)
平均寿命八十年にしても百年以内に全員が死ぬと言われてみると、俄に現実感を伴う。死は必ず訪れるにも拘わらず殊更自分を枠外に置いて日常の生活を営む。 そうしなければとても耐えてゆけない。 成長の途上にある生徒に「百年以内」に死ぬ事を知らしめているのではない。 あくまで「既定の事実」は作者の内面の問題なのである。 それぞれの残り時間の差が世代間の乖離を生む要因であろうか。 「百年」という年限の切り方が一首の奥行きを深くしているが、荒みゆく世を見る作者の醒めた視点に注目したい。

塩 谷 いさむ
こう言えばよかったなどというばかり言い負け慣れて家路を急ぐ(冬待号)
言い負けられて家路を急ぐ。あの時にこう言えば良かった、いや、こんな風に言い返せばよかったとも思うばかりで後の祭りである。涙がこぼれそうで上を見たら星がきらきら輝いて…でも、あの時言い返していたら大ゲンカになっていたかもしれない。「これで良かったんだ」「いや、これでいいんだ」平和が良い、平穏で良かった。作者の苦渋に満ちて、それでいて温厚そうな顔が浮かぶ。負けるなよ!

久 保 田 よ 志 子
過去未来遠くへ自由に羽ばたける心楽しまな生きているうち(紫陽花)
伊丹から千歳空港に次男と親子三人で飛んだのは三十年も前のことである。次男は学生だった。夫も亡くなり今年は十三回忌である。余生幾許もない私へ川添さんが下さったのがこの歌である。こんなに永く生きるなんて思ってもいなかった。「知床の岬にハマナスの咲く頃」と知床旅情の歌詞がバスの中に大きく貼られていた。網走の海岸に佇ったのもこの旅の一日目だった。 暗い北の海を見詰めていたのを覚えている。広い海岸に夫と三人だけだった。三十年も昔を楽しませていただきました。

光 藤 彬 子
たわやすく犬は遊べど野生鹿命を懸けて跳び回り逃ぐ(春香号)
野生の鹿が塩を補給するためか海岸まで来たところを、 飼い犬が見つけた。狩猟本能に目覚めた彼は、そのまわりを跳びはねながら吠えている。鹿が逃げると嬉しくてたまらないようにピョンピョンしたり、頭を低くしたりしながら吠えている。鹿は生きるために必死の思いでいるのに、犬は遊びである。この対比が生の重さをずしりと感じさせる。また、北の流氷の漂う海岸での事件であるから、よけいに生への厳しさを感じさせられる。

中 村 佳 奈 恵
星雲の輝きに似て森の中曇りに映ゆるアジサイの花(紫陽花)
宇宙の広大で美しい星雲の輝きを、 森の中でひっそりと咲くアジサイの花に見立て、 つゆの空の下のアジサイの美しさを表現している。 この歌も、前に私が選んだ一首の「花びらはしきり降りつつ夜の広場桜木銀河のごとくに浮かぶ」に似ていると思う。先生の作品は、 それを読んだ時はっきりとその情景を切り取った美しい一枚の絵が頭に浮かんでくる。 この歌はどんよりした天候の時、森の中を歩いていると、はっとするようなアジサイの美しさを伝えているんだと思う。

高 田  暢 子
悪人にいつも同情してしまう癖もて語るオツベルと象(麦風号)
これを読んだ時、あっ、これ!と思いました。昨年、私が一年の時に習ったときも先生は「オレはオツベルを憎めへんなあー」みたいなことを言っていて、 久しぶりにオツベルのことを思い出しました。このお話に関して私は、オツベルが悪すぎるのが一番いけないと思うけど、象が世間知らずで純粋すぎたから、あんなふうになってしまったんだとも思います。 物語だから悪は滅びて象は助かったけど、 現実は世の中そんなに甘くないと思っています。

大 西 琴 未
紫陽花は揺れつつ笑顔満ちあふれ傘の奏でる雨聞きており
この一首を見ると、とてもやさしい気持ちになってきました。私は、短歌などはあまり読んだりしたことがないので、よく分からないけれど、すごく紫陽花の様子などがでていると思います。それはたったこれだけの短い歌でいろいろなことが私の頭の中に浮かんできたからです。 紫陽花が揺れて笑顔満ちあふれている所なんて本当にそんな感じがします。簡単に書いているように見えるけど、一つの歌でさまざまなことが表されていると思います。 きれいな歌だと思いました。 (紫陽花)