私の選ぶ一首
中 平 ま み
全員が百年以内に死ぬること既定の事実として授業する(麦風号)
「教室の全員いずれいなくなる死ぬ順番は神のみぞ知る」と甲乙つけ難く、身に迫る一首。
そんな、はかないかなしい存在なのに、憎愛の感情や生きている大変さに悩まされる人間、因果なものです。
原 田 昇
死に向かう生も溶けゆく流氷も照らして斜陽かけらとなりぬ(夏残号)
生けるものは必ず死す、形あるものは必ず滅すと、この世の約束事がある。大自然の流氷も溶けていくのだ。のぼる朝日もあれば落陽もある。そこまで思いいたれば人生もさばさばしたものなのだ。作者も大自然の中で浮世の葛藤に思いをはせたのであろう。不治の病いに苦しみながらも、運命に逆らえないと居直っている私には共感をよぶ一首である。
佐 藤 通 雅
生きていると思えば死者も蘇り語りかけさえしてくれるもの(夏残号)
人生の峠の頂点に達し、下りにさしかかると一歩の差で死者を見送ることが多くなる。自分も、野辺送りの会で酒を酌み交わしつつ「もしかしてこれはオレを送る会じゃないの」と錯覚することがある。故人の歌集もよく読む。作者はもういない、けれど語りかけたい。感想も伝えたい、そのように切実に思う。ふと、これも自分がまだ生の側にいるからだと気づく。そうであるなら死者の分も生きなければならないのだ。自分だけの生であるはずないのだと実感する。この歌はそういう思いを代弁している。(路上)
米 満 英 男
人の肉に混じりて肉の匂いする精肉売り場そそくさと過ぐ(夏残号)
「人の肉」はもちろん刻まれた《人肉》ではなかろう。 精肉売り場に集まり、また、その場を往き来する人間と呼ばれる《肉身》を持った存在そのものを指しての謂であろう。
それに混じって、本物の、けものの肉の香が辺りに漂い、なんとなく食欲をそそる。 が、待て││。この地球のどこかで、その人肉が傷つけられ、刻まれ、あるいは食われているかもしれない。
と、思った瞬間、その肉店が俄かに不気味に見え、その場をそそくさと通り過ぎた。鮮烈な社会詠である。 (黒曜座)
鈴 木 悠 斎
蝉の音に息を絞れば百億の宇宙の鼓動がわが裡にあり(秋号)
作者は余程蝉に詩情をかきたてられるのか、 夏になれば数多く蝉を歌っています。その蝉を空蝉という古風な面と、ミクロやマクロに蝉の声を聞くという新しい感覚の画面から取り上げています。蝉の抜け殻や声から無常を感じるのは日本の伝統ですが、
体内の微小な細房や、 その反対に広大な宇宙の中に蝉のエネルギーを受けとめるというのは作者の手柄であり、「一粒の砂に世界を見」た、かのウイリアム・ブレイクの詩に相通じるところがあり、おもしろいと思います。
井 上 芳 枝
葛の花わずかに見えてひと夏の繁りは小さな空き地を覆う(夏残号)
繁殖力が盛んな葛。 紫赤色の芳香のあるチョウ形の花の可憐さに、秋の訪れを感じる歌です。 自然の風物に心を託しながら、孤独な人の心をうたった釈迢空の 「葛の花 踏みしだかれて、 色あたらし。 この山道に行きし人あり」の歌が自然に口をついて出ます。また、 幼い頃くず湯を作ってくれた亡き母が懐かしく思い出されます。 遠山先生の呼びかけで始まった「緑の協力隊」がまいた日本の葛の種は、しっかりと根を下ろして、中国の砂漠緑化に力を貸していることでしょう。雲の流れを眺めつつ、緑の平和外交の役目を果たす葛への思いは、果てしなく広がっていくのです。(中学恩師)
井 上 冨 美 子
名も知らぬ草に束の間しがみつき雨宝玉となりて輝く(夏残号)
名も知らぬ草だからこそ、見えたこと感じ得たこと、雨の宝玉のような輝き。日々の暮らしの中でも大事なことを、 見過ごしてしまうことが多々ある。
目立つもの、はやりのもの、名のあるものなどに、つい目も心も奪われ、 本当に大事なこと、人として感じ取らなければならないことに気が付かず、 あとで後悔していることがよくあるものです。
このような感性を見失わないように守り育てて生きて行きたいものです。次の歌も深く心に染みました。 妻はただ普通であって欲しいというそれが一番難しいのに
(元網走二中教諭)
里 見 純 世
ホッチキス、裁断…腰がへらへらと崩れ落ちつつ数日終わる(夏残号)
最初の一首にすごく心を動かされました。此の歌集を作っての御苦労が偲ばれます。深く敬意を表すると共に呉れ呉れも御自愛下さい。 二首目を読んで更にその思いを深くしました。 好きな歌がたくさんありますが、特に共感をおぼえた歌を書いてみます。
目つむれば知床の海あらわれてオホーツクブルー風も輝く
妻はただ普通であって欲しいというそれが一番難しいのに (元網走歌人会会長)
利 井 聡 子
伸び縮みする時間あり竹刀もてためらわず虚を一気にたたけ (夏残号)
緊迫した道場での少年少女達の様子が、この一首をはじめとする十二首に独特の目で表現されていて、誠に楽しい。 特に、この一首の「伸び縮みする時間」という表現は、作者独自の感性を垣間見たような気がした。隙をうかがう少年の竹刀の揺れは、まさに「伸び縮みする時間」である。やきもきしながら勝負を見守る作者の心情は、後に続く「ためらわず虚を一気にたたけ」で充分理解する事が出来る。作者の暖かい人柄を偲ぶ事が出来る一連であった。
(飛聲)
小 川 輝 道
我が心あまねくわたり流氷を見下ろす尾白鷲となり飛ぶ(夏残号)
流氷に向きあってきた氏が、北の自然に雄々しく生きてきた尾白鷲と重ね、一望遥かに大氷原を見下ろして飛ぶ、という雄大な作品を生んだ。「北の氷海に舞う飛翔と鳥瞰」、視点を高々と変え、「我が心あまねくわたる」 想像力と表現の高い境地に、民のひたむきな詩心の探究を感じた。竹刀をもつ人の連作は、剣道の試合での気迫と躍動感を表し、同時に「文字もたぬゲンダーヌ」ら北方少数民族への視点のこだわりに見られるように、武道への錬磨、人間的関心を失わない人らしい作品となっている。 (元網走二中教諭)
高 階 時 子
ゴキブリが裏返しとなり物となり我にも殺す喜びがある(夏残号)
掃除を丹念にしない私の家にはゴキブリがたくさん棲んでいる。ゴキブリの姿を見ても私は叫び声はもちろんあげず、殺そうともしない。黙ってみているだけ。殺そうとするのもエネルギーがいる。ゴキブリを見つけた作者はたぶんスリッパか何かで叩いたのだろう。くろがねのように輝くゴキブリはあっけなく死んだ。作者はいきいきとした表情でゴキブリを殺そうとしたこと、自分の中に思いがけず残虐なものが潜んでいることに気づいたのだ。自虐的な一首。(礫)
東 口 誠
雨に濡れ雨を喜ぶ少年にしばし戻りて家路を急ぐ (夏残号)
作者の人物像の見えて来ない作品が世に多くなっていく中に『
流氷記』 は川添さんの顔が現前する歌を多く載せている。 それが過ぎて抒情性が乏しいのではないかと思われることもあったりする。 この歌は、 まことにナイーブな作者の心情が巧まずして表出されている。 楽々と出来てしまったかのようである。 稚いと言えば言えるかもしれないが、 巧みの多い歌ばかり見ていると、 歌の原点はこんな所にあるのではなかろうかと気づかされる思いがしてくる。 因みに私も雨は大好きで濡れるのも好きだ。
遠 藤 正 雄
どうしても好きにはなれぬ花を摘み人のためだけ飾る営み(夏残号)
花には匂いの強すぎる花、妖しげな形の花もあり、嫌いな花が私にも二つや三つはある。しかし美醜を越えて、人のために飾ることも営みのうちである。作者の詠む花とは、好きになれない人の事とも思える。やたらに媚びたり、見栄を張ったり、法螺を吹いたり、無礼な奴が世間には居る。
が、一つ一つにかまってはいられぬ。人にはそれぞれの生き方があるのだと、言い聞かせて日々営む。「妻はただ普通であって欲しいというそれが一番難しいのに」スルメを噛みしめるような歌。口語調の妙味。
榎 本 久 一
伸び縮みする時間あり竹刀もてためらわず虚を一気にたたけ (夏残号)
「伸び縮みする時間」について、 頭をかすめる詩に、 堀口大学の《待つ間の長さ/逢う間の短さ/時のお腹は蛇腹です》がある。似ていながら、この歌では詩と違った凝縮緊張が扱われている。伸び縮みするのは時間であり、竹刀の尖端にこめられた全神経であり、虚をたたいた一瞬その構図が崩れてしまう予感も含めて興味をもった一首だ。「鬱解けぬままに彷徨い来し広場人混み人はゴミのごとしも」「三本とは言えず向日葵三人咲く群れとは違う親しみがある」などにも心ひかれた。
塩 谷 い さ む
保険金遺して死ぬる夫のことうらやましく妻言うことがある(夏残)
たくさんの遺産を遺して死んでいった他所の旦那さんのことをうらやましく言う妻、言外に「しっかりしてよ、あなた」という皮肉がひそんでいたりして、若い頃の私もよく言われた。 「たくさん保険金を掛けておいてネ」 「その保険金は誰が掛けるんだ」ということでおしまいだったが…。ピーピーと言いながら掛けた保険金を受け取る時には貨幣価値は下がっている。子供がある程度大きくなったら保険の掛け金は対税用だけで充分だと思う。「子孫のために美田を遺さず」の言葉もある。
前 田 道 夫
パソコンと呼ばれる頭脳持ち歩く若者鼻に輝くピアス(夏残号)
「身体髪膚これ父母に受く、敢えて毀傷せざるは孝の始めなり」今の若い人達はこれに対してどんな思いを持っているのであろう。耳のピアスは、 今や誰もが簡単に行っている。
鼻はまだ見たこともないが、 あり選ることである。 さらに美容の名のもとに行われる手術の数々。 パソコン全盛の時代にあって、頭脳の進化とは裏腹に、風俗は退廃に向かっているような感じもする。
現在の風潮を端的に捉えた表現から、いろいろなことを考えさせてくれる一首である。(塔)
松 永 久 子
大陸のような形の氷塊が微かな風に移動して行く (夏残号)
「流氷」の一首であろうか「大陸のような」との平べったい大きな氷塊ですら、静かにひっそりと移動している。しかも吹くともないかそかな風に…。静かさに気持ちの沈潜を詠み込まれて好きな一首。
「風や木や草や土より呼びかけてくる黎明の静けさにいる」も共に闊達な弾みのある歌の多い中に、 ある味わいを持つ。
「時流とはかくも虚しくア行には赤川次郎ばかりが並ぶ」
同感である。 なかなかこうは詠めない。
村 上 祐 喜 子
すれ違う人あるいはと振り返り一人の人を捜しつつ過ぐ(麦風号)
風にそよぐ麦の静かなざわめきの中で、 別れも告げずに逝った人の面影を追いかける。 セピアがかった黄金色の映像が急にゆっくりしたコマ送りになり、
すれ違う人を振り返る│そんなシーンを思い浮かべる一首です。 私はこの歌を、西陵中広報紙の随筆『風』で読み、強い印象を受けました。 十三歳で夭折したナミ子姉ちゃんを追い求める川添少年と麦畑が一体になって私の中に残りました。
今年の二月に私は父を亡くしました。突然のことで、あるいは…と風が吹き抜けることがあります。 (西陵中生徒保護者)
妹 尾 由 香 子
羽のごと竹刀の先を震わせて小手浮き上がる瞬時を狙う(夏残号)
引退となり、剣道をやりたくってうずうずしている私にとって、この歌には体を動かさずにはいられない魅力がある。部活の時に先生が言っていることが、そのまま歌になっていることも一つの原因なのかもしれない。この歌のように、 うまくは出来ないなと思っていても、なぜか読むたびに、自分がやっているような感覚になれるのですごくいい感じ。でも、あの川添先生が、たくさんこんな歌を作っていたなんて、まだちょっと信じられない。私の中の先生がちょっと変わったかもしれない。
麓 綾 実
海上の海豚のように体が伸び面一本が瞬時に決まる(夏残号)
息を呑む群衆のなか面を打つ少女が海豚のごとくに跳ねる(同)
先生の歌を読んでいるうちに歌ができました。
いざ勝負 面一本に命かけ我が旗上がる瞬間を待つ
みんなから祝福される夢見つつ部活に励み初段に挑む
受かるかと不安な気持ち持ちながら先生からのアドバイス聞く
声出して受かってやるという気持ち審査員にも届かせてやる
初段の日イルカのようになれるかとドキドキしつつもう明日になる
十月十一日、 見事に初段に受かりました。 昨年五月に剣道を始めてから一年半での快挙でした。 (西陵中二年生)
三 部 訓 子
息を呑む群衆のなか面を打つ少女が海豚のごとくに跳ねる(夏残号)
私は今年、剣道部の部長になって、いろいろと不安などがありました。しかし、この一首を見て、何にも迷いもなく真っすぐな気持ちで少女はいたから、相手の一瞬の隙を見て面をいれられたんじゃないかなと思いました。どんなスポーツにしても、やっぱり真っすぐな気持ちじゃないと駄目なんじゃないかということを気づかされました。
だから私も、自分らしく真っすぐ前を見て面を入れていけるようになりたいです。 (西陵中二年生)
中 村 佳 奈 恵
西陵中昔は兎棲みし森壊して人を育成したのか (夏残号)
学校では、環境破壊をなくし自然を守ろうと呼びかけているのに、本当は西陵中学校自体、森を切り拓いて学校を建てていると知りました。 開発するためには、自然を壊すことは仕方ないと思っても、なぜか、割り切れない気がします。アニメ「もののけ姫」のように、自然と人間がお互いに共存することは本当に難しいものです。兎の棲む森を壊した分、 私たちは精一杯楽しく中学校生活を送っていかなくてはいけないんだなぁと感じました。(西陵中二年生)
高 田 暢 子
妻はただ普通であって欲しいというそれが一番難しいのに(夏残号)
私はこの歌に『普通』と出て来て、普通というのは誰がみて判断するのだろうと思いました。 「あの生徒は普通じゃない」 とか、 「あの生徒は普通の子だったのに」
とか、いろいろ言われるけど、そういう話を聞くと決まって私は、「じゃあ、あの子のどんな所が普通なの?」 「どんな子が普通じゃないの?」 と聞き返したくなります。
私はこの歌で、改めて『普通』という意味を考えさせられました。 (西陵中二年生)
高 島 香 織
息を呑む群衆のなか面を打つ少女が海豚のごとくに跳ねる(夏残)
私は剣道が大好きだ。まだ試合という試合をこなしてきてはいないが、あのピンッと空気の張り詰めた中で一本入れるのは快感である。だから、この少女の気持ちはわかるつもりだ。しかし、私はこの少女のように軽やかに海豚のように、面を打てるのだろうかと心配になることがある。そんな時、またおまじないのようにこの一首をよむ。確かにその少女になれなくても成り切ることは可能なのだ。私に勇気を、元気をくれるこの歌は、私にとって最高の一首なのである。
(西陵中二年生)
宮 脇 彩
くつろぎの家かとごろごろする我に妻いらいらと足踏み強し(夏残号)
これは、結構どの家でもある光景だ。 私も母に「こっちだって家事とかで疲れてんのにねえ。」と、 愚痴をこぼされることがよくある。上の句の「くつろぎの家かとごろごろする我に」は、作者だけでなく、世の中の全ての夫の言い分に近いものだろう。
下の句の「妻いらいらと足踏み強し」 ごろごろする夫へのいらいらが上手く表現されている。 このような妻に、私もいつかなることだろう。 はてさて何年後のことやら…。
(西陵中一年生)
阪 本 麻 子
よく見れば分かる程度に震災の跡残りいる神戸となりぬ(夏残号)
私はそのころ宝塚に住んでいた。震度7の大地震。建物が崩壊したくさんの人が家を失った。 そして仲の良い友達がたくさん引っ越した。家にいるときも「今地震が来たら家ごとつぶれてしまうんじゃないだろうか。」という恐怖がいつもあった。外にいても「今地震が来たら…。」なんて考えると体がかちかちになってしまった。 そんな時期から四年半も過ぎ、地震への恐怖は薄れていった。本当に「よく見れば分かる程度に」しか、 あの地震の跡は残っていない。四年半前とは想像もつかないほど美しく甦った。 先生の歌はあの頃を思い出させてくれた。地震はつらいけど、とても貴重な体験だったと思っている。 その体験をいつまでも忘れないようにしたい。 (西陵中一年生)
大 橋 佐 和 子
憎しみもなく殺しては食べている人こそ愛すという言葉好き(夏残号)
ふだん、あまり気にもとめず、食事をとっているが、 その一回一回の食事のために、 どれだけの命が奪われてきたのかなどと考えさせられる一首だと思う。これから自分でも、口先だけで『愛』などと言う前に、一回一回の食事のために奪われた尊い命を感じ、感謝していきたいと思う。
(西陵中一年生)
北 川 貴 嗣
国語では時々一番つまらない答えがマルとなることがあり(麦風号)
国語の問題を解き終わり解答している時に、 この歌と同じ羽目になってしまったことが今までに何度あったことか…。 問題に一番適していると確信したものを選んでいるのに正解は一番適していないと思ったもの。全く納得いかない。川添先生も授業中たまにそういう答えがあった時、 授業はそっちのけにしてみんなと愚痴を言い合うことがあった。国語の選択問題の答えは、問題を作った人の思った答えだから、 これ以上安易な解答は他の教科にはないだろう。国語の曖昧さを主張するような歌だと思った。(西陵中一年生)
大 西 琴 未
苦しくもどど降る雨に泣き止みて蝉何思いつつ弱りゆく(夏残号)
蝉の鳴き声を聞いても今まで私は、よく鳴くな、などしか思いませんでした。でも、この一首を見て考え直しました。蝉は何を思いながら弱っていくのかなと考えると、なんだかさみしい気持ちになってきました。たった一週間の命で、その間せいいっぱい鳴いた蝉がどんな気持ちで弱っていったのかと思います。
これからも、そのものの立場になってみたら、もっと考えが深まるんじゃないかなと思いました。 (西陵中一年生)
井 之 上 汐 里
我が娘ブランコ中空まで伸びて叫ぶは雲と同化するらし(冬菊号)
青空を背景に元気よくブランコを漕いでいる子供―よく公園で見かける光景です。 でも、そういう見慣れた光景だからこそ、何だか親しみが感じられて心にすんなりと溶け込んでいった一首でした。元気よく漕ぎながら楽しそうに笑う声が聞こえてきそうです。小さい頃にマンションの公園でよく遊んでいて、
ブランコに乗ったのを懐かしく思いました。ブランコに乗って、そこから見た景色が好きだったのを覚えています。 しばらく公園へ行っていないので、また行ってみようかなと思いました。
(西陵中一年生)
網走歌人会(網走新聞九月二十九日掲載)
余情など求めぬ気風育ちゆく日本よしばし蝉時雨聴け(蝉響号)
心を落ち着けて蝉時雨に耳を澄ます、これが即ち『余情』である。今の日本の世の中は、昔にくらべて便利で物が豊かになった反面、人々の心にうるおいが薄れ、だんだん殺伐な気風が育っていることを作者は深く憂えており、全く同感を禁じ得ない歌である。
(網走新聞五月二十三日掲載)
しおしおと帰れば妻にも言い負けて一人座りぬ氷塊のごと(春香号)
男性の側からすればたとえ、心に思っていても仲々此のようにズバリと言い得ないところを、作者は「氷塊」という言葉を使ってはっきりと存在感を現しており、読むほどにユーモアさえも感じ取れる歌である。(網走新聞三月二十一日掲載)
納得も妥協も出来ぬ周りゆえ作らなければならぬ我が歌(冬菊号)
一本筋の通った個性的な表現をしていて、混沌とした世相にくじけず、歌に生き甲斐を求めていこうとする作者の姿勢が感じられる。