私の選ぶ一首

三 浦  光 世
潮干きし網走川に死にかけて口のみ動く鮭浮かぶ見ゆ (金木犀)
 もともと才もなく、即物的な歌を少しばかり作ってきて、それさえもこの頃はできなくなった。だから近代的な新しい歌は全く作れないし、鑑賞もできない。
が、右の作に新しさを感じたのは、どうしてであろう。この自然観照は何か深みを感じさせる。別に人生まで感じなくてもよいのであろうが、幾度も味わわせられた。
こうした作品に特に魅かれるのは、やはり、率直な自然描写しかわからなくなっているからかもしれない。

加 藤  多 一
マスゲーム美しされど背後にてアドルフヒトラー右手を挙げる
 マスゲームに恐怖を感じる人はいるのに口をつぐんでいる。それとも私と川添氏以外の人は、美しいと感じているのであろうか。集団は本来哀しいのに――。活字以外につきあいのない川添氏がここに着目されたことに、共感あり。
しかし、歌の質としては、首をかしげるところがある。言い切りのみごとさはあるが、言い切り過ぎて余情が少ない。
それかといって、この恐ろしき世に、花鳥風月・短歌的抒情べったりの自慰短歌のハンランも哀しいのだけれど――。

清  水    房  雄
流氷の間に間に位置を変えながら真っ赤に濡れて波輝きぬ(金木犀) 
  「間に間に位置を変えながら」はやや煩瑣の傾向はあるが、それ以下即ち下句の感じ方は特殊性があり、それが今後どのように伸びて行くか期待される。

篠     弘
一匹では寂しいからと蟋蟀を増やしし娘共食いを知る(秋沁号)
 少女のやさしい心配りと、はからずもきびしい自然の抗争を知った痛みを、作者はしかと見守る。たんに少女を愛する域を超えたものがあり、その視点にうなずく。
この一首とともに
ピアノ弾くように少女はパソコンに向かいて機器の一部となりぬ
 クールにその姿態を見つめた歌も、深く印象にのこる。いつもピアノを弾いている少女なのであろう。ひたぶるにパソコンに挑むポーズに、目を細める。
この二首の情愛は、美しく交錯する。

田  井   安  曇
年の暮れ突然逝きて網走の棚川音一賀状を残す (金木犀)
 川添英一といえば確かに船首で水を切った一時代のあった名である。したがって送られてくる毎号の小歌集にもう少しもう少しと注文をつけ、返信は留保してきていた。今も「心込め作りし歌も拙くて」などとは金輪際言ってほしくないし、むやみに作らないことに恃むところあってほしいと思うのである。掲出歌、死者の名まで含めてのこの感情を支えているところが何ともいい。他に「金木犀に雀騒げは明るくて障子に映りし影消えている」「雨の後しばらく虹の観覧車見ており二人手が触れている」がおのずからで佳品と思った。自ずからがよい。 (未来)

原  田    昇
排泄器性器と変わる戸惑いも少なくなりて老い始まりぬ(金木犀) 何と叙情性に欠けていることぞと数回読んでいると悲しくなってくる。当然のことなんだが男の与える立場が弱くなることは自分の自信をなくすこととして悲しい。
今、キリスト教病院のホスピスにいる。
死を迎える用意とされたホスピスに身をおくと意外とさばさばとしている。何もいらない。お金も家内にまかせた。あの世は身一つなのだ。女も誰一人連れていくわけにいくまい。全部さらばなのである。しかし生きてある限り、美しく、楽しい時間をもつのがいいのである。 ( 黒曜座 )

松   坂      弘
金木犀に雀騒げば明るくて障子に映りし影消えている (金木犀)
 読んでいて、ハッとしました。 とてもいい歌です。とくに、下句の把握、表現がいいと思いました。「明るくて…」というかすかな条件法、それが「影消えている」の結句にぴったりとつながっています。 技巧を感じさせない技巧(呼吸)というものを感じさせます。北原白秋的な世界を詠みとりました。
「炸」主宰。炸の後記によると岩波書店『現代短歌辞典』 三省堂 『現代短歌事典』 勉誠社『折口信夫事典』等二十世紀を総括し二 十一世紀への展望を企画した本の分担執筆されているとのこと。 常に大きな視点をもって歌に向かうところ、学ぶこと多い。

島  田   修  三
個人誌など返事もなくて権威より要請あればほいほいと乗る(金木犀)
 私のところにさえ詩歌俳句関係の結社誌、同人誌、個人誌の類いが毎月五十冊以上、歌集、句集、詩集の単行本が多いときでやはり月に五十冊以上寄贈される。私には職務上や研究上のハードな仕事があるから、これらに目を通すのが苦痛なときがある。返礼も原則として書かない(塚本邦雄や岡井隆や馬場あき子や佐佐木幸綱にさえ書かないことの方が多い)。正式な原稿の依頼は「権威」であろうがなかろうが、約束して引きうけた以上は必ず書く。しかし、なにがしかの反応や批評を期待して私に書誌を送って来られる方々の中には、川添さんと同じような憤懣をもつ方も数多くおられるだろうと思う。そういう憤懣は甘んじて受けるしか術がない。しかし、川添さん、掲出歌のような作品は、歌壇や結社に背を向けて個人誌の孤塁にいさぎよく徹して行こうとする表現者の述懐としては、いささか品がないのではないか。児玉暁の個人誌『クロール』の例を引くまでもなく、インパクトのある雑誌には有名無名にかかわりなく、必ずや正当な評価が寄せられるのだ。掲出歌のような女々しい憤懣の述懐は、川添さんの仕事に少しでも関心を払う者には情けない感を抱かせるだろう。好漢、自重せられよ。

井  上   芳  枝
幸福の家にあるべく金木犀葉っぱの根方に金の花咲く(金木犀)
上の句の「幸福の家にあるべく金木犀」に心ひかれます。わが家の庭に念願だったキンモクセイを植えて早や十三年。見上げるほどに生長しました。秋風に乗って懐かしいキンモクセイの芳香が漂って、毎年至福のひとときを過ごしています。
過年訪れた天下の名勝、桂林の果てしなく広がる山水美とともに、市中に十万余りも植えられた桂林の花、モクセイが頭いっぱいに広がります。ふつう木犀と書きますが、別の漢名に「桂」があるそうです。桂林の桂というのは木犀のことだと知りました
 (北九州市立大蔵中学校時代の恩師)

井  上   冨  美  子
ぐず・のろま・おっちょこちょいが歌作る思いの丈は誰にも負けぬ (金木犀)
この一首は、川添先生の今のお気持ちが、的確に表現されているように思われて、幾度も目を運びました。これからオホーツク海に押し寄せる流氷の氷塊をも打ち砕きそうな迫力さえ感じさせこちらに伝わってきます。《誰にも負けぬ》特にここの部分に…。流氷記が第十四号まで続いているバックボーンが、ここにあるように思いました。あらためて色々とりどりの心を込めて手作業で作り上げられた歌集を手にすると、この歌に秘められている川添先生の思いが、より力強く伝わってきます。 (網走二中元教諭)

新  井   瑠  美
マスゲーム美しされど背後にてアドルフヒトラー右手を挙げる
(金木犀) 笛の合図に一糸乱れぬ体勢を整えるマスゲーム。それの背後に独裁者ヒトラーを、作者は見てとる。しかも「右手を挙げる」と生身を立たせた手腕に脱帽。二十世紀の忌まわしい殺戮者を含め、決して忘れてはならない二十世紀の悪を、痛恨、悔悟とともに歌いつなげる一首であろう。マスゲームの美しさに見透かす川添氏の鋭い目を感じる。(椎の木)

利  井    聡  子
青々と地球優しく映りしを娘がリモコンで一瞬に消す (金木犀)
 人間がかくし持つ残忍さ、秘め持つ業の深さをこの一首の奥にのぞいた気がした。
無邪気で無垢な幼い娘によって一瞬のうちに地球が消された。その先に見えるものは、まさにこの世の終末である。
機械文明の発達は、指一本でスイッチを押せば地球を一瞬にして吹き飛ばすほど頂点に来ている。この恐ろしさ。作者のさりげないと見えるこの歌の奥に、人間の恐ろしさを感じずにはおれない。

唐  木   花  江
青々と地球やさしく映りしを娘がリモコンで一瞬に消す(金木犀)
 短歌は一瞬を掬い取る器だと言われている。テレビなのかパソコンなのか画面に浮かんだ地球は懐かしく美しかったのだろう。一瞬に消えてしまった残念さは語られてはいない。語られてはいないが故にその折の詩的な感情が読者に響いてくる。画面の青く小さな地球が作者の位置を宇宙的空間へと拡げていっただろう。この場合「優しく」「リモコン」は果して必要なフレーズだったろうか。私には少し疑問はあるものの、一首には「見えたもの」の裏にある「見えないもの」が充分に表現されている。(りとむ)

里  見   純  世
居なければ不安の募る妻なれど居れば腹立つこと多くなる(金木犀)
 先生のお歌は率直で気持ちが良いですね。奥さんのことを此のようにスカッと詠むことは、思ってみてもなかなか出来ないものです。突き放した表現のようにみえて、奥さんを信じる優しさが伺われ、私は真っ先に採らせていただきました。同じような意味で「父親に似て」このお歌も情景が出ていて目に見えるようです。率直で核心を突いているように思います。
年の暮れ突然逝きて網走の棚川音一賀状を残す
 網走歌人会の同じ仲間の一人として遠く離れた先生のお気持ちがわかります。 (「新墾」・「潮音」同人 網走歌人会元会長)

甲   田    一  彦
あまりにも短き命と知る時しいよよ余生も少なくなりぬ(夏残号)
人は誰でも若い頃は、命の短いことには思考が及ばないものです。そのことに気づいた時には、過去よりも余生が短くなっているわけで、この歌は、そうした人間の機微をとらえています。しかし、この作者は若くてまだまだ縦横無尽の活躍を期待しています。「 かくまでにこだわり命擦り減らす歌ありありと我が裡に棲む」(夏残号)健康に留意し頑張って下さい。そして短歌の未来を切り拓いて下さい。(北摂短歌会会長・塔)

前   田    道   夫
父親に似てだらしないとなじる妻無視して娘わが膝に乗る(金木犀)
 家族をうたった何とも微笑ましいうた。「娘わが膝に乗る」が佳い。思わず笑ってしまったが、素直な娘さんの姿と少し戸惑い気味の父親の顔までが見えてくる。仲の良い親子なのであろう。 ぼくのところにも娘はいるが、父親とはどうもぎくしゃくとしていて、うまく噛み合うことが出来ない。そんなぼくにとっては羨ましい一首である。
「居なければ不安の募る妻なれど居れば腹立つこと多くなる」全く共感を呼ぶ一首である。 (塔

東  口     誠
傷つけぬ言葉を選びするうちに声の勢いだけで負けゆく(金木犀)
 真摯に生きようと努める者の悲しみを感じる歌である。どう言えば相手を傷つけずに自分を理解してもらえるかと思案しているうちに、相手の声の勢いに圧倒されて敗北してしまっている。このように解したが、「勢いのいいのは自分の声だけで、結局敗北に終わってしまう」ととれなくもない。「選びするうちに」が「選んでいるうちに」なら前者、「選びながらいろいろするうちに」なら後者になろうか。してみると、この歌に問題ありとするなら、第三句ということになる。それでもいい歌だと思う。(塔)

遠  藤   正  雄
青々と地球優しく映りしを娘がリモコンで一瞬に消す(金木犀)
 地球の映像を娘がリモコンで消してしまったという、日常ありがちな父と娘の間の出来事を捉えている。その一瞬の前後の話のやりとり等は省略されているので、読者の想像をふくらませる。地球と、リモコンの取り合わせがいい。核戦争を防ぐ保証のない地球ゆえ、核のボタン一つで戦争を引き起こし、一瞬にして地球は滅亡する。地球が画面から消えた瞬間の暗闇は、… そんな連想を呼ぶ。「その匂い伴いながら蘇るかつて馬糞紙という紙ありき」│臭覚を視覚へと蘇らせてゆく、その妙技。
汚れ落ちかび落ちその後の排水をCM言わず笑顔で終わる(冬待)
 現在の抱えている問題を、さらりと諷刺された社会詠である。よい洗剤が次々に出来、競争も大変。「その後の排水をCM言わず」下水道も大分普及してきたようであるが、 まだまだ垂れ流しの状態であり、そこの処を上手に詠まれ共感した。「笑顔で終わる」の結句で、人物像が浮かんできて面白い。 次も社会の縮図である。「ピカピカにされたワイシャツ川汚し魚を殺めて街へと急ぐ」生活のため商いのため人は川を汚す。一方で人は命の大切さ、動物愛護の心を唱えているのである。 (塔)

奥  田   隆  孔
紅葉の群れ鮮やかな痛みとも涙あふるるまでに見ている(冬菊号)
寺田寅彦の随筆に見える、美しいものは哀しいという文章を何十年ぶりで反芻しました。「我もまた無数の枝を伸ばしつつ紅あざやかな木と真向かいぬ」の歌に、 作者内部からの不可視の放射が感じられるのと対照的に、この歌は対象から発せられるものを受け止めつつ、あふれさせているようです。連続する二首によって紅葉を見る作者の姿が完結されています。
我もまた ― 鮮やかな木と真向かうとき作者の内部からは無数の枝が伸びていくという、この不可視の生命体の存在を意識する、自然との一体感に感動を覚えました。この歌の読みに求められるものはこれに尽きるのではないかと思います。
幾万の思い詰まりて立っている墓は力を与えてくれる(冬菊号)
力を与えてくれる墓というものに想いを巡らす時、死者の声が我々を奮い立たせるという率直な表現が非常に新鮮だと感じました。先祖の墓などを詠んだ歌にはみられない視点ではないでしょうか。 (塔)

塩   谷   い  さ  む
学歴で人差別する会話聞き逆らわねばと思いしことあり(夏残号)
 よくある風景、 いや実際に行使されている対外的という言葉の下に、大企業ほど学歴を重要視する。 営々辛苦、 人一倍努力をし、研究をして営業上、経営上重要である人ほど、この学歴問題はついてまわる。作者は学歴で人を差別する会話を聞いて、持ち前の正義感が湧いて来たのだと思う。学歴不問と言って採用した大会社も、かつては存在したが、いつの間にか元の木阿弥になった。
心込め作りし歌も拙くて返信なきも返事のひとつ (金木犀)
 便りのないのは元気のしるし、という諺もあるが、それこれとは別である。 一所懸命に作った歌に何の反応もない、無視された憤りを言外に感ずる。社会全体が何となく無言で過ごせるようになった現代を淋しく哀しく思うときがある。個人誌など返事もなくて権威より要請あればほいほいと乗る と併せ読んでほんとうにかなしくなった。そして
その匂い伴いながら蘇るかつて馬糞紙という紙ありき
を懐かしく読んでいる。 遠き佳き時代の。
  やせ蛙負けるな一茶ここに在り │一茶 (塔)

久  保  田   よ  志  子
糞尿の匂いを田舎の香水と言いしことあり一昔前 (秋沁号)
下肥を現在田畑に使うことはなくなった。一昔前実家の田の畦に肥壷のあったのを覚えている。現在はなくなっていると思う。古い家の便所の肥壷も広く大きくて下を見ると恐ろしい。汲み取って畑にやっていた。新築の家は水洗便所で、年を取って足腰が痛い私には結構なことである。 (北摂短歌会)

菅  納   京  子
雨に濡れ雨を喜ぶ少年にしばし戻りて家路を急ぐ (夏残号)
夏の夕方、帰宅途中。ついさっきまで白い綿飴のような雲が、空に広がっていたのに、いきなりどす黒く、分厚い雲が…。先生はこの時、傘を持っておられなかったのですね。「中途半端に濡れるのは嫌、どうせなら思いっきり」という気持ちが、よく伝わってきます。誰でも小さい頃は、雨が降ろうが何だろうが、それを素直に受け入れて、楽しんで遊んでいましたから。先生の無邪気な少年時代の写真を一枚見たような、そんな感じの一首でした。 (西陵中三年生)

中   村    佳 奈 恵
流氷に巨大に咲きし青き花輝きにつつ開きゆく海 (流氷記抄)
私がこの歌を選んだ理由は、冬が始まり、寒い日が続くので、暖かい春が春が待ち遠しいなあと思っていた時に、この歌を見つけたからです。冬、氷に閉ざされた海が、春が訪れ、暖かい太陽の光を浴びてだんだん溶けてゆく、という情景を「巨大に咲きし青き花」と表した所が、私はとても好きです。私は前回は白樺を、今回は流氷を題材とした歌を選びました。どちらも実際に見たことがないので、こんな美しい景色を見ることができた先生がとてもうらやましく思えました。 (西陵二年)

若 田  奈 緒 子
ミツバチとテントウ虫見ゆノイバラの中忙しき短き命 (麦風号)
ミツバチって言われてみれば、いつも忙しそうに、花の周りとかを飛び回っている気がする。テントウ虫なんか、体はあんなに小さいのに、ちゃんと模様もあってすごいと思う。地球や宇宙の事を考えると、人の一生はとても短くはかないけれど、虫はもっとはかない。そんな短い一生の中で、誰に教えられたわけでもないのに、空を飛んで、忙しいほど働いて……この歌を読んで、いつもはキライな虫も、少し偉く思うことができました。
雑草と呼ばれる花と虫の音と人よそのまま触らずにいよ(秋沁号)
小さな子供達は草の中や木の葉の中から、虫が少し姿を見せたら、競って捕らえようとするけど、蝉なんかは二週間の命というし、そう思うと、そのわずかな命ある間だけでも自由に空を飛んで精一杯鳴いて欲しい。子供達に捕らえられないことを願って…

高   田    暢   子
幸福の家にあるべく金木犀葉っぱの根方に金の花咲く (金木犀) 歌の中にある《幸福の家》の言葉はこの歌の一番思いの込められた部分だと思います。
学校や家の庭などに咲いている金木犀。紅葉やコスモスのように秋を代表する草木の一つだけど、私の中では、紅葉やコスモスよりもずっしりと存在感があります。
私が前に住んでいた家や、家の周りには金木犀の木がたくさんあったので、今でも金木犀を見ると、とてもなつかしい気持ちになるのです。幼いときには金木犀の金色の小さな花を見るだけで幸福な気持ちに浸ったものでした。   (西陵中二年生)

北   川    貴   嗣
雲走る空の下にて台風を待ちつつ並木の緊張が見ゆ (秋沁号)
台風がやって来る前というのは、妙に静かでさみしいものです。屋外に出てみても人一人通らず、みんな家の中に閉じこもってしまって。時たま聞こえてくるものといえば、外に出されたままの犬の悲しそうな声か、いやにかしこまった木の葉のささやきくらいです。実に緊張した、いや、さみしい時間です。この歌にはそのことが込められているように感じました。どれだけ凄まじい風がやって来るのかという木々や草花の緊張感が……。(西陵中一年生)

宮  脇     彩
花びらの落ちし枝より桜の葉枯れて波立ちながら落ちゆく(秋沁)
この一首を見て、私は春を思い出した。桜の木の枝一杯に咲いていた薄い桃色の桜の花、風が吹くと一気に嵐のように散る花びら、その同じ枝からは、枯れ葉が落ちようとしている。│それを思い浮かべずにはいられなかった。春には美しく花を咲かせ、夏には清々しい緑の葉で木を彩り、秋・冬になると一気に淋しくなってしまう桜│同じ木なのに不思議なものだ。今までその変化を何度も見てきたはずなのに、ろくに心に留めていなかった。今度の春になったら、桜の一年の変化を見つめていきたいと思う。
いにしえ人愛でいし花か我が前に今の命の萩咲きにけり(秋沁号) この歌にも出ているように、萩の花は古くより秋の七草として親しまれている。時代が進むにつれて古くからの季節感が少しずつ薄れていっているように思う。しかし、花は時代が進もうと、この一首のように、今の命を持ちながら、その色香を伝えてくれている。今までは花を見ても、「ああ、綺麗な花だ。」ぐらいにしか思わなかったが、花には花の長い歴史があるという事に、この歌で気付いた。 これからは、いにしえ人が愛でた花の色香をしっかり見つめたいと思う。
どうしても好きにはなれぬ花を摘み人のためだけ飾る営み(夏残号)
花は可憐でいいものだが、 それを摘み取り商売道具にする営みがあるということは、今まで知っていたようで、知らなかった気がしてくる。この一首を見て考えついたことだが、花屋が植物に「 今から花が咲くまで世話をしてやる。その代わり、美しい花が咲いたらお前を積んで売ってやるぞ」… こんなことを言っている風景が頭に浮かんでしまった。このように「花屋」という営みについて、考えさせられた一首だった。 (西陵中一年生)

大  橋   佐 和 子
段ボール・ベニヤ板など文化祭するたび少しずつ森は死ぬ(秋声) 文化祭の話し合いのときに川添先生が、どうせ捨ててしまう物のために、段ボールやベニヤ板などを使うのはもったいない、リサイクルした物で何かを作ったらいいと言ったのを覚えている。確かに、文化祭の制作なら、段ボールやベニヤ板などは必要だが、今、次々と木が切り倒され、森林が減ってきているという時に、私達は知らず知らずのうちに、自然破壊をしていたのだ。この一首を読んで、また改めて考えさせられ、重要なことに気づくことができた。(西陵中一年生)
地下鉄は長い洞窟真っ暗な真昼をひそと通り抜け行く(金木犀)
この一首を読むと、何か不思議な気持ちになった。というよりなるほどと思った。地下鉄を、暗く長い洞窟などというふうに見立てたことがなかったからだ。そして少し感動した。私はあまり地下鉄は利用しないし、地下鉄について考えることもなかった。私からしてみれば、ただの電車の一種にしかすぎなかった。しかし、考えてみると、日の光があって、明るい世界があるのに、人々はわざわざ昼間でも、真っ暗な洞窟に入って行くのだ。そう気づいた時ふと、地下鉄も人々もむなしく感じた。
(西陵中一年生)

藤   川      彩
蝉時雨しみじみ聴きてスイッチを入れれば無人君ララララ(蝉響)
この一首を見て、ピーンとくるものがくるものがあった。これは、蝉の音を聴き、瞑想しているとき、テレビをつけ、現実に引き戻されたということなのではないだろうか。私にも似たことがよくある。本を読んだり、いろいろ想像して、自分の世界に入っているとき、家族に話しかけられたり、テレビの音や話し声を聞いたりして、現実の世界に引き戻されてしまうのである。 「世の中は空しきものと知る時しいよよますますかなしかりけり」(大伴旅人)のような気持ちになってしまうことかもしれない。
雲海の上澄みわたる空ありて死の向こうには苦しみもなし(蝉響)
これを見て、私の頭の中にきれいに澄みわたる空がひろがった。そのあと、死んだら苦しくないんだなあといいうことを考えた。しかし、死んだら楽しいことや、うれしいことさえないということを思い出した。やはり、死ぬのはいやだなーと思った。

田 那 村    紗 帆
目つむればただ蟋蟀の音のみにこの世も夜も安らぎの中(秋沁号)
目をつむれば、耳を澄ませば、蟋蟀の音が聞こえるんだろうけれど、楽しく忙しい中学生活の中で、そういうことをしようとは思いませんでした。でも、蟋蟀の音だけで何もかもが安らいでしまう…、そんな響きが気に入りました。みんなそれぞれ安らぐ時は違うけど、こういうふうな安らぎ方ができるのはいいなぁと思いました。 蟋蟀の音だけで安らげる先生は、毎日が充実しているんだろうなぁと思いました。 (西陵中一年生)

北   川    貴   嗣
射すように全ての視線注がれてついに最後の一人をも抜く(秋沁)
  「足の速い人はいいなあ」と、 足の速くない人は思っているだろう。僕は陸上部だが、そんなとびきり速いというわけでもない。この歌は体育大会などでよく見かけるシーンの情景そのものを、ありありと映している。特にアンカーで足が速いともなれば、まさにこの歌の通り「射すように」観客、選手達の全視線が集中する。本人は真剣だからそんなものは目にも入らないのだろう。 黙々と走っている。 しかし、ゴールすると気持ちは一変、視線を浴びる恥ずかしさと、一位でゴールした嬉しさが入り混じった感情になるのだ。小学校の頃この歌と同じ経験をしたことがある。(西陵中一年生)

阪  本    麻  子
わが場所のように周りを睨みつつオジロワシいる流氷の上(春香)
 私は先生からときどき流氷の話を聞く。そのたびに「ああ、見てみたいな。どんなに素晴らしいんだろう」と思う。 写真なんかより実物を見たい。悠々と空を飛ぶオジロワシ、そして下で光る流氷…。とても絵になっている。 想像するだけでもすごくいい。必ず本物を見るぞ! 私はこんなふうに、たった三十一文字でこれだけのことを伝えてくれる先生の歌が大好きです。 (西陵中一年生)

井  之  上   汐  里
居なければ不安の募る妻なれど居れば腹立つこと多くなる(金犀)
これは私にもいえることだ。普段、毎日、家に帰ると家族がいる。気にいらぬことがあれば腹が立ち、「こんな家族はいやだ!」と思うことが何度もある。が、居なければいないで、すごく寂しくなり、家族の帰りをただ時間を見ながら、じっと待っている自分に気づく。 この歌を読んで、人の心というものは、なんて複雑なのだろうと思った。居れば腹が立ち、居なければ不安になる……。これは誰にでもいえるのではないだろうか。 何かを深く感じさせる歌である。 (西陵中一年生)

川  添   和  子
つくづく惜ーしつくづく惜ーしつくづく惜ーし悔い多ーし悔い多ーし悔い多ーし (夏残号)
空澄みわたる夏の日の午後、家の二階で遊んでいた時、一匹の蝉が窓から飛び込んで来ました。透明な羽と黒い胴、あまりの美しさに茶掛けの掛け軸の空き箱に入れてしばらく眺めていました。 か細く鳴いていたものの、そのまま動かなくなりました。「ご飯だよー 降りておいでー」の声に、小さな穴をあけた蓋をして階下に降りて行きました。茜色に染まってゆく羽の美しさ、精緻な生き物の姿への感動と、夕暮れに近づく時間の透明な淋しさが心に残っています。小学校高学年の頃の思い出です。 (妹)