私の選ぶ一首

北   杜 夫
生まれ死に生まれ死にして流氷の真っ赤に燃えるたまゆらにいる (燃流氷)
 生死と流氷。(小生はかつてオーツク海で南極そのものの雪原を見ました。宗谷でしたので、乗員にも南極隊員が多かった。) 真っ赤のさまは見ませんでしたが、「たまゆらにいる」はうまいと思います。(作家)

藤  本   義  一
流されて追い詰められて盛り上がる氷塊我の生きざまのごと(燃流氷)
 ニュージーランドを十日間ほど歩いて来ました。
帰った日に第十五号が届いていました。
流氷は過去二回撮影取材したことがあり、南半球から北半球に一挙に舞い戻った気がしました。
流氷の私の印象は時の経過に伴う氷の切片のプリズム風の七色の変化と、時に鋭く、時に鈍く、時に幽かな軋みでした。
現在は現代詐話師を取材しています。俗な世界を俗な目でずっと瞶めていきていきたいのです。 (作家)

菊  地   慶  一
キタキツネ歩みしのみの流氷原その下にして育つ魚あり(流氷記抄)
 流氷原の変幻に魅せられて三十年の私だが、より想像力を誘われるのが、海中、海底である。白いふとんをかぶって冬の一時(いっとき)を眠るオホーツク海。この時期が海中のすべての生き物にとって安息の日々なのだ。それによって回復し、よみがえる海だということを想像してほしい。この歌は自然の摂理を骨太く捉えながらも、キタキツネの道が続く氷原の抒情を巧みに表現していてすばらしい。歌というものはこうでなければならないと、歌には素人の流氷観察者の私は思っている。 (流氷観察者。作家。ドキュメント『流氷くる!』)

清  水   房  雄
物忘れなど責められて半日を最晩年のごとくに過ごす (燃流氷)
私などいつも体験している事で、大いに共感せられる作だが、「など」には一つの型の印象がまつわり、「最晩年」は語自体に或る過激なものを感ずるのが惜しい。
(「青南」選者、元アララギ選者、読売歌壇選者…。)

三  浦   光  世
昨夜よりの雨が作りし水たまり落ち着いて濃き紅葉を映す(燃流氷)
若い頃、佐藤佐太郎氏の作に、《木のしたに水溜あり雨やみしのちのくもりになべてしづけし》 という一首を見たことがあった。字を確かめる時間もなくて申し訳ないが、好きな作品であった。抄出の歌は、同じ水たまりながら、「作りし」「落ち着いて」が、一見説明的主観に見えるようで、それこそ落ち着いている。私にはここまでも踏み込めない。要するに力もないということか。

この一首を田中栄と確認しました。 佐藤佐太郎「しろたへ」 中の『桜実』六首中の歌でした。

加 藤  多 一
光さえ呑み込む冬の夜の海に裡よりほどけつつ我がいる(燃流氷)
美しく哲学的でさえある流氷という存在に対して「ほどけつつ我がいる」ナントいう乱暴なそして直截すぎる結句でしょう。互選のときは点が入りそうもない。しかし、私はこういう歌を作る人間の精神の真水の直截に魅かれます。
結句をいわゆる短歌的抒情のハンイを越えない抑制のある美しいコトバに−自然の烈しさ(未熟ともいう人がいるが)は例えば「官中御歌始」などの対極にある大衆のそして散文の精神なのでしょう。  (オホーツク文学館館長・童話作家)

中  平   ま  み
犬小屋が横に並びし青テント優しき男暮らしいるらし (燃流氷)
犬好き犬きちがいの私は全部見てゆかぬうちにこの一首に決めてしまいました。犬はいい…人よりもいっそ犬の天下になったらよいと思うくらいです。長い年月を経て人間の失ったものを犬が持っている。そんな思い故か人以上に思いを傾けるようになりました。齢四十六を迎え天命に目ざめたように思うことの一つです。人間世界から脱落してしまった男と野生から見放されてしまった犬とが心を寄せあってテントに暮らしている。旅芸人のような世界では普通に見られた光景ではあるのだけれど…  (作家)

佐  藤   通  雅
クレーンより細き糸垂れゆっくりとビル新しく生まれゆくらし
実景を何の技巧もなく詠んだようでいて、とても心が引かれる。新しい生命が生まれるということはこういうことではないか。がむしゃらな促成は必ずあとでボロを出す。生命には「ゆっくりと」の速度が必要だ。ひるがえって文学も世間や他者の批評には謙虚であっても迎合はいらない。ましてや栄光を得るための画策はいらない。そう思って私はここまで来た。

小  野   雅  子
ゆっくりと沈みゆく日よ今日もまたあらゆる所に人の死がある
この号は高安国世の死を悼む歌をはじめ最近起こった凶悪殺人事件からイチョウの一葉まで、死を詠んだものが多い。
身近に人の死がない日がつづくと、 つい死など遠いものに思いがちだし、 だからこそ人間はいつまでも生きていられるような気がして勉強したり働いたり出来るのだが、 言われてみればその通りなのである。
戦国時代や大戦中の戦場に身を置く人の述懐ではなく、 平和な現在の日本にあってそのことに思い至るとき、 この一日を終わる夕日はゆっくり沈んでいくように見える。    (地中海)

里  見  純  世
見る限り二本の線路光りつつ夕日の山の麓まで伸ぶ (燃流氷)
外に次の歌が特に小生の心を捉えました。
・湧網線載りしゆえ我が捨てられぬ地図あり佐呂間に終日遊ぶ
・巨大な陽昇りて沈む網走を今は孤島のごとくに慕う
・死ぬることずっと先だと思いしに高安国世逝きてしまえり
・昨夜よりの雨が作りし水溜まり落ち着いて濃き紅葉を映す

どの歌も、構えずに率直に詠まれているところが良く、これこそが歌の原点だと信じます。
     (「新墾」「潮音」同人 網走歌人会元会長)
湧網線は網走・二見が岡・卯原内・北見平和・能取・常呂・北見共立・北見 富丘・浜佐呂間・仁倉・知来・佐呂間・床丹・計呂地・芭露・中湧別の89.8Km

松  田   義  久
冬の日の白き光を着て動く生徒にドッヂボールが跳ねる(燃流氷)
 毎号に標題に添ってオホーツク海の流氷が回想の形で、或いは現実に観察している形で、色々な様態で詠まれており、たまらない程の揺さぶりを掛けられる。今回も流氷の歌から一首をと思いましたが、小生も過去には教育現場での子どもの動きを詠むべく努力した時期があったことを思いつつ。この歌の中の冬の太陽の光を窓越しに受けながら生徒それぞれの動きの中に光が走っており、縦横無尽にドッヂボールが跳ね、その球を追ってひとりひとりの動きも活発に出ている処が若々しく生きている作品。(「北方短歌」 網走歌人会元会長)

園  田   久  行
さまざまな歴史重なる本統の自分を捜しに古書店に寄る(燃流氷)
 川添先生は、古書店の客である。以前二三度本を買い伺った事もあるし、網走から送って来た事もあった。様々に歴史重なるこの方から買い取った本の中に、思い出に残る本がある。南伝大蔵経という七十冊に及ぶ仏書であるが、 この本は、暫くして、広島の若いお坊さんが買ってくれた。十年以上も前の事である。 それ以来、このお坊さんと御縁が出来て、今も続いている。古書店にも様々な出会いがあり、様々な人生が有る様だ。 一冊、一冊に、著者の、出版社の人達の、又旧蔵者の人生が、秘められている。私も人並みに、迷いながら生きてきたが、 五十歳を越えて、やっと、本統の自分はここに居ると感じている。 (株)オランダ屋書店店主

松  永   久  子
氷塊の横たうのみの青白き生も死もなき明るさにいる(燃流氷)
  目の前に横たわる(多分) 大きな氷塊が放つ青白さ。きっと積雪の夜の明るさに似た情景であろうかと。荘厳とも神秘とも生死を越えた自然の姿、氷塊を一度も見たことがない者も妙に魅かれてしまう。
一人くらい違う意見もあっていい言えば忽ち生きづらくなる
 個のない日本人われらを総じての論か。それとも作者の生活の断片から絞り出された哀感だろうか。共感する一首である。

井  上   芳  枝
巨大な陽昇りて沈む網走を今は孤島のごとくに慕う (燃流氷)
 網走、そしてオホーツク海。この歌を通してジーンと込み上げてくる何ともいえない感動。網走から眺めたオホーツク海への熱い思いが忘れられず再訪した私。藻琴海岸に下りて、寄せ来る波に両手を浸しながら、若山牧水の「幾山河越えさりゆかばさびしさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく」を口ずさみました。先年訪れた九州の指宿での初日の出、天草の落日は素晴らしいの一語に尽きましたが、まして網走の日の出、日の入りはどんなにすてきな眺めでしょうか。夢いっぱいの歌です。 (恩師)

藤  田   康  子
かくまでに尖りし心も少しずつ金木犀の香にほぐれゆく(金木犀)
人混みに紛れて死んだ筈の人ふと擦れ違う一瞬がある(秋沁号
)
今は無き木造校舎の職員室で、手帳片手にした笑顔の川添さんと、 なにやら宙をにらみ一点に突き進むその姿とが、一瞬のうちに現れて来ました。尖りし心をどこかに置き忘れ、生活する術ばかり身に着けている自分を浮き上がらせます。尖りし心の中に秘めるエネルギーと、そのエネルギーと折り合おうとする歌と接し、毎号自分に問いかけます。    (元網走二中教諭)

井  上   冨  美  子
唐突に病に倒れし生徒あり間を置かず死の行事が進む (燃流氷)
この一首を拝見した時、特に後半のところで、ここ二、三年にあった身内の葬儀の折、強く感じた思いが引き寄せられました。
昔の葬儀と大きく異なり、今はほとんど葬儀屋に依頼して、すべて死の行事があっと言う間に滞りなく終わってしまいます。ホテルのような大きな斎場に、次から次へと霊柩車で遺体が搬入され、遺族の方迷子になりませんようにと注意を受けながら、故人を心行くまで偲んだり悲しんだりする余裕もなく、流れ作業のごとくすべての死の行事が終わって、心の奥にある空しさを残しつつ家路に向かう。この世に生を受けた以上、必ず死を迎えます。『死ぬ』という逃れられない真実がずっしりと心の中に居すわっています。「生きている間はせめて死ぬること忘れよ燃えて日の沈む見ゆ」この一首も心に残ります。 (元網走二中教諭)

奥  田   隆  孔
幾万の思い詰まりて立っている墓は力を与えてくれる(冬菊号)
 力を与えてくれる墓というものに想いを巡らす時、死者の声が我々を奮い立たせるという率直な表現が非常に新鮮だと感じました。先祖の墓などを詠んだ歌にはみられない視点ではないでしょうか。 (塔)

田   中     栄
一人の死知るより知らぬ側に行きその軽やかな笑いに浸る(燃流氷)
 心理詠。現実はこのままだ。一人の死(生徒の死かもしれない)から知らない人等の間にゆけば、まことにあっけらかんとしている。心の痛みを知るのは作者だけだ。その雰囲気に浸りながら心に抵抗を持っている。実際をうたうことの大切さを考える。
 [流氷記の原点の一人。高安国世門下の大先輩。 「塔」選者]

好   田   吉  和
順番に常にどこかで罪犯す人あり決める神もあるらし(燃流氷)
 保護司として、非行少年や罪を犯した人と接してきたが、この一首を目にして心を打たれた。実際、犯罪というものは、その人の意志のみで引き起こされるものとは考えられないからである。 歎異抄の中で親鸞が「何事も思い通りにできるのなら、往生のために千人を殺せと言われたら殺せるだろう。しかし一人でも殺せないのは業縁がないからで、自分の心が良いからではない。だから悪事はしないと思っていても、千人百人を殺すこともあるのだ」と説いている。釈尊は、仏の願いは平和であり人間の幸せであることを根本にすえて、 「我」を捨てることを教えている。この我を業縁と読みかえ順番と読みかえれば、この一首の真実が伝わると思うのである。 [元高槻十中校長。本統に立派だった。「北摂短歌会会長」「塔」]

新  井   瑠  美
さまざまな歴史重なる本統の自分を捜しに古書店に寄る(燃流氷)
第十五号《燃流氷》落手して、巻頭三首目、読み進もうとして立ち止まった一首である。自分捜しの歌と言うだけなら、他にもあったかも知れないが、〈本統〉の字の使い方に、川添氏の深い考えを見たように思った。おおもとの血筋の意味をもつだけに、道元の佛教思想が心底にあるかと。 「死ぬることずっと先だと思いしに高安国世逝きてしまえり」作者の裡では、 まだ先日のように思われるのだろうか。 今年は十七回忌を迎える高安先生である。《流氷記》をきっと喜んでいらっしゃるのでは…。(槻の木)

前  田   道  夫
人の好い生徒がいつも引っ掛かる問題少しひねって作れば(燃流氷)
人の好い生徒は、素直で扱い易く親しみのもてる人物なのであろう。こんな問題を出せば、きっと彼は引っ掛かってくるだろうと思って、少しひねった問題を作る。案の定引っ掛かったわいとしてやったりとほくそ笑む先生。昔々の川添さんの顔を思い浮かべ、その表情まで思い出させてくれる一首である。そして生徒を見る眼は暖かく愛情に溢れているのであろう。 「塔」作者の思いはちょっと違います。何でこんな罪作りな問題  を作成するのかという自己嫌悪というか教師は多分に意地悪  を喜ぶところがあるのを見つめた歌なのですが…

遠  藤   正  雄
死の順のように並んで彼方まで真っ赤に尾灯連なりて行く(燃流氷)
 無神論者の私であるが、この世には科学で理解出来ぬ事が起こる。生命の起源も不可解であり、死後の世界も未知である。「死の順」は神様かエンマ様しか知っていないのだろう。真っ赤な尾灯の連なりの行き先は、それぞれ人間の決めているだけの事で、一寸先は闇という他はない。「まだ来ぬと冬の電車を待つ人ら己れの死までの距離も縮まる」この歌は、待つという事は死を待つ事と同じだと言い切っている。「冬の電車」を待つ人達にやがてやって来る終着駅を、作者自身が実感しながら歌っている。 「塔」)

吉  田   健  一
人のため殺されてゆく生き物の形に冬の雲渡り行く (燃流氷)
人間は様々な生き物の犠牲の上に存在しているという冷厳な事実を題材にした歌。自己の欲望、例えば食欲を満たす為に他の生き物を殺してしまう現代人の傲慢さを告発している作品といってよい。この歌の中で注目したのは冬という季節が選ばれていること。春、夏或いは秋の雲としてもこの歌は成立するが、人間に殺される生き物の運命を象徴するにはやはり「冬の雲」がふさわしい。ただ、最後に「渡り行く」とあるのは蛇足の感じがするが、いかがであろうか。 (塔)

若  田  奈  緒  子
ゆっくりと沈みゆく日よ今日もまたあらゆる所に人の死がある
私にとっての今日は、昨日と同じでただの平凡な一日でも、他の誰かにとっては、大切な人が亡くなったとても悲しい一日だったかもしれない。また別の誰かにとっては忘れられないような幸せな一日だったかもしれない。そんなことを思いながら見る真っ赤な夕日は、いつにも増してとても美しいものだと思います。私は、今日もたくさんの命が消えたくさんの命が生まれてきているということをいつも忘れずにいたいと思いました。
(燃流氷から。西陵中二年生。)

大   戸   啓   恵
雲丹の肉たわわに垂れているような金木犀の花匂いくる(金木犀)
金木犀の木というのは普段とても美しいとはいえない木なのに秋になるとついつい匂いに誘われて探してしまいます。 「ああ、ここにあったんや」 と見つけても、やっぱり美しくない。まさに「肉」「たわわ」「垂れる」「匂う」という表現どおりに生々しい花をつけた木。 私には「あからさまに愛を乞う木」というイメージの強い木です。 そんな金木犀の木は私ととても似ているのに気づかされました。いつも愛されたくて愛されたくて仕方なかった自分が、この歌を読んだときに、むせ返るような匂いと共に思い出されました。  ああ私はこんなに愛されたかったんだと私に気づかせてくれたこの歌はまさに私の恩人と言えます。(旧姓浜田元高槻七中生徒)

磯  田   愛  香
とりあえずここまで生きたと新しき年迎うることあと幾つある
最近、未成年の犯罪がとても多いと感じる。私も未成年の一人だ。やはり同年代のニュースは耳に入ってきてしまう。 どんなに年寄りだろうが若かろうが、一日の終わりには無意識に「とりあえずここまで生きた」と感じているのかもしれない。新しい年を迎える三日前ぐらいは特に…。
こんなことを考える私は確実に毎年一回 「とりあえずここまで生きた」とつぶやくのが恒例になってしまった。(西陵中卒業生)

大   橋   佐  和  子
菊の花机上に置かれし亡き生徒の椅子引きて最初の授業を進む
この歌にある《亡き生徒》は私のクラスの生徒だ。私はその子と小学校も違ったし、中学に入学して三日経ったら入院してしまったので、全然接点がない。が、三日だけだが、同じ班で過ごし、いつも手紙を書いて励ましていた人が急にいなくなってしまうという事は、あまりにも信じがたい。私は、その子は必ず退院して来てくれるものだと信じていた。その子が生きているのが当たり前だった。私の身近で人が亡くなるというのは初めてだった。そして人が死ぬという実感がなかった。ひとしきり悲しんだ後に考えてみても、 生きるということ、死ぬということがどういうことなのか分からなかった。その子が生きているという前提が一気に崩れ去り現実が見えなくなった気がした。普段ニュースなどで何げなく聞いている《死》というものは、 こんなにも深いものだったのだと感じた。私は、先生が、その子が亡くなってから最初の授業の日、その子の机上の花と写真をじっと見ていたのを覚えている。きっとその時に出来た歌なんだろうと思った。本当に考えさせられた出来事だった。 (西陵中一年生)
[生徒の突然の死は悲しいというよりも生きている我々がど のように考え対処すればよいのかを考えさせる出来事だった 気がする。 生きている者が彼の分まで生きてゆかねば…。
ただ、彼は欠席しているだけという感じは消えないけれど。]

阪  本   麻  子
大地震何もかも揺れ妻と娘を守りて箪笥を押すばかりなり(冬菊号)
この歌の他に「大地震終わりてすぐの我が居らぬ空のベッドは家具の下にあり」という歌がある。 二つともあのころの恐怖が生々しく甦ってくる歌だ。何もかも揺れる中、私はふとんを頭からかぶって泣きわめいていた。父は必死で箪笥を押してくれていた。父がそうしていなかったら、家具の下にあったのは「空のベッド」だけではなかっただろう。あの時の情景は、いつまでも頭の中にこびりついている。地震はたくさんの人々に多くの恐怖をあたえた。私も一生、あの恐怖を忘れないだろう。父には本当にとても感謝している。そしてあの時の、父の必死の思いをそのまま歌にしてくれた先生にも。 私も何かを命懸けで守れるような大人になりたいと思った。

宮   脇      彩
季過ぎてわずかに残る萩の花冷たき風にひときわなびく(金木犀) 季節の移り変わりを感じさせてくれる一首である。 萩は秋の花であるということから考えると、 おそらくこの萩は咲き遅れたものなのであろう。 そしてその萩をなびかせる冷たい風……咲き遅れた萩が、 思いがけず「秋」から「冬」への移り変わりを感じさせてくれた。しかし、それと同時に、何か淋しさのようなものも感じた。  (西陵中一年生)

宮  本   有  希
人のため殺されてゆく生き物の形に冬の雲渡り行く (燃流氷)
人は自分達のために空気や水などを汚染して、たくさんの生き物を殺している、という言葉をテレビなどでよく耳にします。それを聞いた時には、自然を大切にするとか、生き物を大切にしようとか、そういうふうなことを思うけれども、少し時間が経ったらすぐに自分が言っていた言葉を忘れてしまって何も考えずにいつも通りの毎日を過ごしていっていると思います。この歌を読んで、人のために生き物が殺されていっているということを、雲が風にすぐに流されていくように、簡単に忘れないようにしたいと思いました。 (西陵中一年生)

中  村   佳  奈  恵
鳥渡り雲行く果てに流氷のはるかに広がる水平線あり (春氷号)
私は一度だけ陸から水平線を見たことがあります。昨年の夏、英語体験旅行でオーストラリアに行った時のことでした。 広大なオーストラリア大陸から見る水平線はとても大きく本当にびっくりしました。 北海道もシベリア大陸の一部と思えるほど自然が大きく感じられると母から聞いたことがあります。 この歌は網走の流氷の海を、雄大な水平線を感じることができます。厳しい冬の海の広がる水平線は、鳥の目線から見た景色のような気がして、私も鳥になってこんな素晴らしい風景を見たいと思いました。(西陵中二年生)

高   田   暢   子
退屈な市民に媚びてマスコミは殺人事件起こすのが好き(燃流氷)
 私はたまにマスコミに対して行き過ぎているなぁと思うことがあります。 本来マスコミというのは良い事でも悪い事でも正しくたくさんの人に伝えるのが仕事なのに人の過去を明かしたりして面白おかしく書き立てる。 それで誰かが傷つく事も考えずにどんどん煽っていく。 亡くなられた人の家族は本当につらい思いをしているのに…。でも、私がこうして書くという事はそういうテレビや雑誌を見て思ったわけだから、 そういう自分も嫌になる時がある。 私のような人がたくさんいる訳でマスコミはますますエスカレートしていく、そんな情景が浮かびました。 (西陵中二年生)

藤   川     彩
傷つけぬ言葉を選びするうちに声の勢いだけで負けゆく(金木犀)
 これは、私にもある。ケンカしてそれでも相手を気遣って、なるべく傷つけないように、こっちはするのに、相手は気づかずに、怒ってひどいことを言ったりする。それってあんまりだ。相手に気遣った自分がバカみたいだと思ったこともある。それなのに、また相手を気遣ってしまう自分を実は優しいのではないのかと自惚れてみたり…。この歌を見ただけで、こんなことが思い浮かんできました。 (西陵中一年生)

宮  田   貴  之
大地震ここより起こりしより四年船にて明石大橋くぐる(冬菊号) 今からでいうと五年前だが、 確かにそこはあの阪神淡路大震災の震源地だった所だ。あの頃の自分はまだ小学二年生。その時初めて自然の恐ろしさを知った。
しかしまだ大阪だったからよかったのだ。神戸なんて家やビルがつぶれて、高速道路はなぎ倒されて…。
そんな大地震の後、わずか四年であんな大きな吊り橋が出来た。自分も一度通ったことはあった。その時、地震のことを思い出した。橋の下を通って自分と同じようなことを川添先生も感じたんだと思った。 (西陵中一年生)

北   川    貴   嗣
順番に常にどこかで罪犯す人あり決める神もあるらし (燃流氷)
 この歌は、 授業の中で先生の話されていることでもあり、抵抗もなくすんなり理解出来た。毎日の新聞を見ていると必ず犯罪等の記事が載っている。殺人、窃盗、強盗などなど、毎日なければいけないように…。しかし、そんな小さなことに気づく人は少ないだろう。たとえ目にしたとしても、ふーん怖いことだなぁとしか思っていないだろう。しかし、いつ自分がそんな羽目に出会うかは予知不能なのだ。いつ罪犯の神のお告げが下るか分からない。この世の中を生きていく限りは…。     (西陵中一年生)
ともあれ希望だけは失わず精進していきたいものです。

大   西    琴   未
人のため殺されてゆく生き物の形に冬の雲渡り行く (燃流氷)
 この一首はなんとなく分かるような気がします。雲はいろんな形をしていて、たまに変わった形をしているのを見つけ、「〇〇に似てる」などと何げなく言っていました。動物ばっかりに見える雲やお化けみたいに見える雲などいろいろありました。でも、その雲を先生は、人のため殺されてゆく生き物と表現している所がすごいと思いました。そう言われて見ると雲は、本当に生き物たちの集まりみたいに思えてきました。
人のためという所で先生の生き物への思いが込められているような気がしました。 (西陵中一年生)

井  之  上    汐  里
転ぶのはコンクリートの上だから今の子あまり練習できない
今は昔に比べ、街ではコンクリートの所が増えている。《失敗は成功の元》とはいうが、コンクリート上でサッカーなどの練習をして転んだりするとケガや骨折をしてしまう。そうなったら大変だから、大人がそういう所では遊ばせないだろう。砂の上では何度失敗してもすぐ起き上がれるけど、コンクリート上ではそうはいかない。これからコンクリートの所がもっと増えてしまうと子供は外で遊べなくなってしまうのではないだろうか。そんなことまで考えてしまった一首だ。 (西陵中一年生)
今は公園ですら遊ぶ環境ではなくなってしまったようだ。

武  田   祐  樹
青々と地球優しく映りしを娘がリモコンで一瞬に消す(金木犀)
 この一首は、一番分かりやすくて面白かったけど、逆に一番恐かったです。テレビは消しても、又つければ元に戻ります。でも現実に一瞬で地球を消す爆弾を起爆させるリモコンがあって、もし押してしまったら、それで終わりです。テレビの画面のように元には戻りません。たとえ一瞬で消さなくても、形はあっても、環境問題がこのまま解決しなかったら青々とした地球はなくなります。だから、兵器の開発や環境に悪い影響を与えるものを作らないよう、この短歌でぼくはそうしていきたいと思いました。
(西陵中一年生)