私の選ぶ一首(流氷記20号掲載)

藤  本   義  一
しょうがないやむを得ないの人達の死の有り様がテレビに映る
今回はテレビの文字が多かったのですが、右のものに気持が複雑に揺らぎました。しょうがないやむを得ない人達という表現が冷たく凍りついたのです。戦争でしょうか、飢餓でしょうか、それとも俗っぽい殺人でしょうか。それともテレビが報じる死の報道の軽さを衝き、テレビの浅薄さへの嘲笑でしょうか。『死』だけに考えてしまいます。『罪』ならよく理解出来るのですが。テレビ創生期からかかわっていた者として、 理解に苦しむのです。(作 家)

高 野 斗 志 美
海に背を向けことごとく船並ぶ流氷原には影一つなし (新緑号)
清澄な感性によって結ばれたイメージがあって、そこに惹かれました。たぶん、ここには、なにものかに対する拒否がある。その強さがある。そして、拒否の孤独に抗するときに、新しい境界があらわれ、まだ名付けられていない無名の世界が見えてくるといえましょう。敍景と心象がバランスをとって対応しあい、あるひとつの決意みたいなものを感知させる。ぼくは、主観が露出して威張っているような言葉の体系を信じない。そういう言説にはあきあきしている。だから、この一首のような過剰さを切り落とした表現が好きです。 (三浦綾子記念文学館館長)

三  浦   光  世
我に祖母一人も亡くてやわらかき百歳中川イセの肩抱く(新緑号) 百歳の老婦人の肩の感触が、そのまま伝わってくるような、あたたかい作品。実の祖母は既に一人もいないという言葉が、下句をいっそう引立てているのであろう。何代にもわたって受け継がれてきた自分、その命の不思議さ、尊さを思い起こさせる一首と感じた。年々頭の回転が鈍くなってきていることもあり、このように順直に胸に沁みこんでくる作品が、私には特に心惹かれるようになった。凍死などしているなかれ夜をこめて家での生徒捜しつつおり (断片集)極めて普通の言葉で表現しながら、胸に沁み通ってくるこのような作品に、私はやはり惹かれる。初句で冬期ということがすっと入ってくるし、三句で時間の経過が無理なく伝わってくる。が、こうした作品はやはり地味だということになるのだろうか。氷海に立つ断崖よりオジロワシ音もなく海すれすれに飛ぶ (断片集)この雄大な情景描写にも注目させられた。 二句までの力が凄い。 三句から下句へかけての配置がまたいい。

加  藤   多  一
親しげに近づいては陰口捜すこの鼻糞のような人達 (新緑号)
短歌としては品がない││という評を当然考えたに違いない。その上で発表する作者の精神に励まされます。美辞と追從と形だけの權威に汚染されているのは政治や企業や社交の世界だけでなく、最もそれらから遠いはずの「詩歌の社交界」にも十分すぎるほど行き渡っています。詠嘆あるいは短歌的抒情の裏には制度としての言語があることを、中学生・高校生の短歌愛好者には感じとってもらいたくて、リクツを書いてしまいました。つい追從笑いをしてしまう私ですが。(オホーツク文学館長・児童文学者)

菊  地   慶  一
真っ白な歯と歯の軋む音のして神のみ渡る流氷原あり (新緑号)
三十年も流氷に執着して、残したものは「流氷鳴り」という言葉一つかも知れぬが、それでいい。神というものが声を上げるなら、流氷の軋む音、 流氷鳴りがそれかも知れない。 この冬、 北浜海岸で聴いた流氷鳴りの清澄なひびきは、 身震いするほど美しいものだった。 海の呼吸、生命の叫びであるのだが、作者のいう神のみ渡る流氷原に現出したものだった。 この神は下品でインチキな奴等の口にする神ではない。自然の前に思わず頭を垂れ、己を恥じる時に現われる何物かを、とりあえず神と呼ぶ。 ( 作 家 )

深  尾   道  典
ブランコの半ばまで雪積もりいる公園は鳥安らうところ(新緑号) 雪が積もり、日頃とは違う姿を示している公園の様子を定着された一首に接し、心なごむ思いをしています。確かに、川添さんの歌に接すると心がのびやかになります。
斜里岳の雪の形を見て決める種蒔き時あり土ほぐれゆく」(春香号)も好きな一首です。 この歌を思い出すと、わたしの住む東近江でも、「合歓の花が咲くと小豆の種を蒔きますのや」と教えられた時のことが甦ってきます。 (シナリオ作家・映画監督)

中  平   ま  み
小便といえども雪を溶かしいる命の水かいとおしく見ゆ(渡氷原) 父(映画監督・中平康)の亡くなった歳までもうあと六年 │毎日「ああ、いつか必ず死ぬんだ」と思っています。 愛犬ドン子丼(柴犬三代目)の散歩で、彼女がお叱呼をして呉れると「よかったよかった」と殆ど親心が生じてくる。 犬についても同じで、立派に生きているが故の作用ですものね。 日本人関口宏久米宏まず疑いをここに置くべし(新緑号)この一首を拝見しびっくりしました。―私も無意識に感じていた事を的確に容赦なく(下手な政治・文明批評よりも)云い当てているからです。 私は自分をマイノリティ、少数派と思ってそれに耐え、その事を覚悟してはいますが、同好の士、意を同じくする人に会うと、それは嬉しいです。 (作 家)

松  坂     弘
安心と力の威力試すため人殺しつつ銃あふれゆく (新緑号)
海の向こうも、こちらも、銃やナイフによる殺人が急増している。「人を殺す経験がしたかった。」 と平然として言う少年。 経験すべきことと、してはならないことの差異を分別出来ない少年たちが増えているのだろうか。右の歌は、直接的には現代アメリカ社会を批判しているが、かえす刀は当然、現代日本社会を批判しているのである。 (『炸』主宰)

小   島    ゆ  か  り
生徒にも土にも光が沁みわたりたばしる足の回転が見ゆ(断片集) 学校時代の、独特の土と光の匂いがする。明るくエネルギッシュで、切なく孤独なあの時間の風景が見える。 ( 『コスモス』 )

川   口      玄
愛想の悪き小さな古書店の主も夏も逝きてしまえり(断片集)
八月十五日は関西のお盆で、 今でも盆踊りがあちこちで催される。盆踊りがすむと何だか夜闇の通行人も急に減って、いよいよ夏が逝ってしまった気がして、 子供の頃からいつも淋しいような惜しいような気になった。愛想の悪い小さな古書店のオヤジも、確かに見なくなったような―錯覚ではあるが、 実際に自分もそういう体験をしたような気がする。考えてみると、この歌は過ぎてゆく時間へと淋しさや恐れをうまく表現した大きな大きな詩のように思える。 (『大阪春秋』 編集長)

神  野   茂  樹
親しげに近づいては陰口捜すこの鼻糞のような人達 (新緑号)
次に選んだのが てきぱきと何を処理して改札機我が許されて扉が開く でした。 おかしかったので選びました。 寒川猫町の文語調の随筆が面白く、読んでいますが、彼の師は山本夏彦という。なる程、夏彦のなら毎号の文藝春秋で読んでいる。 と言う訳でというか、面白いのが好きなのです。 (『大阪春秋』 編集)

佐  藤   昌  明
筆無精とは明らかに違うもの無視という気を感じておりぬ (断片集)『貰った便りには必ず返事を出す、貰わなくても出す』 というのが私の流儀のつもりだったのですが、川添さんの、この手作り小刊本から出る後光に、すっかり気後れしてしまって、寄稿が遅れてしまったことをお詫びします。そして、私のために『無視』という語句の代わりに『気後れ』と入れ替えてほしいと哀願したいほどの気持ちです。「和歌はワカらない」などと、不遜にもシャレのめしていた私ですが、川添さんの細やかで鋭い観察眼と、切り込んでくるような強さをもった歌を読ませてもらって、 和歌の原点がホノ見えてきたように思います。ありがとうございました。
オホーツク・知床秘話 『北に生きて』 著者

鈴  木   悠  斎
こんなにも憑かれて夜の桜花踊りあかそう人の見ぬ間を(新緑号) 四月は花の月。日本中が桜の花に酔いしれます。いにしえの業平や西行ならずとも桜は現代の日本人の心の奥底にも確かに根付いているようです。花の下で酔うもよし。歌うもよし。 そして踊ればなおいいでしょう。 この歌はどことなく古今集や新古今集の世界のようでもあり、おとぎ噺の幻想のようでもあり、はたまた我々日常の意識の下にひそむ願望のようでもあります。これまで私は川添氏の悲しみや怒りの歌を取り上げてきましたが、 このようなとらわれのない楽しい歌にも心ひかれるものがあります。

里  見   純  世
炊飯器SLのごと蒸気吐く音して黎明うとうとといる(新緑号) 冒頭の一首に心を惹かれました。日常生活の中の見落としがちな一部分を採り上げてさりげなく詠っているところが良いと思います。炊飯器がSLのごと蒸気吐くという表現はごく当たり前の生活現象ですが、それを見逃さずに、此のように歌に詠むことは一つの発見といってよいでしょう。 中川イセさんを詠んだ歌もいいですね。地元にいながら中川さんとは直接お話ししたことはありませんが、網走の名誉市民として常日頃尊敬している一人です。先生が中川イセさんと親しいとは知りませんでした。 雪明かり青く注げる放課後の長き廊下をぎしぎしと行く(断片集) 先ず始めにこの歌が目にとまりました。 小生も長い間小学校教師を務めたことがあるので、 此の歌の気持ちがよくわかり、 古い校舎の長い廊下を歩いていく先生の姿が目の前に浮かびます。 下の句のぎしぎしという表現がとてもよく効いており、 教師生活の一端をよく現していると思います。 然もそれが上の句が雪明かり青く注げる放課後ですから尚更、 静まり返った廊下に先生の足音だけがひびいて、 教師生活の縮図を発見する思いで読ませていただきました。 (『新墾』 『潮音』 同人、網走歌人会元会長)

高  辻   郷  子
流氷をめぐりて飛べる海鳥よ曇りてあれば響きつつ鳴く(断片集) 曇天下の氷海は晴天よりも奥行きが深い。 一羽の海鳥に化身した作者の哀切極まりない思いが、 響きつつ氷海の果てへと飛ぶ。何故に、 都会派の彼が、 これ程までに北海の風物、 とりわけ流氷に執着するのであろうか。流氷の膝元、網走の我々でさえ、 流氷の歌は数少ないのである。 「卑俗限りない生身故歌だけは清澄でありたい」 十九号後記の述懐が鍵になるのか。 卑俗卑小な自己認識から創作の闘いがはじまる。 これが彼の視座だ。 そして流氷は魂を清澄にする光源だ。(『心の花』同人、 網走歌人会会長)

葛  西     操
海に消え海に生まれし流氷の叫ぶがごとく岸に迫り来 (断片集)
流氷に巨大に咲きし青き花輝きにつつ開きゆく海(断片集) 網走歌人会にいつも新風をお送り下さり嬉しく拝見しています。 網走に御在住のこと、 風の如く来て風の如く去っておしまいになられたような印象です。 抽出の歌は網走におられる時に詠まれた歌のようですが、 流氷の様子がとても良く表現されています。 流氷が押し寄せる時は魔物が叫んでいるような何ともいえぬ切迫した雰囲気があります。また、流氷が割れて真っ青な海が見えるとき美しい花が輝いているような喜びがあります。 私も流氷のことを海の魔術師と詠んだことがあります。 (網走歌人会。『原始林』 同人)

井  上   芳  枝
九十九歳老婆なれども輝きてほのかに輝く色香がありぬ(断片集) 九十九歳の中川イセさんの生きざまに感嘆しきり。「輝きてほのかに漂う色香がありぬ」何とすてきな人生でしょう。中川さんに比べ、私は少しのことでもくよくよと考え込み、意気消沈の繰り返しで、馬齢を重ねて七十三歳。六十代まではさほど老いを感じませんでしたが、七十の坂を登るのは少々しんどいことです。千崖和尚の「古人の歌」の 「淋しかる 心は曲がる 欲深ふなる くとくなる 気短になる」のような、人の嫌がる老人にならないよう、中川イセさんにあやかりたいと念じています。 (大蔵中学校時代の恩師)

小  川   輝  道
山脈のごとくにうねり盛り上がり氷塊の上に氷塊は立つ(渡氷原) 流氷を氷原の原点としてこだわってきた川添さんが、氷塊に目を向け、たくさんの作品を生み出している。間近に氷海近く、全身で向き合っている作者のひたむきさに打たれる。北の海のすさまじい自然と力を動的に、しかも視覚に訴える的確な表現だと思う。流されて追い詰められて盛り上がる氷塊我の生きざまのごと(燃流氷) 前者のような自然詠だけでなく、厳しい北の海の氷塊を眺めての自己省察、寂寥感があふれ、人間川添さんの表現となった。 船のごと網走台町潮見町夕日の浸る氷海をゆく (凍雲号) 「船のごと氷海をゆく」の表現が美事である。現地に立つ人こその着想の特異さに驚く。私の回想を書くと、かつて網走南が丘高校の新校舎を訪ねたとき、何階だったか、廊下の東端の窓からオホーツク海を見て、はるか台町崖の眼下に海が、そして海中にそそりたつように校舎が高々と立っているように思ったことが強い印象であった。それにしても「船のごと氷海をゆく」という感覚に敬服した。感覚が生み出した比喩のおおらかな表現といえようか。そして網走台町潮見町という言葉の流れに日本の歌謡の世界の表現に通じ、歌ごころの面白さがあると思った。(網走二中元教諭)

井  上   冨 美 子
近づけば近づく程に寄り添いて一つの岩となる二ツ岩 (新緑号)
私達にとって、慣れ親しんでいる網走の景観の一つの二ツ岩。本当にそうなのです。近づけば近づく程に寄り添いて、一つの岩となる二ツ岩なのです。二ツ岩を夫婦や恋人達と置き換えてみるとおもしろい。いろいろな人生模様が見えてくる。寄り添っているようでもあり、そうでもないような微妙な心の動きが、二ツ岩におし寄せる波の音と共に伝わってくる。網走の良さを再認識しています。『流氷記』に心から感謝しています。 「笑い顔持ちつつどこか醒めてゆく我を見ている自分がありぬ」とても気になる歌です。 春の土手輝く緑敷き詰めて踏めば小さな草立ち上がる(断片集)新緑の季節になるといつも思う。冬の厳寒期を乗り越えて、地中の奥でじっと貯えてきたエネルギーを、春の息吹と共に一斉に地上に送り出し、まさしく輝く緑一色にして、生き物すべてを活気づけてくれる自然の大きな力、温かい力、癒しの力に感謝して日々を過ごさなければとつくづく思うのです。 流氷の訪れるオホーツク海の春の風も同じような気持ちにさせてくれます。
(網走二中元教諭)

新  井   瑠  美
月天心墓すみずみまで照らしいて生者も死者もおおかた眠る(緑) 《生者も死者もおおかた眠る》に、作者のユニークな見方があると思った。生者はわかるが、死者は永遠の眠りについているものではないか。作者にとって、死者も夜半には眠る存在であるのかも知れぬ。寝静まった夜半の皓々たる月光のもと、作者ひとりの物思いは墓処の隅みにまで及ぶ。《にこにこと何考えて生きてんの?そんな顔してたい春の日は》《十米以内に棲みて隣人のくしゃみが所々で弾む》思わず顔の筋肉がゆるむ。折々の軽みの作が本質をついている川添氏のこれからが恐い。 (椎の木)

利  井   聡  子
マスゲーム美しされど背後にてアドルフヒトラー右手を挙げる(断片集)統制のとれた動きは美しい。 まして笛一つ、右手一つで動きの変わるマスゲームは、体操服の美しさを際立たせ、見る者を感動させる。その場にヒトラーを登場させる作者独特の鋭い感覚。暗に教育の恐さをも詠み込んで、一瞬背筋が寒くなる思いがした。 (飛聲)

田  中     栄
我に祖母一人も亡くてやわらかき百歳中川イセの肩抱く(新緑号) 作者の地声が直接伝わって来るような気がする。最初読んだ時「祖母一人も亡くて」が少し気になった。くわしく言えば父または母の母だから二人あるのが当り前、それで納得できる。 この歌「中川イセ」の固有名詞が利いている。イセさんは『オホーツク凄春記』の主人公。 本の帯に「生きることは闘うこと」とあり、「遊郭出身のハンディをのりこえて、北海道初の女性市議になった中川イセ」とある。その百歳になったイセと一体になっているのに感銘する。 (『塔』選者)

早  崎   ふ き 子
遠離り次々消ゆる車見ゆ生の証しは我が視界のみ (燃流氷)
夕暮れどきでもあろうか。 先行する車が高速道路上を次々と遠離って消えてゆく。その消点ばかりを見つめながらハンドルを握るときの奇妙な孤独感と寂寥感。車はどこに消えてゆくのか。もちろん死の側へである。我もいずれは未知の消点に消え去ることはまちがいない。その狭い視界のみが生の証しか│人間とはなにか、人生とはなにかという深刻な問いがこの瞬時の風景のなかに抽出されていて、思わず読者を立ちどまらせる。 (『玲瓏』『塔』同人)

前  田   道  夫
てきぱきと何を処理して改札機我が許されて扉が開く (新緑号) 普通、改札を通るとき、自動であれ、係員がいるときであれ、通行を許されるとか許して貰おうなどと考えたことはない。 むしろ通れるのは当たり前だと思うのが自然である。「許されて扉が開く」と言われてみると、 確かにその都度その都度許しがあって通して貰っているのだとの思いが湧いてくる。そう思うと改札口は関所のようなものでもあり、一瞬に手形の面を読み取って通行の可否を判断する機器が人格化されて役人のようにも見えてくる。雪の町夕暮れどきは人絶えて電信柱の連なりており (断片集)雪の町の夕べの景色。 人影もない通りに見えているものは電信柱だけ。 薄暗い灯りも既に点っているのであろうか。 単純化された情景だけが、 線の太い絵画のように迫ってくる。「電信柱の連なりており」も絵を奥行のあるものにしていると思う。雪国への想いをいろいろと掻き立ててくれる詩情ある作品である。「雪の町夕暮れどきは」は調子の上でも「ゆ」の音が効果を挙げていて、快い響きとなっている。 『塔』同人

榎  本  久  一
咲き盛る束の間過ぎて所在無く風に一ひら花びらが舞う(新緑号) ありふれたことを当たり前に歌っているようで通り過ぎそうだが、「所在無く」の意味の受け方で、一首が印象深くなった。 事実は一本の樹でこれから咲く処と散る処などあって、 上句の捉え方は至難のように思われるが、 微妙な処を言い得ていると思われる。友則の歌を思い起こすのは深読みだろうか。
立派さを言葉や動作の端々に込めて教師の擬態がつづく(渡氷原) ふと、もう四十年以前、肺結核で入院していた私に俳句の手ほどきを朝夕にして呉れた同室の中学教師を思い出す。この教師は、常々私にこの一首と同じことを告白していた。そして私の受けた印象は、この告白と裏腹で私の詩歌の師として亡きあと十幾年心の奥にある。具体例があればと思うあとから、この歌い方も良いではないかとかたむく歌だ。 (『塔』)同人

東   口     誠
黎明の意識かすかに聞こえくる桜の花びら叩く雨音 (断片集)
桜の花びらに降る雨の音が、 実際に耳に聞こえてくるものなのかどうか。 夜明け方の意識にはかすかに聞こえてくるというのである。 そうかもしれない、いやきっと聞こえるのだろうな、と不思議にリアリティをもった作品だと思われてくる。 こまやかな日常の心的風景を歌った作品が、歌壇には少なくなったと思う。 「黎明の意識」という歌い出しがやや重くは感じられるが、しみじみと心に沁みてくる歌である。桜に降る雨をこのように歌った人が過去にあったのだろうか。 (『塔』)同人

三   谷   美 代 子
流氷と海の境に群るる鳥生競うがに声高く鳴く(新緑号) 私は小さな生物に心を動かされることが多いせいか、鳥の歌などにはつい目がとまってしまう。流氷の海に群れ飛んでいるのは何鳥だろう。新緑号の中に登場する鳥は、オジロワシ、海鵜である。早速野鳥大鑑を繰ってみる。千島鵜鴉、蝦夷雷鳥、善知鳥(ウトウ)など、北海道で冬を越す鳥の餌となる小魚が居るのだろうか。「生競うがに」声高く鳴き交わしている彼等の姿は、雄々しく、瑞々しく、厳冬を共に越す同志として目に写ることだろう。 (『塔』)同人
鬼  頭    昭  二
流氷と海の境に群るる鳥生競うがに声高く鳴く(新緑号) 意味が先行しない歌として選んだ。私にはなじみのない光景で魅力的である。茫洋と広がる静寂、無彩色の空間の中で鳥の声のみが今在ることを示している。作者の心の世界につながっているのであろう。「生競うがに」は「生を競いて」と言い切りたい。 ( 『五十番地』)

甲  田   一  彦
集会に座りし生徒見下ろして教師がのたりのたりと歩く(新緑号)言うまでもなく、中学教師としての職場詠である。全校集会とか、朝の会とかであろう。場所は体育館か運動場であろう。生徒は、床か土の上に尻をおろしているのである。これが最も手っ取り早い管理の仕方であるから、新制中学発足以来の生徒集会の型になったようである。教師たちは「生徒を見下ろして」列の間を「のたりのたりと歩く」のである。川添先生の気持ちが痛いほどわかりついこれを書きました。山桜しきり散りつつ雷の光るとき時止まる花びら(断片集) 年々歳々の桜を見ていても、 それを歌に詠むことは、難中の難だと思ったりします。作者のこの一首は、 そんな常識を一蹴する見事な作品だと思いました。 落下する花びらが、 一瞬の雷光に浮き出て止まっているように見えたのです。 その当たり前を捉えて余すところのない一首とした手腕に敬服させられました。第十九号の全作品が、一首一首読むものに迫ってくるようで、 作者のご精励を陰ながら祈っています。(元高槻十中校長、北摂短歌会会長、『塔』)

遠  藤   正  雄
パチンコ屋ばかり豪華に人間が同じ方見て並んで座る(新緑号) パチンコ屋は変わらぬ盛況の様子。パチンコ台と人間の対決、勝負は運か技か。フアンでない私には分からないが、その情景はテレビなどで見る事がある。「同じ方見て並んで座る」と、当り前の事を言っているのだが、 その当り前の事が仲々言えない。写実の妙。「てきぱきと何を処理して改札機我が許されて扉が開く」この歌も機械に人間が検査されて、検査が通らないと電車にも乗れない時代になった。「許されて扉が開く」│暮らしの中の一齣を巧みに捉えている。機械化が進むにつれ、人間性が薄れゆく思いが伝わってくる。 (『塔』)

塩  谷   い さ む
にこにこと何考えて生きてるの?そんな顔してたい春の日は(新) 一年のうちでほんとうにこんな日があってもいいと思うし「国民の休日」にでもしたい歌。誇張や粉飾をした歌ばかり読んでいて、こんな歌に出会うと芯からホッとする。『新緑号』に相応しく新鮮で、何回も読み返していて心から楽しくなった。長行軍の中での小休止である。遠い昔、「急いた精兵ェさん三日前に死んだ、急かん精兵ェさん金拾ろた」という歌を思い出している。月天心墓すみずみまで照らしいて生者も死者もおおかた眠る も好きな歌である。「そんな顔してたい春の日は」を「そんな顔していたい春の日」としたい。 (『塔』)

塩  谷   い さ む
神在りしこの国仏キリストも混じりて迷いのただ中にいる(渡氷) うん、うんその通りそのとおりだと頷いている。神の国日本に入り込んで来た仏教そして長い弾圧にも堪えて浸透したキリスト教、特に二千年問題の昨年から今年にかけては本来の日本は一体何所へ行って終ったのかと思われた事が多々あった。悲しい出来事と共にかつては神国日本と言われた時代を思い出す。「二人とも自分の言いたいことだけをまくし立てつつ黙らせようとす」これも納得の出来る現代風刺のよく効いた歌である。字余りのついでに「黙らせようとする」と「る」を入れたい処だが。 『塔』

塩  谷   い さ む
雪の町夕暮れどきは人絶えて電信柱の連なりており (断片集)
白皚皚見渡す限りの雪の曠野が眼前に浮かんで来る。 曠野の中に氷柱が何本も何本も逆立ちしてゐる様に電信柱が連なって見える。電信柱の尖端は国境の町である。雪の中に歩哨がぽつんと立っていた。寒暖計は零下三十度を超えていただろう。《雪の降る町を、雪の降る町を》 確かに想い出だけが通り過ぎてゆく。 悲しくて半世紀も前の国境警備の日が蘇る。 その戦のあった二十世紀は間もなく終わろうとする。この歌を読んで私は彼の日のソ満国境の風景が眼うらをよぎった。それだけ青春のかなしい思い出が残って居るのだろう。 『塔』

吉   田    健   一
とりあえずここまで生きて桜花次々開く坂上りゆく (新緑号)
日本人が一番好きな花は桜だという。 一気に咲いて数日後には一気に散ってしまうところが、 我々日本人の性向に合っているようだ。よって、桜に触発されて自分人生に思いをめぐらすということにもなる。 掲出歌もそのような中で生まれた作品。 「ここまで」というのは、作者あるいは身近な人々以外にはわからない。読者がそれぞれ自分の年齢や経歴に重ね合わせて読めばよい。「坂上りゆく」とあるので、残された人生を前向きに送ろうという気概が見えてくる。私の好きな一首である。 『塔』

平  野   文  子
真っ赤な日沈み切るまで氷塊の上にて我も氷塊となる(断片集) 何というスケールの大きな、そして透徹した世界でしょうか。それでいて体の心底より迸り出る清々しいまでの真実が端的に詠まれて、とても個性的な一首だと思います。私も一度は行ってみたいと思っていた網走の流氷が切ないまでに迫って来て、 心から感動しました。一見粗々しいデッサンのような構成の中に、作者の繊細な感性がキラリと光って、 まだ見ぬ流氷に引き寄せられるようでした。真っ赤な夕日と対照的な氷塊、結句「氷塊となる」は作者の願望も込められているような、そんな余情が漂います。 (北摂短歌会。『かぐのみ』)

若  田  奈 緒 子
訳もなく憂いに浸りにふらふらと夜の桜の坂下りゆく (新緑号)
私は昼間の桜よりも夜の桜の方が好きだ。 オレンジ色の光にライトアップされた桜は昼間の桜とは違って美しさの中に不気味さが混ざるからだ。 昔の人は月明かりで夜の桜を見ていたというから今以上に神秘的だったと思う。桜はそんな二面性で昔から日本人を魅了させてきたのかもしれない。訳もなくふらふらと…というところは、桜が大好きな先生の気持ちが意識せずに表れているように思えた。この歌は共感できるし、 とても日本人独特の桜に対する想いが込められているようで気に入った。 ゆっくりと町も天へと昇りゆく雪の静寂に坂上るとき (新緑号)この歌を読んだ後、歌の光景が自然と目に広がっていった。そしてとてつもなくきれいな歌だと思った。雪に焦点を合わせるのではなく、自分の立っている世界に焦点を合わせると、上から落ちてくる雪の効果で町が上昇してゆくふうに見えるのだと解釈した。先生の繊細な感覚にとても感動した。 そしてこの歌には土地を表す言葉など使われていないのに、 私には先生が北海道での情景を読んだ歌だと思わずにはいられなかった。 静かで真っ白な雪の世界に私もぜひ行ってみたい。 ミツバチとテントウ虫見ゆノイバラの中忙しき短き命(麦風号)ミツバチって言われてみれば、いつも忙しそうに、花の周りとかを飛び回っている気がする。テントウ虫なんか、体はあんなに小さいのに、ちゃんと模様もあってすごいと思う。地球や宇宙の事を考えると、人の一生はとても短くはかないけれど、虫はもっとはかない。 そんな短い一生の中で、誰に教えられたわけでもないのに、空を飛んで、忙しいほど働いて…この歌を読んで、いつもはキライな虫も、少し偉く思うことができました。 (西陵中三年生)

高  田  暢  子
曇より青空少し見えてきて楽しく心変わりゆくらし(凍雲号) この歌をよんですぐに真っ青な空が、 頭の中に浮かんできました。やっぱり空っていうのは心を表すのと同じで、空がくもってたり、雨が降っているとなんとなく心まで沈んでしまうけど、 真っ青に空が晴れてると、小学校の頃の運動会や遠足を思い出せたりします。 だからこの歌での、心の動きなどはすごく良くわかるし、歌にも共感できたと思います。ゆっくりと町も天へと昇りゆく雪の静寂に坂上るとき (新緑号) 『雪』というのは、雨や普通の晴れの日と違って、降ることによって不思議な空間が造り出されるような気がします。それは昼間私たち生き物が活動しているときには存在せず、夜の静寂の世界が生まれる時、雪が降ることによって、町が天に引き寄せられ昇っていくような……とても不思議な感覚なのだと思います。孤独の中に自分がいるようだけど、何か孤独を溶かすかのように包み込んでくれそうなそんな気がします。私はまだこのような体験をしたことがないので、この歌がとても新鮮で、想像力をかきたてられる歌だと思いました。 (西陵中三年生)

中  村   佳 奈 恵
人の好い生徒がいつも引っ掛かる問題少しひねって作れば(燃氷) 私も今回の国語のテストで泣かされたうちの一人だ。文章というものは、一人一人の感性によって受け取り方がさまざまなので、問題に対する答えが数学のように一つではないからとても恐ろしい。今までに先生は、私も含めてこういう生徒イコール人の好い生徒がたくさんいたので、採点するのに悩まれたことだと思う。それが歌になっていたのを発見して、とてもうれしかった。問題自体ひねるのはよいのだが、問いの表現は、誰が読んでも理解できるものにしてほしいものだ。 (西陵中三年生)

清  原   真  理
死体より骨となるまで呆気なく儀式に人はたそがれてゆく(渡氷) この一首は私も祖父のお葬式に出たことがあったので、実感がわきました。 けれど、 その時は不思議に実感がわかず、 死んでしまったと聞いた時ほど涙も出ませんでした。 ただただ呆然とするばかりで、 そんな状態のままお葬式は済み、 祖父の死体は骨へとなってしまいました。 ……私に、本当にお葬式というのは、呆気なく過ぎてゆくものだなぁと改めて感じさせてくれる、そんな一首でした。 (西陵中三年生)

四 方  真 理 子
花びらとなるため土や水たちの無数の出会いの上歩みゆく(新緑) 私はこの一首を読んだとき、大切なことに気づかされました。美しい花は、小さな生き物たちが一生懸命になって、作り上げた努力の結晶だということを、この歌から学びました。小さな命にもたくさんの出会いがあり、別れもあって、私たちと同じ「心」をもって生きていることを忘れずにいたいです。地球という一個の原子が一瞬にして幻となりて消えゆく(金木犀) 地球は、私にとってはすごく大きいものだけど、宇宙規模で考えれば、ほんのわずかではかないものだから、「幻となりて消えゆく」ことが、今にも起こりそうだと思いました。 私たち人間は、戦争や核実験を繰り返し、 たくさんの尊い命を奪い続けているのにもかかわらず、 生き物を大切に育て守ってくれた地球までもを幻に変えてしまおうとしています。 このことを考え地球に優しい環境を作り上げていくことが、私にとっての地球への感謝の気持ちです。 (西陵中三年生)

小 野 二 奈
地球という一個の原子が一瞬にして幻となりて消えゆく(金木犀) 私は、三年生になって川添先生の国語を受けるまで、俳句や短歌に親しみがあまりありませんでした。 でも、 俳句や短歌の楽しさ「自分の世界」を作ることのできる力を知って、 少しずつ好きになりました。この歌も「私の世界」の一つになりました。地球は、人間と生物が共存する唯一の星です。 それを私達はもう一度考え直さなければならないと思いました。例えば、人間が森林を伐採したので絶滅した動物も数多くいます。この歌一つから、訴えている内容は、私達人間に対する「警告かな」と思いました。地平のなお果てまで船の影もなく流氷原を日が嘗めてゆく (新緑号)私の小学校六年生の担任の先生はとてもおもしろい先生でした。 初めて聞いた話は、北海道で熊と出会った話、流氷の上に乗ったことなど普通じゃない話ばかりでした。 おもしろい話ばかりでなく、環境、自然についても話をしてくれるいい先生だったなぁと思い出しました。 北海道には、たくさんの珍しい植物、動物がいると聞きました。流氷もその一つで、海一面に白いものがある風景│私だったら本当にびっくりすると思います。北海道には、冬に行ったことがないので、いつか行ってみたいなと思います。たてがみのように針葉樹の並ぶ雪山見つつ人暮らしゆく(渡氷原) この歌から、自然の美しさと、その中で共に生活する人の苦しさが想像されました。 私はずっと、この茨木に住んでいて、本当の自然を実感したことはありません。 この前、テレビで「これから先も残しておきたい大阪の風景」という番組がありました。 その時、木がすごくきれいでびっくりしました。 絵では表現できない「緑」でした。 こんな風景が「大阪にもあるんだなぁ」と本当に感心しました。自然と共に生活するのは大変だけど、私は緑の木、青い海、誰にも表現できない風景が好きです。和やかに話しかけ来る生徒増え卒業まであと二十日となりぬ (断片集)私は、三年生になってから時間が経つのをとても速く感じます。クラス替え・修学旅行とどんどん行事をしながらクラスのみんなと仲良くなれたような気がします。三年生は、受験というイメージが一番に思いつくけれど、私はその中で友達が支えてくれたり…と、日々お互いを分かり合えるような気がします。「卒業式なんてまだまだ」と思っていてもあっという間に来てしまうのかもしれないなと思いました。高校は、小学校の「卒業」とは違い、みんながそれぞれの方向へ旅立ってしまうから、少し寂しいような気が今でもします。 (西陵中三年生)

曽  我   あ ず さ
咲き盛る束の間過ぎて所在無く風に一ひら花びらが舞う(新緑号) 満開の桜が、風に吹かれるたびにその花びらを落とし、一日一日その姿を葉桜へと変える頃、この歌の情景が目に浮かぶようです。私も風情のある花吹雪が好きなので、 この歌を真っ先に選びました。 満開の華やかさの後で、 「所在無く風に一ひら」という何ともいえないはかなさ、寂しさが感じられ、心魅かれるものがありました。 来年の春には、先生の歌を思い出しながら、桜の花を見たいと思います。 (西陵中三年生)

岡  田   梨  加
カラオケのキーの違いで戸惑いの心合わさぬままに終わりぬ (新緑号)この歌を読んだ時とてもおもしろいなぁと思いました。 誰でも一度は経験したことがあるような日常的なことで、 その時は何となく過ぎていくけれど、こうして歌にして読んでみると、カラオケに行った時の自分が思い浮かびました。こんな、よくあることを率直に歌にした所が私は好きです。この歌を読んでいると毎日、何となく過ぎていくことや当たり前と思っていることも、何か、面白みがあると感じるようになりました。 (西陵中三年生)

吉  澤   未  来
何カッコつけて使うななどというかなしい時はかなしと歌え(金木犀) 自分の気持ちに正直になることはとても大事だと思います。少し前先生に、『素顔同盟』(すやまたけし)という話を習いました。その話にもありましたが、自分の気持ちを抑え付けたままでは息が詰まってしまいます。 人と共存していく上では悔しくても何も言えなかったりすることもあると思います。 悲しくても伝えることが出来ない時もあるかもしれません。 でも無理をし過ぎずに正直に生きていることも必要だと思います。 そうすれば「キレる」人も少なくなるような気がします。 空ありて雲ありてかく単純に景色は人を和ませている (渡氷原)私はこの歌を読んで、「ああなんて自然は偉大なんだろう、なんてすごいんだろう。」と改めて思いました。今の時代、人々のためにたくさんの製品が出来たりいろいろな実験を繰り返しています。でも、そんなことはいらないのかもしれません。空を見るだけで、自然があるだれで心を和ませる事が出来ます。私たちはもっと自然を、地球を見つめていくことが大事なんじゃないかなぁと考えさせられました。 歩むたび次々桜開きゆく空の青さも輝きを増す(新緑号)私がこの歌集を読んだのは、ちょうどテスト勉強の最中でした。気分転換に読んだこの歌にとても魅かれました。小さいころ、桜の木の下から空を見上げた時の感動を今でも覚えています。花びらに反射して光る日の光、透き通るような青空。そんないつかの日を思い出されるような歌でした。歌を読みながら昔のことが思い出されたり、情景を考えられるということは、とてもすごいことだと思います。これからもこういう歌をもっと読みたいと思います。
(西陵中三年生)

小  西   玲  子
夢の中一筋の道流氷の彼方まで振り返らず歩く (新緑号) 私はこの歌を読んだとき、 まっすぐな歌だと感じました。 本当に自分の好きなことを見つけて、夢に向かって振り返らず歩いて行く人は素敵だと思います。私はまだたまに自分の夢が分からなくなるときがあるので、とてもこの歌に心を打たれました。でも、必ず自分で一筋の道を見つけようと思います。中学三年生になって、初めて先生の授業やお話しが聞けるのでとてもうれしいです。 (西陵中三年生)

山  口   真  実
ゆっくりと沈みゆく日よ今日もまたあらゆる所に人の死がある(燃流氷)私は、この一首を見たときドキッとしました。自分たちが何げなく過ごしている毎日の中でもどこかで人が死んでいる。とても怖くて恐ろしいことなんだけど、何となく人が死んでいるという実感は、あまりないです。周りが楽しくて忙しくてというのもあると思いますけど。身近に起こる死は、とても怖いです。生き物は必ず死ぬんだということを見せられるようで。でも、反対に生命が今日のどこかで生まれてもいるんですよね。そう思うと、少しは怖くなくなったような気がしました。 (西陵中三年生)

福   島    悠  子
人とも自分の言いたいことだけをまくし立てつつ黙らせようとす(渡氷原)私は、この一首は、日常の中でもありそうな気がして、自分の生活を見直す機会となった一首でした。 自分の事だけを考えてしまい、他の人の事を考えないような、そんな人間にはなりたくないと思いました。自分の意見を尊重するだけではなく、自分の周りの人の意見も尊重出来るような人になりたいです。(西陵中三年生)

大  谷   紗  千
空ありて雲ありてかく単純に景色は人を和ませている (渡氷原) この一首は、本当にそのとおりだと思います。
私は晴れた日に時々ボーッと空を眺めるくせがあります。その時に見る空は、どんな時でもいい景色だなぁと思います。この歌にもあるように、どんなに単純な形に雲が形作っていても、私たちにはとても美しい絵のように見えます。雲を眺めながら、「あっ、
あの雲はウサギだ。」 「そっちの雲はソフトクリームに見える。」といろいろな形に似せながら眺めるのはとても楽しいです。そんなところが人の心を和ませていると思います。かくまでに尖りし心も少しずつ金木犀の香にほぐれゆく(金木犀) この歌を読んで、私も同じ気持ちになると思いました。私は毎年金木犀の花びらが開き甘い香りが漂いはじめると、少しだけビンに詰めて手元に置いています。それは、この花の甘い香りが大好きだからです。金木犀は、苛立った心を静めてくれます。それに、小さくてかわいらしいオレンジ色の花びらを見ているだけでうれしくなります。私は、金木犀のそういうところがほんわかしていていいと思いました。 (西陵中三年生)

井   口      泰
退屈な市民に媚びてマスコミは殺人事件起こるのが好き(燃流氷)この一首に自分は人間のいやらしさを見た気がします。何かないかといつも何かを探している市民、 受けるスクープはないかなぁと探しているマスコミ、 この二者に共通なのが殺人事件なんですね。市民は「殺したのはどんな奴で歳はいくつだ」と思い、マスコミは「いろんな情報をもっと流して興奮させろ」と。そういうことがこの一首に全て含まれていると思います。でも、こういういやらしさを持つから人は人なんだと思います。 こういうことを思えるようになったのは川添先生のおかげです。 (西陵中三年生)

藤    川     彩
空晴れているのに予報は傘マーク並びてデタラ雨だと笑う(秋沁) 私も、こんな体験をしたことがある。私はその時小さかったので「天気予報まちがってる!ウソツキ!」と言って騒いでいた。今思うと、何がそんなに楽しかったのかわからない。でも、天気予報が間違っているというのはめずらしいことでもあるなぁ、と最近考えた。この一首は、そんなところに目をつけ、何げなくシャレも入っている、おもしろい短歌です。雲海の上澄みわたる空ありて死の向こうには苦しみもなし(蝉響) これを見て、私の頭の中にきれいに澄みわたる空がひろがった。そのあと、死んだら苦しくないんだなあといいうことを考えた。しかし、死んだら楽しいことや、うれしいことさえないということを思い出した。やはり、死ぬのはいやだなーと思った。(西陵二年生)

阪  本    麻  子
死後もまた生きて行くべく書棚には三浦綾子の分身が見ゆ(秋沁) 先日テレビで三浦綾子さんの特集を見ました。『氷点』を読み自殺した人まで出たのにあきらめず、「人に生きる勇気をあたえる作品を書く」と決心したのには、とても感動しました。私は手塚治虫さんの大フアンですが、テーマ『生きる勇気』という共通点を見つけてとてもうれしいです。その『生きる勇気』が今、三浦綾子さんの『分身』となって作品として残っているのだと思います。私はまだ『氷点』と『塩狩峠』しか読んでいませんが、 確かに『生きる勇気』を与えてくれる本でした。 三浦綾子さんは亡くなられたけれど、その意志はきっと生き続けると思います。人に生きる勇気を与えるということはすばらしいことだと感じました。(西陵中二年生)

大   西    琴   未
飛行機で飛ぶたび気づく日常のなべては雲の下の出来事(渡氷原) この一首を見たとき「そう言われてみればそうだな」と思いました。私は飛行機に小さいころ乗っただけだけど、もし今乗ってもそういうことは気づかないと思います。それにいつも地面の上で普通に過ごしていて、空があってと思っているけれど、空から見ればただの雲の下の出来事にしか過ぎないんじゃないかと思います。先生は、いつも普段何事もなく過ぎていく中でいろんな方向からおもしろく見て考えられるので、とても感心します。そんなふうに考えたら毎日楽しいと思います。 (西陵中二年生)

宮   脇      彩
いにしえ人愛でいし花か我が前に今の命の萩咲きにけり(秋沁号) この歌にも出ているように、萩の花は古くより秋の七草として親しまれている。時代が進むにつれて古くからの季節感が少しずつ薄れていっているように思う。しかし、花は時代が進もうと、この一首のように、今の命を持ちながら、その色香を伝えてくれている。今までは花を見ても、「ああ、綺麗な花だ。」ぐらいにしか思わなかったが、花には花の長い歴史があるという事に、この歌で気付いた。これからは、いにしえ人が愛でた花の色香をしっかり見つめたいと思う。 (西陵中二年生)

宮  本  有  希
文化祭するたびゴミが増えてゆく人の傲りを文化というか(秋沁) 初めての文化祭。 みんなで協力して作った作品はどれも素晴らしいものでした。 でも、文化祭が終わって後片付けをしていたら、えっ、これ全部ゴミ?と思うほどゴミが出ていました。段ボールなどの紙は木から出来ています。 今日の文化祭でどれくらいの木が切り倒されたのかなぁと、ふと思いました。このまま無駄に木材を使っていったら私たちの周りに生えている木もあっという間に消えていってしまうかもしれません。だから、少しの人だけではなく、多くの人が自然を保護しないといけないのだと思ってほしいものです。 風もなく晴れた真昼間黄イチョウの一葉が枝より飛ぶように落つ 小さいとき、お父さんに手を引かれて行った公園。青く澄んだ空の下には、ほとんど葉が散ってしまったイチョウの葉が一枚一枚はらはらと落ちてゆく場面を見て、きれいだなあと思う時もありました。今は少し忙しくてそう思える場面を見ることが少なくなっています。そんな場面を見ることのできた小さな頃の私が、今となっては少しうらやましいことに思えます。(西陵中二年生)
北   川    貴   嗣
葉にしがみつきてくるくる回りいる水滴地球のごとき輝き(凍雲) ぼくは、この歌を読んだ時、地球の環境問題のことが気になりました。水滴のようにきれいに輝く地球が今、汚されつつあるのです。この問題は地球に住む我ら人間全部が気をつけなければなりません。水滴のようにきれいな地球を保てるように、という願いが込められている歌だと思います。アイヌより何より人の基本にて無闇に殺生して欲しくない(凍雲) この歌には、多くの人が同意の旗を挙げると思います。ぼくは、今までアイヌ民族といえば、北海道の先住民としか思っていませんでした。しかし、学校で学んでいくうちに、その気持ちは変わりました。そのて今は、ぼくたち和人がアイヌ文化を壊すことのないように、見守らなければならないと思うようになりました。そのような気持ちを伝えてくれるような歌だと思います。果てしなく澄む青空に雲の群れ白く輝き凍りつつ行く (凍雲号) この歌を読んだとき、ぼくはあの大雪の日のことを思い出しました。暖冬、暖冬といいながらも、結局派手に降ってくれたあの大雪です。あの日の朝の雲は、この歌と同様、凍りついたみたいでした。外気をピーンと張り詰めていました。そこを「雲が凍りついている」と発想したところはさすが先生と思いました。(西陵中二年生)

野  村   充  子
あの鳥のようには飛べぬ流氷を伝いて君に逢いに行くべし(凍雲号)「人間は鳥のように翼はないが、相手に対する想いがあれば、きっと何だって出来る」と私は思っています。それと相手を信じるということも私はとても大切だと思いました。鳥のように私にも翼があれば…この歌は想いが詰まった歌で大好きです。今はただ神のみ渡る氷原が天との境もなく広がりぬ(新緑号)「神のみ渡る氷原」とありますが、この一言からいろいろな風景が想像できますが、私の想像した風景とは、見る限り純白の地平線が続き、空は、氷の破片が霧のごとく散らばって、とても美しいものです。この一首は、言葉の一言一言がとても美しく、私の心を落ち着かせてくれました。土となり肥やしとなりて安らかに蟋蟀の死が転がっている(金木犀) 私は最初この歌を読んで、背筋が凍りました。興味引かれたのは「死が転がっている」という所です。きっと蟋蟀のことだから、三、四匹で鳴いていたのだろう。その死がたくさん転がって、たぶん雨に打たれしてるうちに元の土へと返っていったということ。蟋蟀は果たして安らかに帰れたのでしょうか…。一人くらい違う意見もあっていい言えば忽ち生きづらくなる(燃流氷)その通り!本当この歌通りの今の世の中…。意見、それは一人一人が持つ自分の意志。私は人の目を気にして生きていくのはイヤである。とは言いつつも実際気になるものである。人間である以外消しても消えないもの。だが、自分の意志を持ち、それを発揮するのは己自身…。生きてるうちに幾つの意志を発揮できるか、楽しみだ。地に沈むように寝床に背骨置く一日の重さがずしりと響く(金木犀)私は、一日の重さが地球に吸収され、次々と新しい一日を迎えるのだと思う。また、日々の重さが骨の髄まで達したとき人は燃え尽きるのだろう。私にとってこの歌は人生を重く感じさせるものとなった。そしてまた新しい日々が始まろうとしているのだ。傷つけぬ言葉を選びするうちに声の勢いだけで負けゆく(金木犀) この一首には私も思い当たる時が時々あります。 相手は傷つくまいと思って言った一言が、相手を傷つけてしまったり、この歌のように、相手を傷つけない言葉を選んでいるうちにポンポンと逆に言われている時の自分が、妙に情けなくなるときがあるのです。一体どうしたらよいのでしょうか?
(西陵中二年生)

根   岸     恵
白象の優しさゆえにオツベルが殺されてゆく過程をたどる(麦風) 私の日常生活の中にでも、注意していれば、この歌のようなことがよくあるのかも知れない。ある人に親切にしてあげても、結果的にその人にとってよくないこともある。一人の人にした親切が、他人の迷惑になることもある。先生は『オツベルと象』のまとめで、白象のさびしい笑いについて話してくださった。優しさが必ずしも幸福をもたらすとは限らない。人間は、優しく思いやりながらも、きびしい目でものを見ていかなければならないなと思った。教室の全員いずれいなくなるその順番は神のみぞ知る (断片集) 今、共に学校生活を送っている仲間が死んでしまうということは考えたことがなかった。生まれてくるのはめでたい。けれど、生まれたからにはみんな『死』というものがある。だれがいつ、どんなふうに死んでいくかは分からない。「今、地球上にいる全ての人が、一秒一秒死に近づいているのだ」と思うと、本当に時間というものは大切なのだと感じた。 一回きりの人生、やり直しはできない。自分を信じて、夢、希望に向かって、力強く前進していきたい。(西陵中一年生)

小  山   香  織
九九年四月八日にVサインして写りしに生徒今亡し (渡氷原) この一首を読んだ時「人はいつ死ぬか分からないな」と思った。私が笑っている時、授業を受けている時、 何人死んで、何人生命が誕生しているか。 私は、先生が作った短歌を読んで、上手く感想が書けるわけでもないが、この一首は、読んだときにすぐ感想が浮かんだ。 人は生まれてやがて死ぬ。 かなしいことだけど、 この運命には逆らえない。 (西陵中一年生)

山   口       藍
カラオケのキーの違いで戸惑いの心合わさぬままに終わりぬ (新緑号)この一首をなぜ選んだのかは……自分でもよく分かりません。だけど、一つだけ思うことがあります。それは、この歌のようにカラオケのキーの違いだけでなく、他にもいろいろな違いで戸惑いながらも心を合わさぬままに終わることがたくさんあるということです。私はこのような事がたまにあります。だから、この一首を選んだのかもしれないなあと思います。 赤とんぼ無数に群るる波の上ためらいにつつ日が沈みゆく (断片集)私がこの一首を選んだのは、 とてもきれいな歌だな〜と思ったからです。はっきりした意味はあまり分からないけど、何度もこの歌を読み直してしまいました。そして、だんだん読んでると、私もこんな赤トンボが無数に波の上を群れている光景を見てみたいな〜と思いました。いつか見れたらいいな〜。にこにこと何考えて生きてんの?そんな顔してたい春の日は (新緑号)この短歌のページを開けたとき……ふと目がこの一首にいきました。それは、最初の「にこにこと」という所に魅かれたんです。そして、この歌を何度も読み返していくと、私の日常生活の中でも、この歌のようなことを思う時があるなぁと思うようになりました。私はたまに、友達や家族などと接していて、「にこにこと何考えてんの?」と思う時があります。それに、私だってそう思われてる時もあると思うし、自分でも思う時がある…。だから私は、この一首を選びました。悔し泣きしながらピアノを弾く娘いつの間に幼年期越えしか (断片集)この歌を読んで自分に似てるな〜と思いました。 幼年期から小四ぐらいまでは、自分より上のお姉さん達を見て、私もあんなふうに弾きたいな〜と思っていました。 悔しくて泣きながら練習したこともありました。 でも、今では自分の弾きたい曲や、有名な曲なども弾けるようになりました。嫌なことがあったら、ピアノを弾いてストレスを解消することもあります。だから、小さい頃からピアノをお母さんが習わせてくれてとても良かったと思います。今ではすごく感謝しています。

横  山   真 理 子
笑い顔持ちつつどこか醒めてゆく我を見ている自分がありぬ (新緑号) 最近何かをするたび、もう一人の私が、笑って見ていたり、泣いていたり、怒って見ていたりしている私に、とても当てはまっていたので、この歌を選んだ。 友達関係の中で、一応仲良くするため、他人に合わせすぎて自分が見えなくなると、どこか頭の中でさびしい顔をした私が、これでいいの? と言わんばかりに見つめてくる。そうすると、自分まで悲しくなるのだが、それは、自分が成長したからだと私は考えていきたい。 (西陵中一年生)

隅  田   未  緒
にこにこと何考えて生きてんの?そんな顔してたい春の日は(新緑号)寒い冬から温かい春に季節が変わるとき、本当に毎日にこにこしている。「人は何をするために生まれたんだろう」という寂しい考えを捨てて心の底から思う「桜がきれいだな」「温かいな」「気持ちいいな」などの自然、そして素直な気持ちが体全体で表され、表情に出てくる。この一首を読んで、人の気持ちがどれほど大事かを改めて感じた。私も、他の人が見てうれしくなるような「気持ち」をいつまでも持ち続けたい。 (西陵中一年生)

安   楽    崇   志
歩むたび次々桜開きゆく空の青さも輝きを増す (新緑号)
今年の四月十日中学校へ入学したが、その頃の桜がすごくきれいだった。歩けば歩くほど、花の本当の美しさを見ることができた。上に広がる青い大空も桜の花が咲くことによって、よりきれいに見える。そして人間は、チャンスがあればどんどん挑戦してゆくべきだと思う。最初の一歩を踏み出さなければ、次に輝く青い大空は見えてこないと思ったからです。 (西陵中一年生)

匂   坂    一   葉
ブランコの半ばまで雪積もりいる公園は鳥安らうところ(新緑号) まず、この歌を読んで、日本の中にもこんなに雪が積もる所があるんだな、と驚いてしまいました。 そして、鳥にかぎらず動物は、人間のいない静かな所が好きなのかなぁと思いました。 私たちヒトは動物のことを好きだけど、逆に動物は、どう考えてるか分からないな、ということをこの歌から感じました。(西陵中一年)

村   瀬    紗  織
我に祖母一人も亡くてやわらかき百歳中川イセの肩抱く(新緑号) 私はこの一首が気にいった。 どこが気にいったかというと、「自分には祖母はいないが中川イセさんの肩を抱くことで自分の祖母がいる。」という感じのところが気にいった。 私には祖母が一人いるが、もし亡くなったら、きっと中川イセさんのような優しい人と出会って、その人を本当の祖母のように接して親しむと思う。けれど、今生きている祖母と良い思い出を作っていきたい。怒るときママには妖魔がいるという娘はいかなる時も明るく(断片集)私も「その通りだ!」と思いました。やっぱりお母さんが怒るときは体の中に何かがひそんでいます。なんだかとても恐ろしそうなものが…。けれど怒らなければ、その恐ろしいものは不思議にいい奴に変身しちゃいます。だから、川添先生の娘さんはいかなる時でも、明るいのだと思います。やはり私たち(子供たち)から見た怒ったお母さんの見方は同じなんだなぁ〜と思いました。(西陵中一年生)

蓮   本   彩   香
どのように世間が言おうとつまらない歌はやっぱりつまらないのだ(春風号)私は、時々思います。世間やみんながすごくいい歌だとか、これはすごくいいものだとか騒いでいても、どこがいいのかな?そんなにいいかな?そんな、 どうってことないんじゃかいかな、と思うことがけっこうあります。 でも、それは人と違う考えを持っているということなので、私は、おかしいことではないと思います。 なのに、いいと言う人が多いと、違う考えを持つ人がおかしいと言うのは間違っているのではないか。と、私はこの歌を読んで考えました。あちこちにアイヌの地名残りいて日本は単一民族などと言う (麦風号)アイヌ民族のことは私はよく知りません。 歴史のときに少し習っただけです。でも、日本中にアイヌの地名が残っているということは、アイヌ民族が本当にいたということで、きっと日本人の中のどこかにアイヌ民族の血も流れていると思います。なのに、単一民族などということはアイヌの人達にすごい失礼なことだと思います。 今はアイヌ民族としては少ないのでしょうが私達の中にも確実に生き続けているのですから。
妻はただ普通であって欲しいというそれが一番難しいのに (夏残号)私は「普通」という言葉を深く考えたことはありません。人には、みんな個性があって、普通の人なんていないと思います。でも、普通という言葉は日常でよく使っています。私が思うのには、平均とか、こういう人が多いとか、こういう考えの人が多いなど、 他人と同じ。そんな意味があるのではないでしょうか。でも、私は、人と違うこと、変わったことをすることは、とてもよいことだと思います。 (西陵中一年生)

二  瓶   加  奈  子
にこにこと何考えて生きてんの?そんな顔してたい春の日は(新) 春の日は、暖かくて、すごく気持ちがいいから、何かこの、にこにこという気持ちがすっごくわかって、 この一首を選びました。 何考えて生きてんの? 私は何も考えてなく、ボーッと生きてるので、本当は春によく似合っているのかもしれません。(西陵中一年生)

松   川    実   矢
飛行機で飛ぶたび気づく日常のなべては雲の下の出来事(渡氷原) 私はこの一首が気に入りました。飛行機は乗ったことがないけど、空を飛んでるのを見てると、私達のことは見えてるのかなと思う。この一首のように雲の下の事だから、雲で隠れてしまったりして見えるのかななど…。 小さいころは届く筈がないのに届くと思い、一生懸命に声を出したり、手を振ったりしていた。 今も時々小さい声で言ってみたり。この歌を読んで、飛行機に乗って見た、そんな気持ちを知りたいなと思う。 今はテレビでそんな景色を見るだけだが、どんなに人間や町が小さく見え、心まで変わるだろうなあ。そんな体験をいつかしてみたいと思います。 (西陵中一年)