私の選ぶ一首
風   来   坊
っ赤な日沈み切るまで氷塊の上にて我も氷塊となる(断片集)
雪解けの水は氷となって結晶し流氷となって漂泊をつづける。

海の水からの伝言。 感傷を切り捨て、 純粋感性の結晶の幻想的心景。 夢遂げて流離(たび)盡きず、 夢破れて徑(みち)止まらず、 水からの伝言。 水の底、水の底、住まば水の底。 泡水に沈み、 かき消えてゆく幻影のはかなさを語る。 虚無の影ほのかに見ゆる流氷記。 (寺 尾  勇 奈良教育大学名誉教授・美学 飛鳥保存財団 評議委員会議長 『飛鳥歴史散歩』 『大和古寺幻想』 等)
寺尾先生のお言葉が今血肉となっていることしみじみと…

藤 本 義 一
右目より出でて電車はするすると夜の隙間へ吸い込まれゆく(断片集) うーんと唸りました。
ふと、四十年前を思い出したのです。映画シナリオ修行中に一番必要なのは、この感じ方だったのです。ただ、シナリオの場合は――吸い込まれ消ゆ――まで考えなくては採用されなかったものです。小説を書きはじめて――吸い込まれゆく――の余韻がわかったのです。
今日、北海道から戻ってきました。
ゴキブリ、人の肉というのは、少し濃味が過ぎて、どうも私には納得出来ません。振幅の波立ちが激しいと思うのは、私の勝手でしょうか。  (作 家)

三 浦 光 世
それぞれの五十五年を語りいる戦後に我らを生みし父母(惜命夏) 何の苦心もなく詠み切った一首であろうか。 こちらの胸に一句一句が沁み透ってくる作品である。 やはり数多くの作歌によって鍛えられ、 練られた結果の一つではないかと思う。 実に深みを感じられる。暑いのにぺたぺた体を寄せてくる娘を払いのけつつ楽し以下一連七首にも心惹かれた。私には子供がいないだけに羨ましい。 子供はいなくても、この父親としての気持ちは、 よくわかる。幾人かの姪がいるからだが、実の娘への愛しさは、比較にならないと思われる。

加 藤 多 一
とにかくあたたかい。家族関係というもの改めて考えさせられた。蝉の声に揺られて眠ればうら悲しダリの静かな海展けおり(惜命夏) リクツ(作者の論理に強引に連れ込む力は認めつつも)は、 文学ではないと思う。 例えば同じ号のリクツの歌 ゴキブリといえども命重からんトイレの隅に仰向けて死す などと比べると、 文学の本来の美質を体に感じます。 せつなさといってもいい。 しかし、 「眠れば」の「ば」はやはり因果をつなぐ結果を示す形になっている。 「眠る」と「うら悲し」と「ダリの海」を「ば」で結合させずに、 だまってそこに並置することのほうがイメージ換気力の強さとはかなさが直立するのではないか。 でも好きだ。 (オホーツク文学館館長・作 家)

菊 地 慶 一
流氷の群れ盛り上がるに似て御飯白々と我が目の前にある(惜命夏)
「流氷手記」を出版するための編集作業を、夏の間続け、秋は「流氷紀行」のまとめでオホーツクラインを走っている。それでいて、日常に「流氷の群れ盛り上がる」という感覚を持てないでいる。作者は他の作品で「山上より見れば百年一季節都市流氷のごとくに迫る」とも表現していて、執着の尋常ならざるものを感じる。網走と遠い作者の日常に、静謐な流氷の世界が広がっているのなら、もう既にアムール川が流入するシャンタルスキー湾が結氷して、南下を始めようとしているきらめく氷片に想像力を寄せたいと思っている。    (流氷観察家・作 家)

大 和 克 子
蝉の声響く階段(きざはし)死者たちが此の世に忘れたもの取りに来る(惜命夏) 悪夢かと思うくらい暑かった今夏、 たくさんの蝉が、家の庭の胡桃の木で鳴いた。 油蝉、 法師蝉、 ひぐらし蝉など、 それぞれの声の必死さに、 暑さでぐったりした身体も、 起こさざるを得ないようなあの必死さは、同じ生きている者としての私には、生きる辛さ、 生きるそれ故のよろこびを、 ひしと感じさせてくれた。 この一首をよんで、そうか、あれは死者たちが忘れものを取りにきたのだ。 女の顔をまだ充分に描き上げることなく出征し、 還らぬ人となったあの人が、 もう一筆描くべく来たのかもしれないのだ。 (『短歌人』 同人)

松 坂 弘
墓地を見て今日も帰ればしみじみと「つくづく惜ーーし」命も夏も(惜命夏) ことしの夏はことの他蝉が沢山鳴きさわぎました。鳴いた期間も例年より長く感じられました。 七年前に産卵してもらった蝉たち…。あの夏も、ことの他暑かったと記憶しています。 右の歌は、法師蝉の鳴き声をたくみに作品の中にとり入れ、みごとに成功しています。ちょっぴりユーモラスで、ちょっぴり切ない内容の歌ですね。 (『炸』主宰)

中 平 ま み
今ここにいても不思議に思われぬたくさんの死者わが裡に満つ(漂泡記)どれを選んでもいい様な気がしたのですが(というのは駄歌がないからですし、 私の頭が今明晰にはゆかないせいも有ります)いつも、しょっちゅう逝ってしまった愛犬たちや父や大事な存在であった人々(恩人や気の合っていた編集者)の事など考えてしまいます。 益々人間嫌いになる一方の私は、 現在の二代目の愛犬及び生きとし生ける犬たちを除いては、先立った彼らの方にずっとずうっと近しい親しい感情を抱いています。 生きてる事に相当うんざりしているせいでしょう。 (作 家)

神 野 茂 樹
人間の人間による人間のための二十世紀も終わる(惜命夏) ▼多分誰も選ばないでしょう。でも、ピープルを《人民》と日本語訳した人はスゴイと思いませんか。短歌をさしおいて変なこと言いますが、人民を人間と置きかえた川添さんもスゴイと思いますよ。▼毎号、ありがとうございます。九月二十一日、日経新聞の夕刊に《大阪春秋》の記事が出ました。書棚に手を置いているのが小生で真ん中に立っているのが川口玄こと山田政弥、一番手前の女性は泉耿子(けいこ)です。▼小生は、落合恵子は《レモンちゃん》の印象が強くて、その後の活躍は瞠目ですね。(『大阪春秋』編集委員)

西 勝 洋 一
少しずつ命繋いで来し村も廃屋増えて蝉ただに鳴く(惜命夏) 私の住んでいる地域も過疎化はとどまることを知らず、 近年二つの小学校が廃校になり、地域の人たちは大変さびしがっています。そちらの方も同じなのでしょうか。 十月の末に奈良県の西吉野中学校を視察させていただく予定ですが、その辺のことも聞いてきたいと思っています。一首、私だったら「廃屋が増え蝉ただに鳴く」と調子を整えたいところですが、いかがですか。 (『短歌人』『かぎろひ』同人)

桑 原 正 紀
生き物を食べつつ生きる命ゆえ死も順繰りにおのずから来る(惜命夏) この地球上の生き物は、 緊密な食物連鎖の上に存在している。命は命を捕食することでみずからを存続させることができるという仕組みは、 かんがえてみれば残酷このうえない神のいたずらとしか言いようがない。人間はこの食物連鎖の頂点に立ち、捕食されることのない状況を知恵と文明で勝ち取ってきた。 しかし、 そうした人間の傲りをあざわらうかのように、 死は例外なく「順繰りに」人間を〈捕食〉してゆく。食物連鎖の頂点に立つものは、かかえ込む罪もまた大きい。 人間は〈死への恐怖〉という大きな罰を背負い込まされたのだ。    (『コスモス』同人)

利 井 聡 子
秋月はわが生家にて日を浴びて文字消えかけた表札が見ゆ(惜命夏) 秋月は水も空気も山も樹木も美しい。人情もあつい。そして目に見えぬ程の速度で過疎化がすすんでいる。久し振りに帰省した作者が見たものは、生家の消えかけた表札の文字である。繁栄とはおよそ遠い。静かな凋落。しかも日を浴びて見えた表札の文字の剥落は、日が欠ければ全く名前の見えぬ表札である。生家を出たもののみが感じる生家への思いが、消えかけた表札の文字を通してうかがい知ることが出来る。方言を交えた一連の秋月詠は一つの死を通して秀作ぞろいの作品である。 (『飛聲』同人)

杣 庄 章 夫
気を抜けばホッチキスの針歪みいるかくして深夜の作業を進む(惜命夏)▽たまたま開いた二一号三五頁。頁の初めに掲出の歌がある。個人誌『流氷記』編集に関わる、深夜の孤独な作業の歌と受け止めた。▽仕上がりが気に入らない――針が歪んでいる。針を抜き、再びホッチキスに力を心を込めて作業を続ける。▽何気ない動作の中に細やかに神経を使うのは作者の性格か。この神経こそが個人誌を継続させる原動力なのだと思い拍手を贈る。▽ホッチキスは発明者の名で、この道具は「ステープラー」というのだそうだ。 これは蛇足。 (『好日』同人)

新  井 瑠 美
土を出でて此の世に在るという不思議寝転びながら蝉時雨聞く(惜命夏)作者に不思議と歌われて、改めて蝉の実態の不思議に思い及ぶ。生きとし生ける地上のものは、此の世から土に帰るのに地下に七年も潜みながら、たった七日の命を地上に出て鳴く蝉の声を、無心に聞く。此の世に在ることの意味を重く受け止めねばと作者とともに想いたい。蝉の声に揺られて眠ればうら悲しダリの静かな海展けおり(『椎の木』同人)

黒 崎 由 紀 子
生きているうちに抱くべし触るべし死ねば冷たく固き物体(惜命夏) 身体の冷たさに目が覚めました。 投げ出した腕はしびれて感覚もありません。指一本さえ自分で動かすことも出来ず、ただ棒のように重いだけでした。私はどうしたんだろう。生きているのだろうかと、ぼんやり目の前に揺らぐ闇を見つめていた時間。かろうじて動くようになった右手で左腕を引き寄せ、 私は自分を抱きしめました。 そして、くるまった毛布の暖かさの中で身体がほぐれだし、生きている実感を取り戻したのです。 ほら、こんなに温かい、こんなに柔らかいでしょう。 私の身体が半分死んだかのようなあの一瞬を、誰か忘れさせてくれませんか。 (『長 風』 同人)

築 田 光 雄
一息に殺してくれというがごとゴキブリよろり我が前に立つ(惜命夏) いつから日本人はゴキブリを汚い、 生かしておいてはならないと思いこむようになったのか。汚いといえば、人間に勝るものはない。四億年を生き続けてきたゴキブリ。ぼくは好きである。少なくとも殺すことはない。いつも見逃してやる。『惜命夏』にはゴキブリ詠が二首ある。どちらもおかしみがあっていい。どんなことを詠んでも、そこにおかしみの精神がなければ、「ああ、そう」でおわる。おかしみとあわれさは表裏の関係にある。ゴキブリ詠二首。おかしみとあわれさがあって、ぼくは好きである。(『ラルゴ』同人 吹田市立山田東中教諭)

井 上 芳 枝
色抜けし紫陽花一輪からからと真夏の風と光に揺れる(惜命夏)
梅雨によく似合うアジサイの花ですが、七変化などと呼ばれ、季節、季節で色が変化していきます。下の句「真夏の風と光に揺れる」は、アジサイを見る目の確かさに感心します。 そして三句の「からからと」の音が、 何ともいえない余韻を残し、豊かな感性に驚嘆します。不慮の事故による困難を乗り越えて、口に筆をくわえて詩絵を描き続けている星野富弘さんの絵はがきのなかで、大好きな「秋のあじさい」の風雅な色合いを思い浮かべ、アジサイの多彩な美しさを楽しんでいます。 (大蔵中学校時代恩師)

弦 巻 宏 史
若者の無気力すらも呑み込んで骨なく肥大していく社会(惜命夏) 歌なのだろうかと、ふと思いました。本当は他の歌の方が好きなのです。でも、今全ての人が追われている。「若者たちを呑み込んでいく骨なく肥大していく社会」…罪を犯す少年、家族などどんなに苦しいものかと思い、このままの社会でいい筈はない……。そんな私の気持ちがこれを選んでしまいました。自然や日常を見つめ続け、詠み続けているあなたの感性とエネルギーに敬服している。感動も共感も多々あります。諸氏の評も卓見、素晴らしい。感謝しています。いつも一〜二を選び切れず、怠けと雑事で失礼してきました。(元網走二中教諭)

山 内 洋 志
大切に親しくなろう森や海壊して無菌の人あふれゆく(惜命夏)
先日、町が主催する植樹祭に参加しました。百人ほどの昔の若者たちが、エゾヤマザクラ、コブシ、ミズナラの苗木を、隣町へ通じるトンネルの入口付近に三百本ほども植えたでしょうか。 数年経つと、春には桜やコブシの花にミズナラの眩しい緑が、秋には赤や黄色の紅葉が行き交う人の目を楽しませてくれることでしょう。 ドングリを口いっぱいに頬張ったエゾリスのお茶目なしぐさ。 北海道人には見慣れた光景ですが、 川添先生の生徒たちに見せてあげたいと思う。 ところで、参加者の中に漁協の一団。 聞けば、美しく豊かな湖や海を守るためには、まず山を守らなくては、とのこと。そういえば、このごろ、わずかな雨でも川の水が濁ってしまう。森林が病んでいるからだそうです。山に木を植える漁師たち。五十年、百年先を見越した人の営みに、 自然と調和してゆったりと生きる人々の奥の深さを感じさせられました。 そして、一方では、あふれゆく無菌の人たち…… (佐呂間中学校長 元網走二中教諭)

小 川 輝 道
土を出でて此の世にあるという不思議寝転びながら蝉時雨聞く(惜命夏)小さな命が、限られた生を懸命に鳴き続ける。地表に姿を現わし短い日々を燃え尽きていく命への哀惜が上の句の表現に、 自然界への作者の不思議な感受性とともに詠まれている。 作者は小さなものへの深い関心をたくさんの作品に籠めてきた。 横になり苦痛と闘い短歌を詠んだ子規の感性や世界にも通じると思いつつ、寛ぎながら聞き入っている作者のゆとりに表現の広がりを感じた。炎天下電車の運ぶ一陣の風あり音の少し後から 炎天下、走り去る電車と一陣の涼風を感じた舞台、時間の経過を伝える結句は心憎い表現だと思う。 (元網走二中教諭)

井 上  冨 美 子
一息に殺してくれというがごとゴキブリよろり我が前に立つ(惜命夏) 私は実際にゴキブリを目にしたことがありませんので、ゴキブリの生態はよく分かりませんが、周りから白い目で見られ嫌われ生きているゴキブリ。この歌からゴキブリのプライドが切ないまでに伝わってきます。この世に生まれてこんなに差別を受けながら生きのびているゴキブリ君に拍手したくなりました。パンツ丸出しで昼寝をする娘この無邪気さにしみじみといる 無邪気さは子どもの特権ですね。最近この特権が影をひそめたようでとても気掛かりです。お父様としてのやさしいお顔が目に浮かんできます。 (元網走二中教諭)

里 見  純 世
暑いのにぺたぺた体寄せてくる娘を払いのけつつ楽し(惜命夏)
今回も先生の歌を読ませていただき乍ら右の一首が一番先に私の心を惹き付けました。 何の説明もいらず、 私の心に入ってくるのです。私はこういう歌を大事にしたいと思います。次に好きな歌を書いてみますと「パンツ丸出しで昼寝をする娘この無邪気さにしみじみといる」又奥さんを詠んだ歌「尤もで詮無き妻の苛立ちをのらりくらりと聞いてしまいぬ」「早口に次々捲くし立ててくる妻より逃れカラオケに行く」の歌も臨場感があって、私の心に迫ってきます。そのまま詠んでいて何とも云えぬ余情があります。「墓参るたび亡くなりし人増えて故郷の盆はアキアカネ満つ」の歌もいいですね。 (『新墾』『潮音』同人 網走歌人会元会長)

松 田  義 久
早口に次々捲くし立ててくる妻より逃れカラオケに行く(惜命夏) 蝉の命から始まって、雀、人間、ゴキブリ…と、作者特有の一連の速いテンポの歌の中から『惜命夏』の一首を選び出すことは、 つい最近、小高賢の看取り歌に見る時代相「悲劇から日常性へ」(作品は現実をどう超えるのか)を読み、伊藤一彦の「誰を看取り、どう詠うのか」(縁あって人と人)を読み継ぎ、男性と女性の命に対する看取りの度合いなどに脳天を打たれる思いを痛切に感じている中で惜命、看取りの歌に難しさを感じている次第。 その点、日常の生活の中で、 作者が口煩い妻の攻撃の手から見事逃れてカラオケにすたすたと出掛ける作者の飾らない姿の見えてく一首が味があるように思った。 (『北方短歌』同人。網走歌人会会長)

南 部 千 代
ひび割れた舗道にエノコログサ伸びて今朝は破滅も破壊も楽し(断片集)流氷記とする一連の歌集、大変興味深く拝見しております。物事の核心を衝く鮮やかで鋭い詠み方に独特の境地を拓きつつあるようにも拝見受け致します。川添短歌とでもよぶべきでしょうか。追いかけて来て階段を踏み外す夢といえども背骨に響くこんな歌などにも親近感を覚えます。十九号、二十号、二十一号、どれも面白く、時にはぼやきであったり、また皮肉もあり、 定型の枠の中で自由に詠い上げられて、とても気分のよい歌集でした。どうもありがとうございました。 (『歩道』同人。網走短歌会)

葛 西   操
若者の無気力すらも呑み込んで骨無く肥大してゆく社会(惜命夏) 本当に現在の社会はその通りです。私のような明治生まれの人間には考えられません。親が悪いか社会が悪いか私にはわかりませんが、親は子を生んだ以上は全責任を持たなければいけません。一人前の人としての道を教える責任はあると思います。それぞれの五十五年を語りいる戦後に我らを生みし父母 明治生まれのせいなのか今の親子の在り方に不思議な思いを抱いています。自分の育った時代とは天と地の差で複雑な驚きも感じますが、この歌はそんな差を乗り越えた親子の気持ちが表れていると思います。(『原始林』同人。網走短歌会)

田  中    栄
労りと憎しみ交互に来るらしき妻にのっぺり我が顔は見ゆ(惜命夏) 夫婦の間の微妙な感情を歌い得ている。 上句本当は妻の愛情かも知れない。 作者は割合反応少なく、 無造作にいるのであろう。「のっぺり」が眼目。ただ気になるのは、妻の立場が本来推量であるべきを既知のごとく言い切っている。難しいところだ。「妻にのっぺり我が顔はあり」位で如何か、面白い歌である。(『塔』選者)

池 本  一 郎
丁寧に急いで逃げる尺取り虫生徒と我と見守るしばし(漂泡記)
「丁寧に急いで」なるほど。ゆっくりと早い農夫の鍬作業や、多くの職人仕事など、人間にも通じるものは少なくない。まず尺取り虫の動きを的確に写し取り、同時に一つの認識を提示する。即ち《急がば廻れ》《急いては事を仕損ずる》と。少し違うが「放屁してしまえばのろき屁ひり蟲」(加藤知世子)なんておかしな句もある。 Slow and steady wins the race. 外国の同じ格言。そんな勝ち方を生徒にわかってほしいとでもいうのかな。 下句「生徒と我と」とは何やら調子いい。 「我は見守る生徒と離れて」とも歌いうる。
(『塔』選者)

竹 田 京 子
笑い顔持ちつつどこか醒めてゆく我を見ている自分がありぬ(新緑号) 新緑号からこの一首を選びました。 私がこの一首に魅かれたのは、自らを客観視するという、かつての私の生きに似ているゆえかも知れません。上句「笑い顔持ちつつどこか醒めてゆく」という氏のナルシシズム、 又その自らのナルシシズムを見ている作者自身を、まるで一点虚空を見つめるかのように「我を見ている自分がありぬ」と歌いおさめています。又この一首の初句「笑い顔」は、男性である作者のおもての笑い顔ではなく、作者の内界の笑い顔であり、凡そ清らかな部分を占めているような気もします。そして「自らの笑顔を自らが客観視する」という此の一首の素材は、「どこかで聞いたことがある」という従来の素材を脱し得ない負い目を背に、しだいに闇間に消えてゆく拍手のように惜しまれるものがあります。 (『天』短歌会主宰)

唐 木  花 江
我が裡に夏といえども流氷のゆらりと骨を浮かべて眠る(惜命夏) 心象の歌として見事であった。「ゆらりと骨」というあたり、その感じがリアルである。すでに日常詠から脱却して、シンボライズされた丗界を感じる。大いなる離陸であろうか。 赤白く冷えた西瓜をざりと噛む歯茎は海の底に似ているざりというオノマトペ、海の底という象徴的な比喩暗く、何か絶望感さえ漂っていて、これも見事だ。 旧『塔』の大先輩、鬼頭昭二氏の一首評中の文章であるが、 「垂直など物理現象は永遠なるものであり、 太古から変わらぬ人間の生と重なりあう。」何と哲学的な含みを持った深い言葉であろうか。納得して考えさせられた。 (『リトム』同人)

松 永  久 子
色抜けし紫陽花一輪からからと真夏の風と光に揺れる(惜命夏) 一句目の無気質な捉え方が「からからと」に巧く呼応して余分なものを容れしめない簡明さ、色褪せしでも、素枯れたるでもない処に快い妙味を感じてしまいます。墓参るたび亡くなりし人増えて故郷の盆はアキアカネ満つ彼岸の人が増えてゆくのは、即ち吾が身が年を重ねている実証だと感じての一首でしょうか。 下句のとんぼの賑やかさに何となく重いものがはぐらかされます。『五〇番地』

鬼 頭  昭 二
ミニバイク転倒して我が横たわる地はアスファルト露骨に匂う(惜命夏)死を意識させるような要素も感じられるが、ミニバイクによって救われている。ユーモラスな一面をも見せて。予想しえなかった自分の被災の一瞬というものは、意外なところに意識の対象がしぼり込まれるものである。 (『五〇番地』同人)

榎 本  久 一
人肌に触れていたいよこのままに冷たく堅くなりそうな夜(惜命夏) 「飲むことはあまりにあらわな、行き過ぎたことに思える…/私はただそっと手をのせるだけ…/お前の若々しい肩のまるみであれ/お前のゆたかな乳房のふくらみであれ/と晩年にもうたった。『所有の代わりにひとは関連を学ぶようになる』、これがリルケの態度だった。」高安国世著『リルケ』筑摩書房(昭和二十九年刊)引用が長くなったが、取り上げた一首には、どこか似かよった孤独が感じ取られて身に沁みて来るものを感じた。ずばり言ってのけた所がよいと思った。高安先生の苦笑いが浮かぶようだ。   (『塔』同人)

三 谷  美 代 子
炎天下電車の運ぶ一陣の風あり音の少し後から(惜命夏) お住まいが線路に近いと誰かから聞いたのだったか、 それとも作者のそんな作品を読んだのだったか。ともかく灼けつくような夏の日の電車の通過音は、かなり作者を悩ませることだろう。だが開け放った窓からは、電車の風圧による風が吹き込んでくるというのである。しかも「音の少し後から」という的確な把握がこの一首を活き活きと支えている。(『塔』同人)

東  口    誠
流氷のように静かに横たわり夜こそ独り網走にいる(惜命夏)
網走も流氷も知らない。 小説などを介して想像するだけだ。 そして『流氷記』。 この中で流氷や北海道がずっと身近になった。 私の住む南九州とはまるで違うようだ。 だから、 北への憧憬の念は『流氷記』によっていよいよ増幅されつつある。 比較するのは恥ずかしいし方向も逆だが、『イタリア紀行』(ゲーテ) が理解できるような気がする。 掲出した歌は、 孤独感を受容し安らいでいる姿を自ら客観視している。 なるほど、 流氷とか網走とかいうのは人をしてこのような思いに誘うのかもしれないと納得する。 口語調の中の「こそ」は評価の分かれるところか。    (『塔』同人)

本 田  重 一
どこまでも下弦の月の墜ちてゆく夜空支えてひびくこおろぎ(惜命夏) 定まった軌道を墜ちてゆく天体―壊れてゆく今をそこに見ているのであろう―か細い虫の音が宇宙との交感を果たしているという作者の人生観を色濃く滲ませた作。北国にも秋は野に幾万の虫が鳴いているが、どれひとつとて楽しげに鳴く虫はいない。 (『新墾』『塔』同人)

遠 藤  正 雄
たくさんの人を納めてゆく墓の一部とならんための一生か(惜命夏)
人生って、なんだろうか。 ある日、自分の意思によらず暗がりの世からこの世へと出でてきて、また元の暗がりの中に帰って行く。百年足らずの束の間の人生ながら、この世には、芸術があり科学があり、宗教があり家庭もある。… とは言うものの所詮は「墓の一部になるための一生だ」と作者は端的に結んでいる。 八月といえば、あの広島、長崎の原爆忌。またお盆の季でもある。 八月と惜命夏という二十一号のタイトルを相照らすとき、 「墓」に焦点を当てたこの歌は、ことさらに露の世のはかなさが表白されている。

塩 谷 い さ む
土を出でて此の世に在るという不思議寝転びながら蝉時雨聞く(惜夏命)生者の歌。生かされている歌ではない。正に生きている者の歌である。 土の中で長い間生かされてせいぜい一週間位を鳴きつづけて生きている蝉の声を聞きながら、 作者は此の世の不思議さを思っている。 土を出た蝉と体外を出た人間との因縁が微細に交錯する。 やがて短い命を終える蝉への鎮魂歌か?いや私は生きてゆかねばならぬ人間への歌と読みたい。 「土を出でて」の「て」は必要だろうか?「蝉の音たどれば何も知らずいた少年の日の夏へと帰る」「若者の無気力すらも呑み込んで骨なく肥大してゆく社会」「歴代の墓累々と一生の人など脇役なのかもしれぬ」「墓地を見て今日も帰ればしみじみと『つくづく惜ーし』命も夏も」も好きな歌である。 ( 『塔』 同人 )

甲 田   一 彦
黎明の心を澄ます一時間少しずつ歌湧き出でて来る(漂泡記) 短歌を作ることは、容易なことではないとつくづく思うのです。机にへばりついて、ああでもない、こうでもないとひねくり回しても、時間の無駄を積み上げるだけで、 ついに何も生まれないのですから…。作者には、 特別な秘法でもあるのかと敬服しているのですが、この一首は、そんな作歌秘法のポロリとこぼれた貴重な歌だと思いました。「黎明の心を澄ます」は何でもない表現のようで、決してそうではないと思います。この心境が作歌の秘伝だと同感を深くしました。       (『北摂短歌会会長・『塔』同人)

平 野   文 子
墓地を見て今日も帰ればしみじみと「つくづく惜ーし」命も夏も(惜命夏)僅か一カ月の間に、 此の『惜命夏』に収録されたものだけでも百十四首、その逞しい作歌姿勢に圧倒されます。歌作りの基本条件でもある多作を、 こんなにも易々とこなし得るバイタリティに驚きながらも羨ましく思うことしきりです。一気に読み進めて、最後に据えられた一首に釘付けとなりました。視覚―墓地より入って、ゆく夏を惜しむ気持ちは更に深く、 「つくづく惜ーし」の蝉に投影されています。 又素材のそれぞれが響き合って醸し出す心象風景が、淡い余韻となって胸に残りました。 (北摂短歌会。 『かぐのみ』 同人)

若 田  奈 緒 子
人間の人間による人間のための二十世紀も終わる(惜命夏)
あとわずか三カ月で二十世紀が終わる。長い目で歴史をみると、この百年間で人間の生活が大きく変化し、 便利になっていったことが解かる。しかしその一方で自然や動物は犠牲になっていった。末尾の「終わる」には二十世紀が終わりを迎えるという意味だけでなく、人間が人間のためだけの身勝手な生活も、もう終わりだという意味も込められているように思えた。 二十一世紀は人間と自然と動物が互いの生活を害することなく共存できる世になってほしい。 (西陵中三年生

中 村  佳 奈 恵
蝉の音たどれば何も知らずいた少年の日の夏へと帰る(惜命夏)
先生の短歌には蝉の音が数多く登場します。その声は生命の喜びであったり、はかなさであったり、その時々によって違います。そんな蝉の音は、虫取り網で蝉を追いかけた、純粋な少年の日の夏と重なります。この短歌は母に聞かせてもらったことがある井上陽水の『少年時代』という歌を思い起こさせます。「何も知らずいた」という言葉になつかしさと少し淋しさを感じます。私にとってこの歌はなぜかとても心がひかれる優しい感じのする歌です。 (西陵中三年生)

高  田  暢  子
彼岸まで届けと蝉の鳴き競う中に目覚めぬまま眠りおり(惜命夏) 蝉の鳴く声というものはとても力強い反面、 とても儚くも思います。 ほんの一週間という短い間に精一杯の命を燃やし、 ただただ叫び続け死んでいってしまう。こんな蝉の一生はある意味人の一生そのものだと思うことがあります。一週間の命を満喫するものもいれば、途中で命を亡くすものもいる。本当に、先生の歌には捉え方次第で、いろんなものが詰まっているんだなあと思いました。 (西陵中三年生)

齋  藤     萌
生きているうちに抱くべし触るべし死ねば冷たく堅き物体(惜命夏)
一年と半年病気で入院していた私の兄は二年前、やっと家に帰ってこれた時には息をしていませんでした。 何も言わずに、ふとんの上に横にされている兄を見ているとまるで生きている人のようでした。でも、触ると本当にこの歌のように「堅き物体。」二度目はもう触れるのが怖くて触れませんでした。この歌を読んだとき、本当はちょっと怖かった…。これから先、私はもっといろんな人が死んでいくのを目にすると思います。でも、その時後悔することが何もないように、相手の身体にも心にも触れながら、強い人になりたいです。 (西陵中三年生)

曽 我  あ ず さ
人一人死んだからとて何一つ変わるなく今今があるのみ(惜命夏) 最近さまざまな事件が起こり、 人の「生」と「死」について考えさせる事が多くなってきています。 けれど、世間の人々は、その問題について深く考える事なく、今を過ごしている気がします。人が死んでいく一方で、また新しい命が誕生しています。そんな繰り返しの中で、自分とは無関係な人の「死」だからといって、変わりない今を過ごしていいのでしょうか。 人の命の尊さをもっと考えさせられる一首でした。 (西陵中三年生)

内 田 恭 子
どこまでも下弦の月の墜ちてゆく夜空支えてひびくこおろぎ(惜命夏) 写実的なのに優美でどこか寂しげで無視出来ない歌だった。響くこおろぎの音や夜空に加えて下弦の月というのが幻想的で素敵だなと思う。 《おちる》が《落ちる》じゃないのが、写実的な中で浮いていて、意味深で、とにかく気に入った。破滅へと向かう心を鎮めいる蝉鳴く声は祈りのごとし(同) この夏はイライラすることが多かったように思う。進路や勉強への悩みで、物に当たることもたまにあった。 しかし、不思議と蝉の声を聞いていると、敬虔な気持ちになって、落ち着いて物事を見つめることが出来た気がする。そんな彼らの声は、色々な言葉を並べるより、「祈りのごとし」という表現が合っていて、目をひいた一首だった。 (西陵中三年生

小 野  健 太 郎
海に消え海に生まれし流氷の叫ぶがごとく岸に迫り来(断片集)
この歌の不思議な所は、考えるだけだと何も感じないのに、こうして書かれてあるものを読むと、考えさせられる点が実にたくさんあることだ。僕はこの歌を読んで次のようなことを考えました。自然の海とは偉大な力を秘めており、季節によってその表情を変える、その動作の中に人間が美しいと感じ取れるものが隠されているのではないかと。流氷という巨大なものを一瞬で作り出し、一瞬で消してしまうという大技をいとも簡単にこなしてしまう自然の海や、巨大な流氷が岸に迫り来るという迫力など、自然の生み出す変化は本当に美しいと思う。今は秋の盛りに向かおうとしている季で、日常生活から自然そのものに目を向けるチャンスなのかもしれない。僕もこのようなすばらしい発見をしていきたい。 (西陵中三年生)

小 野  二 奈
時という妖怪獣に食べられて首だけ出している我がある(惜命夏) 「時は何もしなくても過ぎていく」、それは当たり前のことだ。でも、その過ぎていく時間を、どれだけ楽しむか、充実したことをするか、人のためになることをするかによってその人の人生は変わると思う。遊びにしても勉強にしても共通して言えることだと思う。だから、たとえ短い時間しかない時でも「ぼぉーっ」としているより、本を読んだりしている自分の方が私は何となく好きです。なぜなら、時間は取り戻すことができません。時間という流れは、止まることがない。一度きりの人生だから最後まであきらめたりしたくないです。 (西陵中三年生)

芳 澤  未 来
空ありて雲ありてかく単純に景色は人を和ませている (渡氷原)
私はこの歌を読んで、「ああなんて自然は偉大なんだろう、なんてすごいんだろう。」と改めて思いました。今の時代、人々のためにたくさんの製品が出来たりいろいろな実験を繰り返しています。でも、そんなことはいらないのかもしれません。空を見るだけで、自然があるだれで心を和ませる事が出来ます。私たちはもっと自然を、地球を見つめていくことが大事なんじゃないかなぁと考えさせられました。 (西陵中三年生)

小 西   玲 子
目を開けてしまえば鳥は逃げて行く眠りの森の端に我がいる(惜命夏) この歌を読んだとき何故か無性に不思議な気持ちで一杯になりました。何だか現実の世界と空想の世界の真ん中に立っているような気持ちでした。眠っているとき夢を見ると森の中でもどこにでも行けます。だから夢の中に居る「目を覚まさないでおこう」と思っている自分がいるような、そんな不思議な気分でした。実際、夢はほんの数秒しか見ていないといわれているが、このような気持ちはしっかり覚えているのがまたまた不思議で、そして何だか素敵な歌だなあと思いました。 (西陵中三年生)

大 谷   紗 千
かくまでに尖りし心も少しずつ金木犀の香にほぐれゆく(金木犀) この歌を読んで、私も同じ気持ちになると思いました。私は毎年金木犀の花びらが開き甘い香りが漂いはじめると、少しだけビンに詰めて手元に置いています。それは、この花の甘い香りが大好きだからです。金木犀は、苛立った心を静めてくれます。それに、小さくてかわいらしいオレンジ色の花びらを見ているだけでうれしくなります。私は、金木犀のそういうところがほんわかしていていいと思いました。 (西陵中三年生)

中  村    文
一つずつ確かに舞って落ちてくる雪の結晶重ねつつ積む(渡氷原) この一首を読んだとき心がとてもきれいに透き通ったような気がしました。本当に、結晶は一つずつ静かに美しく舞い落ち、そしてそれは私の手の上に乗ると一瞬にして溶けてしまうほど小さなものです。けれどその結晶一つずつが降り積もると、美しい雪となって私達を喜ばせてくれます。そんな雪みたいにみんな一人一人の小さくても力強い美しさが集まってすばらしいものが出来上がる。そんな中学生生活と残り少ない時間の中で作っていきたいと感じさせられました。 (西陵中三年生)

高 谷   真 奈
雪解けの冷たき水を飲みて咲く桜花びら星のごと降る(断片集)
すごくきれいな一首だと思いました。ふだん私たちは当たり前のように生きていて桜をただの植物だと思い、過ごしているけど桜にとってはすごく頑張って生きているし、雪解けの水も冷たく感じながらも飲んでいる。そして桜の花びらを星のように降らして私たちをなごませてくれます。そんな桜がとてもはかなげに感じました。 (西陵中三年生)

白  石    愛
裂け目よりアザラシ叫び大鷲の悠々と飛び滑空して行く(渡氷原) 自然の雄大さがありありと目に浮かんできました。 たくさんの流氷と流氷の間から叫ぶアザラシ、大空を悠々と飛んでいる大鷲、酷寒と静寂が伝わってきます。 もし、 この情景の中に私がいるのなら、 きっと、 自分自身がとてもとても小さく感じられると思います。 自然の力はたいへん偉大です。 私も、 この大鷲のように、一度でいいから、 悠々と滑空してみたいです。(西陵中三年生)

山 口  真 実
朝食にさえも無数の死が皿に載せられていし我が腹にあり(断片集) この一首を見て、確かにそうだなとあらためて思いました。肉があったら動物の野菜は植物の魚だったら魚の命がなくなっているんだ、と思うとなんか急に食べ物が大切にしなくてはと思ってしまいました。そう考えると、食べ残すと駄目だなと思います。 (西陵中三年生)

脇 田  真 美
本統の役所は熊もムササビも登録すべし原住民と(金木犀) この歌を読んで「その通りだ!」と思いました。よく考えてみれば人間は人間だけを中心として、他の動物たちを無視していることが多いんじゃないかと思います。本当は、熊やムササビは私達よりも、もっともっと前から住んでいる原住民です。そんな、当たり前のようでいてみんなが気づかないことを先生はいつも教えてくれます。  (西陵中三年生)

高 島  香 織
昨夜よりの雨が作りし水溜まり落ち着いて濃き紅葉を映す(燃流氷)雨は、 お空の涙だと私は思っている。 あんなにきれいな空がこぼす涙は、 空のように美しく透明である。 その涙の池に映る紅葉は実際の紅葉よりも透明感があり、 美しいのだろうなと思う。しかし、私には一つ心配なことがある。 もし、私がこの涙の池をのぞいた時、あの紅葉のように映るのだろうかと。心を見透かされそうでこわいのだ。 今の私があの紅葉のような心の美しさを持っているのかわからない。だが、いつか紅葉のような女性になることを願っているのだ。 (佐倉市立西志津中三年生)

藤  川    彩
雲海の上澄みわたる空ありて死の向こうには苦しみもなし(蝉響)これを見て、私の頭の中にきれいに澄みわたる空がひろがった。そのあと、死んだら苦しくないんだなあといいうことを考えた。しかし、死んだら楽しいことや、うれしいことさえないということを思い出した。やはり、死ぬのはいやだなーと思った。(西陵二年生)

北 川   貴 嗣
暑いのにぺたぺた体寄せてくる娘を払いのけつつ楽し(惜命夏) この歌を読んだとたんにその光景が浮かび、笑えました。自分にもこんな時があったんだとなつかしく思えました。特に「ぺたぺた」という部分から小さい子の可愛さが目に浮かんできました。暑いから離れていてほしいけれどなぜかそれが楽しい気分。 僕にも分かるような気がします。犯罪を考え作る小説を真似て現つの人殺される(惜命夏) これは僕も前から思っていたことです。 推理小説に出てくる巧妙なトリックを真似て犯罪をおかす。 これは可能かつ警察も解くことができない可能性があります。 読書の楽しみの裏を利用した数々の悪質な事件、 許せないけれど困ったものです。 (西陵中二年生)

野 村  充 子
宝石もブランドもなく千円の時計と仲良く過ごす我あり(惜命夏) 私も時々そう思える時があって「こんなブランド物よりこっちの方がいいやんか!」なんて…本当、《世の中の人達はなんでブランド物がいいんやろ?》それが私の素朴な疑問です。安物の一体どこが悪いんや?!ってね。この歌は先生の何げない生活の一コマがしみじみと伝わってくる歌でした。名も知らぬ草に束の間しがみつき雨宝玉となりて輝く(夏残号) この歌は愛らしくもあり、 美しく輝きのある歌だと私は思いました。 特に「名も知らぬ草に束の間しがみつき」という部分がとても、なぜかしら気に入っている私。「雨宝玉となりて輝く」とても美しい言葉がさりげなく入っていて、私のお気に入りのなかの一首です。 (西陵中二年生)

杉 浜  美 穂
ただ今を普通の人でいることの不思議さ家に只今と言い(漂泡記) 普通とは何なのかちょっとそんなことを思ってしまいました。ただ普通に、いつも通りに学校を家を往復していると、「刺激が欲しい」なんて思ってしまいます。 でも、思うだけで結局何も変わらず日々が過ぎていく…。でも、帰れる家があるってだけで幸せかなとニュースを見ていて思いました。とにかく今、出来ることやれることをやるのみだけだと感じました。 (西陵中二年生)

宮 脇  彩
ゾウリムシ二つに分かれ増えてゆく死ぬことのない命もありぬ(惜命夏)この歌を読んで、私は色々なことを考えた。まず、下の句の 「死ぬことのない命もありぬ」だが、これは不死ということなのだろうか。死を得る前に二つに分かれれば、死ではなく命を二つに分けることになるのであろうか。 もし私がこのようなことが出来るとすれば、私はそうするだろうか。 そして、もしゾウリムシに「心」というものがあるとすれば、二つに分かれた時、その「心」はどうなるのであろうか。いくら考えても理解できるものではない。私は人間であってゾウリムシではないのだから。 (西陵中二年生)

根 岸   恵
クリオネは涼しい顔して近づいてパクリと我を食べてしまいぬ(惜命夏)「クリオネより何倍も大きな人間が食べられるなんて、馬鹿げた話だ」なんて思ってしまいます。でも、実際にそのようなことが起こっているのではないかと思います。それは、人間が地球を破壊していることです。人間だって、地球から見たら点にも及ばないもの。でも少しずつ地球を食べてしまっているのです。それも涼しい顔をして……。最近は、多くの人が問題として考えていることです。少しでもいい、地球が最高の笑顔で笑ってくれるようなことをしていきたいです。 (西陵中一年生)

山 口    藍
四十九日過ぎて聞きいる火葬場の火のスイッチを誰も押せない(惜命夏)人が死ぬと、 誰もが一度は火葬場のスイッチを押す時が来ると思う。 私は、そのスイッチを押す日がいつかは来ると思うと、とても怖くなります。 でも、人間はこの世に生まれたきた以上、経験しなくてはならない。 そして克服しなくてはならない。 だけどそれは、親にしてあげられる最後の親孝行だと思います。(西陵中一年生)

隅 田  未 緒
死の恐怖数日消えず明け方は眠る娘の手を握り寝る(惜命夏) 人はいつ死んでしまうか分からない。こうしている間にも、だれかが死んでいるかもしれない。 時々、「あと五分で死んじゃうかも…」とか思ってお母さん達の所へすぐ行きます。すごく怖いです。一人でいると、孤独でさみしく、怖いです。 人が一人でもそばにいるだけで、安心できます。 人には、そんなすごいパワーがあるんだと思う。 川添先生も、 娘さんにパワーを分けてもらっているんだなぁと思いました。 (西陵中一年生)

蓮  本   彩  香
悪い人ならば死んでもいいのかとテレビを見つつ思うことあり(漂泡記) 私は、前までは、悪い人は殺されても仕方ないと思っていました。 でも、この一首を詠んだとき、大切なことに気づきました。 どんな人にも、家族があり、大切に思う人がいるということです。 どんな命でもみんな平等に分けられた命だということを忘れずにいたいです。 (西陵中一年生)

井 戸 木  里 佳
一蹴りで敵を沈めしアンディ・フグ死のマットより起きることなし(惜命夏) この前、ニュースでアンディ・フグさんが亡くなられたのを見て、すごくびっくりしたのを覚えています。そのニュースを見たとたん、私はあまりにも突然のことだったので、そのままテレビに釘付けでした。私は、この一首を読んで、すぐに内容がよく分かりました。「死のマットより起きることなし」の所で、「あー、なるほどな」と思いました。 (西陵中一年生)

青 田  有 貴
人一人死んだからとて何一つ変わるなく今今があるのみ(惜命夏) ニュースなどで「誰かが亡くなった」と言っている場面を見ているとき、私は「かわいそうだな」とその時思うくらいで、そのニュースが終わったら、そのこともすっかり忘れてしまいます。 「命は大切だ」と言っているけど、本当に人は命を大切にしているのかな。有名人が亡くなった時でもその時は「いつ亡くなったっけ」という感じの人もいると思います。でも、命というのはそうものじゃないと思います。 (西陵中一年生)

松 川   実 矢
四十九日過ぎて聞きいる火葬場の火のスイッチを誰も押せない(惜命夏)私は、この一首を見たとたん昔に戻ってしまいました。 私が二、三年の時、おじいちゃんが亡くなって、火葬場に行って、私はそこの名前も知らず、何をするのかも分からず、でもおばあちゃんが泣きながら説明してくれて、 おじいちゃんが焼かれるって聞いた時は、何で?という感じでした。本当に何が起こっているのか小さい私には全然分からなかったです。 おじいちゃんが亡くなったっていうのを知りたくなかったからか、 あまり覚えていなくて、火葬場でのおばあちゃんが泣いていたのだけは、 はっきり覚えていて、この一首を見ただけで、その場面がすぐ思い出されてしまいまいました。 あと、この一首を見て、火のスイッチは誰が押したんだろうと思う。最近は、おじいちゃんがいなくなったっていうのがすごく悲しいです。おばあちゃんが少しかわいそうです。(西陵中一年生)

二  瓶  加 奈 子
忙しいその数倍も忙しい人より貴重な原稿もらう(漂泡記) 私たちより数倍も忙しいはずの川添先生がたくさんの歌を作り手作りの本を出されているのに驚いています。 でも先生に原稿をくれる人の中には先生より数倍も忙しい人がいるという、 世の中には立派な人がいるんだなあと思いました。 私も出来るだけの努力を毎日していきたいです。 (西陵中一年生)

古 田 土   麗
人一人死んだからとて何一つ変わるなく今今があるのみ(惜命夏) 私はこの歌を見た時、 他人(ひと)事じゃないと思い、 今浮かんだことを書いています。ニュースなどで死んだ人のことを言っているとき私は真剣にそのニュースを見ていましたが、その話が終わるといつもと同じように学校へ行きます。こういうふうに考えてみると《人一人死んだからとて何一つ変わるなく今今があるのみ》その通りだと思いました。もう少しいろいろなことを考えながらそういうニュースを見たいです。 (西陵中一年生)

田 上  勝 基
救急車かすめて過ぎぬ血の色にしばしサイレン余韻を残し(惜命夏)
駅前を歩いているとき救急車が横を通り過ぎる。 ボーッとしていて、頭にサイレンがひびいて、何かさみしい感じがする。 そんな塾帰りの日が頭に浮かんできた。そういえば、サイレンの色の赤は血の色なのかもなぁと変なところに感心してしまった。文化祭するたびゴミが増えてゆく人の傲りを文化というか(断片集) ぺらぺらっとめくっていて、 文化祭という言葉が目に付いたので読んでみた。読んでみて、ワイワイ言って作品を作っている教室の端にポツリとあるゴミ箱が頭に浮かんだ。やっているうちに雑になり、ゴミをたくさん出した文化祭に反省してしまった。やはり「ものは大切にしないとなぁ」と思い今まで捨てたものを思い出していた。 (西陵中一年生)

宮 本  浩 平
緊迫の攻防続くためらいの一瞬面がすべてとなりぬ(断片集) 息を呑むような接戦が続くなかで互いに打ち合う緊迫の試合が想像できた。会場全体が注目する中、試合をする二人…そんな緊迫の状況が頭の中に浮かんで、 今でも僕の頭の中に思い浮かんでいる。しかし、どちらかが踏み出さないと決着はつかない。そこで何か溜まっていたものが一気に弾けたような感じで、 それが「一瞬の面」だったと僕は受け取った。 そんな状況がすぐ思い浮かんだので僕はこれを選びました。 (西陵中一年生)