藤 本 義 一
ここに生きているということ真夜中はサナギとなりてただ思うのみ(小秋思)中学の社会科教師の資格を得た大学四年の時に、教える立場ではなく、教えられる立場にと考えて、映画界という徒弟制度に入りました。
その時、時間は一枚の桑の葉だと思い、自分は小さなカイコであり、桑の葉を貪り食って成長し、やがてマユの中に入り、ドロドロに溶けてサナギとなり、やがて蝶が蛾になると思ったものです。その時の心情がよみがえりました。
二十二歳の時から二十八歳の頃です。
サナギになる前のドロドロを詠んでほしいと切に思います。 (作 家)

三 浦 光 世
山路来て迷うところにリンドウの紫意志持つごとく輝く(小秋思) 常に人生を観る目が土台となっていて、 このような作品が生まれるのであろう。それにしても、自然を無理なく取り込んでいる作品と思う。 二句までの単純化、結句との対応、やはり凡にあらずと感じた。お互いに小さく腹を立てながら夫婦は一つ食卓に向く(同) この上句も巧みな描写。 小さなことに腹を立てつつ、 というのでなくて、「小さく腹を」 に感服。

風 来 坊
風沁みて独り真向かう氷原に我がもう一人背を見せて行く
風にいざなわれ潮騒の波の音。 生きて死ぬる闇に浸されながら独りで氷原を行く作者。ひたすら死にむかいゆく。ひとりぼっちで、突然もう一人の我が背となりて「流氷原の上に鎮まる」何もかもほどけてしまえば流氷となりて漂う我が心あり」と死の美学がありこれを支えているのは虚無の影としての「背」。この歌に誘われて西ノ京薬師寺東院堂聖観音像の背を拝みに行った。この「背」で仏像が仏像でなくなってしまっている。「おのが身の闇より吠えて夜半の秋」蕪村の句が胸に浮かんだ。すべての風景は廃墟への道程でもある。不思議な淋しさが低音としてひびいている。(寺尾 勇 奈良教育大学名誉教授 美学者)

南 日 耿 平
氷塊の一つとなりて月に照る我が分身が網走にいる(小秋思) 一首あげたが、本当は巻頭の詩〈渚にて〉。知床の氷原。 氷塊はまさしく梵我一如の空海の華厳密教の世界。氷塊は彼自身の分身。一九七二年刊の彼の歌集《夭折》の 天と地と噛みあううねる光たつ没日に海よいざなうなかれ波頭夜毎に叫ぶ海を見る海が剥がれてゆく夢をみるが彼の歌の原点であり、知床の大氷原にその海の波動、大宇宙の不思議をうたっているのである。中学生の生々しい文に接すると、彼の歌の波動のすさまじさに心打たるるのみ。大学生の彼から…今の姿・からだ・魂に再会の機をと祈念。 (近藤英男 奈良教育大名誉教授)

加 藤 多 一
ここに生きているということ真夜中はサナギとなりてただ思うのみ(小秋思)中学教員としての存在の中で、自己と下界との関係を短歌によって捉え直している(らしい)作者にとって、 サナギになりたい日もあるのだ。 教育現場はまたもや受難の時にさしかかっている。子供の権利や生きる喜びと自由よりも先に、国家目的に沿わせようとする勢力が強くなりつつあるのは、 歴史の後退ではないのか。 ま、表現としては「ただ思うのみ」が大雑把すぎるのだが、「文芸用語」あるいは短歌的修辞法では子どもと良心的な教師の苦しみは乗り切れないのだろうな――という気もします。(オホーツク文学館長 児童文学者)

島 田 陽 子

打ち上げ花火を打ち明け花火と娘は歌う秘密めきたる大人へ向かう(秋夜思) この発想は新鮮でした。 打ち明け花火……やはり世代の差を感じます。 カーテンをしてひっそりとパズルする校長独りを埋めてゆくらし 現代の校長職の孤独。立場によって見方はいろいろありますが、一人の人間として見るとき、この一首、胸にひびきます。  (詩人 詩誌『叢生』『ぎんなん』発行)

麦 朝 夫
ギーゴーグー鳴く氷原に食べられて我が一陣の風吹きて過ぐ(小秋思) 流氷を見たことはありません。猛獣のように鳴くんですね。ギーゴーグーという単純な擬声語で、巨大なものへの親しみが感じられます。見ているだけで食べられてしまうほど、広くてすごくて、もう氷原だけがあるばかり。自分を一陣の風にして、吹き飛ばしているところが、スカッとして好きです。 (詩 人 詩誌『叢生』 同人)

中 平 ま み
気まぐれな女ごころをもて遊び娘は抱き締められて収まる(小秋思)
女心(妬心)とはこういうものです。

川 口 玄
北摂の山も紅葉の色まとい雨後鮮やかに山並み迫る(小秋思)
斎藤茂吉の「最上川逆白波の立つまでに吹雪くゆうべとなりにけるかも」の歌に匹敵する秀歌と私は思います。 日本画の世界です。 (『大阪春秋』編集長)

神 野 茂 樹
我々は壊れるようにプログラムされてるらしい子を残しつつ(秋夜思)平均寿命の半分以上の年はとおに過ぎ、あと三十年ぐらいの命かな―と漠然と思い、馬齢を重ねていくのかな―と思い、いつ壊れるにせよ、ボケたくはないな―と思い、 思い、思っても仕方がないかケセラセラ。子は勝手に生きるから、いつまでも親が生きていてはいけない。だからそうプログラムされている。中途半端に壊れたら子も困る。潔く壊れたいな―。 神の手から捏造犯へとマスコミは面白そうに追い詰めてゆく(小秋思)まさしく《面白そうに》いっせいに《追い詰めてゆく》ジャーナリストが聞いてあきれる。ワイドショーと五十歩百歩。 メクソ、ハナクソ野郎。かく言う小生もその類いに過ぎないが。※二三号冒頭に島田陽子さんのお名前。小生の好きな詩人です。ユニークな面白い作品にはいつも感心させられます。 (『大阪春秋』編集委員)

佐 藤 昌 明
ちょっと言い返せばさらに過去のこと上乗せして妻憤りくる(小秋思) 桑の葉を懸命に食んで、 綾なす絹糸を無限に噴出する蚕にも似て、川添さんは五感で吸収した生の事象を鋭敏な感覚で消化し、豊富な語彙を駆使して綾なす歌として噴出できる優れた能力をもっておられる。 一度のサーカス観覧で二十首もの歌を詠み上げ、 家庭のちょっとした出来事でも、 たちどころに数首吐き出す。 そのような感覚も表現力も持ち合わせない私などには唯々驚異の世界です。 先に上げた歌と続く六首。 言い当てと表しのあまりの見事さに妻と二人感動の笑いで、 暫し、 シバレと吹雪の憂さを忘れさせてくれました。 (『北に生きて』著者)

築 田 光 雄
夢の中わがもう一つの人生が今日は波乱に満ちて消えゆく(小秋思)
今号には夢の歌が何首かあった。夢の話は、他人にとっては本人ほど面白くはない。ああそうかで終わる。 それ故に、夢を詠うのは危うい。下手すると自己満足に終始する。危ういゆえんだ。「君連れて」「犯人に」はいただけない。ぼくの好みからいえば「夢の中」がいい。夢の中のできごとを「もう一つの人生」と詠んだところがいい。ぼくたちはほんとうは「夢の中」ではなく、 この現実の日々の中で「もう一つの人生」を生きたいと、夢想しているのかもしれない。そして「もう一つの人生」を生きられないままに逝くのかもしれない。うん、せつないことだ。 (吹田市立山田東中学校教諭)

井 上 芳 枝
コスモスの小さな群れあり山小土手揺れつつ空へ輝きかえす(小秋思) コスモス画家として有名な荒木氏の 「花宇宙2001荒木幸史の世界展」を鑑賞したばかり。コスモスの花の幽玄な世界が広がります。優しさ、可憐さ、そして強さは私の心を揺さぶります。下の句「揺れつつ空へ輝きかえす」は、 風に吹かれて揺れ動く美しさ、「空へ輝きかえす」の表現は見事です。まさに生命の力強さ、 宇宙とのつながりを感じさせてくれます。 (大蔵中学校時代恩師)

弦 巻 宏 史
北摂の山も紅葉の色まとい雨後鮮やかに山並み迫る(小秋思)雨後いちだんと雄大に輝いて迫ってくる山並みの、 その堂々とした生命力を前にした感動に、大いに共感しました。やや説明的な感じもしますが、 今日の私たち(とりわけ都市の方がた)の生活がどんなに多忙とはいえ、 自然をじっくりととりこむ時間と心がほんとうに求められている時代だと思います。枯れ色の金に輝くブナの森迷うともなく深々と入る(同) ブナだけの森だったかどうかはともかく、森は人をさそいこみ、あやしい程癒す力をもっています。「深々と入る」あなたの足どりがよくわかります。 (元網走二中教諭)

小 川 輝 道
かなしみも怒りも何も一陣の風に銀杏の葉が群れて落つ(小秋思) 数々の想いを胸に抱えなから作者は三句以降で、銀杏の葉が「一陣の風に」「群れて落つ」と潔く描ききっている。深まる秋に静と動を対比させ、黄葉の風情と向き合う作者の心情が印象的である。私はいくつかの秋の秀作に感銘を受けた。北摂の山も紅葉の色まとい雨後鮮やかに山並み迫る(同) 紅葉をまとう山の鮮やかさを格調のある表現で示してくれた。枯れ色の金に輝くブナの森迷うともなく深々と入る(同) 日差しに輝くブナの森に、つい奥深く分け入った作者の自然没入の姿に共感できた。下の句の表現が実にいいと思った。 背中まで凍れる夜かオリオンの弓絞りつつ我が前に立つ(凍雲号) 北の空に輝くオリオン座の景観をうたう。自然の大きさと清澄さ、弓絞りつつに見られる緊張感もよい。青年時代、 上野の西洋近代美術館で見たブールデルの弓をひく勇者の彫像と重なった。ライオンのごときグランドピアノにて躍動しつつ弾く指の見ゆ(同) グランドピアノを表す比喩の大きさ、ピアノ弾く人の練達の指の動きに驚嘆している人の、臨場感を的確に捉えている目と無駄のない表現が心に残った。 (元網走二中教諭)

井 上 冨 美 子 
中学生揃いて歌えばこんなにもかぐわしき声伝わりてくる(小秋思) 二中在職中の忘れられない思い出に、 例年秋に行われていた全校合唱コンクール大会があります。各クラスが一丸となって、ひと月余り練習に取り組み(課題曲と自由曲)それを全体の場で発表するのです。 当日は父母の皆さんも沢山応援に駆けつけてくれました。 きっと各ご家庭でも毎日のように話題になっていたのでしょう。卒業間近になると全校生徒で校歌斉唱の練習がありますが、どうしてか生徒の声は小さく「もっと大きく声を出して」と指導されている音楽の先生に幾度も言われているのに、 この合唱コンクールの時は1\16の人数になっているのにもかかわらず力強く、 時には優しく清らかに若人の素晴らしいハーモニーが会場に響き渡るのです。審査委員にあたる方も真剣そのものです。賞を逃したクラスもやるだけはやったのだという満足感や違和感があり、 どの生徒の表情も明るく、 賞に輝いたクラスに惜しみなく心から拍手を送っていました。この合唱コンクールの後、今まで以上に各学級にまとまりができ、向上心が育まれ生き生きとしてくるのです。卒業された生徒の皆さんも、 どこかでこの時の熱い思いを心によみがえらせ明日への生きる糧とされているのではないでしょうか。 この一首を拝見した時タイムスリップして私も心熱くなりました。(元網走二中教諭)

浦 美 由 紀
捨てられて取り残されて葛の花開く荒れ地の広がりてゆく(秋夜思) 葛は好きです。 藤を逆さまにしたような豆の花のような紫は濃い葉の陰に隠れて咲き、その植物の生命力は汚れたもの、荒れた土地を覆い隠します。長野にいた頃、人の作った色々なものを埋め尽くした一面の雪野の街を美しいと感じたときのような荒れ地のあわれより覆いかぶさる葛の緑を美しいととりたいと思いました。キツネや狸がこの辺りに棲んでいた頃、〈ちょっと目をつぶって今まで見ていた建物を取っ払って土地の高低に合わせて葛を這わせ潅木を生やして〉を頭の中で考えてしまいます。(西陵中保護者)

里 見 純 世
高きより見れば縫い針縫うように特急が街に光りつつ入る(小秋夜)
この歌実に印象的で気に入りました。 街に入ってくる夜の特急のようすを縫い針が縫うように光を放って入りくるという表現は見事だと思います。 見馴れた光景を適切な言葉で捉えているのに感心させられました。 次の二首も如何にも先生の歌らしいと思いました。妻子連れ木下大サーカスに行く家族の長たるところも見せて 流氷記親しむ中学生も増え彼らの心に少しだけ入る(『新墾』『潮音』同人。網走歌人会元会長)

葛 西   操
お互いに小さく腹を立てながら夫婦は一つ食卓に向く(小秋思)
夫婦とは先生のおっしゃる通りですよ。 私も戦争中は夫と四年程は離れていましたが戦前戦後の悲しみは一口では言い表せません。五人の子育て姑つとめ夫は九三歳で旅立ち私は九十歳、娘達に見守られて安らかに過ごしております。 奥様のお怒りに今日もカラスが鳴いたとばかり優しく見守って下さるきっと心の優しいお方とお見受け致します。 私も夫存命中は腹の立つこともありましたが今この世に居らぬ人なのに今すぐ帰って来るような気持ちになることもあります。不思議なものですね、人間は。 一生とはこうして終わるのでしょう。 (『原始林』同人 網走歌人会)

南 部 千 代
接着剤剥がすごとくに眠りより現つに一歩立つまで長し(惜命夏) 一読して全く同感です。脳味噌も臓器も外しゆったりと半日せめて眠っていたい この歌思わず笑ってしまいましたが、これだけの短期間のミニ歌集作り、どれ程精力的に消耗していることかと案じてもおります。私は御歌を読むだけで疲れます。これからも楽しみにしておりますので、無理をなさらずに御続け下さいませ。網走は秋たけなわ、緑肥用の向日葵も黄からしも真っ盛りです。そしてやがてまた流氷の季が巡ってくる事でしょう。御身大切に。(網走短歌会)

エ リ
啄木や賢治を死後に認めゆく世間も詠え抗いながら(惜命夏) 毎号見た目のコンパクトさからは思いもつかないような充実した内容に、驚きながら拝見して四冊目になりました。お会いしたことはないけれど、至る所に川添英一という歌人の底力を感じます。 私が選び出した一首はなんともアイロニカルな内容を凝縮させたもの。生きているときに沢山の人に受け入れられる芸術家はジャンルを問わず少ないのだと思います。 あの啄木でさえ賢治でさえ今になって多くの人から愛唱されています。 長い年月親しまれるということも大切なことには違いないけれど、 生きている内にこそ沢山の人の心に響かせられる作品を作りたいというのが、 すべてのものを作る人間に共通の願いなのではないのでしょうか。(『短歌人』同人)

高 階 時 子
妻怒る仕組み知らんと耳栓をして表情を覗くことあり(小秋思)些細なことで夫に小言を言い、 怒る妻を詠んだ一連の作品がある。 これらを読んでいると、 舞台で喜劇を見ているような気がする。エネルギッシュなしっかり者の妻に対して、気の弱そうな夫の困り果てた姿。中でもこの一首は、自分を矮小化することによって夫婦のおかしみを表している。夫に罵詈雑言を発したかと思うや、すぐさま笑いながら電話をしている妻。 そんな妻の表情を耳栓をして覗こうとする。巧まずして表されたユーモアと悲哀感。夫婦とはおかしくてかなしくて、やはりいいものだと思う。(『礫』同人)

菊 池 孝 彦
振り向けば後ろはや無し白き道彼方まで我が足跡続く(秋夜思)長い道程を歩いて来て、 ふと振り返ると自分の辿って来た足跡が消えている。 そして、これから進むべき道に、まだ歩いていないはずの道に、地平線まで足跡が続いている。 未来はすでに、過去に先取りされているのだろうか。自分が歩み出すべき道は、自分の意思には関わらず、すでに「他者」の不可視の力によって、定められているのだろうか。 「振り向けば過去既に無し我が前を白々続く道渡るのみ」 深い思索に裏打ちされながらも、決して短歌のもつべき抒情の質を失っていない作者の姿勢に、強い共感を覚える。(『短歌人』同人)

田 土 才 惠
中学生揃いて歌えばこんなにもかぐわしき声伝わりてくる(小秋思)
流氷記の誌面を埋めている西陵中学の生徒の皆さんの文が、 いつもさわやかで澄んだ声となって響いてきます。 短歌の世界をこんなにも素敵に共有できる先生と生徒は他にはいないのではないかと思うほどです。 短歌はもうすたれていこうとしている日本の文化なのですが、 こんなところでしっかり根付いていて大変励みになります。 川添先生はとてつもない大きなお仕事を遂行なさっていらっしゃる。 歌を詠むことも大切なことですが、 短歌がとりもつ縁で人が親しく集まる幸福もあっていいのではないでしょうか。(『地中海』同人)

新 井 瑠 美
手応えもなきものばかり追う我か烏が黒い袋をつつく 時間をかけて労力を費やしていることが、 こんなに手応えのないものか。ひょっとして一生手応えのないものを追う自分であろうか。 ふっとよぎる諦観のような上句を下の句が転換させて、 読む側に投げかける暗示。作者のしたたかさをも見せていようか。「死後迷うごとき糺の森に来て風は紅葉を敷き詰めて吹く」「建物の在った所に駐車場あっけらかんと日を浴びている」紅葉しぐれを浴びて立つ作者像と、 街中での一風景を擬人法で(これが良いかどうか)軽く皮肉って見せるなど、自由な独走ぶりを今号も見せてもらった。( 『椎の木』 同人 )

田 中   栄
風沁みて独り真向かう氷原に我がもう一人背を見せて行く  一つの心象風景を大変リアルに表現している。氷原を歩いてゆくもう一人の自分、それは理想を追う孤独な自分の姿かも知れない。背(せな)の風景が沁みてくるようだ。 人は誰でももう一人の自分を持っている。 それを意識するか、 しないかであろう。 流氷原を行くもう一人の我は作者の心のふるさととも言える。(『塔』選者)

前 田 道 夫
お互いに小さく腹を立てながら夫婦は一つ食卓に向く(小秋思) 奥さんとの一寸した諍いを歌った連作の終わりの一首。 一連に詠まれている諍いは、 夫婦間における日常茶飯事の出来事であって、深刻なものではない。 かえって諍いを通して、その底にある夫婦間の愛情を感じさせるものである。この一首も「小さく腹を立てながら」が良く、 食卓に向かい合う夫婦像がユーモラスに見えてくる。はいはいはいその素直さに腹立つと妻はますます苛立ちてくるも二人の表情がくっきりと浮かんできて面白い。(『塔』同人)

榎 本 久 一
我が夢の中に雨音聞こえしがやがて現つの家包みゆく(小秋思)
夢の歌はむつかしいと言われながら、 それでもそれなりに作る人の多いのもこの夢の歌でないかと思う。そんな中で、夢の中から雨音が現実の時間へずれて来る処をとらえているのは、 見逃しそうな日常的なことがらへのきびしい眼がなければ出来ないことに思われた。ただ好みを言わせて貰うなら、「我」の字は力みすぎでないだろうか。なるようになるなるようにしかならぬ渋滞続く通学路行く も実感のこもった一首に思った。 (『塔』 同人)

小 石  薫
がやがやとモミジ葉集う窪地には水子ら風に誘われて来る(小秋思)
「がやがや」とはモミジ葉の音でしょうか。それを声と聴いたのは窪地という場所のせいなのでしょう。東京の私の街の近くに「日ヶ窪町」という所があります。昔は深い木立に囲まれた窪地であったと思われます。ある人が目の見えぬ赤ん坊の頭がだんだん青くなってゆくので気味が悪くなり捨てに行くのです。「こんな所であった」というその子は実は昔、 目が見えず捨てられた按摩の生まれ変わりであったという話が今も残っております。 窪地のひいやりと水を含む風は昔も今も淋しい思いを誘います。 窪地にたくさんのモミジが集まり、 時折それを運ぶ風の音を聞きながらきっと大勢の水子の声を聴いたのでしょう。 (『塔』『五〇番地』同人)

沼 波 明 美
流氷原砂漠と同じ人の死もただ美しく月に照るのみ(小秋思) 若い時から、いや幼い頃からと言っていいだろうか… 私は絶えず死と向き合って生きてきた。人の死ではなく自分自身の死と。いかにすれば美しく死ねるのか…その思いにいつも取り憑かれていたように思う。「人の死もただ美しく」という言葉は、死が美しくあってほしいと願う私自身と重なって感じられるのである。詞書き必ず添えて発送す大事にしたいものがあるから この歌に作者の真実を見出しています。どんなことに遭ってもへこたれず作歌続けて下さい。 (『塔』同人)

鬼 頭 昭 二
洞窟を魚となりて進みゆく曲がるところで寝返りを打つ(小秋思) 夢の歌である。 ということは作者の心の中を現わしているものと言える。作者は暗いところをさまよっているのである。それも魚のような浮遊した状態で。 一歩一歩を確かめながら進んでいるわけではない。(『五〇番地』同人)

唐 木 花 江
手応えのなきものばかり追う我か烏が黒い袋をつつく(小秋思)
烏はゴミ袋をあさっていたのだろう。 一瞬に出来上がった作品だろう。その絶望と虚無感。その鈍い音や光陰までもが伝わってくる。上句の「手応えのなきもの」と実によく合わさっている。 ただ、この場合、「追う我か」の「我」は必要であったかどうか、意見は分かれるところだろう。 黒い袋をつついている烏によって一首の核は表現し尽くされた点は見事であった。 この場は「歌会」でもあると私は思っている。 以前、塔大阪歌会の帰路、今は亡き多田さんが私にこう言われた。「あんな駄作を褒めたらあかんよ」と。以後はあまり褒めなくなった。 (『りとむ』同人)

遠 藤 正 雄
金色にブナ満つる森迷い来て帰れなくなる我が心あり(小秋思) 人は美しいものに憧れ、美しいものに誘惑される。金色に輝くブナの森には奥深く入り込んで行きたい思いにさせる魅力があり、帰れなくなるかも知れぬ不安がよぎる。次に続く歌森は羽広げて我の迷いいる心をつつく闇覆うまでの闇は…さあ大変だ!もう帰れなくなった闇かも知れない。 年齢と共に「ますます加速する」特急に乗っている不安かも知れない。迷路は所詮、終着駅に近づきつつある線路を走る列車の中の出来事であり、 迷路でも夢路でもない「帰れなくなる」という現実そのものを、 作者は暗示している歌である。

塩 谷 い さ む
詞書き必ず添えて発送す大事にしたいものがあるから(小秋思)年賀状等に一言添えられた一言はうれしいものである。 読む人にとってはすごく心温まるものを与えてくれる。 本文で書き切れなかったことを追伸に書く。 追伸の方が心を捕らえる美しい真心が見える時も屡ある。 「大事にしたいものがあるから」と言う作者の心を私も大切にしたいと思う。お互いに小さく腹を立てながら夫婦は一つ食卓に向くお互いに辛抱しあってこそ夫婦である。大きく腹を立てないように努力を続けたい。 「一つの食卓」としたいが?秋の雲の流れは迅いもの、好漢のご自愛を祈る。 にこにこと何考えて生きてんの?そんな顔してたい春の日は(新緑号) 一年のうちでほんとうにこんな日があってもいいと思うし「国民の休日」にでもしたい歌。誇張や粉飾をした歌ばかり読んでいて、こんな歌に出会うと芯からホッとする。『新緑号』に相応しく新鮮で、何回も読み返していて心から楽しくなった。長行軍の中での小休止である。遠い昔、「急いた精兵ェさん三日前に死んだ、急かん精兵ェさん金拾ろた」という歌を思い出している。月天心墓すみずみまで照らしいて生者も死者もおおかた眠る も好きな歌である。「そんな顔してたい春の日は」を「そんな顔していたい春の日」としたい。(『塔』 同人)

甲 田 一 彦
氷塊の一つとなりて月に照る我が分身が網走にいる(小秋思)
秋の月を詠んだ歌には、古来多くの名歌がありますが、流氷を照らしている月の歌が並んだ「小秋思」を三読四読させられました。この一首では、月は、網走にはいない作者を皎々と照らしているのですが、ここまで歌いあげた力量に感動しました。作者をこれほどまでに引きつけてやまない網走と流氷―私はまだ流氷を見ていないので、 一度は網走の海の流氷に心ゆくまで対面してみたいと痛切に思わされています。作者の分身を奪い取ってしまっている氷塊というヤツに対決するために。 はいはいはいその素直さに腹立つと妻はますます苛立ちてくる(同) 家庭生活を男の立場で短歌にすると、 靴下の片っぽ不明や、置き方が粗雑、ちょっと言い返せば… が夫婦の諍いとなり、なかなか面白い作品となることを示しています。作品がまた諍いのもとになることを恐れて、作らないことが多いものです。 作者の率直さに敬意を表してこの作品を取り上げたのですが、 この流氷記を陰で支えておられる奥様にも敬意を表します。 「お互いに小さく腹を立てながら夫婦は一つ食卓に向く」夫婦というものの温もりがこういった作品からしみじみと伝わってきます。 (北摂短歌会会長。『塔』同人)

平 野 文 子
かなしみも怒りも何も一陣の風に銀杏の葉が群れて落つ(小秋思) 与謝野晶子が、山川登美子、増田雅子合著の詩歌集『恋衣』に所載された「金色の小さな鳥のかたちして銀杏散るなり夕日の岡に」の一首が思い出されました。 少女時代からずっと好きな歌でもありました。 変わってこちらは散り行く銀杏の葉の何気ない嘱目の歌でいて、その内面には激しい作者の感情を鮮明に移入、沈潜されている。ただ二句の怒りも何もの「何も」は一陣の風に対応する作者の感慨が流されそうで、少し気になりました。(北摂短歌会。『かぐのみ』)

中 村 佳 奈 恵
白熱灯見て目をつぶればふらふらと水母漂う宇宙となりぬ(小秋思)
私もこの歌と同じことをしてみたが黒い月の後ろに白い輪が見えただけだった。これは皆既月食に似ているなあと思った。いわゆる残像現象なのだけど先生には私のよりもっと動きのある広がった世界(水母の漂う海中ではなく宇宙!)が見えているんだなぁと思う。もう一つ私が驚いたのは高きより見れば縫い針縫うように特急が街に光りつつ入るという歌である。先生の歌はいつも目の前にその光景がまるで映像を見るように現れるのだ。 私は今までいろんな光景を先生の歌から見せてもらうことができた。 また先生は網走で経験された自然の不思議さ、素晴らしさをいつも心に温めることが出来てうらやましいと思う。 (西陵中三年生)

若 田 奈 緒 子
人間の夢の世界に動物は当てはめられて従うばかり(小秋思) 火の輪をくぐり、玉乗りをする動物達。 強制的に芸を教え込まれ、たくさんの動物が自由を奪われているのに、この歌を読むまで、私はサーカスは華やかな世界だと思い込んでいた。 期待でいっぱいの客に芸を披露する動物達は、大草原に憧れたり、大自然の中で生きることを夢見たりはしないのだろうか。 今まで私はそんなことを気にも留めたりせずただ動物が芸をする、 その事だけに興味と期待を向けていた。これからもたくさんの動物の自由を奪い、サーカスは開かれるだろう。人間に一時の夢や感動を与えるために。

高 田 暢 子
がやがやとモミジ葉集う窪地には水子ら風に誘われてくる(小秋思)
この歌を読んだとき私がまだ小学生の低学年の頃に亡くなった弟のことを思い出しました。 その時私は悲しみというものをほとんど感じませんでした。しかし、最近になって秋のこの時期にモミジやイチョウを見ていると、無性に寂しくなり、弟のこともよく思い出すようになり、 私は初めて植物、特に長く生きてきた木に、人の目を楽しませるだけでなく、 人の寂しさや悲しみを伝える力を感じました。 (西陵中三年生)

福 島 悠 子
皆が気がつかずしぶとく咲いている小さな花のほほ笑みが見ゆ(小秋思)この歌を読んだ時、ふと私の頭の中にタンポポの花が見えた。タンポポは雑草だけどとても美しい。何が美しいかというと、踏まれても踏まれても力強くしぶとく生き生きと咲いていることだ。私にはそんなタンポポが笑っているように見える。苦しい事があってもめげずに「がんばれ」とほほ笑みかけているように思う。 人々はあまり気づかないかもしれないけど、 タンポポは目立たない所で小さくほほ笑みかけていると思った。 (西陵中三年生)

小 西 玲 子
地の果てまで続く氷原くっきりと満月そこに在るように浮く(小秋思) この歌は何だか懐かしい気持ちがしました。 見たこともないのになつかしい気持ちになりました。 地の果てまで続いている道はとてもとても長いと思う。 でもその満月が今よりもっと近くで見れたなら優しい気持ちになれそうだと思いました。 本当は全然手に届かない月も、この歌ではすごく近く感じました。その月に届くような気がしました。 氷原の中に包まれているような満月でもとても温かいような歌だと思いました。 (西陵中三年生)

内 田 恭 子
白熱灯見て目をつむればふらふらと水母漂う宇宙となりぬ(小秋思)思わず声を立てて笑ってしまった歌。事実、白熱灯を見てから目をつむると、瞼の奥に光の残像が残る。誰でも知っている事だと思う。その光を水母と表現したり、瞼の内をちょっと大袈裟に宇宙と云ってみたりしてある所がユーモラス。 シリアスな歌の合間にもこんな楽しいものがあって、先生の歌って好きだなーと改めて思った。がやがやとモミジ葉集う窪地には水子ら風に誘われてくる(同)お寺や墓に必ずある赤いよだれ掛けを着た水子地蔵。母親の手に抱かれることも知らないままとなってしまった彼らを思うと、 とても悲しくなる。流産ならまだしも、堕胎した子供は本当にいたたまれない。この歌は、モミジの赤、窪地の茶色のコントラストが、哀しげな雰囲気を醸し出していて痛切だった。 彼らの悲しみが集うことで少しでも和らぎ、モミジ狩りを楽しめるよう、そして水子達が増えることのないよう、切に祈っている。 (西陵中三年生)

四 方 真 理 子
ひたすらに歩む人らの背中見ゆやがて彼方へ消えてなくなる(秋夜思) この歌を読んだとき、今の友達がいつか私の前から「消えてなくなる」と思いたくありませんでした。今までに転校してしまった友達や引っ越してしまった知り合いの人はたくさんいます。だけど、またいつか会えると思っていたので残念でなりませんでした。 しかし実際はもう会うことができない人もいるし、 既に忘れている人もいるかもしれません。 こんなふうに別れてしまう場合もあるけどくじけずに頑張りたいと思いました。 (西陵中三年生)

白 石    愛
駅前でもらったティッシュと流氷記仲良く右のポケットにある(小秋思)とてつもなく流氷記を愛しいつも肌身離さず持ち歩いておられる先生の姿が目に浮かぶ。 毎日のように駅前で配られるティッシュと、先生にとって大切な必需品の個人誌を結び付けた表現が、おもしろい。人生の一瞬一瞬の体験や感動を、流氷記という歌のアルバムに残せることはすばらしい。私も、私自身であるという生きざまを残せる何かをこれから探していきたい。北摂の山も紅葉の色まとい雨後鮮やかに山並み迫る(同) 目の前にこの景色がすぐ浮かんできた。「紅葉の色まとい」の擬人法も、一層この景色の美しさを引き立てている。 また、雨の滴が太陽の光に反射して、葉がより色鮮やかに輝いている様子から、 自然の持っている色彩のすばらしさが伝わってきた。 (西陵中三年生) 

齋 藤 萌
寂しくも一人で死んでゆく君ら皆と同じでない生き方を(秋夜思) 他人の生き方をうらやましく思ったり、自分の生き方がどうしても嫌になってしまう事はきっと誰にでもあると思います。そして、どんなに好きな相手がいても、どんなに想われていても、同じ日、同じ時刻に死ぬことはできないんだなぁと、この歌を読んで思いました。けれど、一人で死ぬことを「寂しい事」と思わなければこの歌は決して悲しい歌ではありません。自分らしく生きるには自分の良い所を見つけ、好きになることだと思います。私自身、自分を好きになれたら「一人で死ぬ」ということが怖くなくなるのではないかと思いました。(西陵中三年生)

清 原 真 理
ゴール前順位際どく入れ替わる走者に合わせば観客淡し(秋夜思) 体育大会があったのももう二カ月以上も前のことなんですね。受験生ということもあってか月日の流れがとても速く感じます。けれどこの歌を見た瞬間、つい昨日の出来事のように思えました。一番に浮かんできた情景は最後のゴール前で抜かされて負けてしまい、抜かされた人が悔し涙を流していたところでした。私には勝者よりむしろ敗者の方が輝いてみえとても感動しました。 受験を控えて勉強!勉強!となる時期ですが、 この感動を忘れずにいたいと思います。 (西陵中三年生)

吉 田 和 代
コスモスの小さな群れあり山小土手揺れつつ空へ輝きかえす(小秋思) 秋桜とも呼ばれるコスモス。 その種がどこからやって来てなぜそこにあるのかは誰にも分からないけれど、まるで「空へ輝きかえす」かのように秋空に向かって咲いている薄紫達が、目に浮かびました。 コスモスは夏に咲く花のようにきらびやかではありませんが、秋から冬に近づくにつれ、なんだか寂しくなる私の心を暖かくしてくれます。また、コスモスからだけではなく、たくさんの自然の移りゆく姿に、私たち人間の一人一人違う、完全に満たされきっていない心は和やかになるのだと思います。 (西陵中三年生)

高 谷 真 奈
見上げれば空中ブランコ揺れゆれて次々魚のごと人が飛ぶ(小秋思) サーカスは私たちを夢の世界へ連れていってくれます。 たとえ夢がない大人と言われていても、 子供から大人まですごく楽しんでいるところを見ると、 やっぱりみんな夢があるなぁとつくづく思います。 空中ブランコは人がやっていて本当に魚のように飛ぶけれど普通の人達から見ると信じられないようなことです。 華やかな舞台の裏では団員達は恐怖や不安、 そしてかなりの練習をしているはずです。 そんなことを見せないサーカスの団員はすごいと思いました。 (西陵中三年生)

井 川 雅 崇
ライオンが象がピエロが群衆の拍手と視線を浴びて去りゆく(小秋思) まるで僕ら受験生のようだと思った。 ひとときの夢のような幻想的な世界。そしてそれが終わった時、ふと現実に引き戻されその夢の世界とは反対の辛く苦しい世界を見出す。まさに、中学生活を青春を謳歌した後に、 辛い受験戦争によって今を嘆く受験生のようだ。それでもまだ僕らは夢を見たい。今ある夢は今しか見ることができないのだ。そして夢を見た後、己の目の前に広がる現実の重み、そして後に残してきた夢の広さをどうとらえるかを、僕はこの歌が教えてくれるような気がしてならない。 (西陵中三年生)

川 野 伊 輝
気まぐれに指に潰しし蟻のごと不運も時に唐突に来る(秋夜思)つい最近、とても親しかったおじさんが亡くなりました。山仕事のとき突然大木が倒れ、押し潰されたそうです。まさにこの歌のように突然不運は襲ってきました。しかし、突然の不運よりもその後の大人たちのやり取りの方が悲しく感じました。 遺産についての醜い争いでした。人が死んだ後にはこんなことしか残らないものでしょうか?僕はそんな人間の方が不運なんじゃないかなと思いました。不運は突然来るものではなく、人間が常に背負っているものではないかと、いろいろ考えさせられ、更に一歩成長したような気がした歌でした。 (西陵中三年生)

豊 蔵 祥 一
ゴキブリといえども命重からんトイレの隅に仰向けて死す(惜命夏)この歌を読んで人間もゴキブリも命の重みは同じなんだと思った。 人間からゴキブリを見ると何でゴキブリなんかいるのかなと思うこともあると思う。 でも反対にゴキブリから人間を見たらどう思うだろうか。僕はきっとゴキブリも何で人間なんかがいるのだろうと思っていると思う。 もしもゴキブリが言葉を話せて人間と話し合っても結論は出ないと思う。 人間だってゴキブリのせいで伝染病などになるのは嫌だし、 ゴキブリも殺されるなんて嫌に決まっているから…。命は一つしかないのだから、お互いに出会わないのを祈るしかないのだろうか。(西陵中三年生)

脇 田 真 美
ここまでに生きてこられたのは不思議奇跡に近いと思うことあり(秋夜思)人間誰もが危険な目に合ったことがあると思う。私にも、あの時もう少しタイミングがずれていたら死んでいたかも…という経験がたくさんあります。 死んでしまうことはとても簡単なことです。それでも生きている私たちはそれだけで素晴らしい力を持っていると思います。その奇跡を大切に、無駄にならないように一日一日をしっかりと過ごせていけたらなと思いました。(西陵中三年生)

松 田    香
人間の夢の世界に動物は当てはめられて従うばかり(小秋思) この歌は私たちにも当てはまるなって思いました。人間が自分の世界で自分の好きなようにさせるように、 私たちは親の世界で親が「こうやって育てるぞ」というふうに私たち子供も親の世界に当てはめられてるようなので「早く大人になりたい」という気持ちと同じように、 動物達も「何でおれたちが」という感じで思っているんだろうなと思いました。動物も人もかわいそうな気がします。(三年)

小 野 二 奈
スピードに乗ってしまえば後戻り出来ぬ哀しき仕組みがありぬ(惜命夏)悪いこと良いこと両方とも気が付くとなかなかやめられません。例えば、二時間と決めて買い物に出掛けたものの、五時間があっという間に過ぎてしまい、帰ってからと決めていたスケジュールがすべて狂ってしまうこともよくあります。しかし、一方、美術などのポスターや作品は一度いい案が思いつくとその作業を終えるまでやめられません。きっとこれは、誰もがなることで、いいことだと思います。スピードに乗ってどんどんひらめいてくるからです。スピードに乗る時にはちゃんとけじめをつけないとといつも思います。 脳味噌も臓器も外しゆったりと半日せめて眠っていたい(漂泡記) 先生がなぜこの歌を作ったのか分かるような気がしました。 「先生」という職業はやりがいのある仕事で子供と分かりあえれば楽しい仕事だと思います。でも一方、なかなか認め合えないという生徒もいると思います。 全てを分かり合うことはむずかしいけれど、 その人の一面を理解することは可能だと私は信じてみたいです。 先生の「疲れた心」を少しでも回復させてくれるような生徒が少しでもいるから頑張れると思います。 私もそんな生徒のうちの一人になれるように少しずつ努力していきたいです。 (西陵中三年生)

山 口 真 実
割引の買い物僕に頼みいる妻の口調はおだやかになり(小秋思) この一首を見てその様子が生き生きと想像できておもしろいと思いました。 この一連には他にもおもしろい歌がいくつかありました。 私もこういう経験を何度もしてきました。 いつもと違う口調で話しかけられてくる時には、 用事を頼まれたりいろいろな場合があるのですが、 本人達は、 自覚があって口調を変えているのかいないのか、私にはかなり疑問です。 (西陵中三年生)

古 藤 香 緒 里
我が授業聞きつつ窓の外ばかり見ている生徒我のごとしも(漂泡記)
私は、空が大好きです。ぼぉーっとするのも大好きです。だから、この歌を読んだとき、素直に共感できました。 授業中、分からなくなったり集中できなくなった時は、 必ずといっていいほど外を見ます。空を眺めながらぼぉーっとするのが好きだからです。しかし今年は受験生、外を見る時間は減らさないといけません。 若者の無気力すらも呑み込んで骨なく肥大してゆく社会(惜命夏) 私にとって今の社会はあまり好ましいものではありません。 今の社会は人間の心や気持ちを大切にしているのでしょうか?私は大切にされていないと思います。もし、人間の心や気持ちが大切にされていたら…人間の中身が豊かだったら…若者もきっと無気力にならなかったと思う。今、社会に対して無関心な人もいる。 ずっとこのままだったら…すごく怖いです。 (西陵中三年生)

大 谷 紗 千
ためらいを捨てて打つべき幾つかの瞬時を海豚となりて跳ぶべし(秋夜思)この一首を読んで、私はますますイルカが好きになりました。 それは、海面を何のためらいもなく、ザブーンザブーンと気持ち良さそうに跳び撥ねているイルカがとても勇ましく見えるからです。私もそんなイルカのように、ためらいを捨てていろんなことにチャレンジしていきたいです。(西陵中三年生)

北 川 貴 嗣
てきぱきと何を処理して改札機我が許されて扉が開く(新緑号) 此の歌を読んで、人間の技術は進歩したなぁと思いました。つい最近まで間近にあった改札口の判子押しの駅員の姿が、 遠い昔のことのように思われます。「我が許されて扉が開く」に、とてもユーモラスな印象を受けました。 しかし、きちんと切符を買ったのに「我が許されない場合」は厄介です。 果てしなく澄む青空に雲の群れ白く輝き凍りつつ行く (凍雲号) この歌を読んだとき、ぼくはあの大雪の日のことを思い出しました。暖冬、暖冬といいながらも、結局派手に降ってくれたあの大雪です。あの日の朝の雲は、この歌と同様、凍りついたみたいでした。外気をピーンと張り詰めていました。そこを「雲が凍りついている」と発想したところはさすが先生と思いました。(西陵中二年生)

野 村 充 子
我が前に次々開く白き道ためらいもなく歩みゆくべし(秋夜思) 私はこの自然の歌が大好きです。 何か見た目はパッとしないかもしれないけど、素朴な味が出ていていい。自分の前にはまだ開かれていない白い道。 ためらわず地を踏みしめて歩んで行きたい。この歌は私の中の何かと結び付き、新たに決意を強めるものとなった。傷つけぬ言葉を選びするうちに声の勢いだけで負けゆく(金木犀)この一首には私も思い当たる時が時々あります。 相手は傷つくまいと思って言った一言が、相手を傷つけてしまったり、この歌のように、 相手を傷つけない言葉を選んでいるうちにポンポンと逆に言われている時の自分が、 妙に情けなくなるときがあるのです。一体どうしたらよいのでしょうか? (西陵中二年生)

宮 本 浩 平
銀杏散る下にて竹刀振る少女声高らかに秋も過ぎ行く(小秋思) この歌を見たとき僕は秋という季節を感じた。少女の声がまるで秋全体に響いてだんだん小さくなっていくような感じがした。そんな秋のイメージに魅かれて僕はこの歌を選びました。銀杏の散る下で竹刀を振る少女…この少女は「秋」というしんみりとした季節の中に「高らか」な声をあげ、竹刀を振って秋を越そうとしているんだと僕は思った。「秋」という季節は何でも響かせてしまう季節なんだなと思った。(西陵中一年生)

山 口    藍
万葉集教えるときに身内より湧き出でてくる何かがありぬ(小秋思) 川添先生の授業で、万葉集をする時がある。私はとてもそれが楽しく、普段の日常生活の中でも役に立つこともある。先生は授業の中でいつも、日常生活のことや対人関係のことなど、いろいろなことを話してくれる。私は、そんな川添先生の話を聞いてとても大切なことを教えられた。 それは、自分は自分の意志を持つこと、人の事を言っても、何の意味にもならず、言った本人が傷つくだけだということ。万葉集の中の歌にも、こういうようないろいろな日常生活の出来事が込められているんだと思った。 (西陵中一年生)

青 田 有 貴
曲芸を危なっかしくするピエロ予定通りの失敗をする(小秋思)
私がサーカスを見たときのピエロは空中ブランコに失敗していました。ある意味ピエロの方が大変なんじゃないかと思いました。私はピエロは偉い人だと思います。 もしピエロの方か上手に見えたら面白くも何ともないです。上手でも下手に、かっこよくではなく、面白くする。ピエロって大変だなと思います。 かっこよくやっていく人がいるからピエロが必要なんだって思いました。 真剣にやっている人もすごいけど私はピエロの方がすごいと思ってしまいます。 失敗しないようにではなく成功しないように考えることは私には出来ないと思いました。 (西陵中一年生)

古 田 土 麗
妻子連れ木下大サーカスに行く家族の長たるところも見せて(小秋思) 私はお父さんと昨年行きました。 とっても凄かったので思わず拍手をしてしまうくらいです。家族でこういう所に行くと家族の愛が深まると思います。何か愛っていったら恥ずかしいけど素敵なことだと思います。でも大人になるにつれて家族の愛は減っていくのではないでしょうか。悲しいことですが、いつかは私にも来るのだと思っています。その時に一番悲しむのは誰だろう。もう一度振り返ってみたいです。 (西陵中一年生)

二 瓶 加 奈 子
神の手から捏造犯へとマスコミは面白そうに追い詰めてゆく(小秋思) マスコミは人のプライベートなことにも突っ込んで騒ぎ立てます。見ている方には情報がいろいろ分かっていいけれど乗せられている方は良いことだといいけど悪いことだと腹が立ちます。でも、マスコミの人達もこれが仕事だと思うと何も言えません。

蘇 鉄 本   昴
夢を見ているのだろうか薄暗き中に浮かびて人空を飛ぶ(小秋思)サーカスを見たときのことを思い出した。サーカスの人が空中でいろんな芸をしているのを見て、夢を見ているのだろうかと薄暗い心境の中で不思議に思う。本当にこの歌のとおりに見ていた気がする。ボロカスに僕に怒りてその後に妻の電話の笑い声聞く こういう経験はよくあります。悪いことをして母に叱られていて、怒られている途中に電話が鳴り、その電話を持って向こうの部屋に行ったかと思えば笑い声が聞こえる。さっきまであんなに怒っていたのになぜそんなに笑えるのか不思議に思ってしまう。そして電話が終わるとまた怒られ続け……。(西陵中一年生)

松 川 実 矢
コスモスの小さな群れあり山小土手揺れつつ空へ輝き返す(小秋思)すごく気に入りました。私はコスモスが大好きで、この一首のような風景の所に行ってみたいなぁと思っています。絶対きれいだと思っています。この一首からもきれいな風景が浮かんできます。白熱灯見て目をつむればふらふらと水母漂う宇宙となりぬこれは私が前号で選んだミミズの歌に似ている一首で「あっ」と思いました。 実際にやってみるとすごくきれいでした。先生の歌はきれいなものが多く、先生が一首にするときれいにたとえてくれるので読むのが楽しいです。(西陵中一年生)

隅 田 未 緒
お互いに小さく腹を立てながら夫婦は一つ食卓に向く(小秋思)恋人や友達は少しのケンカで別れてしまう事があるけど、夫婦はやっぱり仲がいいと思った。 先生も夫婦仲良しなんだなって思った。ケンカした後に自分から謝れる人はすごいと思うけど、夫婦って謝らなくてもいつの間にか仲直りが出来る関係だと思う。 それは凄いことだしすごく羨ましい。 私ももう少し大きくなったら夫婦のように仲良くできる友達や恋人とかがいっぱい欲しいなって思った。パンツ丸出しで昼寝をする娘この無邪気さにしみじみといる(惜命夏) この前公園で、スカートをはいた女の子がブランコに乗っていた。パンツが見えているのに平気で気持ち良さそうに乗っていた。私は《かわいい》と思った。自分をアピールしているのでなく、パンツが見えることより遊びに夢中になっている無邪気さがかわいいと思った。だんだん大きくなるとそんな無邪気なところがなくなってしまう。本当のかわいさって、小さい頃のようにありのままの自分の時だと思う。先生の娘さんも暑いからパンツ丸出しで寝たんだなぁってかわいさが伝わってきます。

根 岸 恵
稽古積み重ねてもなお勝ち負けにこだわり基本を外す者あり(秋夜思) 一番になることを目標に一生懸命練習しても結果が出せなかった時は本当に悔しい思いがする。しかし、勝って一番になることよりも大切なこと、忘れてはならないことがあるのではないか。一生懸命やれるだけのことが出来た時くらいは自分を褒めてあげてもいいと思う。それでもやはり勝ち負けにこだわってしまうのかもしれないが…。(西陵中一年生)

金 指 な つ み
流氷記親しむ中学生も増え彼らの心に少しだけ入る(小秋思) この歌には私も同感です。 とか言う私もその一人。 私は小秋思の時から流氷記に出させていただきました。このようにまた一人、また一人と流氷記を親しむ人々が増えていくのは、 とてもいいことだと思います。「彼らの心に少しだけ」と詠っていますが、私には少しだけではなく、たくさんですけどね。 暑いのにぺたぺた体寄せてくる娘を払いのけつつ楽し(惜命夏) 川添先生と娘さんのやり取りがしみじみと感じられます。 暑いのに娘さんに体を寄せられてもっと暑いのに、 でも娘さんとのやり取りが楽しいというほのぼのとしたとても可愛らしい歌だと思います。 私にはこんな日があったかなぁ。そんなことを思い出そうとした私もいました。

小 山 香 織
グラウンド小さな地球傾けて走れば青い空まで動く(秋夜思) この一首を読んで「私もこの地球に住む一人なんだ」と思った。走れば走るほど青い空は続いていく。動けば動くほど太陽と月はついて来る。前々から何でついて来るのか不思議に思っていたなぁー。地球の先端部分まで行くと落ちてしまうのか、それとも向こう側に廻ってしまうのかと思った。酸素があり、森林があり、生き物が住んでいるこの《地球》があって良かったと思う。その地球に住んでいる私は、すごく嬉しくなった。地球は第二の母親という感じがした。(西陵中一年生)

竹 中 亜 弓
金木犀匂う裏道ランドセル少女の声の束の間はずむ(小秋思)「ランドセル少女の声の束の間はずむ」の所をみて、私にもこんなことがあったなあ、と思いました。 小学校一年生の時には先生、学校の皆と帰り、六年生になったらいろんな話をしていたなあと。 「金木犀匂う」そのいい匂いがよみがえります。その道をランドセルを背負った女の子たちが楽しく話をして声が弾んでいる、 そんな場面が浮かびます。 忘れてはならない私の大切な大切な時代の一つなのですから。コスモスの小さな群れあり山小土手揺れつつ空へ輝きかえす(小秋思) コスモスが群れになって土手で揺れながら空に向かって、「私たちはここよ。見つけてちょうだい」と言っているように思えます。そして、月や星がそのコスモスたちを見つけたらコスモスたちは「あー、やっと見つけてくれた。忘れられたかと思ったよ」と思いながら頷くかわりに空へ輝き返している。私もこんな感じになりたいなあと思いました。(西陵中一年生)

白  石    愛
気が付けばもう曼珠沙華立ち枯れて彼岸の遠く秋深みゆく(秋夜思) 忙しい日々に追われながら、ふと気づくと、道端にきりっと立って咲いていた曼珠沙華が、あっと言う間に立ち枯れてしまって、秋の深まりを感じます。そんな光景が何だかちょっぴり寂しく、またちょっぴり物悲しい感傷的な気分を誘ってくれました。 私達三年生も、受験勉強で忙しい日々を過ごしていますが、本当にもう少しで入試、卒業という日が迫って来ています。時が経つのは速いものです。 渋滞の車を束ね越してゆくバイクの悪の快感にいる(秋夜思) 実によく目にする光景です。「悪の快感」という表現が、滑稽で大変面白く、気に入りました。 渋滞の車の間を悠々と、また颯爽と擦り抜けて行く気持良さが的確に表現されていると思うからです。「悪いな」と思いつつも、 その快感に浸る気持ちに共感を覚えました。 (西陵中三年生)