寺  尾    勇
いつか見しごとくに山下繁雄描く闘鶏空の彼方まで吠ゆ(水の器) 一管の筆に託してただ軍鶏一路にひたむきに生きた平城画工。戦時には挙国玉砕に敢えて後ろ向きとなり瓦全堂と号した山下繁雄が中秋名月の夜彩光院秋月居士の名で小さな骨箱におさまり本望通り地獄の消印で無事安着の知らせを受けて四十三年の歳月が流れた。生前から退屈の極楽より遥かに筋の通った軍鶏地獄に行きたいと云っていたから悠々とあの世で暮らしを楽しんでいるだろう。山下と深い血脈をもつ作者が「空の彼方まで吼ゆ」の一句に山下の孤独をつきつめた。六甲山麓に住んでから肌身離さず愛蔵して来た―彼から授与された―闘鶏の油画にこの句をわたしはひたすら読み上げた。    奈良教育大学名誉教授。美学者。

南 日 耿 平
いつか見しごとくに山下繁雄描く闘鶏空の彼方まで吠ゆ(水の器) 九十五歳を迎えられた寺尾勇教授との邂逅によって、あなたも私も、美の世界にのめりこんだ。私も米寿は過ぎました。山下画伯も御紹介いただき《闘鶏》の絶品描いていただきました。書道科にいて文学青年。今日本の書道界に欠けているのは文芸に対する理解と根底となる《宇宙論的な霊性》と《美の哲学》への波動。視覚構造としての書論一本槍ではのど自慢にすぎません。書への情熱そのまま短歌にも注がれているのを見てうれしい限り、老生も俳句の岡井省二先生と出会い、《槐》誌上で岡井美学を連載。学会でも「新世紀のスポーツ文化論」の著書で《スポーツ曼陀羅》を書いて、九十の坂をみつめています。
奈良教育大学名誉教授。体育学者。

三 浦 光 世
こんなにも眠りが気持ちいいのなら死もまたいいものなのかもしれぬ(水の器) 三十年も前であったろうか、私は自分が死んでいく夢を見たことがあった。その時、死ぬのはこんなに楽なものかと思った。右の作を見て、その夢を思い出した。普通の言葉で、このように人生の重大事を詠み上げることはむずかしい。こういう作品に私は魅かれる。むろん、死は厳粛な事実であり、悪夢のような死もあるかも知れない。何れにせよ、この一首、決して安直な姿勢から出たものではない。人生を深くみつめていなければ生まれない作品と私は思う。

加 藤 多 一
横たわり水の器となりながら人間のこの奇妙なかたち(水の器)
好きだなあ。この歌― 『水の器』とは何か、よくわからないところがまず好き。口から尻まで「人間は一本のクダに過ぎない」とも読めるし、プールか浴槽でこの限りある骨と肉の運命をかかえこんでいるのかもしれない。
そうか。音のひびきも快いのだ。Y音で始まる音のやわらかさ―そして「この」「奇妙」「かたち」と続くK音の硬質な、そして存在の本質をつきとめようとする意志の硬さと表現の独自性。つい緊張する身体の哀しさよ― (オホーツク文学館長・児童文学者)

深 尾 道 典
耳栓をすれば聞こえるせせらぎよ我が末端まで血液巡る(水の器)
『流氷記』には、川添さんの、身体に関する独特の感覚があらわれている歌が何首もあると、かねてから思っていましたが、今回の標題「水の器」の元になっている「横たわり水の器となりながら人間のこの奇妙なかたち」などは、その最たるものでしょう。一度、第一号から、そうした視点から読み直してみたいと思っています。   (シナリオ作家・映画監督)

清  水    敦
建物の在った所に駐車場あっけらかんと日を浴びている(小秋思)人の心には幻想という四角いコンクリートの塊が居座っていて、ある日ひょんなことからそれが壊れて一挙に広い視界が現れてせいせいということがある。 日本の民主主義、自由、学校教育が四角いコンクリートの塊でなければよいのだが。 お手紙と流氷記頂きました。 小生目下個展間際の製作中で全 てをゆっくり拝見出来ませんが右記のようなものでよろしいで しょうか。 今日のバヘリズム(コミニュケーション不能現象)の 中にあって貴兄の試み(お仕事)に敬服いたします。
流氷の訪れており無人駅
版画家。『わたしの流氷』同人。お便りもあまりに素敵で…

江 口 節
川と海の間の濃さにて我が裡をくまなく巡り水流れゆく(水の器) 私も、体内に流れる水を感じて、詩に書きました。男の方も似たような感性があるのですね。水の惑星に棲むものは、やっぱり書きたくなるのでしょうね。 薄白き霧氷の森に迷い来て足跡続く目が覚めるまで きっと、目覚めている時はもっと迷っているんでしょうね。この絶望感の切実さに、親近感を覚えました。(詩人 『叢生』同人)

小 野 雅 子
建物の在った所に駐車場あっけらかんと日を浴びている(小秋思) 私の住む船橋でも駅前が再開発のため、 毎日のようにその景観を変えている。 建物がなくなってみると、そこは何だったのかもう思い出せない。人間の記憶のあやふやさ、目に見えるものしか分からない哀しさ。そして建物があった地面は驚くほど広い。そこに隈なく日が降りそそいでいる。建物がなくなった理由はいろいろあるだろうが、それはその土地には関わりのないこと、駐車場になった土地は重い建物から解放されてほっとしているかもしれない。擬人法の生きた、奥行きのある作品と思う。『地中海』

米 満 英 男
膀胱といえども泉湧くような黎明のわが水脈浮かびくる(水の器) 人体という器がかかえている五臓六腑のその摩訶不思議な機能――。いろいろな食物を食べ、いろいろの水分を摂取しながら、固体と液体とに分けられて、きちっと体外に排泄される。あまりの見事さに思わず感嘆し、ときには心底感謝の言葉さえかけたくなる。この歌、まさにその《おどろき》と《よろこび》を、鮮やかに、しかも清冽な詩的イメージとしてとらえ、かつ表現している。夜明け、こらえていた排尿の快感を知るものは、すなわちその身の健やかさと心の脈動を保ち得ているものだろう。『黒曜座』代表

桑 原 正 紀
諍いのあと言い過ぎた部分だけ優しく妻としばらくをいる(水の器) ながく夫婦をやっていて一度も喧嘩や諍いをしたことがないというのは希だろう。この事後処理はまことにやっかいで、他人ならばしばらく会わないでいるとか絶交するとか、手軽な処理方法をすぐに思いつくが、夫婦となるとそうはいかない。「別れてやるッ」などという言葉が実現するのはまずめったになく、大抵どちらかがにじにじと間合いをつめて仲直りをはかることになる。この歌もそうした夫婦間の微妙な間合いが感じられておもしろい。「言い過ぎた部分だけ」というのがことに絶妙だ。(『コスモス』同人)

川  口    玄
格安で暖かそうなジャケットを妻は文句をいいながら着る(水の器)人生の幸福な時間の一つを絵にしたような歌。穏やかでありふれているが、適度の満足感と楽しい気分の妻、それを見ている自分を想像するのだが、夫婦ともに平安な気分に浸っている瞬間ではないだろうか。生きて目覚めている時間は何億秒あるのか知らないが、その一秒一秒の間、どの一秒間も平和で楽しい気分のまま一生を終われれば、幸福な一生となる。…と思うんだがなかなかそうはいかぬ。『大阪春秋』編集長

神 野 茂 樹
親も子もしばしほどけて殺気持ち百人一首の札奪い合う(水の器) 理屈ではなく、ハッとする何かでいつも選んでいます。とある会で、私は月に千首を詠みますと、とある結社の選者が誇らしげに話していましたが、イヤな女です。 《やは肌の熱き血潮にふれもみでさびしからずや道を説く君》初めて読んだときの驚きといったら、そらんじてしまったくらいです。そんな歌を期待します。『大阪春秋』

井 上 芳 枝
直ぐ下に洞海湾在り枝光の坂を上れば振り返り見ゆ(水の器)
懐かしい枝光の地名、わが古里です。私は北九州の八幡生まれの八幡育ち。旧八幡市歌の一部「たちまち開けし文化の都」の製鉄所の巨大な煙突が立ち並ぶ鉄の都に、結婚後も縁あって今日まで七十三年、「住めば都」です。生家から洞海湾はよく見え、ある詩人は「眼の下の街のすぐ向うは海で、ギリシアの島の上から見た船着き場のようだ」と歌っています。亡き父が若いころ洞海湾で泳いでいた話を、しみじみと今思い出しています。懐かしさの込み上げてくる歌です。     大蔵中学校時代恩師

鈴 木 悠 斎
横たわり水の器となりながら人間のこの奇妙なかたち(水の器)流氷記二四号は『水の器』と題されています。「水の器」?はて、どこかで聞いたような名だと思ったら、そうそう『砂の器』です。松本清張のこの小説は映画にもなりました。 川添氏がこの作あるにもかかわらず、敢えて『水の器』としたのは、この歌になみなみならぬ愛着と自信を持っているからでしょう。 人体の約70%は水分であるといいます。ならば人間は『水の器』に違いありません。「考える葦」なんかとちゃうちゃう。「万物の霊長」ともちゃうちゃう。 人間なんてとてもそんな気の利いたもんとちゃう。「水の器」で充分や。けったいな形で充分や。 書家

佐 藤 昌 明
世の中で布団の中ほど心地よいものがあろうかしみじみといる(水の器)多忙な現職でこれだけの素晴らしい仕事をされている川添さん、 身体的にも肉体的にも随分と疲れているのでは…とお察しします。 他の人以上に眠りによる再生に魅かれておられるのだろうと思います。「寝るより楽なことはなかりけり…」 超多忙だった現職の頃、 私も毎夜のようにそうつぶやいて布団に転がり込んだものでした。 そんなこともあり、温かな布団の中で、えもいわれぬ眠りの快さを味わっている川添さんの歌には心から同感させられるのです。 今まで私は、短歌とは、何とも分かり辛く気取ったもの…という意識でみていましたが、 川添さんの歌には共感を覚えるものが多く強く牽かれます。 (『北に生きて』著者。網走在)

古 井 田 美 和 子
カーテンをしてひっそりとパズルする校長独りを埋めてゆくらし(秋夜思) この一首、次年度の人事が頭をよぎる。どの学年の子どもたちには、どの教師を、どの教師とどの教師を同じ学年に、教師の持てる力を精一杯発揮できるように全体を見ながら人事する。一つ考えなおすと、全体をまたやりなおす。四月、子どもたちが新しい出会いを喜び、学校運営が円滑に進むようにと願って、独り、じっくり考える。(茨木市立穂積小学校長)

築 田 光 雄
世の中で布団の中ほど心地よいものがあろうかしみじみといる(水の器) 無技巧がいい。 意味ありげに詠まぬのがいい。 この歌から、 この時の作者の状況の如きものがあれこれ想像できる。「しみじみと」ということばがそれを示している。 布団の中に入ると、確かに心地がいい。 日々そう思って眠りに入る。 「わあ、極楽や極楽や」 というのが常になっている。 何故に極楽か。 身も心も心地いいからである。 作者は、 はやりの「癒される」なんていってないのがいい。 極楽というのをきいて、 子宮へ帰りたい願望だという男がいる。 アホかと思う。 通俗心理学ききかじりの、 スカタンな男だと思う。 呵呵。 (吹田市立山田東中学校教諭)

小 川 輝 道
茫々と空より雪が雪の上降り積むしばし生も死もなし(水の器)暗い空から雪がしきりに落ちる情景は、まさに「茫々と」「雪が雪の上 降り積む」と把える感性と表現をえて、北国の冬の実感に触れるものだ。 作者はある種の達観で情景を結び、 山形の中学生は「人間は/その下で暮らしているのです」と詩にうたった。 詩の心の微妙かつ多彩であることがおもしろい。 今どき、 言葉が二枚舌で軽く空虚に、 恫喝やすり替えである人達によって語られているとき、 表現に忠実に詩の心を追求してやまない人達との落差の大きさに呆れる思いだ。それにしても、「しばし」に始まる結句の詠嘆に年輪を思わせている。 (元網走二中教諭)

井 上 冨 美 子
こんなにも眠りが気持ちいいのなら死もまたいいものなのかもしれぬ(水の器) 先日、あるトーク番組の中で、七十を少し過ぎたある芸人の方のお話しの中に、 とても心が和んだところがありました。 ある九十三歳になられるおばあちゃんが、お誕生祝いの席で、お祝いに駆けつけてくれたお孫さん玄孫さんをはじめたくさんの方々と楽しい一時を過ごしておりました時、 それでは皆さんと一緒に記念写真をということで、カメラのシャッターを一度切り、もう一枚にっこり笑ってと言ってシャッターを切ろうとしたところ、中央に座っておられたおばあちゃんの首が、 カクンと前に傾いたそうです。どうしたのだろうと近づいてみると、もうすでに事切れていたそうです。 そんなおばあちゃんにあやかりたいと念じて日々芸に励んでいますという内容のものでした。この歌とおばあちゃんが重なりました。九十三年間ひたすらご精進された結果の天からのご褒美だったのでしょうね。 (元網走二中教諭)

半 澤   守
何処より流氷原に降りて来て鳥の群れあり血の跡残る(小秋思)海面が完全に閉ざされると鳥類の餌になるものは無い、 強く大型の猛禽類はカモメを襲うことも珍しくはない。 食べ残しの残骨に付着したわずかな肉片を啄む烏のしたたかさ、 氷原には血の跡だけ残される。この一首には現地に住んだ者だけが知り得る情景であり飢餓に直面した世界を詠んだリアリティーあふれる作品だと思う。 アザラシのように打ち捨てられてゆけ流氷原に鳥群がりぬ(水の器) たぶん大鷲か尾白鷲に襲われた子供のアザラシと思われる。打ち捨てられてとは亡骸なのだろう。流氷原では寒気のため肉片はまず腐食しない。 残飯を漁る野良犬のように鳶や烏が亡骸に群がり貪り食らう風景は見た者でなければ判らない。 流氷原とは美しい反面、厳しく残酷なものなのだと詠人は人々に伝えたいのではなかろうか。 (『浜ぼうふう』『わたしの流氷』同人)

丘   め ぐ み
真弓の実輝く雨の午後何も思わず座るひとときがある(水の器) 熟した赤い実は、晩秋の冷たい雨に打たれてこそ、輝きを出すのだろう。わが家の玄関に飾ってあるツルウメモドキの枝。はじけて顔を出したばかりの実はつややかな橙色だったのに、今はシワさえ寄せたドライフラワーになってしまった。流氷原の輝かしさを感ずるためには、自分の足で歩いて出かけてみなければと思いつつも、寒さが嫌いな私は、車ばかり頼りにしている。網走に暮らしてもう十二年が過ぎようとしているのに。
(菊地めぐみ。『浜ぼうふう』『わたしの流氷』同人)

千 葉 朋 代
皆が気がつかずしぶとく咲いている小さな花のほほ笑みが見ゆ(小秋思)野の花は、自分に与えられたのがどんな場所であろうと、精一杯に咲く。その姿に、生きる強さを教えられます。 周囲や環境のせいにして、自分らしさを見失う私をいましめているようです。花のほほ笑みは、自分らしく生きる自信と、喜びなのでしょう。 正しく生きるのが難しい時代。野に咲く花の強さがほしいと思うのです。 (『わたしの流氷』同人。札幌市在)

山 川 順 子
我が前に次々開く白き道ためらいもなく歩みゆくべし(秋夜思)「次々開く白き道」 とは素直に真っ白な色のついていない自分で作る道か、それとも今までも歩いてきた厳しい道か。読み手によっては明るい未来への応援歌に感じるだろう。 私は中学の卒業文集に「前進あるのみ」と書いた。 でも今の私は辛くて前に進みたくなくても、物事は自分の意志とは関係なく勝手に進んで行く。時としてそれが救いになると解ってしまった。 前後の歌のように振り向いても過去は無い、というよりは虚しい。この世に生を受けた瞬間から終わりまで、ひたすら歩みゆくべしとの決意と感じた。 (『わたしの流氷』同人。札幌市在)

新 井 瑠 美
声にして詠むとき歌は千年の彼方より来てしばしとどまる(水の器)この一首に、和歌といわれた頃から、今までの長い時空を感じてしまう。俳句はたかだか三百余年の歴史。日本語の美しさと奥深さを伝えて、韻文としての短歌がある。百人一首、万葉集などで馴染んだ調べの良さを声に出して詠んでいると、 日本に生まれた喜びを味わえよう。「しばしとどまる」という結句は、作者の感じている余韻であろうか。 「世の中で布団の中ほど心地よいものがあろうかしみじみといる」思わず、作者の本音だ!という気がした。多忙すぎて睡眠不足の時が続いたか、冬夜の寒さのせいだったか、共感する。 (『椎の木』同人)

里 見 純 世
諍いのあと言い過ぎた部分だけ優しく妻としばらくをいる(水の器)毎回先生の歌を楽しく読ませていただいています。 今月も奥さんを詠んだ歌に感心しました。私などとてもこうは詠めません。先生の独壇場ですね。格安で暖かそうなジャケットを妻は文句を言いながら着る実に目に見えるようで生き生きとしています。次の二首も先生らしい歌と思われ共感を禁じ得ません。
世の中で布団の中ほど心地よいものがあろうかしみじみといる
流氷が今日は離岸れて彷徨うと聞きて心も虚ろとなりぬ

(『新墾』『潮音』同人。網走歌人会元会長)


松 田 義 久
君返す夕べは闇の早く来てもうナナカマドの赤黒みゆく(水の器)
歌友と出会いの中での話が沢山積もっての挙句もう夕闇が迫る頃合いとなり、友が帰るや否や早くも夕闇の中にナナカマドの赤い実が黒みを帯びて辺りの寂寞とした情景をよく表出している作品である。こういう情景の歌には佳品が多く、私も魅惑を感じる。このほか「天井の板の模様が氷海となりて見下ろしオジロワシ飛ぶ」なども、流氷にとりつかれた作者の思いぶりがよく分かるし、推賞したいところです。(『北方短歌』同人。網走歌人会会長。『わたしの流氷』同人)

葛 西   操
一面の海たちまちに消え果てて潮の香薄き氷原にいる(水の器)白一面目慣れて見れば同じものなき氷塊の果てまで続く と共に流氷の千変万化の様子が目前に浮かびます。 私も網走にいた時には何の気もなく見ていた流氷も歌の道に入って初めてその変化に心動かされたものでした。 この歌によってありありと当時の状況と流氷の様態が思い出されてきました。 ( 『原始林』同人。網走歌人会。)

田 中   栄
老眼のせいといえども輝きてぼやけて妻のカチューシャが見ゆ(水の器) 作者もそんな歳になったのか、としみじみ感慨が深い。「カチューシャ」はレフ・トルストイの『復活』の主人公。大正時代松井須磨子が歌って一世を風靡した流行歌だ。作者の裡にはこういったレトロの部分があるのだろう。美しい歌。いつまでも妻を賛美する気持ちがのこっている。 それとは別に連作で歌を作ることを考えてもいいように思う。 (『塔』選者)

前 田 道 夫
白一面目慣れてしまえば同じものなき氷塊の果てまで続く(水の器)流氷原における氷塊は一寸見にはみな同じ様に見えるかも知れないが、よく見ればそれぞれ違った姿、形をしているのであろう。「同じものなき氷塊の果てまで続く」は作者の発見であり、 雑然とした白一色の輝く世界を感じ取ることが出来る。「二月中旬には今年もまた網走の流氷に接する」と後記に記されており、さらに沢山の流氷の姿が詠まれるであろう作品を楽しみにしている。(『塔』同人)

松 永 久 子
声にして詠むとき歌は千年の彼方より来てしばしとどまる(水の器)朗々と声を出して歌を詠むのは百人一首のなどの場であろうが、動機は何であれ自分の声に乗ってよみがえるように、 交々に昔の人や歌の状況を思い描いて居る気持ち。 古歌を筆で書いて居ても似た思いに気づくことがある。「千年の彼方より来てしばしとどまる」初句から一貫して気が通った巧みな一首だと共感した。「流氷が今日は離岸れて彷徨うと聞きて心も虚ろとなりぬ」流氷への作者の特別な思い入れが切々と伝わる。 虚ろになる程に心が流氷へ飛んで居ると云うことだろうか。 郷愁くらいのものではさらさら無いような。心に残る一首。 (『五〇番地』同人)

榎 本 久 一
諍いのあと言い過ぎた部分だけ優しく妻としばらくをいる(水の器)
優しくいることはどういうことなのか少しわかりにくいが、 そうとしか捉えられない事もあるかも知れない。そう言う気分に浸っているだけのことかも知れない。 それとも悪者ぶったところだろうか。 「言い過ぎた部分だけ」という限定にも安らぎのなさを感じた。 生活よりも歌を作ろうとする気持ちが先行しているのではないか。 歌壇的出世などわが願わぬに少し哀しく思うことありなどと詠むあたりにその危険を感じた。 (『塔』同人)

東 口   誠
格安で暖かそうなジャケットを妻は文句を言いながら着る(水の器)日常生活のひとこまである。口語歌だが、口ずさみたくなるようなリズムがある。 何か文句を言いながらもジャケットを着る妻を少しからかいながらもあたたかい心で見ている。 妻は何に文句を言っているのであろうか。ジャケットが安っぽいというのか、作者への文句か、いろいろ想像するのも楽しい。「格安で」というのがいいと思った。諍いのあと言い過ぎた部分だけ優しく妻としばらくをいるも同系列の作品である。 (『塔』同人)

鬼 頭 昭 二
我が闇と生徒の闇と繋がりて大津皇子のかなしみうたう(水の器) 正確には作者の意図するところには理解は及ばないが、 心情的に何か伝わってくるものがある。 授業で大津皇子かあるいはその和歌を取り上げた折の作者なりの感慨を歌ったものであろう。 作者あるいは生徒と謀反の嫌疑をかけられ処刑された大津皇子とがどのように重なり合うのかわからないが、 権力機構と個人との噛み合わない並列関係のようなものと思った。 (『五〇番地』同人)

本 田 重 一
見る限り白き氷原ものなべて彼方の空へ吸い込まれゆく(水の器) アムール河から吐き出される淡水が、 凍結して潮流に乗り、 北見地方の沿岸に現れ始めたのはいつの頃であろう。 遥かに地球の歴史を溯ることになる。 流氷は一月後半から三月末までオホーツク沿岸を埋め尽くし、 風向きによっては岸を離れるが沖から立ち去ることはない。この頃多くの人が網走、知床方面へ訪れる。 観光資源と考えている地元の人も多い。折しも、この列島の南の方から花便りが届き始める。 人が花を愛でるのは生きている同士の密かな交流があるからであろう。 バスを連ねる流氷の客は花や草木の生う情景を見るのとは少し勝手が違うようだ。 天地の触れ合う大氷原も、氷塊の浮く灰色の海面にも、唯々莊厳な景観に息を呑むが、冷酷な乖離と一方的な拒絶があるのみで、取り付く島もなく感嘆の声を残して去るのである。流氷の来ない冬は一度もないが、この冬もまた川添氏は空路を遠く網走を訪れ、流氷の精気を存分に吸って、自ら翼を擴げて飛ぶように、女満別空港から南へと去って行った。 (『塔』『新墾』同人、網走歌人会)

遠 藤 正 雄
どうせなら歩みはのろい方がいい没り日に向かい川流れゆく(水の器) 没り日は人生の行先を象徴している。光りつつ流れゆく川の向こうには、美しい夕焼けの空があり、夕映えの広い海がある。 そんな夕景色を浮かび上がらせている。川よ川よ、ゆっくり流れようではないか!人生を達観した境地が表白されている。「没り日に向かい川流れゆく」がうまい。 生き物の人こそ不思議奇妙にて地球に引っ掻き傷のみ作る 万物の霊長などと自称している生き物がやたらに遺物を掘り起こしたり、地球をブルで引っ掻き回している。文明と破壊を繰り返しつつ、今更地球を守ることに、あわてふためいている。

甲 田 一 彦
瞬きの間にまに消えてゆく命流氷原に雪降りしきる(水の器) 流氷の上に降る雪を、 作者は眼前の景として見ているのかいないのかに関係なく、雪は降り続け、人はもちろん生きとし生きるものの命のはかなさ、 そんな二つのものをさりげなく並べただけの三十一文字に不思議――。 「死の方が圧倒的に長いのに眠り貪り起きれずにいる」この五句は、 現在の若者ことばとして通用しているようですが、「起きられずいる」という正統表現があるのでは。どちらでもよいでは納得できない気がします。 (北摂短歌会長。『塔』同人)

塩 谷 い さ む
こんなにも眠りが気持ちいいのなら死もまたいいものなのかもしれぬ(水の器)寝入りばな、ほんとうに眠りに入ってゆく時の得も言えぬ快感、又起きる前の数分間における眠りとの別離もまた格別である。さて、死と、眠りと、どちらに軍杯はあがるのか?矢張り生きている時の眠りだと思うけどなあ…。死んではいけない。 老眼のせいといえども輝きてぼやけて妻のカチューシャが見ゆ 老眼のせいではない。ぼやけてもいない作者は愛妻家なのだ。照れ屋なのだ。世の中で布団の中ほど心地よいものがあろうかしみじみといる夜の中に寝る程楽はなかりけり。浮世の馬鹿は起きて働くという諺もある。 (『塔』同人)

大 橋 国 子
真弓の実輝く雨の午後何も思わず座るひとときがある(水の器)多分、鋭く、目まぐるしく、ひたすらに生きておられる、そんな川添先生にとって、 又私たちにとって無為の一時はとても貴重な時だと思います。 そのエネルギー貯蔵の時があるから次の行動の瞬間があると思います。それはきっと真弓の実を濡らす、静かな雨を見るともなく見ているような時ではないかと思います。 さりげないけれど真弓の色、細い雨の音、体の力を抜いてポッと座っておられる姿勢が感じられて、何となく同感出来ました。(北摂短歌会)

岩 城 大 将
犯人の異常な性格伝えいる口調ありあり目を輝かす(秋夜思) 一首を読んだとき目を輝かせたのは誰なのか?そんな疑問を持ちました。ワイドショーなどのキャスターであってほしいと願いながら川添先生にお聞きしました。この一首のような報道で、TVで犯人の性格を語るとき、犯人の異常性だけを伝えるのは、私はとても残念に思います。 どうしてそのような行為に至る性格になったのか、 世の中のみんなで考え、 よりよい社会にしようという思いがなければ広く報道する意味がないと思っています。 先生の答えはキャスター(レポーター)の目ということでした。(茨木市立三島小学校教諭)

古 市 浩 恵
寒くなるたびに恋しくなる白き氷原現つと重なりて見ゆ(水の器) 今年の北海道は、 本当に寒くオホーツク海に流氷が例年になく早く着いたのは、先生の想いが動かしたのかとニュースを見て思ったものです。中学高校と網走で過ごした私にとって、流氷や網走のことは、とても気になる事柄です。同じ道内に住んでいても実際味わえない寒さや景色です。行ってみたい気持ちと、現実を考えるとまだ行動できない私がいます。先生は、今年も網走を楽しんでいるのでしょうか。なつかしい気持ちをおこさせた一首でした。(旧姓市丸 元網走二中生徒)

原 田 正 枝
流氷が今日は離れて彷徨うと聞きて心も虚ろとなりぬ
目つむれば海岸町より二ツ岩歩いてしばし磯の香のする(水の器)川添先生と初めてお会いした時、先生は目を輝かせながら網走の自然に感動されていた事を思い出します。 生まれた時から網走で育ち、右に帽子岩、左に二ツ岩を眺められる浜辺で毎日の生活を送っていた私にとって、先生のその姿の方が新鮮で、何故こんな事に感激しているのか、当時はあまり理解できませんでした。冬になり流氷が来ると、先生は大喜びでしたが、私は流氷の季節が最も嫌いでしたし、流氷なんて来なければいいとも思っていました。流氷は私にとっては、突き刺さるような冷たい風を運び、父の漁を奪ってしまい、全てを閉ざされたものにしてしまうようで、とても感動させらせるものではありませんでした。 網走を離れて随分経ちます。 住んでいる時は感じなかった香をたまに家へ帰ると感じるようになりました。 家の裏口を出ると見えた景色も、 また違う感じで見えるようになりました。 いつも変わらずある二ツ岩と帽子岩を繋いでいる水平線に、 懐かしさと心の穏やかさを取り戻させてもらえます。 ここ何年も網走へ帰ることは出来ませんでしたが、 先生の歌を読む度に、 住んでいる時には理解できなかった網走の良さが懐かしさと共に実感出来るようになって来ました。 目を閉じるとあの磯の香りがしてきます。 厳しい流氷の季節を乗り越えるからこその春を迎えた時の素晴らしさを自然から教えられて育つことの出来た有り難さを今とても幸せに思います。 (元網走二中生徒、札幌在)

清 水   敦
格安で暖かそうなジャケットを妻は文句をいいながら着る(水の器)
「ホントにもう、 また太っちゃって」なんて…。 ささいな日常のはしはしにあるこの《贅沢で不当な文句》、 実は現代人の心の底に無意識に、恒常的に堆積しているのではないか。省時間機器を作れば作るほど忙しくなっていく。 欲しいものを欲しいだけ求めると欲しくない状態になるというパラドックス。 人間的である。 (版画家。『わたしの流氷』同人)

塩  谷   い さ む
神在りしこの国仏キリストも混じりて迷いのただ中にいる(渡氷) うん、うんその通りそのとおりだと頷いている。神の国日本に入り込んで来た仏教そして長い弾圧にも堪えて浸透したキリスト教、特に二千年問題の昨年から今年にかけては本来の日本は一体何所へ行って終ったのかと思われた事が多々あった。悲しい出来事と共にかつては神国日本と言われた時代を思い出す。「二人とも自分の言いたいことだけをまくし立てつつ黙らせようとす」これも納得の出来る現代風刺のよく効いた歌である。字余りのついでに「黙らせようとする」と「る」を入れたい処だが。 『塔』同人

小 川 輝 道
手術のあと逆に励ます母といて一つの雲の渡りゆく見ゆ(漂泡記) 手術は時に死に至る過程でもある。 不安や悲しみに、逆に「心配するな」と言ったり、「お前こそもっと身体を大切に」と母なればこそ励まそうとしてくれた。 母の思いを素直に受け止める作者の目に映る一片の雲の動きは、心に沁み、さみしさも深い。「渡りゆく見ゆ」は広やかな語調で秀逸であり、いくつもの挽歌の秀作と重ね合わせ風格を感じた。幼き我背負いてくれし母の背のこんなに小さくなりて座りぬ老境深まる母への悲しみをうたい、下の句に余情溢れる。我の手を強く握りて死に就きし伯母ありき昔なれど忘れずの三首にひかれた。 (元網走二中教諭)

小 川 輝 道
パチンコ屋ばかり豪華に人間が同じ方見て並んで座る(新緑号)
この時代の風俗を巧みに捉えている、 と愉快になった。どの街にもパチンコ店は、娯楽の殿堂めかして最大級の照明で飾ってある。「〜ばかり豪華に」と率直に、しかも言い得て妙である。そして集まる人間が「同じ方見て並んで」座っている当然の姿をその通り表現し、実にユーモアに溢れていると思う。当世風俗をこのように表現できる観察眼に感心させられた。流氷と海の境に群るる鳥生競うがに声高く鳴く 雄大な北海の静寂と群れ鳴く海鳥を捉え、北の氷海の原風景を見詰める作品である。鬼頭さんの「生を競いて」に教えられた。 (元網走二中教諭)

甲 田 一 彦
星雲のごとくに群れて咲く紫苑生きるは束の間輝きて伸ぶ(秋夜思)
「星雲のごとく」「群れて咲く」と実にうまい適確な写生の後に、「生きるは束の間」と転じる力量に引きこまれる気がします。 言葉のうまさ以上に、真実に迫る気魄を感じます。 さらに第五句「輝きて伸ぶ」は写実であり心であり、まさに「結句」という言葉がピタリあてはまる見事な歌と思いました。 作者の暮らしているあたりの風物から、これだけの作品を引き出す力量を絶賛します。一首後の「撫子のかすかに揺れる秋の風彼岸此岸を突き抜けて吹く」なども同じです。 (北摂短歌会会長。『塔』同人)

半 澤   守
網走の三十七度の夏と聞くストーブ焚いた夏もあるのに(惜命夏) 網走は昨年の七月三十一日、 九十五年ぶりという猛暑に襲われました。母は九十四歳の高齢で老衰でした。この暑さに容態は急変し八月四日夫の待つ黄泉の国へと旅立ちました。 荒屋にはエアコン設備など無く扇風機だけが涼を呼ぶものでした。 細く痩せた媼には暑さがいかに苦しいものだったことか、冷夏の時には強い母でしたが暑さに弱い母でもあったのです。この一首に昨年の夏を思い出したのです。
母逝きし荼毘の煙は唐松の梢つつみて蝉しぐれ降る
(『浜ぼうふう』『わたしの流氷』同人)

千 葉 朋 代
建物の在った所に駐車場あっけらかんと日を浴びている(小秋思) まるで初めから駐車場だったように、しばらくすると何が建っていたのかも思い出せなくなります。存在していた時は、あれほど自らを主張していた物が、無ければそれで、あっけらかんと馴染んでしまう。確かに在ったものさえ幻のように思えます。もしかすると人間の作ったものなど地球から見れば、 すべて幻なのかもしれない。身近な都市の風景から、そんなことを感じる一首でした。(『わたしの流氷』同人。札幌市在)

高 田 暢 子
君返す夕べは闇の早く来てもうナナカマドの赤黒みゆく(水の器) この歌を見た時パッと一年生の頃のことを思い出した。 入学したての五、六月ぐらいの時、毎回国語の授業の中でやっている短歌のなかに『君返す朝の敷石さくさくと雪よ林檎の香のごとく降れ』という歌があって初めて見た時ただきれいな歌だなぁと思っていたら先生が、 実はこの歌は不倫の歌だと言っていてとても驚いたのを覚えている。あれから二年半この流氷記に感想を書き続け、たくさんの世界を教えてもらいました。思えばあれが始まりで、短歌や俳句に興味を持ち、今まで続けてこられたと思います。卒業してもこの感覚は忘れずに持ち続けたい。 (西陵中三年生)

中 村 佳 奈 恵
生き物の人こそ不思議奇妙にて地球に引っ掻き傷のみ作る(水の器)私はこの歌を読んで、 まずフランス、アメリカ、インドなどの原水爆実験のことが頭に浮かびました。 今まで人は何度地下や地上で核実験を行い、 この美しい青い水の星を傷つけてきたかわかりません。 まるで地球が自分達のもののように思っている人間という生き物。そして、地球に引っ掻き傷を作る愚かな行為を不思議、奇妙と受け止めた先生の歌には、悲しみや怒りややり切れなさや、いろいろな気持ちが詰まっていると思います。私は前号に先生の歌から、いろんな風景を見せてもらったと書きました。それだけでなく、先生の歌には、はっと考えさせられる状況を詠んだ歌も、数多くあります。それは先生の心の中にある風景なのかもしれません。私はさまざまな風景に触れられる『流氷記』に出会えて、とても良かったと思います。川添先生、三年間本当にありがとうございました。 (西陵中三年生)

土 谷 沙 恵
あざやかに紅葉せし木も細き枝あらわに空に揉まれつつ立つ(水の器) 葉なのに赤く、 人の手みたいな形をしている不思議で美しい紅葉。そんな紅葉が私は好きです。 そして紅葉が色づく頃、「ああ、もう秋なんだ。」と感じます。 そんな秋を彩る紅葉が散って細い枝があらわに空に揉まれて立っている風景は秋の終わりの寂しさと、冬の訪れを感じさせられます。この季節の移り変わりを感じさせる歌は、今までの思い出も、季節と一緒に感じることができると思いました。 (西陵中三年生)

鈴 木 亜 弥 子
見える筈なき風景が生き生きとビル壊された木枠にはまる(小秋思)
壊されたビルの窓の中に見える筈のない風景が見える。この風景はこのビルの建つ前か後なのか…。どちらにせよ今の世の中は自分達の「便利」ということだけで木々を切り倒して、新しいビルや施設を建てています。そういう人達は目の前にある本当に大切なものに気づいているのでしょうか。今まで自然によって助けられて生きているのだから、その風景はきっとビルの建つ前の自然豊かな風景だったのではないかと思います。(西陵中三年生)

若 田 奈 緒 子
アボリジニー流るる誇りフリーマン最新衣装まといて走る(秋夜思)
シドニーオリンピック最後の聖火ランナー、フリーマンが聖火を掲げ走った姿は立派だった。あの姿を見て、オーストラリアの原住民、アボリジニーの人々はさまざまな想いを抱いただろうと思う。かつて迫害され閉鎖的な生活を強いられたアボリジニーの人々。だが、フリーマンの誇りに満ちた走りには、たとえ現代的な衣装をまとっていても、アボリジニー本来の自由な生き方が表れていた。彼女はまさにシドニーオリンピックの聖火ランナーにふさわしい人物だと思った。そして、彼女が聖火台に炎を灯した時の感動をこの歌ははっきりと思い出させてくれた。 (西陵中三年生)

木 佐 木 美 希
中学生揃いて歌えばこんなにもかぐわしき声伝わりてくる(小秋思)
この歌を読んだ時、私達の合唱の風景が頭に浮かびました。一つの歌を三部、または四部に分かれ、心を一つにして歌う。なぜなら後一カ月ほどで卒業してしまい二度と全員そろって歌うことができなくなってしまうからです。高校生になれば、こんな大勢で歌うことなどまずないでしょう。だから残りわずかな合唱できる時間を私は大切にしたいです。(西陵中三年生)

小 西 玲 子
烏鳴き響きやまざる夕暮れにどこへともなくわが心行く(水の器) 夕暮れとちょっと寂しげに鳴いている烏の声を聞いていると、私の中の心はどこかへ行ってしまう程、 真っ白で切ない気持ちでいっぱいになります。そんな時、ケンカしていた友達のことをやっぱり好きだと思ったり、 家族のことがいつもよりもっと大切に思えたり、自分のことをもっともっと好きになれる気がします。そして心の中はいつの間にか優しい気持ちで一杯になっています。そして、どこへともなく行ってしまった私の心は、明日への期待とパワーを心一杯にして、また私の中に戻ってくるのです。 (西陵中三年生)

脇 田 真 美
声にして詠むとき歌は千年の彼方より来てしばしとどまる(水の器)
川添先生は、授業の始めに少しだけ、私を昔の世界へ連れて行ってくれます。俳句や短歌の文字一つ一つで、ずっと昔の人の気持ちや風景が、私の心のなかにとどまってきます。教室の机に座りながら、千年の彼方を感じられるなんて、俳句や短歌はなんてすばらしいものなんだろうと、つくづく感じさせられました。 (西陵中三年生)

山 田 泰 子
グラウンド小さな地球傾けて走れば青い空まで動く(秋夜思) 寒い冬の中の持久走は大嫌いだ。 だから少しでも気をまぎらわすために私はいつも空を見上げながら走っている。 いつの間にか雲に負けじと競走している自分がいる。そして、不思議と苦痛が爽快に変わっているのだ。果てしなく続く青空は私のグラウンドだ。いつまでもその上で体を動かし空を見続けたいと思わせる一首だ。

福 島 悠 子
もう幾度魯迅の故郷を教えいる閏土揚おばさん達の中(水の器)
国語の授業で習った『故郷』で色々と考えたり思ったことがあるので、この歌を見た時、また色々と考えました。昔はすごく仲が良かったのに長い年月が経つといつの間にか他人のようになってしまう、そんな人達はきっとこの地球にどのくらいいるのだろう、そんなに簡単に、他人みたいになってしまうものなのか、私はそんな簡単に壊れたりするのはいやだなぁと思いました。 もっとお互い信じ合うこと、思い遣ることが大切だと思いました。(西陵中三年生)

高 谷 真 奈
こんなにも眠りが気持ちいいのなら死も又いいものなのかもしれぬ(水の器)一日が終わり、眠りにつこうとする瞬間は本当に気持ちのいいものです。解放感や安心感からくるものだろうなあと思うけど、眠ることは私たちにとって欠かせないものです。また、死も私たちにとって生きている限り欠かせないものだと思います。死は楽しかった日々を奪い、周りの人達を悲しませる恐ろしいものです。でも、死んだらどうなるか分からないからこんなふうに思うだけで、もしかしたら眠りのように気持ちのいいものかもしれません。考え方次第で、死を受け入れる気持ちも変わるものだなあと思いました。(西陵中三年生)

四 方 真 理 子
このままに溶けて無くなってもいいと死へと繋がる一瞬もある(水の器)私もこの歌と同じ気持ちになったことがあります。 つらい時に思うこともあるけど、たいてい、気持ちがいい時の方が多いと思います。今までになくぐらい、うれしい気持ちを持っている時は、いっそう思ってしまいます。 しかし、一瞬の間、思うから良いので、また実際そうならないと思うから感じるものだと思います。 誰でも感じたことのある気持ちを詠んでいたのでみんなが共感できる歌だと思いました。 (西陵中三年生)

中  村    文
冗談のように聞こえて俺だって今が晩年なのかもしれぬ(秋沁号)
この一首を読んで、命のはかなさと時間の大切さを感じました。もしかすると、明日死んでしまうかもしれない。 そう思うと、とても怖くなります。今まで死んでいった人たちも、まさか自分がその時間死ぬなんて思っていなかったと思います。そして、もし私が明日死んでしまうとするなら、今は何をするべきなのかを考えます。生まれて来たのは運命なので、死ぬのもそうなのかな、と思います。だから、いつ終わるのか分からない、限られた時間の中で、 私は精一杯大切なものを見つけていきたいです。 (西陵中三年生)

大 谷 紗 千
親も子もしばしほどけて殺気持ち百人一首の札奪い合う(水の器) 私の家族は、毎年年末を父方の祖父母の家で過ごします。そして、元旦には、 みんなで百人一首をするのが毎年のように決まっています。みんなこの歌のように殺気立っています。 今年は、姉が一番でした。 お正月の時ぐらいしかやらないけど、この歌を読んで、来年もやりたいと思いました。 (西陵中三年生)

小 野 二 奈
森は羽広げて我の迷いいる心をつつく闇覆うまで(小秋思)森には人を寄せつけるふしぎな力があるとよく言われている。周りに木がたくさん生い茂っているから…なのでしょうか。しかし、私は不安を感じます。一人であんなに広い森を歩き回る…そんなことしたら、私の頭には不安という文字でいっぱいになってしまいます。そして泣いてしまうかもしれません。悲しくて泣くのよりつらいし結論がでない、そんなことから考えると最低の逃げ道かもしれません。やっぱり何でもすぐ泣いて投げやりになるのではなく、努力した結果よりも功績が大切になるのではないでしょうか。

内 田 恭 子
波よ跳べ砕けて海に還るまで夕日は光あまねく照らす(秋夜思)
波が砕けて零となり、零は光を受け還る。先生の歌には本当にその光景を見ているような錯覚を覚える。この短歌を目にした時も、キラキラした海原、そんな眺めが脳裡に浮かんだ。束の間、けれど燦然と輝いて、一瞬にして砕け還っていく。そんな波の短く、幾らでもある営みも、何だか壮絶に思わされた。 (西陵中三年生)

白 石 愛
ひび割れた舗道にエノコログサ伸びて今朝は破滅も破壊も楽し(断片集)古い道路なのだろうか。ひびが入っているその割れ目からしっかりと伸びている雑草。人はよく「自然を征服する」なんて言う。とんでもない、そんな驕った言葉! 人が自然を破壊していく今日この頃この雑草のエネルギーがうれしく感じられる。エノコログサ・今朝・破滅・破壊・楽し の言葉の連鎖。 まさにブラックユーモア的表現。私はエノコログサを応援したくなった。二十一世紀はみんなが心から自然を愛する時代になってほしい。 (西陵中三年生)

川 野 伊 輝
かなしみも怒りも何も一陣の風に銀杏の葉が群れて落つ(小秋思) 何故この歌を選んだかというと、 僕もつい最近同じようなことがあったからです。その日ははっきりとは覚えていませんが、何故か心悲しく塾に行っていました。 その途中イチョウの並木のある通りで風が吹きました。 その葉が僕の目の前をよけるかのようにして散ったのです。 うまく言えませんが何とも言えず素晴らしい光景でした。そんなことがあったのでこの歌を選びました。(三年)

坂 本 麻 子
眼前の海に光の漏れて輝る波は宝石びっしり詰まる(水の器) とても奇麗な一首だと思います。雲間から差すやわらかい光。それが海の上で白い宝石になって輝いている…。まるで自然の宝石工場のようです。大きな海一面に散りばめられた、小さな白い宝石。 その宝石は波打つたびにきらきらと光るのでしょう。 大きな夕日とは一味違う、海と光の共演です。 見たことはないけれど、目に浮かんでくるようでした。いつか、そんな静かでまぶしい素敵な海を、この目で見てみたいと思います。 (西陵中二年生)

北 川 貴 嗣
生きているうちに抱くべし触るべし死ねば冷たく堅き物体(惜命夏)思わずうなずいてしまったこの歌。 その通りだとおもいます。生きている時に接すれば温かみがあります。 でも、 死んでしまったら……何も感じることのできない、ただの物体に化してしまいます。「冷たく堅き物体」から淋しさが伝わってきました。(西陵二年生)

野 村 充 子
誰一人踏まぬ雪原日の沈む彼方まで行く我が一人のみ(秋夜思)純朴なこの歌の一つ一つの言葉が大好きです。無垢感が私の心の中で「無限」という言葉とともに響いた。 言葉というのは短い一言一語でも、 心を和ませたり限りない深さを感じさせたりするものだ。 この歌にはそれらが沢山含まれているように感じた。(二年生)

根 岸   恵
皆が気がつかずしぶとく咲いている小さな花のほほ笑みが見ゆ(小秋思)通い慣れた通学路でも、気を付けてみると、今まで全く気付かなかった植物に出会うことができる。雨が降っても風が吹いても、時には人に踏まれてしまっても粘り強く咲いている花だってある。天から授かった自分の命を、出来る限り、一生懸命燃やしている花を見ると、どんなに小さな花でも、笑ったり泣いたり、怒ったり喜んだりして、強くたくましく生きているんだなと思う。そんな花に負けぬよう、 私ももっと強い心を持って生きていかねばならないと、この歌を読んで思いました。 (西陵中一年生)

青 田 有 貴
雲間より漏れ来る光揺れながらしばしそこだけ竹林笑う(水の器) 私もこの一首のようなことを体験したことがあります。 雲の間からの光はまるで空の上の世界とつながっている気がします。 何度見ても神秘的で何か優しい感じで、 見ていると心の中が熱くなります。 私の中ではオーロラのように「光のカーテン」というイメージでした。 目に見えても触ることができないからそう考えました。風に吹かれて揺れる竹林もその光を浴びて喜んでいるのでしょう。神秘的なものに魅かれる人は結構いると思います。ちょっとしたことも考え直したら凄いことだったりするなぁと思いました。

宮 本 浩 平
失敗も無駄も過程の一つにて今日のドラマの終わらんとする(水の器) いつもドラマがいいことばかりであるとは限らないなあと、 この歌を読んだとき思った。いいことばかりで、失敗や無駄がなかったら全然面白くないドラマになってしまうような気がする。 僕が思うには、失敗があるから成功があって、失敗があるから、 成功した時の感動が得られるんだと思う。だから、失敗や無駄があるから面白いドラマになっていくんだと思う。 (西陵中一年生)

隅 田 未 緒
こんなにも眠りが気持ちいいのなら死もまたいいものなのかもしれぬ(水の器)夜に寝る時、いつも幸せな気分になれる。昼に眠り過ぎて好きなテレビを見損なったりもする。このままずっと起きなかったらずーっと幸せなのかもしれない。 幸せな時に楽に死ぬことができたら永遠に気持ちがいいのかなーっとも思う。でも、死んで楽になるより生きて人生を楽しむことの方がいいに決まっている。やっぱり長生きがしたい。(西陵中一年生)

二 瓶 加 奈 子
教室では心はずまぬ生徒二人ボールを巡れば生き生きとして(断片集)この歌に出てくる二人の気持ちがわかります。教室で勉強をしているより、外でボール遊びをしている方が気持ちいいし、生き生きとすると思う。でも勉強も大事だけど…(西陵中一年生)

松 川 実 矢
耳栓をすれば聞こえるせせらぎよ我が末端まで血液巡る(水の器) 耳をふさいでじーっと聞いてみると、 なるほど何かが流れている音がする。 川のせせらぎのような、 血液の流れなのかもしれない。自分の命の流れの音を聞くのはとても不思議で素敵なことだ。前号では目をつぶれば白熱灯の残像が水母になって漂っていた。 先生の歌には、 耳をふさいだり目を閉じたりするだけで自然の姿や神秘を発見することができる。 いつどこででもちょっとしたことで楽しい思いをすることができるのが嬉しい。 (西陵中一年生)

米 原 あ ず さ
没りつ日は赤きトンネル光りつつ蛇のごとくに川流れゆく(水の器)天の入り口があるかのように真っ赤なトンネルが目の前に見えてそこに入るように川がくねくねとゆっくり流れて行く。 蛇が動いていくみたいに…。 没りつつある日が天へとつながっているのなら私も行ってみたい気もする。 でもちょっと怖いような寂しい感じ。 蛇のように流れる川は先生の心の分身のような気もする。

古 田 土 麗
雪積みてゆけば枯れ原生き生きと風に吹かれて輝きて見ゆ(水の器)今までは枯れ原で目立たなかったのに雪が土に積もると枯れた草がその上に金色のように輝いて見える…。真っ白な明るい雪に鮮やかな枯れ原が風に吹かれてきらきらと輝いている。まるで日本画の美しい絵を見ているように思いました。この枯れ原も春になればきれいな花も咲かせて…それを何度も繰り返すのですね。とても不思議で素晴らしいことだと思います。(西陵中一年生)

匂 坂 一 葉
世の中で布団の中ほど心地よいものがあろうかしみじみといる(水の器)朝起きたときには「出たくないなぁ」という気持ちでいっぱいです。布団から出ればいろいろなことが待ち受けている。そう考えるとずっと暖かい布団の中でぬくぬくしていたいなぁとしみじみ思います。 (西陵中一年生)

蓮 本 彩 香
こんなにも眠りが気持ちいいのなら死も又いいものなのかもしれぬ(水の器)死ぬのが怖くない人間なんてこの世にいないと思います。みんなそれぞれいろんな人生があって、 全く同じ人なんていません。人生がたとえ短くても、幸せであったなら、きっと死も、眠っているように気持ちいいものなのかもしれないと思います。

山  口    藍
我が闇と生徒の闇と繋がりて大津皇子のかなしみうたう(水の器) 大津皇子はいわれもなき噂をたてられて悲しみのうちに死んでいった…。ちょっとした噂が人を殺してしまうこともある。人の気持ちも考えずに平気で噂を流す人々に囲まれてきた大津皇子のかなしみがこの歌を読んで伝わってきました。 今でもこのようなかなしみが私の周りにもたくさんあるのかもしれません。 私はどのようなものであれ噂に惑わされず、 自分の考えをしっかりと持ち続けていきたいです。 (西陵中一年生)

井 戸 木 里 佳
昨日今日明日と一日が過ぎてゆくミレニアムなど関わりもなく(水の器)昨年は「ミレニアム」を記念するような言葉をよく見聞きしていましたが、 他の年と比べてもそんなに変わりはないように感じました。 千年に一度だといっても急にいろんなことが大きく変わることもないし、身の回りの課題を片付けている間に、あっという間に一年が過ぎていきました。 私にとってもミレニアムに関わることはほとんどありませんでした。 (西陵中一年生)

横 山 真 理 子
こんなにも眠りが気持ちいいのなら死も又いいものなのかもしれぬ(水の器)私は授業中こんなことをよく思います。 死だけを考えると怖い気もするけど、 この気持ちいい気分がずうっと続くならそれもいいなぁと思います。 死って一体何なんだろう?そんなことをもう一回考え直してみたら?とでも言ってるように私にこの歌は笑いかけてきた気がする。そして私もついほほ笑み返してしまうような、何となく気持ちがポーッとしてしまう歌だ。(西陵中一年生)

金 指 な つ み
見下ろせば四角い空が過ぎてゆくプールも白い冬へと向かう(小秋思) 冬になるとプールは結構凍ってしまいます。 それを見ると私は「冬だなぁ」といつも感じます。その様子が「プールも白い冬へと向かう」の部分で思い浮かびます。 「見下ろせば四角い空が過ぎてゆく」というので、氷(水?)に映る空の動きが頭の中にすぐに思い浮かびます。私の頭の中で、すぐに思い浮かぶ、とっても素敵な歌だと思います。流氷記重ねるたびに見えてくる小さきものへと思いをこらす(小秋思) 「流氷記重ねるたびに見えてくる小さきもの」というのは、 きっとこれを書いた人の一人一人の思いのことだと思いました。 「思いをこらす」というのは、 一人一人が書いたときの思いを受け止めようとする努力とかのことだと思います。私はまだまだ未熟だけど、思っていることが伝わるようにこれからも頑張って書いていこうと思います。

古 河   綾
このままに溶けて無くなってもいいと死へと繋がる一瞬もある(水の器)私は本当にもう死にたいと思ったことがありません。軽く思ったことはあるけど、真剣にもう死にたいって思ったことはありません。でもまた戻るのなら一瞬溶けて無くなってみたいです。でもまた死にたくありません。親も子もしばしほどけて殺気持ち百人一首の札奪い合う。小学校と中学校で先日やった百人一首大会を思い出しました。私は百人一首が得意じゃないけど好きです。それは頑張って覚えてその札が取れた時すごく嬉しいからです。だから、また来年の百人一首をするころが楽しみです。(西陵中一年生)

小 山 香 織
渋滞の車を束ね越してゆくバイクの悪の快感にいる(秋夜思) 名神や国道、 私は車の中でずっとラジオを聴きながら動くのを待っているのに、横を一瞬にして追い越して行くバイク。あれを見たとき、 とっても腹が立ってしまう。 車は縮まらないのかと思うが縮まってはくれない。 何十分とじりじりと待たされる私の気持ちはバイクに乗ってる人には分からないと思う。 (西陵中一年生)

蘇 鉄 本 昴
缶ジュースペットボトルと地下資源飲んでは捨てるため作られる(秋夜思) 缶ジュースなどポイ捨てしている人がたくさんいる。学校の帰りでもいつでもそこらへんに落ちている。 けれど僕はこれは捨てるものではないと考えている。 地球を大切にしていないではないかと。ちゃんとこの地球を大切にしようではないか。(西陵中一年)

福 島 悠 子
山陰に向かえば青い色の森視野いっぱいに風にざわめく(水の器) 青い空、緑色の木々、すごく自然そのものを表したそんな歌だと思った。 今私たちが住んでいるこんな汚れた街ではなく、空気も、木々も空も風も水も全てが新鮮に思えた。心が豊かになれるし、気持ちが晴れるように思う。自然にその景色がわいて嫌な気持ちから逃れる。私は、自然がこんなに気持ちを癒してくれるのかと驚いた。自然には何かすごい力があると思った。(西陵中三年生)