田 辺 聖 子
天も地も我も全ては網走の流氷原に吹く風となる(二ツ岩)
いつも『流氷記』お送り頂いてありがとうございます。私はまだ流氷をみたことがありません。網走も知りません。川添さんのおうたで見た気がして、感覚的には親しいです。
ずいぶん長くつづけていらして、大変なお仕事と思います。 『凍雲号』の「曇より青空少し見えてきて楽しく心変わりゆくらし」『夏残号』の「妻はただ普通であって欲しいというそれが一番難しいのに」など好きです。
ご本がいろとりどりにたくさんたまり、読み手は楽しみですが作り手送り手のご苦労お察しします。  (作  家)

藤 本 義 一
絞りたくなるほど雨を含み咲くツツジの白き花の群あり(蜥蜴野) 絞りたくなるほど雨を含み……。
この感覚に川添氏の復活なるを覚えました。
これは感性が感情の培養期を経て感覚の中に浸み込んだものだと思います。
ただ、この次のウタに―花さびれゆく―と詠むことは、どうしても詠む方は淋しく、そして悲しくなるのです。
死者の二文字を詠わないで下さい。生者の傲岸さは危険です。なにしろ、愚かな生者が死者を知ることはないからです。映像を妄想の中に沈めてはいけません。 (作家)

三 浦 光 世
小三の娘の寝言に複雑な子供の人間関係が見ゆ(蜥蜴野)
最近聞いた話だが、小学生の孫に、いつ金属バットで殴り殺されるかわからない、おちおち夜も寝ていられない、という老人もいるとか。困った世の中である。世相はどこまで悪化していくのか。
右の一首の寝言の内容も想像がつこうというものである。 人間関係とまで言い切ったところに、感心させられた。子供の世界に人間関係とはオーバーな感じともいえようが、決してそうではない。この作品の正にポイントと、私は見た。結句の「見ゆ」がまた要を得ている。 (作 家。 近著『綾子へ』)

篠     弘
氷塊が鯨の骸のごとくにて一つだけ夕日を浴びている(二ツ岩) 大きな氷塊が、あたかも鯨のかばねのように見えるという、この直喩が説得力があります。 じっくりと氷原を見つめてきた持続力の成果でしょう。詩的なイメージが、きわやかに現出してきます。下句の、そらにくれないの色彩が映えているという描写が、巧みにマッチしています。破調も効果的で、ひそかに自然のはからざる様相におののく情感が溢れます。さりげない氷塊の描写のなかに、大きな生命力が滲むものとなりました。 主観的な表現を極力抑えたところがよいのでしょう。やはり当然のことながら、簡潔な截り口が魅力です。 (『まひる野』編集委員。毎日歌壇選者。)

和 田 悟 朗
雨の中阪急電車響きゆく黎明左耳より右へ(蜥蜴野)雨の中であるとか、黎明であるとかいうことは、この歌で本質的に重要な要素ではあるまい。 ポイントは「左耳より右へ」という部分だ。つまり、左方から来た電車が右方へと通り抜けて行ったということである。 その際、 左では接近、右では遠去るのだから、当然ドップラー効果が起こり、通過の瞬間、響音が高音から低音へと変化したのだ。 つまり、この物理変化は、当然、心理変化でもあり、いわば歓喜から憂鬱へ、陽から陰へ、実から虚への変化と受け取っていいだろう。 左から右へ、高から低へ、微妙な変化を詠んでいる。 (俳 人。奈良女子大学名誉教授)

加 藤 多 一
滂沱たり桜花びら散りつづく眠りていても眼裏は風(蜥蜴野)
桜花は古今詩歌に多く現れるが、友人の突然死の後に読むと、荒削りな修辞のままでいいのだ。 いま気取って修辞に力をふりしぼるトキではない――という荒ぶ作者の魂の一しゅんの破れが見えて、却って好感あり。
ところで、中学生たちの感想を読むのが楽しみです。文芸用語に疲れ人生に疲れた(?)小生が読むと新鮮なのだ。 今号の中二の祐太くん。麗さん。実矢さん…。みんなオモシロイ。優等生でないダメな自分を視野に入れたらもっとオモシロクなるよ。 (オホーツク文学館長。 児童文学者)

近 藤 英 男
地に沈む骸のごときわが体突き抜けて咲く赤き花あり(蜥蜴野)
末尾の《流氷記》の歌もいいが、今回は、別の世界を詠まれた歌をいただいた。川添さんは、丁度私が六五歳で定年を迎えた時の御卒業。私にとって最後の教え子みたいで、体育の岡澤君は筑波大学にすすんで今母校の教授。川添さんは異色の書家であり歌人。短歌の世界でも風変わりで人のやらぬ世界を詠われる。 今テレビでは最近注目の白石加代子さんの朗読劇の飛び出す絵本とも共響。 誰もやらない短歌に挑戦。《見事な新世界》を現出。前登志夫さんも中学の時の教え子。一緒に戦後《斜線》という詩誌を作ったが、短歌に転じ吉野独特の《地霊》によって作歌。 ものまね短歌と違った独自の魅力が、多彩なフアンで支えられている。(奈良教育大学名誉教授)

清 水   敦
道の傍ナズナの花の凛と咲くしゃがんで芭蕉と我を見ている(蜥蜴野) むろん芭蕉の「よく見れば薺花咲く垣ねかな」の俳句があってのことだろうが、哲学者E・フロムはこの句をhave(持つこと)からbe(あること)への説明に使っている。「バビロンの栄華も一本の野の花にしかず」という聖書の言葉も思い浮かぶ。道の傍、路傍とは道でもなく畑や庭でもないゾーンである。そこにはタンポポやハコベが咲き、コウロギやキリギリスやトカゲが住んでいる。(三月四月清水敦版画展《東京国際フォーラム》油彩展《玉英画廊》)

中 島 和 子
寂しくて嬉しくて娘はやわらかな命の重み身を寄せてくる(蜥蜴野)
歌に詠まれた娘(こ)は小三。 親の膝にも、すっぽり入るかわいらしさがあります。娘の心の中に沸き起こった漣や嵐を、無条件に受け止められる「スーパー母さん」でいられたのは、いつごろまでだったか…。 わが家の娘らは、成人してもまだ、やわらかな身を寄せてきますが、娘より小さくなった私は、その重みを受けとめかねてよろけるようになりました。  (詩人。童話作家。『ぎんなん』同人)

中 平 ま み
諍いのあと言い過ぎた部分だけ優しく妻としばらくをいる(水の器)
家族と(母と)居て、 日々こういうことの繰り返しです。 ――でも犬が、愛犬がいてくれるおかげで(彼女は母のことを熱愛していて、私が母をやっつけると猛烈に怒るのです)ずいぶんと穏やかになりました。 犬は、邪悪なところが全くない、奇蹟のような生き物です。 (作家。『ストレイシープ』『ブラックシープ・映画監督中平康伝』)

吉田富士男
赤紫サヤエンドウの花群れて風の在りかをかすかに揺れる(蜥蜴野)
花の写真を撮影していて、 サヤエンドウは少しの風にも揺れて手こずる花の一つです。風も無く穏やかな日と思われても、マクロレンズを向けて花を接写で撮ろうとすると、 微かながら風が吹いていることがわかります。 喧噪とした都市生活では味わおうとしても味わえない、 自然の微妙な循環が繰り返されているのが分かります。多くの分野でも極めるにつれ奥深さが現れて来るのでしょうが、身近なフィールドでの散策さえ、瞬間が永遠となる様々な現象に巡り会います。 今後ともゆったりとした気持ちで野山を散策したいと思っています。 (ウィークエンド・ナチュラリスト)

川 口   玄
天平の森に迷えば木漏れ日の紫華鬘ひっそりと咲く(蜥蜴野)
私にとって「詩」は、 心を豊かに明るく楽しく美しく気分良くすべきもので、それ以外の何物でもない、 あるいは、そうあるべしと想っています。死にまつわるうた、暗いうたは、良いと思っても避けることにしております。 気の弱い人間の人生の一側面でしょうか。だから「天平の森…」のような歌が大好きです。良い歌です。(『大阪春秋』編集長)

鈴 木 悠 斎
道の傍ナズナの花の凜と咲くしゃがんで芭蕉と我と見ている(蜥蜴野) 道端で作者がしゃがんでナズナの花に見とれている内に、 芭蕉の句に「よく見ればなずな花咲く垣根かな」というのがあったのを思い出したのでしょう。 「芭蕉と我と見ている」が何とも憎いですね。 私は十年来、芭蕉の句を沢山書いてきましたが、芭蕉と一体になったと感じたことはあったかな?。 「地に沈む骸のごときわが体突き抜けて咲く赤き花あり」と「滂沱たり桜花びら散りつづく眠りていても眼裏は風」もいいと思った。 (書 家)
いつも活字にしてしまうのが勿体ない筆書きのお便りです。

宍 戸 恭 一
街中に白くノイバラ生のままの野より咲き継ぎ来しと思えり(蜥蜴野) 植物の生命力の強さを前にすると、 何と私たちの生命力の貧弱なことよ、人間とはこんなものかと嘆く前に、西脇順三郎の詩や三木成夫の生命記憶の諸仕事のあることを知る必要がある。 何億年前に海から上陸し、 他の諸生物と自然の中に共存していた頃の人間には、このノイバラに負けない強い生命力があった。 この春、私の店の商店街の、コンクリートで固定された電柱の、ほんの僅かな隙間に、たつなみ草、小判草やひよどりじょうごの可憐な花が咲いているのを見つけて、思わずカメラのシャッターを切った。この草花は、近くの店先の小庭園から「咲き継ぎ」て来たのだ。この写真を私は知人たちに見せながら、今の学校教育のあり方について、つい、ひとこと言う羽目になった。
子供たちは持って生まれた生命力のおもむくままに、 自らに適応した場所で資質や才能を発揮しようとするのに、学校教育は、そんな所は良くないからと無理矢理に一つところに閉じ込めることによって、子供の折角の才能や資質を、無惨にも刈り取ってしまっている。これでは人間の生命力は益々ノイバラの生命力に水をあけられてしまうことになる。(三月書房店主。三好十郎研究家。)

井 上 芳 枝
山覆う芽吹きと花の点描が光と風の調べに揺れる(蜥蜴野) 夫の古里は紅葉で名高い大分県耶馬渓です。紅葉にも負けず、春遅い山里では、新緑も見事で、この歌と重なるのです。 四月末から五月にかけて、ヤマフジ、ツツジ、シャクナゲが盛りで、車の窓を開け、 清々しい空気をいっぱいに浴びながら、山道を登っていく幸せ。 「かにかくに渋民村は恋しかり おもひでの山 おもひでの川」 石川啄木の歌は、夫の生き生きとした少年の姿を髣髴とさせます。下の句「光と風の調べに揺れる」は心地よい響きで素敵です。(中学恩師)

山 内 洋 志
流氷記親しむ中学生も増え彼らの心に少しだけ入る(小秋思)
我が闇と生徒の闇と繋がりて大津皇子のかなしみうたう(水の器) いつからかわたしは、川添先生の歌のフアンなのか、それとも先生の生徒たちのフアンなのか分からなくなっています。 流氷記を届けていただくたびに、 紙面を埋める生徒たちのことばに真っ先に目がいってしまいます。 生徒たちが若々しい感覚で先生の歌を読み、味わう姿が目に浮かびます。そして先生と生徒たちがどんな授業を創っているのかを想像するだけで楽しくなります。 歌のすばらしさとともに、 先生の国語教師としてのお仕事に拍手を送っています。 (佐呂間中学校校長。 元網走二中教諭)

井 上 冨 美 子
生きたまま路上の籠にさらされて明石の蛸ありのたうちまわる(蜥蜴野) 自分の意思とは裏腹に、こんな運命になってしまった明石の蛸。「なんて美味しんだ!明石の蛸は」と舌鼓する人間。最後の力をふりしぼり、のたうちまわるこの気持ち、わかってたまるかいと、自由気ままに殺生している我々人間に激しく悲しみと怒りをこめて、やり切れない気持ちを突き付けているようです。 振り向けば山やわらかき春いろの色とりどりの点描が見ゆ 美しい風景画を見ているようで、とても穏やかな気持ちになりました。自然をあるがままに受け入れ、 心に感じたことをこんなにも純な気持ちで素直に表現されていて言うことありません。 故郷の山に向かいて言うことなしの心境にさせてくれました。 (元網走二中教諭)

小 川 輝 道
手術のあと逆に励ます母といて一つの雲の渡りゆく見ゆ(漂泡記) 手術は時に死に至る過程でもある。 不安や悲しみに、逆に「心配するな」と言ったり、「お前こそもっと身体を大切に」と母なればこそ励まそうとしてくれた。 母の思いを素直に受け止める作者の目に映る一片の雲の動きは、心に沁み、さみしさも深い。「渡りゆく見ゆ」は広やかな語調で秀逸であり、いくつもの挽歌の秀作と重ね合わせ風格を感じた。幼き我背負いてくれし母の背のこんなに小さくなりて座りぬ老境深まる母への悲しみをうたい、下の句に余情溢れる。我の手を強く握りて死に就きし伯母ありき昔なれど忘れずの三首にひかれた。(元網走二中教諭)

山 川 順 子
振り向けば山やわらかき春いろの色とりどりの点描が見ゆ(蜥蜴野)
この四〇ベージに詠まれた歌は、 どれも優しく自然に対して素直に接していると思います。その場にいなくても、目を閉じて想像しているだけで、とても気分が和らぎます。 流氷も去り、忙しい日常の中で、春という何か季節の中で導かれた、つかの間の安らぎの時が持てたのではないでしょうか。(『わたしの流氷』同人札幌在)

千 葉 朋 代
建物の在った所に駐車場あっけらかんと日を浴びている(小秋思) まるで初めから駐車場だったように、しばらくすると何が建っていたのかも思い出せなくなります。存在していた時は、あれほど自らを主張していた物が、無ければそれで、あっけらかんと馴染んでしまう。確かに在ったものさえ幻のように思えます。もしかすると人間の作ったものなど地球から見れば、 すべて幻なのかもしれない。身近な都市の風景から、そんなことを感じる一首でした。 (『わたしの流氷』同人。札幌市在)

西 勝 洋 一
たちまちに通夜葬式と塵芥のごと人亡くなればただ消えるのみ(蜥蜴野)『人は死ねばただのゴミ』という本を書いた検事さんがいたと思うが、妙に説得力のあるタイトルで記憶に残っている。 また、映画『アマデウス』の最後の方で、 死んだモーツァルトが袋に入れられて、 共同墓地の穴に「ゴミ」のように捨てられるシーンが強烈に印象的だった。人が死に、通夜、葬式に集う人たちも、終わって幾日か過ぎると何事もなかったように飲んだり、食べたり、笑い合ったりして日々を送る。まことに死者は「ただ消えるのみ」。人が自分がこの世に生きた証しを残したいという気持ちが良く分かる。(『短歌人』『かぎろひ』同人。)

新 井 瑠 美
目つむれば翼を広げ我は飛ぶ流氷原の鎮まるところ(蜥蜴野)
 流氷を追って北上もし、又、どこまでも夢をふくらませる作者である。ロマンチストは女性よりも男性のものとか。 一読、無理なく入ってくる一首。 イメージした鳥は何鳥であったのか?大きくても優しい感じがする。 《久々に男女の夜となりて寄る娘を外泊させて二人は》集中、ふっと和やかな気分にしてくれた一首。われらが川添氏はまだ若いのだ! (『椎の木』同人)

里 見 純 世
流氷記出でしあとただ虚しくて骸のごとく夜を独りいる(蜥蜴野) 一読し、此の歌にぱっと注目しました。何といっても此の一首に先生の本音が出ているのを感じ、共感を覚えました。毎号欠かさずの流氷記の出版は、とても並大抵の事ではないと存じています。御自身の歌の外、 短評依頼を始め、編集印刷等々、とても誰でも出来ることではありません。 恐らく印刷・製本を終えたあと、どっと疲れが出ることでしょう。心より敬意を表すると共に、御無理なさらぬよう願って止みません。 「…虚しくて骸のごとく夜を独りいる」先生自身の姿が見事に投影されて迫ってきます。 (『新墾』『潮音』同人。網走歌人会元会長)

田 上 才 惠
疲レテハイナイカ我を気遣いて死の一カ月前の筆跡(蜥蜴野) 築田さんはかなりお疲れだったのでしょうね。 だから川添さんのことを心から心配しての添書きをなさったのでしょう。 ほんの一言が一生忘れ得ぬ言葉となることがありますね。でも、今の川添さんは体力もファイトも若さも十分にお持ちですから『男のロマン』とばかり志を貫かれてはいかがですか。ただ、気持ちの方は開き直るというのでしょうか。なるようになると自然に身を任せる気分で、余分なところでは力まない生き方でのご活躍を期待しております。ライフワーク・短歌をお大切に。 (『地中海』同人。)

葛 西   操
二ツ岩夕方過ぎてアザラシの雄叫び水族館よりひびく(二ツ岩)
アザラシとて悩むもの。 流氷の季には生まれた故郷が恋しいのだと思います。 人間よりもらう餌のための叫びに言い知れぬ哀愁を感じます。 夕方身内の者を呼んでいる気持ちが表現されて生ある者の淋しさ悲しさが夕方流氷の鎮もる中に響く雄叫びに言い知れぬ感動を覚えました。オホーツク水族館より漏れてくる叫びが流氷原をこだますの歌も感動しました。大阪よりわざわざのお出掛け、お体を大切にお過ごし下さい。(『原始林』同人。網走歌人会)

南 部 千 代
小三の娘の寝言に複雑な子供の人間関係が見ゆ(蜥蜴野) このうた良いですね。子供の寝言の中身を感じる親はとても温かい。養女だった私は佛壇のある部屋を当てがわれ、 どの角度からでも目の合う写真の人達に見つめられ布団を頭から被ってやっと眠る少女でした。勿論寝言など誰にも聞いて貰えずに。「流氷記出でしあとただ虚しくて骸のごとく夜を独りいる」これは少し淋しい。 ゆっくりでいいですから骸を甦らせ、又いい御歌見せて下さい。
(網走歌人会)

古 賀 泰 子
ぴちぴちと伸びて緑の麦畑風に匂いの旋律渡る(蜥蜴野) 選ぶとなるとどうしても自分の好みになってしまう。 このごろ麦といえば春先の花屋さんに青麦の束が置かれている。 若いころ郊外の麦畑のそばを通って勤め先にかよった経験があるのでこの作品はなつかしい。上句は実景であり麦畑の様子がよく出ている。この場合の「ぴちぴち」は伸びて行く麦の姿が生き生き描かれている。「風に匂いの旋律渡る」も、広びろした麦畑を渡る風の感じがよく出ていて納得できる。 目立つような作品ではないのだが心ひかれる作品である。 (『塔』編集同人。)

田 中    栄
家出でてまずむきだしの墓石群見つつ難儀な仕事に向かう(蜥蜴野)
生き生きと生活の一齣が歌われている。 人は生きている限り生活がある。まして若い時は仕事を持たなければ暮らしてゆけない。朝家を出て死の世界を眼前にしながら、 今日の仕事の苦痛を意識する。同感できる感情だ。 然し、少しきびしく言うと言い尽くされた処が惜しまれる。表現は七分か八分抑えよ、と言うことがある。「むきだし」とか「難儀」といった小主観を抑えることによって、 より深みのある歌となり得たろう。 「みがかれて墓石売らるる傍らを命延びたる我ひとり行く」高安国世の歌がある。参考までに…。

前 田 道 夫
夫婦共すこぶる腹を立てているいないと不安にすぐなるくせに(蜥蜴野)玄関をそっと開けて妻が出掛けて行く。 すぐ帰ってくる時はいいが、 なかなか帰ってこなかったりすると何処へ行ったのかと不安になることがある。 そのくせ顔を合わせれば諍いもするし腹を立てることもしょっちゅうである。この一首、身につまされるものがある。 川添さんも同じような不安を感じられることがあるのだと思うと親密感を覚えるものである。 (『塔』同人)

榎 本 久 一
いざとなれば庇いてくるると思いしが蜥蜴の尻尾となりて我がいる(蜥蜴野)使い捨て蜥蜴の尻尾と笑いつつ我が臍曲がりが誇らしげに言う」と共に読む必要があるだろう。 主体から逃げられてみじめに扱われている状況なのだろうことがわかるが、 自分を尻尾の側においている処がよい。だが、濃紺に陽の光に輝く蜥蜴の尻尾もあるから、そうなると自己陶酔がチラリと覗く、その批評をかわす一首も用意されている処だろうか。(『塔』同人)

小 石   薫
山土手の五月温めど葱坊主匂いに緊まる一区画あり(蜥蜴野) 都会で生活し郊外に出掛ける機会も稀なのですが、 忘れていた記憶の中の匂いに出会う思いがします。 花といえど葱は甘い匂いではなく、きっぱりと自己主張をもった匂いです。食べれば元気の出る野菜ですが、その匂いにも何らかの効用はあるのでしょうか。描かれた風景にふと目を留めました。植物の歌もう一首。「絞りたくなるほど雨を含み咲くツツジの白き花の群れあり」 ツツジ、さつきなど花弁が下まで切れていない花は、 水が溜まると寿命が短く終わります。即物的な歌い方がよいと思います。(『塔』『五〇番地』)

東 口   誠
いざとなれば庇いてくるると思いしが蜥蜴の尻尾となりて我がいる(蜥蜴野) 巨悪小悪相次ぎ、情けない日本に住んでいると、自分自身決して埒外にいるわけではないことを常に思い知らされる。 自らを蜥蜴の尻尾に見立てて人を頼っていた自分をいくらか戯画化して表現した。いざという場合、庇ってくれると思っていたのに、切り捨てられてしまったというのだが、 甘えていた姿勢をもっと突き放すことはできなかったのだろうか。 「思いしが」に問題があるのかもしれない。 自分は犠牲者だという訴えになっている弱さがある。 にもかかわらず、こうした歌材に取り組む作者の意欲は、出来上がった作品の質を補って余りあるものと思われ、 最も注目した一首である。 (『塔』同人)

鬼 頭 昭 二
一面の枯れ芦原は緑葉も混じりて風にきらめき揺れる(蜥蜴野)
川添作品としては平凡な部類に入るものであろう。 特にどうこういう作品ではない。 歌は普遍性、平明性の上に作者固有の発想、表現を重ねて独自性のあるものとしたい。 一首一首をきっちりと作ってほしい。 (『五〇番地』同人)

甲 田 一 彦
北摂の山遠近の鮮やかに見えて自然も足引き動く(蜥蜴野) 北摂の山を見て暮らして来た私には、 あらゆる眺めが目に焼き付いているが、いざ一首に詠もうとすれば、そうたやすいものではない。春霞が薄くかかって、常は平板に見えている山が、鮮やかに遠近をあらわしたりする。これはその一瞬をとらえているのだが、刻々に変化する様子を「足引き動く」と表現して見事である。 「足引きの」という枕詞が、作者の念頭をかすめたのだろうか。「ぴちぴちと伸びて緑の麦畑風に匂いの旋律残る」の四・五句も見事。作者はコトバの魔術師である。 「目つむれば翼を広げ我は飛ぶ流氷原の鎮まるところ」流氷に魅せられ、流氷に触発され、流氷を詠み続けて清新な作品を産み続ける川添英一。流氷記も二十六巻になったが、結社を離れた一匹狼の川添は歌人と呼ぶに値しないのだろうか。 これだけの作品を紡ぎ出し、これだけの個人誌を積み上げても、短歌の世界は注目しないのだろうか。 川添英一よ、力強く飛べ、大流氷原に負けるな! (北摂短歌会会長。『塔』同人)

遠 藤 正 雄
いざとなれば庇いてくるると思いしが蜥蜴の尻尾となりて我がいる(蜥蜴野)友情が厚ければ厚いほど、その人を失った時のショックの差は大きい。まして突然の死は、自分の身体の一部をもぎ取られた思いになる。「蜥蜴の尻尾と思いしもそう悪くない」とも詠み、蜥蜴の尻尾に変身したその悲しさを蜥蜴の目になって世間を見ている。誇らしげに、自嘲気味に。そして、その悲しさと虚しさを下句に集中した。 「小三の娘の寝言に複雑な子供の人間関係が見ゆ」この歌と掲頭の一首を合わせ読む時、子と子、友と友、嫁と姑など、人それぞれの暮らしの中に、複雑な人間関係を、あらためてかんじさせる。

吉 田 健 一
振り向けば山やわらかき春いろの色とりどりの点描が見ゆ(蜥蜴野)
流氷記第二十六号の「私の選ぶ一首」の中で、藤本義一氏が「全体に暗くなってきましたね」と述べておられるが、私も同感である。骸とか死者とか髑髏といった言葉が次々と出てくる「流氷記」の中にあって、掲出歌のような作品に出会うとほっとした安堵感にとらわれる。この歌一首は、まだ冬の景の残る山々に青や緑の部分が見え出したことを詠ったもので、平凡といえば平凡だが、春らしい明るさを感じさせてくれる作品である。今後ともこういう歌を織り混ぜながら末長く「流氷記」を続けていってほしい。(『塔』同人)

塩 谷 い さ む
いざとなれば庇いてくるると思いしが蜥蜴の尻尾となりて我がいる(蜥蜴野) あの人は必ず助けてくれると思っていたのに案外冷たかった、こんな人はいっぱい居る。敵の敵は味方であり味方の敵は敵である。 面従腹背の輩が如何に多いかは会議中と会議終了後によく見かける風景である。「味方は三人、敵三人、あとは味方か敵ばかりなり」 ましてや肩書のあった時と無くなった時は大違いである。「三割自治」と言うのもこんな処から出たのかもしれない。人生の厳しい競争はまだまだ続く。でも、とかげの尻尾は切れやすいが再生する。この歌、尻尾となり「ぬ」ではなくて「て」で救われた。 厳然と我が居る。 ガンバレ!(『塔』同人)

平 野 文 子
桜花散るたび我は流氷の漂いつづく海想いおり(蜥蜴野)
春四月、桜の花の散る頃ともなれば、最果て北海道では流氷が漂い始めるのでしょう。 海面の凍結より生じた氷が破れて氷塊となり、結氷しない海に流れ出します。 考えてみれば、果てしない海にあてない漂流を続ける流氷と、そして一方、爛漫の春を飾って惜し気なく散り行く桜の花を、 その何れにも通う哀れが一首の中に流れて、ほのかな哀愁を感じます。流氷に寄せる作者の思いが素直に、ジーンと迫って来てとても惹かれました。 (『かぐのみ』)

小 西 玲 子
複雑なビルの間に間に日は沈みゆきつつ車窓流されてゆく(蜥蜴野)
この歌は何だか現実的に思えました。 都会にある複雑なビルはただ訳もなく時間が過ぎてゆくようなイメージがあり、忙しくてそして矛盾しているイメージがあります。だけどその間から、優しく夕日が顔を出して何か語りかけている気がします。 そして自分の本当の夢、自分はこのままでいいのかなと考えてしまいます。決して自分を責めるのではなく、 複雑なビルに流されてゆく意味のない毎日に感じている時間も本当は大切なのだということを教えてくれるのです。取りとめもなき会話にてお互いが在る悦び満つるひととき(渡氷原)この歌は、私の日常の中にもよくあることです。何か深い話をする訳でもないけれど、相手の大切さに満たされることがあります。 それは、楽しく会話をしている時でもあり、ケンカをしている時でもあります。 笑顔だったり涙だったり我が儘だったりしても、その気持ちを表に出せている自分や、出してくれる友達の存在はとても大きくて、お互いの存在を実感できる時だと思います。ふつうのことに思えることだけど、このような悦びは本当の悦びである気がします。 (西陵中卒業生)

木 佐 木 美 希
ためらいもなく反抗の言葉出す娘と連帯して妻といる(蜥蜴野)
親はいつも私のことを思って色々なことを言ってくれます。 でも私は素直になれなくて、 ついつい親に反抗的な態度をとってしまっている。 この歌を読んだとき自分が親に反抗した時のことが頭に浮かびました。親に向かってためらいもなく反抗するのはきっと私が、父と母のことを心から信頼してるからだと思います。口では言いにくいけど、父と母に感謝の気持ちを伝えたいです。 突然の死を幸せな逝き方と言う人もありいずれ消える身人は、いつかは死んでしまいます。それがいつなのかは誰にも分かりません。死ぬのは恐い事だけど、 見えない死をいつまでも恐れていては何も始まらない。私は自分の生き方に後悔はしたくないので、目の前にある《今》を精一杯生きたいと思います。 (西陵中卒業生)

高  田  暢  子
曇より青空少し見えてきて楽しく心変わりゆくらし(凍雲号) この歌をよんですぐに真っ青な空が、 頭の中に浮かんできました。やっぱり空っていうのは心を表すのと同じで、空がくもってたり、 雨が降っているとなんとなく心まで沈んでしまうけど、 真っ青に空が晴れてると、小学校の頃の運動会や遠足を思い出せたりします。 だからこの歌での、心の動きなどはすごく良くわかるし、歌にも共感できたと思います。(西陵中卒業生)

白 石   愛
死にかけた蝉捕まえて遊ぶ猫鋭き爪が瞬時につかむ(惜命夏) 一瞬の出来事のすべてがこの短い歌に見事に的確に表現されているところがすごい。もがき苦しんでいる蝉、逆に元気にそれを楽しんで弄んで走り回っている猫、生と死とが対照的に表現されている。鋭き、瞬時、つかむ という言葉から、まるでカメラの映像を見ているような感覚に陥った。どんな小さな小さな情景も、よくよく見るとそこにはドラマが展開されているのだと思った。(西陵中卒業生)

四 方 真 理 子
少し喉潤すために地下資源使い捨てつつ人太りゆく(秋夜思) 日本の現代の人間の生活の豊かさをはっきりと歌ったものだと思いました。本当に必要でないものを多く使い、まだ使えるものを次々と捨てています。人間が少し喉を潤すためにやってることが地球にとってとても大きな負担になっていると思います。地球は誰のものでもないことを忘れてはいけません。 (西陵中卒業生)

鈴 木 亜 弥 子
すやすやと眠る娘の口動くいかなる夢が巣喰い居るのか(秋夜思) 娘がすやすやと眠っているなか、口が動いている。彼女はどんな夢を見ているのだろう。彼女にとって、良い夢かはわからないけれど、きっと良い夢でしょう。私はあまり夢を見ないからわからないけれど、口が動く程の夢を一度でもいいから見てみたい。どんな夢であろうと、夢を見ることは誰にとっても良いことではないのだろうかと私は思います。朝起きると「夢」はいつか起こることではないかとそう思っています。(西陵中卒業生)

小 野 二 奈
見世物となりし動物達の見る人は不気味に目を輝かす(小秋思)サーカス、動物園、ペットショップ…次々に動物を相手とする職業が増えています。言葉を発することのできない動物は、気持ちを動作(噛み付いたり嘗めたり)で表現します。だから、ある意味危険も伴います。サーカスの虎が人を襲ったとか…本当は私たちが飼い従わすというのが悪いのに動物を悪いように思ってしまう。それは自分勝手な人間の考え?それとも自然な考え?どちらなのでしょうか。どちらにしても生きているもの相手ならそれなりの責任や覚悟が必要になってくると思います。(西陵中卒業生)

福 島 悠 子
世の中で布団の中ほど心地よいものがあろうかしみじみといる(水の器)朝起きるとき布団の中が気持ち良くて布団から出るのが嫌でいつも蹲ってしまうのはみんな一緒だと思う。冬なんか特に、布団の中の方が暖かいし出るのが嫌で長い間蹲って学校へ行くのが遅れそうになることが度々ある。きっと先生もそんな思いでこの歌を作ったのではないかと思った。人の日々の生活がよく歌われていると思った。(西陵中卒業生)

木 村 明 日 香
唐突にキリンや象が出でて来て人に愛想笑いしている(小秋思)
今まで考えたこともなかったけど、この歌を読んだ時、人間だけじゃなく、動物も愛想笑いしたりするのかな、と思った。 私はいつも愛想笑いをしている、というよりしなくちゃ駄目、って感じだ。愛想笑いしなかったらどうなるのだろう?多分嫌われるんだろうな。それと一緒で、動物達もいろんな所で愛想を振りまいているんじゃないだろうか。サーカスの動物達もそうだし、家で飼われている犬とかが餌をもらう時にする「お座り」や「伏せ」も愛想なのかもしれない。そう考えたら少しゾッとした。 (西陵中三年生)

藤 川   彩
一人くらい違う意見もあっていい言えば忽ち生きづらくなる(燃流氷) 人それぞれ違う意見を持つのは当然だけど、大抵みんな同じ意見を出す。みんなと違うことを言うのは、恥ずかしいことなのだろうか。私は、みんなと違う意見を持つことだってある。むしろ、その方が多いかもしれない。間違っていても、意見は意見なんだからいいじゃないか。そう思うがなかなか実行できないこともある。やっぱり勇気がいるものなのかもしれない。 だからなんとなくこの一首に好感を持てた。 他の人と違う意見を出しやすくさせてくれるような一首に思える。(西陵中三年生)

北 川 貴 嗣
雪の結晶が次々落ちてくる網走歩む冷えしるき朝(二ツ岩) 朝は一日の希望に満ちた明るい白色です。 明るい朝に照らされて輝く雪は真っ白…、こんな朝を僕はまだ味わったことがありません。冷たい空気で頬が張り詰めた明るい朝。 一日が動き出そうとしているスタートラインを強調する雪の朝は、何より素晴らしいと思います。 (西陵中三年生)

野 村 充 子
教材に工夫重ねる努力など上司の目には最も遠し(漂泡記) 先生の苦労がしみ出た歌でした。でも、私は思うのですが、『工夫重ねる努力』は決して無駄ではないと思います。上司の目には届かない努力でも、その教材を使う生徒達には、先生の重ねられた努力がきっと届くと私は同時に思いました。 この歌は仕事上の先生の思いが素直に出ている気がしました。一蹴りで敵を沈めしアンディ・フグ死のマットより起きることなし(惜命夏) 私はK1のルールとかは何も分からないけどTVごしに時々見かける強くてかっこいい、アンディが大好きだったのに……あまりにも突然だったアンディの死に、私はショックでした。この歌はアンディの最後をしめくくるのに最高の歌だと思いました。リング上でのアンディは一番輝いて見え、今もなお私の心の中で、この歌とともに輝き続けています。(西陵中三年生)

宮 本 浩 平
眠りより覚めて斜めに振られゆく地球の自転に耐え難くいる(蜥蜴野) この歌は「地球の自転に耐え難くいる」という表現方法がおもしろいと思った。朝、起きた時に必死に起きようとするけれど眠気には勝てず、布団になだれ込んでしまう。というような何げない日常の様子を上手に表現を工夫して、 自分の感じたことを表すということは、なかなか出来ないものだと思う。この歌のように眠りから覚めた時の斜めに振られている様子を地球の自転に耐えていると考えつく人はあまりいないと思う。 こういう表現が出来る川添先生はすごいなぁと思った。 (西陵中二年生)

衛 藤 麻 里 子
小三の娘の寝言に複雑な子供の人間関係が見ゆ(蜥蜴野) 私も幼稚園の頃まではそうでもなかったのですが、 小学校の二年生頃になると、友達との関わり方が難しくなってきました。それまでは、思ったことは面と向かって言い、ケンカしたりもしました。でもすぐ仲直りも出来ました。 でも、その頃になると、言いたいことも言えなくなり、いつの間にか全然話さなくなっています。そういうことがないようにすごく気を使うのに、母に話すと「子どもなんだからそれくらいどうってことない」と言われました。 今もですが、あの頃の「本当は子供だって大変なんだ」という気持ちが思い出される一首でした。(西陵中二年生)

村 上 香 織
立ち止まらず歩いてゆこう二ツ岩一つの岩となる所まで(二ツ岩) 立ち止まらずに二ツ岩が一つの岩となる所まで歩いてゆくのはとても大変な事だと思う。 けれど私はだからこそ歩いてゆく価値があるんじゃないかと思う。不安や悩みを抱えている時、ここで立ち止まったら、どんなに楽だろうとふと思う。 そんな時、乗り越えて行ける強さが自分にあったらと思う。 この歌で二ツ岩が一つになることが出来たら私もこの先、 立ち止まらずに歩いてゆけることができるだろう。 (西陵中二年生)

根 岸   恵
軽やかに指揮者の指が弾みいてチャイコフスキーのイタリアが見ゆ(蜥蜴野) この一首が、クラシック音楽大好きな私の目にとまった。私も先日、オーケストラのコンサートに行ったばかりだったので、その時の感動は今も心に残っているし、一首に共感できる。 音楽の中には、作曲者の思いなど様々なことが込められている。チャイコフスキーの曲を聴くと、イタリアの風景が頭に浮かび、目に見えてくるようになるのも、その曲に込められた何かが、聴衆の心を引き出し、想像をふくらませるからだと思う。 そんな、人を夢中にさせ、現実とはまるで違う別世界へ連れていってくれる音楽は、本当にすばらしいものだなと改めて感じた。 (西陵中二年生)

岡 本 英 璃 乃
傷つけばたちまちカラス群れてくる烏合の衆の中急ぎゆく(二ツ岩)この歌に出てくる「群れてくるカラス」が人間のような気がしました。弱った者をカラスが群れで襲ってくるように、人間も弱い者を集団でいじめるみたいなことがあると思います。 私は川添先生が人間のそういう感じの部分をカラスに例えたのではないかと思いました。(西陵中二年生)

宮 崎 有 希
ここまでに生きてこられたのは不思議奇跡に近いと思うことあり(秋夜思)人はいつどこで死ぬのか分からない。授業を受けている間に沢山の人が死んでいるのかもしれない。いつ、どこで死ぬのかは誰だって分からない。そんな私達が生きているのは、死ぬために生きているのではないかな?っと私は思いました。 だって私達はいつかは死んで行くんだから、 死ぬために生きているのと同じだと思います。死んで行く前に沢山の人生があります。たった一度限りの自分の人生です。 なのに最近よくニュースで○○さんが殺されましたとよく言っています。 そんな何もしていない人を殺したりするなんてその人の人生がまだまだあるのにその人は何してるんだ!とニュースを見ていて思います。 私はこの一首を読んでいて人生のことや死んでいくことなど、 とても大切なことを教えてもらった感じです。これからたった一度だけの人生を大切にし、後悔だけはしない、自分の人生を送っていきたいと思います。(同)

小 樋 山 雅 子
窓ガラス対のガラスを映す昼どこも接していないかなしみ(夭折) 窓が開いていて、重なっていて、一番近くにいる時には触れられず、窓を閉めた時、一番遠くなった時に初めて触れられる、 そのことに対してのかなしみ。離れてみて初めて、その存在が自分にとっていかに大切な存在だったのかと、 思い知らされるという意味もある。 いつも一緒にいたはずの友達が一日だけ体調をくずし休んだことがあった。 いつもその子が座っているはずの席に誰も座っていないのです。淋しかった。… というわけで、この歌にすごく納得させられたというか、この歌がいいな、と思いました。 (同)

小 山 香 織
ムギュギュッギュ痛くはないか真っ白な新雪にわが足跡残す(二ツ岩) 雪が降った所を歩くと、自分の履いている靴の跡が残っていく。大阪にはめったに雪が降らないから、降って足跡が残ると、すっごく「雪だ!」って実感がわく。 北海道など、雪のたくさん降る所は、いろいろな人の足跡が残る。そこに混じって動物の足跡も、しばしばあるだろう。 そして、雪は平べったくなって、いつしか溶けてゆく。すぐに水になって、消えていくけど、「また降ってね」と、子供たちが空に向かって叫んでるようだ。(西陵中二年生)

佐 藤   絢
まばたきのごとくに去りてゆく蝶よ驚きやすき我に驚き(夜の大樹を)まばたきのごとくに去りてゆく…という所が好きです。蝶がまばたきのように羽ばたきながら飛んで行く様子が思い浮かびます。そんなに素早く飛び去って行く蝶を見て驚く自分にまた、 二重に驚いてしまう、という気持ちがよくわかります。普通に見ていることでもよく考えて見ると驚くことがあるんだなぁと思いました。これからは物を見るとき、ただ見るだけでなく、考えながら見て楽しみたいと思います。 (西陵中二年生)

植 之 原 万 里 代
オーケストラ小さな鼓膜震わせてアンモナイトのごとくに並ぶ(蜥蜴野)私もブラスバンドをやっているけど、 それぞれの楽器が合わさって一つの曲となった時はとても感動的な光景となります。 オーケストラなんかたくさんの人数なのに、 息もぴったりと合っていて、聴いた時は感動してしまいます。まるで今自分が音楽を聴いているような感じがしました。 (西陵中二年生)

古 田 土   麗
踊子草過ぎてタンポポいつの間に綿毛の塔と黄花群れあり(蜥蜴野)タンポポは芽が出て次にきれいな黄色い花が咲く。側には塔のような綿毛が立っていて風が吹くと飛んでいく。 私もその綿毛を飛ばして楽しんだりしながらタンポポを身近に感じて親しんでいる。それでいて何か贅沢な感じを受けたりもする不思議な花だ。冗談か人違いかと思いしも人群れて死が現実となる この歌を読んで亡くなった人と自分が重なってしまった。 それは自分じゃなくて他の人じゃないかと思いながら横たわっている、 そんな自分が浮かんだ。 そして死んでも後悔しないような人生を送らなければともしみじみ思う。 (西陵中二年生)

白 田 理 人
花壇に咲く花よりもなお美しく咲く雑草と呼ばれる花あり(断片集)
自然をコントロールすることを覚えた人類は、 それを芸術の域にまで高めました。そして、見た目の美しさのみを追い求められた花たちは、花壇に飾られ、多くの人に愛されました。けれど、ふと野原に見つけた花が、 僕たちをほっとさせてくれるのはなぜでしょうか。 何の手も借りず、誰のためでもなく、ただ生きるために力強く咲いている花に、僕たちは、素朴でけなげな美しさを感じるのです。 この歌を読んで、僕も、飾ったりせずひたむきに生きていかなければならないと思いました。 (西陵中二年生)

蓮 本 彩 香
流氷記仕上げつつ発送もする待つ人あれば心はやりぬ(二ツ岩)人間は、みんな完璧ではありません。だから、やらなくてはいけないことをさぼってしまうようなこともあります。でも、自分が一生懸命作ったものが認められたり、自分に期待してくれる人がいれば、やる気が湧いてきたり、頑張ろうという気になります。人間は、支え合っていきてるんだなぁと、私は実感しました。(西陵中二年生)

二 瓶 加 奈 子
小三の娘の寝言に複雑な子供の人間関係が見ゆ(蜥蜴野) 先生の娘さんは、どんな寝言を言っていたのか、知りたいです。小三でも、それなりの人間関係があって、 いろいろ大変なんだぁと思いました。でも、それは、親から見たら、どんどん成長していっているんだなあと何とも言えない複雑な気持ちになるのかもしれない。(同)

阿 河 一 穂
石や岩をぶつかりながら滔々と川は過去より未来へと行く(蜥蜴野)ぼくがこの短歌を選んだのは、 この川の流れを人の一生にたとえると結構おもしろいかなと思って選びました。人は、いろいろな苦労をして成長していくのであって、 十代、二十代のうちに、楽をしすぎると、いざという時にどう対応していいのか、分からなくなると思います。やっぱり今のうちに苦労しておけば、社会に出た時にさほど困らないと思います。川だって上流から下流に行けば、ゴツゴツした石や岩がなくなり流れも穏やかになるのだから。(同)

東 郷 高 之
建物の在った所に駐車場あっけらかんと日を浴びている(小秋思) これを読んで、よくニュースでデフレと言っていたのを思い出した。これは、バブル期に買い占めた建物を新しく立て直して立派なものにしたいと思っていたのに、バブルが弾けて、最初の予定が変わって、今は駐車場となったものだろう。人のやることは何とぶざまなものか。何とも先のことはわからないものだ、いや、不思議なことだなとも思った。 (西陵中二年生)

金 指 な つ み
声高に海の演歌の流れいる海産物屋に蟹人を待つ(二ツ岩) 店員が声高く客に声を掛け、後ろでは海の演歌が流れている。もし蟹が売れたら店員は大喜びするだろうが、蟹の気持ちはどうだろうか。まず客が来る。そして客は蟹を買おうとするとしよう。そして店員とやり取りをして客の家へ連れて行かれる。 そして食べられてしまうのだ。きっとその蟹にとって客は悪魔で、店員とのやり取りは悪魔のささやきに聞こえただろう。一見何げないこの光景が別の視点で見ると、とてつもなく恐ろしかったりする。この歌はこういう視点で見ると一味違った感覚を味わうことができるだろう。

田 坂   心
夢と死と同じか闇の空間をひたすら昇る透きとおりつつ(蜥蜴野) 闇の中をひたすらさまよい昇る夢と死…。少し何かに似ている。年月が経つうちに忘れられていくもの、 そしてふとした瞬間に思い出されてくるもの。 しかし、それらもまた忘れられ上昇し、消えていく…。その繰り返しは、まるで人生のようだ。 水のあぶくのようにそれは途中で消えていくのかもしれない。しかし、それでもひたすら昇る、それが人間の思いなのだろう。 (西陵中二年生)

松 川 実 矢
ムギュギュッギュ痛くはないか真っ白な新雪にわが足跡残す(二ツ岩) これは、自分もやったことのある一首でした。雪が積もったらどうしてもやりたくてしょうがないんです。 たくさんやると靴に滲みて足が冷たくなるのが分かっているのに、 どうしてもやめられなくなるのです。 先生の痛くはないかという言葉は新雪に向かって呼びかけているのかもしれませんが、 私には雪を踏む楽しさの方がどうしても勝ってしまうのです。 (西陵中二年生)

乗 岡 悠 香
石と岩とぶつかりながら滔々と川は過去より未来へと行く(蜥蜴野) 川は進む。たとえどんなに多くの石や、どんなに大きな岩が行く手をはばんでいても、決して今来た道を戻ろうとはしない。時にはしぶきをあげてぶつかり、時にはゆったりと淀み、しかし着実に川下へ向かって、― 未来へ向かって流れて行く。ヒトも、たとえどんな苦しみがやってきても…決して過去にばかり背を向けていてはいけない。時には迷ってもいい。時には振り向いてもいい。けれど、少しずつ未来に向かって流れていこう。 (西陵中二年生)

田 那 村 あ や か
春の土手小さな花の咲き競い髑髏さえ笑いて見える(蜥蜴野) 髑髏(しゃれこうべ)が何だかおちゃめに感じるのは、気のせいだろうか。でもこの短歌は何かと穏やか、のほほんとしていて、ぽわぁんとしている雰囲気が私は好きです。 (西陵中一年生)

匂 坂 若 菜
煙草のけむりなぜに吸わねばならぬのか楽しめぬまま早々に去る(秋夜思)たばこの煙は、くさいし、体にも悪いと思う。自分が煙草を吸っている人はいいだろうけれど、周りにいる人は、すごくいやな気分になると思う。 実際にこの一首のような光景を時々目にします。自分の所にも煙がまわってくるときもあるし、その時はやっぱりいやな気分になります。たばこを吸っている人はもう少し周りの人の迷惑も考えてほしいと思いました。 (沢池小六年生)