風 来 坊
薔薇色に一面染まる氷原に生も死もなきたまゆら揺れる(麦渡風) 作者の心の空白の風が虚無感として吹きまくる。 生と死がはめ込まれて 地に開く花を愛でればそれでいい我が死すとも花不要なり と裏付け朝に死に夕べに生ける緑水悲怨の見たことのないような永く続く心の栖(すみか)を連想される。いのちの鼓動を流転を變貌させている。 献体・通夜・遺言・棺桶・花不要などに見え隠れする生きるものと死ぬるものの分水嶺の命のざわめきのただ中に「風立ちぬ、いざ生きめやも」と「死の味のする生が去来する」バッハの鎮魂遁走曲の燻(いぶ)したたまゆらが揺れながら明滅して何かを成し遂げようとする憂愁が美しく一筋秘められている。
(寺尾勇。美学者。奈良教育大学名誉教授)

三 浦 光 世
差別する側よりされる側にある娘の話安堵して聞く(麦渡風)
目を惹く表現が一語もなく、 極めて普通の言葉でつらぬかれた一首。 この作者としては比較的珍しい作品と思うのだが、 やはり深みがある。 人生に対する態度を感じさせる。 結句で、 理屈っぽくなく、その主張を伝えている。 たやすいようで、むしろむずかしい詠嘆を見た。
山の道迷いしところ輝きて芍薬の花すっくと一つ
この一首にも注目させられた。 結句のように詠むことは、 私にはできない。 いい作と思う。 (作家。 『三浦綾子小説選集』)

島 田 陽 子
流氷記本音で綴れば教師には渡せなくなりひっそりといる(麦渡風)
創作は本音を言うため、 それが自己解放になるとしたら、家族にも職場にも見せられないのが本当だろうと思います。筆名で書き、全く別の人生を生きて素顔を見せない人がいるのはそのためでしょうね。本音を直截書かずに隠して、作品として昇華できたら、この一首の悩みは解決しそうですが……。「偉そうにしないと嘗められてしまうそんなかなしい現実が見ゆ」私も経験あり。つい拙い一首を作りました。「控えめに己れのことを伝えればそれがすべてと見るひともいて」ひとさまざま、 そう思わないと生きてゆけませんね。 (詩人。『かさなりあって』)

中 島 和 子
人の死をかなしみながら蚊のぶんぶ泣くのを強く憎みて殺す(麦渡風) 娘がまだ赤ちゃんのころ、 やっと立っちができたプクプクした脚に、一匹の蚊が九カ所もかみました。ついに犯人を見つけ出してやっつけましたが、怒りはなかなか鎮まりませんでした。蚊だって、生きるためにしたことです。 「殺されるほど悪いことしたかい?」と、理不尽に思って死んだのかもしれません。シュバイツァーでしたか、腕にとまった蚊を、窓の外に逃がしてやったそうです。ちょっと信じ難い話ですよね。凡人の私は、せいぜい虫よけスプレーを塗るだけです。 (詩人。童話作家)

加 藤 多 一
人の死をかなしみながら蚊のぶんぶ泣くのを強く憎みて殺す(麦渡風)口語調で表現せざるを得ない悲しみと自己凝視の切れ味が好きだなあ。 歌としては理に傾きすぎコトバ過剰だけど、これが英一ぶしですものね。この対極にある「人住みし跡に群れいてバラの花くっきり開く命たまゆら」などは一見美しく上句の着想はいいのに、 下句は短歌的叙情の悪い見本のようなむなしい飾り言語。美しいものには、つねにワナがあるということでしょう。悪しき伝統としての詠嘆風修辞に安住しない英一短歌は、中学生たちのおかげかもしれぬ。 (児童文学者。オホーツク文学館長)

近 藤 英 男
水晶のような氷塊立ち上がる巨大な白き花を見ている(麦渡風)
第二七号《流氷記》拝受。寺尾先生の一文がなくて、かわりに鈴木悠斎さんが私のと同じ歌を選んでおられる。 先月奈良の元興寺で十五名の書展が開かれ、私も招かれてお目にかかった所。なつかしい限り。あなたの原風景は網走の流氷原の深層潜在意識。文人以外の中学生のフアンの感想文に見ほれています。私はただ今《スポーツ曼陀羅》にすべてを賭け空海の真言の世界にとりついて五十年、先日浄瑠璃寺で佐伯快勝さんのマントラ(真言)に心打たれました。川添さんより一寸上の同学窓。私の原風景は《大日》の流氷原。 (奈良教育大学名誉教授)

宍 戸 恭 一
無駄なもの余分なものを削ぎ落とし幾山河行く流氷のごと(麦渡風)
この七月に八十歳になった私に、 この「流氷」は途轍もなく大きな存在感となって迫って来る。 人生のテーマに「自己史」を選択してからは、それまでの諸関係の中の無駄なもの、余分なものを大胆に削ぎ落として来たが、その途上、予期しない人や書物との出会いに胸ときめかしながら、新しい体質作りに励んできた。権力者が仕掛ける一切のイデオロギーに拒絶反応をするような体質、 この様な体質の所有者にだけ、自然界の生命力に目が開かれ、この「流氷」の存在感を口にする資格があるのではなかろうか。(三月書房店主。三好十郎研究者)

林    哲  夫
管弦楽華やかなれど夭折のモーツァルトはひっそりと死す(蜥蜴野) 六月十二日の新聞に「モーツァルトはポークカツで死んだ!?」という小さな記事が出た。 それによるとポークカツ (ウィンナーシュニッツェル) の寄生虫が死因だという新説があらわれたらしい。 発症から十五日後に亡くなったそうだ。いわばコロリと往ったわけだが、やはり「ひっそりと」が似つかわしい。 (画 家)

横 尾 文 子
道の傍ナズナの花の凛と咲く並んで芭蕉と我と見ている(蜥蜴野) 「よく見れば薺花咲く垣ねかな」は何気ない句ですが、 いいなァと思ってきました。 日常に「よく見れば」という行為はなかなか果たしがたく、「ふと見れば」程度の日々を送っておりますけれども、それもこれも肯定してくれそうな芭蕉の眼差しを感じます。「道の傍」の作者は、「芭蕉と我と見ている」と仰言います。 古人の世界に、そのような同化を赦されたと感じる瞬間のありえることは、 僥倖の一つではないでしょうか。御歌を拝見し、私にはもたらされない世界だなァと羨ましく存じました。(文化コミニュケーション学。佐賀女子文化短期大学教授)

リカルド・オサム・ウエキ
蜥蜴野の緑の土手に崩れつつタンポポ綿毛風呼びて立つ(蜥蜴野) ブラジルの方では、 パイネイラスの綿毛が黒い種を孕んで飛んでいた季節が終わったところです。 ちょうどそんな季節だったと思います。 ナベガンテスという小さな町の、街中の道路を、ゆうゆうと横断する一メートルを超す大蜥蜴と出会ったことがありましたが、こんな大蜥蜴でもこちらが襲えば、尻尾を切って遁走するのだろうかと考えたことを、「蜥蜴野」を読んで憶いだしました。そして、蜥蜴のように尻尾を切り、再生させた尻尾を切り、 何度でも尻尾を切って、 息絶え絶えながらも生に執着して醜く生き長らえてきた自分を振り返っています。後悔しながらも、執念を燃やしたことへの満足も味わいながら。 (作 家。 ブラジル在住)

清  水     敦
雨に濡れた葉よりすっくと立ちて咲くシロツメグサあり輝きて見ゆ(麦渡風)
身の回りのありふれた小さなものへの眼差しに共感。
野の花はレーダー/さりげないふうをして/宇宙の霊気を受信している。
野の花は塔/風の音を聞きながら/はるかな地平を眺めている。 (造形作家)

中 平 ま み
美しき人形となり横たわる築田光雄の見る夢は何(蜥蜴野) これまで――何人もの人たち(愛する犬たち)に死なれてきました。 デスマスクは父を始め、見せられたり、なきがらを目にしましたが、自分のは見て欲しくありません。 生まれ変わりはあるのでしょうか?この世は苦界の一面を否定できませんがフルに生き…そして来世や転生も信じていたい。わが娘叱られてはすぐ抱き締めてほしいと我にぶら下がり来る(麦渡風) 喧嘩したり気まずくなったすぐその後に謝りたくなったり、 くっつきたくなるのはよく経験すること。 怒りや不機嫌を表に出すなとシャンソン歌手イヴェット・ジローが芦原英了氏に言われたそうですが、私はなかなかその域には到達できません。でも「手打ち」、仲直りする後の気というのもまた格別にして… (作家。「恋ひ恋ひて」「ストレイシープ」)

川 口   玄
この世から突然我が消えている静かな朝の町歩みおり(麦渡風)
連日の溽暑でうんざりしている時「麦渡風」到着、まさに涼風。それかあらぬか、これも良い、これも良いと思いつつ最終ページまで拝読しました。ナミ子姉ちゃんの群詠にも心ひかれましたが、今回は何といっても私にとっては、標記の歌がいち押しです。心理学でも何とかという学術語がある(忘れました)こういう感覚の中に、一種の快さをもって私も居ることがあります。(『大阪春秋』編集長)

神 野 茂 樹
赤紫サヤエンドウの花群れて風の在りかをかすかに揺れる(蜥蜴野)
この返事が届くころには、 既に二七号が出ているのではないでしょうか。今回も悩んだあげくに珍しくこの一首。ボクなら在りか「に」と詠むか?迷われませんでしたか。いつも手を握られていた畦道に姉ちゃんといる今も時々(麦渡風)麦渡風号ですから、麦渡風十数首のなかから、迷ったあげく、右の一首を。 ある歌よみが歌よみでもない人から、 あれやこれや言われるのは―。 と申されておりました。 歌よみでも何でもありませんから、 選ぶのみにて御免下され―え。 (『大阪春秋』編集委員)

松 村 和 彦
腕時計の硝子に映る竹すだれ夏の日分断されて明るし(麦渡風)
心のこもった文とともに『流氷記』が送られて来た。 川添英一氏である。遠い過去があざやかによみがえった。氏はいつもおだやかであったが、話は時の流れを的確にとらえていた。 (他とちがうのは、この社会性である。)このことに気が付くと、年齢の差をこえて親しみを抱くようになっていた。 『流氷記』を読みながら、 やはりやってるな、という満足感がある。余談ながら、私も今、漢詩集を出すべく、準備している。 (漢詩人。)

井 上 芳 枝
紫陽花の葉に次々に落ちてくる雨あり木琴叩くがごとし(麦渡風) 梅雨空に映える紫陽花、 私は雨にぬれた紫陽花の何ともいえない風情が好き。 紫陽花の葉にポツポツと落ちてくる雨音を 「木琴叩くがごとし」 と表現された見事さ。 木琴の音が耳元に届くようです。 紫陽花、雨、木琴の調べと続くリズム感がすてきです。中学校では国語教師、剣道部の指導と、大変な仕事をこなしながら、 『流氷記』 第二七号まで編集された心意気に感心しています。お身お大切にますますのご活躍をお祈りしています。(中学時代恩師)

佐 藤 昌 明
麦に風ナミ子姉ちゃん想うたび涙あふれて幼子となる(麦渡風)
『麦渡風』の百三十首ほどの多くの歌に、「同感だな!」「私など到底真似できないいい表現だな!」 と感動させられる歌に赤丸をつけていったら、殆ど大半の歌に丸がつき、 一首を選ぶことなど、とてもできないような心境になりました。しかし、その全部を羅列するわけにもいかず、無理してこの一首を挙げることにしました。川添さんの歌人として…というより、 人間としての純粋さが率直に表れているような気がしたこと、それに私自身も、この歌に詠み込まれているような気がしたからです。実は私、この年齢にしては稀な、全くの『一人っ子』で育ち、現在に至りました。しかし生前、父母から、私には、誕生寸前死産した姉がいたことを聞かされていました。戒名は『春梢嬰女』。 「春早く、木々の梢の若芽の精に促され、オホーツクの空に上って行った、この上なく可愛い嬰女」私はそう解釈しています。今はもう殆どないのですが、幼児時代から青年期にかけて、その顔も知らぬ姉をよく夢に見て、何とも言えない寂しさと慕わしさに切ない想いをしたものでした。私のように、まるで知らぬ姉でも、恋い慕う気持ちは強いのですから、幼年期に共に過ごした優しい姉のような人のことを思い出す度、 言い知れぬ深い悲しみと切なさに身もだえする川添さんには強く同感できるのです。 それにしても、 一見さりげなく『涙あふれて幼子となる』…と詠める川添さんの才に、何時ものことながら脱帽するばかりです。(作家。『北に生きて』〈オホーツク・知床秘話〉)

丘 め ぐ み
春の土手小さな花の咲き競い髑髏さえ笑いて見える(蜥蜴野) 春先に亡くなった絵描きだった祖父のことを思い出しました。 もう四半世紀も前のことです。 突然、祖母から危篤の知らせを受けて、父と一緒に家に駆けつけると祖父は鼾をかいて眠っていました。翌朝、親族皆に見守られて息をひきとりました。枕元に置かれていた素焼きの鉢のアネモネがちょうど花弁を開き出したばかりでした。お骨拾いの時、祖父の骨灰はスプーンですくわれて密閉容器に収められ、上高地の土になりたいという希望通り、高原の花畑に播かれました。学生だった私が初めて出会った身近な人の死でした。 (『浜ぼうふうの会』『私の流氷』同人)

半 沢   守
紫陽花は雨の匂いかたたき降る音にかすかに震えつつ咲く(麦渡風)
窓越しに見た情景であろう。 大雨の降る中で耐える紫陽花に詠人は「震えつつ咲く」で花の儚さを強く表現したかったのではないか。 (『浜ぼうふうの会』『私の流氷』同人)

山 川 順 子
地に開く花を愛でればそれでいい我が死すとも花不要なり(麦渡風)
親類の通夜あふれんばかりの胡蝶蘭、カトレア、むせ返る程の百合の香、盛大で故人を偲んでも虚しかった。本人は無念だろう。 花の精に頼めるものならタンポポ一本でいいからその分命を下さいと言っただろう。 今の世は何が起きても、おかしくないし、永遠の生は無いが、残され悲しむ者がひとりでもいるなら、その悲しみを少なくする為にも、とにかく生きる生き続けるしかないのでは。この歌を読み終わったままに書いてしまいました。評からは外れて作者の意とも違うと思いますが。(『わたしの流氷』同人。札幌在)

千 葉 朋 代
麦渡る風に幼き我負いしナミ子姉ちゃん顕れてくる(麦渡風)
麦穂は目に見えない風を、見えるものにする。幼い弟のような作者への優しい想いを、麦渡風の中に残していかれたのですね。傍らで我支える人あり。死してなお、我支える人があり。 私の中でその人の支えが生きる力になる。そうして人の命は生き続け、つながり続けていくのでしょう。 死の先に続く命を残せるように生きたいと思いました。 (『わたしの流氷』同人。札幌在)

小 川 輝 道
疲レテハイナイカ我を気遣いて死の一カ月前の筆跡(蜥蜴野)互いに知り合ってきた人の死。既に旅立ったのか、という寂寞の思いに捉えられる。その人が、一カ月前に自分を気遣って便りをよこしてくれた人の死である。 「疲レテハイナイカ」の一語が示すその筆跡が、表現への労作に日々自分を駆り立てている川添さんへの温かい思いやりを残して、心情と儚さをとどめてくれている。年齢が加わってきた者に訪れる交情と別れ、 どの語句にも凝縮した思いと哀感を湛え、余情が深い作品となっていると思う。 道の辺にホタルブクロの花群れて昨夜の雨の滴くに揺れる(麦渡風)なりわいのかたわら、 表現と制作に時間をかける過密な日々の営みを想像している私にとって、 小さな野の草花の微妙な美しさを詠んでいる数々の短歌に接して味わい深い思いがしている。 どの作品もごくありふれた谷の木陰や道の辺に、 そして山の道などに静かに咲く姿を把え趣がある。 秋の七草の時もあった。 季節の草花に目を向けながら表現を練り上げ深めていく。 花の知識にも驚くが、 題材を広く求め手を抜かず向き合う探求者の気配が私の心に触れてくる。 次も同じ「ヤマボウシ四弁の花のくっきりと谷の木陰に浮かびつつ咲く」(元網走二中教諭)

井 上 冨 美 子
威勢なく落ち込む妻の甲に手を当ててしばらく聞き手となりぬ(麦渡風)この世にはさまざまなかたちの夫婦愛の姿があります。この歌も素敵な夫婦愛の姿ですね。 「妻の甲に手を当てて」しみじみと伝わってきます。 地に開く花を愛でればそれでいい我が死すとも花不要なり川添先生の今までの精一杯の生き方が、表裏一体となって、このような表現へと誘うのでしょうか。 心しか見えぬことあり柔らかでまあるい生徒の心に触れる 現場の教師だけでなく私達一般市民もそうありたいものと思います。(元網走二中教諭)

栗 野 葉 子
我が娘ブランコ中空まで伸びて叫ぶは雲と同化するらし(断片集)
川添先生は、奥様や娘さんとの、ほのぼのとしたやり取りのある家庭の一齣を、短い言葉の中に上手に表現され、読み手の心をなごませてくれます。雲と同化するらしの表現が、天真爛漫で純真な娘さんのかわいらしさが伝わり、私は大好きです。どうぞ娘さんとの素敵な毎日を楽しんでおいて下さい。我が家の三人の息子も幼き頃、「お母さん、ぼくの夢はな…。」と話してくれ、仕事の疲れも吹っ飛んでいました。今は三人共、私の背を追い抜き、就職だ、友達だ、受験だ、部活だと大忙し。昔を思い出させてくれる大切な一首です。 (西陵中保護者。茨木市立水尾小学校教諭)

桑 原 正 紀
人を責めぬ人好き人が責めらるる習いかかくも夕焼け沁みる(蜥蜴野) なるほど、 そんなことってよくあるなあと読後しみじみとさせられた。 すぐ次に「いざとなれば庇いてくるると思いしが蜥蜴の尻尾となりて我がいる」という歌があるので、ひょっとしたら作者自身のことかもしれないが、一般論としても充分にあり得ることだ。このあたりの一連は職場でのことと思われる。みんなつらいところに差しかかっているのだなあと身につまされる。 しかし、「逆境や不遇も詠えばしたたかでまんざらでもない我が顔がある」と歌うように、立ち直りも早い。われらかくあるべし。(『コスモス』同人)

杣 庄 章 夫
面影を偲ぶモジズリ声掛けぬままに逝きにし人恋いしけれ(麦渡風)
ヤマブキ・エゴノキ・アカシア・ヤマボウシ・アヤメ・シロツメグサ・アイリス・ホタルブクロ・ユキノシタ・ムラサキツユクサ…親しい季節の草木が流氷記《麦渡風》のページを彩っている。そんな中に、掲出の「モジズリ」を見出した。 ほかの草や木の花たちは、それぞれの姿かたちのままに、 自然に素直にそれぞれの持ち味をにおわせているのに、 このモジズリの花のにおいようはどうだ!何ともひねくれている。別名ネジバナというが、一首の中にうまく身をよじらせてひそむこととなった。逝きにし人の面影も眼前に顕つ。(『好日』同人。矢川神社宮司)

長 岡 千 尋
滂沱たり桜花びら散りつづく眠りていても眼裏は風(蜥蜴野) 大和多武峰の山中に宗教者(神社神主)として生活する私は、 花どきになると西行を幻視する。西行の『撰集抄』では、巻頭に多武峰の奥の院の増賀上人の墓を参つたことが出て来る。 増賀は奇行で有名な聖であつた。西行、一休、芭蕉とつづく隠遁者のニヒリズムは、すべて増賀が源である。 右の一首「滂沱たり」ではじまる初句は大仰であるが、ローマン派の作者ならではのレトリックであらう。「春風の花を散らすと見る夢はさめても胸の騒ぐなりけり」 の西行歌が背景にあるのは言ふまでもない。腕時計の硝子に映る竹すだれ夏の日分断されて明るし(麦渡風) 現代の短歌は結局「写生」を出てゐない。―といふことは、作者が歴史を持つてゐないといふことである。人間がちつぽけなのである。しかるに川添氏は希有な叙事歌のよみ手であらう。氏のニヒリズムは死を憧憬し、かつ花々を愛し頬を寄せるといふ行為を尽してはばかりがない。 かつて日本ロマン派といふのがあつた。 その中心人物は私の住む大和桜井の出身である。 ―川添氏の詩心はむしろさういふところに近いのではないだらうか。この一首、写生をぬけきつて、抒情化されてゐる。 (『日本歌人』同人。『かむとき』編集人。談山神社神主)

高 階 時 子
我が祖母は田植え姿の腰曲がり蛙の響きの中に逝きたり(麦渡風) 私が幼い頃、家に田圃がありお米を作っていた。病弱な母が喘息の発作に耐えながら田植えをし、稲刈りをする。腰を曲げる姿勢の多い苛酷な労働だった。その母は四九歳で逝ったが、老齢になるまで生きておればおそらく腰が曲がっていただろう。 この一首は農業と共に生きてきた祖母への鎮魂歌である。 腰の曲がった姿にどれほどの労働がこめられていたか。 耕し蒔き育てる生活から遠く隔たってしまった自分がいつもうしろめたい。 だからこういう作品を読むと足が止まる。 おまえはいったい何をしているのかと静かに問われる思いがする。 (『礫』同人)

川 田 一 路
神となり渡る魂みしみしと流氷泣きて禊がれてゆく(蜥蜴野) 小生、実際の流氷をいまだ目にしたことはありませんが、凍てた風土、厳しい自然の前に立つと、人間は最后の救いを求め、それが叶えられるような気持ちになるのかもしれません。 そんな風景に自然の全て、魂、そして死をも託したい、 しかもあの流氷が悲しみの音を立てて禊いでくれるとは――素敵な世界だと感動しました。「この世から突然われが消えている静かな朝の町歩みおり(麦渡風)文明は自我の上に成り立っているものではあるが、 この自我が消えたとしたら、 この世の中はいかに静かで安らぎあるものになるであろうという思いがだんだんと強くなる現代の世の中。 そんな中なにもかも忘れ、そう自分の存在すら忘れ、朝の澄んだ大気の中を自然に還り自然と共に歩んだらいかに気持ちがいいだろうか。 この気持ちに共鳴を覚え、この作品を味わいました。(『ヤママユ』会員)

里 見 純 世

麦渡る風の匂いの中に来て亡き姉ちゃんと遊ぶ我あり(麦渡風)
掲載号にふさわしく冒頭の歌を始め一連の作品に心を惹かれました。「いつも手を握られていた畦道に姉ちゃんといる今も時々」「麦に風ナミ子姉ちゃん想うたび涙あふれて幼子となる」 幼い日を回想する純なお気持ちが歌によく詠み込まれていて素直に読み手の心に入ってくる歌だと思います。 これとは別に「友の子の有名進学羨(とも)し言う妻流氷記など眼中になし」此の歌光っていますね。(『新墾』『潮音』同人。網走歌人会元会長)

松 田 義 久
無位無冠ゆえのつらさも此の頃は少し誇りとなりてきている(麦渡風) 江戸時代の中期における経世家、 林子平の歌を彷彿させるような素朴さの中に生きる力を十二分に蓄えている作品と思想が現れているようで、文句無しにこの歌を選ばせていただきました。地位も名誉もいらないなんて平素誰でも言うことですが、 反面にこういう事がたまらなく心中寂しくなることもある世の中です。 これらの事に達観してくると、 一つの誇りを感ずるようになるであろうと小生も共感できるこのごろです。(『北方短歌』同人。網走歌人会長)

葛 西   操
向陽ケ丘を想えばオホーツク海よりの風体をめぐる(麦渡風) 私は網走に住んでおりましたのでこのお歌が目に留まりました。風光明媚な土地で、私も向陽に知人がおりまして何度も行きました。夏の花火の時などよく出掛けて見物しました。 また湖より吹き上がる風はとても涼しく言いようのないものです。 網走は歌をお詠みになるにはとても良い所だと思っております。 風邪のためしばらく娘の所で養生していましたので感想遅くなりました。 (『原始林』同人。網走歌人会。)

南 部 千 代
腕時計の硝子に映る竹すだれ夏の日分断されて明るし(麦渡風)
観察のゆき届いたすっきりとした一首ですね。 私はこんな御歌が好きです。 神経の行き届いた夏らしい素材を掴みとった川添さんの目に敬服しきりです。 竹のない北海道に住めば竹林というのに心が惹かれますね。 「定かには音は無けれど窓の外大きく遠く竹林揺れる」このような御歌も風情がありますね。 素直に受け入れられるものを感じます。少しゆっくりとお歩きになって下さい。 (網走歌人会)

田 中   栄
抱き締めてやると寝入りの早くなる娘よストレスはや持ちながら(麦渡風) 小学校低学年の娘さんだ。 上句「寝入りの早くなる」までは如何にも幼い娘さんらしい様子が見えてくる。 若い父の鋭い感性だと言える。問題は「ストレス」という語にあるのだが、もう少し具体に即した表現がないだろうか、と思うが難しいところだ。ともかく感銘のある一首である。 (『塔』選者)

鎌 田 弘 子
笑いの中笑えなくなり北摂の山の緑を窓開けて見る(麦渡風)
場面に作者の背がみえてくる。 窓を開けて、その視線の先は、北摂の山のみどり、晩春の色濃い山肌の傾りなのだろう。ふと立ち上がって、おもむろに窓際に行き、窓を開ける。 その時間の移りの中に、実は、作者のこころの動きが出ていること、「笑いの中笑えなくなり」とは、周囲から孤立してゆくことで、 原因は自分の中にあり、人並から外れてゆく、 自らを肯定しながら孤独の雲の上に出てゆく、矜持ともつかぬ孤独と寂寥感がある。同頁の「我が娘ゆえ美しくぴちぴちと小学生の裸体がありぬ」 にも、場面描写に思いの表出がある。 (『未来』同人。鎌倉彫りの名手でもある。)

前 田 道 夫
麦の茎ちぎりて舌に乗せて吹くナミ子姉ちゃん麦笛かなし(麦渡風)
幼き日に亡くされたナミ子姉ちゃんを偲んでうたった歌。 十九首ほどの連作に纏められている。 それぞれに少年の純真な気持ちがこめられていて、哀切なひびきをもって伝わってくる。童画の一齣一齣を見てゆくような思いにもさせられた。 幼い日に遭遇した死は強烈に胸に灼き付けられていて終生消えることのないものであろう。 (『塔』同人)

榎 本 久 一
わが娘叱られてはすぐ抱き締めてほしいと我にぶら下がり来る(麦渡風)ちょっと息苦しくなるような親子関係が思ったまま描かれている。母親の苦笑がどこかに見えて来る。 頬笑ましい一首だ。この様な子育てをしていない者にとっては、うらやましさが先に来る。現代流か川添流の子育ての成果か、少し異質の親子像があると思った。結句少し不安定でなかろうか。(『塔』同人)

鬼 頭 昭 二
腕時計の硝子に映る竹すだれ夏の日分断されて明るし(麦渡風)
確かな視点を感じさせる作品である。 目の前のものを介在するものなく受容している作者の姿がある。その瞬間作者は自分自身をも離れながらも受容者たる自分をしっかりと認識している。明るいものを歌って何か悲しみのようなものを伝えている。「分断されて」の解釈がいろいろできるところが難といえば難だが傷には至っていない。(五〇番地)

本 田 重 一
天と地と初めと終わり思わしめ氷塊積みしが累々と見ゆ(麦渡風) 真夏にも流氷の海が作者を呼んでいるようである。 暖地に生まれ育ち僅か数年を過ごした流氷圏がなぜ斯くも作者を駆り立てるのであろう。 「天と地の初めと終わり」簡潔に万象を言い切って余りがある。 荘厳な氷海の情景を生活者として目の当たりにしたことが以後の歌に深い沈潜と陰影を齊したとみられる。 今やはてしない氷原はオホーツクブルーの海に変わり、 北見の丘陵地帯は黄金の麦秋を迎え、馬鈴薯の花が遥かな連山の裾野へと続いている。然し大自然の営為は微妙で今年の薯は花の数が非常に少ない。 (『塔』同人。網走歌人会)

遠 藤 正 雄
亡くなりし事実を母より告げられし数秒のことなれど忘れず(麦渡風) 死は一瞬間の出来事である。 ある日突然あの子が亡くなったという事実を知らす母の言葉は僅か数秒であったが、 その瞬間よりナミ子姉ちゃんは、あの世の人になってしまった。十一年六月麦風号にてナミ子姉ちゃんの一連の歌を発表されている。「自分の創作の原点を考えた時この出来事が甦る」と言っているように、麦を渡る風が吹く頃になると、麦畑の匂いと、彼女の思い出を一層そそるのであろう。その出来事は作者の心のなかで、純粋な詩となり、綿々と生き続けている。「数秒のこと」が、この一首を引き締めた。

塩 谷 い さ む
この世から突然我が消えている静かな朝の町歩みおり(麦渡風)
一読、 不可思議な歌に魅せられている。 今、 自分が突然この世から消えたらどんな反応を示すだろうか?さぞ慌てるだろうナア。いや案外平穏かも知れない。 悲しむ人、 喜ぶ人間の有象無象が見えかくれする。 静かな町の朝を歩きながらそんな事を思う作者。告別式での死者のすべては美化されるものである。 一度だけこの世から消えてみたいと思う人間本来の奇妙な感情が行間を去来する。 子供の頃 「隠れ蓑」 が欲しいと思った事を思い出す。初めから結果もありて棒読みを拍手承認する大多数 にも一言言及したい処だが…(『塔』 同人)

甲 田 一 彦
連れられていれば夕日に溶けてゆく僕とナミ子姉ちゃんの影(麦渡風) 「自分の創作の原点を考えた時どうしてもこの出来事が甦る」と作者は書いているのだから、もう何も言うことはない。 しかし、この一連を読んでいると、 何の汚れもない幼児英一の魂の中に棲みこみ、ますますふくらむ物語となるのであろう。青い麦畑がひろがる鄙びた山野に、 一日の終わりの夕映えが訪れている。 ナミ子姉ちゃんと作者の影は二つであるが、 一つに溶け合っているのである。 釈尊の説かれたという 「縁」 ということがしみじみと思われる。 そういえば、作者は宗教に関心をもち、仏教を学んだと聞いている。 流氷記にたびたび出る「生」と「死」も、 作者の中に形成された哲学の発露であることを思う。 (北摂短歌会長。『塔』同人)

平 野 文 子
いつも手を握られていた畦道に姉ちゃんといる今も時々(麦渡風) 作者の創作の原点でもある麦畠、 そこには亡くなられたお姉様の思い出が今もなお鮮明に刻まれている。 目のきれいだったナミ子姉さんが、 作者にとって如何に大きな存在であったかと知らされる。 麦の穂を渡る風、優しい畦道、そしてさまざまに思いのこもる麦畠、総てがなつかしい余韻を引いて情感深い。しっかりと握られていたお姉様の手の感触は、時を経ても温かく、作者の胸の裡より消える事はないでしょう。「姉ちゃん」という呼び名の、此の上もなく懐かしく、また切ない一首でもあります。(北摂短歌会『かぐのみ』)

山  本    勉
ぐしゃぐしゃに微かに街も写りゆく水溜まりの輪の生まれては消ゆ(麦渡風)雨の中を歩いていて、誰もが目にしている風景です。私もつい先日、 水溜まりについて自由詩を書きましたが、 このように三十一文字で美事に表現されてしまっては私の詩は行き場を失ってしまいました。 「際やかに空中浮遊していしが足肉離れして目覚めおり」人間、幾つになっても時々見る夢ですが、肉離れするほど寝床の上で遊泳していたという、 作者の間の抜けた発想が素晴らしく面白いですね。 溜まり来し汚れた心漉くように流氷原に霧渡りゆく(蜥蜴野) 「いざとなれば庇いてくるると思いしが蜥蜴の尻尾となりて我がいる」「この人の為にとかつて思いしを悔しと思えばかなしかりけり」「人を責めぬ人好き人が責めらるる習いかかくも夕焼けしみる」私たちは気づかぬうちに裏切ったり裏切られたりをしていることでしょう。石や岩をぶつかりながら滔々と川は過去より未来へと行く 所詮、 人間は傷だらけになって生きなければならないのでしょう。 見事に自他の心を詠みきられた力量は凄いと思います。(北摂短歌会)

古 市 浩 恵
生徒より大胆奇抜な解答を提示して我が得意顔あり(麦渡風) 先生の変わらない姿を思い出していました。 生徒と同じエネルギーを出して授業されていたものでした。そんな先生の周りには、いつも人が集まっていて、その中に私もいて、休み時間の職員室には詩の暗唱や、ノートを持った生徒が並んでいました。先生が今も学校で昔と変わらず過ごされているんだなと嬉しくなりました。往生際カレイ一跳び裏返りこの夕食のために売られる(蜥蜴野) パック売りの魚が多いこともあって動いているものを目にすることが少なくなりました。転居して数カ月、近所に魚屋のあるスーパーを発見し、 鮮度の良さや品数の多いこともあって足繁く通っています。私の二人の子供も今時の子にしては魚好きで嬉しいのですが、自分たちが生きたものを口にしていることを知っていて、 その上で、大切に食してほしいなと思っています。 (元網走二中生徒)雑 感 ◆林氏、横尾氏、ウエキ氏、川田氏は二十六号を宍戸氏よりお送り戴いたご縁。長岡氏は近藤先生からのご縁。自分に欠け学ばなければならない事が自然に身近になってくるのが嬉しい。

高 田 暢 子
街中に白くノイバラ生のままの野より咲き継ぎ来しと思えり(蜥蜴野) 春に限らず、 街中でタンポポなどひっそりと咲いている花や草木を見ると、心がとても和む気がします。ひっそりと咲いているように見えても、生き生きとし、普通の花とは違う美しさを見せてくれていると思います。しかし、前までは、春になると必ずタンポポが道端で見られていたのに、最近では、河原や自然公園でしか見かけなくなって、とても寂しい気がします。 やっぱり、このノイバラやタンポポが何げなくある風景は、 失いたくない大事なものだと思いました。 (西陵中卒業生)

二 瓶 真 由 子
冗談か人違いかと思いしも人群れて死が現実となる(蜥蜴野) 私は、この歌の「死が現実となる」というところに、死への恐怖を強く感じた。生きている限り、人間は死と寄り添っているのではないのだろうか。人は自分と少しでも接点のある人が死ねば、素直にその死を受け入れることが、なかなか出来ない。死の隣に生きていながらも、人間にとって、死とはあまりに異なる世界だからである。 この歌は、死の異世界を少し身近に感じた時の人間の気持ちが、よく伝わってくる。(西陵中卒業生)

小 西 玲 子
離れても伝わる何か流氷となりてさまよい歌いゆくべし(金木犀) 大切な人と離れていくのは、どれだけつらいことだろうか。そしてどれだけ不安で寂しいだろうか。けれどこの歌は、実際の距離よりも心の距離の在り方を考えさせてくれます。 離れていても伝わることは私は絶対にあると思います。 信じることで心の距離は離れていかないのだと思う。 毎日毎日さまよいながら自分の悩みの答えを探しながら生きていても、 乗り越えて行けるのは離れていても信じてくれている人の気持ちが私の心の中に痛いほど伝わってくるからなのです。(西陵中卒業生)

内 田 恭 子
桜花散るたび我は流氷の漂いつづく海想いおり(蜥蜴野)桜花波立ちながら海中(わたなか)の憂いに沈み我が歩みゆく」(断片集)を拝読して以来、 私は馬鹿の一つ覚えのように、そんな情景がみえる、イメージが沸くなどと感想を書いてきた。 今もまた進歩なくそんなことを書こうとしている。「憂いに沈み」には、どこか悲惨な雰囲気を覚えた。 生命の儚さ、そして先生が、そんな桜にご自身を重ねているような気がして「感傷的」な気分になった。しかし「流氷の~」にはそんなものは感じられず、寧ろ広大な北海道の海、果てなく続く流氷に力強さを覚え、元気づけられた。 こうして比較すると、それぞれ相反する歌のような気がするが、 どちらも真実味を持ったイメージになる。どちらも桜の要素なのだと気付かされる。端的に言えば、「素敵な歌だなぁ」と思う。それは先生の桜への印象が若干形を変えていても、 素敵と感じた気持ちを変わらず詠んでくれているという事で、私はそれがとても嬉しかった。(西陵中卒業生)

中 村 佳 奈 恵
眠りより覚めて斜めに振られゆく地球の自転に耐え難くいる(蜥蜴野) ちょっと難しいけれど何となく心に残った歌です。 ふだん私達は地球の自転の上にいるなんてことをすっかり忘れて生活しているし、地球の自転を感じることはまずないと思う。 「斜めに振られゆく」とか「地球の自転に耐え難く」と感じられた先生の歌は、どういう意味なんだろうと考えてみる。 それはあまりにもはやく過ぎてゆく日常に対しての思いなのか、 人にはそれぞれ違う感じ方があると思う。 私は高校生になってまだ四カ月しか経っていないのに、ずいぶんたくさんの時間が経ってしまったような気がする。いろんな出来事が起こったけれど、そんな時は、振り返ってみるとやはり、中学時代がとてもなつかしい。 月日が経つというのは、地球が自転しているからだけど、 一日一日を大切に過ごしていきたいと思う。 (西陵中卒業生)

鈴 木 亜 弥 子
道の傍ナズナの花の凛と咲くしゃがんで芭蕉と我と見ている(蜥蜴野)
道の傍でナズナの花が凛と咲いている。今、私たちの周りではあまり見ることができないが、見ることが出来た時、私はこの歌のように、よくしゃがんで見ていたものです。 見ていると、茎の部分にあるハートのような葉に感銘を覚えます。そして、心になごみと落ち着きが与えられるような気がします。もちろんそれは、ナズナだけではありません。ナズナを含めて、花には心に安らぎを与えたり楽しさ、幸福をも与えてくれることもあるのでしょう。私にとって花とはそういったとても不思議な存在に思えるのです。(西陵中卒業生)

古 藤 香 緒 里
いつの間に街は緑にあふれゆく雨の晴れ間も瞬きの間も(麦渡風) この歌を読んですぐ昨年の六月に修学旅行で妻良に行ったことを思い出した。妻良では五時に起床し、漁業を体験した。 漁業を体験している時、太陽が少しずつ昇っていた。 ふと下を見ると、そこには太陽の光を反射している水面があった。 周りには緑がたくさんあり、空気がおいしかった。その時私は自然の素晴らしさに感銘した。めらめらとビデオテープの炎見ゆ過去も未来も火に抱かれゆく(同)時とともに未来も過去になってゆく。そして過去の思い出は少しずつ薄れてゆく…。 そう考えるとすごく切なくて寂しい気持ちになった。思い出がいっぱい詰まった中学校生活でさえ、いつかは思い出の一つにすぎない。しかし、過去があるから今があり、今があるから未来があるのだ。 《いつか今日も大切な過去になる》そんな気がした。 (西陵中卒業生)

木 佐 木 美 希
危機危険恐怖も楽しさのひとつ枚方パークにひしめく人ら(蜥蜴野) 私は絶叫マシーンが大好きです。 この歌を読んだとき小学校の修学旅行で遊園地に行った時のことを思い出しました。 友達との思い出は他の何にも代えることのできない宝物です。 そんな友達と高校が違って淋しいけれど、 何年経っても友達でいられるということを私は信じています。(西陵中卒業生)

大 橋 佐 和 子
夢と死と同じか闇の空間をひたすら昇る透きとおりつつ(蜥蜴野) この歌を読んで、私の頭の中には、なぜか暗い洞窟が出てきました。 岩でできた真っ黒な洞窟です。 そしてそこを一つの白く透き通った丸い光のかたまりみたいなものがふわふわと浮いて進んでいきます。進んでいくと、洞窟が終わり目の前が開けます。そこは、銀河です。天の河が流れていて、無数の星が輝いています。 銀河の闇に吸い込まれるように、透き通ったものは、はるか彼方へ消えていきました。 叶わなかったり、忘れられたりしてしまった夢と、必要とされない死は、同じ闇の中にいるのかなと思いました。 (横浜市立荏田南中三年生)

諸  石    眸
人の死をかなしみながら蚊のぶんぶ泣くのを強く憎みて殺す(麦渡風) これは、ほとんどの人がしたことがあると思います。 私も、殺したことがあるが、殺す理由を考えたことはありませんでした。きっと、人間の心の中には、これらだったら殺しても良いという基準があって、 虫は殺しても良いという中に入っているのではないか。だとしたら、 人間というのはすごく残酷なものではないのかと思いました。でも、私はこれからもずっと、蚊を殺し続けるでしょう。やっぱり、同じ種類、 つまり、私にとって人間の方の生命を重く見るのは、仕方のないことなんだとも思いました。(西陵中三年生)

栗 野 哲 彰
国語では時々一番つまらない答えがマルとなることがある(断片集)
そうだったのか!何だか僕はホッとした。 これで期末テストはばっちりだと言いたいところだが、そうは問屋がおろさない。油断大敵だ。 しかし、川添先生が、つまらない答えでも本当は理解してくれているやさしい先生という事がわかった。 先生の『素顔同盟』の授業で、 僕は、人間は素顔だけど、本当は仮面を被っていることに気づいた。それを何だか家族に伝えたくなった。先生のユーモアとトークは教室を明るくしてくれて時間の経つのが速い!国語がおもしろい! (西陵中三年生)

木 村 明 日 香
はいはいはいその素直さに腹立つと妻はますます苛立ちてくる(小秋思)この歌を読んで「確かにその通りだ」と思いました。 私もよく妹と喧嘩して、私が「分かってるの!?」などと言うと、 妹は必ず「はいはい」と言います。こう言われると「分からない」と言われるより腹が立ちます。なんか莫迦にされているみたいで。それに、この「はい」は本当は「はい」じゃない場合が多いのです。ところで小秋思には奥さんが怒っている歌が多いけど、先生と奥さんは仲良く(?)喧嘩していたのでしょうか。 (西陵中三年生)

野 村 充 子
最小の原子の中に大宇宙見えて心はするすると入る(惜命夏) 小さなかけらの中に広がる大きな何か、 その中に自分の心がするすると引き込まれていく。この歌では、科学の力が進歩し続けている今でも、 自然の不思議さにはかなわないことが語られているのだろう。 宇宙をも夢想する人間の心すらがたやすく入ってしまう最小のものこそ最大のものの始まりに過ぎない、限りない思いが、これからの寝苦しい夏の夜、私を宇宙に誘ってくれるようです。(三)

植 之 原 万 里 代
紫陽花は雨の匂いかたたき降る音にかすかに震えつつ咲く(麦渡風)
この梅雨の季節、雨が降る中で、それに負けずに咲く紫陽花。 そんな雨でピチッピチッとはねる音がする雨の中の紫陽花の風景が好きです。 今年は、雨が降ることが少なくて、こんな光景を見ることがあまりなかったし、最近は、山などがどんどん町になっていって、なかなか見ることができなくなってきたのではと思います。こんな風情のある光景もいいものだなぁと感心しました。(西陵中二年生)

清 水 由 香
紫陽花の葉に次々と落ちてくる雨あり木琴叩くがごとし(麦渡風) 梅雨の時期に、雨がたくさん降って、 その雨が、紫陽花の葉に落ちて、雨が葉に当たったら、木琴を叩いたような音がする。 すごくきれいな歌だと思った。 私は今まで、雨の日が嫌いだったけど、雨が何かに当たる音を、楽器にたとえたら、次から雨の日が好きになるかもしれない。 (西陵中二年生)

横 山 真 理 子
麦に風ナミ子姉ちゃん想うたび涙あふれて幼子となる(麦渡風)
先生から国語の授業でナミ子姉ちゃんの話を聞いた時、 何だかとても、つらくて寂しい思いが残りました。私の祖父が亡くなった時、私は小学校二年生で、祖父の記憶はあまりありませんが、ただ、一つだけどうしても忘れることのできない出来事があります。 それは祖父がまだ元気だった頃、連れて行ってもらったお祭りです。祖父はとてもキラキラしていた笑顔で、 嬉しそうで楽しそうで…今もお祭りを見ると、なつかしくて寂しい感情にかられます。だからこの歌を読んだ時、他人事と思えなかったのです。(西陵中二年生)

宮 本 浩 平
殴る蹴るして次々に突破するゲームが武器のように売られる(麦渡風) 人を殴ったり蹴ったり、銃で撃ったり、そんなゲームが今ではすごい勢いで売られているが、 自分がゲームの世界で出来たことだからといって、現実の世界でも出来るんだと過信してしまう人や、本当に人を殴ったり蹴ったりする人もいる。こういうゲームをやっていたら、ついつい本当にやってみたくなるんだと僕は思う。けれどそういうことが事件として日常的に起こってしまったらとんでもないことになる。 ゲームというものが武器のように売られているんだなと、この歌を読んで実感として感じることができた。(二年)

宮 崎 有 希
四十九日過ぎて聞きいる火葬場の火のスイッチを誰も押せない(惜命夏)この歌を選んだ理由は、 私が幼稚園の年長さんの時のことがあったからです。とても元気だったおじいちゃんが亡くなって、火葬場に連れて行かされました。 母が、おじいちゃんね、死んじゃってこれからおじいちゃんを焼くんだよって、教えてくれました。おじいちゃんは箱の中に入っていて、 顔が真っ青、服はパジャマ、その回りには花花花… その時、火葬場のスイッチをその担当の人が押しました。おじいちゃんがだんだん火の中へ入って行きました。そしたら皆泣き出して、 母もおばあちゃんも目が赤くなりながら泣いていました。おじいちゃんが焼かれた後、私と弟は男の人に呼ばれて、その時初めて人の骨を見ました。…これだけしか覚えていないけど、おじいちゃんは私の心の中で生きています。今はきっと天国にいて私達のことを見守っていてくれていると思います。 だからおじいちゃんの分まで長生きしたいです。 (西陵中二年生)

亀 田 晴 菜
人の死をかなしみながら蚊のぶんぶ泣くのを強く憎みて殺す(麦渡風) 最近、ニュースや新聞などで、大きな殺人事件がたくさん取り上げられています。私はそれを見るたび「殺人はどんな理由があっても許してはならないことだ」と思います。 でも、私たちはいつも当たり前のように、 蚊やほかの虫を何のためらいもなく殺しています。 蚊も人間も同じ命を持ったものなのに、 人間は不公平だなぁと思いました。この歌は、そんな命の価値の不思議さを私に考えさせてくれました。 (西陵中二年生)

阿 河 一 穂
間違った選択肢の中奇抜なれど本質を突く言葉群あり(麦渡風) 小学生の頃、 国語のテストで間違うものは、漢字と「作者はどう思っているでしょう」というようなものがほとんどで、 「そんなの知った事か!」と思いながらやっていた。案の定間違ったりすると先生に抗議したが、 結局先生はテストの解答通りに〇をつけているだけ…ということは 「解答を作った人は作者の気持ちがわかるのか?超能力者か?」と問いたくなったが、 解答はあくまで、その人の気持ちであって、作者がどう思っているかは、作者しか知らないのだから、 間違った選択とはいってもそれが本当の答えかもしれない。このような選択問題は簡単だとみんな同じ答えになるし、難しいと個人個人の性格が少し出るような気がする。(西陵中二年生)

衛 藤 麻 里 子
こんなこと作者は言ってはおらぬぞとバツの選択肢の中にいる(麦渡風こういうことを思うのはしょっ中です。この人はこういう感じ方をしたのだなと思って書いたり選んだりしても間違っていて、正しいという答えを何度も読み直しても納得いかないことがあります。生きていてその人から聞いたのならともかく、もう亡くなっていて、問題を作った人が勝手に決めたのなら、私が選んだのだってどれも正解なのにと思います。しっとりと細かき雨を含み咲くムラサキツユクサ心を浸す(同)小六の時、仲が良かった友達と理科の実験用にムラサキツユクサを探しに行きました。 どんな所に咲いているか分からなくて、 三時間ほどしゃべりながら探しましたが、とうとう見つかりませんでした。その時も小降りの雨が降っては止みという状態で、 その時の一人の友達は後に違う学校に行きました。忘れかけていた思い出がよみがえり、なつかしく感じました。(西陵中二年生)

桐 山 浩 一
眠るときすべて幻生も死も深き暗渠にさまよいながら(麦渡風)
この一首は、 死んでしまっては元も子もないぞ、 命を大切にしろ!ということを、僕に語りかけているような気がします。死んでからどこへ行くのかを知っている人は、 この世には一人たりともいません。 だからこそ多くの人は、死が怖いんだと思います。ぼくも死ということは、とても怖いです。 しかし、死ということを考えるのではなく、これからの自分の人生、生ということを考え生きていかないといけません。 (西陵中二年生)

蓮 本 彩 香
失敗も無駄も過程の一つにて今日のドラマの終わらんとする(水の器) 私は、今までにどれだけ失敗をしたでしょうか。どれだけ無駄な時間を過ごしたでしょうか。いっぱい後悔だってしてきました。でも、どんなに悔やんでも、過去の出来事は変えることができません。しかし未来はいくらでも変えることが出来るのです。 私は失敗をして、後悔をしている時間が、最も無駄な時間だと思います。 何事にも前向きに生きていくことが私の目標です。(西陵中二年生)

渡 辺 あ ず 咲
通夜のあと人は集いてがやがやと寿司動物の死をつつき合う(二ツ岩)私は今までこんなことを、 深く考えたことはありませんでした。 けれど、 この歌を読んだとき、 心に残って忘れられませんでした。通夜は人が死んだ時に行う儀式。 それなのに人は、動物のことなどどうでもいいかのように、 さっきまで悲しんでいた『死』を、平然と食べている。すごく皮肉に思います。けれど、新しい命が生まれてくるためには仕方ないのかな?とも思ったり…すごく考えさせられた一首でした。(西陵中二年生)

関   麻 菜 美
窓際にあかりを消せば闇のみに部屋にひとつの星がまたたく(夭折) 夜、自分の部屋の窓から星が出ているか確かめる。星が出ているのを確かめたら、机に向かい何かをする。やることが終わって寝ようと思い、部屋の電気を消して空を見る。すると…さっきの輝きよりももっと輝いている星がある。 あんなきれいな星あったかなと思って考えていたら、さっき見た星と同じ星である。スイッチひとつのことだけで星の輝きまで変えてしまう電気。 すごいなと思った。星を見たら「よし!寝るか。」と思う。この歌は私の一日の生活のラストを飾ってくれる一首です。 (西陵中二年生)

岡 本 英 璃 乃
一瞬の生者の顔に死者の顔宿りて我を確かめに来る(麦渡風) 時々、道を歩いたり、外で遊んでいる時にふと死んでしまった筈の人の顔を、私も見たことがあります。その時は一瞬ビクッとするけれど、その人をもう一度ソーッと見てみると違う顔でした。 でも、これは、死んだ筈の人が少し心配になって、他の人の顔を一瞬借りて私の様子を見に来ているんじゃないかと思うのです。差別者の側にいないといじめられるそんな図式も確かにありぬ(同) こういうことは今の世の中では確かにあります。 差別を平気でする人の所にいないといじめられてしまうのは間違っている気がします。こういう場合は勇気を出して、いじめられている人を助けられるようにならないといけないなと思います。 (西陵中二年生)

村 上 香 織
我が死なば献体、通夜なし葬儀なしこれが確かな遺言である(麦渡風) この歌を読んで、 小学生の時に死んだおばあちゃんの事が頭に浮かびました。 おばあちゃんは死んだとき病院から献体の申し出があったけれど、これ以上、体を傷つけるのはかわいそうだからという理由で断りました。それなのに、自ら献体にと言う先生はすごいと思います。献体をすることによって、病気で苦しんでいる人達の治療に役立つと思います。この歌で私は、人の役に立てる大人になりたいと思いました。 (西陵中二年生)

田 坂   心
山道の匂いかぎつつよろこびはフキ葉の陰に蕗の花見ゆ(麦渡風) 山道を歩いていると自然の清々しい香りがする。 とても心が安らぐ。 ふと横を見ると、フキの葉が見え、それに隠れるかのように蕗の花が見える。 そんなつつましい美しさを発見した時の作者の喜びが目に見えるようである。人の死といえどわざわざ木はいらぬ献体の後ごみとなるべし(同)たとえ人が一人死んだとはいえ、一本の木の命を途絶えさせることなどしてはいけない。 そんなことをするのなら私は木はいらない。ただ死んだ体を献体に出し、そのままゴミとして出して欲しい。 私の一人のために他の命を取らないでほしい。地に開く花を愛でればそれでいい我が死すとも花不要なり(同) 地で開いている花はそのままそっとしておくことだ。私の死を思う優しさで花を摘むのなら私はいらない…。私のためにたくさんの花を犠牲にするのなら、 それは本当の優しさではない。本当の優しさをくれるのなら、すべてのものをそっとしておいてほしい。…そんな作者の思いが伝わってきた。 (西陵中二年生)

二 瓶 加 奈 子
わが娘叱られてはすぐ抱き締めてほしいと我にぶら下がり来る(麦渡風)やっぱり子供は、親に叱られても、親が好きなんだからカワイイと思った。 叱られたけど、許してほしい一心で、親にぶら下がりに来るんだと思います。まだまだ遊び盛りなんだなと思いました。

古 田 土 麗
わが娘叱られてはすぐ抱き締めてほしいと我にぶら下がり来る(麦渡風)小さい子供というのは叱られても、すぐに元に戻って親に甘えたりするものです。 親はこれがとてもかわいくて仕方がないと思います。でも、あんまり甘やかしたりしたら大きくなった時に我が儘な子になってしまいますので、 あんまり甘やかさない方がいいと思います。 (西陵中二年生)

竹 中 亜 弓
天翔けてゆくごと背のさびしかり星出でてのちの夕映(夜の大樹を) この一首がすごく好きです。 どうして?と聞かれると分からないんだけど、とにかく好きなんです。 ひょっとしたら「星」と「天翔ける」に魅かれたのかナ?とか、いろいろ思ったけど…。私は色々なものや人を十三年間見てきました。その中で、夜空の星と月が好きなんです。星はとってもきれいだから。この歌の「天翔ける」は星が天を翔けているのかなァという感じがして、 私の中の風景の一つになりました。 (西陵中二年生)

小 樋 山 雅 子
オペラ声歪つに漏れ来る教室にべっとり梅雨の汗ぬぐいゆく(麦渡風) 雨が降っていても、降っていなくても関係なしの蒸し暑さ。その中で授業を受けるのはとてもつらい。 それは教える側の先生も同じだろう。 しかし、そんな気持ちも汗も、音楽室からかすかに聞こえる歌声で、ぬぐわれるような気がするのはみんな同じだろうか。音楽の素晴らしさはこんな所まで表れるのだろうか。しかし、その歌声に集中してしまって、先生の話を聞きそびれるのには、注意したい。 (西陵中二年生)

白 田 理 人
無駄なもの余分なものを削ぎ落とし幾山河行く流氷のごと(麦渡風)
互いを削りあいながら流れてゆく氷塊。自然は、この流氷の姿から、僕たちに多くのことを学ばせようとしているのではないでしょうか。人間は、地位や名誉や財産といった、必要でないものの中に、幸福を求め、見いだそうとします。 そして、人が人らしく生きていくために必要なものを、惜し気もなく捨てていってしまいました。最近は、そんな真ん中にぽっかりと大きな穴を抱えた氷塊が、人間界では増えていると、僕は感じます。そのために、昔は到底予想し得なかったような事件が起こってしまっていると。僕は、本当に必要なものだけを、この手に握りしめて、歩いてゆけるような人生がいいと思います。(西陵中二年生)

田 那 村 あ や か
笑いの中笑えなくなり北摂の山の緑を窓開けて見る(麦渡風) まあ、たまに山を見るのもいいけど、私はやっぱり笑う方が好きだ。でも、こんな気持ちも少しわかるような気もする。まだまだ笑いは人生の楽しさの一つなんて思って毎日を過ごしているけど、 そのうちわかるようになるのだろう。 (西陵中一年生)
雑 感 ◆八月四日北九州に帰省中に義父が突然倒れ手術が必要との連絡あり。《のぞみ》で医真会八尾総合病院へ。その四日後意識戻る事なく息を引き取る。通夜葬儀共初めての喪主。義父は大正十二年一月一日生。享年七十八。骨も美しく見事な最期だった。