三 浦 光 世
おじいちゃんおばあちゃんにと貝殻を拾う娘に波やわらかし(ぬば玉)
童女の心が純直に胸に沁みとおってくるような一首。 幼な子の動作を汲み取る作者のあたたかさ。私はこの表現を到底平凡とは言えない。やはり非凡でなくしては詠めない作品ではあるまいか。生きていることの喜びを、自ら抱かせられる。 奇をてらわずにこう詠えたらいいと思う。「貝殻」「波やわらかし」がまた見事に光っている。そこに深い詩を感じさせられた。(作家。『三浦綾子作品選集』)
風 来 坊
昨日見し路上に果てし熊蝉に寿命寿命とやかましく鳴く(ぬば玉) ぬば玉に浮かぶ死の予感。『義父の死』が無言の前衛として黙示され、重ね合わされている。ろくな死に方をしないも流れゆく時の落ち葉の一つに過ぎぬ 人間は生命の道。美しく「死」に出会いたい。ぬば玉とは《射干玉》である。太陽も地球も回るエネルギーその一部にて人生きて死ぬ(同)明確な一つの夏か義父逝きて遺影の前の骨壷二つ(同) 死とは新たないのちの出帆。 死の嵐のあと風は凪いだ。 生と死、 それは絶対矛盾的同一。 (寺尾 勇。 美学者。奈良教育大学名誉教授。『飛鳥歴史散歩』『大和路心景』)
近 藤 英 男
白桃の肌を愛しみ皮むきて甘き匂いのやわらかさ食ぶ(ぬば玉)
川添さんにしては珍しい女体賛歌の歌か。 昔哲学者九鬼周造の《「いき」の構造》(昭和五年刊)と通底共響。「いき」とは東洋的文化の、否、大和民族の特殊の存在様態の顕著な自己表明の一つと考え、「媚態」「意地悪」「諦め」の三契機を挙げている。川添さんの「視覚構造」が、大自然の『流氷記抄』というコスモロジーへの鎮魂歌の祈りから一転して《生》の象徴としての《白桃》に象徴される空海の「理趣経」の境地にも触れられたことがうれしい。俳句の雨村敏子さんの《白桃の包まれてある丸さかな》に通ずるのも妙。 (体育美学者。 奈良教育大学名誉教授。 『スポーツ曼陀羅』)
加 藤 多 一
二十歳にて死なば金色の月の下男根のごと墓立つあわれ(ぬば玉) 「表現する」ということは即、自己をさらけ出すということだ。二十歳で逝った若者たちに苦悩と怒りあったとすれば、その中のひとりは、まちがいなく川添英一だ。金色の月は美しいが、傷の痛みを重く共感できるものにとっては、男根は「あわれ」だ。男性優位社会の「あわれ」か、男の自縛の「あわれ」か。旗と歌との強制は、男の論理と一直線につながっているではないか。墓とはいったい何だ。景観公害ともなりかねない石造工作物をさらに作るのか。私も問われる。(児童文学者。オホーツク文学館長)
林 禧 男
天や地に死者は還りて夕方はますます赤く日が沈みゆく(二ツ岩) アーネスト・ヘミングウェイの小説 『誰がために鐘は鳴る』の冒頭に、英国の詩人ジョン・ダンの詩が揚げられています。 要約すれば、 「島は小さな砂から成り立っていて、岸辺を洗う波によって砂が海中に没(死)する。 やがてはあなた(という砂)も海中に沈むのだ。ゆえに問うことなかれ「あの弔いの鐘は誰のために鳴っているのですか」と。それはあなたのために鳴っているのだから」 この歌を目にし、ジョン・ダンの詩を思い出しました。(シナリオ放送作家)
清 水 敦
夜明けまで眠り三昧這うようにすとんと布団という穴に入る(ぬば玉) 精根尽き果て一日が終わり眠りにつく快感が伝わる。 それは夜中の2時か3時か、朝勤めに行くまでの数時間の極楽。たしかにめちゃくちゃに多忙な現代人にとってすべてが消え去る布団の穴だけが至福の時かもしれない。「すとんとお墓という穴に入る」となるとただ事ではないが。ペーソス。(造形作家。網走呼人在)
宍 戸 恭 一
想い出の一人とならん美しく焼かれて義父の骨横たわる(ぬば玉) この一首は、今の私にとっては、究極の美しい人生をまっとうした人の姿として、うかんできます。 やりたいことはやってきた、いつ寿命が尽きてもよい―というのが、現在の私の心境で、かかりつけの医者にも、人工的延命は一切おことわり、と言明してあります。けれどもこんな私の生き方は、家人の目からすれば、
「こんな勝手な奴は知らん」、ということになりそうです。 私が尊敬している詩人は、「光沢のある骨になろう」と言い、その言葉にふさわしい詩人としての生涯をまっとうしました。あなたの義父も、きっとこの詩人と同様の、素敵な生涯を送られたのでしょう。
(三好十郎研究者。三月書房店主。引用の詩人の言葉は西脇順三郎『輪のある世界』
園 田 久 行
おじいちゃんおばあちゃんにと貝殻を拾う娘に波やわらかし(ぬば玉) 街の古本屋に短歌(うた)の良し悪しは分からない。 ただ、 空白が多い割には疲れてしまう歌集というものを、 最後まで読める様にしてくれたのは、 流氷記のおかげだ。 良い歌と、 好きな歌と、 上手な歌とが有るとして、 口に出して読んだ後で、 ジーンと来るものが有れば、 私はそれが、 好きな短歌になる。 年寄りが身近にいた事で、 きっとこの女の子は優しい人になる様な気がする。(オランダ屋書店店主)
リカルド・オサム・ウエキ
早朝の静寂(しじま)破りてぐごぐごと手押し車の老人が過ぐ(麦渡風) 「パモーニャ、パモーニャ、パモーニャ」ブラジル式水羊羹を売り歩くよく透る男の声が、書斎の前のアベニーダを過ぎて行く。私はいつもその声を耳にすると、男の姿は見えず、声だけなのが、かえって幻想を描かせ、朝の空気を清澄にする感じを受ける。それと同じ感覚を、この一首を読んで感じた。手押し車と老人の姿が感性のなかに入ってしまって、幻想となり、「ぐごぐご」という音だけが耳の中で、現実の音になって通り過ぎて行く。 響いた音は、早朝の空気を揺るがせるが、音が通りすぎてしまうと、もとの清澄さよりもいっそうじいんという静寂が漲ってくる感じの写生だと私には読めた。金色の月に真向かう坂道を下るはいまのうつつに浮かぶ(ぬば玉)ブラジルの月は、日本の月よりもうんと色が濃くて、早朝に書斎の窓から真東に滲み出してくる月は、 血を滲ませた赤い色をしている日本の月がせいぜい黄金色なのに、 ブラジルの月はどうしてこんなに赤いのだろう。 ひょっとすると仏教とキリスト教の違いが、月の色にも顕われるのかなあ、などとアホなことを考えながら、しばらく眺めています。(作家『白い炎』ブラジル在)
川 口 玄
梅雨終わるともなく今日は晴れ渡りチイイと蝉の泣き初めにけり(ぬば玉)詩歌は、たのしく、美しく、幸せな気分になるべきものと私は偏見をもっているので、 暗く悲しい気分になるものは読み過ごすようにしております。 どうしたわけか、今回は、小生の理解できない歌が多かったような気がします。
勝手なことを言ってすみません。 (『大阪春秋』編集長)
神 野 茂 樹
暖かい御飯のやわらかな匂い一日の命いのちをつなぐ(ぬば玉)
巳年生まれの彼女はいまどきの若者と違い、和食党で朝昼晩と、御飯と一汁が恒だそうだ。そんな彼女にちなんで。(『大阪春秋』編集委員)
林 哲 夫
昨日見し路上に果てし熊蝉に寿命寿命とやかましく鳴く(ぬば玉) 毎年、 夏になると、路上の蝉を拾ってスケッチする。形のまっとうなものを探すのだが、ほとんどの死体は蝉か何かに喰われていて、使いものにならない。よほど美味なのであろう。あるいは寿命とはこういう結末をいうのかもしれない。 (画 家)
鈴 木 悠 斎
我が死なば献体、通夜なし葬儀なしそれが確かな遺言である(麦渡風)八十歳を過ぎた私の母も献体をするから葬式は簡単でいいと言っています。私も自分の葬式はしていりませんので、この歌に大いに共感を覚えます。 もう痛くも痒くもないから献体や臓器移植もいいですが、使い古しの貧弱な私の身体なんか人のお役に立つかちょっと疑問です。
私は若い時から何度もグループ展や個展を開いてきました。これが私の葬式みたいなものなのです。忙しい人や書にそれ程興味のない人までたびたび気を遣わせてきたのにこれ以上葬式までしてご足労をかけるのは気がひけます。ただ、根っからの大阪人の私は親しい友人にはこう付け加えます。「葬式はせんけど香典先にもらえたらうれしいけどなあ」と。
(書 家)
佐 藤 昌 明
豊饒な人の食物並びいるそのほとんどが死を加工して(ぬば玉)
川添さんの作品には「なるほど!」と頷かせる表現がたいへん多いのですが、この歌には、頷く以前にいささか「ドキンッ」とさせられました。そう言うと、網走の海で釣った魚を得意げに料理する時も、我が家の菜園から丹精した野菜をとって、自慢しながら刻む時も、すべからくカレらの「死を加工」しているのだから…そして、屍を味わいながら食べている人は己れの死を恐れつつ につながるのですね。死を真面目に考えた時代はとうに過ぎ「諦め」と「モガキ」? で困惑している日々、この二首で、思いきり横っ腹をドツかれ、人間としての身勝手さを教えられたように思いました。アリガトさんでした。 (作家。オホーツク秘話『北に生きて』)
井 上 芳 枝
上に反り葉も実も青きイチジクのほのかな香りの一角を過ぐ(ぬば玉) 青きイチジクを見つめる確かさ。 また四句の「ほのかな香り」に「かぐ」感覚の鋭さに感嘆します。 八月下旬から九月上旬に食べ頃を迎えるイチジク。 亡き弟が大好きだったイチジクには特別の思いがあります。 旅立つ十日前に「おいしいよ。イチジクは大好きだから。ありがとう」と。七回忌が過ぎたのに鮮明に思い出されます。イチジクは幼いころの郷愁、そして切ない味がします。胸に込み上げてくるものを抑えながら、ありし日の弟を、ひとりしのんでいます。 (中学恩師)
井 上 冨 美 子
おじいちゃんおばあちゃんにと貝殻を拾う娘に波やわらかし(ぬば玉) 北九州のご実家に行かれて間もない時の浜辺で想う親子のお姿かなと思ったりしました。 まさかおじいちゃんの身の上に大事が起こるとは…小さな心の中に押し寄せた波の大きさは測り知れない。がんばってからありがとうへと変わる千羽鶴折る娘の言葉かわいいお孫さんの必死に祈るような気持ちが熱く伝わってきます。そして時がお孫さんの心の中を感謝の花束で満たしていったのでしょうか。それにしてもあまりにも現実は惨いですね。おじいちゃん今までどうもありがとう娘の声に皆涙せり 北九州の浜辺で拾った貝殻におじいちゃんは触れることができたのでしょうか。きっとかわいいお孫さんの手と一緒に握りしめてくれたことと思っています。この夏の哀しい出来事を乗り越えて健やかに育っていってくれることを心よりお祈りしております。三首とも飾らない言の葉でその時々の情景や心の内を表現されていますのでストレートに心にしみてきました。
(元網走二中教諭)
小 川 輝 道
想い出の一人とならん美しく焼かれて義父の骨横たわる(ぬば玉) 突然倒れ、卒然と旅立った人は、歌集発行にも理解を示してくれた身近な人である。 「想い出の一人とならん」に込められた哀惜の濃い想いがこの作品を決定づけているように思われる。
長く付き合ってきた人の骨が、 「美しく焼かれて横たわる」という表現のなかに、作者の故人への愛情と永訣の思いが、深くうたわれている。「美しい骨」に目を向けている作者の感受性の並外れたところに驚かされた。平明な表現を通し作者の深い想いを示すことができるのは、短詩型の成功といえよう。
(元網走二中教諭)
千 葉 朋 代
薄光る樹幹の甘き液を吸う蝉あり桜の花知らず鳴く(ぬば玉) この歌を読んだ時、胸がドキッとしました。 蝉の命のはかなさを、こんなに美しい言葉で表現したものに、 初めて出会ったように思います。 何年も土の下で生き、やっと地上に出ながら、自分を育んだその樹の美しさも知らず死んでいく。
自分がそれを知らぬことさえ知らぬまま。なんと哀れなことでしょう。必死で前だけを見て生きる人もまた、 蝉のように哀れな生き方をしているのかもしれません。
(『わたしの流氷』同人。札幌市在)
山 川 順 子
人のため食べられるため生きている動植物は何思うことなく(ぬば玉)人間の生のために殺生される動植物の命の数。 グルメ、特選、こだわりや、クローン、遺伝子組み換え… と人間の欲求は果てしない。けれども残酷、かわいそうなんて言えやしない。
下の句の「何思うことなく」救われる思いです。昨日今日明日と一日が過ぎてゆくミレニアムなど関わりもなく(水の器)世紀末、新世紀とテレビ等で騒いでいたが何かが変わるのではないのを皆知っている。その事をさらっと詠んでいる。人は変わりたくても、そう簡単には変われないのだ。生まれついているものを捨てるには年齢と共に増える。
しがらみ、責任が立ちはだかる。本当は変わりたかったのに… (『わたしの流氷』同人。札幌市在)
栗 野 葉 子
犯人の異常な性格伝えいる口調ありあり目を輝かす(二十二)日本は、まだまだ安全な国であると世界から言われるらしいが、もう、そんな事はない。神戸の十四歳のサカキバラ少年、そして大教大付属池田小の児童殺傷事件など、子どもを犠牲にする事件が後を絶たない。八名もの未来ある少年少女達を次々に襲う犯人の異常性は日本中を震撼させ、学校は安全であるという固定観念を覆した。池田小は研究会でよく行く学校だけに、ニュースを聞くたびに胸が痛い。八名の子ども達の冥福を心から祈るとともに、先生方や保護者の方々の心痛を思う。私たち教師は今まで以上に命の尊さを教える責任がある。
(西陵中保護者。茨木市立水尾小学校教諭)
柴 橋 菜 摘
瞬きはシャッターのごとぬば玉の脳裡に幾億画像が残る(ぬば玉) 林禧男先生の御縁で、流氷記との出逢いを戴き、その小さき身にずしりと重く深い魂が込められていることに感銘を覚えた。 この歌に出逢った時、 素直に本当にそうだなあ、一体、自分もどれだけの画像をこの眼に結んできたことであろうと、
重ねてきた年月をしみじみと思い出した。我流ながら川柳をかじる身には、勉強させて戴く視点が、いっぱいである。 そして三十数年前、寺尾勇先生より美学の講義を受けた者として、切り口鮮やかな舌鋒が蘇る文に接し、廻りの不思議さに思いを馳せている。
(大和高田市在)
米 満 英 男
生ま生まと女歯科医の唇が下りてきそうに目の前にある(ぬば玉) いきなり《生ま生ま》と発進する。つづけてそれが《女歯科医》とくる。そしてその唇が下りてきそうに《目の前にある》とクローズアップされて結ばれる。何ともいえぬエロティックな味わいが漂う。その女医はもちろん美人の側に属する者でなければなるまい。作者はそのとき当然口を開けている。
が、 それよりもなお大きく目を開けてその唇の生ま生ましさを観察し、 かつはにやりと楽しんでいる。 即物的に、 しかも極めて端的にとらえていながら、そこにはふんわりと膨張するエロスとユーモア感がほのぼのと立ち昇っている。(『黒曜座』主宰)
長 岡 千 尋
夜明けまで眠り三昧這うようにすとんと布団という穴に入る(ぬば玉) 秋晴れの日の午後遅く、 すこし茜色のさした明るい澄んだ空をながめながら、私は一風呂浴びる。そして、ひとりで一献はじめる。その時私は、ここは「神の国」なのだと確信する。
仏教でいへば「浄土」であらう。私のひとり遊びは数時間つづき、やつと布団に入る。この豊かさ楽しさは何んであらう。 川添さんが直感されたやうな「穴」の感覚はよくわかる。おもしろい。穴にゆつくりと落ちてゆく感覚、それは死の眠りといふもののやすけさである。
「すとんと布団と」といふ諧謔の音遊びが実に楽しいのである。 (『日本歌人』同人。『かむとき』編集人。談山神社神主。『大和文学散歩』)
川 田 一 路
明確な一つの夏か義父逝きて遺影の前の骨壷二つ(ぬば玉) 今回の作品群はおのが存在に対するあやうさへの表現にはじまり、 食べるという行為をとおして人間の身勝手な自己保存行為正当化理論に対する哀れさ、
そして突然訪れきた身近な人の死を目の前に人間の生きていくことのせつなさ、はかなさと情感がしみじみと伝わってくるものが並び、心に深く訴えくる作品が数多くありすぎ、一首を選出するのが不可能な状態でした。そのためにこれらの作品のモチーフの基盤となったであろう最后の一首をとりあげ感想に変えさせていただきます。
(『ヤママユ』会員)
新 井 瑠 美
噛みしめる歯さえ人工物ばかり既にあやうきうつしみにして(ぬば玉) 秀歌と言うより、本音の声として取り上げたい。共感をよぶのは私一人ではない筈。現実問題として、年々、体に皺寄せがくる。目が、歯が、根気が、その他もろもろの悩みが年と共にくる。 それらを認めながら、人は前に進むしかない。《この世から突然われが消えている静かな朝の町歩みおり》二七号にあった一首。 歌い出しから不思議な感じを覚える。 自分をも消してしまうほどの静かな町を歩む作者。多くを感じ、その時時の手法をもって、前進の氏である。 (『椎の木』同人)
竹 田 京 子
ゾウリムシ二つに分かれ増えてゆく死ぬことのない命もありぬ(惜命夏)「ゾウリムシは原生動物、肉眼では粉末状に見える。 無色透明のぞうり状をしている…。」私がこの一首に魅かれたのは、下句「死ぬことのない命もありぬ」 という一種虚無感のような作者のさりげない肉声、 また上句「ゾウリムシ二つに分かれ増えてゆく」と過不足なくゾウリムシの生態を具体的に表現しているゆえでもあり、上句と下句との連結が幾分の隙もなく切り結ばれていて一首全体から溢出する情趣が私の口腔を潤しているからなのかもしれません。ゾウリムシという語感には格調、気品は感じられないのですが、「死ぬことのない命」という他には感じられない強さがあり、 印象的で忘れ得ない一首となりました。 (『天』短歌会主宰)
里 見 純 世
スーパーに籠もて巡る新鮮な死が飾られて並ぶ静けさ(ぬば玉)
此の歌の外に成る程ナアと思って読んだ歌を拾い上げてみました。豊饒な人の食物並びいるそのほとんどが死を加工して/青白くテレビの画面映りいる深夜の路地の向日葵の影/キリストも大津皇子も実朝もむごき死に様なれども潔し/おじいちゃんおばあちゃんにと貝殻を拾う娘に波やわらかし/おじいちゃん今までどうもありがとう娘の声に皆涙せり(『新墾』『潮音』同人。網走歌人会元会長)
葛 西 操
おじいちゃん今までどうもありがとう娘の声に皆涙せり(ぬば玉) 御義父様突然お亡くなりになりさぞかし驚きになられました事と存じます。心よりご冥福をお祈り申し上げます。お子様のお嘆きさぞかしと存じます。私も一昨年主人を亡くしました時、三十歳にもなる孫達が遺体にすがって泣きました。絆というものの強さを改めて感じました。
生在るものいつかは没す、悲しいことですね。このお歌によって身内の一層の絆の強からんことを願ってやみません。 (『原始林』同人。 網走歌人会)
南 部 千 代
流氷が岸に鎮まる静けさに臨終示す直線となる(ぬば玉) 接岸した流氷は一見平らで静かに見えますが、 近く寄つてみればとても険しい厳しい貌をしています。 臨終を示す計器も一見フラットな線かもしれませんが、
一人の生が終ったことの厳粛さはありありと見えて胸をうたれるものがあります。 そして 「明確な一つの夏…」と詠まれ 『ぬば玉』と名づけられた、二十八号の最終に捉えられた御歌にしばし凝然となりました。
心から御悔やみ申し上げます。娘さんにとっても良いおじいちゃまであられた様で「ありがとう」と言われたことに心が洗われる思いです。お慈しみください。
(網走歌人会)
田 中 栄
亡き人を雑踏の中すれ違うぬばたまの風吹きかすめつつ(ぬば玉) 街なかの雑踏などでは亡くなった人と出会うような錯覚を感じるものだ。 死者はどこか意識の中では生きている。微妙な感性を捉えている。「亡き人を」の助詞が気になる。「亡き人と」ではなかろうか。今一つ気になるのは「ぬばたまの風」だ。「ぬばたま」は黒、夜、夕、月などにかかる枕言葉、「ぬばたまの風」では不自然。梅雨入りの「黒南風」などであろうか。鋭い感覚の歌で同感する。(『塔』選者)
鎌 田 弘 子
人いといつつの授業も生徒には優しく心の不思議を語る(ぬば玉) 前日からか、感情の起伏の底で晴れないものを持ち越している。人間の理性の外のどうしようもない性質とも言えようか。 だから人は短歌などというものを作る。その自分を意識して、生徒に優しくなってゆくことに気づく。
意識して優しくしている。 自らを鎮め、今を立っている努力の姿が見えてくる。「心の不思議」について話をしているのだろう。流氷記持ちてポストに運ぶたび墓群れ見つつ見られつつ行く 共に、心とその日について、表現の奥の語りが見えてくる。同感し、私もその様なことをしているように思う。 (『未来』同人)
前 田 道 夫
スーパーに籠もて巡る新鮮な死が飾られて並ぶ静けさ(ぬば玉)
スーパーの食品売り場を歩いているとき、 鮮度は常に気にしているが、死を意識することはない。作者は「新鮮な死」と捉えて死を意識しているようである。 言われてみれば、野菜にしろ、果物にしろ土から抜かれたり、枝から離された瞬間、生命は断たれた訳である。 死んでいるからこそ鮮度が問われることになる。この作品は改めて死というものを考えさせてくれた。人は死ねば直ちに腐敗が始まるが、山積みされた野菜や果物は、何と瑞々しい死を湛えていることであろうか。 (『塔』 同人)
榎 本 久 一
炎天のヨモギの匂い昇り来る線路よ遠き電車は歪む(ぬば玉) 夏の日盛りの踏切で長く待たされ電車の通過後にようやく遮断機が揚がり広い踏切道を渡っている処が眼に浮かぶ。いらいらと待つ踏切を殊更に減速して今電車過ぎゆく(同)電車過ぎまた矢印の灯りいて踏切前のざわめき親し(同)と共に読むべきだろう。この二首に比べ通行人の側に立った思いがあからさまでない処が良いと思った。さまざまな思いが読み取れそうだ。 (『塔』
同人)
東 口 誠
おじいちゃんおばあちゃんにと貝殻を拾う娘に波やわらかし(ぬば玉) 死あるいは生命を題材とする作品が多くて、 読み進めつつ気が重くなりかけたところで出会ったのがこの歌である。 何の変哲もない、一読直接に感動の伝わってくるいい作品だと思う。技巧はいうまでもなく大切だが、
技巧をもてあそんで感動の希薄になってしまう歌が流行しているとき、 このような作品に出会うと安心する。この後に、義父の死を詠んだ歌が続くので尚更印象に残るのである。蝉時雨浴びつつ午前わが庭に小さく白きキンカンの花
というのもさわやかで心に残った。 (『塔』 同人)
三 谷 美 代 子
電車過ぎまた矢印の灯りいて踏切前のざわめき親し(ぬば玉) ひとしきり通過電車の轟音と鐘の音が響きわたった踏切の、 遮断機は上がらないままに又反対車線の通過を告げる鐘の音が響いているのだろう。遮断機に塞かれる人も少しずつ増え、作者をも含むその群れは皆ひたすらに《一連の電車を待つ》という共通した焦りによって括られているのである。結句が言い得ており、実感を伴っている。
(『塔』 同人)
鬼 頭 昭 二
おじいちゃんおばあちゃんにと貝殻を拾う娘に波やわらかし(ぬば玉) ゆったりした感じとひろがりが気持ちよい。 この歌に続き、おじいちゃんたる作者にとっての義父が亡くなられたことを含みとして読めば、人と人とを包含する宇宙、あるいは宗教的なものをも思わせる。(五〇番地)
小 石 薫
突然に義父倒れたと次々に山押しのけて『のぞみ』駆けゆく(ぬば玉)
最高のスピードで、小さな途中駅に停車することなく突っ走る『のぞみ』。 「山押しのけて」に「のぞみ」そのものとなった作者の思いがある。月の満ち欠けのごとくに断面の脳幾つかが暗闇に浮く(同)CTの映像か。幾枚か並ぶ左右の脳の映像は黒の中に白く浮き出た不確かな円のかたちで夜の雲の向こうにある月と見えたのだろうか。 人体、 あるいは人の頭の中も無限の謎を秘めた宇宙といえよう。「流氷が岸に鎮まる静けさに臨終示す直線となる」 「想い出の一人とならん美しく焼かれて義父の骨横たわる」 ご冥福をお祈りします。(『塔』『五〇番地』同人)
甲 田 一 彦
深夜ひっそりとしている路地裏がテレビの色に次々変わる(ぬば玉)
深夜である。人の住んでいる所だがしーんとしている。 しかし、まだテレビを見ている人がいるのである。 テレビ画面の明暗や色相が窓から漏れて辺りを照らすのである。 注意すれば誰もが気づいて歌にできるのだが、それが中々できないのである。さすがにこの作者だと思うが、深夜まで『流氷記』の発刊に取り組んでいる川添英一が目に浮かんでくる一首でもある。 体にも気をつけて下さい… (『塔』同人。北摂短歌会会長。元高槻十中校長)
遠 藤 正 雄
瞬きはシャッターのごとぬば玉の脳裡に幾億画像が残る(ぬば玉) 『草枕』の中の、霊台方寸のカメラに…という一節を思い出させる。脳裡に写る幾億の画像の一枚一枚は、俗界から抜け出した者のみが知る住みよい世界がある。そこには詩があり、絵があり、音楽もある。作者は日々を新たに霊台方寸のカメラのシャッターを切り続けている。人見つつ人の視界に我が姿ある不思議さのすれ違いゆく
人は見ず知らずの人と何回となくお互いに姿を見せ合っている。朝な夕な会釈を交わしつつ、ある時は不快な思いをしつつすれ違いゆく。人間は常に人の視界の中にあり、防犯カメラの視界の中にもいる。
塩 谷 い さ む
一等兵大きな墓石ゆっくりと金色の月照らす真夜中(ぬば玉)
村営、 町営の共同墓地に行くと大戦の初期に戦死した例え一等兵の墓であっても可成り大きな墓が建てられている。 無名の士を軍神のように見せるためだったのかも知れない。 その無念さを金色の月が慰めてくれているのか、 墓石が真夜中を彷徨っているともとれる「ゆっくり」に作者の意図があるのかも知れない。遠い昔、月光をうけての動哨中に、月を仰いで故郷を偲んだ日もあった。鎮魂の歌として読んだ。(黙祷)ぐるぐぐぐ歯の削られて震えつつ命も骨も地に沈みゆく にも注目したい。 (『塔』 同人)
吉 田 健 一
心して食べよ命を継ぎながら内蔵に棲む虫もうごめく(ぬば玉)
作者の着眼力のすごさに感服した。 自分の命は自分ひとりのものにあらず、 家族あっての自分ゆえ心して食べよというのは誰でも思いつくが、 作者は自分の体内に棲む自分以外の生命に思いを致しているのである。 なるほど、我々の体内には寄生虫をはじめ、微生物や細菌など、 無数の生物が何代にも渡って棲息しているのだ。 まさに自分の命は自分一人のものではない。 ふだんは思ってもみないこんな簡単な真実に気づかせてくれる一首である。『塔』
平 野 文 子
流氷が岸に鎮まる静けさに臨終示す直線となる(ぬば玉)「会うは別れの初め」とは言うものの、人の世にはさまざまな出会いと別れがある。中でも身近な人との別れには、深い悲しみが伴います。 突然に訪れたお義父様との別れが、ここではむしろ淡々と詠まれて、科学的で無情な心電図の具体に表出した下句には却ってその裏にひそむ悲しさを沈潜させている。激しくぶつかり合いながらも漂って来た流氷が漸く接岸のあとに示す静けさにも似て、 人生終焉の厳しさをきっちりと詠まれている。 ご冥福をお祈りいたします。 (『かぐのみ』。 北摂短歌会)
山 本 勉
屍を味わいながら食べている人は己れの死を恐れつつ(ぬば玉)
スーパーでの風景が数首目に留まった。 川添さんはこんな所へも興味の目を向け、歌ってしまうのだ。 生きた蟹や貝が並べられ、「殺されるのか、食べられるのか、かわいそうに…」 と見ていると、「ああ、おいしそう!」などと主婦の声を聞いてびっくりする。 三、四年前、ジョン・ダーントンの『ネアンデルタール』という小説を読んだ。この原人たちは人間の肉を食用としていた。 もし、現実に人間以上の生物がいて、人間が食用に飼育されて、肉屋にぶら下げられている光景を思うと、我々も生きるためとはいえ、その残忍さは動物たちに恨まれても仕方あるまい。生きるために食べ、排泄する生き物の矛盾をしみじみ思う一連の歌である。 (北摂短歌会)
森 田 冨 美 子
四日間無言の義父の語りかけ尽くして波が凪となりいる(ぬば玉) この歌を読みまして、 失礼ながら亡くなった主人の時のことを思い出し、涙いたしました。 主治医が、 「五感の最後まであるのは聴覚です。呼びかけて下さい。」と言われ、
子、孫と共に、「家に帰りましょう!」と、そればかり語りかけました。 「波が凪となりいる」ほんとうにそのままで素晴らしい表現だと感銘致しました。(同)
山 路 義 雄
突然に義父倒れたと次々に山押しのけて『のぞみ』駆けゆく(ぬば玉)
作者がたまたま北九州に帰省中、 日頃から敬愛しておられた義父が突然倒れて、手術が必要との知らせを受け、取るものも取り敢えず逸る気持ちを抑え、新幹線超特急『のぞみ』号に飛び乗って、お父様の入院しておられる八尾総合病院へ急がれた時の、 不安と焦燥のもどかしさを、 幾つものトンネルを通り抜ける度に味わった印象を、 「次々に山押しのけて『のぞみ』駆けゆく」との表現に凝縮されていて、実に見事である。読者も作者と同じ気持ちで『のぞみ』のスピードにさえじれったく共感する作品である。(北摂短歌会)
リカルド・オサム・ウエキ
神となり渡る魂みしみしと流氷泣きて禊がれてゆく(蜥蜴野) この神は、アマテラスやイエス・キリストのように人間によって捏造されたものではなく、 太陽や月と同じ自然の脅威から感覚する原始宗教の神的なものだろうと感じました。
流氷が岸を離れて流れ出すときの壮絶さは、 私も日本の北の端に旅したときに目撃しています。 かぶさってゆこうとする氷塊、圧迫されて喘ぐ氷塊、ずるく潜り抜けてゆく氷塊などを観ていると、
まるで人間社会の葛藤を観ているような感じがしました。 (作家。ブラジル在住)
小 川 輝 道
パチンコ屋ばかり豪華に人間が同じ方見て並んで座る(新緑号)
この時代の風俗を巧みに捉えている、 と愉快になった。どの街にもパチンコ店は、娯楽の殿堂めかして最大級の照明で飾ってある。「〜ばかり豪華に」と率直に、しかも言い得て妙である。そして集まる人間が「同じ方見て並んで」座っている当然の姿をその通り表現し、実にユーモアに溢れていると思う。当世風俗をこのように表現できる観察眼に感心させられた。流氷と海の境に群るる鳥生競うがに声高く鳴く 雄大な北海の静寂と群れ鳴く海鳥を捉え、北の氷海の原風景を見詰める作品である。鬼頭さんの「生を競いて」に教えられた。 (元網走二中教諭)
塩 谷 い さ む
神在りしこの国仏キリストも混じりて迷いのただ中にいる(渡氷) うん、うんその通りそのとおりだと頷いている。神の国日本に入り込んで来た仏教そして長い弾圧にも堪えて浸透したキリスト教、特に二千年問題の昨年から今年にかけては本来の日本は一体何所へ行って終ったのかと思われた事が多々あった。悲しい出来事と共にかつては神国日本と言われた時代を思い出す。「二人とも自分の言いたいことだけをまくし立てつつ黙らせようとす」これも納得の出来る現代風刺のよく効いた歌である。字余りのついでに「黙らせようとする」と「る」を入れたい処だが。
『塔』同人
中学生一首評
小 西 玲 子
無駄なもの余分なものを削ぎ落とし幾山河行く流氷のごと(ぬば玉)
私はこの《無駄なもの余分なもの》とは、 弱気な気持ちや変なプライド、誰でも感じる悩ましい気持ちのことだと感じました。悩むのも必要なことだけれどたまにはそんな気持ちを捨てて幾山河を前に歩いてゆこうというような気持ちになりました。 その捨ててしまった無駄なものは歩いてゆく山にとっては肥料になるのです。その肥料のおかげで山には花が咲きます。私達のその悩みは、前に進むために必要なものなのです。 だからたまには心の中を空っぽにして見ても何か新しいことが見えてくるんじゃないかと思います。 天も地も我も全ては網走の流氷原に吹く風となる(二ツ岩)この歌を読んだとき、私は地球の人間、動物、自然、この世に存在する全てのものは一つになれるような気がしました。 地球の中でどうして争いが起きてしまうのだろうか、 人に対してどうして優しくできないのか、地球は一つで、みんなその中の仲間のはずなのに…。全ての人たちが、この流氷原の風を、感じられて、優しさや思いやりや、人間にとって一番大切なことを思い出せたら、きっと全ての人やものが幸せになれるだろうと思いました。 (西陵中卒業生)
高 田 暢 子
ろくな死に方をしないも流れゆく時の落ち葉の一つに過ぎぬ(ぬば玉) ろくな生き方をしていない人は、ろくな死に方が出来ない、よくそんなふうな言葉を聞くが、その人の生き方が良かったか、悪かったかなんて誰にも決められないと思う。 人は自分の人生を精一杯生き、死んでいく。死んでしまったら皆、落ち葉のように土に戻り、消えていくけど、満開の花のように美しく輝いている時が、誰にでもある筈だし、その輝いている時があるからこそ、散ることも出来ると思う。 私もまだまだ長い人生を精一杯自分の納得のいくように生きていきたい。 (西陵中卒業生)
古 藤 香 緒 里
中学生揃いて歌えばこんなにもかぐわしき声伝わりてくる(小秋思)
私はこの歌を読んで、中学校生活を思い出した。中学校に入学してから卒業するまで、いろいろな歌をうたってきた。今でも歌をうたえば、その時の思い出が想いだされる。学年全員で歌をうたう事はとても素晴らしいことだと思った。もし願いが叶うなら、もう一度あの頃に戻って、みんなで歌いたい。透明な星星星にひびく《ぼく》ひとりぽっちひとりぽっちひとりぽっち…(夭折)この歌を読んで、孤独感を感じた。 私は世界でたった一人の存在だけど、決して寂しいとは思わない。 私の周りにはいつも家族や友達がいるからだ。 家族や友達がいなかったら、
私はこの星のように一人だったに違いない。 この歌を読んで、 改めて周りの人々の大切さを感じた。 (西陵中卒業生)
川 野 伊 輝
ポストまで深夜歩けばコオロギの少し切なき風の音聞く(惜命夏) この歌を聞いて曾婆ちゃんの家に帰った時のことを思い出しました。 思い出した瞬間、目の前が涙でぼやけました。最近涙もろくて、悲しくもないのに、胸が熱くなって涙が出ました。
「切なき」という言葉。それを見てまた涙が出てきました。悲しくないのに涙が出るのは気持ちいいです。 この歌のおかげで何か熱いものを手に入れました。それと同時に故郷に帰りたくなりました。
今度、北浦(故郷)に帰って、夜の道をコオロギの泣き声を聞きつつ、自分も涙を流して歩いてみたいと思います。 (西陵中卒業生)
小 野 二 奈
コスモスの小さな群れあり山小土手揺れつつ空へ輝きかえす(小秋思) この歌を見た時、幼い頃に母と散歩したことを思い出しました。花・虫・石…など小さな物や普段よく見慣れているものも幼い私にとっては遊び道具の一つになりました。自然の中で遊ぶことの少なくなった今の私にとっては思い出を蘇らせる一つになりました。コスモスは土手に咲いているというイメージがあるけど、
最近あまり見なくなりました。少し寂しいような気がしました。大きくなると自然の中で遊ぶ機会が少なくなりました。私は、自然を破壊したり、 絶滅させたりする人間は幼い頃の自然で遊んだ思い出を忘れているからかなと思いました。
(西陵中卒業生)
北 川 貴 嗣
間近にて見ればシーツも果てしなき氷原海鳥さえも聞こえて(麦渡風) 僕は、その時真っ白な日光を浴びた真っ白なシーツの上にいた。白一色をしばらく眺めているうち、一度ゆっくり目を閉じた。次の瞬間、僕は真っ白な氷原の上に立っていた。周りには雪以外何もない。ただ一面の真っ白が永遠に地の果てまで続き、地平線をまでも色の絵の具で塗りつぶしたようだった。爽快な白、清々しい白…。心の奥深くまで白で染められ清められたような神聖な気分を僕の中によみがえらせてくれた一首だ。(西陵中三年生)
野 村 充 子
土となり肥やしとなりて安らかに蟋蟀の死が転がっている (金木犀) 私は最初この歌を読んで、背筋が凍りました。 興味引かれたのは「死が転がっている」という所です。 きっと蟋蟀のことだから、三、四匹で鳴いていたのだろう。
その死がたくさん転がって、たぶん雨に打たれしてるうちに元の土へと返っていったということ。蟋蟀は果たして安らかに帰れたのでしょうか…。地に沈むように寝床に背骨置く一日の重さがずしりと響く(金木犀)私は、一日の重さが地球に吸収され、次々と新しい一日を迎えるのだと思う。また、日々の重さが骨の髄まで達したとき人は燃え尽きるのだろう。私にとってこの歌は人生を重く感じさせるものとなった。そしてまた新しい日々が始まろうとしているのだ。
(西陵中三年生)
木 村 明 日 香
屍を味わいながら食べている人は己れの死を恐れつつ(ぬば玉)
この歌を読んだとき何故か海の葬式を思いました。 青い、深い、魚達の葬式――。人間に限らず、生あるものはいつか必ず死にます。この歌のとおり、私達の食べているものの殆どが何かの屍です。屍を食べる量が全世界で一位の人間が『死』を恐れるなんておかしな話です。でも、やっぱり私も死にたくはありません。それと一緒で、どんな生き物だって死にたくないと思います。でも、この世は弱肉強食、不幸にも人間の胃袋に逝く運命の生き物もいるのでしょう。今も、どこかで葬式が行われている… (西陵中三年生)
諸 石 眸
食い食われる動物たちを観つつ食ぶいつまで人間様の食卓(ぬば玉)
これを見た時、私は、先生が食べることについて話していたのを思い出しました。 自然の中での食べる食べられるは素晴らしいものだと言っていて、私もその通りだと思いました。 しかし、私たち人間のは、そういうふうには感じず、だから人間様の食卓なのだと私は思います。 なぜなら、この歌の動物たちは、生きるために必死なのに対し、観ている「人間様」は、お金さえあれば楽に食われる動物も手に入るからです。そう考えると、この歌はとても奥が深いように思えました。 (西陵中三年生)
安 井 春 菜
その昔思えば死者もよみがえり幼き我が生き生きといる(ぬば玉) 今は亡き人も、自分の思い出の中では、元気でいて、 いつの間にか年をとってしまっていた自分も、幼い時の、元気で生き生きとしたままでその中にいる。人は、思い出を残すために写真を撮るのかもしれません。だけど、この短歌にもあるように、思い出は、形に残るものだけではないんではないでしょうか。私は、思い出というのは、自分の心の中に残るもののことではないのか、と思います。
形にはならない、だけど、だからこそ、大事なものも、確かに存在するのではないでしょうか。 (西陵中三年生)
阿 河 一 穂
ろくな死に方もしないも流れゆく時の落ち葉の一つに過ぎぬ(ぬば玉) 落ち葉と死とを結びつけると、冬になっても、まだ木にくっつているのは長生き。夏のうちにもう落ちてしまってるのは早死に、と単純にそんな感じがした。しかし、「ろくな死に方をしない」を葉にたとえると、
小学生に班旗で叩き落とされそうで何だか嫌な感じがした。 でも、早死にでも長生きでも、良い死に方でもそうでなくても、 人の死も、落ち葉が風に舞い散らされるように、いつかは心の片隅にしかないような気がする。
(西陵中二年生)
古 田 土 麗
暖かい御飯のやわらかな匂い一日の命いのちをつなぐ(ぬば玉)
暖かい御飯を食べれば、 心は暖かくなったり幸せな気持ちになる。しかし、冷たい御飯を食べれば、心は冷たくなり、幸せな気持ちにはなれないと私は思います。でも、お弁当は例外です。御飯を食べてると何か生きてるんだなぁと、とてもうれしいです。匂いだけでも幸せな気持ちになれるはずです。 御飯は人間にとってなくてはならないものです。もしなくなったらどうなるのでしょうか。紐が切れるように命も切れてしまうのでしょうか。(西陵中二年生)
金 指 な つ み
ゴール前順位際どく入れ替わる走者に合わせば観客淡し(秋夜思) 私にもこんな経験があります。 あと少しでゴールという時に後ろの人に抜かれてしまって悔しかった思い出が。 この歌からは観客からの「オオー」という歓声が聞こえてきます。
とっても盛り上がっている楽しそうなそんな感じがこの歌から感じられます。(同
岡 本 英 璃 乃
プライドという厄介な感情に人は争い繰り返し死ぬ(ぬば玉) プライドって何でしょうか。 争うためにあるんですか?死ぬためにあるんですか?昔から人間は自分のプライドのために争っています。例えば平家物語のたくさんの人達もプライドという感情のために自分が死んでしまってます。プライドという感情は少し残酷だなと思います。でもプライドがないのなもちょっと…。人とプライドの関係って何か複雑だと思いました。人の気まぐれの拍手で死んでいる蚊の一匹の四肢鮮らけし(同) この歌を読んで私は蚊は人の気まぐれだけで殺されちゃったりしてかわいそうだなと思いました。でも今日、目の前で蚊が飛んでいたので反射的に叩いて死なせてしまいました。
虫の中で一番かわいそうなのはやっぱり蚊だと思います。 食料=血を求めて人間に近寄って気まぐれでも死なされてしまうからです。でもかわいそうとか言いつつも、つい蚊を叩いてしまう私もいるので、
蚊に同情もしてられないなと思いました。 (西陵中二年生)
清 水 由 香
人が言う皆が言うからなどという安易が差別いじめとなりぬ(麦渡風)
皆が言うから、自分も言わないと、次は自分が何か言われるかもしれないと思うことはよくあります。 こんなふうに思っている人もたくさんいると思います。差別はいけないとわかっていても、怖くてなかなか言い出せない人が多いと思います。こんな時に、勇気を出して、いじめられている人を、助けられる人になりたいです。
今 田 有 香
冗談か人違いかと思いしも人群れて死が現実となる(蜥蜴野) この歌を読んだとき、 私は一年前に死んだ祖母のことを思い出しました。祖母は以前から入退院を繰り返していましたが、去年の五月に亡くなりました。 その時、私は「人違いじゃないの?」と、信じられませんでした。でも、私はこの事を自分に取り入れ、祖母の分まで前向きに頑張っていくことを決心しました。 (西陵中二年生)
古 河 綾
プチトマト口にて広がる一瞬の甘き破壊を楽しみて食ぶ(ぬば玉) この歌を読んで、プチトマトのあの甘さを思い出しました。普通のサイズでは、一口でたべられないけど、 プチトマトなら、一口でプチトマト全体の甘さ、味が味わえるので、普通のトマトより好きです。
もっともっと甘いプチトマトがあれば買いたいです。(同)
二 瓶 加 奈 子
白桃の肌を愛しみ皮むきて甘き匂いのやわらかさ食ぶ(ぬば玉)
白桃の皮をむく時に、汁が出てきて、桃を食べたいという気持ちが増して、さらに甘い匂いがしながら、またまた汁が出てきて、 桃の肌が柔らかくて、水々しくて、食べたら汁が一気に飛び出してくる感じがして、甘さが口中に広がる感じがこの歌に出ています。だから、この歌を選びました。思わず桃を食べたくなりました。(同)
乗 岡 悠 香
人のため食べられるため生きている動植物は何思うことなく(ぬば玉) 私たちが毎日何げなく食べている野菜や肉。 当たり前みたいに食べているご飯。その中には一つ一つの命が心が詰まっています。でも、かなしいことに、
私たち人間は、そのようなものたちが何を思い、何を伝えたがっているのかが分かりません。もしかしたら否応無く、私たちの犠牲になっているのではないでしょうか。これらの生物は決して人間のためだけに生きてきたのではないのですから。でも私も生きて行く以上仕方のないことなのですから、せめてこれらの声なき声を私たちに感じさせてくれる無数の命たちに感謝していきたいと思います。
(西陵中二年生)
山 口 藍
がんばってからありがとうへと変わる千羽鶴折る娘の言葉(ぬば玉)
私は、この歌の中にあるような、「がんばって」や「ありがとう」という言葉がとても好きです。普段は、あまり深く考えずに言うことが多いけれど、逆に実際言われると、とても印象が強く心に残る言葉で、すごく元気になれるからです。おじいちゃんが生きている時には「がんばって」と言いながら千羽鶴を折り、 亡くなってからは「ありがとう」と思いながら折った、 娘さんの気持ちが伝わってきます。 おじいちゃんはきっと千羽鶴に乗って天国へと旅立ったのでしょう。とても心温まる私の好きな一首です。(西陵中二年生)
田 坂 心
人のため食べられるため生きている動植物は何思うことなく(ぬば玉)
人は動植物の気持ちとは裏腹に多くの動植物を食べている。 いつしか人のため食べられるために生きているようになってきた。
しかし、そうなってきた今、動植物は何を思っているのだろう。 人はもう動植物の気持ちなど無視しているのでは…その気持ちが伝わってきた。 (西陵中二年生)
横 山 真 理 子
午前には話していた義父もの言わぬ体となりて横たわる見ゆ(ぬば玉) 私の祖父が亡くなった時のことをふと思い出した。私の祖父は、私が二年生の時にガンで亡くなった。悲しくて悲しくて。でも不思議で仕方なかった。 死ぬってどういうことだろう。ほんの二、三日前までは生きていたのだ。もう死んでいると分かっていたけど、私は「真理ちゃん!」と笑顔でまた呼んでくれるような気がして、祖父を、ずっと泣きながら見つめていたが、そんなことはなくて…。 骨となった祖父を見て、私はあの日、本当に悲しくて泣き続けたことを思い出した。 (西陵中二年生)
宮 本 浩 平
夢の中わがもう一つの人生が今日は波乱に満ちて消えゆく(小秋思)
「夢」のことを「もう一つの人生」と書いているのがいいなと思った。 現実ではありえないようなことが、「もう一つの人生」では、感じたり、見たりすることもできる。そんな「もう一つの人生」が僕は好きです。現実では大したことのないことでも、「もう一つの人生」では、すごく大袈裟のように感じたりすることもある。でも現実に戻るとなぜ逃げ回っていたんだろうとか、 何であんなことしてたんだろうとか思うことが時々ある。 そんな「もう一つの人生」が不思議でおかしくて、おもしろいと思う。 (西陵中二年生)
植 之 原 万 里 代
太陽も地球も回るエネルギーその一部にて人生きて死ぬ(ぬば玉) この歌を読むと、 太陽や地球が宇宙の中を何千億年も回っているのに比べると、私たちのほんの何十年という一生は、なんて短いんだろうと思った。地球の規模から考えると、人の生き死になんてすぐに流れて消えていく流れ星のようだなぁと思った。でも、そんな短い人生の中で、いろんなことを成し遂げていく人というのは、やっぱりすごいよなぁと思う。
(西陵中二年生)
白 田 理 人
薄光る樹幹の甘き汁を吸う蝉あり桜の花知らず鳴く(ぬば玉) こういうことについて、あまり深く考えたことはなかったので、なるほどそうだと気付かされました。このように、視点を変えてものを見ることが、自分にも必要な気がします。
確かに蝉は、桜の花を知らずに、その生涯を終えます。 とてもはかない命だと、人は感じるでしょう。けれど、それは人間だって変わりません。 コロンブスを知ってはいても、実際に会った人は、もういないでしょう。
それと同じではないでしょうか。人は、人の尺度でものを見ます。だから、蝉の一生を短く思うのです。 蝉にとってはごく当たり前のことなのに、問題は、実際の長さではないのです。
(西陵中二年生)
衛 藤 麻 里 子
一斉に蝉鳴く朝の始まりに我が裡流れる血も騒ぎゆく(ぬば玉)
私は夏が好きです。今年もその夏は終わってしまった。特にバテたりしないのはきっと蝉の声のおかげだと思います。夏休み、朝起きて、ぼーっとしていると、急に蝉が鳴き出します。 なんかピンピンしてきて、さあやるぞ!って気がしてきます。でも蝉の声は蝉の声、きっと蝉としては一週間しか生きられない分、その時一生懸命に鳴いているから、その力が伝わってくるのだろう。夏の元気のもと、それは蝉の声だ!(西陵中二年生)
宮 崎 有 希
人のため食べられるため生きている動植物は何思うことなく(ぬば玉) 人のため食べられてしまう動植物達。 食べられるのはかわいそうな気がするけど、私たちは食べていかないと生きて行けない。動物も同じ。植物は光や呼吸をしないと生きていけない。それぞれ食べたり呼吸をしないと生きて行けないのだ。
私たち人間は海で生きているものを食べているけど、海で生きているものは、また食べられてしまうのか、など思っているかもしれない。私は動植物を食べさせてもらっているのだから、
感謝しながら食べていきたい。やっぱり食べないと生きていけない。これからは、動植物、そして私たちは頑張って生きて行くしかない。 (西陵中二年生)
妹 尾 芳 樹
人が言う皆が言うから世間では…など言いながらあんたも一人(ぬば玉)まったくその通りだと思った。人や皆が言っているから正しいわけじゃないと思いながら、 自分もその中の一人なんだから。 でも、一人になるのが怖くて、結局皆と同じことをしていることもあった…全く情けないなと思った。
しかし、それと同時に、人がして自分がして皆がしたら、 大変な作業もすぐに終わってしまう。多くの人がいれば、一人では決して出来ない事も出来てしまうのだから…。
(西陵中二年生)
松 川 実 矢
両目では透明片目にぼんやりと我が視野に立つ鼻の側面(ぬば玉) こういうシリーズが気に入っていて、今回もためしてみると、本当にこの通りで、おもしろいなーと思ってやっていました。 また、おもしろいのが出てくるのを楽しみにしています。
私もいろいろ試してみたいなと思います。 (西陵中二年生)
安 樂 崇 志
太陽も地球も回るエネルギーその一部にて人生きて死ぬ(ぬば玉) 人間はその一生を懸命に生きようとしているけれど、 何十億年も生き続けて、 そのエネルギーを一瞬たりとも止めなかった太陽や地球やその他の星々から見れば人の命はとても短いものだ。
地球の一生からは一つの粒にも見えないけれど、 見えないくらいの無数の粒があるから、地球が成り立っているのだと思う。見えないからいい加減に生きるのではなく、見えないからその小さなエネルギーを全て使い果たして死ぬのが本能だと思う。
僕は今あるエネルギーを存分に使っていきたい。 (西陵中二年生)
亀 田 春 菜
スーパーに籠もて巡る新鮮な死が飾られて並ぶ静けさ(ぬば玉)
私はたまにスーパーに行ったりします。その時は、いつもスーパーはにぎやかで、「活気が溢れているなぁ」と思います。 でも、この歌を読むと、歌でも言っているような静けさを感じます。 「新鮮な死」と言うように、 スーパーで並んでいる魚や肉は、みんな人間が殺したりして得たものなのです。そのことを考えると、この活気はいろんな動物たちの死から成り立っている、と思いました。(西陵中二年生)
村 上 香 織
暖かい御飯のやわらかな匂い一日の命いのちをつなぐ(ぬば玉)
この歌を読んで、ぐうーっとお腹がすいてきた。部活から帰ってお腹が減ってたまらない時、 炊き立ての温かいご飯の匂いがすると、いっそうたまらなくお腹がすく。 やっぱり御飯の匂いは、人間の食欲をそそるようだ。 こういう意味では命をつないでいるのかもしれない。 私はお腹が減ってたまらない時に匂う温かい御飯の匂いが大好きです。 (西陵中二年生)
桐 山 浩 一
人のため食べられるため生きている動植物は何思うことなく(ぬば玉)
いつも何げなく食べているご飯も、もともと命があるものだ。動物にしても植物にしても、この世に生まれたのならば、一生懸命に生きたかった筈だろう。人に食べられるものたちのことを考え、そのことを人は、感謝しなければならない。今、日本では、食べ物がたくさんあり過ぎて、捨てている物もあるという。そんな無駄なことをせず、食べられるために死んでいった動植物の命を最大限に活用しなければいけないと思う。(西陵中二年生)
関 麻 菜 美
一斉に蝉鳴く朝の始まりに我が裡流れる血も騒ぎゆく(ぬば玉)
私はこの歌を読んだ時、今年の夏を思い出しました。 朝、親の声で目が覚めるのではなく、蝉の声で目が覚めていました。 最初は、うさるいなぁとずっと思っていました。でも、だんだん慣れてくると、うるさいと思わなくなり、「さあ今日一日がんばるぞ!」と思うようになりました。蝉の声って不思議だなあと思いました。いつからか私は蝉の声に『感謝』という言葉を抱いていたのか…と思った今年の夏でした。 (西陵中二年生)
小 樋 山 雅 子
人のため食べられるため生きている動植物は何思うことなく(ぬば玉) 食べられるため、 つまり食用の動植物のことなのでしょうか?彼らは自分がいつかは殺されて食べられる運命と知っているのでしょうか。でも、知っているにしろ、知らないにしろ、食べられるのなら、おいしいと思って食べてほしいと思います。食べられるために死んだのに、食べられずに死ぬなんて、人においしいと思ってもらえず捨てられるなんてつらいことだと思います。だって、私は何のために死んだの?って思ってしまうでしょう。
私が料理をなるべく残さないようにしているのは、これが原因の一つです。食べたものは大切にしなくてはいけないと思うんです。(西陵中二年生)
田 那 村 文 香
プチトマト口にて広がる一瞬の甘き破壊を楽しみて食ぶ(ぬば玉) プチトマトは、 ちっちゃいのにその実はものすごく甘くておいしい。 一口の幸せって感じだね。 (西陵中一年生)
中学生一首評について(『ぬば玉』から)
流氷記に連載される中学生の文章を、毎号楽しみながら感動しています。しかし、二十八号にもなって、甘いことばかりではいけないかと、ちょっと辛いことも書いているのかも知れません。
「解釈と鑑賞』の文として読めば、やはり×をつけるべきものや、鑑賞としては作者の意図とは違っているものがありますが、 それはそれとして作品の広がりを感じさせる感性の柔らかな批評に感心させられるものもあります。五二頁の高田さんの取り上げた歌は、読み方も簡単ではないのでは。 「街中に」は「マチジュウに」か「マチナカに」か。第三句の「生のままの」は「キのままの」か「ナマのままの」か「セイのままの」か。 この歌では、今日までここに咲き続けて来たノイバラの生命力に、作者は感動しているのですが、ノイバラだけでなくタンポポにも目を向け、 人間の自然に対する在り方にまで考えの及んだ 「ノイバラやタンポポが何げなくある風景は、失いたくない大事なものだと思いました」 という評は一見、主題と外れているみたいですが、実に的確な批評となっています。
同じ五二頁で二瓶さんが 「死の異世界を少し身近に感じた時の人間の気持ちがよく伝わってくる」と、 「死の異世界を少し身近に感じた」という意表をつく言葉で、びっくりさせられます。 或る人が死んだと聞いた時、それは冗談か人違いかと思ったが、実際にお通夜や告別式に多くの人と参列して、ああ、本当に亡くなったんだなあ、と思った――というのが作者の歌です。その死の世界が現実の世界の中に、人が群れることで許容されている、その様子を 「少し身近に」と感じる感性に驚嘆してしまいます。
また、 六一頁の栗野君、六二頁の木村さんの一首評は、ユーモアたっぷりで、見事に歌の核心をとらえています。
ただ、最後に一つ、 川添英一の歌は魔物です。特に授業を受けている生徒の皆さんは、 先生の歌という考えを捨てて見ることが大切だと思います。 皆さんが短歌を好きになってくれることを願っています。