風 来 坊
目つむれば光景風景情景の明日香の花の束の間が見ゆ(明日香) ヌカキビ風に揺ら揺れ立つ人間欲望を記念する石舞台を視野に入れ久しぶりに鎮魂のふるさとを訪れた作者は光景風景情景の終末のイメージに滅びるものと甦る哀愁を秘めてみつめたもろさはかなさ。ここを吹く風は哭き、骨の蕊まで痛む寂寞と孤独。作者を虜にして離さない流転変貌。大滝の水脈のごとく崩れゆく萩、女官の微笑に似るチョンギスなど花の束に目をとめる、野に光あり。ふと見れば野に一片の光あり我が命かとしばらくをいる
このひとつのことを伝言するため明日香を訪れた作者の避けて通れない万葉集への魂が見え隠れ透しみられる。 (寺尾 勇。美学者。奈良教育大学名誉教授。 『飛鳥歴史散歩』 『大和古寺幻想』など)
藤 本 義 一
果てしなく遠き星よりリモコンで操作されゆくヒトの群れあり(明日香)網走、弟子屈、釧路、東京、福井を歩いて、今自宅に帰って来たところです。紅葉、特にナナカマドの鮮烈な朱がまだ残像のようにある反面、東京のホテルの窓から見下ろした人々の往来もまた残っていて、この一首がこの北海道と東京の街のオーバーラップに繋がります。ただ救いは冬の到来の中で肉体労働をしながら創作に専念していたリストラ解雇の元サラリーマン五十二歳でした。
限りある生命を燃し
限りなき道を歩む人あり
(作 家)
三 浦 光 世
人の死を聞けど体調悪き日は己が命にこだわりて過ぐ(明日香)
「人の死」の「死」が誰かを問う必要はない。 特定の人を具体的に挙げずに「人の死」と表現したのはさすがと思う。 いわば要約ということになるかも知れないが、そこにこの一首の眼目がある。人間は所詮哀しい存在である。 僅かな体の痛みにも他者を思いやることができなくなる。そうした弱い人間性を描き出した一首。
(作 家。 『三浦綾子作品撰集』)
加 藤 多 一
ゴミのごと死はあるべしと枯葉散るしばらく風となりて我がいる(明日香) 吹きよせられる枯葉に死を見る――というのは概念化された死のイメージというよりも映像化された死、という感じ。それに距離をおいて私は風になっている。ゴミのごとき死、というのは短歌としては乱暴な形象化だけど、
率直明快ありふれた美化を嫌うこの作者らしい、好きな作品です。 読み手の私は、やはり自分の死とその意味を考えてしまう。 枯れ葉だって虫の産室になり虫たちの食糧になり、土になって地球の存在にひとすじにつながる。わしは、やはり葬儀も墓も不要にしよう。
(児童文学者『馬を洗って』。オホーツク文学館長)
近 藤 英 男
石舞台遠くに見えてしばらくはヌカキビ風に揺ら揺れて立つ(明日香) 先づ前号の訂正、「意地悪」は「意気地(いきじ)」と九鬼先生が大笑されているみたい。 今号は奥様の父上をいたむかずかずの歌で流氷記の歌境と共響する。「石舞台遠くに見えてしばらくはヌカキビ風に揺ら揺れて立つ」の明日香の歌も、幽界にのぼられた父上への献詠献花。父母、五人の兄弟全部送った私もしばしばこの地に訪れて偲んでいます。
寺尾先生も大好きなこの明日香は古代大和の原風景。天に浮くまで鮮やかに飛鳥野は彼岸花咲く血を辿るごと とつづき、金木犀の香が亡き父上の部屋に香り立って流氷のような天空に舞い上がってまいります。
合掌 (奈良教育大学名誉教授。 体育学。『スポーツ曼陀羅』)
島 田 陽 子
それぞれに敵も味方も正しくて神の名をもて争いをする(明日香) 九月十一日以後、表現者としてはあの事件を何時か、何らかの形で取り上げないわけにはいかなくなりました。 私が詩でそれを書けたのは、ある雑誌に投稿する時、十月十七日でした。
これから何回となく自分の内側を見つめながら触れていくことでしょう。 その際によぎるのは、あいまいで、おおらかな多神教というべき日本人と、一神教の国の人たちとの違いです。
何ゆえにかく神の名を使うのか貿易センタービル崩れゆくにも、その不可解さがうたわれています。 その疑問から私たちは足を踏み出すしかないと共感しています。
(詩人。『島田陽子詩集』 『金子みすゞへの旅』)
上 山 好 庸
飛鳥川多武峰より下りて来る少女に赤き花ひろがりぬ(明日香)
ふさ手おり多武の山霧繁みかも…(万葉巻九、1704) と浮かんでくる細川谷は急峻な川が一気に石舞台まで落ちている。 冬野川と呼ばれる飛鳥川の支流は流域の棚田を潤し、 豊饒の秋にはやさしい曲線を描く棚田の土手を、 曼珠沙華の紅が染める。 彼岸の数日間、明日香の里は緋衣の紅が染める。少女に赤き花ひろがりぬ、印象に残りました。炎天のヨモギの匂い昇り来る線路よ遠き電車は歪む(ぬば玉)何故かしら幼い頃の記憶が蘇りました。焼けた線路に手をかざしたことがあるように思います。 家を離れ夏の一と月間親戚の家で暮らしたことがあります。 三歳か四歳の記憶は線路の向こうへ続いていて、 歪む電車は確か近づいて来たのだと思います。むせるようなヨモギの匂いに縛られて、動けなくなったのか、それとも眠っていたのか、記憶は断片的なのに執拗で―。そんなことを思い起こさせる歌でした。 (写真家。『万葉明日香路』)
中 島 和 子
多分我が木魚のような頭蓋骨カラッポカラッポ快く鳴る(明日香) 今号には、「死」 という文字がたくさんありました。 さまざまな 「死」 を詠んだ歌のなかで、この一首の突き抜けた明るさに、胸がふっと軽くなりました。私の頭蓋骨も、木管楽器のような乾いた音で鳴ることでしょう。カラッポ
カラッポ スッカラカーンと。
(詩人。童話作家。『くいしんぼかいじゅうもいもい』)
も り ・ け ん
それぞれに敵も味方も正しくて神の名をもて争いをする(明日香) テロはどんないい分けをしても許されるものではありません。
神の名を語り自らの行為を正当化することも、 テロに対して武力でたちむかうことも許されません。神は、右の頬を叩かれたら左を出しなさいといわれたはずです。武力によって立ち向った米に、とにかく応援ありきで追従した我が国の態度にも問題があると思います。罪なき人が大ぜい亡くなり、ドロ沼化する中で明日どうなるか?その指針を示すリーダーが必要です。 民のために民のことを考える、そんなリーダーが。我が国には今、見当りません。
(童話・童話作家)
吉 田 富 士 男
雨の後にわかに浮かびし水溜まりアオスジアゲハ揺れつつ止まる(明日香)夏の朝早くスコールのような雨が降った後、雑木林の小道に流れ出た砂はまるで掃き清めたようで美しい。 草木の葉も雨を吸って生き生きとし、未だ乾かぬ水滴が太陽に輝いて、虹のごとくに煌めいている。清純だが夏独特の暑さの中に、エメラルドグリーンの帯を持ったアオスジアゲハが砂の上で吸水を始める。
はじめは一頭だが次第に数が増えて、 羽を震わせながら夢中になっている様は、 俗世間の垢で汚れた人間が踏み込んではいけないような光景である。 フィールドに足繁く通ってもなかなか出会えぬ一齣である。 (ウィークエンド・ナチュラリスト。
『撮影術入門〜蝶の棲む世界』 『花の二十四節気』)
清 水 敦
それぞれに敵も味方も正しくて神の名をもて争いをする(明日香) 何ともやり切れないこの頃である。自由も民主主義も正義も音を立てて崩れ落ちていく。崩壊する大都市の壮大なビル、幼い姉が弟をおぶり瓦礫の廃墟に佇む姿、所詮現代文明は砂上の楼閣なのかもしれない。(『私の流氷』
同人。 画 家。[網走湖シリーズ] 清水敦油彩展 11月3日〜25日 網走湖荘ロビーギャラリー)
岩 田 一 政
槍のごと雌日芝雄日芝咲き群るる丘に魔神のごと我が踏みて入る(明日香) 網走の大東館にて合気武道に励んでおられたことを思い出します。 槍ぶすまを恐れなかった武田惣角のごとき心持ちで野に入る姿が浮かんできます。鞍馬山には、魔王が降りたとの伝えがあります。そこが武術の修行所となったことは興味深い。鬼一法眼から源義経へと伝承される兵法書も鞍馬山に所蔵されていた。「魔神の我が」という表現に、鞍馬の魔王を連想した。姿も見せず宇宙を飛び回る摩利支天は、武の原点と思います。
(武道研究家。 内閣府政策統括官。 元東大教授)
宍 戸 恭 一
思い詰めて夏の真昼の雑踏のなか透明に人見えて過ぐ(明日香)
この一首から思わずあのビュッフェの絵が浮かびました。 自分の妻以外の肉体は、すべて線にしか見えなかったビュッフェの「思い詰め」。そして、現代社会では、人間も物もすべてが虚偽のかたまりに見えてしまうバルザック的な白昼の恐怖へと、私の中の「思い詰め」は、大きくふくらんで行きます。大変、刺戟的な一首です。
(三好十郎研究者。京都三月書房店主)
リカルド・オサム・ウエキ
迷うなら先ず夏木立眠りより覚めれば森を渡る風あり(明日香)
次々と形と色とを変えながら光と風とを抱くプラタナス(明日香) 不思議なものです。この二首を選んだ後、明日香のうたを読んでいると、 忽然と立ち上がってくる時空間を越えた空間が見えてきました。「光と風」という字句に刺激されたからでしょう。中国東北地方から蒙古への旅の途中で、
遥か彼方の地平線すれすれに棚引く雲を土台にして、天空高くもくもくと盛り上がってゆく積乱雲が真っ白に耀いて、思わず目を細めたのですが、成層圏を渡る風によってその形が刻々と変わる様子に、
しばらく見惚れたものでした。ブラジルに来てアマゾン河の水量に圧倒されたときも、大河は流れるものではなく、 膨大な量感で大地を移動してゆくものなのだと思いました。
振り返るとジャングルの樹々のあいだを潜り抜けてゆく風が、葉の重なりで濾過されてくる陽光によって、いろいろな色の縞模様を織り成していました。 そして日本に棲んでいたとき、明日香の山之辺の道を逍遥しながら眺めた奈良盆地が、古代の香りを保ったまま悠久の広がりを見せ、田原本辺りの通り道が、雲が押し詰まってくる様子でわかるのです。
こんな原初のままの光と風が、脳裡でぱたんぱたんと、走馬灯か写し絵のように様変わりすると、私はもう感動して泣いてしまいます。(作家『白い炎』ブラジル在住)
林 哲 夫
天に浮くまで鮮やかに飛鳥野は彼岸花咲く血を辿るごと(明日香)子どもの頃、彼岸花を摘んで遊んだものだが、その汁が苦いのには閉口した覚えがある。畦に沿って群居していた。 最近になって、彼岸花には、 その球根の毒によって野ネズミを防ぐ役割があることを知った。血の色の風景が少しちがって見えるようになった。(画家)
中 平 ま み
暖かい御飯のやわらかな匂い一日の命いのちをつなぐ(ぬば玉)
ご飯の炊ける匂いというものは本当にいいものです。 私は肉なんか食べず、お野菜やお豆腐だけ食べていかれたら、どんなにいいかと思います。無用な殺生はするべきじゃない。犬たち猫たちが人間と共生出来る世の中にするまで、 近い将来当選するまでやります。応援して下さい。 (作家。『ブラックシープ−中平康伝』)
川 口 玄
次々に形と色とを変えながら光と風とを抱くプラタナス(明日香) プラタナスの木は、 雄々しくて豊かでそれでいて微風にも葉をそよがせる瀟洒な樹木で、 小生にとっては何故か西洋―ヨーロッパを連想させるものです。多くの画家がプラタナスを描いているので、いざ自分でも描いてみるとなかなか難しい樹木の一つです。それは大きさや全体の形の割りには、
葉が薄くて光と風を敏感に反映する、風情のある木だからだと思います。小生の大好きな木の一つです。 (『大阪春秋』編集長)
神 野 茂 樹
骨となり死を確かめた筈なのに訪ねてきそうな義父待っている(明日香)先日、ある席で、死後、魂はあるや否やの話になりました。 「何か知らないけど、頭のこの辺に気配を感じるの」 と、そのご婦人はおっしゃってました。そのうち気配がするかもしれませんネ。(『大阪春秋』編集委員)
堀 本 吟
スーパーに籠もて巡る新鮮な死が飾られて並ぶ静けさ(ぬば玉) 魚が好きである。食べるのが…。泳いでいる魚と、食卓に料理されて並ぶ魚について、それぞれ別々の感受性を働かせる、魚を食べる、ということは、 実は魚の死を招くことであり、スーパーなどでその屍体を買うことなんだと、この歌を読んで気がついた。当たり前になっていた殺戮。生きのいい新鮮な臭いを立てて、たった今まで生きていたような。 次の歌も次の歌も「死」を買うことのできる人間の豊かさへの直視がある。金子みすずに「お魚はかわいそう。なんにも悪いことしていないのに食べられる…」という詩がある。でも本当に可哀想なのだろうか?お魚は。 (俳 人)
佐 藤 昌 明
飛鳥川多武峰より下りて来る少女に赤き花ひろがりぬ(明日香)
私が今夢中になって読んでいるのは田辺聖子の『小倉百人一首』。万葉も古今も、学生時代、受験のための斜め読みだけで、 理解度ゼロに限りなく近い私には、 一首一首の古代歌人たちの人となりや浮き沈みが分かってとても面白い。 川添さんの明日香行の歌と雑記を読ませてもらい、私の今の関心と、何かしらピッタリ符号しているのが嬉しい。 十一月末出掛ける私どもの今年の車旅行のメイーンは、明日香、藤原、平城京、そして古代の歌人たちが好んだ紀伊路に決定。 『飛鳥川』『多武峰』も直接心行くまで見て感動を味わいたい。 (作家。オホーツク秘話『北に生きて』。網走在)
井 上 芳 枝
夏に枝を切らなば金木犀の花たわわに実りの香に満ちてゆく(明日香) キンモクセイの芳香は懐かしさを運んでくれます。 わが家の庭の両端に、念願だったキンモクセイを植えて早や十四年。見上げるほどに生長しました。ダイダイ色の蕾がぎっしりと群がり、今にもはちきれそうで「たわわに実りの香に満ちてゆく」の時期が大好きです。過年訪れた天下の名勝、桂林の果てしなく広がる山水美とともに、市中に十万本あまりも植えられている桂林の花、モクセイが頭いっぱいに広がってくるのです。ふつう木犀と書きますが、別の漢名に「桂」があるそうです。桂林の桂というのは、木犀のことだと知りました。さわやかな秋空のもと、馥郁とした豪華な芳香が漂ってくるような、すてきな歌です。 (母校北九州大蔵中学校恩師)
弦 巻 宏 史
亡くなりし義父に似し人見るごとに語りかけたき胸詰まりゆく(明日香)なつかしく、とりわけ愛しき人の死は、幾度も心に確かめつつも、「似し人」を見かけたときの胸の痛さは、ぼくには表しようがない。胸詰まらせたまま時が止まる。そしてこの己れさえも忘れようとしていたのではないかと自省し生き居るものの不遜と悲しさがつのる。ぼくは昨年から今月まで、実姉、友人、近所の方がたなど多くのかけがえのない人びとを亡くした。貴君の義父を詠んだ歌は、私にその都度、切々たる想いを甦らせた。《生》と同様に《死》も大きく重い。敢えて言わせて頂ければ「詰まりゆく」は、適切なのでしょうか。ふと思いました。 (元網走二中教諭。『オホーツク街道』では網走で司馬遼太郎を案内、ゲンダーヌや中川イセのことを紹介。)
小 川 輝 道
義父死して二十日この頃さめざめと妻泣く顔を見ること多し(明日香) 八月以来、作者の義父の死を詠う短歌には、心沁みる作品が多い。共に暮らしてきた人への 「親しみ・はかなく尽きる人への不安・痛惜」への思いが、悲しみや哀感の深い世界をそれらの作品が表現している。悲しみに沈む妻の姿に作者の共感とやさしさを表し、微妙な心の動きを描きとった川添さんの得難い境地を示してくれた。「昏睡の義父に関わる一本の電話のベルか二度聞きて取る」 「義父死して一ト月九月草むらの鈴虫耳へ耳へとひびく」店頭に並ぶ鮮魚の死や、 ころがるゴキブリを描くのとは異なる哀愁の深さが詩情を濃くしている。 (元網走二中教諭)
柴 橋 菜 摘
それぞれに敵も味方も正しくて神の名をもて争いをする(明日香) この歌に浮かんだ川柳がある。 『 国境を知らぬ草の実こぼれ合ひ』川柳中興の祖、井上剣花坊の夫人、井上信子の句である。愚かな戦を繰り返す人間の足元で咲く草花は、国の違い、思想の違いなど関係なく、その実ははじけ花を咲かせる。
一体、いつになれば地球上から争いが無くなるのか。人間に課された性(さが)なのか、神に試されているのか。そして人は、神の名を勝手拝借する。 はがゆさと切なさの滲む一首。同感である。
(シナリオ作家。川柳作家)
山 川 順 子
幽霊になっても逢いに来てほしい娘は天の義父慕うらし(明日香) 私が小学生の時は幽霊、お化けが大嫌いだった。お盆が近づくとテレビで怪奇現象等を見て不思議に思ったものだ。 今は私も祖母に逢って聞きたい事がある。
お化けだろうが何であれ逢いたい人もいる。 死を受け入れ笑って話せるようになっても悲しみは変わらない。娘さんは本当におじいちゃんを慕っていたのでしょう。この素直な心、優しい気持ちを大切にしてほしい。(『私の流氷』同人)
亀 口 公 一
義父死してひと月ようやくしみじみと心震えて秋の風吹く(明日香)
私も十年前、同じような思いに浸りました。私の岳父も奥の深い山のような人で、 やっと登ってもまたその向こうに聳えたっていました。 岳父の死に対する想いは、喜怒哀楽の情動とはまた別の、しみじみとしたものでした。 おそらく深いところの情動が知的に加工され、洗練され、情緒的になったものでしょう。 ところで川添さんは同郷のよしみでしが、今月、三十九年ぶりに小学校の同窓会に出席し、初めての短歌を披露しました。―大蔵(ふるさと)の時の川を溯り幼き日々にしばし還らん― (社会福祉施設長。中高時代同期生)
前 川 佐 重 郎
道の外れ薮の繁りにトカゲいていそいそジュラ紀に逃げてしまえり(明日香) いい作品たくさんありましたが、 この一首にしました。 ジュラ紀とトカゲは卓抜な飛躍ではありませんが、 一首全体にユーモラスもあり選びました。
(『日本歌人』主宰)
天 野 律 子
骨になるまで確かめた筈なのに義父の訪ねてきそうな午前(明日香)
同じ趣向の一首がある。骨となり死を確かめた筈なのに訪ねてきそうな義父待っている上句は殆ど同じであるが、下句が少し異なる。一方は死者が訪ねてくるのを待っていると言い、他方は訪ねてきそうな《午前》と具体的な時刻を言っている。順からみると、午前と具体的な把握がなされている方が後だ。 作者は死者に会い得たのだろうか。死者が訪れた折に、それと感知することができるであろうか。死者とまみえる為に必要なものが、言葉=言霊であると川添氏は識っているはずだ。勿論。死者からのことづてをこそ、今、歌わねば。 (『黒曜座』『薔薇都市』同人)
利 井 聡 子
思い詰めて夏の真昼の雑踏のなか透明に人見えて過ぐ(明日香)
ギラギラした真夏の光は、 地上のものをそして人間の苦悩や思考までも吸いつくす。人々は只その透明のなかを過ぎてゆく。この無気質な動きと、何かを思い詰めている作者との対比によって、初句の「思い詰めて」が更に深く作者の出口のない心の闇にまで読者を誘う。好きな一首である。彼の作歌へのエネルギーは、 今や三度の食事を摂るように、又、吸う息吐く息と同質のものとなってきたように思う。それは、社会的な評価など問題にしていない強さから得たものであろう。本物の純粋さと言いたい。 (『飛聲』同人。)
新 井 瑠 美
道の外れ薮の茂りにトカゲいていそいそジュラ紀に逃げてしまえり(明日香)地続きに、一億五千万年前のジュラ紀を置いた発想を面白いと思った。 蜥蜴は爬虫類だから、見ようによっては、恐竜のイグアノドンにも行き着くかも知れない。
進化しながら生きのびたものに、作者の目は温かく注がれる。 〈いそいそ〉が、気になるので、他の言い方が出来なかったか。 ご多忙の中から、『流氷記』を編まれて二九号、作者は、どれだけのものを得られたのだろう。
毎号のおびただしい作品の中から、 ご自分の指針を見つけられたのだろうか。三〇号には、その答えをお聞かせ頂けたらと思っている。
(『椎の木』同人)
黒 崎 由 起 子
見たこともない道眠りの中にある辿れば赤い橋に来ている(明日香)
知らない土地に立つとなぜか心が安らぐのは、 そこで見聞きするものがみな、 生まれて初めて出逢ったかのような輝きを持つからだろうか。空は「そ・ら」、人は「ひ・と」、風は「か・ぜ」として広がり、自分自身さえ他人の顔をしはじめる。 作者の眠りの中に現れる道もまた、こんな不思議な気配がしていたのだろう。モノクロのフィルムを見るような風景の中に、一点、橋の赤が冴える。 橋の先は見えない。渡らないほうがよさそう。 でも私なら、踏みとどまる男の背中をそっと押すかも… (『長風』同人)
長 岡 千 尋
何ゆえにかく神の名を使うのか貿易センタービル崩れゆく(明日香)
現代の短歌はもつと古典的になる必要があると思ふ。 ―アメリカの同時テロとアフガンへの進攻を見てゐると、 私はいよいよ近代主義といふものを憎悪するやうになつた。私は今や心の鎖国者、現実の隠遁者である。 短歌は、古今、新古今の情調とことばに帰るべきである。 「雅(みやび)が敵を討つ」と言ったのは蓮田善明だが、源氏物語の精神こそ今や私たち日本人の精神であろう。 一神教の悪は他者を排撃して止まないところにある。 私は重ねて近代を憎む者であるから、 三百年にわたつて侵略をうけたアジアの汎神世界を泣くのである。(『日本歌人』同人。『かむとき』編集人。『大和文学散歩』。談山神社神主) 川 田 一 路
目つむれば脳裡に銀河まばたきの間にまに人は生き急ぐらし(明日香) 私たちは宇宙すら己のものででもあるかのような錯覚にとらわれながら日頃生きているが、 宇宙から比べれば私たちの命の時間なんてなんと短いものであろうか。 その短い人生を小さな欲望をとげるために齷齪と生き急いで何になるというのであろうか。 たまには現実から目をそらしゆっくりと自分の宇宙と対話してみる必要があるのではなかろうか…ということを改めて気づかせてくれる素晴らしい一首であります。 (『山繭』同人)
里 見 純 世
やめたいもやめたくないも本音にて流氷記わが身を削りつつ(明日香) 人それぞれの見方や感じ方があろうと思いますが、 私は今回の流氷記の歌の中から此の一首に注目しました。 先生の本音が此の一首の中に凝縮されているように思ったからです。心底、流氷記を愛するが故に、
毎回毎回身を削るような思いをしてまで作り続けてこられているのだと感嘆しています。 とても先生の真似など出来るものではありません。此の歌、先生の本音が率直に詠まれていますので、下手な短評は遠慮させていただきます。次の歌の率直さにも惹かれました。リストラの友の葉書を見て居れば早く着替えてよと妻が言う (『新墾』『潮音』同人。網走歌人会元会長)
葛 西 操
同じ人類の起こしし自傷にて貿易センタービル姿なし(明日香)
なんという残虐な行為でしょう。 同じ人間としてこのような事は許されませんね。 テロという暴力で国家権力をにぎることは絶対に許されませんね。国は遠くにありますが、どこの国であろうと本当に恐ろしいことですね。一日も早く治まってくれることを願ってやみません。おじいちゃんおばあちゃんにと貝殻を拾う娘に波やわらかし(ぬば玉)娘さんは心優しい方ですね。御二方の優しい心が徐々にお孫さんに伝わっているのですね。 (網走歌人会)
南 部 千 代
それぞれに敵も味方も正しくて神の名をもて争いをする(明日香) 先のニューヨークのツィンズ・ビルのテロにはことばも出ず、生の映像に深夜まで、釘づけとなりました。戦うそれぞれが正しいと主張しているわけですが、それはあくまでも為政者のもので、零細な民の多くはひと握りの糧を求めて最低限度で生きていることを思うとやりきれませんね。
蘇我馬子も一族の権力の長として生きていたことで必ずしも後世の歴史が正しい評価をしているとは言えないでしょうね。 当時の狼がエノコロ草となって揺れているこの日本のこれからはどうなるかと危惧するばかりです。流氷記ゆっくりとお続け下さいませ。
(網走歌人会)
田 中 栄
四十前に死ぬこそよけれと兼好はつぶやきながら余生過ごしき(明日香)兼好の『徒然草』第七段には次の文章がある。「命長ければ辱(はじ)多し。長くとも、四十(よそじ)にたらぬほどにて死なんこそ、めやすかるべかれ」と言っている。
兼好の死の齢は定かではないが、四十を過ぎて約三十年生きたことはたしかである。 長生きすることによって、内的充実をともなわず、欲望を肥大させるみにくさを批判している。作者も夭折の齢を過ぎ四十も過ぎて、余生ともいえる年齢に懸かろうとしているのか。
この二十九号には義父の死をとおして死生観を歌った歌が多く惹かれるところがある。(『塔』選者)
前 田 道 夫
骨となり死を確かめた筈なのに訪ねてきそうな義父待っている(明日香)火葬してはっきりと確かめた肉体の死、 肉体は消えても故人への想いはいつ迄も残っているものである。 ましてや最愛の人となれば、そんなにあっさりと忘れられるものではない。恐らく自身が死ぬまで胸の底に残っていて、
折に触れ思い出されてくるものであろう。骨になるまで確かめた筈なのに義父の訪ねてきそうな午前が後にあるが、上句はこの方があっさりしていて響いてくるものがあると感じられる。
その他にも御義父様を詠われた作品がありますが、いずれも哀切の思いに胸打たれました。(『塔』同人)
榎 本 久 一
踏切に待ちつつ今まで行き過ぎた時や心をご破算にする(明日香) 踏切で待たされている時の感覚を一歩深くした処でとらえていて佳作だと思う。 踏切は現実の踏切ともう一つスタート地点にもなっているだろう。そこにあらためている自分を感じながら、行き過ぎたの意味に過去と過剰をダブらせて心あらためようとしている態度に作者らしさがある。
一つの気負いを感じるのは深読みになるだろうか。草いきれの向こうに確かに幼年期手をつながれていし僕がいるも好感を持って読んだ一首だ。 (『塔』同人)
東 口 誠
カタバミより出でし小さき韮の花ヤマトシジミが束の間止まる(明日香)カタバミは生命力の強い草で野菜畠では駆除に苦しまなければならない。 この草を食べて成長するのがヤマトシジミの幼虫である。こんなことを知らなくてもこの作品は面白いが、知っていると一層良い歌だという感が深くなる。夏の終わりごろ、畠に白い韮の花が咲いている風情は何とも言えず、心に沁みわたる。その花に小さな蜆蝶の止まった様子全体が可憐だ。
じっとしている蝶ではないから、飛び立っては別の花に止まり、また戻ってくる動作をくり返す。その流れの中の一瞬をとらえた。確かな目と把握力を示した作品である。
(『塔』 同人)
三 谷 美 代 子
草いきれの向こう確かに幼年期手をつながれていし僕がいる(明日香) 嗅覚とか触覚によって遠い記憶を蘇らせるというのは、 誰にも経験のあることだと思う。 強い夏陽の射す草の茂みをかき分けかき分けして、むっとする熱気に包まれながら歩いていた記憶。作者が手をつながれていた相手は誰だったのだろう。
いま作者は草いきれの中に立って杳い日を思っている。 追体験出来るほのぼのした一首である。 (『塔』 同人)
小 石 薫
リストラの友の葉書を見て居れば早く着替えてよと妻がいう(明日香) 友からの葉書、 とありますから読むのにそんなに長い時間を必要としない筈です。 たぶん、親しい友からの、そして簡単な文章で記されていたと思います。
その葉書で多くの事を察することができたのでしょう。 またそうした理解が可能な間柄だったのではないでしょうか。唐突とも思える下句がその場の空気、心のゆらぎなど語るに充分です。草の名を知らばしばしばチカラシバ握るともなく親しみて過ぐ好感をもちました。 (『塔』『五〇番地』同人)
遠 藤 正 雄
リストラの友の葉書を見て居れば早く着替えてよと妻が言う(明日香) 上句にリストラという重い言葉を置き下句へつなげる軽妙な一首の構成に惹かれた。深刻で大きな社会問題を、一枚の葉書を介して、具体的に、ユーモラスに、生活の一端を描き出している。上句から下句への転換も巧みである。果てしなく遠き星よりリモコンで操作されゆくヒトの群れあり
リモコンでUFOを誘導できたら…夢だから楽しい。が、神秘な世界に科学が入り過ぎると夢は奪われてゆく。今も地球上ではヒトとヒトとが争っている。星と星とが争うことにでもなれば、テロも炭疽も昔話か一些事か。さて人類の行き先は?
鬼 頭 昭 二
待つ人と通過する人踏切を過ぐたびしばし目を合わせつつ(明日香)
一つの状況下にあっても人によってアクションは異なる。 そして自分と異なる行動をとる人をとがめたり、 羨望の目で見たりする。作者はこれに続く作品から推測すれば、待つ人の側にいるようである。表現を工夫して曖昧なところを整理してほしい。(五〇番地)
塩 谷 い さ む
それぞれに敵も味方も正しくて神の名をもて争いをする(明日香) その通りである。争い事は一方的に正しいということはない。両方に必ず言い分はあるその言い分を神の名を借りて一方は聖戦と言い、片方は正義のためだと言う。まことにもって悲しいことである。 先の太平洋戦争もアジア民族のためと言って東亜民族の繁栄の為の『聖戦』と言って大勢の人が死んでいったのだ。 勝っても負けても、戦争は悲惨である。「喧嘩両成敗」の何かいい方法はないものだろうか?弱者たちは毎日毎日をこんなに真剣に真面目に働いているのに…。今回も流氷記(明日香)の九十六首を読みながら『平和』を願う。
(『塔』同人。)
大 橋 国 子
待つ人と通過する人踏切を過ぐたびしばし目を合わせつつ(明日香)
どんな出会いも、それぞれ何かの縁を持っているのでしょうか?踏切の往来というそんな刹那の出来事も何かの約束事があるのかもしれませんね。すぐに忘れてしまう瞬間なのに…何か特別なことではなく、日常からも歌が出来ること、その観察に感心しました。私自身も細やかな観察眼を持ちたいものだと思いました。
(北摂短歌会)
山 本 勉
幽霊になっても逢いに来てほしい娘は天の義父慕うらし(明日香) 私の選ぶ一首、まさにこれ。迷わず選びました。 ずきんと胸に突き刺さりました。この一首を読んだ時「南無女房乳を飲ませに化けて来い」という笑えない古川柳が頭をかすめました。何と深刻な句でしょう。川添さんもよく似た心境で詠まれたように思います。お嬢ちゃんには一度会っていますので、
一層涙を誘います。 おじいちゃんおばあちゃんにと貝殻を拾う優しさ。いいおじいちゃんだったのでしょう。すっかりおじいちゃんっ子のお嬢ちゃんにとって、おじいちゃんの死という現実は余りにも厳しい体験であったと思います。
「幽霊になってでも…」と「乳を飲ませに…」とが頭の中で一つになって叫び続けています。 ただ一言「義父慕うらし」は作者の視点でありお嬢ちゃんにとっては祖父ですから「祖父」としてはいかがでしょうか。
事情を知らない読者は「継父」と読んでしまいます。生意気言ってすみません。お義父さまのご冥福とお嬢ちゃんの健やかな成長をお祈り致します。
(北摂短歌会)
山 路 義 雄
土となり塵となりして蝉の音絶えて八月終わりとなりぬ(明日香) 『万物は死ねば土に還る』の言葉の通り、人間も蝉も死ねばみな土に還るのである。 喧騒の夏も蝉の鳴き声が止むと共に静かに過ぎ去っていった。 特に日本の夏は、八月十五日の敗戦の日を中心に、死者の鎮魂と慰霊の波が日本列島の隅々まで浸透していった。作者は夏の蝉の音に季節の移り変わりを見てとっている。そして人間の無常と儚さに思いを巡らしたことであろう。結句の「八月終わりとなりぬ」に、幾多の思い出を残した今年の夏に惜別する万感の思いが盛られて痛く胸を打った。
(北摂短歌会)
塩 谷 い さ む
神在りしこの国仏キリストも混じりて迷いのただ中にいる(渡氷原) うん、うんその通りそのとおりだと頷いている。神の国日本に入り込んで来た仏教そして長い弾圧にも堪えて浸透したキリスト教、特に二千年問題の昨年から今年にかけては本来の日本は一体何所へ行って終ったのかと思われた事が多々あった。悲しい出来事と共にかつては神国日本と言われた時代を思い出す。「二人とも自分の言いたいことだけをまくし立てつつ黙らせようとす」これも納得の出来る現代風刺のよく効いた歌である。字余りのついでに「黙らせようとする」と「る」を入れたい処だが。
(『塔』同人)
リカルド・オサム・ウエキ
神となり渡る魂みしみしと流氷泣きて禊がれてゆく(蜥蜴野) この神は、アマテラスやイエス・キリストのように人間によって捏造されたものではなく、 太陽や月と同じ自然の脅威から感覚する原始宗教の神的なものだろうと感じました。
流氷が岸を離れて流れ出すときの壮絶さは、 私も日本の北の端に旅したときに目撃しています。 かぶさってゆこうとする氷塊、圧迫されて喘ぐ氷塊、ずるく潜り抜けてゆく氷塊などを観ていると、
まるで人間社会の葛藤を観ているような感じがしました。 (作家。ブラジル在住)
小 川 輝 道
パチンコ屋ばかり豪華に人間が同じ方見て並んで座る(新緑号)
この時代の風俗を巧みに捉えている、 と愉快になった。どの街にもパチンコ店は、娯楽の殿堂めかして最大級の照明で飾ってある。「〜ばかり豪華に」と率直に、しかも言い得て妙である。そして集まる人間が「同じ方見て並んで」座っている当然の姿をその通り表現し、実にユーモアに溢れていると思う。当世風俗をこのように表現できる観察眼に感心させられた。流氷と海の境に群るる鳥生競うがに声高く鳴く 雄大な北海の静寂と群れ鳴く海鳥を捉え、北の氷海の原風景を見詰める作品である。鬼頭さんの「生を競いて」に教えられた。 (元網走二中教諭)
弦 巻 宏 史
溜まり来し汚れた心漉くように流氷原を霧渡りゆく(蜥蜴野)
いつも一つにしぼり切れずに、読み返しつつ、日が流れてきました。ごめんなさい。流氷原を渡る霧――その大きな流れに己れの心象の変化とその爽やかな広がりの実感に共感しました。「溜まり〜心」に一工夫ほしいのですが。 寂しくて嬉しくて娘はやわらかな命の重み身を寄せてくる ほほえましさと作者のよろこびが溢れている。ぼくまで嬉しくなる。 蜥蜴野の緑の土手に崩れつつタンポポ綿毛風呼びて立つ 「風呼びて」、風に向かい生き生きと歓んで飛び立つ生命たちが見える。 (元網走二中教諭。『オホーツク街道』では司馬遼太郎を案内、ゲンダーヌや中川イセのことを紹介。)
高 田 暢 子
午後七時暗くなりたる八月の半ばか風も沁みわたりくる(明日香) 毎年八月の終わりになると本当に風が涼しくなり、 夏ではこの時期が一番好きです。 今年高校に入って初めて部活をした夏休みは暑さがつらくて、 今までとはこの時期の感じ方がとても思い出深いものになり、 この歌もいろいろな事を思い出させてくれて心に残るものになりました。 (西陵中卒業生)
小 西 玲 子
刻々とただ時のみが過ぎてゆく流氷溶けて海となるまで(明日香) 時間は何かをしててもしなくても過ぎていきます。幸せな時間のときには今の時間が止まればいいのにと思うけど時が過ぎていくからこそその時その瞬間を幸せだと感じられたり嬉しいと感じられることができたり時が過ぎていくからこそまたこんな時があればいいなと感動することができると思います。
そしてとても悲しい時にもまた時間が解決してくれることがあると思います。 時間は大切にしなければいけないなあと感じました。私自身の時間を大切にするには今、一生懸命になることだと思います。(西陵卒業生)
川 野 伊 輝
一つだけ取り残された氷塊が浅瀬に骸のごとく横たう(二ツ岩)
人間の骸もいわば氷塊のようなもの。体温はなくなり冷たく固い肉塊。やがてそれは骸骨と化す。 まさに氷塊は骸そのもの。もしかしたらそういうイメージがあるから人間は死を頑なに拒否するのかもしれない。 孤独に取り残された氷塊のようになるのを恐れて死を否定するのかもしれない。否、自分はこの詩を読んで実際そう思った。 肉体はこのようになり、また、精神は無に帰すものなのだろう。恐ろしい。だから、生きよう。 (西陵中卒業生)
藤 川 彩
生徒吐き出でし校舎を見上ぐれば光りつつ雲移動していく(断片集)
流氷記を見ていて、この一首が目についた。校舎から多くの生徒が一気に出て来るところなのだろうが、上手な表現だと思った。想像してみると確かに校舎が生徒を吐き出しているようだ。 そして校舎を見上げれば、雲が移動していく…。特に何でもないことのようだけど、私はこの一首が好きだ。 顔上げぬままの生徒を気にとめて授業の声のつまりゆくなり(同) このような生徒は必ずどのクラスにもいるだろう。何か他の事を考えているのだろうか、それともただ眠いだけなのだろうかと、 気になって授業がつまってしまう。そんな授業の一コマが、この一首には表れているようで何だかほのぼのとした気持ちになった。 (西陵中三年生)
荒 木 祐 貴 子
人のため食べられるため生きている動植物は何思うことなく(ぬば玉) 自然界の中のあらゆるものは共生している。 しかし二つの存在の片一方に人間がくる場合にのみ例外が発生する。 相互に得るものがあるから共生というのだ。
家畜が人間からどんな利益を得るのであろうか。 動植物に向かって「食用」と呼ぶのは何とむごい仕打ちか。 それは必死に生きるもの達の存在価値を全て否定することである。
きれいに並べられた囲いの中に入り何の変わり映えもしない日々を生きるものたちは毎日どこかへ連れていかれる仲間を見てどう思うのか、考えてみてほしい。かく言う私は肉の脂身がまずいと捨てる人間である。
(西陵中三年生)
柏 内 絵 莉 香
暇だから書く原稿などいらないと生徒に厳しく言うことがある(麦渡風)この言葉は何回か耳にしたことがあります。 原稿を出さない人というのはよく「勉強が忙しくて書けないんです」と言って訳を説明しています。そのたんびに川添先生は「暇だから書く原稿なんていらへんからな」と言って少し注意をします。
私は、忙しい時だからこそ原稿を書くというところに何かがあるのだと思います。…と言いながら、 今何もすることがないのでこの原稿を書いているのですが…。
(西陵中三年生)
木 村 明 日 香
天才で不遇な歌人が妻にしかられて小さな外出をする(明日香)
この 「天才で不遇な歌人」とは先生のことでしょうか? 普段は「天才の歌人」の先生も、奥さんの前では「天才で不遇な歌人」になってしまうんですね。でも、こういうことは誰にでもあるのかもしれません。 例えば、普段はクールで格好良くて…というような人も、実はマザコンだったり…。 みんな、 学校用、家用、といろいろな顔を持っているのかもしれません。「小さな外出」という部分が、なんだか微笑ましい感じがします。 (西陵中三年生)
安 井 春 菜
それぞれに敵も味方も正しくて神の名をもて争いをする(明日香) アメリカで起きたテロによってアメリカの権威の象徴とも言うべき貿易センタービルが破壊されました。 テロリストたちが何を思い、何を考えてそうしたのか、それはやった本人にしかわかりません。だけど、その飛行機に乗り合わせた乗客を巻き込んでまですべきことではないのではないでしょうか。
テロが無差別攻撃だといっても関係ない人を巻き込んで、その命を奪うなんて、絶対におかしいです。 テロリストたちはイスラムの神アラーの名のもとにテロを行っていますが、アラーは本当にそれを教えにしたのでしょうか?
(西陵中三年生)
北 川 貴 嗣
人一人死んだからとて何一つ変わるなく今今があるのみ(惜命夏) そうです。その通りです。下校時、ある所の葬式に出会いました。遺族の方々は、嘆き、悲しみ、重苦しい気持ちだったでしょう。しかし他の人間はこの歌の通り、何一つ変わることなく、生活していました。僕も実際、葬式に行ったことがありますが、これまた、この歌と同じようになり、世の中は冷たい…と思いました。(西陵中三年生)
野 村 充 子
想い出の一人とならん美しく焼かれて義父の骨横たわる(ぬば玉)「骨横たわる」という言葉が、なぜか優しいと感じた。 命の火が消えた時には、次の瞬間から同じ空間にはいない。と私はずっとそう思っていた。 此の歌を読んだ今はそうではなく、 たとえ姿形が変わっても、人の心に想い出のかけらを残していくのだと、そう思い、なつかしい私の中の昔の光景が想いだされました。その昔思えば死者もよみがえり幼き我が生き生きといる(同)「生き生きといる」という言葉から、 力強く大地を踏みしめている情景が目に浮かびました。何か不思議な空間に引き込まれている気がしました。 (西陵中三年生)
諸 石 眸
すれ違うだけの人波地下街に会うが別れの流されて行く(明日香) 私は、この歌を読んだ時、すれ違うだけでも人は会っていることになるということに気が付きました。例えば、初めて会う筈なのに初めて会った気がしない人がいます。そういう人とはきっと、どこかですれ違い、 それが会ったような気持ちにさせているのではないかと思います。だから、すれ違うことも会っていることと同じでその時間がほんのわずかしかないだけなのです。この歌は、いつも何げなくしていることでも深い意味があることを教えてくれました。 (西陵中三年生)
阿 河 一 穂
それぞれに敵も味方も正しくて神の名をもて争いをする(明日香)
夜、ニュースを見ていると、アフガンがジハード(聖戦)だと言えば、アメリカは報復攻撃だと言うし、結局あれでは何のために宗教の教えがあるのか分からない。 個人的には宗教に興味はないけれど、テロや報復の隠れ蓑になってしまっている。 そもそも、ジハードという言葉があること自体が問題だと思う。 神のためだろうが聖戦だろうが、 戦争は戦争で、多くの命が奪われ、多くの人が苦しみ、悲しむことに変わりはない。 世界大戦での教訓も、日本国憲法も Show the flag・の前には無力なのだろうか。
二 瓶 加 奈 子
本当はそうでなくても雰囲気に浸って泣いてしまうことあり(明日香) 私も、よくそういうことがいっぱいあります。雰囲気に浸って泣いてるわけじゃないけど、 みんな、泣いてるのに、自分だけ泣いてないっていうのは、
他人に「感情表現ナイ子」とか思われてそうだから、悲しそうな顔をしてみたりします。だから、映画などの、感動形は、出来るだけ家で見るようにしています。
(西陵中二年生)
隅 田 未 緒
おじいちゃん今までどうもありがとう娘の声に皆涙せり(ぬば玉) 最近《孝行》がしたくなる。死んだ後では何もしてあげられない。だから今、祖父たちにすごく会いたい。 私が小さい時に、母方の祖母・祖父が亡くなっている。
「ありがとう」の一言も言えなくて、すごく悔やんでいる。 涙も出ずに、 何が起きているのかも分からなかった。だから私は孝行がしたい。私もみんなから「ありがとう」って言われるような人になりたい。この一首を見たとたん、そんな気持ちになって、これが私の一つの夢になった。
(西陵中二年生)
岡 本 英 璃 乃
幽霊になっても逢いに来てほしい娘は天の義父慕うらし(明日香) 私は娘さんの気持ちがよく分かります。 なぜなら私の祖父も亡くなってしまったからです。とても大好きな祖父だったので、亡くなった後も、夢でもいいから逢いにこ〜いとか思ったり、透明でもいいから逢いにこい、って思ったりしました。
でも、時々祖父の匂いのすることがあります。 他の人は別にそんな匂いしないよとか言うけれど、私には何となく分かりました。勘違いかもしれないけど、
その時は祖父が逢いに来てくれてるんじゃないかなと思います。 (西陵中二年生)
古 河 綾
文化祭ならば明るき声音にて合唱ひびく色とりどりに(明日香)
今年の文化祭はとてもよかったです。 みんなでオペラが出来て楽しかったです。 それなのに今までのような文化祭がなくなるのは悲しいです。でも、今年最後には、研究発表ではなく、みんなでオペラで歌をうたえたのでよかったです。 この歌を読んでまたみんなで歌えたらいいなと思いました。 (西陵中二年生)
金 指 な つ み
やめたいもやめたくないも本音にて流氷記わが身を削りつつ(明日香) この流氷記というのは全て川添先生の自費出版である。最近は「私の選ぶ一首」を書く生徒の数も増え (もっとも私も人のことは言えないが) 冊数も増えてきて、これからも増え続けてきたら、川添先生自身が苦しい立場に置かれるだろう。
今が潮時なのかもしれない、でもやめたくないな、という先生の揺れ動く心がとてもわかりやすく書かれていると思う。 (西陵中二年生)
田 坂 心
両目では透明片目にぼんやりと我が視野に立つ鼻の側面(ぬば玉) 片目でものを見ると必ず自分の鼻がぼんやり見える。 しかし両目で見ると今まで見えていた鼻の側面が見えなくなってしまう。普通は気づかない現実的なこと。 もしかしたら人は毎日まぼろしの世界を見ているのかもしれない。片目の世界はちょっとした現実なのかもしれない…。骨になるまで確かめた筈なのに義父の訪ねてきそうな午前(明日香) 骨になってまで死を確実に確かめた筈なのに…。なぜかひょっこりと訪ねてきそう…。そんな感じがする。そうしたらついつい義父が訪ねてくるのを待ってしまう。そこまで義父の存在が大きなものなのだろう。 そんな作者の気持ちが伝わってくる。 (西陵中二年生)
古 田 土 麗
街の一角となりいて金色の稲穂の匂いの風満ちてくる(明日香)
これを見たときにすごく稲穂が目に浮かんだ。 とても不思議な感じがした。 一人でそこに突っ立っていて涼しい風が吹いていて稲穂の匂いがしてくるような感じだった。 稲穂の匂いってどんなのだろうか。 稲穂が風にそよいで一人立っていたらどんなに気持ちいいだろうか。とても心が安らかになるのではないかと思う。気がついたら寝ているということもあるのではないかと思う。(二年)
清 水 由 香
本当はそうでなくても雰囲気に浸って泣いてしまうことあり(明日香) この歌を読んで、先輩の引退試合を思い出しました。その日の試合に勝てば、次もまた試合が出来たのに、負けてしまいました。 負けて泣いている先輩を見ていると、私も泣きそうになりました。私も泣きそうになったのは、先輩の、勝ちたいという気持ちが強くてそれが私にも伝わってきたからだと思います。 (西陵中二年生)
白 田 理 人
すれ違うだけの人波地下街に会うが別れの流されて行く(明日香) それぞれの目的地に向かって、ただただ歩き続ける人々。 「無数の出会いと別れ」 と言葉では表せても、 実際にそれを一つずつの「出会い・別れ」として捉える人は少ない。 何という名か、どういう人かなどは抜きにして、その人の映像だけが、あるいは声を伴って過ぎ去っていく。後に残されるものはほとんどなく、たとえ数秒は憶えていたとしても、もうその人について思い出すことはない。そして、すぐに別の人が、視界の中を通り過ぎていく…。僕もときどき、このような光景に出くわします。 そしてそんなとき、考えることがあります。きっと今日すれ違った人のうち、もう二度と会わない人が一番多いでしょう。けれど、違うかたちで出会っていれば、大親友になっていたかも知れないのです。出会いは、大きな可能性を秘めている、とても不思議なものです。一つ一つの出会いを大切にしていきたい。この歌を通して、そう思いました。(西陵二年生)
衛 藤 麻 里 子
声にして詠むとき歌は千年の彼方より来てしばしとどまる(水の器)
百人一首をしているとき不思議に思います。 私たち現代人はお正月の遊びとしてごく普通に百人一首をしています。 聞いていても何の違和感もなく聞いていられます。でもこれは、今から千何百年以上も前に作られ、詠まれ、今なおこの時代に詠まれてみんなに親しまれています。私はこの一首を読んで、短歌はいつの時代でも変わらない、 人間そのものが描かれているものなんだなと思いました。 (西陵中二年生)
桐 山 浩 一
石や岩をぶつかりながら滔々と川は過去より未来へと行く(蜥蜴野)
川の水は、決して後ろには戻らない。 そして人生というものも、後ろには戻れない。人生というものは、川の水のように大きな石や岩にもぶつかりつつ、 社会という大海原に出て行くということを考えさせられました。 大きな石や岩があっても、決して避(よ)けてはいけない、避けたら川の水という人生が弱まりつまらなくなって行くと思う。そして、過去には囚われずに、未来を絶えず見て行くことが大切だと思った。一回きりの人生だから、大きな障害や困難を乗り越えて、楽しいものにしていきたいと思う。(西陵中二年生) 渡 辺 あ ず 咲
佐 藤 絢
闇の中逝きにし人あり目を閉じて思いみんきりぎりす鳴く夜は(明日香)目を閉じてみたら自分の大切だった人のことを思い出したことが私たちにもあります。 この歌はその気持ちをよく表していると思います。下の句「思いみん/きりぎりす鳴く夜は」でなく「思いみんきり/ぎりす鳴く夜は」と読ませて 「ぎり・ぎり」と鳴くキリギリスの聲までもがよく表現されています。 「目を閉じて」じっと命の不思議を思い、その思いにゆったりと浸るような時間も、これからは持っていきたいと思います。 (西陵中二年生)
宮 本 浩 平
骨になるまで確かめた筈なのに義父の訪ねてきそうな午前(明日香)
この歌を読んで僕の祖父が亡くなった時のことを思い出してしまった。いつもの場所にいた筈の祖父がそこにはいない。いつもどこかに連れていってくれた祖父がある日家で亡くなっていた。 白い布を顔に被せて横たわっている祖父の姿が目に焼き付いて離れない。祖父がいなくなってからは、心に穴があいたみたいで「ぼー」としていた。 心地よい午前にひょっこり祖父が帰ってきそうな気がしたことを思い出した。 (西陵中二年生)
妹 尾 芳 樹
文化祭ならば明るき声音にて合唱ひびく色とりどりに(明日香)
「色とりどりに」の部分を読んで、はっと思いました。文化祭の色
とりどりの合唱は、色とりどりの想いの集まりです。だから合唱はいいものです。 文化祭なんかかったるいという想いもあったのかもしれません。一生懸命の想いもあるでしょう。だから一人一人思い入れのある行事が違うから、 いろんな行事のたびに合唱の音が変わるんだと思います。 (西陵中二年生)
今 田 有 香
人のため食べられるため生きている動植物は何思うことなく(ぬば玉) 人間は、 毎日なにも考えずに習慣的にいろいろな食べ物を食べています。私は本当にそれでいいのかなあ?と思います。なぜなら、人間のために犠牲になっているのに、 当たり前のように食べるからです。これからは、毎日ご飯を食べられるありがたさを考えていきたいです。 (西陵中二年生)
乗 岡 悠 香
まばたきはトンネル異次元空間にさ迷うごとくぼんやりといる(明日香)まばたきは一瞬だけど、その一瞬の中で、長いトンネルをくぐり抜けて、どこか違う世界に行ってしまいそうな気がします。誰でもありそうで本当はごくわずかな人しか行けない世界。 まばたきをするたびに、今までとは違う世界にいる。まばたきをするたびに古い生き物が死に、また新たな生き物が生まれるから。宇宙だって星だって同じだし、私たちの体の細胞だってそう。それは私には見えないし感じもしないけど、 きっといつかどこかで関わり合いのあるものになる。そんなふうに考えると、悠久の時の流れを少し感じることができました。 (西陵中二年生)
小 西 玲 子
人見つつ人の視界に我が姿ある不思議さのすれ違いゆく(ぬば玉) 自分から友達や家族や他人を見るとき気づくことがたくさんあります。嫌だなと思うこともあるし気にくわないこともあります。だけどきっとその人も気付いていない良い所もたくさんわかります。私自身、友達の良い所をたくさん発見してきました。 だけど周りにいる友達も家族も私の悪い所も良い所もたくさん見つけてくれます。 私が見る視界、みんなが見る視界、少しずつ違うなんて不思議だけれど、 少しずつ違うからこそ分かることもたくさんあるし、とても素敵だと思います。 (西陵中卒業生)