中 村 桂 子
道の外れ薮の茂りにトカゲいていそいそジュラ紀に逃げてしまえり(明日香) 何億年だろうが、何十億年だろうが、スルスルと行ったり来たり。 大げさなタイムマシンなどなくても生きものを見ているとそれができるところが面白いですね。 その面白さで暮らしている《生命誌》の研究者としては、我が意を得たりの歌です。麦渡風の 雨に濡れた葉よりすっくと立ちて咲くシロツメグサあり輝きて見ゆ も、小さな生きものたちにこそ、生命力を感じることの多い私の日常と重なります。是非生命誌研究館にいらして下さい。ご覧いただくと歌の素材がたくさんあると思います。
(JT生命誌研究館副館長。『自己創出する生命』『ゲノムを読む』)
藤 本 義 一
コマ送りに葉もなくなりて裸木を見つつ確かな過ぎ行きを知る(銀杏葉)どうしてこの歌がわが頭の中に飛び込んできたかと考えてみる。どうも《コマ送り》らしい。映画の世界の住人だった頃、このコマ送りに非現実の創造過程を感じた。「フタコマオトセ」といった監督の声が鮮かに甦ってくる。一秒は24コマだから、2コマ落すと、その映像は微妙な早送りになる。歌人はコマ送りを必死に止める作業に従事してほしいものである。コマ送り止めても散りゆくといってほしい。        (作 家。)
三 浦 光 世
氷塊の一つ一つが離れたり付いたり流氷群が迫り来(銀杏葉)
重厚な調べ、正に流氷にふさわしい。 単純に詠い上げて、力が充実している。対象をこのように深く感じとって歌いたい。
玄関を掃きつつ声を掛けくるる校務員さんわが教師かも(同)
生き方、その姿勢が平易な言葉の中にうたいこまれていて、注目させられた。 妻綾子は 「編集者はものを書く者にとって先生なのよ」と、言っていた。そのことを思い出したが、確かに人生どう学ぶかということかもしれない。(作家。『妻綾子へ』『三浦綾子作品撰集』)
加 藤 多 一
我が喉をふさぎて流氷生まれくる海の卵か清らに白し(銀杏葉)
短歌としての形象。 千五百年もの日本語の表現の歴史からすると「清らに白し」とあからさまに書くのは、 言いすぎ書きすぎと評されるかもしれぬ。しかし、流氷がイメージとして喉をふさぎにくるというのは、氷の刃のように鋭いではないか。 ほんとうに、私たちは声をあげるべき喉をふさがれている。自分でふさいでいる。今回の集中でも「昭和天皇眠りいる」があるが、 その戦争責任をどう考えるのか。アフガン問題にせよ、ブッシュの報復こそ明快な戦争テロではないのか。 こういう声が私の喉の奥にもあるのですが……   (児童文学者。オホーツク文学館長。『北の川をめぐる九つの物語』『馬を洗って…』
中 島 和 子
蓑虫の雌は死ぬまで蓑の中子に食べられて体をなくす(銀杏葉)
小町蜘蛛わが身を食べさせて終わる理想といえばしみじみとして
「地球上の生物」と括ってしまえば、 蓑虫も蜘蛛も人間も仲間ですよね。 でも、人間に比べて、蓑虫や小町蜘蛛の親は何と潔いことでしょう。人間の親である私など、「いつまで親をせなあかんの」とグチばかりです。せめてこれからは、子に喰い尽くされるほどの滋養を具えようと反省しました。
蓑虫くん、小町蜘蛛さん、あなたは偉い!
(詩人。童話作家。『さいごのまほう』『まじょのけっしん』)
風 来 坊
わが家の屋根の形に雨の音聞きつつ眠りの中に入りゆく(銀杏葉)
風もなく自ずと木の葉落ちてゆく喉の渇きに目覚めいし夜半  
波打ちに透明の波寄せるごと優しき夜の眠りに浮かぶ
限りなく光の粒が飛んでいる宇宙の果てのその果ての果て

作者は今森羅万象の内に燃えていく生命の断崖にさりげなく立つ「苦悶の象徴」として内からも外からも葛藤の歌人として、 新たなる甦りの転機に立っている。雨の音を聞きつつ夜半、形なき怒りを胸にきざみつつ歌人としての転轍機の役目を『流氷記』の永遠の未来に、不惑の思いに託して見守りつつ歩みはじめている。新たなる門出の夜の眠りの祝福あれ。(寺尾勇奈良教育大学名誉教授。美学)
近 藤 英 男
蝶となり流氷となり落ちてゆくイチョウ葉すべて違う形に(銀杏葉)
流氷と父上の幽界上昇の悲しみが、 奇しくもまじわる心的風景!!先月号は、明日香が中心。寺尾美学「ほろびゆく大和」の原風景とも重なります。貴方と同じように私も寺尾美学によって開眼。更には、この歌から、昔『七面鳥』でお世話になった富澤赤黄男の 「蝶墜ちて大音響の結氷期」の句にも共響する不思議さ。次には堀本吟さんや日本歌人の前川佐重郎さん、 長岡千尋さんのお名前も出てきて、さすが専門家は一味違うと感心。一番うれしいのは中学生の方々の感動的な新鮮な歌論のすばらしさ!!『流氷記』のますますの発展祈念。 (体育美学者。奈良教育大学名誉教授。)
吉 田 富 士 男
金閣寺出でてバスこぬ植え垣に裏銀シジミ羽広げおり(銀杏葉)
風の無い暖かな昼前後の良く陽が当たる生垣に、 ウラギンシジミが羽を広げて暖をとっているのだろう。たぶん生垣はカシ、サザンカ、マサキ、トベラなどの常緑樹であるに違いない。 ウラギンシジミは蝶のままで常緑樹の葉の裏で越冬する。 越冬が近づくとこれらの常緑樹の周りで日向ぼっこをしていることが多い。 この作は、 蝶の生態を観察しているものにとっても微笑ましい秋ならではの味わい溢れる歌である。 「バスこぬ」は日向ぼっこに最適なのんびりとした穏やかさを感じるが、 金閣寺はその金と裏銀シジミの銀とを対比させているのかもしれないが、 ウラギンシジミの日向ぼっこは、 奈良にあるような小さな茅葺の古寺が一番ではなかろえか。 (ウィークエンド・ナチュラリスト。
   『撮影術入門〜蝶の棲む世界』『花の二十四節気』)
清 水 敦
わが家の屋根の形に雨の音聞きつつ眠りの中に入りゆく(銀杏葉) 具体的だが心地よい抽象的絵画的ファンタジーの世界。 感情移入から抽象へそして今再び感情移入(具象)へと説く観念的美学を混乱させるファジー空間がある。 コップを出っ張った(凸の)凹みと言った詩人がいたが視点変え(トポロジー)がまどろみの中でごく自然に風向きという現象により繰り返される。
・トポロジー=位相幾何学 (造形作家。『私の流氷』同人。)
橋 本 友 男
止まるたびカサリと音の聞こえくる新聞配達バイクの巡り(銀杏葉)
私の写真活動は、 重いカメラを背負い、一瞬の感動を求めて、天候と時間(太陽の光の関係で)を考えながら動いています。 そうした事から、同調するこの一首が、とても私の心に素直に響くものがありました。 作者の敏感な心の耳とシャッターを押す時の感性に同調を感じます。 (写真家。茨木市在住)
川 口 玄
柿の枝無彩の木肌生まなまし背後の紅葉真紅なれども(銀杏葉)
柿の葉の紅葉の美しさは、 とくに日本画家の好んで描くモチーフのようにて、小生も何度か挑戦してみたのですが、いまだモノにならず、いつかは… と思っているのですが果たして成功するかどうか。枝の無彩の木肌も生命感があふれるもので、この歌からは柿の木の匂いさえ感じられるように私は読みました。 大阪春秋にご恵投いただいた五首のうちでは、第一首、 アンカーの競り勝ち騒ぐ校庭にぱっくり石榴割れていし見ゆが好きです。応援の群衆の歓声や踊り上がって喜ぶ姿のカゲにひっそりと赤いざくろ、 あるいは、ざくろも笑っているのでしょうか。大阪春秋ご筆援深謝申し上げます。 (『大阪春秋』編集長)
神 野 茂 樹
朝ごとに障子に映る影ありて金木犀あり空蝉もいる(銀杏葉)
ベランダに鳩よけの金網をはりめぐらせたわび住まいでは味わえぬ朝にちとシットしての選。 (『大阪春秋』編集委員)
宍 戸 恭 一
未来にも過去にも我が居るような気がするどこかさ迷いながら(銀杏葉)IT化が進むにつれ、リアルな現実が仮想現実に呑み込まれてきた。イデオロギーに囚われ、精神的に脳死になったのと似ている。 この状況から脱出するのには、人それぞれの途がある筈だが、その要は、リアルな現実と積極的に交わり、喪失した時間と空間の感覚を自ら再認識することにある――、思っている。老境に入った私の例は余り役立たないが、この機会に少し述べさせて頂こう。数年前に大病をしてから、 休日には、スケッチ・ブック代りに素敵なシャッター音を発する重量感のある古カメラを提げて鴨川べりや曼殊院へ、ときには嵯峨野あたりにも足をのばして、風景を写している。私にとっての風景は、自然との一期一会的な出合いを換起させてくれるもので、 四季折り折りの雲の流れや樹木や草花の顔かたちや日没の風景が好きである。 フラッシュや三脚は一切使用しないので、写真の出来栄えは二の次で、瞬間々々に出会う風景をパシャッと切り取るとき、私の生命力との一体化を感じて興奮する。川添さんの一首には、 現在の私のこのような認識を想起させてくれるうたごころが、秘められている。(三好十郎研究者。京都三月書房店主)
リカルド・オサム・ウエキ
神となり渡る魂みしみしと流氷泣きて禊がれてゆく(蜥蜴野) この神は、アマテラスやイエス・キリストのように人間によって捏造されたものではなく、 太陽や月と同じ自然の脅威から感覚する原始宗教の神的なものだろうと感じました。 流氷が岸を離れて流れ出すときの壮絶さは、 私も日本の北の端に旅したときに目撃しています。 かぶさってゆこうとする氷塊、圧迫されて喘ぐ氷塊、ずるく潜り抜けてゆく氷塊などを観ていると、 まるで人間社会の葛藤を観ているような感じがしました。 (作家。ブラジル在住)
林   哲 夫
冷蔵庫聴きつつ眠る虫歯菌などもいそいそ働く夜か(銀杏葉)

先頃、吾家も冷蔵庫を買いかえた。それまで使っていたものは扉のパッキンが駄目になってしまったのだ。モーター音もうるさかった。 さすが新品は静かである。 珍しい仕掛けもいろいろ付いている。ところが初日の夜中に突然、ガラガラガラッと闇を裂くような音がした。とび起きた。要は自動製氷装置の氷が下段の受皿にまとめて落下したのだった。考えてみれば、冷蔵庫は日夜を問わず働いているわけである。いそいそと。しかしやっぱりこれは設計ミスに違いない。 (画 家)
中 平 ま み
明日の体調考えて眠りゆく若くはあらぬ我が現身は(銀杏葉)
私も齢四十八になりこのうたが分かる様になりました。 人には精神年齢・肉体年齢・実年齢の三つがある―― とは云うものの、ヘンにトシをとりたくはないですが…好不調、 こればかりは気力だけでは無理なこともあるようです。しかし乍ら私の理想の女性(同じ干支即ち巳年)のお一人であられる三木睦子夫人の様に私もシャンとして生きていきたい。 何よりも愛する犬たちが殺されぬ世の中にする為に出来得る限りの手をつくしてゆく覚悟。 (作 家)
吉 阪 市 造
冷や飯も左遷も好きでにこにこと生きて死ぬべしこのみじか世は(銀杏葉)「冷や飯」と「左遷」の向こう側に、 作者の生きんとする姿勢が伺える。 同じ一生なら思うがままの自分で生きてゆこうじゃないか。なにを恐れることがあろうか。 所詮、生まれて死ぬまでのみじかい間のことなのであるから、だ。 かくありたいと思う。
(『私の流氷』『浜ぼうふう』同人。網走在)
山 川 順 子
止まるともなく飛び急ぎ冬の野に紫シジミ何捜しいる(銀杏葉)
せわしなく飛ぶ紫シジミの姿が人間(もちろん自分も含めて)にも見える。 止まらずに動いて何になる、何がある。それを蝶にたとえると、そう長い命ではないのに、なぜゆっくり飛ばないの、 景色を楽しんで優雅に舞えばいいのに。 いや短い命を知っているからこそ、飛び急いでいるのだろうか、何かを求めて。 一見きれいな情景が浮かぶが、後からしんみりとしてきた好きな歌です。 (『私の流氷』同人。札幌在)
千 葉 朋 代
人がまあ何とレッテル貼ろうとも歌うべし我が心弾めば(銀杏葉) 器用だから物を書いているのではありません。 自分の思いを表現する術を、たった一つしか持てない不器用な人間だから、書いているのです。 二年前、書く事との出逢いがありました。今まで自分の中で渦巻いていた思いを、外に出す術を与えられました。書く事は苦しみでもあります。上手く表現できない。読み手に思いが伝わらない。それでも、書く事を知らなかった時には感じられなかった喜びがあります。自分にとって何が大切なのか、弾む心が教えてくれているのだと信じたいです。 (『私の流氷』同人。札幌在。)
井 上 芳 枝
右左遠く近くのしばらくの郵便配達バイク聴きおり(銀杏葉)
下の句「新聞配達バイク聴きおり」は、私の姿と重なります。午後三時近くなると、バイクの音に耳をすませます。もうすぐ夕刊の配達でおじさんが届けにくるからです。 朝刊は午前四時には届いています。夕刊は別に用がなく家にいる時は、配達のおじさんに一言声かけをすることにしています。「ありがとう」「今日はお天気でいいですね」など。 おじさんも「こんにちは」と、にっこり挨拶を忘れません。いつまでも元気で頑張ってほしいと願い「心通えば行きずりの人もよし まごころは心のおくりもの」 私の好きなことばを色紙に書いて渡しました。老夫婦の暮らしで、新聞の受け取りは一条の光です。ほらバイクの音が聞こえてきます。生気をいただく喜びにワクワクしています。 (大蔵中学校時代恩師)
小 川 輝 道
氷塊の堅きが下に貝の肉妖しく春を待ちつつ育つ(銀杏葉) 川添さんが、ある時期、 北の街に暮らし、流氷と向き合うなかで表現を深め、更に溢れるエネルギーで作者の世界を豊かにしてきた。この作品は流氷の底に潜む小さな生き物たちの不思議さを捉えている。アムール川の大量の水が運んできた植物プランクトンは、 長い旅を続け厳しいオホーツクの氷海にも豊饒をもたらしている。 ダイナミックな自然の営為を受けながら、 春を待ちつつ成長を遂げる貝たちの生命力の強さと自然界の驚異を素直に表現している。今、北辺の地は白い沈黙の海を迎え酷寒の季節。 「妖しく」の表現ではいいだろうかと感じた。 (元網走二中教諭。 北見市在)
弦 巻 宏 史
溜まり来し汚れた心漉くように流氷原を霧渡りゆく(蜥蜴野)
いつも一つにしぼり切れずに、読み返しつつ、日が流れてきました。ごめんなさい。流氷原を渡る霧――その大きな流れに己れの心象の変化とその爽やかな広がりの実感に共感しました。「溜まり〜心」に一工夫ほしいのですが。 寂しくて嬉しくて娘はやわらかな命の重み身を寄せてくる ほほえましさと作者のよろこびが溢れている。ぼくまで嬉しくなる。 蜥蜴野の緑の土手に崩れつつタンポポ綿毛風呼びて立つ「風呼びて」、風に向かい生き生きと歓んで飛び立つ生命たちが見える。 (元網走二中教諭。『オホーツク街道』では司馬遼太郎を案内、ゲンダーヌや中川イセのことを紹介。)
井 上 冨 美 子
採り過ぎを戒めて来し民族を餌食として我が文明人あり(銀杏葉)自然を敬い感謝し、決して採り過ぎず、同胞を慈しみ、そして他者への思いやりを怠らず。このような先住民の方々の生き方を、今一度思い起こし、日々のくらしを送ることの大切さを、ひしひしと感じております。ゆうらりと広き白砂庭に来て仁和寺小さな滝響くのみ もうすぐ悲しい出来事の多かった今年も終わろうとしています。このような静かな心で、除夜の鐘の音を聴きたいものです。(元網走二中教諭。 網走在)
大 和 克 子
高きより紅葉の町の昼見えてカラスも影も横切りて行く(銀杏葉)
作者がある秋の昼見つけたワンダーランド。紅葉の町を横切る一羽のカラス。影もくっきり紅葉の町を横切ってゆく、「誰かが私の墓の上を今歩いている」と、外国の小説にはよく出てくる。日本ではあまりこういう表現をしないが、この一首はそれを思い出させる。生きている現実の中に、ある時しんとこの世のものとは思われない霊妙な時間が現出する。その時人間は、生でも死でもない時のはざまにおののくだけである。  (『短歌人』同人。)
安 森 敏 隆
人は人により滅ぼされゆく歴史辿るか生物兵器も進む(銀杏葉)
二十一世紀の幕明けも、 まさにこのようなものとしてはじまった。 ニューヨークのテロにはじまるアフガンへの侵攻。 私も「生命(バイオ)もついにここまで来たるかや耳鼻すべて人工のもの」(『介護。男のうた365日)という歌をつくりました。「歌」とは五七五七七の形式をとおして言葉を自己化し、 対象をしっかりと射る、ことだと思います。言語行為とは、川添さんのように、何人かの真の読者である友へむかってうたうことだと思いました。(同志社女子大学教授。『PHOENIX』『玲瓏』同人。)
桑 原 正 紀
雲浮かぶ空の高さを窓越しにみつつ今年の秋も過ぎゆく(銀杏葉) 作者はきっと机にむかって、 忙しく事務処理でもしていたのだろう。ふと顔をあげて窓の外を見ると、高処に雲を浮かべた秋の空が青い。ああ、忙しく過ごしているうちに今年の秋も過ぎてゆくのだなあ、と感慨をもよおしたのだ。 なんでもない歌のようで、作者の日常がさっと透けて見えるように感じるのはこの歌の力であろう。「雲の高さを…みつつ」という言葉の据え方が最も効いていて、そこはかとなく〈あくがれ出づる〉心のありようが伺える。育ちつつある流氷にでも思いを馳せたのであろうか。(『コスモス』同人)
長 岡 千 尋
風もなく自ずと木の葉落ちてゆく喉の渇きに目覚めいし夜半(銀杏葉)神と自然と人間のこまやかな交流を断ち切ってしまったのは、科学合理主義や欧米一辺倒に陥った通称、進歩的文化人であった。――新しい世紀に向かって私たち日本人は何を反省し、何を取り戻さなければならないか。……私は、民族学者としての立場から現代短歌の病ひを西洋種の文学理念から脱却出来ない「前衛短歌」とみた谷川健一氏の、『うたと日本人』を読みぞっとした。だが私は川添さんの歌を誦していつも安心している。 その歌には呪力がある。 それは誠実な日本人としての心から自ずと生まれているからである。 (『日本歌人』同人。『かむとき』編集。『大和文学散歩』。談山神社神主。)
里 見 純 世
なるようになるなるようにしかならぬ心繋いで来し流氷記(銀杏葉)
流氷記三十号発行誠におめでとうございます。 ここまで発行されたことはさぞかし大変だっただろうと察せられます。 八一頁の後書きを読んでみて此の一首の重みをつくづく感じました。 どうぞ御自愛の上お過ごしの程祈って止みません。 次の二首にも注目しました。
俺は今死んでしまうのかもしれぬ漠たる不安の中に寝ている
いつ死ぬかわからぬ不安の足音を踏みつつ進めどすぐ過去になる

人間誰しも抱く感情を見事に詠み上げています。 (『新墾』『潮音』同人。網走歌人会元会長。)
川 田 一 路
わが家の屋根の形に雨の音聞きつつ眠りの中に入りゆく(銀杏葉) 雨の音は不思議なものである。 その時の気分によって気持ちを昂揚させたり、また時には死を意識させたりもする。屋根の形に雨の音を聞くという感覚も奇妙といえば奇妙。 しかし雨の音はいろいろなことを想像させるものであるから、これまた然り。 多分、作者は雨の音に屋根、すなわちひとつ屋根に守られた家族を想い、幸せな自分を想いながら眠りの中に入っていったのであろう。 これまた人生の幸せのひとつではある。 (『山繭』同人。)
葛 西   操
目つむれば白き海別岳浮かぶ海岸町の風となるべし(銀杏葉) 永い間網走に住んで居りましたので、 大変に良いお歌もございましたが、 この歌を選びました。 私もずっと居たら海岸町の風になっていたかもしれません。あの北風に乗って押し寄せる流氷。時には恐ろしくまた時には悲しく… そんな気になる流氷の変化は、人間の心を表現しているような気持ちになることもありました。私はこんな網走が大好きです。 何処を見ても歌に表現出来得るところがありますね。 (『原始林』同人。網走歌人会。)
南 部 千 代
縫い針のごとくに電車見え隠れ街の夕暮れ山の端が浮く(銀杏葉) 私もこんな景色を見た事があるように思います。 夕暮れの少し小高い所から見下ろした街、多分電車は明りをつけて、まるで縫い針のように街並を話などを見え隠れしながら光ってゆくのでしょう。 その細い光の針のような車体の中には澤山の人が乗っているのでしょう。目的地に向かって。ほんの一瞬の間の光景ながら動きの感じられる、とても繊細なこの歌、すてきに思いました。 網走は早くも流氷の季節です。凍りついた岸辺でもみんな生きています。春を信じながら…。新しい年もよいお歌を見せて下さいませ。
    (網走短歌会)
田 中    栄
逢いたいと言わなく言われなくなりて晩秋の風骨まで沁みる(銀杏葉) 相聞とも交友関係とも受け取れる。 中年の繁忙な生活のなかに「逢いたい」とう親愛の感情も硬化し希薄となってゆく。 その事を思うと寒風が骨に沁みるようだ。 ちょっときびしく言うと下句は少し言い過ぎの感じがあるだろう。 然し私は相聞の感情として心の文を言い得た一首として同感する。 (『塔』編集。元選者。)
三 谷 美 代 子
氷塊の形は全て異なるに沖に一筋流氷迫る(銀杏葉) 氷塊の個体ひとつひとつの形は異なりながら、それ等がひと塊りとなって迫って来るという。 「異なるに」の「に」は次の「沖に」との近接が少し気になり、稍ことわりめく感じもあるものの、象徴性をもった一首として心引かれた。 三十号を迎えた流氷記。作者の弛み無い努力と直向きさに心からの敬意を捧げます。 (『塔』同人)
前 田 道 夫
いつ死ぬかわからぬ不安の足音を踏みつつ進めどすぐ過去になる(銀杏葉)一寸先は闇の喩えのように、 私達の日常は全くの闇に包まれていて、いつ何が起こってくるのか分からない状況である。況してや、近頃のように騒がしい世相では、不安は増幅されてゆくばかりである。そのような日常生活でも、振り返ってみれば過去ははっきりした軌跡を描いて残っている。 「コマ送りに葉もなくなりて裸木を見つつ確かな過ぎ行きを知る」後の一首とともに、この一首は抽象的であるゆえに色々な事態を想像させられ、 私にとっては、身につまされるところの多い作品であった。 (『塔』同人。)
榎 本 久 一
縫い針のごとくに電車見え隠れ街の夕暮れ山の端が浮く(銀杏葉) 一枚の風景画を見ている思いがする。 山の麓を通過する電車を縫い針に見立てている処は明りを点しながら急く電車の編成の長さと速度まで彷彿と感じさせられる。 よく山間を縫うローカル電車ということは言われるが、針という実態を示したことによって、光りと鋭さを持つイメージと電力で動く速さを持つ物とのイメージがうまく合致していると思われる。 夕陽は山の向こう側にかくれてしまったのだろう。山の端が浮く処適切だ。 (『塔』同人。)
鬼 頭 昭 二
月夜にてマンホールの蓋光りいる近づけば舗道に紛れゆきたり(銀杏葉)作者と月とマンホールの関係が面白い。三者がある位置となった時その関係は成立する。 目にとめないマンホールが一瞬その存在感を示した。 孤独感、寂寥感も感じさせ、過剰な真情吐露がないのもよい。 (『五〇番地』同人。)
甲 田 一 彦
山よりも高く鉄塔聳えいる山の端浮かぶ日が沈むまで(銀杏葉)
影落としつつ雲浮かぶ北摂の傾りに紅葉色づきて見ゆ 丹波高原の南端にあたる北摂のなだらかな山が作者の家からも職場からも見えているのである。東端は天王山で西端は五月山(池田市)である。わたしも四季折々、朝に夕に見ている風景で、歌に詠みたい気持ちを失ったことはないが、中々出来ないでいる。それを作者は、平易な言葉でストンと一首にしてしまうから驚く。前の歌もそんな一首である。 この山々のなだらかな稜線には高圧送電線の鉄塔が見えていて、 夕焼け空にシルエットとなり並んでいる光景が目に浮かんで来る。 写実の適確さというべきか。 この歌では「山」という言葉が重複使用されながら、 気にならないのもうまいということか。 二首目、 紅葉の山の斜面に雲の影が落ちて動いているのである。これも四季折々に見られるのであるが、凡な力量では一首として表現出来ないものである。(『塔』同人。北摂短歌会長)
遠 藤 正 雄
わが家の屋根の形に雨の音聞きつつ眠りの中に入りゆく(銀杏葉) 屋根があり囲いがあり、その中に安住の家族がある。作者は雨の音を「屋根の形に雨の音」と感じ取った。詩人の感性である。掲載の歌に余計な評など要らぬ。 温かく清々しい世界へみちびいてくれた。 美しく堅き舗道にしめやかに土にもなれぬ桜葉が落つ並木路を飾る桜も自然の中に咲く山桜も、 趣を異にするが何処に咲いても桜は美しい。桜それぞれにも運がある。ずるずると二十一世紀まで背負い込んで続いている戦も、人類の運命かも知れない。掲頭の歌には平和の喜びがあり、 文中の歌には華やかさの裡に哀感をそそる。
塩 谷 い さ む
蓑虫の雌は死ぬまで蓑の中子に食べられて体をなくす(銀杏葉)
二千一年の締めくくりのような流氷記の第三十号の銀杏葉が届いた。今回は何時もの九十六首よりも多い百一首である。毎回思うことではあるが作者川添英一氏のバイタリティには感服であり、脱帽である。 木の小枝からぶら下がっている蓑虫の母親の袋の中での運命に思わず涙ぐむ。 自分の子供を殺すという今の若い母親に見せてやりたいと思う。 文字通り身も心も子供に譲って逝くという、健気な蓑虫の生態に教えられている。 縫い針のごとくに電車見え隠れ街の夕暮れ山の端が浮くも好きな歌である。(『塔』同人)
平 野 文 子
天に浮くまで鮮やかに飛鳥野は彼岸花咲く血を辿るごと(明日香)すっきりと山容美しい大和三山のもと、ゆっくりと辿った飛鳥路を私も思い出しました。 日本最古の寺、飛鳥大仏、近くには石舞台があり、蘇我入鹿の首塚と伝える石塔もありました。明日香には古い歴史と共に、万葉集に歌われたゆかりの地が数多く存在します。作者が訪れた時には、広い野原に燃えるような彼岸花が咲き連なっていました。 個性的な歌いだしが見事に彼岸花を切り取って句またがりも気にならない一首にまとめられています。(かぐのみ。北摂短歌会)
大 橋 国 子
テーブルに大きな真っ赤な桜の葉虫喰いありてしみじみ優し(銀杏葉) もみじも美しいと思いますが、桜の赤は紅と言った方が良くて、きらやかではありませんが、虫が喰った紅色の葉なんて、何となく憂いがあってしみじみと優しいと思います。 銀杏の葉が秋の公園で陽性の風情を見せているのなら、桜の葉は、春の艶やかな花とは裏腹に、脇役の良さをしっとりと見せてくれていると思います。私も桜の葉を二つ三つテーブルの上に置いて見ました。 自然は巧みな細工をして見せるものですね。 (北摂短歌会)
山 本   勉
人がまあ何とレッテル貼ろうとも歌うべし我が心弾めば(銀杏葉) 凡そ世間に批評家や評論家ほど無責任な人間はいないと思っている。 偉大なるベートーヴェンやチャイコフスキーですらも徹底的に叩かれている。 それは相手が巨きすぎるためへの嫉妬だからだ。本統の詩人は川添かもしれぬ師のつぶやきしと辺境にて聞く本当の詩人…と期待している。《師》や私のような愛読者は沢山いると思う。レッテルはどこまでも嫉妬だと聞き流して、悠々とご自身の世界を開拓して欲しい。「来年も生きてるわれと思いてか季節外れのシャツを買う妻」こんな歌を書いた私だが…(北摂短歌会)
山 路 義 雄
わが死後のごとき不安が雑踏にしばらく妻も子も見失う(銀杏葉) 私が初めてこの一首を読んだ瞬間、先ず頭に浮かんだことは、人間の孤独と宿命の悲しさであった。 あの往年の寅さん映画の主題とされる「男はつらいよ」と云う、 哀愁の響きをもった言葉が胸裡に去来したと云えば、 作者の本意から逸脱した評言と笑われるかも知れないが…。その後繰り返して何度も味わってみて到達したのは、人間の根源的な問題を取り上げ、心象風景の極致として描き上げられたこの一首、実に見事と云う外はないと思った。(北摂短歌会)
井 上 冨 美 子
やめたいもやめたくないも本音にて流氷記わが身を削りつつ(明日香) 苦しみながら楽しみながら流氷記と共に三年が過ぎてしまったと雑記のところで記されておりますが、 さぞかし私達の想像を遥かに越える色々な意味でのエネルギーを費やしたことと思います。幾度も川添先生大丈夫だろうかと思いやったものでした。 いつも自筆でのお便り有り難く拝見しておりました。 その時々の御心の状態、御体の状態が御文字を通し、私なりに伝わってくるものがあり、遠方より案じておりました。流氷記二十九号ですものね。 凄いのひと言です。御歌もさることながら、この小さな本に製本される過程を思うとただただ頭が下がります。 御体調を案じてここらで少しお休みになられてはと思いつつも、 心の中のどこかにオホーツク海に毎年姿を見せる流氷を待っているように、 流氷記を待っている自分があるのです。 何か不思議な気がしております。大滝の水脈(みお)のごとくに萩の花崩れゆかんとする刹那咲く 生き方のひとつとして心にしみました。 (元網走二中教諭。 網走在)
甲 田 一 彦
冷や飯も左遷も好きでにこにこと生きて死ぬべしこのみじか世は(銀杏葉)作者のあっけらかんとした生き方には、全く返す言葉もない。 「好きで」と言い切ることは通常は嘘っぽく見えるものであるが、この人の口から出ると、真実性があるから不思議である。「生きて死ぬべし」が結句ではなく 「このみじか世は」と結と結ぶ言葉の配置も、作者の天分をあらわしていると思いました。冷や飯も左遷も平気であるが、 だからといって日々の仕事を適当にやるような作者でないことが、 この一首のどこかに感じ取れる不思議もうれしいと思いました。(『塔』同人。北摂短歌会長。高槻十中時代上司)
小 川 輝 道
パチンコ屋ばかり豪華に人間が同じ方見て並んで座る(新緑号)
この時代の風俗を巧みに捉えている、 と愉快になった。どの街にもパチンコ店は、娯楽の殿堂めかして最大級の照明で飾ってある。「〜ばかり豪華に」と率直に、しかも言い得て妙である。そして集まる人間が「同じ方見て並んで」座っている当然の姿をその通り表現し、実にユーモアに溢れていると思う。当世風俗をこのように表現できる観察眼に感心させられた。流氷と海の境に群るる鳥生競うがに声高く鳴く 雄大な北海の静寂と群れ鳴く海鳥を捉え、北の氷海の原風景を見詰める作品である。 鬼頭さんの「生を競いて」に教えられた。 (元網走二中教諭)

小 西 玲 子
未来にも過去にも我が居るような気がするどこかさ迷いながら(銀杏葉)私は、《今》 があってもいつも過去や未来のことを考えたりします。後悔などではなく昔に戻りたいと思う事もあったりします。だけど未来には期待もたくさんあります。 中学の友達に会うとあの頃の自分がよみがえってきたり……明日になってしまうと今日は過去で、明日は今日の未来です。嫌なことが積み重なった過去も素敵な未来のためのもの、大切な過去の思い出も、未来への力になります。 色々な気持ちがありすぎて時に《今》を戸惑ってしまうけれど、過去も今も未来もひとつで私にはとっても大切です。(卒業生)
高 田 暢 子
何もまだ見えていないというように次々疑問ばかり直ぐ湧く(銀杏葉)
最近の私はこの歌そのものだと思う。 さまざまな人間関係の中で、一つの答えが現れても、 それが正しいのかとすぐに疑ったり、人を信じられなくなってしまっている自分がある。もっと素直に自分の信じたことをとことん貫きたいのに、 またいつのまにか次の疑問にとらわれている。 考え過ぎて一番大事なものを見失ってしまう…そんな自分を自分の力で変えていきたい。もっと大切なものを見失わない生き方がしたい。 (西陵中卒業生)
脇 田 真 美
午前には話していた義父もの言わぬ体となりて横たわる見ゆ(ぬば玉) 三カ月前、大好きだったおばあちゃんが突然亡くなりました。家に帰ったおばあちゃんは一瞬、 普通に眠っているだけの様に見えました。ただ堅く冷たくなって、びくとも動きませんでした。 私はその時初めて、これが人の死なんだという事を知った気がします。そして、今にも動きだしそうなおばあちゃんを見ながら、「命」というものの神秘さと呆気なさを感じ、 死を通じて命の大切さを学びました。この歌の中にもきっと、こんな気持ちが込められているんだろうと思います。 (西陵中卒業生)
川 野 伊 輝
美しさ醜さ常に併せ持つ心を今日は持て余し過ぐ(麦渡風)「心を今日は」というより「心を今日も」と思います。心は時に愛しいほどに美しい。 その自分の心の美しさに感動する人も少なくはないだろうと思います。しかしその反面、醜い心には目をそむけたくなる人も多いでしょう。しかし、実際にはこの詩のように心を持て余す毎日。 心の美しさ醜さに対する葛藤を起こす人間は少ないということの裏返しではないでしょうか。そんな人間の多い世の中って平和なものですね。 (西陵中卒業生)
北 川 貴 嗣
家一つ建つさえ無数の生き物が突如殺され滅ぼされゆく(秋沁号)今まで草むらであった空き地に建物が建つ。それまでそこに住んでいた小動物たちにとってはどうであろうか。 住み慣れた地を迷い、驚く間もなく、去らねばならない。それだけでなく、自分の身にも危険が及ぶ…。轟音の中をひたすら逃げ惑う。僕らにとっても大きく見えるトラックやショベルカー、 小動物たちにはどのように見えるのだろうか…。 きっと人間にとってのゴジラ出現と同じ恐怖であろう。しかし、そんな混乱にはおかまいなしに轟音は全て破壊していく。大地が裂け、巨大な物体が次々と降りかかってくる。やがて、轟音が止んだ時、そこに生命の灯はない。(西陵中三年生)
藤 川   彩
紅葉を激しき炎と見ゆるとき木は一瞬の命輝く(断片集) この一首は、ただただすごいと思った。 紅葉を炎と見るなんて、すばらしい想像力だ。また、それを一瞬の命にもたとえているとは何とも驚きである。言われてみれば紅葉の赤さは炎のような思えてくる。これまで深く紅葉を楽しんだことがなかった私にこのような影響を与えたこの一首が、私はとても好きだ。 (西陵中三年生)
阪 本 麻 子
山覆う芽吹きと花の点描が光と風の調べに揺れる(蜥蜴野) 新しい命が芽吹く春の山。花も少しずつ開きはじめたのだろう。それが山をびっしり覆っている…。想像するだけで心が和む風景だ。私が気にとめたのは「点描」という表現だった。確かに、小さな木の芽が花がたくさん寄り合ってできる山は、 自然が描く美しい作品のように思える。 風―やわらかに山をなでてゆく優しい春風―が吹くと、ひとつひとつの点が光を受けて輝きながら、揺れる。「光と風の調べ」という言葉も、あたたかさと新鮮さを思わせた。 ありのままの景色が目に入ってくる絵画もよいが、 もとは無気質な文字が連なって綴る優しい言葉も、 絵とは違う美しさを持っていると私は思う。文字もまた、芸術なのではないだろうか。 (西陵中三年生)
荒 木 祐 貴 子
雲浮かぶ空の高さを窓越しにみつつ今年の秋も過ぎゆく(銀杏葉) 空に手は届かない。雲は掴めない。 よしんば届いたとしても、昼の空と夜の空を同時に得ることは不可能である。 雲はするりとその手から逃れてしまうだろう。 まして窓越しでは手を伸ばすことすら叶わない。それは私が大好きな人の背中に似ている。受験という人生の節目、卒業という別離。 道が二つに別れる時、つなぎ止めておける自信が私にはない。 それでも時間はいつもと同じように過ぎていく。ただ見上げているだけでもいい。せめて雲のように消えてしまわないで。 空のようにいつまでも高くそこにあって!私の切実なる思いをこの歌に重ねる。 (西陵中三年生)
柏 内 絵 莉 香
和やかに教師と生徒という仮面外して人の心に触れる(同)教師と生徒という上下関係をなくし、 友達みたいに気軽に話せるようになると、言いたいことが何でも言え、相談もごく普通に出来るようになると思います。 そんな日がいつか来たらいいなと思いますが、絶対に来ないでしょう。なぜならなめられる先生が出てくるからです。それに歳が違うと考え方も全く変わってくるし、今の世の中は上下関係が厳しく、 とてもじゃないけど友達のような関係にはなれないと思います。堅い仮面が有る限り…。(西陵中三年生)
安 井 春 菜
逢えぬかも知れぬ心を便りにてせめて相手を想いつつ書く(銀杏葉)
逢えないかも知れないという自分の気持ちを、 せめて手紙に込めて書く。 その手紙には、きっと書かれた人の、相手を想う気持ちがたくさん籠もっているんだろうな、と思います。逢いたいけど逢えない、だけどせめて手紙ででも自分の想いは伝えたい。そう思いながら書かれた手紙は、 とても温かくて心に響くものだと思います。そしてそういう手紙は、相手を本当に想ってなければ書けないものだと思うので、その手紙を貰う人は、すごく幸せで温かい気持ちになれるだろうなと思いました。 (西陵中三年生)
新 居 香 卯 月
炊飯器鳴る音雨のように聴くしばし心に生も死もなき(銀杏葉)
炊飯器のあの「ピー、ピー、ピー」という音…確かに植物などにとっては、ずっと待っていた雨音のような感じです。「生」「死」など深い事をずっと考える人でも、ごはんの前には、そんなことなど忘れてしまうという事でしょうか。でもその方が人間らしいと思います。
木 村 明 日 香
いつ死ぬかわからぬ不安の足音を踏みつつ進めどすぐ過去になる(銀杏葉)この歌の通り人はいつ死ぬか分かりません。 明日にでも死んでしまうかもしれません。時々、そういうことを考えてすごく不安になることがあります。 でも、普段はそんなことは考えないし、考えてもすぐ忘れてしまいます。そして、そうこうしているうちに、時はどんどん進んでいって、 気が付いたら、な んか十四歳になっていた……という感じです。 これからも死ぬことを考えて不安になったりするんだろうけど、また忘れて、時はどんどん進んでいくんだろうなと思いました。 (西陵中三年生)
匂 坂 一 葉
今は鈴虫の奏でる石舞台蘇我馬子は悪人なのか(明日香)現在、蘇我馬子は歴史上悪人とされているけれど、 それが本当かは分からないと思います。先生が授業で話されているように、悪人とされる人は、案外優しい心を持っている人かもしれないと思います。人々にどう思われようと見向きもせず、《自分》をしっかり持って…。悪人になるというのはとても勇気のいることだから。そして悪人に近づくというのも同じ。だから孤立してしまう。正義のヒーローになるのは簡単だと思う。 味方になってくれる人がいくらでもいるから。私はその中で、自分の考えを貫く人をすごく格好いいと思うし、決して悪人だとは思いません。 (西陵中二年生)
植 之 原 万 里 代
人は人により滅ぼされゆく歴史辿るか生物兵器も進む(銀杏葉)
この「人は人により滅ぼされゆく」というところで、 昨年起こったアメリカのテロ事件を思い出しました。 あの事件で、本当に、罪のない人たちまで犠牲になり、かわいそうだなあと思いました。今世界中では戦争をしている所がたくさんあると思います。 いろんな民族とかの人々が住んでいる中で、 戦争は避けられないものなのかなぁと思いました。少しでも世界中が平和になったらいいなぁと思いました。 (西陵中二年生)
蓮 本 彩 香
いつ死ぬかわからぬ不安の足音を踏みつつ進めどすぐ過去になる(銀杏葉)人は生まれた時から死に向かっている。 いつ死ぬかは人それぞれだけど、 確実に一日一日過ぎるごとに死に近づいているのはみんな同じだと思う。人は生きているからこそ死ぬ。そう考えると、何だか生きているって不思議な感じがした。(西陵中二年生)
根 岸   恵
花びらとなるため土や花たちの無数の出会いの上歩みゆく(新緑号)
私も今まで、本当にたくさんの人に支えられ、助けられて生きてきた。普段はあまり意識していないことを、改めて感じることができた。美しい花が咲くためには、土や水がなくてはならない。 本当に美しいのは、花だけでなく、その過程なのだと思った。私には、花として支えられる立場だけでなく、土や水として、もっとやるべきことがあるのかもしれない。 (西陵中二年生)
岡 本 英 璃 乃
人はなぜ花を刈るのか菊の花何待ちて並ぶ整然として(銀杏葉)
人はなぜ花を刈るのでしょうか。きれいだからでしょうか。でも刈られるというのになぜ花はあんなにキラキラ光って、 きれいな顔をするのでしょうか。花は何を思っているのでしょうか。ただ人に刈られるのをじっと待ってるだけなんだろうか。 花はかわいそうだと思うけれど、逆に幸福かもしれません。だって優しい人々に、水をたくさんもらって、優しい日光をたくさんもらっているんだらか。 (西陵中二年生)
古 田 土  麗
わが家の屋根の形に雨の音聞きつつ眠りの中に入りゆく(銀杏葉)雨の音をきくと何か不思議に悲しい気持ちになることはありませんか?私はあります。雨の音をきくと、悲しい気持ちになり、早く晴れないかなと思います。晴れの時はすごくうれしい気持ちになるからです。雨の時は、具合もあまりよくないけど、晴れの時は具合もよくなるのではないでしょうか。 (西陵中二年生)
中  恵 理 香
限りなく光の粒が飛んでいる宇宙の果てのその果ての果て(銀杏葉)
私はふと、宇宙ってどのくらい広いんだろう? と考えることがある。 光の粒がたくさん飛んでいる宇宙。それも、果ての果てのその果ての果てまで飛んでいるなんて。 実際に見たらどんなにきれいで神秘的なんだろう。この一首を読んで私の夢がひろがった。いつかこんなすばらしい景色を一目でいいから見てみたいと思った。
浦 谷 あ お い
いつ死ぬかわからぬ不安の足音を踏みつつ進めどすぐ過去になる(銀杏葉)人は、一人一人、今日明日明後日ともう既に運命は決まっているのだと思う。 だから、何年の何月何日の何時何分と、死ぬ時の運命も決まっていると思う。 人はそんな日がいつ来るかも分からず、今を生きている。だけど、どこか心の奥では、死に対して不安がある。 でも、人はそんな気持ちに反して、毎日を呆気なく過ごしている。だから、未来の扉が開いて、過去を作っていくのだと思う。私もそのうちの一人なのかもしれない。 (西陵中二年生)
山 田 小 由 紀
波打ちに透明の波寄せるごと優しき夜の眠りに浮かぶ(銀杏葉)
この一首を見て、 私は波の優しさ、 温かさを感じました。 夏、人々が楽しく遊んでいても、 時には恐ろしいものと化してしまう海、 波。 人間の命さえも簡単に奪えてしまうもの。でも、そんな波も、「夜の眠りに浮かぶ」ような温かさがある。透明な波は優しく包み込んでくれる。こんな気持ちにさせてくれたこの歌は、私にとって印象的な一首になりました。 (西陵中二年生)
阿 加 井 桃 華
蝶となり流氷となり落ちてゆくイチョウ葉すべて違う形に(銀杏葉)
一本のイチョウの大木には数え切れない程の葉がつく。 その葉の一つ一つは形も大きさも全て違うものばかりで、 人間と同じ個性や性格があるのだろう。十人十色というが、イチョウも同じようなもの。秋になり、空を舞い落ちる姿もやはり違う。 早く落ちるか遅く落ちるか、これも運命的なもの。人生もまた同じ。(西陵中二年生)
白 田 理 人
コマ送りに葉もなくなりて裸木を見つつ確かな過ぎ行きを知る(銀杏葉)詠まれている木は、 先生が出勤される時に通る道にあるのではないでしょうか。いつも一目だけ見て通り過ぎる樹木。その毎日の一瞬の映像、動きのない映像が積み重なり、そこに葉が徐々に無くなっていくという変化があった時、 「コマ送りに」という表現が生まれたのだと思います。この表現に惹かれ、僕はこの歌を選びました。 木が一枚一枚葉を落とし、裸木になっていくという、長い時間をかけて起こったことのはずなのに、 「コマ送りに」という表現によって、 それが一瞬の出来事だったかのような印象を受けるからです。 そして、長い月日がすぐに過ぎ去ってしまうという、時間の流れの感慨をもそこから感じ取ることができるのです。 二〇〇一年もあっという間だったなぁと考えている僕には、 共感できる一首でした。 (西陵中二年生)
深 堀 大 佑
つかの間の此岸ゆえ望月を見る井の入り口のように見上げて(銀杏葉) 明るい満月を井戸の入り口を下から見上げるように見ている。そうすると、今、僕たちの生きているこの世は小さな井戸の中の小さな世界に過ぎない。此岸に対して彼岸であるあの世とは、僕たちの生まれる前と、僕たちの死んでしまってからの長い永い時間。それに比べたら、 今、僕たちの生きているこの世が、なんて短いんだろう。僕はこの歌を読んで、そう思いました。 (西陵中二年生)
渡 辺 あ ず 咲
今朝少しまたコスモスの花増えて車窓はフィルム走りつつ見ゆ(銀杏葉)車窓から見る風景は、どんどんと次々に変わっていきます。四角い枠に囲まれた車窓は次々に変わるフィルムの画面のようです。「今朝少しまた〜増えて」というのは昨日から今日と少しずつ、 時間とともにコスモスの花が変化していく様子をも表しています。 景色も時間も次々に走っていくもの…。 私たちが普段何げなく過ごしている時の秘密が、 人の目に映る車窓を立体的に感じながら表されていると、そう思いました。 (西陵中二年生)
二 瓶 加 奈 子
わが家の屋根の形に雨の音聞きつつ眠りの中に入りゆく(銀杏葉) 雨の時は、屋根に「ポツリ、ポツリ」と雨の音があたって、それが、子守歌のような感じで眠りにつかせてくれます。 シーンとなっている家の中で、 雨の音だけが聞こえてくるような感じが頭の中で思い出されました。 (西陵中二年生)
小 樋 山 雅 子
精子飛びしイチョウも今は黄枯れいて巨きな楽器の並木となりぬ(銀杏葉)私の学校の帰り道にはイチョウ並木があります。 それはもう葉っぱが黄色くなって、落ちてしまっているものもあります。時々その並木道を通ると、 風が吹いて葉っぱがみんなでこすれあって、いろんな音がします。 もう葉っぱのほとんどない枝同士でも、こすれ合って、ぶつかりあって、乾いた音がします。落ちてきた葉っぱが地面に着地しても音がします。そんな音楽が、並木道には流れます。自然が作曲した音楽。並木道では自然のコンサートが開かれているんだな〜と思いました。 (西陵中二年生)
阿 河 一 穂
蝶となり流氷となり落ちてゆくイチョウ葉すべて違う形に(銀杏葉)
同じ種類の樹木のものでも、 その葉は実に、いろいろな形、色をしている。一枚一枚に、その葉独特の特徴があるからおもしろい。
人間も、一人一人の性格などがある。 これがもし、みんな同じだったら、どうなるのだろうとは考えたこともないが、さぞかしつまらない世の中だろうと思う。 それにしても、葉でも人でも、それぞれの違いがあっても、分類すると同じものだから、犯罪者に対して敬遠したりするけど、 自分たちもその人達と同じ生き物だと分かっているのだろうか。たぶん頭の片隅にもないと思う。(西陵中二年生)
桐 山 浩 一
炊飯器黎明弾ける音聞こゆアフガン空爆よみがえりつつ(銀杏葉) この一首を読んだ時、空爆を受けた人々は、どうしているのだろうと思いました。アメリカ軍は、テロリストをやっつけるために空爆をしました。 しかし、この空爆の被害を一番受けたのは、民衆だと思います。この人々は、何もしていないのに、家を失い、家族も失いました。人々の心の中には、今も深い傷があり、そして、炊飯器が弾ける音でも目を覚まし、 空爆にあった時のことを思い出しているに違いありません。 (西陵中二年生)
宮 本 浩 平
限りなく光の粒が飛んでいる宇宙の果ての果てのその果て(銀杏葉)
僕は「宇宙の果てのその果ての果て」という部分の「無限」を感じさせる表現がすごく好きで、この歌を選びました。この歌の光景を想像すればするほど、 その光景がどんどん広がっていくように感じたし、 「星」のことを「光の粒」と表現しているところも宇宙の美しさを感じさせ、すごくいいと思いました。僕はこの歌に「新鮮さ」を感じました。 (西陵中二年生)
村 上 香 織
葉書さえ書かぬ奴らが見よがしに携帯電話のメールを送る(明日香)
この歌はまさに私の事だと思う。メールのいい所は、早く届くし、何より気軽に送れる所である。 けれど、考えてみれば、葉書にもいい所がある。届く楽しみがある。自分の手で文字を書くことによって、気持ちがより伝わる。 気軽に送れるのも大切だが、何より気持ちを相手に伝えられるという利点が大きい。 年賀状にもこんな利点が生かされていると思う。しかし私は、やっぱりメールがやめられない。 (西陵中二年生)
衛 藤 麻 里 子
イチョウの葉散りつつ北では流氷の海の卵の生まれつつあり(銀杏葉) この辺では、イチョウが散り始める頃だとあまり寒くない。まして水が凍るなんてほとんどない。 でも、そんなとき、日本の北の方では、もう海が凍りつつある。 縦に長い日本だからこそ、ありえる話だ。私は流氷を見たことがない。この辺では絶対に見れない。 海が氷になるというのは、どんなものなのだろうか。私も死ぬまでには一度でいいから本物の流氷を見てみたいと思った。 先生のうたにたくさん流氷関係のものがある。もし私が流氷をみたとしたら、私も先生のように色々なことを考えるのだろうか……。(西陵中二年生)
横 山 真 理 子
止まるたびカサリと音の聞こえくる新聞配達バイクの巡り(銀杏葉)
「あっ!流れ星や!」私は家のベランダで、しし座流星群を見ていた。朝の四時頃、普段は布団の中で、夢を見ている時刻。私は星達が見せる天体ショーにしばし見とれ、 「あっ!」という声を上げていた。 もうそろそろ寝ようかなぁ、と思った時、ブーンというバイクの音がした。 「何やろ。こんな時間に」と思い、じっと見つめていると、新聞配達のお兄さんが新聞を配っていた。その時私は、「こんな朝早くから配っていたのか。 私が流星群を見て感動している間にも、毎日こんな時間に、こんなつらい仕事をしている人がいるんだと思い、次の朝、新聞がとてもありがたい物に思えた。 今の私の生活は、いろいろな人達の働きによって成り立っていると思うと、何か人のためになる仕事をしたいと思った。この歌を見て、あの日のことを思い出したのだ。 (西陵中二年生)
金 指 な つ み
おじいちゃん今までどうもありがとう娘の声に皆涙せり(ぬば玉) この歌に共感しました。 私も小学校六年生のころ、祖父が亡くなり、その時はずっと泣いていたような覚えがあります。お通夜やお葬式や火葬の時もずっと泣いていました。 何よりも祖父が亡くなった時、私はバスケットボールをしていたんです。祖父が危険な時に見舞いにも行かずに…。 そして、ついに私が言えなかった「ありがとう」の言葉。 たった一言の「ありがとう」をついに私は言えませんでした。 私の言えなかった「ありがとう」を言えた娘さんはすごい!と思いました。 (西陵中二年生)
宮 崎 有 希
いつ死ぬかわからぬ不安の足音を踏みつつ進めどすぐ過去になる(銀杏葉)中一のとき、私はいつ死ぬんだろ? もしかして今日かな?明日かな?とかを考えているとすごく不安になったことがあります。いろんなことを考えながら、不安になりながらも一日が過ぎていきました。お父さんに「私っていつ死ぬんだろ?もしかして今日かな」とか言うと「何言ってんの!祖母や祖々母はすごく長生きしてるんだから、お前も長生きするよ」って言ってくれた時がありました。男より女の方が長生きする、ってよく耳にします。 女は男より長生きするけど、男だってそれなりに生きてるじゃん!って、それを耳にしたときに思いました。 私はいつ死ぬんだろう?今日かな?明日かな?って思っていたのは、 今では過去のことになっています。今は生きているのが楽しいです。今の私はいつ死ぬのかな?ではなく、 今日はどんなことがあるかな?お弁当は何かな?とかを考えてしまうようになりました。だから、私は今を大事にして生きていきたいです。 (西陵中二年生)
松 川 実 矢
雲浮かぶ空の高さを窓越しにみつつ今年の秋も過ぎゆく(銀杏葉) 夏から見上げていた空は相変わらずだけど、 まわりの景色は全く違うと思った。季節の流れと雲の流れは微妙に違う。ボーッとしているときにこの一首が自然に出てきた。そして、また一年経ったなあと思った。いつ死ぬかわからぬ不安の足音を踏みつつ進めどすぐ過去になる私もよく思うことが書いてあります。いつ死ぬか本当に不安だけどいつの間にかそのことを忘れていたり、 寝る前に今日も無事一日が終わったなあと思うことがあります。 いつ何があるのかわからない不安を誰もが持っているのだと思います。
隅 田 未 緒
いつ死ぬかわからぬ不安の足音を踏みつつ進めどすぐ過去になる(銀杏葉) 人はいつ死ぬか分からなくて、もしかしたら次の一歩で死ぬかもしれない。だけど私達は何も考えず毎日進んでいる。ふと過去について考えるとその考えた《今》も過去となる。 一度しかない今がすぐに多くの過去となってしまう。そうして進んでいくと、いつか目の前には死がある。 止まりたくても日々進まなければならない。だから毎日を楽しく過ごしたい。だっていつ死ぬか分からないから…。 (西陵中二年生