三 浦 光 世
人も花も地球も不思議一瞬といえども愛によりて生くべし(馬の骨)
人間の命、花や草木、そしてそれらを抱えている地球、 正に驚異的な存在である。 私は毎朝、窓を開いて、青い空、朝の太陽、時には雲、裏の畠の花や野菜などに、ひとしきり目を注める。 そしてその度に凄い世界に生かされていることに感動する。 これが偶然に出来たものとすれば、偶然より偉大なものはないことになる。 が、これはやはり創造主の意志と力と真理の所産にちがいないという思いに落ちつく。そしてその愛によって保たれていることを思う。この一首は深い共感を私に与えてくれた。「初めに神天地を創り給えり」の聖書の冒頭の言葉も連想させられた。
(作 家。『三浦綾子作品撰集』『死ぬという大切な仕事』)
藤 本 義 一
血統の始めはどこの馬の骨空海歩むケモノミチあり(馬の骨)
川添氏の歌になにやら激しい起伏を感じる。
生活の上に変化の兆あるように思う。 若干のストレスが膨れ上がって漂い出したのではないだろうか。進むと思えば退き、突くと思えば捩れ、昇ると思えば沈む作風の変化は、身辺に処理し難き諸種が生じているのではないか。
この一首も叩きつけた憤りのものと思う。一度、 オックスフォード大学の分子医学研究所の遺伝学の項を展いて読んでほしい。
――歌壇など――の一首にも同じ心境の傾斜が感じられる。人間残された時間を生きるのではなくて、与えられた時間を生きるものである。 (作 家)
島 田 陽 子
夢なれど網走二中旧校舎戻りて座るわが机あり(馬の骨)転勤となりて再び網走に戻る夢あり流氷に乗り この二首を詠む作者は幸せです。 戻りたいと夢みる場所を持っておられます。 さらに 「ここでない、どこか」を常に思い描いておられますから。
「 ここでない、どこか」はユートピアです。 それは現実否定から生まれます。創作する者にとって否定すべき壁は、エネルギーの源になります。 私には「網走」はありません。
その意味で作者をうらやましいと思います。 ユートピアもあります。 永遠の地に向かって歩き続ける幸せを思います。(詩人。『島田陽子詩集』『金子みすゞへの旅』)
畑 中 圭 一
アホやなあ先生らしいと生徒より言われてホッと一日終わる(馬の骨) 生徒の投げかけてきた率直な言葉の中に彼らなりの体温を感じて、心の通い合いをかみしめ、 ホッと一息ついている教師。彼の毎日がこうした「ホッ」で終わるものであってほしいと、 思わず共感してしまう歌である。「生徒より」という語句は、かなり抽象化された表現のように感じられる。 「生徒らに」「女生徒に」……などとすると、イメージは違ってくるが、少し具体性が出てくるのではないか、と門外漢の私は呟いてみる。 (詩人。児童文学者)
加 藤 多 一
石ばしる垂水に魚の跳ねるごと少年が面一瞬決まる(馬の骨) 古歌のフレーズを使いながら剣道試合のいっしゅんを歌にした精神力(テクニックではない)に共感を覚えます。というのは、伝統を十二分に背負った詩型はともすると限りなくヒエラルキーに近づく。テンノウ制に近づく――と直感しているからです。伝統が形式だけならいいけれど、 発想の方向も美意識も階層性の中心の短歌的詠嘆に安住してしまう危険、その事例には事欠きません。魚のように跳ねて面を撃つ少年をとらえた眼力は、 詠嘆の美学で曇っていない。そこが好き。 (児童文学者。オホーツク文学館長)
菊 地 慶 一
流氷の薄き所を歩みいる危うき雨の舗道に一人(馬の骨) 流氷の薄き所を歩みいるの句は、私自身の姿である。長い間さまざまに危うい氷盤の上を歩き流され生き延びて来たのだという感慨にとらわれる。作者も雨の舗道に一人立つ己を冷静に眺めている。これを孤独というか孤高というか。人々とのつながり、交流に依拠しなければ成立しない文学活動の悲しみも伝わってくる。 と考えている時、流氷記の作者が我が流氷庵を訪ねてくれた。 しばし、氷海を眺めつつ語り合う。 (流氷観察者。作家。『オホーツク流氷物語』)
近 藤 英 男
血統の始めはどこの馬の骨空海歩むケモノミチあり(馬の骨) 前号でいただいた「蝶となり流氷となり」の歌が中学二年の二人も選んでいられるのが《翁童論》的でまことうれしい限り。 寺尾教授には及ばないが九十の坂を越えて童子に戻りつつあること不思議。その果ての《スポーツ曼陀羅》として空海に心酔すること五十年。この歌は、馬の骨とケモノミチと空海のおりなすデルタ構造。川添さんも、もうそんな歌つくられる御年と汲動共感。俳句《槐》の岡井省二先生も空海派の一人。句集十冊残して幽界上昇。道元、法然、空海と渡り歩いた私には、この歌に共響の不思議さを感じるのです。
(奈良教育大学名誉教授。『スポーツ曼陀羅』)
高 坂 相
歌壇など犬に喰われろ人麻呂も芭蕉も旅の途上にて死す(馬の骨) 文学というものに何の意味があるのかわからなくなった時代。文学が衰弱していればいるほど、 文壇の無惨なスノビズムだけが際立つ。言霊の復活は、荒地に生命の種を見つけては生命を吹き込む、詩人の孤独な旅にかかっている。
『馬の骨』は、全体に切迫した緊張感漂う歌が多い。青春がもう一度燃えているような浪漫と、真の意味での宗教性が現れて来ているように感じます。 すぐれた歌を沢山読ませて頂きました。
(文芸評論家。『奇魂』編集。)
中 平 ま み
骨となり死を確かめた筈なのに訪ねて来そうな義父待っている(明日香)火葬場は、行きたくない場処です。骨を拾うという作業も耐えられません。しかし愛する人や愛犬の骨を枕元に置き、心の平安を得る人もいます。いい人は早く死ぬ。
そして、私は人間よりも遥かに深く愛する犬たちの寿命の短さが哀しい。 今三代目の柴犬に日々心慰められ励まされてますが、初代、三代目そして父の死などは正にかなしいものでした。(作
家。『ストレイ・シープ』『映画座』)
宍 戸 恭 一
冬日浴ぶ曼珠沙華の葉の青々と彼岸此岸を突き抜けて生く(馬の骨)
このうたに刺戟されて、前号の仮想現実からの脱出に、大徳寺開祖の「億劫須臾」(おくごうしゅゆ)を加えたい衝動に駆られた。この言葉には、次のような意味が含まれている――いま、目の前に現存しているものにでも、何ひとつ心にふれ合うものが無ければ、それは私にとっては死体に過ぎないが、 それに反して、遥かに遠い存在でも、心にふれ合うものがあれば、たとえ億年という時間を超えても対話に価する存在になりうる――と。つまり、時間には時を刻む時計のものと、それとは別にもうひとつ、個々人の体内に宿る時間のあることを、教えている。 曼珠沙華の青々とした葉を目にした途端、「彼岸此岸を突き抜けて生」き続ける植物の生命力の凄さをリアルに肌に感受する川添さんのうたから、彼の内部に、高度な精密な体内時計が宿っていること、 そして、この時間の所有者にだけが、いま、私たちをとり囲んでいる仮想現実を、「仮想」として葬り去る力のあることを、読み取ることが出来る。(三好十郎研究家。三月書房店主)
リカルド・オサム・ウエキ
血統も怪しきどこの馬の骨ごぼう抜き抜く身を誇りつつ(馬の骨) この一首を選んだのは、第三一号の予告で、今度は『馬の骨』ですと知らせていただいた時に既に決定していたようなものでした。移民の一人である私も、疑いもなく馬の骨ですから…。日本国内で、日本人同士が、どこの馬の骨かと言い合っても、その血統を辿っていけば、イザナギとイザナミに起源を同じくして、笑い合うしかありませんが、
他民族の寄り合い所帯のブラジルでは、まさに『馬の骨』という言葉に実感が籠ります。 誰もが過去を隠して、薄っぺらい虚栄心を剥き出しにし、誰もがお山の大将たらんとして、目を剥いています。
(作家。『白い炎』。ブラジル在住)
川 口 玄
我が命なくなりてもなお繰り返し時計のごとくに雲流れゆく(馬の骨) これは厳然たる事実で、近い将来の必然であります。年とったせいか、近年、実はこの歌のような感慨におそわれて奇妙な気分になります。おそろしいような、別におそろしくもないような。(大阪春秋)
神 野 茂 樹
素晴らしい歌を夢にて作りしがどこに忘れて終日が過ぐ(馬の骨) 小生もたまにあります、共感。もっとも小生はさめるとすぐ忘れてますが…。 次の「歌壇など」や「光圀公」なども共感。 とっくに選んでたんですが、なかなか落ち着かず、今日になってしまいました。電車の中で読んでたんですが、乗り越してしまいました。
(『大阪春秋』編集委員。)
堂 本 泰 郎
素晴らしい歌を夢にて作りしがどこに忘れて終日が過ぐ(馬の骨) いろんないい歌があって迷ったのだが、この歌に決めました。川添さんもこのような経験を何度もされたのでしょう。 時と共にすべてが去ってゆくはかなさを詠んだ歌が川添さんには多く、
私も気に入っています。じつは私は小説と絵を趣味というか、生きがいにしていますが、面白い話を夢で思いつくことがたまにあります。が、 忘れている。
何を夢中になっていたのかその話のなかに自分はいたというのに。CDをよく聴いた翌朝には、何かメロディーを無意識に作っているのに忘れています。人生とは、時とは何なのでしょうか?
(通称『西成のオッチャン』)
上 山 好 庸
宝玉のごとく輝くリュウノヒゲいかなる神の切崖下る(馬の骨)
それは庭の片隅にあって、 ヒゲのような葉をかき分けると深い青色の実があらわれるのだった。 リュウノヒゲという名を知ったのは大人になってから。ポケットに大事そうに入れて、その膨らみを確かめると、スズタケで作った鉄砲の玉に使った。もう少し細い鉄砲には杉の実を使った。 パチンッという弾ける音で競い合ったようにも思う。《宝玉のごとく》で、子供の頃の情景が鮮やかに甦りました。 (写真家。上山好庸写真集『万葉明日香路』)
清 水 敦
見る程にレールも走りついて来る車窓は幼き頃と変わらず(馬の骨)
作者の日常の感慨なのだろう。いつの頃からか仕事とか、家庭とか、 もろもろ自分と関係を結んだものたちが等間隔で切れ目なくくっついて来る。 それは並走する線路のように終着駅までなのではなかろうか。 ふと遠い日の記憶がよみがえる。 諦めにも似た受容。 はたまた運命愛か。(切り替えポイントだってあるよとはいらないおせっかい) (造形作家。『私の流氷』同人。網走呼人在)
釜 田 勝
血統も怪しきどこの馬の骨ごぼう抜き抜く身を誇りつつ(馬の骨) 「義父死去のため、こちらからは賀状を出せませんので」と、丁寧な挨拶状に添えられていたのが、今年の干支に因んだこの一首。もとをただせば、みんな同じ《どこの馬の骨》。血筋や血統が如何ほどの重みを持つのか。
作品を読んで体の中を爽快感が駆け抜けました。マッチ擦るつかのま火は木を抱き締めて殺して己れも消えてしまえり寺山修司にマッチ擦るつかのま海に霧ふかし見捨つるほどの祖国はありやの秀歌があって、つい目にとまりました。 今や仏事でしか使われなくなったマッチ。義父の死以来、マッチを擦る行為が日常的となってしまった中から生まれた歌でしょう。
一本のマッチが燃え尽きるさまを、少し語調はきついけれども、うまく感性で詠まれていると思います。 (元『競馬キンキ』編集長)
林 哲 夫
人と人かく憎み合い殺し合い果たして神は必要なのか(馬の骨)
神については無数の言葉が費されてきた。「神々は実存する。それは悪魔だ」コクトー、「神さまはできものもくださるが、薬もくださるだ」サンチョ・パンザ、 「苦痛がひどければひどいほど、より多くの神が必要になってくるのです」ジョン・レノン、「神は酔つぱらひだ」金子光晴、 「お前を罰する仕事は神にまかせておけばよい」サド、 「人間は神よりもむしろ奇跡を求めている」ドストエフスキイ、「ちはやぶる神神に座ますものならば、あはれと思し召せ、神も昔は人ぞかし」梁塵秘抄……。要するに神を口実にしてはならない。 (画 家)
井 上 芳 枝
冬の日の今日は和みて紫陽花の芽の柔らかさに目を凝らしいる(馬の骨)細かい観察眼に感心するとともに、植物によせる、優しい気持ちが溢れている歌です。結句の「目を凝らしいる」に、心洗われる思いです。わが家の居間の前の狭い庭の紫陽花も、黄緑の柔らかな芽を出して、春の到来を待っています。私なりの一日一首の歌作りを続けていますが、『流氷記』はよいお手本になり、喜んでいます。
(北九州市立大蔵中学校時代の恩師)
小 川 輝 道
文明が作り地雷を埋めてゆく山河の民は滅ぶ他なく(馬の骨) アフガニスタン民衆を戦火に晒した報復戦争、 果てることないパレスチナへの武力行使の横暴、それらを糺すことのできない「いい加減さ」の文明とは何なのか。
足をふきとばされる子供達、生命を軽んじる超大国の世界支配や戦争の思想を「地雷を埋めてゆく」と表し、平和に生きようとする民衆の悲しみを下三句で捉えてくれた。横暴に対して声を挙げるべきである。枝のみとなりて深夜のプラタナス手を差し伸べよあまねく宇宙へ
葉を振り払ってごつごつと裸木の枝を張る姿の凄さを感じてきた。四、五句の雄大さは作者の心象表現となっている。 (元網走二中教諭。北見在。)
井 上 冨 美 子
夢なれど網走二中旧校舎戻りて座るわが机あり(馬の骨)私は、二中旧校舎で十五年位勤務していましたので、 今でも隅々まで思い出されます。風格のあった黒びかりしていた階段の手摺り、隙間だらけの窓、ダルマストーブから石油ストーブに、花壇には四季折々の花が咲いていました。冬は廊下はシベリア街道、じっと寒さに耐えながら授業を受けていた生徒達、
その分休み時間はストーブを囲んでよく話をしていましたね。 放課後はいつも陰で私達を支えて下さった公務補のおじさん方とも笑い声を響かせながら寒い教室で話をしていましたね。とても寒い中での学校生活でしたが、なぜかしら心の中は温かかったよね。
もしかして北国に住んでいるからこそ味わえる温かさかなと勝手に思い込んでいます。 新校舎が完成して、二学期の終業式を終えて、生徒と職員が一丸となってあの雪の散らつく中、あの大変な働きに、私は感動を覚えたものです。その中で「旧校舎で卒業したかったね」という生徒達の声も、決して少なくなかったことも記憶に残っています。
生徒にとっても本当の学び舎だったのですね。 久しぶりに気持ち良く二中旧校舎での思い出にいる私でした。 (元網走二中教諭。網走在。)
山 川 順 子
やわらかく白き光を吸いながら水仙緩き傾りに開く(馬の骨) 水仙は私の誕生花。丁度部屋に飾っていましたので選びました。厳しい寒さが続く雪国では、白い花は見た目に冷たい気がします。でも力強く咲く姿は、か弱くもあり、りりしい美しさもあるような。 私もそうありたいと願います。ニュースで梅が満開、桜がつぼみをと開くと本当に同じ日本かしらと思います。こちらは冬の祭りが真っ盛り、五月の連休までお目にかかれません。気持ちだけでも水仙のようにシャキッとして雪解けを待っています。(『私の流氷』同人)
千 葉 朋 代
目つむれば向陽ケ丘に立っている海には蜃気楼を浮かべて(馬の骨)
目をつむると一瞬で行ける場所がある。思い出すのではなく、魂が飛んでそこに行くように。人は皆、その翼を持っているのでしょうか。それとも特別な人だけが、翼を持つのでしょうか。 海からの向かい風に翼を広げ、流氷原を滑空すれば、流氷記を手に飛ぶ魂と出逢える気がします。逢うこともなく過ぎるはずの方々と流氷記を通じて逢える喜び。川添様に感謝しております。(『私の流氷』同人)
柴 橋 菜 摘
逢いたいと言わなく言われなくなりて晩秋の風骨まで沁みる(銀杏葉) 三十一文字が、彼方の記憶を突然呼び戻す。 微かなりとも、残っていると信じたいパッション―。骨まで沁みる風に春を待っている。命ある限り―。たった一度の生を想う。流氷記を拝読しながら熱情が昇華され、又燃え始める心地よさを味わう。 そして、逢いたい人には、逢っておこうと思うのだが―。ままならぬ故に、今のこの時をいとおしく大切にしたい。流氷記との出逢いも、又しかりである。 (奈良大和高田市在)
松 坂 弘
何となく死者の魂あるような明るき月夜の墓に来ている(馬の骨)「生前葬」というのを有名人がやって話題になったことがある。その後、ひそかにこれをやる人が増えているとか…。近年は地球環境のことが何かと話題になっているが、
そのことに共鳴する人たちの間で「樹木葬」がはやり始めている由。 花の咲く樹の下に自分の骨を埋めてもらうのだそうである。 遺言書に書いたら誰でも出来るかというとそうでなく、
様々の手続きがいるらしい。 「月光」と「墓」とが印象深くとらえられている。視点のあて方が、なかなか個性的だと思う。 (『炸』主宰。現代短歌文庫『松坂弘歌集』。)
北 尾 勲
冷えしるき朝の大気を灯すため橙実る坂下りゆく(馬の骨) 厳寒のころの作品であろうか。手も足も、体全体が凍えてしまいそうな「冷えしるき朝」なのである。そんな中、眼前に橙が何個も実っている木があった。
まるで「大気を灯す」ように。しかも、そこが坂道であってみれば、 この情景は鋭角的に見る者の目をとらえて放さない。何の気負いもなく、淡々と歌われていながら、ここには一つの確かな世界があるように思える。
(「ヤママユ」同人。)
里 見 純 世
夢なれど網走二中旧校舎戻りて座るわが机あり(馬の骨) 四八頁の此の歌から 湯気のごと立つ海霧の湾見えて朝の岐羅比良坂下りおりまでの四首が小生の心を捉えました。さり気ない表現をしていますが、 網走を追想する先生の気持ちがよく詠まれていると思いました。二月八日から十一日まで、網走はオホーツク流氷祭りが行われています。
今年は昨年と比べると、気温が暖かです。丘の上から流氷が縞状に白く帯を引いているのが見渡せます。 次の一首を読んで、 ほんわかとした気持ちになりました。アホやなあ先生らしいと生徒より言われてホッと一日終わる
(『新墾』『潮音』同人。網走歌人会元会長。「網走刑務所」)
長 岡 千 尋
評価定まらぬ我にて沸々と捨てきれぬもの溢れつつかなし(馬の骨)
作者にはめづらしく激しい破調だ。 「かなし」は小生などもあまり使ひたくない歌言葉であるが、本当にかなしい時は、偉丈夫も使ふ。――大伴家持も、 あしびきの八峯(やつを)の雉(きぎし)鳴きとよむ朝けのかすみ見ればかなしも〈万葉集巻十九〉 とよんでゐる。私はこの越中時代の歌を口づさむといつも泪がにじむ。 家持は滅びつつある大伴氏を思ふと本当にかなしかつたのであらう。 だがこの「かなし」には感傷がこもつてゐる。 ――実は小生も世にうけ入れられない隠者なのだ。(『日本歌人』同人。『かむとき』編集。談山神社神主)
高 階 時 子
今日もまた地雷踏みつつ人あらん一足歩む時の狭間に(馬の骨)
地雷というのは思えば思うほど恐ろしい武器である。歩く、触れるという自然な日常の行為が、そのまま死や負傷に直結している。一見お菓子とまちがえそうな地雷もあるという。 そして地雷と義足を両方とも製造している会社があるという。 こうしている間にも地雷を踏んで命を落としたり、 手足を失っている人が確実にいる。 とりあえず今の日本に住む私たちは地雷を踏む心配をしなくてもよいが、 地雷を踏む恐ろしさが体中から沸き上がってくることがある。下旬からはそんな作者の思いが伝わる。作者は詠まずにはおれなかったのだ。 (『礫』 同人)
川 田 一 路
関わりのなき特急が通過するその影ホームの人攫いつつ(馬の骨) 不安な時代、 しかもその不安の発信体が掴みにくく我々をますます不安にさせる現代社会。 その心理状態をプラットホームに立ちながら実感させる見事な一首。自分に関わりのない特急。しかもその影にさえ我々の存在は攫われていく。しかし、その特急が無ければ現代社会の生活は成り立たないという矛盾が感じられて面白い。では我々はいかに生きていけばよいのか。 落ちたいか落ちたくないか冬の日を浴びて銀杏の葉が縮みゆく その答えを暗示するようなこの一首も気にかかる。 (『山繭』 同人)
田 中 栄
あちこちの地雷うっかり踏まぬよう妻の機嫌を測りつついる(馬の骨) 面白い歌でうまく夫婦の機微を言い得ている。 「地雷」はいまのアフガンの現実などからの連想であろう。誰でも負の部分があり、それにうっかり触れられないようにするのはありうることだ。
しかしきびしく言うと少し一般論的な甘さがあるのでなかろうか。下句あたりにそれが感じられる。 実際に即した断面を切り取って象徴的に歌うということも考えてみたく思っている。(『塔』編集)
前 田 道 夫
蟻塚や蜂の巣のごと人築く都市見つつ飛ぶ渡り鳥あり(馬の骨)
人間が築いてゆく都会も、鳥の眼には、 蟻塚や蜂の巣のように、自然の一部として映っているのかもしれない。 営みに関していえば、 蟻や蜂と人との間に、どれほどの差があるのだろうかと、そんなことをも考えさせられた一首である。人と人かく憎み合い殺し合い果たして神は必要なのかも同感させられる作品である。(塔)
鎌 田 弘 子
あちこちの地雷うっかり踏まぬよう妻の機嫌を測りつついる(馬の骨) 第三一号の冒頭近くにある社会批判を孕んだ一首。上の句迄で、「あちこち」は曖昧でまずいなと思いつつ読み、 下の句での思いがけない展開に一先ず「あちこち」でよいかと思い始める。
ふたり住む日常の場があり、 男との思いと、女の関係が、少しユーモラスに出されており、微笑ましいのだが、喩として、地雷を出すことで、重すぎ、或いは怖れをもつ。
不謹慎にもあたるかと些か気になるが、これはこれで、或る軽妙さで作品をまとめ得ていると思う。
(『未来』同人。鎌倉彫師範『刀と漆の歳月』)
二 上 初 子
怒られては抱き締められに来る娘命を包むつかの間と知る(馬の骨)
今私も第三歌集『余光』をまとめているが、 娘たちや孫の歌は年月を経てみると、甘くって、とてもでないが削らねばならないという思いになる。 しかし、右に挙げた上句の具体を下句で「命をつかむ」という大きなものとつないだので、成功した一首ではないかと思う。 (『塔』 『五〇番地』 同人。)
榎 本 久 一
聖なのか悪なのかさえ妖としてオサマヴィンラディン行方知らずも(馬の骨)ヴィンラディンの人気はおさまりそうにない。その中で、この一首は出色ではなかろうか。彼の生死の確たる証しの出ないうちはこの歌の価値は下がることがない。
「妖として」と直接的な表現をとっているが外に言いようのないあやしさを捉えていると思う。 「行方知らずも」は人麻呂の本歌を髣髴とさせてよく効いていると思った。落ちたいか落ちたくないか冬の日を浴びて銀杏の葉は縮みゆくも面白いと思った。 (『塔』 同人。)
三 谷 美 代 子
我が内に巣くう無数の虫たちを思いつつ寝る愛しみながら(馬の骨)
「無数の虫たち」は結句が「愛しみながら」と納められているので、病巣などとは考えられず、 私などにも巣喰っている、塞ぎ虫、気儘虫、怒り虫、泣き虫、癇癪虫、弱虫、怠け虫等、感情の虫と受け取りました。 一日の終わりに、我が裡に巣喰うさまざまの感情を、宥め愛しむ作者像が顕ち上がります。程ほどに我を蝕む虫もいて仲良く暮らせわが内側も 繊細な作者の裡側を垣間見る想いで幾度か読み返したことでした。 (『塔』 同人。)
小 石 薫
見る程にレールも走りついて来る車窓は幼き頃と変わらず(馬の骨)
蟻塚や蜂の巣のごと人築く都市見つつ飛ぶ渡り鳥あり
程ほどに我を蝕む虫もいて仲良く暮らせわが内側も
旬の花過ぎし師走のアジサイを見つつ乾いてゆく過去がある
俳優は何度死んでも生き返る本物の死が数行にて載る
長いのか短いのか一日が過ぐかけがえもなく生きて地球に
無駄なもの何一つなき人生と空行く雲を見つつ思えり
新年の小さな命の金木犀冬芽は黄緑色やわらかし
やわらかく白き光を吸いながら水仙緩き傾りに開く
マッチ擦るつかのま火は木を抱き締めて殺して己れも消えてしまえり
現代の社会を凝視して《おはなし》とせず、 作品として立ち上げた力を買います。今号は一首に絞ることができませんでした。
(『塔』 『五〇番地』 同人。)
鬼 頭 昭 二
蛍光灯の小さな穴より紐垂れてカンダタ我は手を伸ばしいる(馬の骨) 自分をカンダタと重ね合わすところは見方によってはポーズとして受け止められる危うさはあるが、 余り深刻に受けとめずやや軽くむしろ滑稽味を感じる位の方がリアリティーがある。
日常の何気ない断片からふっと連想する虚構の世界。 それが自分自身の広がりにつながってくる。 (『五〇番地』同人。)
遠 藤 正 雄
落ちたいか落ちたくないか冬の日を浴びて銀杏の葉は縮みゆく(馬の骨) この歌を読んで、私事ながら数えの百歳になった寝たきりの母のことを思い浮かべた。 「落ちたいか落ちたくないか」この言葉が胸を刺す。銀杏の葉は余力の限り枝にしがみついている。為すがまま為されるままの苛酷なる生を母はながらえている。まさに、この自然詠は老人社会の現実であると思った。幾つもの危機一髪が一時間程運転のなかにもありき実に一寸先は闇であり、人間の身体は四苦八苦、百災の入れ物である。
平 野 文 子
夢なれど網走二中旧校舎戻りて座るわが机あり(馬の骨) 原点に戻りたい作者の思いに、表紙を網走二中旧校舎とされた流氷記、その第三一号馬の骨の中で私はこの歌を選びました。 一首の中に流れる感慨は、
常に作者の胸中に息づく第二の故郷網走への望郷でありましょう。夢にも出て来る網走二中の旧校舎です。その夢の中では、再び戻って座り得る作者自身の机もあるのです。「盛岡の中学校のバルコンの欄干(てすり)に最一度(もいちど)われを倚らしめ」
啄木の歌を思い出しました。 (『かぐのみ』。北摂短歌会。)
塩 谷 い さ む
中納言光圀公にてあらせられ土下座促す何があるのか(馬の骨)
「頭が高い、下がりおろう!この印籠が目に入らぬか…」で目の前の悪人たちは美事に退治されて視聴者はホッとする。 一件落着である。 だが、作者の眼はその裏に潜む権力者を追っている。土下座を促す《もの》に対する怒りであり、 口には出せない権力への追及である。日本人に潜在する「お上」という殺し文句である。「あちこちの地雷うっかり踏まぬよう妻の機嫌を測りつついる」「あどけなき娘の寝顔しみじみと生きてゆくべし心足らいて」作者は自分を偏屈な男と言うが、心は純粋である。「純情一路」なフェミニストかもしれない。 (『塔』 同人。)
山 路 義 雄
何ほどのなき光景も川のごと人少しずつ代替わりゆく(馬の骨)
特別に有名と云えないごくありきたりの光景であってもよく観察すると、 構成員である人間は間断なく代替わりしていることを知る。それは恰も川の流れの如くである、との意。
森羅万象ものみなすべからく輪廻転生すると云う宗教観である。 河岸に立って飛沫を上げて流下する河面を眺めていると、 上流から下流へと一見同じ水が動いているようであるが、実は渕あり瀬ありで、水は其処を流下する度に、生まれ替わり代替わりして流れて行くのである。久しぶりに以前住んだことのある土地を訪ねた時の実感に等しい。
山 本 勉
素晴らしい歌を夢にて作りしがどこに忘れて終日が過ぐ(馬の骨) 二十代の頃から短歌を書きだした私は、 枕辺にノートを置いて寝たものだ。眠る前に浮かんだ歌はその場でメモできても、夢の中でできた歌はとらえようがなく、目覚めてみれば何も残ってない。そんな歌こそ佳作のように思えて、終日、心の重い日があった。
定年後の今は作曲の真似ごとをしているが、床の中でメロディーが浮かんできても、それは文字に現せない。そして翌日にはすっかり忘れている。まして夢の中では…。そんな気持ちがこの歌に現れていて面白いと思った。
(北摂短歌会)
森 田 冨 美 子
長いのか短いのか一日が過ぐかけがえもなく生きて地球に(馬の骨)
七十歳過ぎてからの一日は駆け去る如くで、 もうそろそろお迎えが、と思いながらも、球根を植えていたりする醜さ…もう地球にいても用のない老人…。でも先生の此の素晴らしい一首に感銘し、かけがえのない命、 もう二度と地球に帰る事の出来ない日々だからこそ大事に生きていきたいと思いました。 (北摂短歌会)
リカルド・オサム・ウエキ
金木犀枝を払わぬ理由にて昨年(こぞ)より止まる空蝉があり(銀杏葉)
自然をそのままを詠まれたものでしょうが、 生きとし生けるものだけではなく、既に死んでしまっているものまで慈しみ、愛しようとする人間味が溢れるばかりに感じられる良いお歌だと読ませていただきました。地上に這い出てからの短い命を、命の限り歌い上げたあとの空虚さは、まさに人間の生きざまに似て、身につまされるものが在るのではないでしょうか。空蝉の連想から、昔リオ州の果樹園に住んでいた頃、ともに棲息していたカスカベルや、カスカベルよりももっと猛毒を持っているスルククーという毒蛇が衣替えしたあとの抜け殻が、 風にからから鳴るのをおぞましく聴いたことがありました。 まるで臆病者の己を嗤われているような気がしながら…。 (作 家。『白い炎』。ブラジル在住。)
上 山 好 庸
美しく堅き舗道にしめやかに土にもなれぬ桜葉が落つ(銀杏葉)
桜葉の紅葉はどれひとつ同じものはなく、 一枚の葉の中でも微妙なグラデーションで色の変化を見せてくれます。毎秋、スタジオ近くの公園で、 しゃがみ込んでは一枚一枚と拾い集め部屋に持ち込みます。棚の上には前の年の色褪せた葉が数枚残っていて、入れ替えをするのです。生きていくということは、こういう確認作業の繰り返しなのかもしれないと思います。 《土にもなれぬ》悲しさがあります。 (写真家。上山好庸写真集『万葉明日香路』)
磯 田 愛 香
悪者を殺して愛をテーマとするその単純を疑いて見る(馬の骨)
人を殺すのは悪いこと。それを裁けば正義。はたしてそうだろうか。愛しき故の悪、恐怖故の悪もあるだろう。 殺すという行為そのものを悪だというならば、どの人間も犯罪者であり、そこに愛はない。 私は誰も裁こうとは思わない。裁くには、まず裁かれるべきだから。だからこそ、この歌のように全ての悪に、人間に、私は疑いのまなざしを向けたい。 (西陵中卒業生)
高 田 暢 子
人と人かく憎み合い殺し合い果たして神は必要なのか(馬の骨)
高校で世界史を勉強する中で改めて人の歴史は戦いの歴史だと思った。しかも戦いの多くは宗教がからんでいる。どうして神の存在を信じている人が人を殺し、 争うことを止めないのか私には全くわからない。アメリカ・アフガンの戦いも宗教の違いが大きな原因の一つのようだが、 私はたとえどんな正当な理由を説明されても、人が人を殺していることに変わりはない。 理解できない。ともかく一日も早く終結を迎え、 犠牲者がこれ以上出ないことを願いたい。 (西陵中卒業生)
小 西 玲 子
人がまあ何とレッテル貼ろうとも歌うべし我が心弾めば(銀杏葉) 私は、人にどんな評価をされても、自分らしさは大切にしたいです。 私の友達は、何かあったときいつも、「自分の気持ちは大切に」と言ってくれます。 もちろん周りの意見や評価は聞くことも大切だと思うけれど、自分の好きなことをやめたり、自分の気持ちを変えてまで、それに合わす必要はないと思うし、そんなの自分ではなくなってしまいます。私は、私らしく生きていきたいです。だけど、そう言い切れるのは、 私を支えてくれて私の私らしさを好きでいてくれる友達のおかげです。これからもその事を思いながら、私らしい私でいたいです。 (西陵中卒業生)
川 野 伊 輝
わが娘叱られてはすぐ抱き締めてほしいと我にぶら下がりくる(麦渡風)実に微笑ましい一首だと思います。自分にも娘ができたらこのような一シーンが訪れる時が来るのでしょうか。しかし、こんな温かい日々も時が経つにつれて冷めていくのだろうと少し淋しくも思います。父娘の親子愛が優しく澄みわたるようなそんな感じの快い一首でした。 (西陵中卒業生)
北 川 貴 嗣
ゴキブリのいかにも無念そうな死が歩いて力尽きし形に(明日香)死の瀬戸際をさ迷うゴキブリ…。目はかすみ、意識は朦朧とし、体は言うことを聞かない。疲れ果て、頭の中で何かがぐるぐるとまわる。体は今にも自分のものではなくなってしまいそうだ。己の力をふりしぼり、一歩一歩前進しようともがく…。 が、その体はやがて動かぬ一つの小さな命の灯がまた一つ消えた。 生死をさ迷う旅は長く、辛い。その苦しみと己の人生の無念さを醸し出すような一つの死体が鮮明に脳裏に浮かんだ。 (西陵中三年生)
諸 石 眸
いつ死ぬかわからぬ不安の足音を踏みつつ進めどすぐ過去になる(銀杏葉)これは、誰もが気づかずにしていることだと思います。いつ死ぬかわからない不安は、すべての人が持っているだろうし、ほんの数秒後に自分が死んだとしても、
それは不思議なことではないと思います。 しかし、だからといって、その不安ばかり気にしていては、無駄な過去になるだけでなく、未来に進むことすらできなくなってしまうとわたしは思います。反対に、あまり気にし過ぎなければ、不安はきっと自分が生きている証しとなるとも思います。この歌は、私に、いろいろな事を考えさせてくれました。(西陵中三年生)
木 村 明 日 香
幾つもの危機一髪が一時間程運転のなかにもありき(馬の骨) この歌を見た時、 アメリカのテロ事件の影響で飛行機の利用者数が減ったことを思い出した。ニュースでこのことを聞いた時、飛行機会社や旅行会社の人達に同情して、
同時に皆何をそんなに心配しているのだろうと思った。 狂牛病の影響で牛肉の売り上げが落ちたことについてもそうだが、ちょっと(ちょっとしたことじゃないかもしれないが)
何かがあるとすぐそれに影響されてしまうのにはあまり感心できない。 そんな起こるか起こらないか分からないことを心配するより、 一時間程の運転の中にある危険を心配するべきだろう。
(西陵中三年生)
杉 浜 美 穂
お前ほど暇じゃないぞと聞こえくる忙しくてという言い訳が(明日香) この歌を読んだ瞬間、思わずうんうんと頷いてしまった。忙しい、忙しいとは口で言っているけれども、 本当に忙しいのかなんてわからない。もしかしたら、相手が暇に見えるのは、全て要領よくやってしまったからかもしれない。 私はお前みたいに暇じゃないんだと相手を見下していると、真実は見えてこないだろう。(三年生)
新 居 香 卯 月
目の粗いショールのような雲の群れ夕日の方へ明るく渡る(馬の骨)
夕日に染まった雲を初めて見た時、私は羊の群れに見えました。確かに羊が集まれば一枚のショールが夕日に進んでいるように見えます。 しかし、進む方向は同じでも、彼ら全てが同じ目的で進んでいるのでしょうか。ひょっとしたら、進みたくないのに流れに逆らえないだけの羊もいるかもしれません。 そんな羊のような人間が、この世界には意外に多い気がします。 (西陵中三年生)
荒 木 祐 貴 子
冬日浴ぶ曼珠沙華の葉の青々と彼岸此岸を突き抜けて生く(馬の骨)
私は曼珠沙華が好きである。 理由は何といってもその美しさにある。この花が彼岸花、死人の花と呼ばれるのはその浮世離れした美しさのせいではなかろうか。滑らかで繊細だが、圧倒されるような力強さもある。これ程までに見事なバランスは人間には造り出せないだろう。
また、茎は漢方薬の原料となるが、摘み取ろうとすれば根の毒にやられる。 凜として決して媚びない突き抜けるような美しさ、そんな美しさが冬の日の葉の青さにも感じられるのだ。
藤 川 彩
どこにでも携帯電話というゲーム孤独がなくなる訳ではないのに断片集)この一首に正直ドキッとさせられた。孤独という言葉が重くのしかかってきた。人はいつでも孤独と隣り合わせ、孤独を感じる時間を減らすために携帯電話を持つ、 私も孤独を感じたくないために携帯が欲しいのかもしれない。 現実逃避だと思われるかもしれないが、孤独は本当に嫌。いつか孤独を感じずにいられるようになるのだろうか。 (西陵中三年生)
野 村 充 子
イチョウの葉散りつつ北では流氷の海の卵の生まれつつあり(銀杏葉)銀杏の葉が木々から切り離されて落ち葉となっているこの地と北の氷海とを対比させたこの歌は、 同じ日本の中でも位置する場所によってさまざまな違いが沢山あることを教えてくれる。海の卵という言葉がとても新鮮に思えた。目を閉じると、そこには限りない氷原が広がっている。 (西陵中三年生)
白 田 理 人
枝のみとなりて深夜のプラタナス手を差し伸べよあまねく宇宙へ(馬の骨)寒い冬の夜。空気は冷たく、しかし、いつにも増して透き通っている。落ち葉したプラタナスは、澄み切った空気を全身で感じ、自らも透き通っていくようだ。そして、枝を空に向かってためらわず真っ直に伸ばしている…。そんな情景が浮かんだ。この歌の葉を落とした木というのは、ゼロの状態である。何一つ持ち合わせていない。けれどもその分何に対しても率直で、物事を純粋に受け入れられる様子を意味している。葉を失った枝は、ただ周りの空気を感じ、その先にある宇宙へ伸びているのだ。 僕は、裸木を見てもこの歌のように考えたことはなかった。 一本のプラタナスとあまねく宇宙。 全く関係のなさそうな言葉がつながり、木の生命感、躍動感を最大限に引き出している。ただの裸木としてでなく、視点を変えて捉えることによって、新しい世界が広がっていて、とても面白い歌だと思った。 (西陵中二年生)
今 田 有 香
氷塊の形は全て異なるに沖に一筋流氷迫る(銀杏葉) 氷塊の形が全て異なるように、人間も全て異なっています。今は「クローン」と言われるものもありますが、それらを省けば一人一人が違います。私はこのことがとても画期的なことだと思います。なぜなら、自分が死んでしまえば、もう自分というものは消滅してしまいます。つまり、自分以外に自分はいないからです。 とても難しい話だけど、そこがこの世の中の不思議な所なんだなと思いました。(西陵中二年生) 匂 坂 一 葉
冬の日の今日は和みて紫陽花の芽の柔らかさに目を凝らしいる(馬の骨)アジサイの花が開くのは梅雨の時期。 だから大抵の人はアジサイと聞けばきれいな花が咲いている梅雨を想像するだろう。 でも、みんなの想像する姿だけが全てじゃない。冬にも柔らかでかわいい小さな芽がそっと伸びて何かを教えてくれる…。 これも確かにアジサイなのだ。 自分の見えているところだけが全てだと決めつけるのは正しいのだろうかと。 そんな簡単なことに気が付かずに生きている人の方が多いのだけれど…。 (西陵中二年生)
金 指 な つ み
文明が作り地雷を埋めてゆく山河の民は滅ぶ他なく(馬の骨)今、読売テレビの電波少年という番組でアンコールワットへの道の舗装というコーナーがあります。そのコーナーで、地雷のある恐れのある地帯を舗装していることがありました。 舗装をしている最中に、近くで何度も地雷が爆発することもしばしばでした。こんなに危険なものが自分の下にあるかもしれない…、 考えただけでも恐ろしいことですが、実際にこのようなことが何度もあるのです。地雷を踏んだら滅ぶしかない…、悲しいことだけど、これは事実です。地雷がこの世から消えてなくなること…、それが私の今の願いです。 (西陵中二年生)
関 麻 菜 美
昨日まで言葉交わしていた人も焼かれてしまえば骨壷に入る(銀杏葉)去年の末ぐらいに私は祖々母を亡くしました。 祖々母は本当に元気で、話をしているとおもしろくて……。今でもどこかで生きているんじゃないかな?って思ったりします。 お葬式の日に私は何度も夢じゃないのかな?と思っていました。 最後に祖々母の顔を見た時、この前まで一緒にしゃべってたのに… 何で?とずっと思っていました。 祖々母のお骨を見て初めて死を受け入れました。もう、本当に悲しくて悲しくて…。でも、祖々母の分まで私は生きると心に決めました。 この歌は祖々母との大切な思い出を思い出させてくれた歌です。 (西陵中二年生)
隅 田 未 緒
無駄なもの何一つなき人生と空行く雲を見つつ思えり(馬の骨)
人には好きなものと嫌いなものがあります。 自分の中では無駄なものが人にとっては大切なものだったりします。 つまり無駄なものがないということだと思います。空には雲が必要で、雲には空が必要です。 そんな空を見上げながら先生はこの一首を思ったのかなと思うと、なんとなく嬉しく、温かい気持ちになりました。
妹 尾 芳 樹
締め忘れ水滴一晩中落ちて一瞬の命たちのまぼろし(馬の骨) 締め忘れた蛇口から出る水滴が地面につくまでのほんの一瞬の命たちのことを詠っている。よく考えてみれば、地面に落ちた水滴の命は確かにそこで終わっているけど、その水は、排水口を通る水として新たな命を得、川を流れる水として、そして大きな海の一部としての命を得る。 たった一滴の水でもこれだけの命があるのだからもっと視野を広げてみれば命の数というのは無数にある筈です。例えば最近では、 紙やペットボトルなどはリサイクルという形で再び命を得ています。臓器移植では、臓器が人から人へ移植されて新たな命を得ています。 そんなふうに考えていくと頭の中がおかしくなりそうです。 (西陵中二年生)
横 山 真 理 子
父母も老人やがては迫りくる死の現実をしみじみ語る(馬の骨)今からこんなことを書いて!と母に叱られそうなのだが、 この歌を目にし、感想を書かずにはいられなかった。私はとても反抗的なのでよく両親とケンカをする。ケンカをしている時はついカッとなり、ひどいことも言ってしまう。しかし部屋に戻ると、一人の寂しさとさっき言った言葉が重なり、つい涙が出たりする。私の親は世界にたった二人しかいない。 普段近くにいすぎるだけに大切さを忘れがちだ。先日母はケガをして家で寝ていた。その時とても不安で不安で…生意気なことばかり言っていたけど私は一人で生きてる訳ではないんだなぁとしみじみ思った。 いつか私は父、母、祖母の死と対面しなくてはならなくなる。その時に後悔しないように、親孝行をしていきたいし、たくさんの楽しい思い出を作っていきたい。 (西陵中二年生)
阿 河 一 穂
月面に今も在るべき星条旗威信も徐々にほどけつつ立つ(馬の骨) 湾岸戦争、アフガンへの報復。このごろアメリカの武力行使が激化してきたような気がします。今度は「イラクやイランへ侵出する」等々の言動も世界を引っ張っている大国の言うべき言葉なのだろうかと疑問を感じている今日このごろ…。月面の星条旗、ほどけるのは簡単だけど、縫い合わせるのは案外大変です。 この場合、新しい旗(?)をそろそろ持って行くべきなのでしょうか。 このごろの米大統領の方々、切り刻んでいるのは、他国の国旗とテロリストの写真。下のカッター板は星条旗。気づかないうちにカッター板はズタボロ。いい加減にやめにしませんか?「世界平和だのと言ってたのはどこの国だよ」と、性格上テレビに向かってツッコミを入れてしまっています。 (西陵中二年生)
衛 藤 麻 里 子
雲に足取られて竦み進みえぬ終日不安のままに過ぎたり(二ツ岩) 今は午後三時。今まで何度か原稿を書いたが、まだ日のあるうちに書いたのは初めてだ。これを書く前、空を見ていた。 青空に雲が浮かんでいる。見ようと思えばいつでも見られる風景の筈だが、中学校に入ってから、こんなにじっくり見たのは初めてだ。一年生は部活に熱中しすぎ、家に着くともう日は暮れていた。 二年生、部活に費やす時間は少し減ったが、その分勉強時間が増えた。今日は部活もなく、昼過ぎ家に帰ってきた。そして雲に見とれていた。 速く時間が進む。雲を見ながら色々と考え込む。 今は受験シーズン。来年のこの時期には私も受験生。雲なんて見ている暇はないだろう。二つとして同じ形のない雲。私もこの世で一人しかいない。雲のように広い世界を自由に生きていこうと思った。 (西陵中二年生)
中 恵 里 香
魔法にて神の作りし人集う地球は青くやわらかな星(馬の骨) 人は神が魔法で作ったもの。 もし神が作ったのなら神はどういう思いで作ったのだろう、と私は疑問に思いました。 今、地球ではお互いを憎み合い戦争ばかりしています。神は、こんな地球にしたくて人を作ったのだろうか。いえ、違うと思います。私は、本当にあるべき地球は、この歌のように「青くやわらかな星」なんだと思います。
隅 田 早 弥
長いのか短いのか一日が過ぐかけがえもなく生きて地球に(馬の骨)
私は本当に一日が長いときと短いときとが分かります。一日じゃなくても一日の中の時間で長い時があります。 それは誰もが分かる四時間目です。私はこの時が一番長く感じていると思います。地球ももっとゆっくり回ったらどうなるのだろう?と少し疑問を持ちました。私はたまに一日の終わりの夜、「やっと終わった」という日と「えっ、もう終わり」という日があります。そういう考えこそこの歌に合っているのかもしれません。 地球は長いこと生き続けています。たぶん地球は一日一日を大切にしていると思うので、私も一日を大切にしたいです。 (西陵中二年生)
岡 本 英 璃 乃
無駄なもの何一つなき人生と空行く雲を見つつ思えり(馬の骨)
この世界に神様が創ったもので無駄なものは一つもないと思います。木や水や花や果物や動物…… 全て必要なものです。しかし、人間が造ったもので無駄なものはたくさんあると思います。 それは人を殺めるものです。 人を殺すための道具なんていらないと思います。神様の創ったものに手を加えてしまってはいけません。私は自然は自然のままで残していければいいと思います。(西陵中二年生)
古 田 土 麗
人と人かく憎み合い殺し合い果たして神は必要なのか(馬の骨)
社会で歴史を勉強すると、よく戦争が出てくる。私はいつも思う。どうして殺し合いをするのだろう。 話し合いで解決はできないのだろうか。たとえ話し合いができなくて、人を憎んでも人を殺すことは許せない。神を信じる人信じない人がいる。そんなことはどうでもいいと思う。 信じようという気持ちがあることがすばらしいと思う。 (西陵中二年生)
村 上 香 織
ドラマでは過程として幾つもの死が解決すれば全てめでたし(馬の骨) サスペンス物のドラマでは、大抵人が死ぬ場面があり、主人公がそれを解決するというのがよく見られる。私たちは、ドラマの中で人が死ぬのは気にも留めず自然に見ているが、もし、間近で人の死に接してしまったら、自分の死について考えてしまうと思う。ドラマの中では、解決すればめでたしだが、現実はそんな簡単に死に対する答えは見つからないと思った。神のパソコンを覗けばびっしりと近日死亡予定者が見ゆ(馬の骨)
本当に神というものが存在するなら、人の一生も決まっていると思う。人生はいつ何が起こるか誰にも分からない。もし、知っているとすればそれは神かもしれない。死がもう私の人生の中で間近に来ていたとしたって、それは誰にも分からないことだ。だから私は今、この時この時間を無駄にしないように生きたいと思う。
(西陵中二年生)
山 田 小 由 紀
何ほどのなき光景も川のごと人少しずつ代替わりゆく(馬の骨)今回は、どの一首にしよう…それを考えていた時、ふとこの一首が目に留まりました。 普段見ている、特にこれといったこともない光景、学校の通学路、塾の行き帰りなどで見ている光景。全く変わりのないように見えても、毎日少しずつ少しずつ変化してきている。人も変わる。時が経っていくにつれて何も変わらないものはないんじゃないかと思います。
嫌でも私達の心は中学生から大人へとなっていく。だからこそ、今、この時を大切にして、一日一日を生きていきたい、そう思いました。 (西陵中二年生)
宮 本 浩 平
魔法にて神の作りし人集う地球は青くやわらかな星(馬の骨)何となく幻想的な感じがしていいなぁと思った。 「魔法」や「神」などの神秘的な言葉や「青くやわらかな星」の地球の美しさや寛大さが伝わってくるような表現で幻想的に描かれていると思う。神の魔法によって作られた人は、青くやわらかな星を壊しつつある。「神」はそれを分かっていて「人」作ったのだろうか。
(西陵中二年生)
亀 田 晴 菜
冬日浴ぶ曼珠沙華の葉の青々と彼岸此岸を突き抜けて生く(馬の骨)
曼珠沙華の茎や葉はいつも真っすぐ伸びています。 この歌は寒い冬にも負けず、 重力にも逆らいながらも立ち続ける曼珠沙華の強さを表していると思いました。 花を支え、また、花のない季節にも生き続ける曼珠沙華は確かにどんなものにも屈せず、 世の中の苦しみ悩みまでも突き抜けていけると思います。 真っすぐさこそが人間には持ち得ない何にも負けない「強さ」であり、 今度その花を見たらこのことを思い出してみたいです。 (西陵中二年生)
木 村 成 生
蟻塚や蜂の巣のごと人築く都市見つつ飛ぶ渡り鳥あり(馬の骨)
最近、下校中に一人になったとき飛んでいる鳥をよく見ます。鳥はどんな気持ちで飛んでいるのかと…。この歌を読んで、鳥は人を見下ろしながら飛んでいるんだなあと思いました。 自然はやはり大きなものだなあと改めて思いました。 (西陵中二年生)
徳 本 隆 臣
紅葉を激しき炎と見ゆるとき木は一瞬の命輝く(断片集)僕には、この一首が「心」を表しているように思える。 怖い怖いと思っていると、何でもないことまで怖くなってしまうのと同じように、希望を持ち、やる気が漲っている時こそ、紅葉を激しく燃える炎とみることができる筈だとおもう。
つまり、やる気が漲り、希望を持って生き、紅葉を激しい炎とみることができる時に、自分の命が輝いているのではないかと。僕はこの一首を、こう感じた。(西陵中二年生)
小 樋 山 雅 子
いつ死ぬかわからぬ不安の足音を踏みつつ進めどすぐ過去になる(銀杏葉)人間ていつ死ぬかわからない。 ある日突然の事故!とか突然の心臓発作!とか。人間だけじゃなくて、他の生き物にだって言えることだけど。 私も時々、こんなふうに笑ってるけど。イキナリ死んじゃったらどうしよう!?今、階段降りてるけど、足滑らせたりして、もしあの場に私がいたら…、ここから落ちたら死ぬよな!とか、考えてしまう。
友達としゃべっていたり、漫画を読んだりしていると、そんなことは忘れてしまうけど。今があんまり楽しいから。思い出すとすごく怖くなる。でも、そんな心配していても、時間は過ぎていく。生きている。いつ死ぬか、とか、考え出したらキリがない。
でも、これからも考えずにはいられない。それはそれでいいと思う。それを考えれるから今が楽しくて幸せだから。これからもそんな不安も抱きながら、楽しく、一生懸命に生きられたらいいな。
田 坂 心
食べられる幸せありや何ゆえか人は我が儘ゆえ食べられぬ(馬の骨)
人は食べることに幸せを感じる。 食べられるものも食べられることに幸せを感じるのかもしれない。けど、人はなぜ食べられないのだろう。人は自己中心的で我が儘だからではないかなぁ。それに比べて食べられる側の生き物は自然界のルールに従って生きている。 本当は人もルールに入らなければならない筈…人も食べられてもおかしくないと思いました。 (西陵中二年生)
乗 岡 ゆ か
枝のみとなりて深夜のプラタナス手を差し伸べよあまねく宇宙へ(馬の骨)こーいうときのお星さまって本当に降ってきそうに見える。本当はすっごーく離れているのに。でも、それは現実だから。 ゆかの中では本当に降ってきてる。宇宙はすぐ上にある。だからプラタナスの木さんはとっくに宇宙にさわってるの。 それでゆかにプレゼントしてくれようとして宇宙が上に上がらないように持ってくれているの。でも、そーいう時にかぎって車が通る。 びっくりして宇宙がお星さまが元に戻ってしまうの。ああ、なんて現実とはかなしいものなんだ。 (西陵中二年生)
阿 加 井 桃 華
マッチ擦るつかのま火は木を抱き締めて殺して己れも消えてしまえり(馬の骨) マッチ棒に火を点けた時の火の形は、なるほど木を包み込んで抱き締めているように見える。 ゆらゆらと揺れてそして突然消えていく。 そんな切ない空しさは木を殺してしまった後だからだろうか。 いろんな場面で『殺し』に妙に魅かれてしまう人間の悲しさも描かれているような気がする。 (西陵中二年生)
桐 山 浩 一
人と人かく憎み合い殺し合い果たして神は必要なのか(馬の骨)
人は血で血を洗う争いを繰り返してきました。宗教の違い、神の違いから起こったことばかりで…。 神は人間に殺し合えと言ったのでしょうか。この神がいなければ、多くの人は命を失わずにすんだのにと思います。 神というのは心の弱い人間が造った心の拠り所だと思います。 その心の拠り所が違うので人間は戦っていくのでしょうか。 (西陵中二年生)
小 西 玲 子
その昔思えば死者もよみがえり幼き我が生き生きといる(ぬば玉) ふとした瞬間に昔を思い出す時があります。 忘れていた筈の景色や、気持ちがよみがえる時があります。私の知らない地球の歴史はいっぱいあります。 だけどこんな気持ちになったりするのは今も昔も変わらないと思う。私はいつの気持ちも大切にしたいと思っています。悲しんだことも嬉しかったことも感動したことも、すべての気持ちを大切にしたいと思っています。だからこそ私の中の幼い私も生き生きとしている気がします。
私の中の歴史はちょっとした気持ちも大切に刻まれています。 それはきっとこれからも変わらないと思います。 (西陵中卒業生)
高 田 暢 子
腕時計の硝子に映る竹すだれ夏の日分断されて明るし(麦渡風) すごく夏らしい歌で、 使われている一つ一つの語が夏をかんじさせた。 また、 反射しているのが腕時計というのが私はとても気に入った。 最近、携帯を使ってばかりいるから、時計も携帯のを見て、腕時計そのものを持たなくなってしまっているから、
私、というか、 私達の世代は、この腕時計の部分が、携帯の方がピッタリきてしまうのかなあと思った。 (西陵中卒業生)