中 島 和 子
無駄なもの何一つなき人生と空行く雲を見つつ思えり(馬の骨)
この一首、すぐには共感できませんでした。例えば挫折の苦しみを訴える子どもに、 「無駄な体験なんてないんだよ」と励ますことがあります。そういう時、胸の奥が少しザラリとします。 本当に私はそう信じているのだろうか、 奇麗ごとを言っているのではないだろうか、 と。 厳しい現実に直面した時、「無駄なもの何一つなき人生」と言い切ることができない弱い自分がいるからです。 でも、ぴかぴか光る春の空を見ていたら、「本当にそうかもしれないなあ…」と思えてきました。 もの思うことの多い春に効く、私の癒しの一首です。(詩人。童話作家。『さいごのまほう』『まじょのけっしん』)
吉 田 富 士 男
伝うべきことも言えずに二人いるツグミが胸を反らしてみている(卵黄海)冬になるとシベリアから渡ってくるツグミ。原っぱで観察していると地面あるいは地中にある餌をつついては胸を反らして、また、数歩歩いては地面をつつくという動作を繰り返します。この特徴ある習性を知っていれば、図鑑がなくとも、誰もがツグミと言当てることが出来るほど印象に残る習性です。 作者もこの印象的な行動を野原で観察したのでしょう。 しかも二羽が向かい合うようにして同時に胸を反らしたわけです。 ツグミはこのような行動中に鳴くようなことはしませんし、静かな瞬間がまるで止まったかのようであったに違いありません。さすがに感覚鋭い作者ならではと思いますが、その時、ツグミはお互いに伝うべきことなど何もなかったのではないかと思います。
(ウィークエンド・ナチュラリスト。 『ポケット版昆虫図鑑』(学習研究社)。『蝶の棲む世界』『花の二十四節気』(工芸創作))
藤 田 富 美 恵
抱き締めて欲しいと娘祖父の死を時に受け入れ難くなるらし(卵黄海) 最近、母を亡くしました。母の年齢は八十八歳で、私は六十三歳。でも、まだまだ母とおしゃべりがしたかったし、わがままも言いたかった。母の死を受け入れられるのは、いま少し日がかかりそうです。  (童話作家。『父の背中』『あの子は気になる転校生』)
林   禧 男
小便が水にぶつかる音さえも生の証しと思うことあり(卵黄海) たとえば宿酔の朝、小便をしてゐて、悲しきさがを思ひ知るがごときやるせなさをよみがへらせてくれる一首。また、点滴を施されつつ病院の便器に垂らす小便の、〈ぶつかる〉とはいかぬ、かそけき音を聞くが如き心持を抱かせる。 水にぶつかる、は、屈強の牛飼など思はせて威勢良いが、はしなくも細々とした、意気地ない音を想像するのは、讀み手のこころ衰へし証左か。 (放送作家。)
三 浦 光 世
何処より来て何処へと消えてゆく我がつかの間の形ある身は(卵黄海) 一読、ヨハネ福音書の「風は己が好むところに吹く。 汝その声を聞けども、何処より来り何処へ往くを知らず」(文語訳)の語を連想したが、この言葉を意識しての作ではないと思う。人生をここまで的確に単純化した表現力に敬服させられた。 特に下句の把握は尋常ではない。なお、単純といえば、夕方となり夜となる単純をこの頃驚異と思うことありにも瞠目させられた。下手をすれば観念歌に終わるところだが、この迫りは圧倒的である。(作 家。『三浦綾子作品撰集』『妻と共に生きる』)
加 藤 多 一
紫に流氷の帯灯しつつ卵黄やわらかに昇りゆく(卵黄海)「絵のような」歌にならないように、百千万の類型表現の滝壺に落ちないように必死に足をふんばって流氷の夜明けを見つめている作者の姿が見えてきます。「流氷の帯」「灯す」など独自性ありあり、卵黄の感触も伝わります。 しかし「…つつ」のあたりは和歌千年の歴史のパターン美学の壁の中になってしまうのですね。でも、前号の宍戸恭一さんの評「彼の内部に宿る高度な精密な体内時計」を読むと、「…つつ」にトキの砂のすべる音も聞けそうですけど―― (児童文学者。オホーツク文学館長『牧場・風がゆくところ』)
上 山 好 庸
何処より来て何処へと消えてゆく我がつかの間の形ある身は(卵黄海) 毎日考えているわけではないが、 自分のこの世での役割はいったいこんなもので良かったのだろうかと思うことがある。 自然界の中で人の一生などほんの一瞬でしかない。 何処から来て何処へ行こうとするのか、 模索するばかりで終えてしまうのかもしれない。ただすべてのものにはそれぞれ意味があるわけで、それを示さずに終わるのは悲しい。 つかの間であるが故に一瞬でもいいから輝いていたいと願うばかりだ。 (写真家。『万葉飛鳥路』上山好庸写真集)
近 藤 英 男
巨大なる空白のごと累々と氷塊が積み彼方へと消ゆ(卵黄海) 三十二号の三七頁。 いみじくも初めの二歌とは異なる六つの氷原風景と《空白》の織り成す川添さんの悲痛な鎮魂歌。 亡くなられた義父への思慕と、 若かりしときの流氷に閉ざされた網走の原風景が悲しくも交錯。 《空白》の新しい詩念は、映画のよう、小説みたいに《偈》として、今までにないポエジイを越す祈りと悲しみと、無常と慈悲との同時現前。 「巨大な空白」のごと累々と氷塊が積み彼方へと消ゆ、のラストシーンが、見たこともない私への衝撃波となって包み込まれそうなのです。 短歌的世界のもつ新しい可能性に驚くのみ。 (奈良教育大学名誉教授。『スポーツ曼陀羅』)
宍 戸 恭 一
わが脳の中の風景より出でて現つ朝日の輝き始む(卵黄海) 一九二〇年代末、西脇順三郎の教え子であった若き滝口修造は、当時の日本の芸術家の間に流行していたシユルレアリズムに反抗して、「私は経済学を勉強したい」、と言った。日本社会の現実に根差さないものは、 所詮、絵に描いた餅(脳の中の風景)に過ぎないと、彼は言いたかったのだ。 時代は移り、一九五〇年代には、徹底したリアリストの三好十郎は、日本社会の現実をとことん追及するうちに、以前は好まなかったシュールな表現方法をとらざるを得ない問題に直面した。 彼の現代意識を最高に評価されるあの戯曲 『冒した者』がそれである。このことから、真のリアリズムの先尖は、現代では、シユルレアリズムの先尖に接触し、火花を散らさざるをえないことを、私は学んだ。 ここから三好十郎は、すべてのイデオロギーから解放された。超現実的な絶筆へと、最後の歩みを進めることになる。若き日の滝口修造の強烈な批判精神と、晩年の三好十郎の並々ならぬ表現力ととの間には、輝く太陽の光の中では、密接な関連のあることが、明らかになる。 と、川添さんの詩心が私に訴えてくる。 (三好十郎研究者。京都三月書房店主)
リカルド・オサム・ウエキ
ブラジャーもシャツもパンツも回りいる振動に家ひそまりてあり(卵黄海)このたびは感性的にではなく、現実生活をナマに描いたものに、関心が止まりました。洗濯している状況から連想するのは白い泡。その白い泡からいくつもの連鎖反応があって、想念が拡散しました。 最近政治の貧困によってブラジル各地で洪水が頻繁にあり、 都市での洪水では、プラスチック容器や野菜屑、紙屑が濁流に渦を巻いて、川面に白い泡が膨れ上がり、風に乗って飛び立つのが化学的幻想を描かせ、その泡が飛び立つ情景が、冬の日本海側で観た白い潮の花を換気させ、東海から日本海を渡ってくる風によって、 天へ向かって舞い上がる自然現象に感嘆の声を上げさせたのでした。 そして、膨大な白い泡が地球を包み込んで、地球の小さいことをいやでも思い知らせるのです。(作家。『白い炎』ブラジル在)
林   哲 夫
どのように生き肉片にされたのか牛に今さら人騒ぎいる(卵黄海) 明治初め肉食が普及すると、 「鍋売」と唱え大道で出所不明の肉を売る者たちが現れた。明治九年には禁止されたというが、牛肉店が盛んになるにつれ牛肉に馬肉をまぜて出す店が現れた。 東京四谷に「午肉」とカンバンをかかげた店があり、肉を食べた客が「これは牛肉じゃない!」と文句を言うと、 店主は「うちは牛肉店ではありません。午肉店です。ツノがない。」などと弁解したそうだ。(宮武外骨『明治奇聞』) やり口もキベンもまったく今日と変わらない。牛の気も知らないで。 (画家。4/27〜5/12個展『存在からの創造 』六本木のGallery Yanaiにて。『喫茶店の時代』(編集工房ノア))
神 野 茂 樹
服を着て携帯持ってああ人は奇妙で不思議なことばかりする(卵黄海) なるほど人は奇妙で不思議だと思って〇をつけたが、「携帯持って」は、いいとして、「服を着て」はちょっとありきたりかな?かといって代案はなし。 (『大阪春秋』編集委員。)
佐 藤 昌 明
人と人かく憎み合い殺し合い果たして神は必要なのか(馬の骨)
昨年十一月二十日、アフガン同時多発テロ報復攻撃激化の中、多少の不安を抱えつつ、私達は計画通り愛車に乗り込み、 近畿、四国の遺跡と風土にふれる四カ月間の長期の旅に出たのでした。 今考えてみると、今回のこの旅に強く私達を駆り立てたのは、やはり先生の『流氷記29号明日香』の数々の感動を誘う名歌だったように思われます。 予定通り車泊しながら多くの遺跡城跡、歴史館、神社仏閣(四国八十八ケ所をのうち25ケ所も含め)を参拝して歩いたのですが、何か胸にモヤモヤがたまり、 参拝の方は早く切り上げ、出来るだけ一カ所に長期滞在して多くの地元の人達と触れ合うことに努めました。帰ってから、送っていただいていた流氷記『馬の骨』を読ませていただいて、 私の胸のモヤモヤの正体が判ったように思いました。人間愛と恒久平和を説く宗教が、常に人間同志の血みどろの争いの元凶になってきたこと、日本の歴史の中でも、神社の威を借り、名誉欲と金欲に目をくらんだ『馬の骨』どものために、どれだけ多くの人達が平和に生きるのぞみと権利を奪われたことか。少なくとも少年時代、あの戦争で塗炭の苦しみを味合わされ、運命の糸を揉みくちゃにされた私などにとって、 命有る限りその恨みを忘れることはできないのです。考えてみると、馬は出来損ないの人間よりはずっと平和主義で争わず共存し、しかも、人のためにもよく働きます。 目先の欲に立ち回る人間どもよりはずっと清潔で愛すべき存在です。 今後私は、この言葉を使う時『どこのニンゲンの骨なのか…』と言い換えることにしようと考えています。今度の旅で多くの善意の人達と触れ合うことができ、 知人友人をたくさん得ることができた私達は、もう今から、来年も長期の旅に出ることを楽しみにしています。 神仏にも名誉にも関係ない生(なま)の人間同志の睦みにこそ、本当の人間社会の平和があるのですから。 (作家。オホーツク秘話『北に生きて』)
中 平 ま み
アラビアンナイトもハリーポッターも神あり魔法操りながら(馬の骨) いつも一首を選ぶのに迷います。 昔々子供時代、 毎月のように熱を出して風邪で寝ては、 枕元に分厚いアラビアンナイトの本を一冊ずつ病床の中で読み耽ったものでした…あの頃の読書は楽しかった…(作家。『ストレイシープ』『映画座』)
釜 田   勝
網走は今日は吹雪くと便りありここ梅開く高槻にいて(卵黄海)
言葉に頼りすぎたり、 丹念につきあって思い煩う歌は苦手ですが、川添作品はご自身が雑記にお書きになっているように、身構えて―という気負いがなく、直感的、且つ平明で好感が持てます。 歌作の原点である網走から届く便りは、いかなる食物、どんな栄養剤にも優り、更なる活力を生み出すことでしょう。―高槻にいて―と結んだことで、吹雪の網走に思いを馳せ、そこに住む人びとの厳しい日常を思いやる気持ちが私には伝わってきます。 作者の内面に宿るやさしさを暗示する一首。 (元競馬キンキ編集長)
井 上 芳 枝
気が付けば今年も梅の花開く立ち止まることなく時は過ぐ(卵黄海)
あわただしい日常の暮らし。年を重ねていくと、月日の流れが加速していくようです。初句の「気が付けば」に同じ思いです。立ち止まることなく時は過ぎていくものです。 七十の坂を上っている私は、せめて一日一日を有意義に心して過ごしたいと思っています。自然界の動きを的確にとらえ、冬の厳しさに耐えて、凜として咲く梅の花に、思いを寄せる作者の姿が浮かんできます。早や四月を迎え、 若葉の間からかわいい実が見え隠れしている庭の梅を眺めています。 (北九州市立大蔵中学校時代恩師)
千 葉 朋 代
時の川流れて四角いわが布団もう少しだけ眠っていたい(卵黄海) 布団の中に、もう少しと動かずにいる時も、私は超高速で宇宙空間を移動している。とどまっている事は誰にもできない。ならば諦めて布団から出ようか。しかし、時の流れの中では、急ぐも、のんびりも、大差なく思えます。さて、もう少し寝ていようか……。歌に宇宙を感じました。 現実的な事なのに日常では実感できない事を呼び起こされます。 それが何になるかと聞かれると、困りますが、時々そこに、自分を置いてみるのが好きです。 (『私の流氷』同人)
山 川 順 子
白樺の林の走りゆく向こう流氷原ありありと我が視野(卵黄海)
迷った末の網走行き。着いた途端に、あふれるように出来た歌の数々、今号はそのような気がします。どれを選ぶか迷いました。 流氷、雪の白に対して、瑠璃色の海、卵黄のような朝日、黄金色に海等々と、 カラフルできれいな光景が今その場所に居るように目に浮かびます。 日常のことを一瞬でも忘れさせてくれる、 自然の大きさ、力強さに出会えたような気になりました。(『私の流氷』同人)
小 川 輝 道
雪撥ねてゆく除雪車のゆっくりと過ぎて未明の静けさ戻る(卵黄海)
雪に見舞われる北の人々の生活感を鮮やかに表現している。 除雪車が去り、訪れた未明の静けさ「ゆっくりと」と「静けさ」には、北国らしい除雪車に出会った旅人の感懐か。オレンジの灯のカラカラと除雪車の過ぎて未明の町整いぬ二首ともに、除雪車の去ったあとの未明の町を描き、 慌ただしい生活が始まる前の静けさを清明な感性で詠っていると思った。とりわけ、ともに言葉の流れが静けさを保ち、主題に相応しい作品となっていて共感が深かった。 (元網走二中教諭)
弦 巻 宏 史
紫に流氷の帯灯しつつ卵黄やわらかに昇りゆく(卵黄海)藤色に流氷源は影のごと卵黄の海輝くばかり(卵黄海) 壮大な流氷源に視る巨大な時のドラマに立ちつくすあなたを見ます。 さまざまな想いを淘汰して敢えて光と色を詠いあげた心に共感しました。いつも、日常の様々な現象や乱れる心と視点を一瞬凝視して、鋭く詠い込む力量に敬服していますが、やや「多忙」過ぎるのではないかと危惧することもありました。ここでは、大自然にただただ素直に対峙しているのだと思います。 北国の雄大な美しさです。やはり自然は私の心を洗い流してくれる。その想いを新たにしました。ありがとう。 (元網走二中教諭。司馬遼太郎『オホーツク街道』の《花発けば》で彼のことが紹介されています。)
井 上 冨 美 子
何処より来て何処へと消えてゆく我がつかの間の形ある身は(卵黄海) 生を受けた者として、やがて迎えなければならない死。 今、こうしている間も刻々と死に近づいているのです。 誰しもが認めている不易の真理です。 現実には、まったく有り得ないことですが、万一、 雲水修行の末、 妄想や煩悩を払い落とし、 無心無我の境地になり得たとしたら、この歌のように、生と死を受け入れられるのでしょうか。 想像することさえ、今の自分には、もう既に限界があるように思われます。 (元網走二中教諭)
柴 橋 菜 摘
枝のみとなりて深夜のプラタナス手を差し伸べよあまねく宇宙へ(馬の骨)瑞々しい緑の樹々は、文句なくその生命力を謳歌している。反して、冬の街路の裸木は一見、寡黙である。寒月の空に愚かなる人間の所業を嘆いているのか、 いつか来る春の歌に想いをめぐらせているのであろうか?天空へ伸ばす枝先の物言いたげな姿に立ち止まり、そっと話しかける。もう少し頑張るつもり…。 冬枯れの樹々とゆっくり夜空を見上げれば、 宇宙の中の一個の点となる私。なぜかその一瞬が好きである。裸木の内なるエネルギーを貰ったのかもしれない。 (大和高田市在)
佐 藤 通 雅
何処より来て何処へと消えてゆく我がつかの間の形ある身は(卵黄海) 六十歳に手の届く年齢になると、毎年知人が何人か消えてゆき、年々増えてゆく。やがて自分も消えてしまう側に入るだろう。今のこの身はほんのつかの間の形にすぎないだろう。 若い頃はそういうことが寂しくつらかった。 しかしいつのまにか生あるものの自然現象として受け入れられるようになった。「つかの間の形ある身」がどこからやって来てどこへ去ってゆくのかはわからない。 ただわかることは次々と新しい生命が現れて死者を忘れることだ。 そのあたりまえもなかなかいいものではないかという心境に達しつつある。 (『路上』主宰)
川 田 一 路
真夜中の部屋には窓の光のみ首傾けてスタンド凛々し(卵黄海)
現代人は真の闇を失ってしまった。 月の出ていない夜であってもどこかに人工的な明かりがあり、家のなかにいれば明かりは思いのままだ。本来は闇こそ人類にとって恐怖の根源であったのではあるが、その恐怖から一旦開放されてみると人工的な照明がわずらわしくなることがある。そんな時、月の光のみでしばし部屋の中でも生活をしてみたいという我が儘…。スタンドの首を傾げさせながらしばし月の光の中に憩うのも、これまた文明社会における現代人の至福のひとつなのかもしれない。 (『山繭』同人。)
田 土 才 惠
氷原の中に広がる瑠璃色の海あり激しく水鳥叫ぶ(卵黄海) 私は流氷の北の海を見たことがない。 けれど川添氏の心の中にはいつも大自然が流氷原がそして瑠璃色の海がある。 そこから歌は湧き出してくる。流氷記という灯は自分の心を照らし、そしてまわりの人々の心を照らしてやまない。あるときは、風にあおられて消えそうになる時もあるでしょうが。この一首の水鳥は作者自身であり、瑠璃色の海とは作者が求めているこれからの道、真実といったものが秘められているのではないだろうか。激しく叫びたい心の内がひしひしと伝わってくる。生きることは切ないことである。
(『地中海』 同人。)
里 見 純 世
網走は今日は吹雪くと便りありここ梅開く高槻にいて(卵黄海)
あばしりを離れてからも、 ずっと息長く流氷の歌を詠まれているのに敬意を表しています。此の二月にあばしりに来られて、実際に詠まれた歌を拝見し、心を動かされています。冒頭の歌の外に次の歌に惹かれました。情景がよく詠まれていると思います。
海は明るく氷原青く鎮まれり夜明け岐羅比良坂を上れば
卵黄のような朝日が光の矢放ちて帽子岩を見ている

黄金色に海きらきらと輝きぬ流氷群るるあちらこちらに
(『新墾』『潮音』同人。網走歌人会元会長。)
葛 西   操
亡くなりし義父はいないかくっきりと波に打たれて氷塊が見ゆ(卵黄海)先生がお義父様を捜しておられるように私も亡き夫を今も流氷の彼方にと心の中でいつも捜しております。 亡夫は網走に住んで年月が永かったので、流氷の来る度、私を迎えに来るのです。 丁度家の裏がオホーツク海ですので、 今日の流氷は二ツ岩の大きいとか、色々さまざまの形をしておるとかと私に説明するのです。今は流氷の地を離れておりますが、先生のお歌で、亡き夫を思い出して居ります。ロマンをかきたてる流氷を、私の心の夢の中にいつも浮かべております。 どうぞ先生もお義父様を流氷の中に見出して下さい。あどけなき娘の寝顔しみじみと生きてゆくべし心足らいて(馬の骨)このお歌を拝見致しまして本当にお子様を愛しておいでの親心しみじみと感じました。 親としての責任でもあり義務でもあると思います。 現在の社会は何処か狂っているような気が致しますね。 日々の新聞を見ても目を覆うような記事ばかりで人間として心の痛ものです。 私のような古い人間には世の中が変わってきたような感じが致しますね。 若い人々にもう少し人としての道を勉強していただきたく思います。(『原始林』同人。網走歌人会)
田 中   栄
抱き締めて欲しいと娘祖父の死を時に受け入れ難くなるらし(卵黄海) 祖父の死を言って実に実際の感じがある。おじいちゃんいつでも側にいてくれる娘はいよよたくましく見ゆ(銀杏葉) を見ても分かるように、祖父と娘はスキンシップ(これは母親との交流だが)といっていいほどの交流があったのであろう。その祖父が亡くなった空しさを訴えている。 娘が「死」というものを疑う気持ちが率直に伝わってくる。生と死の機微を衝いている。 (『塔』編集)
南 部 千 代
聖なのか悪なのかさえ妖としてオサマヴィンラディン行方知らずも(馬の骨)本当に生きているのか、死んでいるかも分からないビンラディン氏。 一方が正しければ一方は悪になるこの構図は何時の世にも当て嵌まるわけで―。映像の悪さもあったでしょうが、彼には激しい聖戦への闘志は私には感じられませんでしたが―。 今は消息の絶えた彼をあくまでも捜索するとアメリカは地上部隊を投入していると云う。これで多くの米兵も死ぬでしょう。巻き添えで他の国の人達だって。地球はいつもこうなのですね。テロも悪いが戦争も同じだと悲しく思います。 (網走歌人会)
前 田 道 夫
巨大なる空白のごと累々と氷塊が積み彼方へと消ゆ(卵黄海) 氷塊を「巨大なる空白のごと」と捉えたのがユニークでいいと思った。流氷原や氷塊の実景を見たことのない私にも、 積み重ねられてゆく氷塊の姿が浮かんでくる。 他にも流氷を詠まれた作品で注目したものを挙げてみました。
卵黄のような朝日が光の矢放ちて帽子岩を見ている
黄金色に海きらきらと輝きぬ流氷群るるあちらこちらに
(『塔』同人。)
早 崎 ふ き 子
坂田博義のかなしみ氷塊の岸に置かれて夕影を浴ぶ(卵黄海)
故坂田は昭和三十年半ばに『塔』で活躍した歌人であった。 大学卒業後就職、そして結婚、その直後昭和三十六年二十六歳で自死した。 彼のあまりにも若過ぎた死は故高安国世始め周辺に大きな衝撃を与えた。 彼の出身地は「網走本線の小駅」「北海道で最も寒い」「僻地」(教育『実習日誌』)であった。それゆえに川添の歌う、坂田のおそらくは深い「かなしみ」が 氷塊の岸に置かれて夕影を浴」びているのであろう。 それは坂田の原風景であったかもしれないと同時に川添のなつかしい風景でもあったのだ。川添には第一歌集『夭折』(昭和四七年)がある。 (『塔』『玲瓏』同人。)
榎 本 久 一
こんなにも明るき雲をなつかしく思いて死後の不安も消える(卵黄海) 今回の流氷記はなぜか無常感をテーマにした歌が目についたが、その中からこの一首を選んだ。 どこか山頭火か放哉の俳句に通いあう処があると思った。 歌の技法なんかとっくに捨ててしまって、それでいて読む者を頷かせるものがあると思った。 饒舌と言いたいほどの多数の歌の中で、ふと穴があいている歌だ。ただ作者には少し早すぎる思いではないだろうか。 (『塔』同人)
三 谷 美 代 子
雪撥ねてゆく除雪車のゆっくりと過ぎて未明の静けさ戻る(卵黄海)
作者は夜明け前の布団の中で除雪車の響きをとらえている。 雪を撥ねる音を聞いているのである。 少しずつ前進してゆく除雪車を、耳で感じ取っているのだ。『雪…ゆく…ゆっくり…』と『ゆ』の音を重ねることで、ひとつの雰囲気を造り上げており、 「未明の静けさ戻る」と納めて、整った一首となっている。 (『塔』同人)
東 口    誠
坂田博義のかなしみ氷塊の岸に置かれて夕影を浴ぶ(卵黄海)
たった一回しか会ったことのない坂田博義を忘れたことはない。修学旅行の引率で泊っていた東山の宿に久枝夫人とともに訪ねて来てくれた。そして、高安国世先生のお宅に連れて行ってくれたのであった。 私は坂田の歌が好きだった。今もそれは変わらない。その坂田にどのような悲しみがあったのか。呆気ない死であった。掲出の歌を読んで、 一度に思い出が胸に込み上げてきて涙がとまらなかった。歌の出来不出来を論ずる冷静さを今失っている。歌集を読み返してみたところ、 この歌のモチーフと目される作品がいくつかあった。 (『塔』『新アララギ』同人。)
小 石   薫
外の影映りし障子映さなくなりて明るく朝が来ている(卵黄海)
何が実像で何が虚像なのか、 立ち止まって考えさせられる作品が多い中で、この一首からは暗くはない無心な思いを感じます。目に見えるものへの信頼が読み取れました。 「明るく朝が来ている」をいいと思いました。我が視野をつくづく画面と思いつつ人の流れる地下街にいる 他人から見れば私たちは自分自身が画面なのでしょう。不思議な捉え方です。 (『塔』『五〇番地』同人)
鬼 頭 昭 二
既に子の齢の生徒どのようなしぐさも可愛くなりてしまいぬ(卵黄海) 教師の、生徒を見る目の一端を知り、興味を覚えた。 自分の子供と重ね合わせることにより、より距離を短く抵抗なく受け入れる。その底には自分の子供に対する自然な愛情があるからである。 中学生世代に対する普遍的な愛というものは、 子供の要素と大人要素が混じった少し変わった趣がある。(『五〇番地』同人。『広場に秋』)
本 田 重 一
流氷に鎮まる海の一角を揺れて砕けて叫ぶ海あり(卵黄海) 流氷と一口に云っても実に千変万化である。 冬が来る度に大氷原が出現するが、 ある時ひと処海面が開きそこに発生する波動が何かを訴え続ける――。 能取岬の灯台の傍らに立ち氷海を遠望しつつ作者の視点は次第に内深く降りてゆく。二月下旬、川添英一氏が再び来網され、 例年のように能取岬から知床チップドマリの珈琲店まで、氷原の落日を見るため車を馳せた。生憎の薄曇りでやや高い位置に姿を隠す没陽は一層神秘的な気配を醸し、 あらぬ世界へ誘われゆく感があった。 今年の流氷は異常に早く昨年末には沿岸を埋めたが薄く小ぶりであった。 川添氏の来訪を待っていたかの如く沖へ去り、 その後接岸することなく三月下旬には海明け宣言が出された。 (『塔』『新墾』同人)
遠 藤 正 雄
何処より来て何処へと消えてゆく我がつかの間の形ある身は(卵黄海) 子供の頃、あの世には地獄と極楽があり、悪いことをすると地獄へ墜ちるぞとよく言われたものだ。 思えば生命の起源は不思議である。「形ある身は」の死は容赦なく、突然に来るものである。こんなにも明るき雲をなつかしく思いて死後の不安も消えるこの「なつかしく思いて」は、生まれる前の過去の意も込められているようだ。 美しい夕焼け空を見ていると、その向こうに故郷があり、いつ死んでもよいという死後の世界を思わせる二首である。 作家の藤本氏の言う「与えられた時間を生きたいものである」と思った。
塩 谷 い さ む
かくまでに街はアンテナめぐらせて思想犯せる人捜しいる(卵黄海)
一読、 戦時下の特高警察の飽くなき思想犯追及の状況が去来する。 壁に耳あり、障子に目ありという標語が浮かぶ。 前回の『馬の骨』より『卵黄海』は充実している。前号には藤本義一氏が言うように激しい起伏、ストレスを感じた。卵黄海にはそれは消えた。小便が水にぶつかる音さえも生の証しと思うことあり 作者はしっかり生きていたのだ。 海の色も氷原の移り変わりもちゃんと見続けていた。人間は残された時間を生きるのではなくて、与えられた時間を生きるものである。 もう一度藤本氏の言を借りて作者川添英一の健闘を祈る。 (『塔』同人)
吉 田 健 一
服を着て携帯持ってああ人は奇妙で不思議なことばかりする(卵黄海) 私は携帯電話というものが嫌いで、 これまで持たずに通してきたのだが、私語との必要に迫られ、とうとう持つはめになった。持ってみると確かに便利ではあるが、 常に束縛されている感じがするし、また、ちょっと悪用してみようかなどという遊び心も浮かんでくる。そんなときにこの歌を読んだので、共感を覚えた。 「流氷」を題材にした作品には無論見るべきものが多いが、それ以外にも佳い作品がたくさんあることに改めて気づかされた一首である。『塔』
甲 田 一 彦
卵黄の渦巻きつつ氷海の上わが命ありありと見ている(卵黄海)
朝霧の中に日が昇ってくるのでしょう。 ここは厳寒のオホーツク海ですから、 まだ見ぬ者には想像の及ばない世界でもあると思います。「卵黄」と表現された太陽の光も、それに照射された流氷と海水も、そして作者の命も、渾然一体となっている一色の世界であるのです。 そこには、物もなければ心もない、生死を超越した世界だけが漂っているのだと思います。「ありあり」の句跨がりが、この一首を支えていて、 その上そこに全てが込められていて見事だと思いました。雪道を踏めば命の音ひびき止まれば風がしじまを運ぶ(卵黄海) 一年ぶりに心の古里網走を訪ねた作者の、 心の高鳴りが一連のすべての作品に流れていて、 どれか一首が取り出せるような雰囲気ではないと思いました。 流氷即わが命である作者が痛いほど理解できるが、学期末の超多忙という仕事の中で、流氷と対面し、 第三十二号を創り上げた超人的な作者に、 恐れに近いものを感じています。 『夕方となり夜となる単純』は必ずまだ続くと思って下さい。 日はまた昇ります。 体に気をつけて下さい。
(『塔』同人。北摂短歌会長。高槻十中時代の校長。)
平 野 文 子
泡風呂の泡のつかのま人の世を満喫して我が消えてゆくべし(卵黄海) ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまりたる例なし。世中にある人と栖と、またかくのごとし 鎌倉時代初期の歌人鴨長明は、 方丈記を通じて強烈な意志に支えられた遁世者の生き様に憧憬を抱きながら、 それに徹底しえない自身の心の弱さを凝視したといいます。 変わって此の一首からは永劫の中の束の間の人生、一度しかない人の世を、 精一杯満喫してみようと、少し斜に構えた現代的な作者の姿が力強く窺えます。(『かぐのみ』。北摂短歌会)
大 橋 国 子
少しずつ少しずつ赤多くなる椿見て過ぐ人も車も(卵黄海) お寺の塀越しに紅白二本の薮椿が立っています。 濃く艶やかな葉の陰で、一つずつひっそりと数が増えていくようにみえます。大きすぎないこの椿の花の佇まいは、何とも可憐で、一つずつポトリと落ちていく姿共々一緒の余情を持ち合わせているように思われます。茶花に使われたりオペラの哀しいヒロインに名を冠せられたりする所以でしょうか。 私も自転車で五分余りの距離にあるこの椿の木を見に、三月になると時々来るようになりました。何と言っても奇麗なものを見たいという気持ちが誰にもあるのかもしれないと思います。いつでもそんな気持ちを忘れたくないと思います。
山 路 義 雄
目交いを人も車も流れゆく滝壺のような滅びに向かい(卵黄海)
夕暮れ時の駅前の雑踏を見ていると、 一日の勤めを終えて家路を急ぐ人、現場での作業を終えて会社へ向かう人、夜の職場へ出向く人など、それは恰も生存競争の修羅場の様相である。その光景を作者は極めて醒めた目で捉え、 人も車も流れゆく滝壺のような滅びに向かってゆくと詠んでいる。慧眼である。究極的には止めどなく暗い滝壺の底へ落ちてゆく、人間の営為も所詮は、このようなものであるとの諦観に脱帽。 (北摂短歌会)
山 本   勉
岸に残されし流氷群を見る人には言えぬ苦しみを持ち(卵黄海)
この一首、何となく自分の生きざまと重なるようで胸が熱くなった。『流氷記』を読むようになって、流氷に関心を持つようになった。そんな私の思いに呼応してか、今年の冬はテレビで再三、網走の流氷が映し出され、 流氷に取りつかれた川添さんの気持ちが分かってきた。三十二号は『卵黄海』そして冊子の色も卵黄色。朝日に輝く流氷原のまばゆいばかりの美しさに拘わられた作者の思いが、 この号に余すところなく詠われていて、 私も実際の流氷をこの目で見たくなってきた。そんな一冊である。 (北摂短歌会)
リカルド・オサム・ウエキ
金木犀枝を払わぬ理由にて昨年(こぞ)より止まる空蝉があり(銀杏葉)
自然をそのままを詠まれたものでしょうが、 生きとし生けるものだけではなく、既に死んでしまっているものまで慈しみ、愛しようとする人間味が溢れるばかりに感じられる良いお歌だと読ませていただきました。地上に這い出てからの短い命を、命の限り歌い上げたあとの空虚さは、まさに人間の生きざまに似て、身につまされるものが在るのではないでしょうか。空蝉の連想から、昔リオ州の果樹園に住んでいた頃、ともに棲息していたカスカベルや、カスカベルよりももっと猛毒を持っているスルククーという毒蛇が衣替えしたあとの抜け殻が、 風にからから鳴るのをおぞましく聴いたことがありました。 まるで臆病者の己を嗤われているような気がしながら…。 (作 家。『白い炎』。ブラジル在住。)
上 山 好 庸
美しく堅き舗道にしめやかに土にもなれぬ桜葉が落つ(銀杏葉)
桜葉の紅葉はどれひとつ同じものはなく、 一枚の葉の中でも微妙なグラデーションで色の変化を見せてくれます。毎秋、スタジオ近くの公園で、 しゃがみ込んでは一枚一枚と拾い集め部屋に持ち込みます。棚の上には前の年の色褪せた葉が数枚残っていて、入れ替えをするのです。生きていくということは、こういう確認作業の繰り返しなのかもしれないと思います。 《土にもなれぬ》悲しさがあります。 (写真家。上山好庸写真集『万葉明日香路』)
柴 橋 菜 摘
何処より来て何処へと消えてゆく我がつかの間の形ある身は(卵黄海) 現世の頼りなきこの身、漠とした不安を衝かれ共感する。大自然を前にすると、その想いは強く沸々とわき上がるのだろう。私は流氷をまだこの眼で見たことがない。 さまざまな流氷の姿を川添さんの歌で味わいながら、想い描いている。 そして、卵黄海という表現に感動。各界の方々、西陵中の生徒さんの一首評に感じ入りながら、じっくり、深く流氷記に浸らせて戴いた。 (大和高田市在)

小 西 玲 子
この今は昔の夢の実現もあるのに何か崩れつつあり(水の器) 人にはどうしても『欲』が出てくるものです。充分幸せな筈なのにもっと幸せになりたいと思うものです。昔ならきっとそれだけで良かったと思うことも今は違うかもしれません。何か崩れてしまったのは、きっと自分自身なのかもしれません。私は、そんな自分に気が付いて悲しく感じる時があります。昔感じた素直な思いも、いつも流氷記に書いている気持ちをずっと忘れずに持ち続けていたいです。もしまた崩れてしまったとしても、もう一度積み上げていこうという気持ちを守っていきたいです。人も花も地球も不思議一瞬といえども愛によりて生くべし(馬の骨)私は、毎日、家族や友達や恋人や先生やいろんな人の愛によって支えられています。 人間に一番必要なのは愛だと思います。 愛があるから、人は変われます。前に進むことができます、笑顔でいることができます。そして人間以外にも愛が必要なものはたくさんあると思います。私は、愛情で一杯になって欲しい、傷つけ合うのは悲しすぎます。せめて私は愛情を周りの人に伝えていきたいです。 そしたらきっとみんなも私も優しい気持ちでいられるのだと思うのです。 (西陵中卒業生)
高 田 暢 子
流氷が朝の光を集めいる海きらきらと輝くみれば(卵黄海) この歌は読んだ瞬間にきれいな情景が広がってとても心地いい気分になりました。 北海道や寒い地方でしか見られない貴重な一瞬の輝きを封じ込めたみたいで、 今までの流氷の歌の中でも一番好きかもしれません。 特に《きらきら》という表現は単純かもしれないけれど、たくさんある表現の中で一番好きなので、この歌がとても心に残りました。 (西陵中卒業生)
高 嶋 香 織
見る程にレールも走りついて来る車窓は幼き頃と変わらず(馬の骨)
レールがもしも人生を表しているなら、私の乗った汽車は終点である。《死》という駅まで走り続けるであろう。窓から見える風景は、楽しいものばかりではないだろう。停車するたびに誰かが下車したり、乗車することもあるだろう。そしてまた、走りはじめる。走れば走るほど私は大きくなり車窓の眺めは変わっていってしまうだろう。それでもいい。心の瞳さえ幼い頃と変わらない車窓をとらえてくれてさえいれば…。 (西陵中卒業生)
川 野 伊 輝
突然の死を幸せな逝き方と言う人もありいずれ消える身(蜥蜴野) 生死の価値観は人によってさまざまです。壮絶な死、恋人と心中、死の床での安らかな永眠等々、 いろんな死に様にあこがれを抱くものです。 「自分は綺麗な死に花を咲かせて散りたいな」ってな感じで…。しかし、確かに死んでしまえば肉体的存在は語り継がれる限り決して消えることはありません。 果たして人々がそれに対してどう思うものか、それを考えるべきなのでしょう。(西陵中卒業生)
北 川 貴 嗣
土となり塵芥となりして蝉の声絶えて八月終わりとなりぬ(明日香)
夏の終わりというものは実に寂しいものである。 到来とは違い、ふと振り返るともういなくなってしまっているような、 そんな終わり方である。 夏の到来はまだいい。少しずつ、汗ばむようになってくる。「ああ、夏がこっちに歩いてくる…」そんなふうに感じることができる。僕は四季の中で夏が一番好きだ。 燃える夏、生命感あふれる夏…。そんなことを考えているから、よけいに意識してしまうのかもしれない。 今年もまた、夏はゆっくりと歩いて来、すぐに走り去ってしまった。 (西陵中卒業生)
大 橋 佐 和 子
泡風呂の泡のつかのま人の世を満喫して我が消えてゆくべし(卵黄海) 人の人生なんて、 長い長い宇宙の歴史で見たらまるで泡風呂の泡のように短くて、儚くて、さりげないものなんだと思います。 自分の意志とは関係なく生まれ、自分の意志とは関係なく死んでいきます。泡とそっくりです。それでも、そんな短い間にも、人は喜んだり苦しんだり、笑ったり泣いたりして生きています。 短いけれど、どうせ跡形もなく消えてしまうけれど、それでもその限りある時間の中で精一杯生きようとする人がいます。 私は、 そういう人は、生まれたことに意味があって、生きていることに価値があると思います。 (西陵中卒業生)
藤 川   彩
春の土手輝く緑敷き詰めて踏めば小さな草立ち上がる(渡氷原)
この一首の中の「立ち上がる」という表現がとても気に入った。
まるで、 草が意志をもって自分で起き上がろうとしているみたいだから。草が空に向かって生きよう、生きようとしているみたいだから…。こういった表現の仕方を「擬人法」というが、どうしてこんな人間中心の言い方をするのだろうと思った。 生きているのは草自身なのに…。 表現方法にまでケチをつけてしまうのは言い過ぎかもしれないが、 それほどまでに草の生命力を感じさせる一首だと思った。 (西陵中卒業生)
野 村 充 子
無駄なもの何一つなき人生と空ゆく雲を見つつ思えり(馬の骨) 「無駄だよこれ!」と他人に言われることでも自分自身が強くあれば、無駄だと思えることでも、それをこなしていれば、いつか自分に何らかの形になってプラスになって帰ってくる。 どこからともなく生まれてきて頭上に広がる大空に姿を映し、 またどこかの地へと風の吹くままに身を委ねている。 そんな雲の姿が幸せだと思える日がいつか来るはず。 (西陵中卒業生)
中   恵 理 香
影落とし地に貼り付いている雲を見下ろしつつ飛ぶ我が視界あり(卵黄海)普段私たちは雲を下から見ている。 それは、私にとってすごく遠い存在に感じる。 しかし、飛行機で空を飛んでいる時、窓から外を見れば、雲は私たちの下にある。 つまり、見下ろしていることになる。私は、この一首を読んで、今まで自分の中で遠い存在だった雲が、身近な存在になった。それと同時に雲の偉大さも感じることができた。 (西陵中三年生)
阿 河 一 穂
服を着て携帯持ってああ人は奇妙で不思議なことばかりする(卵黄海) 携帯・パソコン・飛行機などなど、 私たちは自身の生活を楽にするために、いろいろな物を作ってきました。 そして、これらの発明品は、 確実に私たちの生活を楽にしています。 しかし、この頃は、ニュースを見ていても、 「なぜこんなことするのであろうか?」と呆れてくるような出来事がよくあります。 これは既に人類が作ったものが私たちがコントロールできる限界を超えているのではないでしょうか。 どんな時でも自分たち自身というのは盲点となっています。どれだけの安全基準や対策があっても人類の愚かさは、その項目には入っていないのです。結局、人は頭脳は発達しているのに他の部分、特に他の物や生物への扱いはほとんど進歩していません。これに対し、「愚かなものはしょうがない」とか、「ほとんど本能的なものだろう」などなど開き直っている人もたまにいます。しかし、仮にも地球を統治する者として、そのような無責任な言い訳は通用しません。 今の便利な世の中を少しでも昔の状態に戻そうとしても、社会的にも理論的にも不可能です。ちなみに若い人が「生きること」への方向性を見失いつつあるのも世の中が便利すぎるからではないでしょうか。 だから私たちが少しずつでも進歩していかなければなりません。地球のためにも、私たちのためにも…
金 指 な つ み
網走は今日も吹雪くと便りありここ梅開く高槻にいて(卵黄海)
今年はいつもより早く春の気配を感じます。 高槻や茨木は梅の花も咲きました。しかし網走はまだ吹雪。地方での天候の違いをつくづく感じます。 大阪は比較的雪は降らないので吹雪に憧れているのも多少ありますが、この歌は目にありありと風景が映ってきます。なのでこの歌にひかれました。 教師にも好き嫌いありクラス替え作業の生徒の名前が並ぶ(卵黄海)私たちには人の好き嫌いがあります。それは当たり前。 しかし先生も人間。また人の好き嫌いがあって当たり前。 川添先生は今、三月現在、二年七組の担任をしていらっしゃいます。 七組の生徒の中でも好き嫌いもあることでしょう。そしてもうクラス替え。一年は早いものだなぁとつくづく思わされます。今の時期は先生方にとって大変な時期であろうことでしょう。 そして川添先生にとっては辛い辛い時期でもあるでしょう。 (西陵中三年生)
田 坂   心
服を着て携帯持ってああ人は奇妙で不思議なことばかりする(卵黄海) 今では普通になっている服。 けど人間最初の頃は服を着ていなかった。でも今では服を着ていなかったら捕まってしまう…。なぜだろう。その人は本当の人間のありのままの姿なのに、周りからはおかしな人だと思われてしまう。 これも普通になってきた携帯電話…でも私は持ってはいないので、持っている人を見ると、私はおかしいと思った。ここまで必要なのかとも思える。これを見ていると人は奇妙なことをする、不思議なことをすると思う…。 けど、こうしている私も奇妙で不思議かもしれない。気が付けば今年も梅の花開く立ち止まることなく時は過ぐ(卵黄海) 今、ふいと思えばもう春も訪れて家の梅も咲いていた。 一年ってあっと言う間に過ぎていった。あの頃に戻りたくもなるが、過ぎた時間は戻れない。 出来ればタイムマシンで過去に戻りたい気持ちもあった。 でも時は止められないし、戻れない。まるで川みたいだ。私は、川の流れに逆らわず、一日一日を大切にしたい。運命で出会った人と別れようとも、川の流れに沿って生きて生きていきたいな。 (西陵中三年生)
衛 藤 麻 里 子
聖なのか悪なのかさえ妖としてオサマヴィンラディン行方知らずも(馬の骨)テロの中心人物として、沢山の人の命を奪ったヴィンラディン氏。でも本当に悪者なのか。このテロによってアフガニスタンが注目を受けなかったらどうだろうか。きっとテロで亡くなった人以上の人が餓死していただろう。 それがテロによって注目を浴びるようになり各国から食料が支援されるようになった。 そんなアフガニスタンをテロが起きるまで、 目を向けなかった私達も悪なのではないだろうか。アフガニスタンだけでなく、発展途上の国のことを裕福な国の人々が、助けていかなければならない。
蓮 本 彩 香
夕方となり夜となる単純をこの頃驚異と思うことあり(卵黄海)
一日は夕方となり夜となって終わっていく。 これは単純で当たり前のことだ。 私は学校に行き、勉強をしたり、友達と遊んだりする。これは今の私にとって普通で当たり前。でもこの私にとって当たり前なことがしたくでも出来ない人がいる。 きっと私も何年後かには、 今当たり前に出来ている多くのことができなくなるだろう。ごくごく普通なことが本当は一番すごいのかもしれない。
白 田  理 人
雪道を踏めば命の音ひびき止まれば風がしじまを運ぶ(卵黄海)
読んだ瞬間、雪道を踏みしめた時の感覚と、きしきしという音がよみがえってきた。「命の音」「風がしじまを運ぶ」という表現が、とても印象的だ。立ち止まって、足音の代わりに音なき音が広がっていくのを感じたからこそ、足音は「命の音」になったのだと思う。この「命」とは、雪を降らせいつか溶かす自然のことだろうか。そして同時に、先生自身のことだとも思う。 「命の音」は、先生と自然との命の共鳴だ。この歌は、先生と自然との対話によって生まれた歌だと感じた。「命の音」がひびいて……。その時もし後ろを振り返ったなら、そこには一直線に続く足跡が、足音よりもしっかりと残っていたことだろう。 (西陵中三年生)
妹 尾 芳 樹
卵黄のような朝日が光の矢放ちて帽子岩を見ている(卵黄海) この歌は、朝の太陽が放つ光の美しさを歌っています。確かに太陽はいつもぼくらを照らしてくれます。 朝や夕方に見える美しさはすばらしいと思います。でもそれは太陽を外側から見た美しさで、実際内側は、想像も出来ないくらいの高温で、外側のイメージとは全く違います。 月も毎年九月頃にはとても美しい姿を見せてくれるが、表面は昼と夜の温度差が激しく、まわりを飛んでいる石にいじめられて、でこぼこだらけです。 そして青く美しい地球は過去に、人と人が数多くの凶悪な兵器を用いて争い、多くの人が死んでいった歴史がある。もし宇宙人がいるとして、その宇宙人は地球を見て心の底から美しい星だと思ってくれるだろうか?出来れば美しいと思ってほしいです。(西陵中三年生)
阿 加 井 桃 華
時の川流れて四角いわが布団もう少しだけ眠っていたい(卵黄海) この一首を読んだ瞬間、 私の毎朝の気持ちを代弁してくれている、何て素直な、すばらしい歌なんだと感動が押し寄せた。 目を閉じると、あっと言う間に「起きろ―」コールが聞こえてくる。近頃はゆっくり夢も見ていないような気がする。あと五分、あと一分と思いながらも、 声にも出せずつらいつらい自分がいる。「この子は何回言っても起きないんだから!」と不機嫌な母に、迫り来る楽しい修学旅行の朝には、誰よりも早く起きてやる!!と声には出せず密かに誓う私がいる。(西陵中三年生)
宮 本 浩 平
神のパソコンを覗けばびっしりと近日死亡予定者が見ゆ(馬の骨) 死亡予定者の中には、 寿命や病気、事故などで死ぬ人もいれば、自殺したり、殺されて死ぬ人も入っているのだと思う。もし神が人の死を決めているとしたら、殺人事件なんていうものは、すべて神が仕向けたということになるのだろうか。 そうだとしたらなぜ神はそんなことをするのかと疑問に思う。 「近日死亡予定者」が決められているなら、 「近日誕生予定者」も決められているのだろうなと僕は思う。なぜなら、神は人の「死」を決めるだけの存在ではないと僕は思うから。 (西陵中三年生)
岡 本 英 璃 乃
長いのか短いのか一日が過ぐかけがえもなく生きて地球に(馬の骨)
一日が長く感じたり、短く感じたりする時があります。その時は一日が二十四時間ということが嘘じゃないかと思います。 でも実際は、自分が楽しい時の時間は短く、すぐ終わってしまうように感じて、 自分の嫌いな事や、勉強などをしている時の時間、何もしていない時間がつまんなくて、早く終われ〜!と思うから、一日が長く感じるのかな、とも思います。 でも、いろんな事をいっぱいした日も長く感じる時もあります。 同じ時間なら私はやっぱり一時一時を大切にしていきたいです。 (西陵中三年生)
古 田 土   麗
ここまでに生きてこられたのは不思議奇跡に近いと思うことあり(秋夜思) 生きたいと思っても死んでしまう人がいます。 私も今までに高い熱を出したり事故に遭いそうになったりして、 不思議に今ここに生きています。 不思議というより奇跡に近いのかもしれません。 生きていることをそれだけ大切にして生きていこうと思います。 (西陵中三年生)
匂 坂 一 葉
死によりて始まるワイドショーを見る夫婦のいずれどちらが残る(銀杏葉)「死」は身近にあるように思えますが、意外と遠くにあります。身近にある人が死んだ時、初めてその遠さに気づきます。 自分が夫婦になるときまでに、 一回は身近な人の死を感じることがあると思います。そして、もし自分が死んでしまったら…ということを考えることもあると思います。 必ずどちらかが先に死んでしまう。どちらかが残らなければならない。 案外、先に死んでしまった方が楽なのかもしれない。でも、残された方のことを考えると先に死ぬのなんて私はできない。 (西陵中三年生)
阿 加 井 桜 子
心臓のように動いて絶え間無くクリオネあちらこちらを泳ぐ(卵黄海)クリオネは北の海に生きる小さな天使のような生物です。あの広く冷たい海の中で、 小さなクリオネも私たちと同じ大きな命があるということを忘れてはならないと思います。 心臓が止まれば全ての生き物は死んでしまうのです。 その心臓の動きのように休むことなく、ぴくぴくとクリオネが絶えず動いている、そんなクリオネの様子をじっといつまでも見続けている先生が目に浮かびます。幼い子供のような感じなのでしょうか。(西陵中二年生)
西 尾 美 暢
気がつけば今年も梅の花開く立ち止まることなく時は過ぐ(卵黄海)
この歌は日常で思うことの三分の一くらいの存在です。時は、悲しいときも楽しいときも立ち止まらず過ぎていきます。 時に助けられ、ときには腹が立って… 時は、日常には感じられませんが、とても大切なものだと思います。 そもそも時がないと生きていけません。ここに私がいるのも、時のおかげです。 どんな時でも見守ってくれている《時》にお礼が言いたいです。そしてこれからも「よろしく」と言いたいです。 我が命なくなりてもなお繰り返し時計のごとくに雲流れゆく(馬の骨) 私が死んでも雲は止まらずにかまわず流れていくんだろうなぁと思った。 流れる雲は人の悲しみも運んでいるのだろう。 時の流れには逆らえない。 あの頃に戻りたい…などという思いなど聞かずに雲は流れていく。 雲は時と友達なんだろう。時が止まれば雲も止まる。 でもその時は、世界やこの世の終わりだろう…。 (西陵中二年生)
古 藤 静 香
影落とし地に貼り付いている雲を見下ろしつつ飛ぶ我が視界あり(卵黄海)空高くにいる自分は天使になったようでした。自分が生きて過ごした場所は、もう見えないほどに小さくなり、すべてが小さく見えるので、自分が大きくなったような気さえしました。しかし、実際は違いました。自分は大きくなったような気がしただけで、本当は、自分のいた場所が惜しくて、戻りたくて見下していたんです。雲さえ、友達だったと感じたでしょう。 でも、この天使は、次の瞬間には、上を向いて飛んでいけたと思います。 なぜならば、自分というものが、今どこにいるのかを知ることが出来たから。(二年生)
木 村 円 香
人間も肉骨粉になればいい墓も儀式も夕映えてゆく(卵黄海) これを見た後、私は「そうだよ!」と思いました。 狂牛病のことで人々は神経質になって騒いでいるけど、 そんなに狂牛病が怖いんだったら人が肉骨粉になって鶏や牛のエサになってしまえばいいのに、そうしたら心配ないし、お墓も葬式もいらないのに、と思います。症状が悪くなって世間が騒ぎ始めたら牛を食べなくなった人々に私はこう言いたいです。症状が出る前でも牛は感染しているはずなんだから、今頃騒いだって、もう遅いんじゃないの?と。 (二年生)
森  晶 子
服を着て携帯持ってああ人は奇妙で不思議なことばかりする(卵黄海) この歌を読んだ時、まずふんふんとうなずいてしまいましたが、難しいなぁと思いました。今、地球上のあらゆる所で生活している人間。たくさんの脳みそをフルに使って素晴らしい文明を築いているけれど、地球を壊しにかかっているのも人間です。そんな私達を地球上の違う生き物が見たらどんなふうに映るのか。 ひょっとしたら、 地球を破壊する最低のやつらだというようにしか思われていないかもしれません。人間って一体何なのだろう。考えると益々分からなくなってしまいます。地球は私達人間に、どんな思いを抱いているのかなぁ。人間って何か孤独で、不思議な生き物だなぁと思いました。 (西陵中二年生)
今 井   桜
瞬きをするうちいつか我が視野も命も何もなくなるだろう(卵黄海)
この人生は瞬きをするうち終わってしまうものだとひしひしと感じられた。何も自分の視界になくなり、命さえもあっと言う間に無くなってしまう。 瞬きをする瞬間であろうと大切にして精一杯に生きていかねばならない。 (西陵中二年生)
中 西 希 和
人も花も地球も不思議一瞬といえども愛によりて生くべし(惜命夏)
私がこれを選んだ理由は、 とてもきれいな感じがしていろいろと共感できたからです。今、人間は自然を大切にしようとよく言っています。それは地球がなくならないためです。そしてそれは私達が生きていくためでもあります。このように私達は自然や地球にいろいろと助けられています。 だから今、ここにいるのです。私達は花や地球を守ろうとし、愛を注いでいるのだと思います。私は地球に対していろいろと不思議に感じていますが、 今は地球を守ろうという気持ちでいっぱいです。 (西陵中二年生)
長 田 龍 哉
眼裏の模様はDNAなのか果て無き夢も現れながら(卵黄海) 私もDNAのことはいつも謎だなと思っていましたが、 眼裏に目を付けるとは驚きです。 DNAをこうして一言にまとめられる想像力が足りなかったので自分には無理でした。眼裏の模様がDNA。この一言に納得です。心臓のように動いて絶え間無くクリオネあちらこちらを泳ぐ(同)クリオネの懸命に生きる姿が目に浮かぶ。そんなほのぼのと落ち着いた良い一首だと思います。 人間の汚染が続いて、こんな小さな生物も生きる場がなくなりつつあるので、あちらこちらを泳いで生きる場所を求めているのでしょう。(二年生) 水 口 智 香 子
わが脳の中の風景より出でて現つ朝日の輝き始む(卵黄海) 流氷記を見ていて、この一首がすごく印象的だった。自然の美しさを表した素敵な一首だと思った。 頭の中で描いた景色よりも自分の目で見た朝日の方がすばらしく輝いている。私も身近にある自然の輝きを見つけたいと思う。 (西陵中二年生)
奥 田 治 美
無駄なもの何一つなき人生と空行く雲を見つつ思えり(馬の骨)
これは人の経験や人自身にも言えることだと思います。すごく辛いとその時に思っていても、後になって振り返り、それを見つめてみれば、《思い出》として受け止めることができるのではないでしょうか。人の場合でも、特に気に留めていなかった人が、実は、すごく大事な人だったり…。そんな人達を広い空は見つめ見守ってくれているのかもしれないと、そう思いました。 (西陵中二年生)
藤 川   彩
硝子より冬の光の射してくる声さえ遠くくぐもりて聞く(凍雲号) 冬の凍えそうな寒い時期、 窓から射し込む光はとても暖かく感じられる。 そしていっそう柔らかく見えるものだ。 声が遠くくぐもって聞こえるのは、 そうした情景を目にしているからだろう。こういうふうにゆっくりと進む時間を、 コーヒーカップを片手に椅子に凭れながら過ごしてみたいと思った。 (西陵中卒業生)