宍 戸 恭 一
魂の対話もありて幾つもの言葉行き交う授業は楽し(未生翼) 前号で川添さんの教え子が、 たまたま私と同じ一首をとりあげていたが、彼女の光り輝く素敵な感性に圧倒された。かねてから中学生たちの天真爛漫な発言に注目していたが、今度、その謎が解けた。 権力機構に監視される歪んだ教育環境の中で、 授業で生徒たちと「魂の対話」を表す先生は、希有なことで、それだけこの勇気のある先生に恵まれた生徒は、 持って生まれた資質を存分に開花させることが可能であることを、改めて知った。 このことに関連して「流氷記」についての私見を明らかにしておこう。 「流氷記」が既製の同人誌と決定的に異なるのは、 世俗的な人間関係とは次元の違う「魂の対話」に広く門戸を開いていることに在る、 と考えている。 戦前の新劇界で唯一人三好十郎と「魂の対話」をつづけてきた丸山定夫は、広島の原爆で無惨にもこの世から去ったが、この名優にこんな名言がある。―「役者になる前に、真人間になれ」、と。身銭を切りながら、 短歌を媒介にした「魂の対話」の場を提供している「流氷記」に、私はあえて丸山定夫の名言を呈したい。 (三好十郎研究家。三月書房店主)
清 水   敦
氷塊に氷塊の影水色に置かれて流氷原は静まる(卵黄海) 素直な静物画のような流氷だ。 視線は一点だが流氷原という茫漠とした世界がバックだ。 本当の流氷は無意味にただ美しい。 実存という言葉さえ空しい。 全ての事象は見る人のその時々の心の状態で様々な見え方をする。 川添さんはしばしば流氷塊を《骸》と見るが私にはそのように見えたことがない。 (銅版画家『野の花』)
林     哲  夫
売れぬまま宅地予定地母子草父子草ありつつましく咲く(未生翼) 「あゝ家が建つ家が建つ。/僕の家ではないけれど。」…こういうコピーのテレビCMがあった。 うまいこと言うもんだと感心したのだが、 じつは中原中也の未刊詩篇「はるかぜ」のリフレインだと、あとで知って、またまた驚いた。 中也が死んだのは昭和十二年である。 大不況から戦時好況へと向かっている時代のワンショット、六十年たっても生きていた。 ウチの近所では、つつましく雑草の茂る空地も少なくなって、建てたはいいが、買手のつかぬ新築家ばかりが目立っている。 どちらにしても、僕の家ではないけれど。 (画家。『喫茶店の時代』)
和 田  悟 朗
目を閉じて雀の暮らしの声を聞く夜明け獣となりて横たい(未生翼)
一号とまた一号とふくらみて三十三となりにけるかも
すらすらと一首一首と読み進むこのひとときに雀鳴きをり
パソコンといふ機械ありそれ故に満点とあり満天となすべき
又来しか未生翼なる流氷記日(にち)にち思ふことを述べつつ
人間は生まれしのちに死ねばよしそのしばらくを何をなさんか
八十円切手が貼られあるゆえに一言詠ひ返事となさむ
(俳人。奈良女子大学名誉教授)
島 田  陽 子
わがクラスみんな違ってみんないい明るく笑い励まし合おう(未生翼) 花咲かぬ季にもナズナの根は開く真昼の星のごとく見えねどこの二首には金子みすゞの影響があり、殊に「みんな違ってみんないい」は教育の根本精神と思っているので、この姿勢は肯定します。ただ、作品となると、それを受ける後半が甘い気がしました。といって、これ以外の展開も思いつきませんが。先生にも生徒にもクラス替えの不安があるので「新しきクラスに座る生徒らの不安と期待の眼差し残る」以下の三首に頷き、 その上で「君らとも所詮つかのま滔々と流れる川に陽がとどまりぬ」の諦観に共感しました。
(詩人。『島田陽子詩集』『金子みすゞへの旅』『かさなりあって』)
三 浦  光 世
人厭うたびに眺める北摂の山並み今朝は鮮しき雨後(未生翼) このような作には脱帽あるのみ。 人間生活のかなしみ、そして自然へ向ける目、只々共感させられる。言葉に乏しく、的確な評をする力が私には残念ながらないのであるが、深い共感を覚えずにはいられない。月並な言い方をあえてすれば、上句を受けた下句が見事に決まっていると思う。 不登校常なる生徒の空席のかなし授業の間にま目がいく この一首にも心惹かれた。教職者の悩みを無理なくうたい上げている。 (作家。『三浦綾子作品選集』)
加 藤 多 一
美しく生徒の群れは動けども人一くくりにしていいものか(未生翼) 学校では、生徒を群として扱う。近代学校教育制度が明治五年以来軍隊強化と重なってきた事実と、 市民民主主義がなく天皇制民主主義しか育っていない日本の縮図でもある。 作者がそのことに歌人としても心を痛めているからこそ、 『流氷記』後半の中学生のみなさんの感想の質の高さが保たれているのでしょうね。 個の存在の絶対性を信じてこそ、短歌も存続できる。 実は小生、体育系のマスゲームも、高校野球セレモニーの「軍隊式」もイヤな人です。悲しくなるよ。当然有事法制NO。「備えあれば〜」というのは「天災」のこと。戦争は天災でなく「人災」ですものね。(児童文学者。オホーツク文学館長)
中 島  和 子
売れぬまま宅地予定地母子草父子草ありつつましく咲く(未生翼) ハガキの余白に「庭の草抜きをしています」と書いたら、「母子草は抜かないで下さい」と、絵を添えた便りが返ってきました。 理由はわからないのに、ドキリとしました。無造作に抜いた草の中に、母子草もあったかもしれないのです。今、庭には他の草といっしょに、数本の母子草がつつましい花を咲かせています。それにしても雑草と呼ばれるものたちは、何と可憐な花をつけるのでしょう。手入れの行き届いたお隣の庭を眺めながら、 雑草を思いっきり茂らせたいものだと思います。(詩人。童話作家。『さいごのまほう』)
近 藤  英 男
妻・娘・僕の奇妙な関係もやや和らぎて食卓囲む(未生翼)天と地と噛みあううねる光たつ没日に海よいざなうなかれ(夭折) 川添さんの初めての歌集《夭折》、再読して一驚。現代短歌のはるか先を詠まれた現代短歌を予言する一九七二年刊行。 そこから《流氷記》の虜となり、 数々の心打たれる異色の世界に私達を導いて下さったが、前号あたりの義父上を偲ぶ作品から、今回はさらに詩人としての貌から家庭人としての童子のような少年期ともいえる歌境に還元されている《翁童論期》ともいうべき《時間性》を超えた道元の《有時》や、空海の《一即一切・一切即一》の世界と交響。(詩人。体育学者)
林   禧 男
地に落ちた椿の花にも雨が降る洗われても死は戻るはずなく(未生翼) 蕪村の句に「牡丹散つてうちかさなりぬ二三片」がある。 吉田兼好も 「散りしをれたる庭などこそ見どころおほけれ」(徒然草第百三十段)と言ふ。 海外の作品にも、レイ・ブラッドリは「死ぬときはひとりぼつち」とのたまふ。 散つた花を雨が洗ふのだが、花びらがもとの枝に戻ることは永遠にない。その哀しみを抱いて、人は生きなければならぬのだらう。 さうした思ひをあらためて感じさせてくれる一首。秀歌と申すべきでせう。 (放送作家。)
リカルド・オサム・ウエキ
美しく生徒の群れは動けども人一くくりにしていいものか
トータルで人生なんて分からない寄り道ばかりして来たけれど
卒業式ビデオカメラの群れ見えて人の残せしもののいつまで
君らとも所詮つかのま滔々と流れる川に陽がとどまりぬ(未生翼)
離合集散の典型ともいえる学校で触れる子らに、 ひとくくりにしてしまう教育の在り方を反省する姿が真摯に映ります。 寄り道ばかりの人生であるはずの一瞬をビデオカメラに収めることの空虚さ。これら教育の恐ろしさと、人生の虚しさを、テーマにして、戦後に起こったブラジルの日本人社会の混乱を、 いま約七千枚の長編小説に仕立てています。(作家。『アマゾン挽歌』ブラジル在住)
高 坂   相
君らとも所詮つかのま滔々と流れる川に陽がとどまりぬ(未生翼) 最近、 川添氏の歌には死の認識が深まってきているように感じる。死の側からの目で、現世を見ているような歌が増えているのではなかろうか。それと連動するように、この世のものに対する慈しみが注がれるようになってきた。 存在するものを存在することそのものによって愛する感覚。 生徒を歌ったものにもそうした慈しみの心があふれている。右に選んだ一首は、さらにそうした慈愛の感覚をも超えた、大きな歌である。 (文芸評論家。漫画評論家。)
川 口   玄
ほの熱い湯呑みを抱く手の平に今在る命思いつついる(未生翼)
第三三号には共感できる歌が多く楽しんで拝読しました。平易で日常生活の中のありふれた瞬間を詠じた歌が大好きです。その瞬間瞬間が出来るだけ楽しい瞬間、あるいは楽しくなくても少なくとも苦しくない瞬間が多ければ多いほど良い人生を送ったといえるのではないでしょうか。 睡眠時間を除くと一日はだいたい千八百万秒、 一年は六十五億七千万秒……その秒々のうち出来るだけ多くの秒を楽しい気分でいたいものです。 「地を叩く音ひびかせて春の雨獣も花も笑いつつ過ぐ」「目を閉じて雀の暮らしの音を聞く夜明け獣となりて横たい」「押し寿司の人のかたまり並走の電車に詰まり顔あまた見ゆ」「すさまじき女の争いしておりし妻と娘が寄り添いて寝る」等、ほかにもたのしい歌が多かったです。
(『大阪春秋』編集長)
鈴 木  悠 斎
植物は泉の形に地を覆いわが眠る間も地球は回る(卵黄海) まるで地上何千、 何万メートルからの航空写真を見るような雄大かつ幻想的でしかも調べが美しい歌です。 「泉の形」とはどんな形かわかりませんが、 この美しい緑の地球も文明という名の破壊によって日々確実に茶色にひからびており、 しかも温暖化で陸地はだんだんやせ細っています。 もっとも地球の回転というものは少々のことでは変わらないそうですが。 この歌から私はそんなことを考えましたが、川添氏の歌には私の心を高く、熱くしてくれる何かがあります。 (書家。)
佐 藤  昌 明
墓群れの中の椿が赤き花落として次の命育む(未生翼) 川添さんの歌のどれもに感想を書け、と言われたら、おそらくその一つひとつに原稿用紙数枚ずつは楽に書くことができると思います。 ということは、そのどれもが内容があって捨て難く、一首を選ぶのに大変苦労するということでもあります。そんな中で、今回はこの歌を選びました。今年の私達の、冬四カ月の四国の旅で驚かされたのは墓の多さでした。町の中心から少し離れた所には、墓、墓、墓のオンパレード… 元墓地だったところが開発されたような所には、墓の盛り合わせまでありました。 しかし、考えてみると、これは歴史の長さによるものであって、 驚くことはないのだということにも気づかされました。 今、私達の目に残っているのは、高知の千松公園(私達が約一カ月間車泊した)の側の墓地の中に咲いていた山茶花や椿の、何となく侘しげな赤色です。来年、またあの花々を見る時、きっとこの歌が私の脳裏に浮かび上がることと思います。(作家)
釜 田   勝
限りある命愛しみ目を閉じていつまで続く我が鼓動聴く(未生翼) 枕に耳を押し付けるようにして横たわると、心臓の鼓動が伝わってきます。1、2、3、4……、それは恰も時を刻む秒針の音に似て正確に。 静かに目を閉じ、日々、健康で過ごせる至福感に浸りながら、作者は眠りに就くのでしょう。 翻って、期外収縮に悩まされる私の心音はといえば、正に乱れ打ちで、生きていることの証しというより、死に向かってヨタヨタと歩む、おぼつかない足音に聞こえて恐怖を覚えます。他にも心にかかる作品はありましたが、この一首に身体がビクッと反応してしまいました。(元競馬キンキ編集長)
井 上  芳 枝
わがクラスみんな違ってみんないい明るく笑い励まし合おう(未生翼) 金子みすゞの「鈴と、小鳥と、それから私」 に続く「みんなちがって、みんないい」の詩を想起しました。 今、教育の現場では、いじめや不登校などの問題を多くかかえています。が、作者のクラスでは明るい笑いで、満ち満ちている感じです。 お互い励まし合って、やさしい心を育ててほしいと願っています。結句「励まし合おう」に、作者の生徒たちへのぬくもりを感じ、 ほのぼのとした気分になります。 (北九州大蔵中学時代恩師)
山 内 洋 志
どのように生き肉片にされたのか牛に今さら人騒ぎいる(卵黄海)人間も肉骨粉になればいい墓も儀式も夕映えてゆく 私はBSE国内第一号が出た町に住んでいる。昨年来、あまりのショックに小さな町がいちだんと静まりかえっている。私のような消費者は、しばらく我慢すれば済むことだけど、生産者にとっては死活問題。飼育している牛が感染してしているかどうか生前にはわからない。肉として出荷するために脳の組織検査等を受けるのだが、 検査の結果一頭でも陽性となれば、 その酪農家の牛は売り物にならなくなる。 一酪農家も地域全体地域全体としても感染牛を出してはいけないのだ。だから、商品価値のないかもしれない牛に餌だけ与え続ける。生産者の負担は大きい。第四の感染牛に関係のあった女性獣医師が自ら命を断ったと報道された。牛も人間も苦しく哀しい。どこに責任があるのか、国もはっきりと言わない。批評の自由は尊重するが、 被害者のような顔をしてテレビに写る人たちやメディアの関係者がもう一つの加害者になりかねない。 とても他人事とは思えない。これが現場に近い人間の感想である。(佐呂間中学校長)
井 上  冨 美 子
すさまじき女の争いしておりし妻と娘が寄り添いて寝る(未生翼) おやおや、お母様と女の争い……お子さまのご成長の速さにびっくりすると同時に、現代の子育ての難しさに思いやりました。でも、いろいろあってもやはり「妻と娘が寄り添いて寝る」と歌われていましたので、こちらの気持ちも爽やかでいられます。年ごとに母親というより同性の先輩として母親を見るようになってくることでしょうね。ライバル意識も次第に芽生えて、何かと反発することもあるかもしれませんが、 寧ろそういうことがあった方が安心というもの。 これからも色々な意味で良き関係を育んでいってくださいね。 妻・娘・僕の奇妙な関係もやや和らぎて食卓囲むユーモラスな中にもちょっぴり緊張感のある家族としての人間模様が実に適確に表現されていて好感を持ちました。 (網走二中元教諭)
山 川  順 子
高槻に居て網走に眠りいる常流氷を見渡しながら(未生翼) 一日の終わり疲れていても、 嫌な事があっても網走の流氷を思えば安らかな眠りが、夢には現れてくれたら最高の時が持てるのでは。それはとても幸せなこと、うらやましく思います。超多忙な川添先生、一生懸命に生きているから、生きている者しか与えられない、そんな気がします。 (『私の流氷』同人。札幌在。)
小 野  雅 子
人間を全肯定か全否定してマスコミが闊歩してゆく(未生翼)
国会でメディア規制二法案が成立したら国民の表現の自由が奪われる。 それはその通りで大変なことになるとは思うけれど、この歌のようなマスコミの現状もまた事実で、成立と否成立のどちらが良いのかと考えさせる原因はマスコミにある。きのうまですべての点を誉め上げていた人に何かの事が発覚したとたん、その人の全人格を否定する画面、紙面に一変する。そして自分にはなんの責任もなく自分だけが正しいという顔をする。こうしたマスコミへの批判が、よけいなことを言わないでうたわれた共感をよぶ一首と思う。 (『地中海』同人)
長 岡  千 尋
椰子の実は流氷となり転がりて渚に我としばらくをいる(未生翼) かそかなる幻想――。 椰子の実がメタモルフォーズして流氷となって転つてゐるといふのだ。 椰子は、藤村の世界の椰子、つまり柳田国男の椰子でもあつた。 南洋から海上の道を来た、常世(とこよ)の木の実である。日本の神は時を定めて常世から訪づれ、人々を祝福して帰つてゆく。折口信夫はこれを「まれびと」といつた。――この南のあたたかい幸福の実が、一変して流氷塊と化す。流氷は暗く寒い黄泉の国から来たのであろうか。作者のまぼろし、そして死といふ重い文学のテーマが、 この対極のイロニーにあらはれてゐよう。 (『日本歌人』同人。『かむとき』編集。談山神社神主。)
川 田  一 路
飛ぶことも出来るのに蝿そこに居るただそれだけで殺してしまいぬ(未生翼)何も害を与えていないのに、目の前の目障りな奴は抹殺しないと気がすまない。しかも必ず自ら正当な理由をつけて――抹殺される方にだって感情があり事情もあるに違いない。この蝿だって然り。飛べるのに飛び立たないのには何らかの感情があったのであろう。もしかして人間に友情を求めていたのかもしれない。それでも相手の都合などおかまいなしに抹殺してしまう。この身勝手さは現代の文明という幻想に基づき構築されている全ての社会に共通している感覚でもある。(『山繭』同人)
里 見  純 世
都合よく我の名前も入れられて妻と娘の争い激し(未生翼)
すさまじき女の争いしておりし妻と娘が寄り添いて寝る
口出しをすればこちらが責められる夕方妻と娘が対かう
妻・娘・僕の奇妙な関係もやや和らぎて食卓囲む
呆気なき祖父の死娘父我の死を思うらし首強く抱く
二三日離れて妻の良いところのみが湧きくる不思議なれども

先生の歌の率直さ、構えたところがなく、一番言いたいことが詠われていて、感心させられます。(『新墾』『潮音』同人。網走歌人会元会長。)
松 田  義 久
我が足を離れて二つ靴下の不思議なオブジェ飽かず見ている(未生翼) 意志を持たない靴下に焦点を合わせて、 客観的にその事物を見ている処にこの作品の素晴らしさがあろうかと思われ、 一心に引きつけられていった。 作品の前段において作者自身が勤務先から疲労気味に帰宅して、いつものとおり、先ず靴下を部屋の隅にでも脱ぎ捨てたのであろうと創造が充分に働く。後段では、いつもなら気の付かない、物言わぬ、脱ぎ捨てられている不思議と奇妙な形を保っている物体に何気なく目が注がれたことであろうと思われ、注意力が働いたのだと考えられる。 こういう作品が良いように思われます。 (『北方歌人』同人。網走歌人会会長。「わずかずつ夜明けの時刻早くなり流氷の白くきやかに浮く」NHK歌壇)
葛 西   操
都合よく我の名前も入れられて妻と娘の争い激し(未生翼) このお歌を拝見致し本当に御円満なご家庭と拝察しました。 永い人生色々と意見の相違などで口論する事があります。 何も関係のない先生も傍らにいて、とばっちりを受けたことと思います。何だか微笑ましい光景にも思いました。 私も娘ばかりですのでよく色々なことで亡き夫も側杖をくったものです。 天国で笑って見てることでしょう。これからも色々のことがあると思いますが、先生も喜んで側杖を大いに食って仲良くお過ごし下さいませ。 (『原始林』同人。網走歌人会同人。)
南 部  千 代
無意識の中を探れば泳ぎ飛ぶ人の未生の分身が見ゆ(未生翼)   川添さんのうたには独自の思索分野があるように思われます。 世の中を正面から、斜めから、時には内面を深く掘り下げて。 未生の分身に翼があれば…。短詩型文学の中の短歌と詩の間に壁は無いと思います。流氷記が詩誌として掲載されていることを嬉しいと結ぶ姿勢にお人柄が拝見されます。川添さんにしか描けない世界を私も見たいといつも思っています。北摂の山並みの水無月はどうですか。網走は渇いた五月から雨の水無月の朝を迎えました。鈴蘭が揺れ桐の花咲くいい季節です。どうぞお体に気をつけて御健詠の程を。かしこ。 (網走歌人会)
田 中    栄
すさまじき女の争いしておりし妻と娘が寄り添いて寝る(未生翼) 家庭内の一齣を美事に切り取っている。 男性と女性では自ずから性格や生き方に違ったものがある。 作者は夫として妻や娘の争いを割合覚めた眼で見ているのであろう。 すさまじき争いをしていても母子は母子、仲良く寄り添って寝る。人間の根源的なところを捉えていて感銘がある。然し写生的な見方からすると「すさまじき女の争い」が、少し観念的という評もあるだろうが、 私は作者の発見として認めたい。 (『塔』編集委員、元選者)
前 田  道 夫
高く咲き散る一瞬のために生く桜は花の翼を広げ(未生翼) 韻律がよく、胸にすっと沁み込んでくる作品である。 「散る一瞬のために生く」とは、人の生きざまにも通じるものがあるが、 明らさまに言っていないのがいい。 「花の翼を広げ」の喩的表現も一首を非凡なものにしていると思う。 (『塔』同人。)
榎 本  久 一
二三日離れて妻の良いところのみが湧きくる不思議なれども(未生翼)
始めは「ごちそうさま」と言って読み過ごそうとしたが、 なかなか味わいのある歌と思った。 作者の甘えん坊を露呈させた容ちになっているが夫婦の心の機微がうまく捉えられていると思う。「湧きくる」との表現もこれで決まっているうえ、「不思議なれども」なども「癪だけれども」としたら格が落ちてしまう。 少し脱帽している姿勢が良いと思った。 (『塔』同人。)
鬼 頭  昭 二
我が足を離れて二つ靴下の不思議なオブジェ飽かず見ている(未生翼) 今まで身につけていたときは肉体に形状を従属ざせられていたものが、脱ぎすてられたとき、そのもの独自の形状に移る。 そしてそれを見続けている自分というものもおかしい。 靴下は抽象的なものを意味しているとも言えるが、即物的、感覚的な歌として受けとめたい。「不思議な」は他の表現に置き換えたい。(『五〇番地』)
唐 木  花 江
高く咲き散る一瞬のために生く桜は花の翼を広げ(未生翼) 散る桜の美や悲を《花の翼》によって詩的に集約されている《生く》との表現は適当かどうか。 観念的な押しつけをややに感じる点が惜しまれるが全体としては美しい。 《未生翼》という三三号のタイトルも素敵である。 しかしである。若き日の作者の長い髪の女の首がとんでゆくはやいはやい流れ星だよ(夭折)この一首の瑞々しい詩的感性には及ばないだろう。 (『リトム』同人。)
甲 田  一 彦
病院が終の棲家の日本の今いまいましく思うことあり(未生翼)
『高齢化社会に突入し、介護保険制度が法制化され、老人福祉の充実強化が一段と進み、高齢者の幸福が守られている』これが平成十四年頃のニュースの一コマであった。「ホンマカイナ…」 私の父も数年前、妻子孫會孫まで住む家を出され、 入院二カ月目の病院で九十四歳の生涯を閉じた。 枕頭で最後を看取った肉親は誰もいなかった。ご近所の様子もみんな同じで、自分の家の畳の上で死にたいという老人の希望は、今のところ実現困難であるらしい。作者は限りある命愛しみ目を閉じていつまで続く我が鼓動聴くと詠んでいる。私も自分の鼓動を静かに聴くことにしたい。(塔同人北摂短歌会長)
塩 谷 い さ む
堂々とヘルメットせずに仕事する新聞配達バイク見ている(未生翼)
今回は佳い歌が多かったと思う。 一首ではなく十首位欲しかった。朝早く新聞を配る人は大変だと思うが、本人の安全のためにも交通法規は守って貰いたいものである。 中には堂々と一方通行を遂行して来る勇者もいる。(字余りでも配達のを入れたい)二三日離れて妻の良いところのみが湧きくる不思議なれども(納得している)死ぬために生きるみたいと娘言いまた子の無邪気な世界に遊ぶその昔、死ぬ為に生かされていた時代があった。いや、死の中に生きつづけていたというような戦野の明け暮れが去来する。塔』
遠 藤 正 雄
飛ぶことが出来るのに蝿そこに居るただそれだけで殺してしまいぬ(未生翼)ああ、これが人間の正体だと思った。 動物愛護を唱えながら、一方で殺生を繰り返している。 我が家より、良い暮らしをしている動物もあれば、 「そこに居るただそれだけで」殺されてしまう蝿も居る。昔、農家には耕作用の牛が家の中に飼われていた。その当時の蝿の数はとても叩き殺してしまえない夥しいものだった。一つの棟の下に牛とともに暮らし、蝿とともに生活していたのだ。時が移り、人間の知恵が働き、今日に至ったのだが、紛れもなく美醜の差別、利害の差別で、我々は動物の一生を思いのままにしているのだ。 (『原型』同人。)
山 本   勉
押し寿司の人のかたまり並走の電車に詰まり顔あまた見ゆ(未生翼)
私も永年、 押し寿司状態で通勤した経験がありこの一首を興味深く読んだ。同じ条件の電車に乗り、たまたま並走している向こう側の電車の様子をとらえたところが面白い。 彼らは押し寿司にされながら、それぞれの生活の顔を並走車に向けている。そんな中に作者と同じ思いでこっち側を眺めているとしたら、川添さんも「顔をもった」押し寿司の一粒を見られているのかも知れない。さりげなく詠まれた一首だが (『北摂短歌会』)
大 橋   国 子
藤村の椰子の実一つさまざまに生徒の心の孤独を灯す(未生翼)
『椰子の実』の歌、好きで今でも唱います。 波にたゆとう実、それでもいつの日か故郷に帰りたいと歌われる美しいメロディーはいつも私の心を優しくややうら悲しくさせます。現代の子達にも、現代だからこそ、 みんなそこはかとない孤独な魂を持っていて藤村の感情が理解出来るのですね。美しい表現、心を揺さぶる言葉はいつも変わらない美しい日本語として多感な年代の心に灯を点すのかもしれません。 そのお仕事をしておられる川添先生に生徒の心の奥にあるものを引き出してほしいと思います。(『北摂短歌会』)
山 路  義 雄
卒業式遺影が一ついつまでもVサインしてかなしみを呼ぶ(未生翼)
卒業の記念アルバムに既に遺影として載せられたクラスメイトがいる。彼は明るい性格の上お茶目でみんなの人気者であった。アルバムの写真を見ると得意のVサインを誇らしげに示している。そのゼスチャーは動かずいつまでも続けているので、 見る者の悲しみを誘う。この一首作者が中学校の教師であることを思うと、教え子に対する温かい愛情が表れていて感銘も一入である。(北摂短歌会)学校が完全週休二日制になって元々部活などで土日のなかった僕にとっては余計に負担が増えただけのこととなり流氷記もなかなか時間が取れぬまま新たな戦いが始まったような気がするのみ。

川添英一さんの流氷記を読んで
里 見 純 正

丁度今、 川添英一さんの「流氷記」三十三号を読み終わったところである此の「流氷記」は川添さんの個人歌集である。然し、普通の個人歌集ではなくて、 読者による私の選んだ一首(流氷記、流氷記抄)にウエイトを置いた異色歌集である手のひらに包まれる程のミニ歌集だが、内容は充実している。寄稿者の中には藤本義一さんとか、三浦光世さん(三浦綾子女史の御主人)や加藤多一さん(オホーツク文学館長) 其の他恩師といわれる奈良教育大学名誉教授の方達や知識人、先輩、同僚、教え子等多士済々である。自分も頼まれて一首評を載せて貰っている。 お忙しい中を毎月欠かさず送って下さるその熱意には頭が下がる思いである。 中学校の教師を務めるかたわら、たとえミニ歌集とはいえ、毎号八十頁に及ぶ編集印刷製本など、並大抵でない苦労で、とても常人の及ぶところではない。よくも続けてやられるものと只々驚嘆するのみである。さて一首評についてだが、その人その人によって見方、感じ方があるので参考になる点が多い。中学生でも、結構読んでみて内容の深い短評で書いている。次に、川添さんの短歌について自分の率直な感想を述べてみることにする兎に角、流氷に関する歌が多い。 これだけ流氷の歌を詠むと中にはマンネリ化する歌があっても当然である。流氷に寄せる熱意が強過ぎるために、 遂々多弁になってしまうのも止むを得ないであろう。 それにしても網走を遠く離れていて不断に流氷を眺めるチャンスに恵まれないにも拘わらず想像力をふくらませて、よくもまあ詠むものと圧倒されてしまう。地元に住んでいる人達にとっては、見馴れてしまって遂々感動が薄らいで、詠んでみてもそれ程感心しない歌になり勝ちだが、 川添さんの歌の中には時々キラリと光った秀作が発見されて刺戟になる。 川添さんの歌は具体的でわかり易い。その上感覚のひらめきが随所にあって、成る程と共感させられる。日常生活の中から問題提起になる発想など多くあり、参考になる歌が多くある。中には此のような表現でない方がよいのではないかと思う歌も混じることがあるが、 毎回自分などついて行けない程多作されているので、 こういう傾向も当然あることだろう。川添さんの歌の中で、自分の一番共感せずにはおられない歌は、奥さんや娘さんを詠んだ歌である。何といっても本音がよく現れていて惹き付けられずにいられない。 自分など、ともすれば、どうしてもよそ行きの人の目を気にするところから、此のように手放しに詠むことができないのだ。 恐らく、此のような気持ちは、誰しも持っているであろうから、共感を得るに違いない。これからもこういう歌を一杯詠んでほしい。川添さんの歌のこれこそが他に見られない持ち味であり、 長所だと認めずにいられない。今後、どのように流氷の歌の世界を展開して見せて下さるか、注目すると共に、日常生活の中からもさりげなく飾らない表現でキラリと光った発想の歌を詠んでいただきたいと期待してやまない者の一人である。 (『潮音』『開墾』同人。網走歌人会元会長)

相馬御風の門下でもある里見先生より頂いた便箋にはびっしりと流氷記のことが書かれていた。 そのまま僕の胸に納めておくだけでは勿体なくてここに掲載させていただいた。有り難い。

リカルド・オサム・ウエキ
金木犀枝を払わぬ理由にて昨年(こぞ)より止まる空蝉があり(銀杏葉)
自然をそのままを詠まれたものでしょうが、 生きとし生けるものだけではなく、既に死んでしまっているものまで慈しみ、愛しようとする人間味が溢れるばかりに感じられる良いお歌だと読ませていただきました。地上に這い出てからの短い命を、命の限り歌い上げたあとの空虚さは、まさに人間の生きざまに似て、身につまされるものが在るのではないでしょうか。空蝉の連想から、昔リオ州の果樹園に住んでいた頃、ともに棲息していたカスカベルや、カスカベルよりももっと猛毒を持っているスルククーという毒蛇が衣替えしたあとの抜け殻が、 風にからから鳴るのをおぞましく聴いたことがありました。 まるで臆病者の己を嗤われているような気がしながら…。 (作 家。『白い炎』。ブラジル在住。)
上 山 好 庸
美しく堅き舗道にしめやかに土にもなれぬ桜葉が落つ(銀杏葉)
桜葉の紅葉はどれひとつ同じものはなく、 一枚の葉の中でも微妙なグラデーションで色の変化を見せてくれます。毎秋、スタジオ近くの公園で、 しゃがみ込んでは一枚一枚と拾い集め部屋に持ち込みます。棚の上には前の年の色褪せた葉が数枚残っていて、入れ替えをするのです。生きていくということは、こういう確認作業の繰り返しなのかもしれないと思います。 《土にもなれぬ》悲しさがあります。 (写真家。上山好庸写真集『万葉明日香路』)
柴 橋 菜 摘
何処より来て何処へと消えてゆく我がつかの間の形ある身は(卵黄海) 現世の頼りなきこの身、漠とした不安を衝かれ共感する。大自然を前にすると、その想いは強く沸々とわき上がるのだろう。私は流氷をまだこの眼で見たことがない。 さまざまな流氷の姿を川添さんの歌で味わいながら、想い描いている。 そして、卵黄海という表現に感動。各界の方々、西陵中の生徒さんの一首評に感じ入りながら、じっくり、深く流氷記に浸らせて戴いた。 (大和高田市在)

小 西 玲 子
辛い過去の日々こそ宝ゆっくりと海を濡らして日が沈みゆく(未生翼) 辛い時、苦しかった時たくさん涙を流した日。その時の私は、きっと何も見えなかったと思う。 だけどその後に見えてきたものはその悲しみを通過しなければ分からなかった大切なことばかりでした。近くにいて支えてくれている人、頑張って乗り越えている私自身。その時私はきっと前よりももっと優しく強くなった気がした。その日々は私の宝物です。いつも日は沈んで、日は昇りいつだって明日は、私を待ってくれています。私を迎えに来てくれます。 明るい日は私自身で作ろう。 (西陵中卒業生)
高 田 暢 子
卒業式遺影が一ついつまでもVサインしてかなしみを呼ぶ(未生翼)
私が中二の時、突然学校だよりで彼の死を知った。一つ下の学年で顔もほとんど見たことのない子だった。 けれどなぜかとても近しい人が亡くなった気がした。 私の中ではまだ死んでいくのは大人であって子供は死なないみたいな考えがあって…今まで友達が亡くなったこともあったけど、なぜか受け入れられない、死んでいない気になってしまう。 仲が良かった友達じゃないからかもしれないけど、認めることができない。自分の中に身近に死を感じたくないっという感情がある気がする。 これから生きていくと大切な人の死を経験しなければいけない時が来ると思う。 その時に逃げないでちゃんと受け入れて、 その人と過ごした時間を忘れてしまわないような人間に成長していきたいと思う。(西陵中卒業生)
藤 川   彩
今まさに離れんとする滴くあり命の重きかなしみが見ゆ(凍雲号) この瞬間を私も目にしたことがある。 葉の先から「今まさに」離れようとしている水滴。 離れてしまえば地面に落ちて形を失ってしまう。 枝垂れた葉が表している滴の重みは命の重さをも表現していると作者は考えたのではないだろうか。命が離れて落ち、形をなくす…つまり死。 「重きかなしみが見ゆ」とあるのはこのためであろう。滴と命を重ねて見ているこの一首にとてもひかれた。(卒業生)
金 指 な つ み
不登校常なる生徒の空席のかなし授業の間にま目が行く(未生翼) 以前こういう思いをしたことがあります。 全員揃わない日が毎日続くとほんとに悲しくなるんですよねぇ…。 おまけにその人が近くの席だったりすると余計に。 「 全員揃う日は来るのだろうか…。」とついついその席を見てしまったりして。 でももっと悲しいのはその人がいないのに慣れてしまって 「あの人はいなくて当たり前」って思ってしまうんですよね。本当はその人もクラスメートなんだけどいつの間にかその人がいないのに「全員来てる」って思い込んじゃったり。 今思うとそれが一番悲しいことなのに…。 深々と考えさせられたうたです。 (西陵中三年生)
白 田 理 人
トータルで人生なんて分からない寄り道ばかりしてきたけれど
炊飯の音が拍手に聞こえくる今日もドラマの始まらんとす(未生翼)

前者が過去を全般的に見つめた歌とするなら、 後者は未来を見据えた一瞬を描写した歌と言えるのではないでしょうか。 前者では特に、「トータルで」という言葉が活かされていると思い、選びました。ただ単に「人生なんて分からない」では、映画の常套句のような気がしないでもありませんが、「人生」という重いテーマを「トータル」という一語に集約することで、「人生なんて分からない」という言葉が、浮つくことなく自然に入ってくる感じがしました。そして、後者の一首。勢いがあり、朝の爽快な気分が伝わってきました。流氷記の中では、 今までにも人生をドラマにたとえた歌が何首かあったと思いますが、これは格別のような気がします。この二首は先生の人生観が実感を伴って表現されていて、とても面白いと思いました。 (西陵中三年生)
蓮 本 彩 香
生きている間にせめて魂の触れ合う対話をしようじゃないか(未生翼)
言葉は本当に不正確なものです。自分の気持ちは、自分にしか分からないのだから、嘘をつくことだって簡単にできます。 しかし、自分が相手を信じなければ相手も自分を心から信用してくれることがないように、自分が嘘やお世辞ばかり言っていると、誰ともうわべだけの会話しか出来なくなってしまうのではないかと思う。
清 水  由 香
心して食べよ命を継ぎながら内蔵に棲む虫もうごめく(ぬば玉)
この歌を読んで、 私たちはたくさんの動物たちを犠牲にして生きているんだって、改めて思いました。犠牲になってしまった動物たちのためにも、 私たちは好き嫌いや、食べ残しては、いけないと思いました。 今はまだ、苦手な食べ物はいっぱいあるけれど、少しずつでもいいから、苦手な食べ物を好きな食べ物にしたいです。
渡 辺  あ ず 咲
炊飯の音が拍手に聞こえくる今日もドラマの始まらんとす(未生翼)
朝、思いまぶたを持ち上げて起きると、炊飯器からおいしそうな御飯のにおいと共に、音が勢いよく吹き出しています。まるで今から始まる、 笑ったり怒ったりする私の一日を一生懸命応援してくれているみたいです。 私はこの一首を読んで、 日常の出来事も奥が深いなぁと思いました。 (西陵中三年生)
中  恵 理 香
歩むたび次々桜開きゆく空の青さも輝きを増す(新緑号) 幼稚園、小学校、中学校と歩むたび桜がそこにはあるように思う。 私は今まで色々な期待と不安を胸に抱きながら歩んできた、 そして上を見上げると青く輝く空がある。 そんな桜と空を見ると不安が期待に変わり期待はもっと膨れ上がるだろう。 こうやってみんな大人になっていくんだろうなと思った。 (西陵中三年生)
宮 崎  有 希
故郷の岸を離れて波の音する満天の星を見ている(未生翼)この詩を見たとき星という一文字に目が止まりました。 去年、 家族でキャンプに行った時、 夜に空を見ていたら、星が満天に、ピカピカと輝いていました。その星を見て、すごくきれいだなって思いました。茨木ではあんまり星を見たことがなかったので、満天の星に心ひかれました。 星を見ていると、黄色に光っているのが不思議で、それも、星を見て星座も分かるなんて、とたまに不思議に思います。夜に、もしも、星がなかったらやはり暗いだろう。 星があるからこそ、小さな光がとても役立っているのだろう。星は世の中に大切なものなんだと私はすごく考えさせられました。これからもいろんな星を見ていきたいと思います。 (西陵中三年生)
隅 田  未 緒
二年生三年生となる不思議自ずとどこか違う気がする(未生翼)
中学に入った時、まず先輩との違いに驚いた。先輩は何をしてもかっこよく、本当にあこがれだった。でも私達が二年になっても先輩のようにかっこいい先輩にはなれていない気がした。 三年生になっても同じで、一、二年生に私達はどう思われているんだろうかと思う。でも少しずつ大人になれているとも思う。やっぱり二年生の時よりもどこかが違う。 成長出来ているのかなと思うと不思議な気持ちだけど嬉しい気持ちもある。少しずつ前へ進み、ゆっくり成長していけたらいいなと思った。 (西陵中三年生)
乗 岡  悠 香
去年とまた同じ処にナズナ咲きしゃがんで我も日を浴びている(未生翼)ナズナって素敵な花だと思う。 だって十年前には好奇心旺盛な私のために『ペンペン』いって遊んでくれたし…。 五年前にはニワトリ小屋に行くのが好きだった私のために、 ニワトリさんの餌になってくれた。 今は勉強、勉強ばっかりで夢見るヒマもない私にちょっとしたことの大切さ、幸せさを教えてくれる。とっても素敵な花だと思う。今日もお天道さまの光を浴びながら、いろんな人に幸せを教えているのかな。私も今度はどんな幸せを貰おうかな。
衛 藤 麻 里 子
生徒の目徐々にほどけて手を挙げて答える授業たけなわとなる(未生翼)昨年の四月、川添先生の授業は慣れないものだった。他の先生達は出席番号か席の順に当てていた。しかし、川添先生の授業は自分の手を挙げて答える。小学生の頃あたり前だったことが、中学校に入って一年間過ごした間に当たり前ではなくなっていた。 まだ慣れないクラスメイトの中では少し発言しにくかった。ところが、一、二週間経つと何とも思わなくなった。みんな我先にと手を挙げている。私も必死になって質問によく出るものを覚えた。あの時はクラスのみんな同じ気持ちを持っていたのだろう。(西陵三年生)
小 樋 山 雅 子
飛ぶことも出来るのに蝿そこに居るただそれだけで殺してしまいぬ(未生翼)お風呂場の濡れた壁に張り付いて死んでいる小さな虫。電灯の周りをうようよ飛んでいて窓を開けると入って来るんです。何で?死んじゃうよ?とか思うのですが入って来ちゃうんですね。他の道はなかったのかとその死体を見て思います。 その虫達は自分で決めて自分から入って来たんだよなぁ。 人生ってそういうものですよね。自分で決めて切り拓いていくしかないんだよね。でもそれが人生の命の重みの価値じゃないっすか?(西陵中三年生)
田 坂   心
人の死を聞けど体調悪き日は己が命にこだわりて過ぐ(明日香)
急に人の死のことを聞いてもその日の自分の体調が悪ければ自分の命の方が大事だとこだわっているうちに時が過ぎてゆく…こういうことは人間の自己中心的な考えや欲望だけを満足させるそんな感情の一部なのだろうか。 (西陵中三年生)
匂 坂   一 葉
人はなぜ花を刈るのか菊の花何待ちて並ぶ整然として(銀杏葉)
花は確かにきれいだと思います。見ているだけで心が安らぐし、落ち着きます。でも、それを人間の勝手で切ったりしていいのでしょうか。花がしゃべらないからといって、生きていないわけではないし、なおさらその花の気持ちを考えて、その思いを尊重していくべきです。「大切にしてくれるなら切ってもいい」などというのは、人間が自分にいいように考えただけで、 花はそう思っていないと思います。それに、切ってしまった花より、今生きている花の方がいきいきと美しくあると思います。 (西陵中三年生)
中 川 あ い み
二三日離れて妻の良いところのみが湧きくる不思議なれども(未生翼) 私もお母さんが一度入院したことがあって、 そんな思いをしたのでこれを選びました。いつも「勉強しなさい!勉強しなさい!」ってうるさいけど、 お母さんがいなくなった時、 学校に遅れそうになったりして一日の生活パターンが狂ったりしました。私も、やっぱりお母さんがいた方が助かるなぁ、と思いました。(西陵中二年生)
宮 本   亜 美
坂上る剛きライトに揺れる森 立ったままでも死はおとずれる(夭折) これを読んだ時、 「立ったままでも死はおとずれる」という所がすごく頭に残って…。何もしなくても、そう、ただ、ただ立っているだけでも突然死は来るのだろうなと思いました。 いくら小さな子供でも死というのはおとずれるものなのです。人間だけでなく、生き物はみな、そうなのかもしれません。 (西陵中二年生)
木 佐 木 映 里
静かなる海を聞くためはるかはるか双眼鏡を持ち海へ行く(夭折)
私は最初、この詩を読んだ時、「あー、静かな海に双眼鏡を持って行くのはいいなぁー」って思いました。 なぜかというと、私は一度も静かな海に行ったことがなくて、 そういう静かな海はいいなぁーと思ったからです。 (西陵中二年生)
今 井   桜
死ぬために生きるみたいと娘言いまた子の無邪気な世界に遊ぶ(未生翼)私達は日々生きることに疑問を感じながら生きています。 そんな中で小さな女の子が、 ただただ生きていても最後には皆命を終えるからか、 死ぬために世界の生きているもの達はその時を歩んでいくみたいだと言っている。子供なのに、又は子供だからそのようなことを言うのかと思うと不思議さが増してくる。 意味の深い言葉を発した後に楽しそうに遊んでいるかと思うと、 この世の生物達は本当に何のために生きているのかと、深く考えてしまう。
畠 山 梨 沙
二年生三年生となる不思議自ずとどこか違う気がする(未生翼)
私はこれを読んだ時「そういえばそうかな」と思いました。 春休みと新学期の間は、ほんの二週間くらいしかないけれど、その短い間で私も私の周りの人も、いつもよりずいぶん違って見えます。新学期の学年が変わった時って、 気持ちが新たになったりするからかな? 私も私の周りの人達もいつもよりどこか違う気がするな、人って本当に不思議だな、そう思いました。 (西陵中二年生)
水 口 智 香 子
人生をやり直したい若くなれ幼くなれと我が翼あり(未生翼) すごく共感しました。 私はよく、あの時に戻ったら…と思います。しかし、これを読んで、後悔するだけではなく失敗をもうしないように気をつけることが大事なのではないかと考えさせられました。
人間は完璧でないし、心があるから失敗することは当たり前です。失敗をたくさんしながら成長していくんじゃないでしょうか。最後の「我が翼あり」の部分はそのことを意味しています。 これから失敗をたくさんすると思うけど、 自分の力で解決していきたいです。 (西陵中二年生)
斉 藤 実 希 子
障害児などと世間の作りいる言葉と心憎みゆくべし(未生翼) 私たち五体満足な人の何人かはおそらく障害を持って生まれた人々のことを憐れむと思います。 でも心の中では知らず知らずのうちにその人たちのことを意識しているのかもしれません。「かわいそう」という言葉で同情したとしても結局、自分たちと差別していることに変わりはないのです。 私は周りの人とあまり変わらない生活をしていますが、 もし今障害児などと言われる人であったとしたら差別される苦しみを感じるかもしれません。この世界を生きている一人一人が支え合って生きていける、そんなふうになれるのは一人一人の努力次第だと痛感させられる歌でした。(二年生)
森   晶 子
それぞれの終着駅にて降りてゆく人乗せて電車未来へ走る(未生翼)
過去から未来へと走る長い長い電車。 駅ごとに私の周りの人々が静かにドアをくぐり出て行く。何とも言えないさみしさを感じました。でもこの歌には温かい命の喜びも感じられました。広い世界という電車の中で、様々な事を経験して生きる私たち。車両が違っても少し手を伸ばせばすぐそこに、素敵な人がいる。未来へ向かって走る温かい地球が目に浮かんできました。 (西陵中二年生)
坂 井 彩 美
高く咲き散る一瞬のために生く桜は花の翼を広げ(未生翼) これを読んだ時、とても切なくなりました。 桜の花はきれいだけど、咲いた次の日には花びらがはらりと…。美しいものなんだけど美しいのはほんの一瞬で、花吹雪だって地面に着くまでの数秒がきれいなんです。でもこの一瞬が大事なんですよね。その一瞬のために頑張ってる花たちはとてもすばらしく感じます。(西陵中二年生)
西 尾 美 暢
不自由な体の詩人日木流奈と同じ根っこのわが歌がある(未生翼) 最初、根っこって何だろう?と思いました。でもきっと初めの一歩、出発点は一緒ってことだろうなぁと思いました。流奈君は何もかも素直に受け入れて詩の言葉もとても素直です。 昨日の自分よりも今日の自分がよければいいという考えです。 人と比べる必要なんて本当にないのだと改めて思いました。詩というものは、とても純粋なものだと思いました。 その時の気持ちによって出来るものが違うのでしょうね。 流氷記に載っている先生の短歌もそのときによって違うものができるような気がします。(西陵中二年生)
堀   真 理
雪原に直ぐ立つ一樹くっきりと影あり白き日に向かいつつ(未生翼)
広い雪原に立つ一本の樹。その樹は日に向かって、白い雪の上に影をくっきりと映し出している。日と影は全く反対のもの。日と影、白と黒の世界。その日と影のコントラストの世界に、作者は見入ってしまったのかもしれない。作者が見た景色は、一つの絶景だったのかもしれない。私はまだ、そんな景色を見たことがない。 だからこそ見てみたいと思う一つの景色。 (西陵中二年生)
奥 田 治 美
外の影映りし障子映さなくなりて明るく朝が来ている(未生翼)
すごく深い感じのする歌だと、初めて見たとき思いました。外の影とは、人の闇の部分、心の影のことで、それを障子、これは自分の目、心が影を映さなくなったとき、明るくなる。つまり、光が見え、夜のような暗闇が終わるということかな、と私は勝手に思ってしまいました。 (西陵中二年生)
木 村 円 香
弱い者あればとことん叩きゆく人食卓にテレビ見ている(未生翼)
この歌を見た時、本当にそうだなぁと思いました。人間は自分より強い者にはへこへこと頭を下げるけど、 自分より弱い者に対してはいばったり意味もなく馬鹿にしたり悪口を言います。それは、テレビのワイドショーなどにもいえる事だと思います。殺人などで大切な家族や友人を失い、立ち上がれないくらい悲しんでいる被害者の関係者を悪く言ったり、被害者にも原因があったんじゃないかと真実ではないことを報じたり……。そんなふうに、人が弱っているのを良いことに好き放題に言いまくり、自分よりも強い立場の人の前に置かれると突然下手に出てへつらうずるい人間が一番弱い人間だと思います。たけど、ワイドショーのように弱い立場に置かれた人が好き放題に叩かれているのを見て面白がっているのは、私たち人間なんだということを忘れないようにしたいです。 (西陵中二年生)
大 津 明 日 菜
人も花も地球も不思議一瞬といえども愛によりて生くべし(馬の骨)
この一首はとてもきれいでなぜか落ちつかされるような気がした。地球は愛のかたまりのような気がする。その地球の愛を分けて花などがあるのかなぁと思った。そこに人が住んでいるということは、人は愛に頼って、愛の上で生きてるんだ。それは本当にすごいなぁと思った。だからこれからも地球を大切にしていきたい。
古 藤 静 香
飛ぶことも出来るのに蝿そこに居るただそれだけで殺してしまいぬ(未生翼)手を擦り、足擦り…まるで拝むようにして、食べ物を食べる蝿。一茶が見た蝿はこんなにもかわいかったんです。 でも、今の時代に蝿をかわいいと思える人はいるでしょうか。殺す前にどんなものか、嫌う前に何なのか、理解しようとしてるでしょうか。相手のことを充分に理解しないまま、その存在だけを嫌うのはいけないと思います。どうしても苦手ならば、そっと外へ逃がしてやれば、小さな命を失わず、奪わず、蝿も人も共に生きていけると思います。 (西陵中二年生)
  小 門 奈 津 美
人のため食べられるため生きている動植物は何思うことなく(ぬば玉) この歌を読んだ時、はっ!と思い出したことがありました。それは、私がよく残す「食物」です。「おなかがいっぱいだから」「これはキライだから」と当たり前のように残していたこと。だけど、この歌を読んで、動植物は「人のために生きているのだろうか? 「食べ物にされて食べられ食べられなかったものはゴミにされ」 私自身を入れた人間は、こんなひどいことをやってきたのかと思いました。だけど、悲しいことに人間は動植物を食べる。でもそれは、生きていくためにどうしようもないこと。 だから私たちは、 血となり肉となって食べられてくれたものに感謝しないといけない。私たちも何か返していかないといけない。「いただきます」こんな大切な言葉だったんだと改めて思いました。 (西陵中二年生)
玉 井 佑
神のパソコンを覗けばぴっしりと近日死亡予定者が見ゆ(馬の骨) 「パソコン」それは今世界中の人間が使っている。 とても便利だからだろう。それを神も使っている。しかも死亡者の管理という使い方でだ。神は死を与える存在なのだろうか。神は死の逆に生を与える。 生の中には幸と不幸があり全て神が決めるものではないと思う。人生は人それぞれ自分で決めるものだと思う。神でなく自分で決めたい。幸せな人生になるように。 (西陵中二年生)
森 田 小 百 合
気がつけば岐羅比良坂を上りいる我の姿とすれ違い行く(未生翼) この歌に出てきている岐羅比良坂は私から見ると「人生の坂」に感じます。その坂で二人の自分の姿を見つけた時に、もう一人の自分が自分を横切って行ってしまったのなら、 今自分は何かにとらわれて立ち止まっているのではないでしょうか。そしてもし、もう一人の自分が坂を上へ上へと上っていくのならば、 これから乗り越えていける証しなのではないでしょうか? (西陵中二年生)
吉 田  駿
蚊が飛べばパチンと叩く手のひらに細かき造りの美が鮮らけし(未生翼)ぼくも、この歌と同じ事を思ったことが何度もある。理科の時間、顕微鏡で、たった一滴の水を見ただけでも、 何千という生物が棲んでいる。 そんな小さい生物でも、よく見ると、とっても精密な造りでできている。 こんな、目で見えないような生物も、ちゃんと生きているんだなと思う。ぼくは、そんな生物や植物、自然が、偶然出来たとは思えない。もはや、偶然で突然出来るようなものではないからだ。ぼくは、何かとてつもなく大きな力に生かされているんじゃないかと思う。 (西陵中一年生)
大 橋 愛 裕 美
人も花も地球も不思議一瞬といえども愛によりて生くべし(馬の骨)
人は、生まれた時から、親に愛情を注がれて育てられる。 花もまた「きれいに咲いてね」と、愛情を注がれて育てられる。そして地球もたくさんの人々の『愛』を乗せて回っている。 私はこの歌を読んだ時そんなことを考えました。人間は、人に愛されたり、逆に、人や人や植物、動物、そして時には、地球を愛しながら生きていく…。この歌はそんなことを感じさせる歌だと思いました。 これからの世界も、さまざまな物達を、愛して生きていけるような世界であってほしい。そして私もさまざまな物達を愛しながら生きていきたい。そう思いました。 (西陵中一年生)
森   瑞 穂
素晴らしい歌を夢にて作りしがどこに忘れて終日が過ぐ(馬の骨) この一首が、 何処か私に共通している気がして印象に残りました。夢の中で何か良い事を思いついた時に限って、目が覚めれば全て内容を忘れてしまったり…。 何故かどうでもよいことは記憶に残っていたりするんですよね。思い出したくても、なかなか出てこない、 そういう面で「終日が過ぐ」という表現が似合っていると思います。やっぱりそんなに都合の良いことはないか、と悲しい現実と鉢合わせして、でも割り切れず、結局は思い出せずじまい…。すっきりしない気持ちで一日を過ごす、という印象を受けました。(一年)
石 川 香 織
いっぱいに川を覆いて花いかだ夜は満天の星となりゆく(未生翼) 大自然の中に流れる不思議な人間知では造ることのできない偉大な世界を連想した。 川はキラキラして澄み切った透明な流れとともに、何の花だろうか、くるくる回りながら流れてゆく風景とともに、 晴れた夜空の満天の星が光輝くガラス玉を散りばめてゆく神秘さ。 自然の不思議さを優しく表現している歌でほのぼのと安らぎと幸せを連想させてくれる。 (西陵中一年生)
北 口 絵 里 菜
わがクラスみんな違ってみんないい明るく笑い励まし合おう(未生翼) まさにその通り!と思った。 特に私のクラスはこの歌の通りだと思う。個性的で明るい人が多いから。だからみんないい。 こんな素敵な仲間とずっと笑い励まし合っていきたい。(西陵中一年生)
岸 本 愉 香
気が付けば今年も梅の花開く立ち止まることなく時は過ぐ(卵黄海)
中学になって忙しく精一杯の毎日。 気が付けば時間ばかり経っているという感じです。 時は本当に急ぎ足で過ぎていってしまいます。そして私自身の心も急いでしまって…それが何か寂しいような空しいような…。一日、一日と過ぎていく時。砂時計のようにさらさらと手の中を擦り抜けていき、ふと気づくともう何年も経っている。時の流れに何か不思議なものを感じてしまいました。(一年)
松 山 晴 香
飛ぶことも出来るのに蝿そこに居るただそれだけで殺してしまいぬ(未生翼
)蝿とか虫は大嫌いな筈なのに、この歌には心を引き付けられてしまいました。蝿は嫌われ者で、そこに居るというだけで悪者にされる。 蝿も飛んでいけばいいのにじっとしていて逃げない。それで殺されてしまう。 そこにいるというだけで、理由もなく避けたい人がいます。 殺しはしないけど無視したくなることがあります。蝿の歌なのに、なぜか人間の世界のことのように思えました。 (西陵中一年生)
中 曽 絵 理
今日もまた地雷踏みつつ人あらん一足歩む時の狭間に(馬の骨)
地雷は、どこにあるか分からない。だからとても恐しい武器です。今も地雷がどこかにあると思うと、鳥肌が立ちます。今も地雷が埋まっている国の人々は毎日、怖い思いをしています。日本で今地雷を見つけられる物を作り、地雷を取り除いています。そして武器がこの地球からなくなる日が早く訪れてほしいと思います。(一年生)

教育実習を終えて 越 智 小 百 合
「変な教師に当たってごめんね」と川添先生に言われて、先生の授業を拝見すると、私が今までに見た授業とは違って、先生が生徒の一人一人の顔を見、心をみながら、その場で組み立てて行くというすばらしいものだった。 先生はテレビで見た桂米朝の落語やその中で枕から本題へ入っていく心の動きなど熱心に話されたりして、教師は指導案通りに授業するものとばかり思っていた私を驚かせた。 先生の頭の中から次々に言葉が繰り出されて、 教材の短編の解釈やその世界を具体的に思い描けるような形で提示してくれる。私は実習生として精一杯型通りの授業をさせてもらったが、 始めは生徒がなかなか従いて来てくれず、生徒を思うゆとりさえなかった。でも生徒と親しくなり心を通わせてくると、自分が教えるというのではなく、教材と少しでも関わりのある出来事や思いを、無理をせずに自分の言葉で語っていく。 教材について生徒と一緒に考えていく、 そんな授業を心掛けて行くと少しずつ生徒が心を開いていってくれたような気がする。 あっと言う間に実習期間の二週間が過ぎてしまったが、 先生の授業と目を輝かしてそれを聞き発言する生徒の顔が鮮やかに残って、「絶対に教師になってやる!」 今そんなやる気に満ちてきている。先生に『流氷記』を頂いて、その世界の広さ深さと、生徒との心の繋がりの深さに改めて納得した。この二週間びっくりすることばかりでしたが、 教師になっても忘れることの出来ない思い出になると思います。 川添先生有り難うございました。 (西陵中学校教育実習生)

雑記 ◆号と号の間の期間も短くその世界をどうしても授業の中で語ってしまい、 また授業から作品の素材が引き出されることも多い。生徒も一二年が一気に増えて悲鳴を上げる程になった。