藤 本 義 一
鬼気迫る田宮二郎の晩年の白き巨塔の断片残る 川 添 英 一 (流氷記34号『蛍』)
実は柴田吾郎君、つまり田宮二郎とは約十年のシナリオ上の付き合いでした。犬シリーズ十三作と悪名シリーズ二作の合計十五本を彼に捧げました。お互いに三十歳前後で、人生論を語り合いながら深夜に酒を飲みました。 常々《邪鬼》を払おうと《無邪気(鬼)》を装っている彼は時に激しい憤りと悲しさを見せたものです。静かな中に、たしかに鬼気の本質を宿していたものです。わが人生で《鬼気》と《孤独》を見せてくれた唯一人でした。年末に猟銃で自らの生命を断ったのを知った時、彼の演技の本質を知ったものです。 (作 家)
清 水 房 雄
鬼気迫る田宮二郎の晩年の白き巨塔の断片残る(蛍) 田宮二郎は私も好きな良い俳優だったが、その最期は無残だったらしい。この上句はその事が背後にあっての発想と思う。 ただこの一首、「白き巨塔」 「断片」のみでは一般読者の共感を得るには言葉が不足していよう。
つまりこの歌は何首かから成る連作たるべき内容を一首に詰めすぎたとも言えよう。それが惜しい。再構成しての連作を読みたいものである。 (読売歌壇選者。『青南』)
佐 藤 通 雅
湧き出でてくる形象の一つにて少女の背中ゆうぐれてゆく(蛍)
歌をずーっとよんでいるうちに、 この一首が異彩を放って目にとびこんできた。 これはいったいなんだ、どういう情景だと、くり返しくり返しよみこむが、よくわからない。 けど、ひきつけてやまない。作者の視点は明らかに少女の背のみえる位置にある。つまり少女をうしろからみている。その背がゆうぐれていくというのは、一日のおわり、あるいは少女時代のおわりであり、生のおわりの方向をさしている。ローマンをにおわせているようで、実はまったくその逆だろう。底深い引力を秘めた歌だと思う。 (『路上』主宰)
島 田 陽 子
先人のトーテムポールは長き舌空の真青に見せつつ笑う(蛍)
舌の第一首「すんなりと言葉が出ない舌の先絡まりながら口腔めぐる」を実感と共にすんなりと拝読。ところが「深夜歯と歯茎の間くねくねと動いてやまぬ我が舌がある」以下は、いわば「舌の発見」であり、「口の中ウミウシふわりふうわりと舌泳がせて我が眠りあり」など、作品としては面白いけれど、いささか神経過敏ぎみでは?とも思いました。読みながら味覚、咀嚼、嚥下、発音以外忘れていた舌を動かしたりしました。「孤泳舌」と名づけようとされたこだわりわかりますが、それだけに挙げた一首の豪快さが気持ちよく。 (詩人。『島田陽子詩集』)
畑 中 圭 一
口の中ウミウシふわりふうわりと舌泳がせて我が眠りあり(蛍)
不条理な夢の世界をそのままに描き出したような作品を書いたG.ネルヴァルに一時夢中になったことがある。 それ以来、夢を描いた詩や物語に心惹かれてきたが、
川添さんが書く夢の歌も不気味な深層をのぞかせるなど奥深いものがあって魅力的である。 特に「蛍」の号では夢を歌ったものと「舌」を歌ったものが交錯して、とてもユニークな世界が創造されている。
舌はからだの一部でありながら、気ままに動きまわったり、動かなくなったり、 自分でコントロールできない時がある。 言語表現に深く関わる舌が時に不条理に動きまわるというのがとてもおもしろい。ところで、私にとって夢は決して楽しく、明るい世界ではない。むしろ現実をネガティヴに映し出す、とてもいやらしい、そして怖い世界である。川添さんの描く夢の歌、例えば「棺箱に入りゴウゴウと焼かれいる夢より覚めて今日始まりぬ」のような歌に妙に共感してしまうのは、そのためである。 (詩人。児童文学評論家)
野 村 一 秋
トータルで人生なんて分からない寄り道ばかりして来たけれど(未生翼)大学へ入る前に一年寄り道をした。大学ではマスコミ学を専攻していたのに、四年になってから、小学校の先生になろうと思いたった。運よく教員資格認定試験に受かり、教員免許は取れたものの、小学校教諭になれたのは卒業して二年後。その教諭も十九年で辞めた。もう一年勤めれば退職金がぐんと増えるのを知っていながら。ひょっとしたら、今も寄り道をしているのかもしれない。
(児童文学者。『天小森教授、初恋ひきうけます』)
も り ・ け ん
今われが生きているこの幸せに勝るものなし過去も未来も(蛍)
この一首を選んだ事をじっくり考えてみる。五一歳の私、四三歳で出版社を辞めてモンゴルの草原に立つ。 遊牧民のゲルは川より離れているのを見て川側にゲルを建てたら便利といい放つ。 遊牧の民は 「この川はとびやたか、虫たち、ねずみなど生きもの全ての命の水。 生きものの中で一番強い人間が側にでんと居座ったら弱きものは来れまい。だから離れてゲルを建てる」という。 中年にして、 教育出版編集者だった私は自分の事しか考えぬ身を恥じモンゴルにのめり込んだ。 この一首の心を実感しながら遊牧の民と触れ合う日々。 (詩人、ミュージカル作家、作詞家、ハーモニカ奏者『ありがとう草原の人たち』『モンゴロイドの源流をたずねて−もり・けん&岩井ゆき子ライブ』『春夏秋冬−ハーモニカCD』など)
三 浦 光 世
つまらない人にこだわるつまらない自分を見ている自分がありぬ(蛍)人生への深い洞察にもとずく作品の多いことにおどろく。一見観念的な語句がつらなっているようで、 ここまで深く詠い上げることは容易ではない。この追求、実に粘り強い。
棺箱に入りゴウゴウと焼かれいる夢より覚めて今日始まりぬ
何のことかと見て、夢と気づくのだが、結句が何とも巧みである。いや、巧みというのは当たらない。 やはり、深いというべきであろう。単に珍しい夢を見たことだけに終らせないところに、私は感動した。 (『三浦綾子作品撰集』)
加 藤 多 一
口の中ウミウシふわりふうわりと舌泳がせて我が眠りあり(蛍)実作者でない私が短歌を読む「喜び」のひとつは、 固くなっていじけている自分の感覚や認識の型が「解放」された――と感じることです。ウミウシを口の中で泳がせている、もちろん時折はウミウシになるのだ。 いいなあ。 眠りと眠りの間の、瞬間の、名付けようもない溶暗の中にいるワ・タ・シ。「深層心理」か。いやいや、こういう四文字熟語で分類し、 当てはめて安心しようとする精神そのものが「固定化」している証拠だ。ほらほら、危い、危い、すぐに固まりたがる私の精神―― (児童文学者。オホーツク文学館長)
近 藤 英 男
時にわが舌自身になり泳ぎいる深海ゆらり寝返りながら(蛍)今我が生きているこの幸せに勝るものなし過去も未来も 《流氷記》と名付けられている通り、川添さんの《原風景》は、北海道網走での教師体験。 私は六十七年前北朝鮮の平壌の高等普通学校(中学)での大同江でのスケート実習。
百五十糎も凍る日本では体験不可能な植民地教育に心魂傾けたこと。 二十三年前、偶然韓国に逃れ、毎年同門会出席。首相三人も輩出した秀才ぞろい、今年はサッカーW杯開催で五月教え子の医師二人も一緒で板門店にも参りました。
二人とも八十五歳。七百頁を越す同門誌《大同江》、同門会は私の生き甲斐の原点であり、 誇りであり、希望、幸福の源泉です。 (詩人。体育学者。奈良教育大学名誉教授)
林 禧 男
人の世は入れ替わりつつタチアオイ祇園鉾あり昔も今も(蛍) 京の祇園會は貞観十一年(八六九)、 疫病退散を祈念してはじまつたと言ふ。何度か中断はあつたものの、千百年以上も人々は天にさまざまな願ひを託してきた。 この歌は、人の営みのはかなさ、寂しさを感じさせて絶妙。 盲目の俳人・村上鬼城の詠んだ「生きかはり死にかはりして打つ田かな」といふ句を連想した。 (放送作家)
林 哲 夫
先人のトーテムポールは長き舌空の真青に見せつつ笑う(蛍)
墓標としてのトーテムポールには遺灰を収納する穴がある。インドネシアのトラジャでは歯の生える前に死んだ子供は樹木の幹に穴をうがって埋葬する。「南柯太守伝」の淳干焚?は槐のうろで一生を夢に見、「呂氏春秋」の伊尹は桑の木に変身した女(ダフネのように)から生まれた。かぐや姫は竹の節の中から出現するが、割竹形木棺との連関を考えても良いだろう。要するに先祖(死者)を象るトーテムポールは卒塔婆なのである。長き舌を出して彼らは何を笑うのか。 (画家。文筆家。『喫茶店の時代』)
宍 戸 恭 一
大人には疲れて生徒にほっとする我の教師の型定まりぬ(蛍)不登校生徒来ているそれだけでクラスに温かい血が通う 行きつけのコーヒー店で出会った小学校先生と意気投合し、先号の「魂の対話」を話したところ、大変な共鳴を受けた。彼もそれがもとで教委から睨まれ、勤務先を転々としたが、担任の子供や父兄の多くには好感をもって迎えられている。
「教師よりも先ず人間になれ」という川添型の先生が、少しずつ増えていることを知り、嬉しいことだ。 不登校の原因には、 非人間的な学校教育を嫌うことが大きな要因になっている。無理矢理、住基ネット化を強行する非人間的な国家に対しては、私も不登校生になりたいものだ。
(三好十郎研究者。三月書房店主)
リカルド・オサム・ウエキ
暗闇のわが目に映る煌々と蛍は幼き頃と変わらず(蛍)この夏、この歌に詠まれた感動を、私も味わいました。暑い夏の正月祝いを義弟の所でして、夜遅く帰宅したとき、 家の小さな前庭で、鋭く光ったものがあり、
一瞬の思いつきで、グァラナ・ジュースの壜の欠片が街頭の光で反射したのかと思ったのは、 それが鮮やかに鋭い緑色の光だったからです。「煌々」という表現が、ちょっと強すぎるのではないだろうか、と読んだときには思ったのですが、あの夜に受けた刺激の勁さを思い出して、納得しました。光ったものを確認するために、植え込みの下に首を突っ込むと、
後ろにいた義母が、蛍でしょ、と言ったので、あっ、そうだったのかと、その正体を肯定するとともに、鮮鋭な緑色の透明感に魅せられてしまいました。日本で子供の時に見た蛍は、尻を光らせていましたが、ブラジルで見た蛍は、頭を光らせています。
地球という物体の表面に、日本とブラジルでは逆さまに立っているのだから、 蛍が放つ光も逆さまなのだろう、などと考えもなく思ったのですが、洗面器に溜めた水も日本とブラジルでは逆旋回で流れ落ちてゆきますし、
ブラジル人と日本人では、ものの考え方も、逆の場合が多いようですから、 立っている頭の方向が、常に逆方向なのだから、それでいいのではなかろうか、と変な納得の仕方をしています。(作家。『アマゾン挽歌』。ブラジル在住。)
上 山 好 庸
美しく堅き舗道にしめやかに土にもなれぬ桜葉が落つ(銀杏葉)
桜葉の紅葉はどれひとつ同じものはなく、 一枚の葉の中でも微妙なグラデーションで色の変化を見せてくれます。毎秋、スタジオ近くの公園で、 しゃがみ込んでは一枚一枚と拾い集め部屋に持ち込みます。棚の上には前の年の色褪せた葉が数枚残っていて、入れ替えをするのです。生きていくということは、こういう確認作業の繰り返しなのかもしれないと思います。 《土にもなれぬ》悲しさがあります。 (写真家。上山好庸写真集『万葉明日香路』)
佐 藤 昌 明
今われが生きているこの幸せに勝るものなし過去も未来も(蛍)
八十首もの歌をたちどころに詠み切る川添さんの鋭敏な感覚をもった脳の構造を、可能なものなら『CT電子顕微鏡』(そんなものないか?)で是非見たいものだと思うのだが…。 そんな中で、高所から見下ろしてわりとアッケラカンと「こりゃバッチリ!」と素人の私にも大きく膝を叩かせる歌が何首か交じっているのがまた嬉しい。 退職するまでもつのかな…と心配していた体調も年を経るほど回復し、 爾来八年好きなことを好きなように夢中でやらせてもらっている私は、今正しくこの歌の心境。多忙な教職と併せてこれだけの仕事をしている川添さんの場合、 私のような低次元の満足感ではないことは分かっているが『書くこと大好き人間』というのは、 同じような感覚の部分をもっているものだな…と安心させられたことがまた、とても嬉しい。(作家。『北に生きて』。網走在)
釜 田 勝
多数決だから従う納得を決してしている訳ではないぞ(蛍) 思わずウン、ウン、その通りと唸ってしまいました。 数の力で以て真実や正義が脇に押しやられ、 屈曲した方向へ物事が進められてしまう、ああ、恐ろしやこの世は。
私なんぞは文句言いの固まりみたいな人間ですから、 昨今の報道を見るにつけ、つい「多数決」を「法律や行政」に置き換えて読みたくもなります。 漱石や芭蕉の享年過ぎて生くのろまでひねくれ者しょうがない
も我がことの如しで共感。 口語自由律短歌というか、散文、現代詩的な感じもしますが、とっつきやすく且つ尖鋭で、 常識とか既成概念を取り払って紡ぎ出された歌に新鮮さを覚えます。表現方法、韻律の善し悪しも選歌の上で重要でしょうけど、今回は作品の意味内容、作者の感性を感じ取れる歌を選びました。
(『競馬キンキ』元編集長)
川 口 玄
卯の花が広場の真中に咲いていて人の行き来も彩りを添ゆ(蛍)
初夏のある時季、 人々の服装も一変したようにふと気づいて何だか楽しい(?)ような、 心が弾むように感ずることが毎年あります。 「人の行き来も彩りを添ゆ」とはそういう情況を詠っておられるのではないか、と勝手に考えています。ところで、毎号、楽しく読ませていただいておりますが、何といっても、中学生の皆さんの感想文のすばらしさ、楽しさには心うたれます。もちろんその前に川添先生のたゆまぬ作歌があってのことですが。(『大阪春秋』編集長)
井 上 芳 枝
ふわりふわ無数の蛍明滅し小さな闇の川照らしゆく(蛍) 弟夫婦と眺めた河内(八幡東区河内貯水池奥)のホタルを思い出します。川岸を飛び交うホタルの舞い。何と幽玄な光でしょう。若いころ夫の里で眺めて以来です。夜の闇に光るホタルの群れに、ふと亡き母が訪れてきたようで、しばし神秘の世界に浸りました。「火垂る」からきた名のホタル。
これからも数多くのホタルの舞踏会が見られるように、 一人ひとりが環境保護に協力してゆくよう願っています。(北九州市立大蔵中学校時代恩師)
神 野 茂 樹
死ぬために生きるみたいと娘言いまた子の無邪気な世界に遊ぶ(未生翼)漱石と芭蕉の享年過ぎて生くのろまでひねくれ者しょうがない(蛍)いやはや《熱》いですね。 正直申しますと、なかなかエンジンがかからなくて瞠目の一首もなし(失礼)で、日ばかりが経ち、34号も開封もせず数日を経、今ようやくペンを執った次第です。成長期・思春期にある生徒らの感性が、衰えゆく(失礼)頭脳に刺激を与える環境が、きっと川添さんの創作の源になっていると思います。瞠目の研究や作品は、大方若い時代でなくては生まれない。にもかかわらず、瞠目に近い歌が詠めるのはその環境にあるのだろうと、繰り返しそう思います。
(『大阪春秋』編集委員)
小 川 輝 道
踏切を過ぎる電車の一瞬を目で追えば目を合わす客あり(蛍) 川添さんには、動と静の対比や、 一瞬の変化、時間の経過を把えて鮮やかに表現している作品がある。 これにも踏切を過ぎる電車を見送る作者と目を合わせた客を乗せた電車が一瞬のうちに遠ざかった状況を美事に把えている。「目で追えば目を合わす客」のように、場に立ちあっている作者が的確に表すことが出来るのは、
川添さんが、表現を探究する日々の修練と、場に臨む時の緊張感をもった姿勢の生み出すものと感じた。 訪れた静寂のなかで余情があって実にいい。 (網走二中元教諭。北見在)
井 上 冨 美 子
わが布団四角いシャーレーもぞもぞと一晩動いて成長もせず(蛍) 布団を四角いシャーレーとは発想がユニークですね。 全世界の人々が、この四角いシャーレーの中で培養されたとしたら、どんな状態になってしまうのかなど、
とんでもないことを考えてしました。 常に添い続けて別の人格が歌作りおり我が眠る間も作曲家の方が「作曲しようとあえて思わなくても、音符が自然に私の頭上に降りてくるのです。」とお話しをされていることを耳にします。川添先生もこのような状況なのでしょうか。
三十一文字の言の葉が、流水無間断のごとく天から舞い降りてきているようですね。今われが生きているこの幸せに勝るものなし過去も未来も 日々是好日の心境に通じるようで、
そのような心持ちで日々を過ごせたら素晴らしいことでしょうね。 (網走二中元教諭。網走在)
千 葉 朋 代
卒業式ビデオカメラの群れ見えて人の残せしもののいつまで(未生翼) 我が子の成長を随分とビデオカメラに収めてきましたが、この頃、この時しかない我が子の姿をファインダーを通して見るのはもったいないと思い始めました。肉の眼で見て、肉の心に刻み込みたいと瞬きもせず我が子を追う。便利な物を手に入れたおかげで、また一つ素晴らしい時間を手放してしまった気がします。しかし、その場に来られず、ビデオを楽しみにしている人がいるのも事実。機械音痴を装い、夫にビデオを任せている私です。(札幌在)
山 川 順 子
地に墜ちて飛べぬ蛍が最期の灯ともしつつわが在り処を示す(蛍) 私は蛍をテレビ等でしか見たことがない。 暗闇の中で光る姿は美しいが悲しみを誘う。 小さな体で全力で生きて輝き寿命を全うするからか。 蛍がはかないイメージで愛されるのに蝿はなぜに害虫なのか。蝿や蚊を殺すことのみ考える人は己れを滅ぼしながら決めたのは人間、不衛生だから?生まれながらに害虫とされる存在の意味は何だろう。
虫ごときにつまらないこと言うなと思う人間も、すでに選別されているのだ。 (『私の流氷』同人。札幌在)
柴 橋 菜 摘
何処より来て何処へと消えてゆく我がつかの間の形ある身は(卵黄海) 現世の頼りなきこの身、漠とした不安を衝かれ共感する。大自然を前にすると、その想いは強く沸々とわき上がるのだろう。私は流氷をまだこの眼で見たことがない。
さまざまな流氷の姿を川添さんの歌で味わいながら、想い描いている。 そして、卵黄海という表現に感動。各界の方々、西陵中の生徒さんの一首評に感じ入りながら、じっくり、深く流氷記に浸らせて戴いた。
(大和高田市在)
西 勝 洋 一
大人には疲れて生徒にほっとする我の教師の型定まりぬ(蛍) 三月に退職しました。 今、教師の歌集を集めていて、教師の教育現場がどう歌われたかを改めて見てみたいと考えています。 この一首も、あるべき教師像としてどう歌われたかを改めて見てみたいと考えています。この一首も、あるべき教師像として自分自身を肯定している作品なのでしょう。
「大人には疲れて」という像をどう評価するか、です。 本当は「大人にも疲れない」のが大人であり、現実を変えていく力にもなるのです。 生徒だけ相手にしていても現実は変わりにくいと思います。
ともかく、変な大人、変な教師がますます増えている姿を川添さんなら歌い続けてくれると期待しています。ご健闘下さい。 (『短歌人』『かぎろひ』同人)
利 井 聡 子
いざなわれ導かれゆく暗闇に匂いつつ蛍群れて灯りぬ(蛍)「ほたる」と聞いただけで何と幻想的な響きをもった言葉だろうと思う。短い命もさる事ながら、 それが闇の中で光を放つ事でしかその存在を明らかに出来ないはかなさ故であろうか。ずっと昔、幼い私は母と筑後川の暗闇へ急いでいた。
視界がひらけ細竹の繁る土手の上に無数の蛍が飛んでいた。その時、ふとこのまま母と死ぬのかなという思いが心をよぎった。記憶はそれで途切れている。作者の感じる蛍の匂いはどんなものであろうか。私にとっては、指を針で刺して浸み出る血の匂いのような――
(『飛聲』同人)
川 田 一 路
湧き出でてくる形象の一つにて少女の背中ゆうぐれてゆく(蛍)
他人の短歌を鑑賞する場合、 自分の気持ちに引き入れ拡大解釈するのは勿論のこと誤解して読み何かを誘発されるのも楽しく許されることだと思う。さてこの作品、形象とあるからには形ある少女が出てきて周囲がゆうぐれていくのであろうが、 もうひとつの解釈として、 過去我々男性が抱いていた少女のイメージが現代という世相の中であたかも黄昏のように溶けて消えてゆく哀感を詠ったとも取れなくもない。作者の意図したものは何か、勿論そのどちらもかもしれない。しかし、いろいろと鑑賞出来るのも短歌の魅力であり、だからこそ自分も詠ってみたくなるのだ。(『山繭』同人)
竹 田 京 子
長いのか短いのか一日が過ぐかけがえもなく生きて地球に(馬の骨) 「柿の木坂は駅まで三里思い出すなァ…」青木洸一の歌った『柿の木坂の家』の一節ですが、この一首今回は流行歌の詞の世界から把えてみました。この一節、曲の聞かせどころでもあり、下句「かけがえもなく生きて地球に」そのままの表現だと思います。この一節がなければ何気なく見逃してしまう一首かもしれません。 それぐらい人ひとりが心から聞き惚れる一節だと思うのです。又「一日が過ぐ」の表現、「長いのか短いのか」の真意を含んだ表現で適切だと思います。 (『天』短歌会主宰)
里 見 純 世
蓮の葉のひしめき流氷群に似て朝の池畔に動けなくなる(蛍) 前号に小生の感想文を前文掲載していただき恐縮しております。 ありがとうございました。今号を拝読した中から、冒頭の一首に深く注目しております。 蓮の葉の群れを見て、流氷に思いを馳せ、しばし朝の池畔にたたずんでいる先生の姿が想像され、 心が動かされてしまいました。先生ならではの歌ですね。此の外にはお義父さんや、奥さん、娘さんを詠まれた歌は、真情がこもっており、適確な表現によって、生き生きと迫るものを覚えました。益々の御健詠を期待して止みません。 (『潮音』『新墾』同人。網走短歌会元会長)
葛 西 操
目をつぶり自由な世界楽しめば夢といえども美しき日々(蛍) 人生も夢のような日々であれば本当に楽しいですね。 思うように行かぬが人生それぞれ私のような古い人間いろんな悲しみ苦しみを乗り越えて生きて来ました。
これも人生お蔭様で九十二歳平穏に過ごしております。 余命いくばくもなき人生なれど夢を抱いて生きて行きます。話の間聞いて授業に生かすべく米朝語るテレビ見ている
人生の貧富の差などおもしろおかしく表現の仕方で人を笑わせ、また泣かせてくれる落語。若い頃よく聞きに行ったものです。今は亡き志ん生さんという方はとてもお上手でした。今の若い方もお上手ですが、今一つ表現の工夫がほしいと思います。
(『原始林』同人。網走歌人会)
南 部 千 代
地に墜ちて飛べぬ蛍が最期の灯ともしつつわが在り処を示す(蛍)夏はよる。月の頃はさらなり、やみもなほ、ほたるの多く飛びちがひたる。 また、ただひとつふたつなど、ほのかにうちひかりて行くもをかし。雨など降るもをかし。 枕草子の夏の一節を思い出して読みました。煌々と闇に光る蛍もあれば、弱まって地に低くよれよれの光を灯す蛍もあり、更にそんな灯に浮かぶ仄かな自分もいる。儚さ、切なさの限りだけど、 自分の魂と亡き人の魂とも重ねて、生きている現実を幸せとも思っている。 思えば私の見た蛍は終戦の夏、秋田で…。闇の中の飛跡が目に残っています。 (網走歌人会)
田 中 栄
野ざらしを心に川瀬沿いて行く我に蛍の光は揺れる(蛍)「野ざらしを心に」は芭蕉の「野ざらしを心に風の沁む身かな」の本歌取り。芭蕉の場合は長途の旅に出ようとして、 旅路の果に行き倒れ白骨となる自分を思い描いている。
作者は今教師だが末はそうなるだろうか、という思念だろうか。 その心情に対して蛍は、自然のなかに生れ、自然の中に死んでゆく命の灯を点している。二物の照応はうまくいっているのだが、
山頭火でもない作者であれば従いてゆきにくい。うまい歌ではあるが、少し気になる。(『塔』編集。元選者)
前 田 道 夫
口の中ウミウシふわりふうわりと舌泳がせて我が眠りあり(蛍)
舌を詠まれた作品は、この他にも十一首あり、さまざまな角度から捉えられていて、どれも面白く読むことができた。身体の中で動くものとして手と足、目や口は普段意識しているが、舌については私の場合、あまり意識したことがなかった。言われてみれば確かに舌は四六時中、 一刻たりとも休むこともなく動き回っているようである。 喩としてのウミウシも舌のグロテスクな感じをよく表していると思われる。読後、舌の存在と動きについて改めて気にするようになった。 (『塔』同人)
榎 本 久 一
叱らねばならねど言葉無くなりし妻に替わりて娘と向かう(蛍)
「無くなりし」は「無くなれる」が良いのではないか。 過去形では臨場感が薄れる気がする。ともあれさまざまの事が思い起こされ、問題提起を促す作品だと思う。子育ての難しさがまず一つ。言葉を無くした母親の心情、代役をつとめようとする父親の思い、教師を職業としている作者の立場、子の表情など… 思い浮かべさせられる歌だ。父親の心のうちがどこまで純粋で盤石か、作者はどこかでたじろいでいるのだろうことが感じられる歌だ。 (『塔』同人)
東 口 誠
限りなき闇の奥へと点々と蛍灯れば導かれゆく(蛍) 蛍の棲む流れが各地に増えつつあるという。この夏、私の家の前の用水路にも数匹の蛍が飛んで幾年ぶりかで楽しい夜々を過ごした。が、これがなかなか歌にならない。茂吉の「蛍火を」「彼岸に」など蛍を詠った名歌が浮かんできて作歌の気力が萎えてしまうのである。掲出の歌は、一連の中で特色が見られ印象に残った。哲学的な思念の世界へ入ってゆくようだ。「奥へと点々と」のところ、「と」の繰り返しが気になるが、二句で間をおいて読めばいくらか具合がよくなるようだ。 (『塔』『新アララギ』同人)
鬼 頭 昭 二
さまざまな朝の音あり聴き分けてそこまで遊びに行く意識あり(蛍) 朝の床でぼんやりとした思いか。 音の実体もよくわからないが、いろいろの音をそれほど強い意識ではなく、 好ましいものを選り分けているような状態が想像される。
このような余裕のある一面をもっと見せてほしい。 (『五〇番地』同人)
遠 藤 正 雄
地に墜ちて飛べぬ蛍が最期の灯ともしつつわが在り処を示す(蛍) 蛍の一生は短い。「飛べぬ蛍が最期の灯」に哀感を覚える。一生の幸不幸は晩年で決まる。誰しも有終の美を飾りたい。歌手村田英雄は病に耐えて舞台に出た。かつての面影はなく、悲壮でもあった。彼は死ぬ日まで歌いたかったのだ。最期の灯をともしたかったのだ。人は老いるに従って存在感が薄れ、厄介払いされ勝ちである。高齢化社会の現実はきびしいが、老いてなお、蛍のように最期まで光り続けたいものだ。作者は蛍の最期の灯にやさしい眼差しを当てた。そこに、ほのぼのとした詩情をかもし出させている。
いつの間に我が家に帰る全自動装置に委ねられし一日(蛍) 暮らしのリズムは普通、一日二十四時間を三等分して、そのうちの八時間づつは睡眠と自由な?時間に当てられている。 「全自動装置」の比喩が面白い。ある時刻がくると家を出る。 夕刻になると、いつの間にか家に帰っている。そのような一日一日の繰り返しは、古来の習慣であり、神の意志によるものかもしれぬ。ともかく全自動にかけられた果ては、定年というブザーが容赦なく鳴る。お役御免となり人生の大半が終わる。掲出歌は我々が惰性で暮らしている人間の一面を、全自動装置に喩えて詠んでいる。 (『原型』同人)
塩 谷 い さ む
鬼気迫る田宮二郎の晩年の白き巨塔の断片残る(蛍) 確か白黒テレビの終わり頃かと思うが、 病院を舞台にした田宮二郎の堂々たる白衣姿が去来する。 そして最後は本当に北の海に身を投じての自死がドラマと現実をごっちゃにして再現される。 私の好きな俳優の一人であった。多数決だから従う納得を決してしている訳ではないぞ多数決とは過半数を云う。賛否を問う中の半分はどちらでもいい日和見が居る。 少数意見をもっと尊重して採決をしてもらいたい気持ちに賛成である、が難しいテーマでもある。 日本が勝つ時負ける国があり次々地球ゴールされゆく歌のように…
甲 田 一 彦
湧き出でてくる形象の一つにて少女の背中ゆうぐれてゆく(蛍)
夕暮れの校庭に三三五五かたまっている少女、 校門付近を夕日を浴びて帰っていく少女、 一日を終わってほっとする学校を思い浮かべてしまいました。 (教師をしていた凡人ですから) しかし、この作者の胸には幼い頃、 その古里で慣れ親しんだ「姉ちゃん」があるのだと思います。作者の深層心理は、理想の少女を育てて来たのですから、他人がとやかく言えないものですが、この蛍一巻には、作品の中にほのぼのと暖かい風が吹いているようで、こちらの心まで満たされる思いがしました。(『塔』同人。北摂短歌会長。 高槻十中勤務時の校長)
平 野 文 子
地に墜ちて飛べぬ蛍が最期の灯ともしつつわが在り処を示す(蛍)地上に墜ちてなお、最期の命の灯をともし続ける蛍がまことに哀れです。蛍狩りに於て、大凡の人は空を飛ぶ蛍を眺めその行方を追いますが、 地上の蛍にも眼を向ける行き届いた作者の観察眼を思いました。 私が蛍で思い出すのは、かつて近江石山に住んでいた頃、迷い込んで来た彼の地でも有名な源氏蛍を、 そっと蚊帳の内に放して楽しんだ夏の夜のことです。今は亡き夫も健在だった遠い日が、はかなく幻想的な蛍と共に、今も鮮明に私の心の裡に残されているのです。 (『かぐのみ』北摂短歌会)
大 橋 国 子
迷いつつ曲がりくねった山道の荒地野菊を忘れずにいる(蛍) 花も食物も外来のものに占領されてしまって、 町中で見れば野菊の美しさは霞んでしまいます。 でも迷い乍ら登った山道で会った荒地野菊は、作者を慰めたのですね。同じ花でも出会った場所でその感動は新鮮なものだったのだと思います。 人知れずひそかに人に見られようとすることなく咲いている野菊。 人にもそんな人がいるのでしょうが、 なかなか今それを見つけることは難しいでしょうね。そんな得難い人に会いたいと思います。 (北摂短歌会)
山 本 勉
手厳しいことを言われて妻はややひるみつつ出て娘を叱る(蛍)
「叱らねばならねど言葉無くなりし妻に替わりて娘と向かう」「抱きしめてやれば素直になる娘無駄な言葉は置き去りにして」すばらしい歌がぎっしりと詰まった一冊であった。わけても日常を歌った作品に強く心を惹かれる。学校での生徒たちとの様子や、家庭の様子など、読んでいて川添さんの魅力に引き込まれてしまう。右に挙げた三首は、私が何も言うことはない。家族三人が三つ巴になって幸せな争いをしているようで微笑ましい。 「人生の中の一分一秒を君たちといるそれだけでいい」は涙が出るほど感動した。ダイヤモンドのように光り輝く秀歌である。(北摂短歌会)
山 路 義 雄
そんなこと俺にもあった真剣な生徒の声に我が重なりぬ(蛍) 少年の日は将来の希望に胸を膨らませ何事にも真剣に取り組めた。特に日頃尊敬している先生に褒められると嬉しくて益々やる気が湧いてきたものだ。一方、教師の側から見れば打てば響くように応えてくれる教え子は可愛いものに違いない。
教師は少年の純真さと情熱を目の前にして曾ての己れの姿に重ね懐かしく回想したことであろう。 そんな教師生活の日常を何げなく詠まれた作者は教師としての優しさが滲み出ている。
(北摂短歌会)
工 藤 直 次 郎
ふわりふわ無数の蛍明滅し小さな闇の川照らしゆく(蛍) 流氷記三四号『蛍』の八十首を拝見しこの一首を選びました。 その理由は誰にでもよく解り、字余りもなく、歌の調べが優れていることです。 (北摂短歌会。高槻在)
(いろんな人達が色んな歌を採って下さり言葉を送ってくれる。
中には色んな注文を寄せて下さるも、 すぐには作品に反映出来ない事が多い。心の奥にじわじわと溜めて泉のようにいずれ必ず…と思いながら歌の整理はいつも最後に…やっとここまで…)
小 川 輝 道
わがクラスみんな違ってみんないい明るく笑い励まし合おう(未生翼) 「みんな違ってみんないい」金子みすずが世に残した心に沁みる詩作のなかでも、とりわけ心に響く表現として、この詩人の思想や真摯な姿勢に共感しながら、深い表現を求めることと、浮薄の時代との隔たりに考えこまされている。クラスの子らを同じような視点で捉え、希望を見出しているこの作品に、作者の表現者としての多様さと、教育実践者としての眼差しを感じ、その姿勢に共感しています。取り囲まれる不条理の中で、尚、希望を若い世代に託す営みは、歌人の日々の表現活動の大事な拠りどころにもなっていると思います。
(網走二中元教諭)
柴 橋 菜 摘
卒業式ビデオカメラの群れ見えて人の残せしもののいつまで(未生翼) 幸せの瞬間(とき)を凍結して置きたい心情は理解できる。しかし、悲しみの極みに遭遇した時、果たして過ぎし日の楽しいビデオを見る事が出来るだろうか?記録としての映像が、時に哀しく重いものになることを誰も露だに予想しない。Vサインの遺影にも辛いものがあるが、ビデオは動くが故に生々し過ぎる。幼い子供達の哀しい事件に思いが重なる。卒業式に我が子のビデオを撮っている人は幸せの時とともにいる。しかし明日の保障はない。その映像が残るという保障も…。胸の底にずしんと落ちた一首である。
リカルド・オサム・ウエキ
金木犀枝を払わぬ理由にて昨年(こぞ)より止まる空蝉があり(銀杏葉)
自然をそのままを詠まれたものでしょうが、 生きとし生けるものだけではなく、既に死んでしまっているものまで慈しみ、愛しようとする人間味が溢れるばかりに感じられる良いお歌だと読ませていただきました。地上に這い出てからの短い命を、命の限り歌い上げたあとの空虚さは、まさに人間の生きざまに似て、身につまされるものが在るのではないでしょうか。空蝉の連想から、昔リオ州の果樹園に住んでいた頃、ともに棲息していたカスカベルや、カスカベルよりももっと猛毒を持っているスルククーという毒蛇が衣替えしたあとの抜け殻が、 風にからから鳴るのをおぞましく聴いたことがありました。 まるで臆病者の己を嗤われているような気がしながら…。 (作 家。『白い炎』。ブラジル在住。)
平 野 文 子
人厭うたびに眺める北摂の山並み今朝は鮮しき雨後(未生翼) 様々な人々が多種多様に、それぞれに自分なりの思考で生きて行く一般社会、人生の波の中に、会って又別れてゆく人、人、人…数え切れない人たち…その中には自分の意に添わない、はっきり言って嫌いな人も沢山いるでしょう。作者は素直に偽らぬ心情を吐露して共感を誘う。人を嫌うということは、私の場合巡り巡って自己嫌悪にもつながるのです。気分転換に眺められた北摂の山々は作者の心を癒すかの如く、総てを洗い流した鮮明な雨後に輝いていたのです。山並みの送り仮名は不要です。(『かぐのみ』北摂短歌会)
小 西 玲 子
今われが生きているこの幸せに勝るものなし過去も未来も(蛍)
今こうやってここにいる今の私も、いつかは過去になります。そして次に待っているものは未来です。今という時間が主役です。今の私次第で過去も未来も変わるのだから。今、精一杯の私であれば過去はそのいつを振り返っても大切に思えます。今、夢一杯の私なら未来は明るくなる気がします。 そんなふうに過去と未来は一本の道だけど、 《今》という心から体中から一番実感できる時間を大切にしたいです。それが私のこれからも変わらない目標です。 無駄なもの何一つなき人生と空行く雲を見つつ思えり(馬の骨) 私の十六年の中に無駄なものはあっただろうか。私が今、幸せを感じているのはたくさんの過去があったからだと思います。 私はその中に無駄だと思うもの、時間はありません。その時は無駄かと悔やんでいたり悲しんでいたことも今の幸せを作っている一部だと思うのです。 だからふとした幸せを感じる瞬間に無駄なものなどなかったなぁと思い、くじけそうになった時は、こんなことも後で笑えるだろうとまた頑張る気持ちになります。 たまには空を見上げながら深呼吸でもして、 そんな前向きな自分の気持ちを大切にしたいです。 (西陵中卒業生)
高 田 暢 子
つまらない人にこだわるつまらない自分を見ている自分がありぬ(蛍) 最近友達の悪口を言ってしまうことが多くなっていて自分でもうんざりしている。 今までは見えていなかった嫌な部分が急に見え出すと、 もう嫌な部分しか見えなくなって良い部分は見えなくなってしまう。もうこうなってしまうと友達と呼べる関係じゃなくなっていく。
昔、小学校の頃は、無条件にみんなと仲良くできて、 嫌なところなんて見ようとも見つけようとも思わなかったのに、成長していくうちに誰とでも仲良くしようと自然にしなくなってしまった。
それは大人に成長する上で必要なことなのかもしれないけど、それで自分から人との出会いをなくして、人間関係を狭くすることだけはしたくないし、 これからもたくさんの人に出会いたいと思う。たとえ出会って嫌いになっても、出会いには一つ一つちゃんと意味があると思うから…。
(西陵中卒業生)
藤 川 彩
食べること拒みて抗議する娘関わりなき父をしきりに見ている(断片集)自分の不満を、食事をしないことによって抗議するなんて、結構凄いと思った。私はこんな抗議の仕方を思いつかないだろう。それはいいとして、 先生も気づいているなら何かフォローしてあげればいいのでは?子供はそれを待っているのに。まあこれは子供の観点からの見方だから先生にしたら困る話かもしれない。
確かに親にしたらとても迷惑だろうが、私は同じ子供として、先生の子供さんの味方をさせてもらうことにしよう。 (西陵中卒業生)
白 田 理 人
一夜にてジグゾーパズルほどけおり流氷去りて海覆う波(蛍)「スケールの大きな歌だ」というのが最初の印象でした。 やはり「ジグゾーパズル」の視点が面白いと思います。ピースを合わせていって大きな氷塊を造り出すのも、
それをほどくのも自然ということなのでしょう。大昔からそれが繰り返されてきたのです。僕は実際に流氷を見たことはありませんが、 先生の流氷に関する歌からいろいろと想像しています。この一首からは、流氷が予め決められていたかのように一斉に音を立てて割れていく光景が浮かびました。しかも、「ジグゾーパズル」という言葉から、本当に視点が変わって空から海を見下ろしているような気がしました。
瞬間を描写した歌は、写真のような感じがすると以前思ったことがありますが、これは航空写真のようで壮大です。 (西陵中三年生)
阿 加 井 桃 華
蚊が飛べばパチンと叩く手の平に細かき造りの美が鮮らけし(未生翼) 人から見れば蚊とは耳元でうるさく騒ぎ血まで吸ってくるしパチンはあたりまえ。 蚊にしてみれば人の周りをプーンと飛ぶのも、血を吸うことも生きるためのあたりまえ。
手の平の中でペチャンコになった蚊は、この小さな体で、よく頑張って飛んだ、 生きたんだ。小さな体には神様が与えた立派な手足に羽…。この歌を読んで生き物の美しさを改めて感じることができた。
(西陵中三年生)
清 水 由 香
高く咲き散る一瞬のために生く桜は花の翼を広げ(未生翼)花は、長く生きることができず、 きれいだなっと思う頃にはもう散ってしまう。散るのが早いのは悲しいけど、早いからこそ美しいのかもしれない。でもそれは、散ってしまうまで一生懸命咲いているからだと思う。そうじゃなかったら、旅立って行くように翼を広げて飛んでいかないだろう。
(西陵中三年生)
田 坂 心
死ぬために生きるみたいと娘言いまた子の無邪気な世界に遊ぶ(未生翼)小さい子はいいな。だって今の私は時間に捕らわれ、規制されて、昔の無邪気だった心を忘れてきているから。まだ小さな子供が「わぁーい、救急車だ!」と言うと、大人はその子を叱ったりした。でも子供は本当のことを言っただけ。救急車は救急車なのに…「死ぬために生きるみたい」も同じ。人間の生き方そのままじゃないのかな。無邪気なことはとってもいいことだ。大人は忘れてるかもしれないけど、時にはいいと思う。私も早く思い出したい。(西陵中三年生)
衛 藤 麻 里 子
我が阿呆を見られたような心地して笑いつつ見る落語はかなし(蛍) 落語は聞いていても読んでいても、とても楽しいものだ。本当にあった話だからおもしろい。何でこんなことがあるのだろう、この人も阿呆だなぁとよく思う。しかし、テレビからどこか身に覚えのある話が聞こえる。話の終わりに近づくと、これはこの前の私の失敗談ではないかと気づく。
そこで、お客さんの笑いが起こると、何か恥ずかしいような気がする。まぁ、そんなドキッとする瞬間があるのもまた落語のおもしろいところなのかもしれない。(三年生)
乗 岡 悠 香
限りある命愛しみ目を閉じていつまで続く我が鼓動聴く(未生翼) 限りある命…。かっこいい言葉だけど、何なんだろう。『命』って不思議な言葉だと思う。どういう意味なのか、どういう存在なのかわかんないのに大切にしたい、愛しみたいって思うから。今まではそんなの何も考えずに暮らしてきた。
心臓が「どっくんどっくん」いうのも、言わせようと思って言うもんじゃなかったし、きっとこれからも、何も考えずに動いていくと思う。でもちょっとは考えていこうかな。「命」っていう言葉の深さ、重み。そして「限りある命」。私にはまだまだ時間があるから…。
(西陵中三年生)
中 恵 理 香
今われが生きているこの幸せに勝るものなし過去も未来も(蛍)
私は、生きていることが一番幸せだと思う。世の中にはもしかしたら死にたいと思っている人がいるかもしれないけど、 私はそうは思わない。 それは、この歌のように過去も未来もそうだと思う。だから私は今生きているという幸せを噛み締めてこれから先も生きていこうと思う。 (西陵中三年生)
金 指 な つ み
四十前に死ぬこそよけれと兼好はつぶやきながら余生過ごしき(明日香)昨年の国語の授業で初めて徒然草を学びました。兼好法師の文章はとても興味深いものがあると思います。しかし、自分で「四十前に死にたい」 と思っているのに、そううまくはいかなかった。
私たちの生活の中でも、自分がこうしたいと思っているのに、そうならなかった。そういうことはたくさんあるのではないでしょうか。 ふとこう思ってしまった。
(西陵中三年生)
磯 部 友 香 梨
庭に穴空きて幼虫出でてくる蝉と生くべし短か世ならば(蛍) 私も最近、蝉の一生について考えました。蝉はこの世に生をうけてからずっと、本当に長い間土の中で眠っています。 そして、長い年月を越え地上に出てからの生は約一週間。小さい頃、私はこの蝉の一生をとても悲しく感じました。なぜ、自分よりも長い間生きてきたのに、地上に出ればその生はたったの一週間なのか…。その悲しみはたぶん、私が、蝉が「本当に生きている」のは、地上に出て一生懸命に鳴いている間だけだと感じたからだと思います。けれど今、色々な場面で「生と死」を深く考える機会があり、「死ぬために生きている」という言葉も、そんなに悲しい言葉ではないと思い始めています。蝉はまさしく「死ぬために生きている」という感じがします。けれど、きっと蝉はずっとずっと土の中で、
地上に出て鳴き、恋におちて死んでいくという事を知っていて、 それを望んでいるのではないか、と思っています。 人間にとっては短い世でも、蝉にとってはずっと待ち続けていた楽しい世なのではないかな?そう思えば、蝉の声も悲痛な叫びではなく、歓喜の合唱に聞こえます。
古 藤 静 香
雪明かり青く注げる放課後の長き廊下をぎしぎしと行く(断片集)
寒い冬の日、裸足になって、木造校舎をゆっくりと歩く。 日は早くに落ちて、外は薄暗い。その中に雪が青く光る。 自分の気持ちは静まり、一歩踏み出すごとに、感情は過去へと消えて行く。 振り向けばほこりに埋もれた、自分だけの足跡がそこに続いている。そして、悲しみや寂しさは心から消えて行き、自分はいまだ歩き続ける。どんどん軽くなった心は弾み、楽しさや嬉しさが溢れだし、幻想的な美しさの中で、自分は、踊り始めたかもしれない…
大 津 明 日 菜
不登校生徒来ているそれだけでクラスに温かい血が通う(蛍) クラスが全員揃った時は本当に嬉しいです。あったかくて明るくて。学級日誌に欠席「0」と書くのがすごく嬉しくてほっとします。 だから、毎日あったかくて、明るく中学校生活を送るためにはどうすればいいのだろう。私にできることはないかなと思います。
森 晶 子
花咲かぬ季にもナズナの根は開く真昼の星のごとく見えねど(未生翼) 久しぶりに読んだこの号、ふっと目についたのがこの歌でした。どこにでも生えていそうなナズナのたくましさが人間の生き方と重なって感じられます。誰も目をとめてくれないけれど、少しでも遠く根を伸ばしいつか花を咲かせるために、精一杯生きるナズナ。何ていうか命の豊かさを感じました。 人間もナズナも変わらない大切な命の持ち主としてここにいるんだなと改めて思いました。生きている間にせめて魂の触れ合う対話をしようじゃないか この歌からは、先生の心の温かさが本当によく伝わってきました。人間はいつかは崩れてしまうもの。その悲しみを感じつつ、だからこそ少しでも多くの人と心を通わせていたいと私は思います。心の奥が温かくなるような対話。そして人と人との出会いを大切にしていきたいです。 (西陵中二年生)
堀 真 理
飛びて舞う蛍の明かりの他見えぬ夜の流氷原を思えり(蛍) 暗闇しかない暗闇のなかできれいな水がある場所でしか生きない蛍が懸命に光を放っている。 心もとないような蝶のように飛んで光を放っている蛍の姿は、夜のなか月の光を浴びて微かに光る、流氷原の一つ一つの氷たちの姿に作者は思えたのかもしれない。
斉 藤 実 希 子
振り向けど過去は過ち去るものと我は思わず今生きるのみ(蛍)
過去は振り向いても戻ってくるものではありません。 過ちを犯してしまったとしても今さら、それが消えてくれる訳でもなく、過去の言動を後悔してくよくよ落ち込んでしまっても仕方がありません。 その気持ちを大きなバネにしてこれから前を向いて行くべきだと思います。 今から、まっすぐに生きていければ、いつか過ぎ去った過ちが価値のあるものに見えてくると思います。 私は時々つまらない過去にこだわってしまうときがあります。でも「後悔するよりも今を一生懸命生きること」それが一番大事なのだと、しっかり感じとれました。高く咲き散る一瞬のために生く桜は花の翼を広げ(未生翼) たった一瞬咲き誇るために精一杯生きて花の翼を広げる。 どんな小さな花にも強い生命力があって、 この世界を生きていることはとてもすごいことだと思う。 ただ何となく長い時間をだらだらと過ごしがちだけど、この桜のように、ほんの短い間美しく華やかに咲くためにだけ生きるなんて、 普通は真似出来ないと思う。このような生き方をしてきたから桜は人々に感動を与えられるのだと思った。 (西陵中二年生)
宮 本 亜 美
おいしそうなどと言われてトコトコと切り刻まれている我がある(蛍)料理を友達とかのために作ったりして、自分ではおいしいって思っても、友達の口には合わなくて…でも、ついつい友達はおいしいと言ってしまって…。でも、表情を見ればおいしくないってことが分かる。お世辞というものは時には人を傷つけてしまうものである。
(西陵中二年生)
酒 井 亜 紀
際限もなく人がいて次々に死ぬ生まれるを繰り返すのみ(蛍) 地球の人達は本当にいろんな人がいるのに、みんな「死ぬ」と「生まれる」の繰り返しだと思います。自分達ではあまり意識とかしないけど、人は「生まれ」て、その次はやっぱり「死ぬ」…。そしてまた「生まれる」になると思います。
(西陵中二年生)
木 佐 木 映 里
踏切を過ぎる電車の一瞬を目で追えば目を合わす客あり(蛍) 私もこの詩と同じようにやってみました。 でも電車が速くて一生懸命目で追っても目が痛くなるし…電車が速いから中の客とも目が合いません。 けれど止まる直前や踏切をゆっくり通過している時だったら目が合うのかもしれません。
そんな偶然の不思議な瞬間がとても素敵だとおもいました。目をつぶり自由な世界楽しめば夢といえども美しき日々(蛍)これも同じようにやってみました。友達と遊んでいる楽しい姿が浮かびました。
この夢が現実になったらすごいだろうなーって思いました。 (西陵中二年生)
木 村 円 香
多数決だから従う納得を決してしている訳ではないぞ(蛍) いつも多数決という言葉を聞くと疑問に感じることがあります。 それは「少数派の人の意見は聞かないの?」です。 クラスマッチの種目決めやクラスレクの内容など、
多数決は至る所で使われます。 そしてたくさんの人が手を挙げたらちゃんと人数も数えずに 「絶対多数」 と決めつけてしまうのです。 多数決をして多人数に従うのは「長いものに巻かれる」状態だと思うんです。
人数だけで全てを決めて小人数派は多人数派に従わざるを得ない。 意見も言わせてもらえない… (西陵中二年生)
梁 桃 子
日本が勝つ時負ける国があり次々地球ゴールされゆく(蛍) 六月の間、私はずっとワールドカップに燃えていました。だからこの歌に吸い込まれるような感じがしたんだと思います。 ワールドカップに出た32の国はどこの国も一生懸命戦いました。
でも勝つことができるのは一つの国だけです。日本が勝つと他の国が負けます。でも勝った国も負けた国も最後には晴れ晴れとしたゴールを迎えていました。私は今まで勝ち負けなんか関係ないという言葉を、負けた時の言い訳に使ってきたけれど、今、その言葉の意味がよく分かりました。
(西陵中二年生)
畠 山 梨 沙
不登校生徒来ているそれだけでクラスに温かい血が通う(蛍) 私が一年生のときにクラスに不登校の子が二人いました。 一学期は来てたんだけど、二学期くらいから来なくなって。その時はなかなか全員揃わなくて、少し寂しかった。だから毎日その子に手紙書いたり、電話したりしてました。
テストの日にその子が来てる日は、嬉しくてたくさんしゃべりました。その時は「やっぱりクラス全員そろうだけでこんなに違うんだ」ってすごく思いました。この歌は私の思ってることにすごくあてはまっていました。
(二年生)
小 門 奈 津 美
限りある命愛しみ目を閉じていつまで続く我が鼓動聴く(未生翼) 「限りある命」本当に、時計の針が電池がなくなって、いつかは止まってしまうかのように、私達の「命の鼓動」も1、2、3、4…と動いていても、いつかは「0」…「死」の終着駅で止まってしまう。だから、このたった一つの「命」は大切にしていかないとと思います。
角 島 康 介
結婚式明日にするため強引にメロスは小さな嘘ついていし(馬の骨)
これは「なるほど」と思った。『走れメロス』を読んでいて「メロスは誠実な人すぎる」と思った。あんな文を読まされたら誰だってそう思うに違いない。
でも実際は違った。嘘をついていた。しかも強引に…でも実際、結婚式を早めるなんてできるのか…?(二年生) 森 田 小 百 合
抱き締めてやれば素直になる娘無駄な言葉は置き去りにして(蛍) 人は人の温かさを知った時、自分が抱(いだ)いていた言葉を忘れてその温もりに安心します。 抱いていた言葉は決して奇麗ではなく、小さく泣いているような言葉だと思います。でもそんな言葉を包み込んでくれるのは人の温もりなのでしょう。(西陵中二年生)
西 尾 美 暢
今われが生きているこの幸せに勝るものなし過去も未来も(蛍)
この生きている時間は、 過去も未来も幸せに過ぎないものなのですね。 時には悲しくて立ち直れなくてどん底に落ちてしまう時もあるけれど、 落ちてしまったその訳を考えればもう落ちないはず。これから何が起こるか分からないけれど、素直に受け止めれば幸せに変わるはず。 やっぱり人間は幸せの中に生きているのですね。本当に「生きている」ということは不思議なものです。 人生をやり直したい若くなれ幼くなれと我が翼あり(未生翼) 私はまだ十三歳だけど人生をやり直したい、あの時に戻ってああしたい、こうしたい、と思うことがたくさんあります。でもその失敗を受け入れて次に生かせればいいと思います。決して失敗は損でなく、反対に得なのです。 だって失敗したのなら今度同じ失敗をしなければいいのです。戻りたいって思っても戻れないんだから、そんなこと考えたら損です、 と思いながらも戻りたい!って思ってしまうのが人間というものなのでしょうか。 (西陵中二年生)
森 瑞 穂
今われが生きているこの幸せに勝るものなし過去も未来も(蛍)
全くその通りである。加えられる文字などない。感心させられてしまった。 いつ、どのような状況にあろうとも、我が命のある事に替わる幸せなどない。生きている間に感じる「幸せ」の全ては、生きているから感じること… 本当に人それぞれだけど、一番幸せなのは今、ここに、こうして、自分という一人の人間が生きていること。要らぬ命などなく、また、今生きている全ての人々の存在があるからこそ、我々人類が成り立っているのだと強く思わされた。(一年生)
中 曽 絵 理
我がクラスみんな違ってみんないい明るく笑い励まし合おう(未生翼) 私はこの歌を読んで、やっぱりみんな違ってるっていいな、と改めて思いました。違う考え方、違う性格、違う体型…みんな同じだったらどうだろうと考えてみました。しゃべっていても、面白くないし、同じ考えで面白くない。みんな違っている所が面白い。 そして、みんな違うからこそ笑い合えるんじゃないかな?と思いました。
大 橋 愛 裕 美
薄緑色に蛍がゆらゆらと闇切り裂きつつ揺れて飛びゆく(蛍) この歌を読んだ瞬間、夜の森と川、そこに飛び交う蛍の姿が浮かんできました。真っ暗な闇、そこにゆらりと現れる一匹の蛍。 そう考えるととても幻想的な光景だと思いました。私は、本物の蛍は見たことがないけれど、この歌を読んで、先生は本当にきれいで幻想的な光景を見てきたんだなぁ、と思いました。ただの蛍が、ただの闇の中を飛んで行く。たったそれだけの事なのに、人間は未知の世界に行った気持ちになれる。私は此の歌を読んでそう感じました。
岸 本 愉 香
どのように生き肉片にされたのか牛に今さら人騒ぎいる(卵黄海) 狂牛病があったとき病の牛が見つかってから色々な所で人が騒ぎ始めた。 私は、人って何て身勝手で頭が悪いんだろうと思った。もう狂牛病になってからではどうしようもないではないか。けど、私にもそういう事は度々ある。 夏休みの宿題、あと三日で気づく。やってない…。もう遅いのだ。 あと三日で出来る筈がない。取り返しのつかないことになってから私はあせり始める。 こんな私もこれから直していきたいです。 (西陵中一年生)
松 山 晴 香
不登校生徒来ているそれだけでクラスに温かい血が通う(蛍) 不登校の友達が突然、学校に現れて、みんなと一緒に何ということなく授業を受けている。それを見たクラスの生徒達はほっとして、今日は何だか優しい気分が教室に溢れている。 クラスのみんながそれぞれに不登校の友のことを心配していたことが伝わってきました。 (西陵中一年生)
(34号発行が一学期終業直前で生徒の集まりは少なかった。 二年間ずっと溜めていた『わたしの流氷』の原稿やっと転載できる。)
流 氷 記 川 添 英 一
ああ流氷と同じだと気づいたのは網走を離れようとする時だった。網走を去るかもしれないと、そんな予兆があったのかもしれない。それまで見向きもしなかった流氷が急にいとおしくなった。流氷が接岸していても、これから限りなく凍てつく寒さが来るのだと思うだけで、何の感慨もなかった。何を見ていたのか、一面の白い風景も霧氷の続く川沿いも、僕にとっては、ただの北国の景色に過ぎなかった。僕は旅行者でなく、吹きっさらしの風景の中に自分を見つめることばかり考えていた。そんな僕が、道東の澄んだ景色の中で少しずつほぐされてきていたのかもしれない。無理に抑えていた何かが音を立てて崩れようとしていたのだ。
流氷原に月が出ていた。月面から地球を見るようにそれは大きくくっきりと浮かんでいて、耳の内奥で金属の音を立てていた、そんな景色が僕の心を揺れ動かして、詩人へと変えていた。網走最後の真冬になって僕は初めて網走を、流氷を、自然の仕組みを知ったのかもしれない。流刑の地網走がとてつもなく愛しいものになっていた。それからは、毎日のように海岸に行き流氷を眺め、氷原の上を歩いていた。氷塊の上に雪が積み、時にはキタキツネのみ足跡があった。真っ白い孤独が僕を魅了した。
網走に住む大東流宗家の許で四年間、教師をしながら体を動かしていた。歌など捨てるつもりでいたのに歌人の校長が僕を迎え、内地のかつての歌の友人たちが僕を誘った。しかし僕は歌を作らなかった。網走の内壁でひたすら空っぽでいたかった。網走に来る前、京都の禅の僧堂で参禅に励んでいた。僕には生が死が納得できなかった。自分の死を引き替えにして何を得たのか、詩の仲間達が次々に去っていき、納得できぬままにただ自分を見つめていた。頭を空にして、動く禅だと武道に心を入れ込み詩人でいることを避けてきた。網走を去り、宗家も校長も亡くなったあと、茫漠とした流氷原が僕の前に横たわっていた。宗家と初めて会い中川イセを紹介されたとき、あんたオラに似ている、後先を考えず突っ走るからと言われた。彼女こそ流氷だったのだ。網走に風に流されて渚に押し上げられた流氷の塊、そんな風景の中に何度もたたずんでいた。
今、場所も季節も隔てて僕は限りない流氷原の前にいる。氷塊の上に座りじっと耳を傾けると、流氷の不思議な歌が聞こえてくる。ぎぎぎー、がががー、ぎーがー、ぎーぎー、切なくいとおしい音色で、僕を迎えてくれる。流れ流され押し戻され押し上げられている氷塊の群れが優しい人達のように見える。これからもずっとこういう風景に向き合うことになるだろう。歌十首を挙げる。
流氷をめぐりて飛べる海鳥よ曇りてあれば響きつつ鳴く
氷海に立つ断崖よりオジロワシ音もなく海すれすれに飛ぶ
遠がなしく響くキツネの叫び声真夜流氷の海を見ている
死に向かう生も溶けゆく流氷も照らして斜陽かけらとなりぬ
真っ赤な日沈み切るまで氷塊の上にて我も氷塊となる
生まれ死に生まれ死にして流氷の真っ赤に燃えるたまゆらにいる
流氷原心残りし墓標にて果てまで幾多の沈黙続く
流氷に巨大に咲きし青き花輝きにつつ開きゆく海
幾重にも階積み上げて流氷のごとき都会が目のあたり見ゆ
流氷のように漂う此の世かと次々視界の変わるさびしさ
《21世紀へ伝えたい『わたしの流氷』》より転載
二〇〇〇年十二月二十日 発行
編集発行 オホーツク文化の会 菊地 慶一
〇九三−〇〇三一 網走市台町二丁目六−一〇
電話・ 〇一五二−四四−五七九八
◆『わたしの流氷』の十首は確かに流氷記の原点に違いない。が、これを超える世界を確立したいと苦しみつつ格闘の日々である…