藤 本 義 一
人死んで犯人わかって了となるドラマサラ金提供にして
川 添 英 一(流氷記35号『蝉束間) 二十代はテレビドラマを書きつづけたものです。 ビデオテープが登場する前です。ドラマの現場は熱気に溢れていました。NHK、民放と渡り歩いて生活していたものです。 あの四十年以上前よりも最近のテレビドラマの質はぐっと落ち、 脚本も演出も単に技術を弄しているに過ぎません。情ないことです。これは制作が東京に片寄ったことと視聴率信仰のなせるワザです。
さらに十五年前には拒絶していたサラ金会社をスポンサーとして迎え入れた愚が目にあまります。 時代劇に高利貸が登場しない理由を嘲笑しましょう。 (作 家)
中 村 桂 子
蓑虫のように布団に入りて聞く朝の足音ゆったりと行く(馬の骨) 冬の朝、いつもこんな感じでいました。 子どもの頃、朝食を作りに起きて行く母の足音のようでもあり、 大人になってから窓の外に聞いた音のようでもあり。 朝の忙しい時なので本当は少し急いでいるかもしれないのに布団の中でゆったりと感じている幸せ感を思います。重そうな雲ぬったりと渡りゆく窓にビュッフェの裸木並ぶもよい感じです。 黒い景色を思い浮かべますが、雲と少しとんがった裸木とがあることで、 そこからさまざまな思いが広がります。ゆったりとかぬったりとか、少しのんびりした感じが好きなようです。(生命誌研究館館長。『自己創出する生命』『ゲノムを読む』『あなたのなかのDNA』)
三 浦 光 世
さまざまな形にペンを持つ指の動いて試験たけなわとなる(蝉束間)
このように情景を捉える力量に脱帽した。 上句の描写は非凡と言える。
脅かせば体を縮めておびえいる足高蜘蛛あり逃がしてやり
何の罪ありてこんなに嫌われるゴキブリあわれ我とて同じ
右の二首にも共感させられた。 虫けらにもそれぞれの存在価値があるはず。 この頃私もやたらに虫を殺すことに疑問を抱くようになった。本州の宿でゴキブリを見た時、カブト虫のように魅力を感じた。 汚い所にあるというのだが……。
(『三浦綾子作品撰集』)
島 田 陽 子
足らぬもの補うように寄りて来る娘はわれの一部ならねど(蝉束間)
蝉の羽根地に転がりて美しき土となるべしわが庭にある 蝉の生と死は夏が啓示するものの中でも心に残るものです。 詩にも短歌にもとり上げられることが多く、 この一首も「美しき土」という言葉にひかれました。両句共にひかれたのですが「足らぬもの補うように」という、人としての謙虚さと、 「娘はわれの一部なら」ぬという、親として自覚していなければならぬ覚悟とが相まって、心にひびきました。流れも美しいと思います。
(詩人。 『島田陽子詩集』『金子みすゞへの旅』)
畑 中 圭 一
脅かせば体を縮めておびえいる足高蜘蛛あり逃がしてやりぬ(蝉束間) 「体を縮めて」は眼前の事実をとらえた写生。 しかし、次の「おびえている」は作者の感情移入である。 脅かした人が、今度は脅かされた足高蜘蛛に共感しているのである。だが、その共感はどうやら本物ではなかったようだ。 最後の「逃がしてやりぬ」がそれを端的に物語っている。共感した相手を「逃がしてやる」なんという矛盾。自然との共生を謳いあげようとして、 実は人間の傲慢さを表現してしまったという一首ではなかろうか。 こうした人間のいい加減さ、身につまされる思いである。 (詩人。児童文学評論家。)
加 藤 多 一
音もなく影のみ伝う一瞬のああ朝帰りする猫がいる(蝉束間) ぬれた体で、朝帰りするネコ……でも、これは猫ではありません。 猫は影だけを早く帰宅させて、 自分はまだ草ヨモギの茎の間にいるのです。草の中で、このオス猫に何をしているのだろう。性器とは奇妙で滑稽な形持て余し過ぐこともありしかとつぶやいて、ありあまる時間を持て余しているのでしょう。上の句で「音もなく影のみ伝う一瞬の」は、朝を修飾していているのだから、朝のまだ光のない時刻の作者の魂は当然ヨモギの中ですよ、ね。
(児童文学者。オホーツク文学館長)
近 藤 英 男
そんなにも誰の性器も変わらぬにこだわる生のかなしみがある(蝉束間)この三十五号には三つの謎が秘められているように感じられます。 第一は川添さんの第一歌集《夭折》の西欧的な詩風から東洋風への見事な脱構築。 道元の「有時(うじ)」や空海の〈理趣経〉の世界への大転換。第二には、先月号でいただいた「今われが生きているこの幸せに勝るものなし過去も未来も」の作品に八人の方々が共感されている不思議。九十の坂にさしかかった私も、中学一年生の方も、年齢を超えた美意識の中に浸らせていただいていること。第三は藤本義一先生のいただかれた「鬼気迫る田宮二郎の晩年の白き巨塔の断片残る」 で実際の死因が猟銃自殺であり、塩谷いさむさんは、 《白い巨塔》の彼が北の海に身を投じたことを語ってくれ自死の永遠の謎についての不思議を改めて味あわせていただいた。 (詩人。体育学。奈良教育大学名誉教授。)
中 島 和 子
生きている不思議不可思議蝉時雨あふれる朝の識閾にいる(蝉束間)
往来の激しい街中から緑豊かな郊外へ引っ越して2半年。「静かでしょう」と言われますが、実はとても賑やかなのです。 朝は鳥の声で目が覚めますし、 夜は虫の声にテレビの音量を上げたりします。意外なことに、蝉時雨は、都会の方がかまびすしいですね。樹木が少ないため、蝉の人口密度が高いからでしょうか。目下のところ、朝の識閾にアルトで「アホーアホー」と鳴くカラスが目覚まし時計です。 (詩人。童話作家。「さいごのまほう」「まじょのけっしん」)
野 村 一 秋
良い生徒悪い生徒と簡単に言うなかれ君教師にもよる(蝉束間)
教師の前では、 みんな(自分にとって都合の)良い生徒でなければいけない。 そう思っている教師って、確かにいる。いつでも自分は正しいと信じて疑わない。 挙を見せながら怒鳴るのが情熱だと勘違いしている。 そんな情熱に振り回される生徒はたまったもんじゃない。でも、そういう連中には、「おまえがいるから悪くなるんだよォ」という生徒たちのつぶやきは聞こえないか。「良い先生、悪い先生」と噂をしていても気づくはずないよな。 (児童文学者。『天小森教授、初恋ひきうけます』)
上 山 好 庸
風や岩、水となるのも幸いか雲間より日がざんぶと注ぐ(蝉束間) 「…ざんぶと注ぐ」という表現には恐れ入った。 そういえばこういう感覚ってあったのだと、 そしていつまでも耳に残った。 仕事柄、日差しには注意を払うことが多い。薄雲に隠れて欲しいと願うとき、また雲間から現れるのをじっと待つ等、カメラのレリーズの瞬間を待つことがある。 風の吹く時などは雲間の日差しが尾根から尾根へスキャナーの光のように草木をなめて走り去る。 まるでサーファーのように、次々と押し寄せる光の波を見送り、次の波はもっと大きいかもとチャンスを待つ。 思えばざんぶと音を立てていたかも知れない。 (写真家。演出家。『明日香路』。『厩戸皇子』)
宍 戸 恭 一
ねばならぬばかりが弱肉強食し世論を作るかなしかりけり(蝉束間)
世界最強国の大統領は、 世界の正義のためにイラクを攻撃しなければならないという世論を形成しつつある。が、彼の強調する正義とは、果たして何物なのか。最近、あるテレビの早朝映画(午前2時35分から放映開始)で、『セプテンバー11」を観た。これは、世界の第一線で活躍中の十一人の監督が、 各自11分9秒1の持ち時間を活用した短編映画を集めたもので、 夫々の国の歴史的現実を再現させることで、 正義は一つではないことを明確にすることをテーマにしている。 例えば、チリのケン・ローチ監督は亡命歌手の絶叫で、28年前米ドルに属した政権が、それまでの正義をかなぐり捨てて支持してきた国民に凄まじいテロを加え、 新正義に服従させようとした事実を、リアルに映像化している。 もう一つ、今村昌平は軍国日本の正義の旗印であった天皇制を信奉して出征したが、 敗戦後、故郷に帰還した青年は、 人間性を完全に喪失し、蛇のように土間をはいずり回る姿を映像化していた。この映画は何よりもブッシュの正義観を強烈に批評していて、万人必見の作品である。と同時に、見終わった私は本誌でも折に触れて取り上げてきた「悪人を求む」と題した三好十郎の絶筆と、この映画のテーマとが深いところで一脈通じていることを痛感した。 国家権力や宗教が正義の名の下に強要する諸々のイデオロギーに対しては、「正義は一つではない」ということを肝に銘じて、先ず疑うこと、そして、それを拒否できるような体質の所有者(三好の言う悪人)に自己改造しなければならない地点にまで来てしまっている。 (京都三月書房店主)
林  哲 夫
我が前を袴速足するようにアオスジアゲハ横切りて行く(蝉束間) クスノキを使う木彫家を知っている。 クスの古材を細板におろして、いく枚もいく枚も並べ、すだれのような作品を作る。 どうしてそんなことをするのか本人も分からない。 初めて彼の個展会場に足を踏み入れて乞驚した。満ち満ちる芳香に包み込まれたのだ。「わしの彫刻は虫がつかんやろ、ガハハ」と作者は笑った。 「虫がスカン」と言われたらどうするんだと思ったが呑み込んで、バカ笑いにつき合った。アオスジアゲハの食卓はクスノキの葉である。横切ったとき、ふっと微香がただよったのでは?(画家『喫茶店の時代』)  
 リカルド・オサム・ウエキ
信長も武蔵も今では犯罪者なのにと歴史の不可解がある(蝉束間)
いつも一首評ではなく、 一首から起ち上がって来る感性にすぎませんが、今度は、そのもっともなるものになりました。 小説執筆のために、歴史資料を漁っていると、歴史の不可解が作業の流れを堰き止め、執拗な拘りを渦にします。 権力者が捏造したり、改竄したり、庶民に憤怒させるほどの嘘の歴史を、鉄面皮に残してしるからです。 ブラジル移民が棄民政策だったことは、 戦前にすでにわかっていたことですが、 いまごろになって、公式文書が出てきて、やっと明確になったのです。 これを弾劾するのは歴史学者ではなく、私のような庶民文学を表明する戯作者なのだと、シニカルに受け止めています。 (作家。『白い炎』『アマゾン挽歌』)
川 口   玄
蝉時雨聴きつつ眠る海の底わが舌ひらりひらりと泳ぐ(蝉束間)
今号は、わたしにとってよく判る歌が多く、どの一首にしようか、迷いました。白昼のまどろみに入った不思議な瞬間の快感をうたった佳句かと思います。竹中郁の《ひるね》という詩があります。いずれにしても、何だかたのしくなる歌です。夏らしく蝉の歌が多くてそれぞれ良かったのですが、アオムシが山椒葉食べて美しく居座りおれば殺さずにいるも上質のユーモアあり感心しました。 (『大阪春秋』編集長)
神 野 茂 樹
ドラマには大小便が欠けていて現実感なくおしまいとなる(蝉束間)
西成のオッチャンがいつか同じようなことを言いましたが、 演劇はむしろ非現実の世界を、非日常を楽しむものだと思います。ゴキブリシリーズにもひかれましたし、他にも秀歌がありましたが、今回は気になる一首を選びました。 (『大阪春秋』編集委員)
佐 藤 昌 明
見るからに意地悪そうな人が意地悪にて少し気の毒になる(蝉束間)
ありそうなことながら、 このようにスカッと詠み切ることは至難。それより先、自分もその一人?…とドキッとする。「少し気の毒になる」という表し方に、 川添さんの心の動きがほの見え、感動させられる。この集の八十首は、今までと多少違った視点で底辺まで突っ込んで詠まれた歌が多いように思い、 そのどれもが捨て難くて一首選ぶのに時間がかかった。 (作 家。「オホーツク秘話」)
井 上 芳 枝
竹林がおおきく激しく揺れている景いつまでも心に残る(蝉束間) 風に揺らぐ竹林の葉音が聞こえてきそう。旺盛な生命力が伝わってきます。私は竹の風情が好き、竹の楚々とした無欲な清らかさに心引かれます。竹の語源は「たけたけしい」(生長のすぐれていること)の言葉から出たとのこと。「みどりの定期預金」といわれている竹、 わが家のキンメイチクも若葉を繁らせ、風に揺れ、この残暑のなか、涼風を送ってくれています。 (北九州市立大蔵中学校時代恩師)
釜 田   勝
良い生徒悪い生徒と簡単に言うなかれ君教師にもよる(蝉束間)
難しい問題を正面きって詠まれましたね。 川添さんならではと、感心することしきりです。良い生徒、悪い生徒とは―。 大方の想像はつくとしても、教育現場にしか過ぎず、それは現役教師個々の判断に委ねるしかありませんから。 「変な大人、変な教師がますます増えている姿を川添さんなら歌い続けてくれると期待しています」先号(蛍)の西勝洋一氏の一首評の一部を、 敢えて引用させていただきました。 (元『競馬キンキ』編集長)
弦 巻 宏 史
鳳仙花弾ける夏に迷い入り少年となるつかの間がある(蝉束間)
夏の日射しがまぶしい。群れる草花の中に入り込む。少年だった自分が蘇ってくる……郷愁でもあり、少年の心を失っていないような自分でもある。今のあなたの姿ではなく、川添少年と私自身のイメージを重ねて読んで居りました。足らぬもの補うように寄りて来る娘はわれの一部ならねどいとおしい、まさに掛け替えのない生命、からだ、そして《時》である。血液が逆流するにはあらねども死への不安にのたうつことあり愚かといわれようと、我が生命、人生を惜しみつつ生きている。ふと私の現実でもある。(網走二中元教諭。 司馬遼太郎『オホーツク街道』《花発けば》で司馬さんに網走を紹介している。網走在。)
小 川 輝 道
微生物たちに喰われて粒となる砂漠葬あり満天の星(蝉束間)「満天の星の下、生命は終り砂粒となる砂漠葬」 その凄さと美しさを捉える想念の深さ。 この地上の原風景に思いをいたす作者の姿勢に見える純粋さ、自然観、想像力に圧倒される。それは、追求してやまない流氷の形象化に通じるものなのだろう。最近、倉本聡氏が二十一年にわたり描き語った『北の国から』の終結において、 星の輝く羅臼から見たオホーツクの流氷の広がりと、 厳寒の海辺に展開する人々の姿に、人間を感じる原点を強く訴えていたと思う。「自然」とまともに向き合う表現者のしなやかな強さに共感する。
井 上 冨 美 子
良い生徒悪い生徒と簡単に言うなかれ君教師にもよる(蝉束間)
教師の人間。さまざまな人間性、教育観、価値観を持っています。恐ろしいことに、出会った教師によって、その子の将来の生き方にも影響が及ぶことがあります。 多感な年頃の生徒に接する教師は、そのことの責任の重大さを自覚すべきだと思います。 私も過去を振り返ると、反省することばかりです。 バルサンを焚く近所より逃げて来るごきぶり追えば隣家へと入る コミカルな響きが心地よい。ごきぶりにとっては生死をかけての逃亡。こんなことを言っては、ごきぶりさんに怒られますね。 (網走二中元教諭。網走在)
千 葉 朋 代
微生物たちに喰われて粒となる砂漠葬あり満天の星(蝉束間)
砂漠の星の美しさを、私に見せてくれたのは『星の王子様』でした。この歌を読み、物語のラストが浮かびました。 生きた証しは、生きたものの中に残し、屍は、生まれた星に帰る。 忘れられる時が来たら、静かに静かに忘れられる。 そんな死を思うと、とても心地よい。この心地よさこそ満天の星なのだろうと思いました。 墓という文化が死をこんなにも煩わしいものにしている事を考えさせられました。ところで、このまま行くと日本中が墓だらけになると思いませんか。 (『私の流氷』同人。札幌在。)
山 川 順 子
わが事のように一つの雲が今目前の窓流れ過ぎたり(蝉束間) 疲れて横になり窓越しに空を見ていた。 トンボやカラスが飛び回り雲が急いで過ぎていった。 あの雲に乗ってどこか遠くに行きたいな、何もかもから離れてと夢見る少女に戻ったのも束の間、窓の汚れが気になり掃除しなければと現実に引き戻された。 この歌は後書きにある「ぼーっとしていた」の後の作ではないかと勝手に想像しました。 (『私の流氷』同人。札幌在)
柴 橋 菜 摘
良い生徒悪い生徒と簡単に言うなかれ君教師にもよる(蝉束間)
三十五年前、吉野の僻地で、新前教師の悪戦苦闘を支えてくれたのは、生徒達の大らかさと先輩教師の御指導であった。教育の荒廃が叫ばれ、教師も生徒も槍玉にあがる昨今―。一所懸命が通じない虚しさもあろう。しかし、良い生徒、悪い生徒等と分けたくはない。みんな可愛い子達。各々の個性の成長に、たった五年の教師生活で何ほどの事が出来たであろうかと、自問しきりの一首だった。川添先生とその教え子の皆さんに、 エールを送らせて戴いてその埋め合わせを、と言うのは、虫が良すぎるだろうか?(大和高田市在)
長 岡 千 尋
血液が逆流するにはあらねども死への不安にのたうつことあり(蝉束間)「きのふけふとは思はざりしを」とうたつた業平の人口に膾炙された作品は、ある意味で人間の普遍的な宿命であり、これを解決するには宗教しかないのだが、 私はこの作品はイロニーの匂ひがぷんぷんとする。けつきよく深刻であればある程、人間のテーマは、ちやかされてゆく他はないのだ。 川添さんの歌は近年、川柳的、狂歌的なものを取り入れようとする意志が見える。 ――人間には真摯な生き方とは逆はらに、傾いた生き方を求めるものである。川柳や狂歌は一つの悪態だ。歌舞伎者たることを私も庶幾してゐる。
(『日本歌人』同人。『かむとき』編集。談山神社神主。)
川 田 一 路
天井の木目の模様死体さえ輪切りにすると美しくなる(蝉束間)
天井の木目をじっと眺めていると――特に深夜、 ベッドの上でぼんやりと天井と睨めっこしていると模様ひとつに対してもいろいろな妄想がわいてくる。この歌をはじめて読んだとき、木目から人体の輪切りを連想するなんて、 突拍子もないことをよくも思いついたものだと感心し、そして次の瞬間、木目は木の死体なのだ、
私たちは樹木を犠牲にして、 その下で暮らしていることに気づかされ、唖然とした次第。すっかり作者の術中にはまり、再度感心。
(『山繭』同人。)
里 見 純 世
ゴキブリを見つけるたびに僕を呼ぶこんな時だけ頼りにしてか(蝉束間)先ず此の一首に注目しました。 不肖私も歌を詠む者の一人ですが、先生のようにズバリと核心をついた歌は詠めません。ゴキブリは、当地方では見かけることがないのですが、話にはよく聞いていますので、おおよその想像はつくので、何となく微苦笑をおぼえながら(失礼とは思いましたが)読ませていただきました。 此の歌の中に、奥さんとの信頼関係が伺われ、共鳴を覚えた一首です。 次の歌もそういう意味で共感しました。イヤホーン付けて聞こえぬふりをするゴキブリいると妻叫ぶ声 (『潮音』『新墾』同人。網走短歌会元会長)
葛 西   操
今われが生きているこの幸せに勝るものなし過去も未来も(蛍)
人として世の中に生まれた事は最高の幸せと思わねばなりません。命は神が与えてくれたもの。大切に生きていこうと思います。
人の一生とはさまざまですが、 心の持ち方で運命も変わるものと思います。私も永い人生、苦難の道を乗り越えて生きて来ました。若い方に、命を大切に生きていってほしいです。 日本はこれから、若人の力で世界に恥じない国を作っていって下さい。
(『原始林』同人。網走歌人会)
南 部 千 代
鳳仙花弾ける夏に迷い入り少年となるつかの間がある(蝉束間)
『赤光』の中の一首を思い出した。たたかひは上海に起り居たりけり鳳仙花紅く散りゐたりけり 過去に戻れば鳳仙花の赤く弾ける夏の日に少年であり或いは少女である自分を見る。 それが実体験であろうと伝聞であろうと、 川添さんのこの歌にも悲しい戦さを背景に思い浮かべる人は澤山いらっしゃると思う。 終戦の夏も忘れられない。すごく暑い日だった記憶があるが、気温は何度だったか全く覚えない。 あちらこちらに赤い鳳仙花が咲き白く乾いた土に汗を流した東北の小さい城下町を歩いている私もたしかに居た。 (網走歌人会)
田 中   栄
神居ます天に響かせ鳴く蝉よ鞴のような腹震わせて(蝉束間) 蝉の種類は本州で十四種あると言われている。鞴(ふいご)のように腹震わせて鳴くというから、七月中頃から鳴く「あぶらぜみ」か「くまぜみ」かと思われる。盛んな鳴き方が「ふいご」のようという比喩は面白い。天に居ます神への讃歌と受け取っていいのであろうか。少し頭で作られたところが惜しまれる。 芭蕉の「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」という不易の句が思われる。 (『塔』編集。元選者)
榎 本 久 一
足らぬもの補うように寄りて来る娘はわれの一部ならねど(蝉束間)
また家族の歌に眼がいった。上句よく言い得ている。ウェットも良いものだ。 下句は少しドライだがドライになり切れてないのが作者の身上、 だがこの一首の中で「娘」と歌われると折角の情緒がはぐらかされそうに思われる。 (『塔』同人。)
前 田 道 夫
神居ます天に響かせ鳴く蝉よ鞴のような腹震わせて(蝉束間)「神居ます天に響かせ」で規模の大きなうたとなった。天に神は在すかと問われれば、 敬虔なる信仰者であれば即座に在すと答えるであろうが、 私などは幾つになっても確信をもてずにいるところである。然し、祈りの場に於いては、天の父なる神、或いは天にまします我らの父よと唱えているのであって否定させている訳でもない。「鞴のような腹」も面白い捉え方であり、 蝉の息遣いまではっきりと目に浮かんでくる。 (『塔』同人。)
鬼 頭 昭 二
さまざまな形にペンを持つ指の動いて試験たけなわとなる(蝉束間)
あまり作者に密着していない作品として選んだ。 作者は教師として試験の監督をしている。 動いているのは生徒たちの指とペンである。 視覚的な側面とその中に立場の異なる作者の存在を感じたい。類型を感じないではないが、作者の受容的な一面に出会うとほっとする。 (『五〇番地』同人。)
甲 田 一 彦
蝉時雨聴きつつ眠る海の底わが舌ひらりひらりと泳ぐ(蝉束間)
海の底に我ら生きつつ蝉時雨青木繁の絵の中にいる
生きている不思議不可思議蝉時雨あふれる朝の識閾にいる
蝉時雨聴きつつ土や風となり眠るよ死後も未生も同じ

またたく間にこれだけの短歌を紡ぎ出す『流氷記』におそれを感じたりしています。三十五号八十首の作品には、蝉を読み込んだ歌が十四首。その中「蝉時雨」がこの四首。冒頭の歌は前号にも詠まれた「舌」を巧みに取り込み、次は青木繁の絵(多分樹林の絵か)を、三首目は一、二句の平凡な語を立ち上げ、 最後の歌では「死後も未生も同じ」という悟りの境地を見事にまとめ上げている。短歌は現在に生きる自分をあくまで追究していくところに「文学」としての永遠の生命を持つもとを川添の作品は示していると思うのである。自愛精進を! (『塔』同人。『北摂短歌会』会長。元校長)
遠 藤 正 雄
ゴキブリを見つけるたびに僕を呼ぶこんな時だけ頼りにしてか(蝉束間) 「こんな時だけ」…を、裏返すと「どんな時でも」頼りにされているという事になる。夫婦の間にかもし出す充実感と信頼感が、ほのぼのと伝ってくる。 夫婦とは新聞小説の文章と挿絵の様な関係かと思ったり、「妻」とは「雲」に似た存在かと思ったりする。 時折、日差しを遮る雲が出てくる事もあり、 秋天に輝いて見える白雲もある。又、雷を帯びた雲行きの悪い雲になる事もある。 この様な毎日の暮らしの中に、幸福の『青い鳥』ではないが、身近な処に妻が居て、身近な処に歌の題材もあるのだと感じさせる歌である。(『原型』同人)
塩 谷 い さ む
人死んで犯人わかって了となるドラマサラ金提供にして(蝉束間) 下手な脚本家はすぐに人を殺したがると言う。が、ドラマを見ていると大体終了の時期がわかってくる。 推理通りに犯人が検挙されれば思わずホッとするものである。「人死んで犯人わかって了となる」の前半が妙に頭にこびりついて離れない。そして提供はサラ金である。 生死の許諾権を握っているような現在のサラ金の裏側が臭ってくる。 一等地ではあるが街のあまり目立たない場所から眼を光らせて眈々と客を狙っている姿が見えかくれする。 今日も朝から「○○駅で人身事故がありました」のニュースが流れて来る。
吉 田 健 一
さまざまな形にペンを持つ指の動いて試験たけなわとなる(蝉束間)
現職の中学教師である作者には学校生活を題材にした作品が多い。これもそのひとつ。この歌の中で注目したのは、「さまざまな形にペンを持つ」というところ。 自分が学生だったころ、何度となく試験を受けたが、他人がどんな指の形をしているかなど、考えたこともなかった。多くの生徒を見守る教師でないと、こういう歌はできないと、納得した。 また、受験者にとって試験は重苦しいものでしかないが、 ここでは「たけなわ」という明るい響きの言葉を使っておられる。これも面白かった。 (『塔』同人。)
平 野 文 子
いらぬとき出てきて捜せば出てこない物に囲まれ生きているのに(蝉束間)物が豊かになり、 欲しい物の殆どが、容易に手に入る近頃です。私達は種々様々なものの中に身をおき、快適に生活を楽しんでいます。 ところで、そうした物の総てが頭の中に整理されて、存在が明確に分かっている間はともかく、 一たび忘れ去ると大切な物から些細な物まで、 探し出すのにどれだけの時間と労力を費やすか。探される方から、名乗り出てほしいくらいの気持ちです。誰にも覚えある此の日常の出来事を、 コミカルに捉えて共感を呼びます。 (『かぐのみ』 北摂短歌会。)
大 橋 国 子
ねばならぬばかりが弱肉強食し世論を作るかなしかりけり(蝉束間)
猛獣の生態を見乍ら、時々、「人間だって概ね弱肉強食だよね」と夫に言います。彼は自分が「強食」と思っているのか答えませんが、娘はこれを称して焼肉定食といいます。地理的、歴史的条件なのか日本は没個性的、「そんな考えもあるね」が少ないですね。金の卵で溢れたゴッホの向日葵のような人がもう少し周りにいたらいいですね。それでも、年齢を重ねるに従って体力がなくなり、「ねばならぬ」族になる事を諦め、聞いているふりをして「まあいいや」族に移行して来たのではないかと思っています。 ひたすらに生きられる先生の姿を感じています。 (『北摂短歌会』)
山 本  勉
さまざまな形にペンを持つ指の動いて試験たけなわとなる(蝉束間)
静まり返った試験会場の情景が目に浮かぶ。私も数回、国家試験を受けた、あの時の緊張感が思い出された。「さまざまな形に持つ」は緊張している側にに気付かないことだが、 教師の目には一人一人の癖や性格までが愛しく感ぜられたことだろう。最近、文章教室へ通うようになった。 当日与えられた課題に添って一斉に原稿に向かう。緊張感に満たされシーンと静まり返った室内に、鉛筆の音だけが響き渡り、その音に心が急かされる。 どさくさの薄い平和の日本が勿体ないことばかりしている 平和ボケした日本人の傲りを言い切っていて共感がもてた。 (『北摂短歌会』)
山 路 義 雄
次の世の入り口なんだろう月が朗らかに照りすぐそこに見ゆ(蝉束間) 満月の夜、月光が下界一面を隈無く皓々と照らしていた。それは昼間の景色を見るのとはまた異なった落ち着いた趣がそこにあった。人生にも少年期から青年期へ、そして壮年期へと次の世界へ繋がってゆく道がある。人間は輝く月光をたよりに、次の世界への入り口を探し、求めて進む。 それは人生の希望であり、生き甲斐である。 (『北摂短歌会』)
大 戸 啓 江
今は鈴虫の奏でる石舞台蘇我馬子は悪人なのか(明日香) 時間旅行ができるのはなぜでしょうか。 一首の中にとてつもなく長い時間、自然の営みが大きく音を立てて流れていくようです。今となっては分かりませんが「さらら」という名のおばちゃんが悪人やったとか…。(持統天皇) 人の歴史も所詮自然の中の一時なのでしょうか。作文能力の乏しい私にはうまく表現できませんが、とても素敵でドキドキする一首です。(舞鶴市立中学教諭。高槻七中教諭時代生徒)
リカルド・オサム・ウエキ
金木犀枝を払わぬ理由にて昨年(こぞ)より止まる空蝉があり(銀杏葉) 自然をそのままを詠まれたものでしょうが、 生きとし生けるものだけではなく、既に死んでしまっているものまで慈しみ、愛しようとする人間味が溢れるばかりに感じられる良いお歌だと読ませていただきました。地上に這い出てからの短い命を、命の限り歌い上げたあとの空虚さは、まさに人間の生きざまに似て、身につまされるものが在るのではないでしょうか。空蝉の連想から、昔リオ州の果樹園に住んでいた頃、ともに棲息していたカスカベルや、カスカベルよりももっと猛毒を持っているスルククーという毒蛇が衣替えしたあとの抜け殻が、 風にからから鳴るのをおぞましく聴いたことがありました。 まるで臆病者の己を嗤われているような気がしながら…。 (作 家。『白い炎』。ブラジル在住。)
小 川 輝 道
わがクラスみんな違ってみんないい明るく笑い励まし合おう(未生翼)「みんな違ってみんないい」金子みすずが世に残した心に沁みる詩作のなかでも、とりわけ心に響く表現として、この詩人の思想や真摯な姿勢に共感しながら、深い表現を求めることと、浮薄の時代との隔たりに考えこまされている。クラスの子らを同じような視点で捉え、希望を見出しているこの作品に、作者の表現者としての多様さと、教育実践者としての眼差しを感じ、その姿勢に共感しています。取り囲まれる不条理の中で、尚、希望を若い世代に託す営みは、歌人の日々の表現活動の大事な拠りどころにもなっていると思います。 (網走二中元教諭。北見在)
平 野 文 子
人厭うたびに眺める北摂の山並み今朝は鮮しき雨後(未生翼) 様々な人々が多種多様に、それぞれに自分なりの思考で生きて行く一般社会、人生の波の中に、会って又別れてゆく人、人、人…数え切れない人たち…その中には自分の意に添わない、はっきり言って嫌いな人も沢山いるでしょう。作者は素直に偽らぬ心情を吐露して共感を誘う。人を嫌うということは、私の場合巡り巡って自己嫌悪にもつながるのです。気分転換に眺められた北摂の山々は作者の心を癒すかの如く、総てを洗い流した鮮明な雨後に輝いていたのです。山並みの送り仮名は不要です。(『かぐのみ』北摂短歌会)
弦 巻 宏 史
地に墜ちて飛べぬ蛍が最期の灯ともしつつわが在り処を示す(蛍)先刻まで「闇を切り裂き」飛び交っていた蛍が命尽きつつ、なお己れの存在の最期を明示する姿に、命の強さ、いとおしさ、また儚さ、悲しさ、そして人間の存在の有り様も暗示…。今回の34号蛍は「舌」などにこだわり己れの生を凝視するさまを見せて頂きました。共感できるものも多々ありながらも、 時にはその感性や視点に戸惑うものもありました。脳の血管がぷつぷつ切れてゆくらしい言葉の空白続くは、まさに私自身のことである。 (網走二中元教諭)
柴 橋 菜 摘
卒業式ビデオカメラの群れ見えて人の残せしもののいつまで(未生翼) 幸せの瞬間(とき)を凍結して置きたい心情は理解できる。しかし、悲しみの極みに遭遇した時、果たして過ぎし日の楽しいビデオを見る事が出来るだろうか?記録としての映像が、時に哀しく重いものになることを誰も露だに予想しない。Vサインの遺影にも辛いものがあるが、ビデオは動くが故に生々し過ぎる。幼い子供達の哀しい事件に思いが重なる。卒業式に我が子のビデオを撮っている人は幸せの時とともにいる。しかし明日の保障はない。その映像が残るという保障も…。胸の底にずしんと落ちた一首である。
大 戸 啓 江
ろくな死に方をしないも流れゆく時の落ち葉の一つに過ぎぬ(ぬば玉) 流れゆく時の「落ち葉」ほどの存在があるのだと思えば生きるのもまた楽しく感じますね。又、皆と同じ流れる時を感じられるのもうれしいです。 「ろくな死に方」とはどのようなものかは分かりませんが「落ち葉」の一つであるのなら死もまた待ち遠しいですね。(なかなか死なないもんですが)落ち葉自身が満足であれば何も空しいものはありません。 落ち葉にさせて頂けるまで生かされながら自分の「仕事」を続けます。 (舞鶴市立中学教諭。高槻七中教諭時代生徒)

若 田 奈 緒 子
安威川の流れを見つつ一瞬が今が全ての光景となる(蝉束間) 今年の夏、私はダンスの練習でよく安威川に行った。夜になってもフジテックの塔のうっすらとした灯りの中で、ひたすら踊り、食事をし、語り合い、肌寒い夜は身を寄せて皆で眠った。 そんなふうにして毎日を過ごしている時、一日一日が、一瞬一瞬がなぜか無性に愛しくてたまらなくなった。流れ続ける川の流れを見たり、その川に足をつけたりしながら、こんな日がずっと続けばいいのに、とよく思った。先生も川を見ながら、よく似たことを思われたのだろうか。川は決して止まることなくすぐ流れ移ってしまう。 そしてふと見た一瞬の光景は、その時の全ての光景となり、二度と同じものには出逢えない。だから私は、川を見ていると無意識のうちに「今」という時間を大切に想うようになるのだろう。「今」は一瞬であって川の流れと同様、すぐ流れ移ってしまう。私は踊ったり笑ったりしながら安威川で過ごした「今」を、そしてその時、毎日を愛しく思った気持ちを、 流れてしまわないようにしっかり心に焼き付けておこうと思う。 (西陵中卒業生)
高 田 暢 子
歌作るたびに心が軽くなる独りうっすら笑いなどして(蝉束間)
先生がそんなふうに笑っているのを想像するのもまた読者である私の一つの楽しみです。 先生のこんな歌を見るといつも感情というのは素直に表現しないとダメだなと思う。 人に直接伝える時ももちろんだけど、何か物を創り出したり、音楽を聴いたり…常に何でも素直な心でいれば何事でも本質や相手の考えている事がよくわかるようになるんじゃないかと思うけど、 これがなかなか実行できない。 でもゆっくりのんびり長い時間をかけて大好きな人に大好きになってもらえる自分になれたらいいなと思う。(卒業生)
小 西 玲 子
限りある命愛しみ目を閉じていつまで続く我が鼓動聴く(未生翼) 目を閉じてみるとどんどん私の世界が広がっていく。 まだまだ想像もつかないけど命には限りがあるという。 その中で私はどれだけたくさん出会えて良かった人に出会えただろう、 優しさをくれる人、叱ってくれる人、信じてくれる人…そしてどれだけ大切な思い出があるだろう。言葉にできない気持ち、これからもたくさんの人やものに出会っていくんだろう。今以上に私の心は一杯になって世界が広がっていくんだろう。 そんな大切なものを抱えて今を生きている私。人間ってすごいな。一人一人の心は宝箱です。 そんなことを考えていると、鼓動を聴いていると胸が一杯になって、私自身、周りの人たちが愛しく思えました。 (西陵中卒業生)
藤 川  彩
曇りより青空少し見えてきて楽しく心変わりゆくらし(凍雲号)
私は青空が好きだ。たとえそれが、雲の狭間に見えた青空だとしても。そして、これは作者の心を表現しているのでは、と気づいた。雲間から見えた青空が作者の心の曇りを吹き払ってくれたのだろう、と。 私もこのような体験をしたことがあるから「楽しく心変わりゆく」気持ちが想像できた。 雨が止み、曇り空から青空へ変わっていくこの景色を見た時の気分は何とも言い表せないものである。
衛 藤 麻 里 子
さるすべり蝉のひびきの夕方のかすかな花の紅かなし(蝉束間)
「今年もよく咲いたわ」と祖母が言った。 確かに、さるすべりの木にピンクの花が付いていた。もう、夏は終わったのだと思った。 庭に出て、蝉がいるか調べてみた。いなかった。夏ならば、耳が痛くなるほど鳴いていたのに。私は、夏が好きだ。だから、何か華やかなさるすべりの花を見ていても、寂しくなってきた。蝉が鳴き出した。でも、夏の終わりを知らせるつくつくぼうしだった。 また、来年には同じ夏がやってくるのだから、 これからの秋、冬、春に向けて過ごそうと思う。 (西陵中三年生)
白 田 理 人
神居ます天に響かせ鳴く蝉よ鞴のような腹震わせて(蝉束間) とても迫力のある歌だと感じた。天にまで響く蝉の声とは、どんな声だったのか。 おそらく、すべてのものを圧倒し、包み込んでしまうような、力強い声だったのだろう。蝉たちは自らの短い命を懸けて懸命に腹を震わせて鳴く。彼らの声は、その生の証しである。 この歌の蝉たちは、天上にまで自らの存在を示そうと、力一杯鳴いていたのだろう。この歌を読んで、第三十五号の『蝉束間』という表題の意味が分かったような気がした。蝉は短い生涯の中で、その一瞬一瞬を懸命に鳴いて生きる。 「蝉束間」にはそんな蝉たちの生き方が象徴されているのではないだろうか。 (西陵中三年生)
金 指 な つ み
建物の在った所に駐車場あっけらかんと日を浴びている(小秋思) 私が通っていた穂積小学校の近くにも、こんな場所があります。そして、そこを通る度に思います。「淋しいなぁ」と。以前、そこには事務所がありました。今はその事務所は二軒先に、かなりきれいになって移りました。その後に駐車場になったのです。私達が卒業してから、ここは駐車場になったようです。 六年間、ずっと見ていたあの事務所が駐車場になったのは、ほんの少しショックでした。この歌を見て、こんな思いがよみがえりました。(西陵中三年生)
渡 辺 あ ず 咲
安威川の流れを見つつ一瞬が今が全ての光景となる(蝉束間) 今という一瞬は一生に一度しかありません。 当たり前な事だけれど、人はそんな事を意識して行動したり、 見たりしている訳ではないと思います。私もそうでした。 でもこの歌を読んで、今というとても短い時間をしっかり受け止めながら、 今という一瞬を大切にしていきたいと思いました。 (西陵中三年生)
木 村 円 香
蚊や蝿を殺して喜ぶ人ばかりいるのか日本のテレビの夏は(蝉束間)
一寸の虫にも五分の魂があります。 犬や猫が殺されたらギャーギャー騒ぐくせに自分にとって都合の悪い生き物を殺した人には称賛を浴びせるのでしょうか。 もしも蚊や蝿が人へ通じる言葉を持っていれば、「何でオレらだけ殺されても悲しまれへんねん!!」と怒ると思います。 「害を与えるのなら殺されても仕方ない」と言うのなら一番殺されても仕方ないのは人間だと思います。(二年生)
西 尾 美 暢
いつ死ぬかわからぬ不安の足音を踏みつつ進めどすぐ過去になる(銀杏葉)私もこの歌のような不安に見舞われることがあります。もしかしたら私は明日死んでしまうかもしれない…と思うことがあります。でも、実際次の日になればそんなことなど忘れてしまったように生きています。 ひとつひとつの動作で人生が何回も塗り替えられて、一秒でも違うと生死をさ迷うことにさえなるのです。この歌の意味は、いつ死ぬか、いつ死ぬかと不安に思っているうちに、 それが過去になってしまうという意味なのかなぁと思いました。 (西陵中二年生)
斉 藤 実 希 子
信長も武蔵も今では犯罪者なのにと歴史の不可解がある(蝉束間) 今は、人の命は大切であり、戦争は何があってもしてはならないという常識がある。だが昔は人と人が戦って営まれてきた。それがまるで当然のように。 同じ歴史の一ページなのにどうしてここまで異なるのか。この歌を読んで、時代の流れはここまで人の価値観を変えてしまうものなのかと改めて驚いた。今日本便利無臭に囲まれて死も迅速に処理されるのみ 日本は急激な進化を遂げてきた。先進国と呼ばれるようになり、昔と比べてはるかに便利になったはずだ。 人の手で時間と労力をかけて行ってきた仕事がボタン一つで素早く完了する。それは確かに助かる。でも今は「人の死」までも早く処理されている。 もともとそんなに軽いものだったのだろうか、人の死は。この歌を読んで、何もかもが速いスピードで進んで行くこの時代に戸惑ってしまった。(西陵中二年生)
長 田 龍 哉
パソコンも不意に固まる死といえど流れる時間の一つに過ぎぬ(蝉束間)パソコンを使った事のある人ならわかると、フリーズ(パソコンが突然止まる)されると、リセットするしかなくなってしまう。リセットすると画面には 「不正な手段で終了させたのでエラーのある可能性があります。 今後終了する際にはきちんと正しくお願いします」の文字が。 フリーズしたのはそっちなのに。(西陵中二年生)
中 西 希 和
振り向けど過去は過ち去るものと我は思わず今生きるのみ(蛍) 今がつまらないと「過去に戻れたらいいな」とよく思いました。でも、過去というのは、もう「思い出」に変わってしまったものなので、思い出して笑ったり、泣いたりするのが一番だと思います。ある先生がよく「今を大切にしなさい」と言っていました。私は、楽しかったりつらかったりという過去があるから「今」があるのだと思います。その先生の言うとおり、今を大切にしつつ過去も大切にしていき、前向きに中学校生活を送っていけたらと思います。(西陵中二年生)
平 岡 勇 作
神の声伝えて蝉の奏でいる不思議な朝の空間にいる(蝉束間) いつも通りに朝起きて、いつも通りの一日を過ごそうとした。 だが、蝉の鳴く声が神の声に聞こえたような気がした。数十秒間、私はその蝉の鳴く不思議な空間の中、一人佇んでいた…。今日は不思議な一日になりそうだ。太陽もいずれは滅ぶ我もまた無数の滅びを繰り返し過ぐ太陽もいつかは大きくなり、そして滅びていくんだろう。私も大きくなるにつれ、家族や親戚が死んでいくのを繰り返し見ていくだろう。 (西陵中二年生)
田 那 村 あ や か
良い生徒悪い生徒と簡単に言うなかれ君教師にもよる(蝉束間) 良い悪いというより、それが本人の性格ならしょうがないんじゃない?でも、他人を傷つける人とかは、怒ってもいいんじゃない?そういう人は、悪い人とか決めつけるんじゃなくて、悪い人にさせないようにすればいいと思いますよ。(西陵中二年生)
坂 井 彩 美
バルサンを焚く近所より逃げて来るゴキブリ追えば隣家へと入る(蝉束間) 私の家にはゴキブリって出ないのでいまいちパッとしないけど、何か想像してみると、確かにこんな感じです。 必死で逃げて隣へ行くとそこでも気味悪がられて追い出され、 どこへ行っても居場所がないってさみしいですよね。 ゴキブリも生きるために頑張ってるんですね。 ゴキブリ=悪い虫みたいなふうに思う人もいると思うけど、 ゴキブリから見たら人間は自分を殺そうとする悪いヤツなんですよね。ここらへんが考えちゃうところです
磯 部 友 香 梨

限りなく光の粒が飛んでいる宇宙の果てのその果ての果て(銀杏葉)
この忙しい時期、 その小さな透き間を縫うようにしてやってくる物悲しさは、私に、私自身の存在について考えさせる。普段、人は常に自分を中心に考えている。というより、他人を中心に物事を考えるのは、無理に等しいと思う。 自己の人格がある限り、何を考えても、考えているのは結局自分なのだから。 けれど、それを宇宙レベルで考えたとき、 中心で大きく存在している「自分」は鳴りを潜め、もっと大きな世界が私を待っている。私より何百倍も大きい隕石や彗星でさえ宇宙では光の粒になり、 もう私では比べられないくらい大きい太陽だって、下手をしたら光の粒で…。そんな世界でも、上には上がいるという事を思い知らせるように果ては広がる。果ての果ての果てという、本当に果てしない世界で、私は生きている。 嵩としては「光の粒」にもならない私だけれど、生きていれば、誰かの、自分自身の、宇宙になれるかもしれない。そうして、忙しさの透き間は幕を閉じ、私にはまた、大きな自分の存在する忙しい時を過ごす。 (西陵中二年生)
古 藤 静 香
にこにこと何考えて生きてんの?そんな顔してたい春の日は(新緑号) 最近、 悲しい事があったり、嬉しい事、嫌な事や楽しい事などいろいろな事が起こった。一つ何かが起こるたび、たくさんの考えや思いが頭にぶちまかれ、大混乱となる。すべてをマイナスに考えたりして、欠点ばかりを見る結果になったりもする。 そんな中、この歌を読んで、とてもいいなと思った。私の中にもぽかぽか温かい春が来てほしいと感じる。でも、現実は厳しく、作者も「そんな顔をしてたい」と望んでいるだけで、「春の日は」には《せめて》というのが、付いている気がして、そんなものだよな、と一人考えたりもする。
森 田 小 百 合
人生の中の一分一秒を君たちといるそれだけでいい(蛍)人生の中で人は誰かに自分の存在を求めずにはいられない。 だけどそうではなくて、求めるだけではなくて、言葉よりもただ少ない時間でも人と接している時間の方が一番幸せなんじゃないのかなぁとこの詞をみて思いました。 (西陵中二年生)
大 津 明 日 菜
わが事のように一つの雲が今目前の窓流れ過ぎたり(蝉束間) 私も最近よく雲を見ます。その時、あの雲は世界中の人が見えるんだなって思います。雲はいつも私達のことを見ています。悪い事をした時も、こっそり泣いた時も……。 その雲が目前を流れ過ぎた時、どんな気持ちになるのだろう。 そう思って雲を見ようと思いました。 (西陵中二年生)
福 田 優 美 子
不貞腐れ宅間守の不条理を誰もが持つと思うことあり(蝉束間)
誰でも不条理を持つことがある。私も正直に言うと、思うことがある。 でも、それを心の中に秘めておく人、こそこそと陰口をたたく人、脅迫をする人、実行に移す人、と人間はさまざまだ。思うのはその人の好きなようにすればいいと思うが、実行に移す人が今とても多い。もっときちんと現状を踏まえて物事を考えられるような人に、皆が成長できるような社会になればいいのに、と思う。
小 門 奈 津 美
人も花も地球も不思議一瞬といえども愛によりて生くべし(馬の骨)
私はお母さんから生まれた。じゃあ、お母さんは?…。そうやって、さかのぼっていくと、私達「人間」は「海」から生まれた。だけど、その「海」を造ったのはこの「地球」。 人も動物も虫も自然もみんな地球が造ってくれた。だけど、このとても美しい星を人間は今まさに壊そうとしている。ゴミを捨て、森林を破壊し、海を汚し…。私達は、こんなことをしていて、いいのだろうかと思います。
水 口 智 香 子
古き町並みを歩けば背景にビル傾いて見えることあり(蝉束間)
これは現在の地球、人間を表しています。便利さを求めて人間は地球をつぶし、勝手に満足をして何が残るのでしょう。私は破滅と人間の醜さ、そして汚れきった地球だと思います。都会のビルは目に焼き付くのに過去の文化など見向きもしない人間達。 その汚れた目には、自分が必要とするものしか映りません。そうやって人間達は毎日闇の方へと進んでいきます。『本当に大切なものは何だろう』 単純なようで難しい、この疑問を人間が気づくのはいつでしょう……。(西陵中二年生)
堀 真 理
我のみが流氷原に一人居るそんな風吹き夏終わるらし(蝉束間)
こんな事、あるんだろう。 人間は「孤独」だって言う人も居れば、「そうじゃない」って言う人もいる。結局その人が決めるんだ。その人のいる環境で…。でも私は「孤独」だと思う。人間は「孤独」な生き物。 「孤独」だけど一度の人生、一人じゃ生きられなくて、誰かを必要としてるんだ。そして新しい自分に生まれ変わる。さみしい風吹き、どこか淋しい夏が終わり…。 (西陵中二年生)
良 原 裕 美
死の方が圧倒的に長いのに眠り貪り起きれずにいる 死という永遠の永い眠りからすれば今の睡眠など物差しで例えるなら一ミリ程でしょうか。未来には永い眠りが待っていると分かっていても、今に精一杯な私達は「まだ眠りたいんだ」と布団から出られずにいる。でも実際はいつ終わるか分からない人生だから、パッと起きて少しでも時間を有意義に過ごし、 今を大切に生きていたいと私は思います。ライオンが象がピエロが群衆の拍手と視線を浴びて去りゆく(小秋思)この一首にはサーカスの背景がありますが、私には楽しげな風景は思い浮かびませんでした。 周りの人々には笑顔と拍手が溢れても当の本人達はそれで幸せなのでしょうか。 少なくとも動物達はそっとは言えないだろうし、 ピエロも道化の化粧の下に何を想っているかなど分かりません。 出番が終われば寂しく何とも切なげだなとこの一首を通して思いました。(西陵中二年生)
奥 田 治 美
湧き出でてくる形象の一つにて少女の背中ゆうぐれてゆく(蛍)
この歌、ただ風景を詠っただけととれば、それまでなのですが、何だかもっと深い意味があるようにも感じました。 自分の幼い少女だったころを今の自分が後ろで見ていて、日が暮れ、その日一日、そして、 その自分の若い頃や人生が終わるのを見ている感じがするのです。地に墜ちて飛べぬ蛍が最期の灯ともしつつわが在り処を示す(蛍)私は本当の蛍をこの目で見たことがないのですが、蛍にはすごくひかれるところがあります。 それは光が灯るのがきれいだからというのではなく、 命を光にして最期までその光を灯すことをやめないのが美しいなと思うからです。この歌のように、飛べない程に力尽きていても、まだ自分の在り処を示そう、生きていることを示そうとして光るのは、きっとそれはきれいに映ると思います。飛ぶ蛍を見るのもよいですが、ときに地面を見て、自分の生きざまを示す蛍を応援するのもいいんじゃないかと思いました。
畠 山 梨 沙
信長も武蔵も今では犯罪者なのにと歴史の不可解がある(蝉束間) 私は今、『社会』で歴史を勉強しているけど、今思えば信長も秀吉もみんな犯罪者なのだ。 自己中心の世の中を築くためだとか、 自己中心的な理由で多くの人が犠牲になったり、差別されてきた。今だったら立派な犯罪だと思う。 それにもし今でもそういうことが続いていたら…?そう考えるだけでとても恐い。でも、きっと私も自分勝手な考えで人に迷惑をかけたと思う。この歌を読んで改めてそのことを考えさせられる。(西陵中二年生)
大 橋 愛 裕 美
夏の風涼しくしみる夜は流氷がどこかで生まれゆくらし(蝉束間) この歌を読んだとき私は日本が夏の時、どこか寒い所で新しい流氷ができていく様子を思い浮かべました。日本が夏でも、違う国や土地では、夏ではなくて、冬や秋だったりする。 そんな当たり前のようなことを、この歌を読んで改めて知りました。 この歌は、四季を日本だけでなく、 地球規模で考えることのできる歌だと思います。(西陵中一年生)
安 孫 子 は づ き
この世から突然我がいなくなる単純来るかもしれぬではなく(蝉束間) 人間は、いつ死んでもおかしくない人生を生きている… 先生から人間の死の話を聞いて、この歌が思い浮かんだ。人はなぜ死ぬの?人はなぜ生まれたの?こんな言葉が頭を渦巻いている。 そして今も…人はいずれ死ぬ運命にあり、たった一つの人生で死ぬのが早いか遅いか、というだけである。そういうふうに自然に死ぬのが普通なのに…人が人を殺している…一体なぜ?その人がそんなに憎いの?でも、後悔しても死んだ人は戻ってこない。私は人の死について理解できない。多数決だから従う納得を決してしている訳ではないぞ私が小学生のとき、この歌と全く同じ経験をしたことがある。その時は、いやだな〜とか、やりたくない〜と思っていた。けど、今になって思うと、それは仕方なかったと思っている。小学校に通っていた頃の私と、今中学校に通っている私の気持ちが違うのはなぜなんでしょうか。 (西陵中一年生)
森 瑞 穂
信長も武蔵も今では犯罪者なのにと歴史の不可解がある(蝉束間) 今回もいい歌がたくさんあったが、 私が歌を選ぶ基準は「共感」である。この歌もその一つだった。 この歌を見て、本当は何が正しい事なのか分からないな、と思った。亡くなった人がどうなるかも分からないのに「かわいそう」とか悪い事として考えられていること。 なのにそれが歴史上では一部称えられるかのように言われていて、しかもそれを「かっこいい」なんて言う者もいる。それは殺人へのあこがれなのか。それは、どこかで溜まった欲求不満。 ストレスの表れなのなか。信長や武蔵もそうだったというのか…。そしてこれから私達はどうすべきか。どちらが正しいか。もしくは他に答えがあるのか。そもそも放っておくのが一番いいと思う。命を奪う権利は誰にもないと私は思っているけど、正しいとは限らない。もしかしたら元から答えなどなく、 見つけようとしているのは無駄なことなのかも知れない。 (西陵中一年生)
吉 田 駿
それぞれに敵も味方も正しくて神の名をもて争いをする(明日香) 最近、神の名を出した争いがすごく多い。しかし、ぼくは、本当に、神のためだけに戦争しているんではないと思う。ぼくは、結局神のためではなく、 心の奥底にある正義、主張すなわち、自己の欲望のために戦争をしているんだと思う。自分のつらさや悲しさのために神の名を借りて終わりのない戦争を続ける人間という生物のむなしさを感じさせられる一首だった。(西陵中一年生)
石 川 香 織
薄緑色に蛍がゆらゆらと闇切り裂きつつ揺れて飛びゆく(蛍) 私は薄緑色に光る蛍が好きです。 万博公園の日本庭園での蛍観賞会に行った時の事を思い出します。 小川の水のさらさら流れる水の音とともに、あっち、こっちへと、ぽっぽっ、ゆらゆら暗闇に飛んでいる蛍。 なんて不思議な虫なんだろう。『ほたる』の歌を口づさみながら、時間を忘れて光を追っていました。 (西陵中一年生)
松 山 晴 香
さまざまな形にペンを持つ指の動いて試験たけなわとなる(蝉束間) 思い思いの姿勢で鉛筆を握り試験問題を解いている生徒たち。教室はとても静かで、 鉛筆の音だけが聞こえてくる。 みんなが一生懸命になっている感じがわかる。 「たけなわ」は試験前の緊張感や、 やや終わり近くのだらっとした感じとは違うことを言っているのだと思う。(西陵中一年生)

雑記◆三十五号蝉束間から秋一杯の月日が経ってしまった。現実の生活では確かに余裕のない状態だが、心は正に徒然なるままに揺れ動くばかりだった。◆八月下旬には修学旅行下見で初めての沖縄へ。糸数壕(アブチラガマ)やガラビ壕や普天間基地に隣接した佐喜眞美術館など戦争の傷痕の生々しさを感じた。 網走のジャッカドフニで北方少数民族ウィルターのゲンダーヌに会った時の感慨に似たものがあった。 力に力で対抗する人間の歴史の形に寂しさを感じるばかり。 ◆寺尾勇先生が十月に亡くなった。毒舌ということであったが、それは権力側へのことで、僕らには優しいばかりだった。 昨年の一月に神戸御影のお宅にお伺いし先生の優しさに触れたことが懐かしい。 その後の原稿や電話での優しさに触れ、 また絶筆であろうお手紙を九月に頂いた矢先での訃報であった。 九月廿三日に明日香を訪れたのも今となっては思い出深いこととなった。七月に亡くなった高野斗志美さんの語った(20号漂泡記)「なにものかに対する拒否」 「ひとつの決意みたいなもの」「過剰さを切り落とした表現」をどこまでも追求していく『表現者』としてしかご恩に報いることは出来ないのだろう。 もちろん高野さんや光世さんを通して三浦綾子の世界も大きな課題の一つなのだろう。 寺尾先生が耳元で優しく語りかけてくれる気がするのは何かのエネルギーも頂いたのだろう。 ◆部数も少なく読者全員には配布できなかったが、西陵中学校選択授業「同人誌を作ろう」で、『蜃気楼』という流氷記と同じ82頁の同人誌を十月に刊行した。 幸い優れた作品が沢山集まり僕は指導らしいことを一切しなかったが、大人たちでは決して出来ない作品群になった。これもこの36号が遅れる原因の一つとなったが楽しかった。◆ノーベル賞小柴教授のニュートリノの話は興深い。酸素や水素の原子よりももっともっと微細なものが地球をもすり抜けて行く。存在の源の追求はそのまま詩の微妙な揺れを意味する。今生きていることや存在そのものに対する目に見えぬ思いが時折詩の形、僕にとっては短歌という形に少しだけ留まってくれるのかもしれない…と。