三 浦 光 世
悪しざまに生徒を笑う教師あり自分が言われているように聞く(秋徒然)下句に思い出させられることがある。かつて職場の同僚が「彼はみんなの前に平気で顔を上げられるような人ではない。」と評した時、正に自分が言われているような気がした。 お互い、他を批評できる資格はないのだが、人は皆自分を正しいとする。 三十年ぶりの家には柘榴一つかつての処にぶら下がって見ゆ かれこれ二十数年前、私は自分の生家を五十年ぶりに見る機会を逸した。東京は目黒不動界隈に、兄につれられて行く途中、痔がわるくなり行けなくなった。 妻が見てきて「庭に柿の木があったわよ」と知らせてくれた。右二首、深い共感を覚えた。(『三浦綾子作品撰集』)
加 藤 多 一
北海道沖縄付けてふらふらと得たいの知れぬ日本が行く(秋徒然) 次兄をオキナワで戦死させられている私に、 直截に響いてきた歌。 玉砕という美名の絶望戦闘では、明らかに地域差があり、沖縄戦死の日本兵のナント六分の一が北海道出身。 さて、 コトバが恐ろしい運命を持つ(玉砕や聖戦のように)ならば、 川添英一も加藤多一も言葉を商売にも生きる証明にもしている輩は、 よくよく反省が必要ですね。「平和」ではなく「反戦」という表現を使う。すると見えてくるものがある。 「文学」ではなく「表現」とすると自らの骨を洗いたくなるのです。 (児童文学者。オホーツク文学館館長)
近 藤 英 男
ミシミシと響きどよめく果てしなき流氷原に我ひとりいる(秋徒然)
寺尾先生が「吾輩はモリアオガエルである」と古代大和の青の世界を残して幽界に昇られた。 あなたにとって流氷原の網走海岸町は、永遠の思い出の原点。私は六十五年前初めて教師として参じた北朝鮮平壌(ピョンヤン)大同江の冬のスケートが忘れられません。五月には韓国や日本に住んでいるもう八十五歳を越された方々と共に板門店まで足をのばし、懐かしい万寿台や大同江を偲んで参りました。W村サッカーも一九九五年、ソウルの国際学会で、私が韓日共済を叫んで大拍手をいただき、偶然実現して夢見る思い。若いころの〈波動〉は無限と心打たれるのみ。流氷記続けて下さい。
(詩人。体育学。奈良教育大学名誉教授)
林  禧 男
突き詰めて思えば生も死も全てあっという間の過去となりゆく(秋徒然)生あるものすべては滅す、といふ。なればこの宇宙なる空間の滅することはあるのだらうか。また、宇宙は無限なるものか。「クラインの壷」によれば、あるひは有限かもしれぬ。 無限なれば恐ろしく、 有限なればその向かふは如何とならう。 囲碁といふ小遊戯に「劫」といふきまりがある。未来永劫の劫にほかならず、長い年月を表はす。一丈(約三メエトル)四方の大理石がある。 百年に一度、天女が舞ひ降りてきて、裳裾でその石を払ふ。それによつて石が摩滅してしまふ歳月を一劫といふ。そのことを思へば、人の世のなんと短かきことか。かくて盃を傾けつつ、大木惇夫の詩を口ずさむ。『言ふなかれ、君よ、わかれを、世の常を、また生き死にを…』 いま、この世にある者、おしなべて戦友にほかならない。 (放送作家)
リカルド・オサム・ウエキ
さまざまな生き物の死が波打ちに洗われながらつぶやきて引く(秋徒然)私も何度か沖縄に足を運んで、戦争の残酷さを耳にし、戦跡を眼にし、恨みを積み重ねましたが、サンゴが白骨化してゆくさまが、その象徴なのだ、と確認することができました。ですからでしょう「つぶやきて引く」というところを読んで、 ぞくっと寒気が背筋を這い上がるのを感じました。砕ける波のつぶやきは、まさに死んでゆくサンゴのつぶやきであり、 沖縄で死んだ人たちのつぶやきなのだ、と。 この恨みを忘れてはならない。永遠につぶやきつづけなければ。わめくよりも、いっそう心に訴える凄さが「つぶやき」にあるのだと思います。 (作 家。『白い炎』『アマゾン挽歌』『花の碑』)
林   哲 夫
突き詰めて思えば生も死も全てあっという間の過去となりゆく(秋徒然)「あっという間」はどれぐらい?距離に直して考えてみる。「束の間」は束(指四本)だから八センチ前後。中国では「隙駒」というが、この隙間は何センチだろうか。インドの「刹那」は一指弾に六十五、指弾を五センチとすれば約〇・七七ミリ。一秒はセシウム133の原子周期の九一、九二六三、一七七〇倍。う〜ん、見当もつかないが、かつては地球自転の八六四〇〇分の一だったから、 それなら約四五〇メートルだ。 「フエトム秒」という超短時間単位もある。 光がたった千分の数ミリしか進めない。アッという間に紙数が尽きた。 (画家。 『喫茶店の時代』)
川 口   玄
赤とんぼワレモコウより飛び立ちてふわりとワレモコウへと戻る(秋徒然)赤とんぼ、ワレモコウ、と二つの名詞だけで秋を感ずるのですが、田舎育ちの私にはこよなく懐かしい心象風景でもあり、記憶でもあります。私の好きな渡辺祥羊の俳句に「富士暮るる静けさ吾亦紅咲いて」があり、おもわずこの句を思い出しました。 佛語に軽安(キョウアン)という言葉がありますが、 まさに軽安の世界ではないでしょうか。 (『大阪春秋』編集長)
佐 藤   昌 明
金木犀小さな花の溢れいて夜は満天の星となりゆく(秋徒然)「小さな花が溢れ…」「満天の星に…」この歌にぶつかった瞬間、目の中にその情景がピカピカッと飛び込んで来たように思えた。 人生や社会を斜め横から巧みにとらえて詠い上げる川添さんの歌には何時も感心させられるのだが、このような何げない観察を、優れた感性で、しかも何げなくファンタジー化した歌も私は大好きだ。頭を空白にしたまま、ただ素直に読めばよいからかも知れない。この歌には、 我々老人族?が失いかけている夢があり余るほど溢れているように思う。 「夢を失った時こそ人間は本当に老いる」のだから…気をつけなきゃ… (作家。「オホーツク秘話」)
井 上   芳 枝
金木犀小さな花の溢れいて夜は満天の星となりゆく(秋徒然) ダイダイ色の蕾がぎっしりと群がり、 今にもはちきれそうな金木犀の花を「溢れいて」と表現された、三句の見事さ。 さらに、下の句の「夜は満天の星となりゆく」と飛躍、 表現力のうまさに心ひかれます。さわやかな秋空のもと、 馥郁とした豪華な芳香(金木犀が最も香りが強い由)をふりまく金木犀が大好きです。静岡県の三嶋大社の金木犀は、日本で最古最大で、「遣唐使の頃、中国の桂林あたりから持ち帰ったかもしれない」の話を思い出し、興味を引かれます。
(北九州市立大蔵中学校時代恩師)
釜  田    勝
逃げ惑い殺されてゆく人々の沖縄今も戦闘機発つ(秋徒然) 先の大戦後、 記憶に残るだけでも朝鮮戦争、ベトナム戦争、数次にわたる中東戦争、それに湾岸戦争が勃発し、 地域紛争、内乱にいたっては枚挙に暇がないほど、 現在も地球上の何処かで休むことなく続いています。日本が位置する東アジアにおいても、遅々として統一が進まない朝鮮半島事情、中国と台湾の対立等、常に逼迫した情勢下にあるのです。今、我が国は平和な経済大国との普遍的認識に支配され、国民の大半は安閑とした生活を享受し、やがては襲ってくるやもしれぬ危機感のかけらすら持ちません。 しっかりと地に足を踏まえて事に向き合い、 二度とあの悲惨な過ちは繰り返してはならないのです。 「沖縄今も戦闘機発つ」下句の印象があまりにも強烈で、数ある沖縄を題材にした歌の中から、この一首を選びました。 (元『競馬キンキ』編集長)
小 川  輝 道
壕(ガマ)に積む人間の骨思わせて珊瑚の遺骸かなしかりけり(秋徒然) 無数の悲劇に遭遇した沖縄を旅し地下の壕を訪ねた作者は、 厚く堆積された珊瑚の死骸と重ねながら、 逃げ惑い焦熱の下に骨となった数多くの犠牲者の深い悲しみを詠んだ作品である。 沖縄戦で死に絶えていった人々を前に、 短い詩型に飾らず凝縮した表現で届けてくれたと思った。 二首目「黒焦げの人人人」、三首目「真っ黒なガマに無念の死」、四首目「逃げまどい殺されてゆく人々」とある。この悲しみを直視せずに大義をかざして忘れようとしたり、触れまいとする歴史の風化にあって、 作者の深い心情を感じることができた。 (網走二中元教諭。北見在。)
弦 巻 宏 史
地に墜ちて飛べぬ蛍が最期の灯ともしつつわが在り処を示す(蛍)先刻まで「闇を切り裂き」飛び交っていた蛍が命尽きつつ、なお己れの存在の最期を明示する姿に、命の強さ、いとおしさ、また儚さ、悲しさ、そして人間の存在の有り様も暗示…。今回の34号蛍は「舌」などにこだわり己れの生を凝視するさまを見せて頂きました。共感できるものも多々ありながらも、 時にはその感性や視点に戸惑うものもありました。脳の血管がぷつぷつ切れてゆくらしい言葉の空白続くは、まさに私自身のことである。 (網走二中元教諭)
井 上 冨 美 子
逃げ惑い殺されてゆく人々の沖縄今も戦闘機発つ(秋徒然)
つかの間の平和なれども沖縄の悲劇を風化させずにいよう(同)
太平洋戦争の末期、激しい地上戦の舞台となった沖縄。日本本土から切り離されてアメリカ軍の支配下に。 東西冷戦が激化する中でアメリカ軍のアジア戦略上、沖縄は重要な位置を占め、米軍基地は拡充、強化されました。佐藤政権時代(昭和四十七年五月十五日)沖縄は悲願の本土復帰を果たしましたが、 その後も基地問題は解決していません。 この歌を拝読した時、時の過ぎるのも忘れて、沖縄の史実を思い出しました。ジーンズを履けばジェームスディーンわが重なりて照れ笑いなどして いい意味で心をひきつけられる歌でした。 (網走二中元教諭。網走在)
柴 橋 菜 摘
卒業式ビデオカメラの群れ見えて人の残せしもののいつまで(未生翼) 幸せの瞬間(とき)を凍結して置きたい心情は理解できる。しかし、悲しみの極みに遭遇した時、果たして過ぎし日の楽しいビデオを見る事が出来るだろうか?記録としての映像が、時に哀しく重いものになることを誰も露だに予想しない。Vサインの遺影にも辛いものがあるが、ビデオは動くが故に生々し過ぎる。幼い子供達の哀しい事件に思いが重なる。卒業式に我が子のビデオを撮っている人は幸せの時とともにいる。しかし明日の保障はない。その映像が残るという保障も…。胸の底にずしんと落ちた一首である。
川 田 一 路
焼香の順に並べど明らかな死の順番が何処にかある(秋徒然) 逼塞したる政治社会情勢に加え修学旅行の下見で沖縄の現実の姿に接しられたせいもあってか今月の作品群にはペシミスティックな心情が色濃く現れているように見受けられる。 それらの中でどれを選ぼうかと迷いながら読み進んでいくうちに出会ったのがこの一首。我々はいつか死ぬ。それは分かっていても歳の順だから自分はまだまだ大丈夫と自分で自分を納得させている。 しかし現実はさにあらず。のんびり過ごしているだけなのだ。何故このようなペシミスティックな心情に同調するのか。 これも時代のせいなのであろうか。 (『山繭』同人。)
里 見 純 世
スタンドが畳の海を灯台のように照らしている眠る間に(秋徒然) 日常生活の一コマの中からさりげなくすくい取って詠んだ此の一首に先ず心を惹かれました。 先生の目のするどさに敬意を表したいと思います。電気スタンドに焦点を当てて、静まり返った夜の更けの光景が浮かび、読者に迫ってきます。スタンドの灯りに対して、畳の海、更に灯台のように照らしているという表現は、 言われてみれば何でもないようですが、 なかなか此のようには表現できないものです。 表紙に写っている二ツ岩とその全面に漂う流氷の写真に先生の深い思い入れを感じ、 手に取って眺めているところです。ご健詠を祈って止みません。(『潮音』『新墾』同人。網走歌人会元会長)
葛 西   操
神様が助けてくれたとしか言えぬ過去の折々折々があり(秋徒然) 私は奇しくも八月十五日生まれ。 そうして引き揚げした日も八月十五日の深夜。 今夜この船に乗る者は東北に親戚のある者だけという触れでした。奇しくも福島県が亡き父の生まれし所、これが神様のお導きと信じております。 色々と苦難の道を乗り越えて今日までまもなく九十山歳迎えんとしております。 常に自分のこれからの道を考えて子供たちに迷惑をかけぬように日々神様にお祈りをしております。生ある者は必ず終わりはあるものですが、私自身だけの老いです。 ある程度正しい行をしておれば自然に正しい方向に向いて行くと信じております。 これは私だけの老いで人様に強制するものではありません。 (『原始林』同人。網走歌人会)
古 賀 泰 子
三十年ぶりの家には柘榴一つかつての処にぶら下がって見ゆ(秋徒然) わが庭には樹齢何十年の柘榴の古木がある。何とか毎年、剪定だけはするので、たくさんの紅の実をつけてくれる。 十月二十三日、知り合いの人に頼んで実を採ってもらった。その後、気がつくと採り忘れた紅い実が一つぶら下がっていた。川添氏が、近くの用事を終え、わが家に寄ってくれたのはそんな時だった。 彼は目ざとく、この一つの柘榴を見つけ、しきりになつかしがっていた。 帰宅後、すぐにこの一首を書いた葉書が届いた。 「三十年ぶり」が利いているし、「かつての処に」も巧い。私は彼の気取らないこの作品が好きである。 (『塔』編集委員。)
田 中   栄
悪しざまに生徒を笑う教師あり自分が言われているように聞く(秋徒然)職員室の風景であろう。 悪意をもって生徒を嘲笑する教師がいるのであろう。この場合の「笑う」は「嗤う」という意味に受け取っていいのかと思う。善意の心を持った作者は、同じ教師でありながら嗤われている生徒のこころになって聞いている。 淡々と歌われているが、作者の性格が見えてくる。素直な一首。 (『塔』編集)
前 田 道 夫
人間が粗末に捨てた食べ物にゴキブリ寄れば撃ち殺すのみ(秋徒然)
ゴキブリを見つければ誰でも蠅叩きか丸めた新聞紙等で叩き殺してしまうであろう。 生きものに対する憐憫の情など持つこともなく、むしろ清々とした気分になれるものである。人を殺す場面であっても、 何の感情を持つこともなく平然としていられる人間もあるようである。 先日の新聞に、殺人を犯した男の言葉「誰でもよかった。一度人を殺してみたかった。」という記事があった。訳もなく人を殺すことが出来る人間のいることを思うと、 恐ろしい世の中になったものである。 (『塔』同人)
榎 本 久 一
我が居らぬ間にも夕べは過ぎゆきて鈴虫響きわたるこの部屋(秋徒然) 自分の部屋に立ち帰ってみると鈴虫がすだいている、 ただそれだけのことを言っているのに、 妙に心に沁みた寂しさが伝わってくる。鈴虫に吾が場所を占領されてしまって、全く無視されているのだ。「夕べは過ぎゆきて」と何かたどたどしく言っている処と、鳴きわたるのを「響きわたる」と無機質のように扱っているのが良いと思った。はるかな時間を感じた一首。 (『塔』同人)
東 口   誠
コンセント離れたコード転がりて部屋障子越しの朝の日を浴ぶ(秋徒然) 見慣れた情景をうまくまとめて、一種の味わいを醸し出している。ホッとするような歌だと思う。 ほんとに、私たちの家の部屋にはコードが右へ左へ延びている。 テレビ、ラジオ、コンピューター、 その他もろもろのコードを別段邪魔だとも感じないで生活している。コンセントから抜いたコードが、まるで自らの意志でコンセントを離れて転がっているように捉えたところに特色がある。
コードを「転がりて」といえるかどうか疑問は残るが。 第四句は少し窮屈な感じがする。「部屋障子」というものがあるのだろうか。あるいは「部屋は」の意なのか。 (『塔』同人)
鬼 頭 昭 二
夕立の去りし空白数人が取り残されて目を合わせおり(秋徒然)
夕立のために足留めを食っていた人たち。 雨が止んで透明感のある中に、 この世から置いてけぼりにされたかのような者同士に通い合うちょっとした連帯のような意識。「空白」を言わずにその雰囲気が伝えられたらよいと思う。 (『五〇番地』同人)
遠 藤 正 雄
幾つかのボスとその取り巻きがいて猿山みたい職員室も(秋徒然) 人間社会にいる或る連中たちを、猿山にたとえた社会詠だ。 「ボス」と「その取り巻き」はいつの世にも存在して居て 「職員室」に及んでは、『坊ちゃん』を思い出させる。掲歌と編集雑記を合わせ読む時、成程なるほど、そうかと思う。歌人、川添英一の作歌精神に拍手を送ると共に、更に揺るがぬ活躍を望むものである。 たちまちの一生(よ)か花火広がりて視野いっぱいになれば消えいる一瞬の華麗さの中に哀感のこもっている一首である。人の世も、気が付けば老いており、束の間に灰となってしまうのである。(『原型』同人)
塩 谷 い さ む
起きている時にも寝ていることがある目交いをただ絵のように見て(秋徒然)春の日は眠い。特に午後の授業は自然に上下の瞼が接近しやすい。 目の前に虹のようなものがかかってまるで桃源郷をさ迷っている。 この歌を読みながら読者もまた美しい絵の中に誘われてゆく。 国会でよく居眠りをしている選良と言われる人を見かけることがあるが、 彼たちは一体何んなことを夢見ているのだろうか?と思う時がある。
大漁の感覚もて戦争をする人が人狩る歴史が続く
人間の巣が広がりて地上には蟷螂のごときクレーンが見ゆ
どうにでも言える論理の応酬に少し厚かましい方が勝つ

他にも好きな歌があった。が、紙数不足。 (『塔』同人)
工 藤 直 次 郎
黒焦げの人人人を埋めに行く戦争末期の沖縄かなし(秋徒然) この歌を拝見致し、 ふと遠き日の東京大震災の写真を思い出しました。広場には幾列もの黒焦げ死体が並べられ、その凄惨さに眼を背けたほどでした。 沖縄が斯様なありさまとは全く知りませんでした。 その頃私は中支の長沙に於いて真夏日の陽射しを浴びながら―ひたすら戦勝を夢見て―塹壕を掘って居りました。戦争は言うまでもなく人と人との殺し合いです。 いかなる事があろうとも起こしてはならず、起こさせてもならぬと思います。(北摂短歌会)
大 橋 国
ゾウリムシ二つに裂けて若くなるそんな素敵な生き方もある(秋徒然) 本当に、細胞の全てを入れ替えて、少し前の人生からやり直したいものです。そしてもう一つうらやましいのは、単細胞生物だという事。 この歌の発想そのものがとても新鮮でそれこそ素敵だと思います。川のごと刻々変わる風に揺れセイタカアワダチソウを見ている(同)嫌われ者の外来植物泡立草、その傘踊りをしているようなひょうひょうたる姿は方向を変えて吹くような風が似合っているようです。そして晩秋の荒れ地に立って、心を空白にしてその景色を見ている作者の姿が単彩の絵のように浮かんできます。 なぜか心を引かれる一首です。 (北摂短歌会)
山 本   勉
人間の淘汰のための戦争と地雷野染めて夕日が沈む(秋徒然) この一首を読んで、やはりそういう考え方もできるのだと思った。ネズミが集団自殺することが書いてあった本を読んだことがある。繁殖し過ぎると、本能的に淘汰してゆくのだそうだ。この意味に通じ合うのではないかと思ったことがある。黒焦げの人人人を埋めに行く戦争末期の沖縄かなし 今回の『秋徒然』には生と死(殺)そして沖縄の悲惨を歌ったものが目立った。 私も沖縄でガマの跡などを見て涙が止まらなかったのを覚えている。(作曲家。北摂短歌会)
大 戸 啓 江
ろくな死に方をしないも流れゆく時の落ち葉の一つに過ぎぬ(ぬば玉) 流れゆく時の「落ち葉」ほどの存在があるのだと思えば生きるのもまた楽しく感じますね。又、皆と同じ流れる時を感じられるのもうれしいです。 「ろくな死に方」とはどのようなものかは分かりませんが「落ち葉」の一つであるのなら死もまた待ち遠しいですね。(なかなか死なないもんですが) 落ち葉自身が満足であれば何も空しいものはありません。 落ち葉にさせて頂けるまで生かされながら自分の「仕事」を続けます。(舞鶴市立中学教諭。高槻七中教諭時代生徒)

小 西 玲 子
わが事のように一つの雲が今目前の窓流れ過ぎたり(蝉束間) 私はこの歌を読んで自分自身を振り返ってしまいました。 ここ最近の私は、この雲のようにただ流されているだけではないだろうか。成り行きに任せて毎日を過ごしていると、ふとした時に、本当に悲しくて不安になってきます。 私は意味のある毎日を過ごしたいです。今出来ること、今の自分を大切にしていきたいのです。 毎日訪れる一日の中で、私は毎日何か違うものを見つけたいのです。もっともっと何か出来る気がします。明日の自分を楽しみに生きていきたいです。 箱の中の過去を再生して見れば画面の内に外にわが居る(蝉束間) とても不思議な感じがしました。 だけど私の心の中の箱を見てみると色々な思い出たちが詰まっております。その中の私は、楽しそうだったり悲しそうだったり色んな私がいます。 そしてそれをのぞいている今の私がいます。 私はそんな思い出たちを支えにしています。誇りにしています。私の中の思い出がたくさんになるといいなあ。私はどれも大切です。 (西陵中卒業生)
高田暢子
神様が助けてくれたとしか言えぬ過去の折々折々があり(秋徒然)もうこの歌は私のために作られたのかと思うほど、今の私そのものです。過去から今まで、特に現在、最近になってしみじみ神様に感謝するぐらい人の出会いに助けられ、誰一人欠けても今の自分はなかったかもしれないし、もしかしたら生きていなかったかもしれない、そう思う。そう考えるだけで今、私を支えてくれている周りの人みんなに「ありがとう」って本当に心から言いたい。もちろんこの歌と出会ったのもまた不思議ですごいことなんだと思う。人は絶対に一人では生きていけない。何気なく、当たり前のように自分の側にいてくれる人をずっと大切に思いたいと思った。
藤川 彩
枯れ色の金に輝くブナの森迷うともなく深々と入る(小秋思)普通、枯れ色と聞けば、茶やセピアなどの色を思い浮かべるだろう。しかし、この一首の枯れた木の葉は金色に輝いている。あとは落ちてしまうだけの枯れた葉が、自分はまだここに居るとばかりに輝いているようだ。枯れた木の森なんて、淋しくなるか不安になるだけのイメージしかなかったのに、この一首によって一変した。(この中の《迷う》が道に迷うことなのか、入るのをためらう迷いなのか定かではないが)深々と入っていくところからもこの森がとても素敵な場所なのだと判る。私も一度、行ってみたいものだ。
中 恵理香
何も考えぬ時間を雲渡る窓の不思議な場面見ている(秋徒然)ぼんやりと窓から空に浮かぶ雲を見ていることが、私にも時々ある。その時私は窓から見える景色が一枚の絵のように見える。しかし、時間が経つにつれて、その絵は変わっていく、同じ場面など決してない、そんな不思議な絵が私は大好きだ。
白田理人
金木犀小さな花の溢れいて夜は満天の星となりゆく(秋徒然)この歌から、先日ふたご座流星群を見たときのことを思い出しました。星空に目を凝らしながら、何百、何千光年も遠くから来た光を見ているのだと思うと、とても不思議な気がしました。頭では分かっていても、感覚として捉えられるような距離ではありません。また、昔の人々がいろいろな天体の現象を不吉なものとして恐れたのも分かる気がしました。しかし今の僕たちにとって、ただ「不思議だ」「きれいだ」などと言えるだけです。特に流星だったからでしょうか、一つ見る度に、何かそれだけで幸運というような気がしました。金木犀の花にも似たところが少しあるのかも知れません。この歌では、金木犀の花と星とが対比され、重ね合わされていて面白いと思いました。この歌のように満天の星の見えるところへ一度行ってみたいと思います。
小樋山雅子
どのような縁でこの世に生まれくる目交い全て映画のごとし(秋徒然)私は映画が好きだ。二、三時間の間にはさまざまな人が生きていて、みんなそれぞれのドラマがあっておもしろいから。でも、私はこの世界に生きている人はみんなそれぞれのドラマがある。ただ道ですれ違う人にもその人だけのドラマがある。映画だって、登場人物の長いドラマの一部を切り取って映画にしているのだと思う。私には私の、先生には先生の、友達には友達のドラマがあって、それは誰にも汚されないその人のもの。人生は映画みたいだと思う。長い長い映画。私も先生も友達も、みんなが主役の映画だ。
岡本英璃乃
ふわりふわ無数の蛍明滅し小さな闇の川照らしゆく(蛍)一匹一匹はわずかな光でも、みんなが集まると大きな光になります。これは人間にも言えることだと思いました。一人の力では及ばないものでも、みんなが集まるとどんなものでも乗り越えていくことができるようになります。今、私は受験という大きな壁にぶち当たっています。これは今まで仲良くしていた人とも戦うことになる大きな大きな壁です。この壁を、人を蹴り落として上がるのではなく、助け合って上がれたらいいなと思っています。
隅田未緒
負けるとはわかっていても言っておく自分の思いだけは残して(秋徒然)人生の中で後悔することが一番良くないと思います。:結果が悪いと最初から分かっていても、あきらめてしまうと前進はできません。自分の出来る限りの力を出せば少しでも前進できるはずです。漸進が出来たら後悔しないと思います。私は後悔して生きたくはありません。だからこれから 後悔しないためにも何事もあきらめず、頑張っていこうと思います。
衛藤麻里子
夜なのに青く広がる空見えて我の歩みは果てしなくなる(秋徒然)最近の空は晴れていることが多い。獅子座流星群が近づくというので観察しようと思い、空を見上げた。満天の星ではなかったがいつまでも見続けられそうな空だった。そして私は、初めてオリオン座を発見した。それから二、三日の間、寝る前に空を見た。赤い星や緑の星。そして、一番はっきりと輝いている北極星。見ていれば見ているほど時が経つのを忘れてしまう。そして私は、明日も晴れて、星が見られるといいなと思いながら布団に入る。
田坂 心
他生物虐殺して生き抜いているニンゲン我らも平和を望む(秋徒然)人間は、いろんな生き物を殺してきました。食べるために牛や豚や羊などを殺して、また「気持ち悪い」それだけで虫を殺してきたりしました。戦争ではそんな虫たちと同じように人々は死んでゆくのです。私たちは心から平和を願っています。でも今のままでは、一生平和は来ないと思います。人間も自然の生態系に沿って生きていったほうがいいと思います。そうでないと人間は一生同じことを繰り返すだけだと思うからです。
磯部友香梨
金木犀匂えよつまらぬことばかり思う心を初期化してゆけ(秋徒然)金木犀の香りは、意図せず鼻をくすぐった時、一瞬だけど、心の中の汚い所を洗い流してくれる、とても爽やかな香りだと思います。でも良い香りだからといって、ずっと香ってくると、その甘さや爽やかさが逆に嫌味にもなってきて、また汚い所が湧き出てくるような気もする、不思議な香りでもあります。それでもまた次の日に通れば、嫌な事を一瞬洗い流してくれるし、風のいたずらで香ってこないかとがっかりもする‥‥。そんな得体の知れない香りを持つからこそ、金木犀は昔から人々に愛されているのだと思いました。人は、生まれたての赤ちゃんの時が一番純粋です。金木犀の香りは、初期化というよりも、その時のように純粋に「良い香りだ」と思わせてくれる。そういう魔法の香りなのだと思います。
森 晶子
この世から突然我がいなくなる単純来るかもしれぬではなく(蝉束間)私はこの歌でまず、自分の祖父のことを考えました。私が小さい頃はまだ元気で農作業をやってたのに、二年ぐらい前から一人で歩けなくなってしまったじいちゃん。夜の暗い病室のベッドで、どんな事を思って寝るのだろうと考えるとつらくなります。 次の世の入り口なんだろう月が朗らかに照りすぐそこに見ゆ という私と共に深くそう感じました。この日本でもいつ何が起こるか分からない今、今まで感じたことのなかった恐怖感がわいてきました。
木村円香
紀元千年以前の歴史曖昧な島の平和な日常ありき(秋徒然)一学期の社会の授業で、紀元前など、すごく古い歴史を学びました。そこで私が思ったのは、「今よりこういう時代の方が平和やったんちゃう?」ということです。あの頃なら戦争も受験もなかっただろうし、電車にはねられたり、ビルの屋上から飛び降りたりもなかったと思います。複雑な社会の仕組みがなければ、複雑な事故や事件も起こらないんだろうなぁ‥‥。文明化されすぎた今の社会はすごく複雑で生きにくくて、いっそのこと電化製品も何もなくなればいいのに!と思う時があります。原始時代ぐらい何もなければ‥‥って。原始時代が平和だったかどうかなんて本当は誰にもわからないんだろうけれど、イライラしたりムカついた時はたまにそんな事考えてしまいます。
良 原 裕 美
生き物の人こそ不思議奇妙にて地球に引っ掻き傷のみ作る(水の器)まさにその通りだなと思いました。 植物や動物たちは地球を豊かにし、大いなる自然と共に生きていきますが、人間は自然を壊し汚し、傷つけていく。人間だけが…。 もし神様がいるならば何故人間を創造したのか聞いてみたいところです。 後で後悔させるためかそれとも何の何たるかか…。人間は地球にとって必要な存在なのでしょうか。大きな疑問を考えさせられました。
水 口 智 香 子
鳳仙花弾ける夏に迷い入り少年となるつかの間がある(蝉束間)
このような瞬間が現在を生きる大人達にあるのでしょうか。 誰かのため、 などと言い訳をしてビルの間をロボットのように歩く… 正直言うと、これが大人達のイメージでした。しかし、大人達皆にこのような時間が一瞬でも流れるのだとしたら、 薄汚れた社会を変えられると思います。 どんな小さな事でも心が揺れるのなら世界は一歩ずつ踏み出しているんじゃないでしょうか。 生きる地球は人間達が作っていかなくてはなりません。 わが事のように一つの雲が今目前の窓流れ過ぎたり(蝉束間) 人間は努力をする。 目的は人それぞれだろう。しかし、中には目的や夢など持たずに頑張る人がいる。何のためにかも分からず、ただおこなう。それを終え、窓の向こうの雲を見る。 一つだけ寂しそうに流れていく雲はこっちを見て、「僕達、似たものどうし」とつぶやく。そして、時は全てを過去に変える。 思い出したかのように、その人はさっきの続きを試みる。もう雲のことなど覚えてやしない。そうして、時は人間も雲も消してしまうのだろう。 (西陵中二年生)
足 立 美 沙 登
ゴキブリに悲鳴を上げる妻よそれニンゲンよりも大きなものか?(蝉束間) 私もこの歌のようなことは、よく感じます。よく女の子は虫やゴキブリを見て「気持ち悪い」とか「こわい」とかよく言ったりしているけど、 実際、一番怖いのは人間だと思います。平気で虫を殺したり…。そう考えたら人間って勝手なことばっかり言ってると思います。 (西陵中二年生)
大 西 侑 香
中学生揃いて歌えばこんなにもかぐわしき声伝わりてくる(小秋思)私が中学生になって最初の音楽の授業を受けた時、 男子と女子が分かれて、 三つのパート(ソプラノ・アルト・テノール)になった時、何でいちいち分けるんだろう? 小学校の時は皆関係なしに歌ってたのに、 こんなんでちゃんと歌えるんとか少し不安に思ったりしました。けど、実際に歌ってみると凄くきれいにハモっていて感動しました。そして、その感動の中でも私が一番心に残っているのは校内音楽会です。少しバラバラになったりもしたけど、本番を歌ってみると、 クラス全体がまとまっていてキレイにハモっていて涙が出そうなほど感動しました。 中学生ってすごい!と本当に思いました。この二つの出来事がこの一首に合っていました。
(西陵中二年生)
斉藤実希子
不可解な生き物ゆえか人もまた時に滅びを急ぐことあり(秋徒然)人間は他の生物よりも発達した知能や技術を持っていることによって、さまざまなものを創造したりしてきた。しかし結果的に滅びゆく世界を自分達の手でどんどん作り上げている。戦乱や紛争が絶えないことも、それを物語っているように思う。失敗を繰り返してしまう習性も、人間の愚かさの一面なのだろうか。科学の進歩も大切だけど最低限の条理も身に付けなければならないのかもしれません。
古藤 静香
マスゲームなどパソコンがやればいい人あれど人隠れてしまう。(秋徒然)体育大会の三年生のマスゲームは非常にきれいで感動した。それなのになぜ先生はマスゲームを批判するのか。しかし、この前、体操する北朝鮮の子供達をテレビで見た。子供達は一糸乱れぬ動きで全く一緒なのだ。手、足はもちろん表情までも同じ。体操の中で笑う所が決められており、できない場合は泣きながら残って練習するそうだ。こんなことをしているから次第に喜怒哀楽がなくなり、皆人形のような顔でロボットの動きをし、軍隊みたいになってしまうらしい‥‥人間なのに感情を持てなくなるのはとても恐ろしい。こんなのを見てると先生が「パソコンがやればいい」と言うのがわかる。
田川 智之
ゾウリムシ二つに裂けて若くなるそんな素敵な生き方もある(秋徒然)この歌を読んで僕は、ゾウリムシの生き方がうらやましく思えました。なぜなら、二つに分裂することにより、また『生』を取り戻すことができるからです。しかし、この話にはちょっとだけ欠点があることに気付きました。その欠点とは『生』を取り戻すことが出来るということは、同様に『死』が来ないということです。僕はその欠点に気付き、その生き方は素敵だが、永遠には生きたくない、いつかは『死』という形になりたいと思いました。またそう思っている自分はわがままだなとも思いました。
岸 本 愉 香
幽霊になっても逢いに来てほしい娘は天の義父慕うらし(明日香) 私は三年続けて奈良のおばあちゃん、母の方のおばあちゃん、父の方のおじいちゃんを亡くすという、 とても悲しいことがありました。だから、娘さんの気持ちがわかります。ふと、亡くなった人との思い出の物があったとき、 ありありと生きている時のことを思い出します。そんな時、ああ…なぜあの時もっと優しくしてあげられなかったんだろうと、とても悔しくなります。もう一度会いたい、会って言いたいことがある、して上げたいことがある。前に私が入院してしまった時、 ふとおじいちゃんと奈良のおばあちゃんがいて、私を見ているような気がしました。あれは絶対、私を心配して、来てくれたと思います。 幽霊になってでも心配してくれるおばあちゃんとおじいちゃんに感謝! (西陵中一年生)
松 山 晴 香
玄関を開ければ金木犀匂い夜の青空広がりて見ゆ(秋徒然) 玄関を開けて外に出た途端、金木犀の匂いが広がって、まだ暮れたばかりの青さを残した空が広々と見える。 歌の意味はそんなことだと思います。金木犀の匂いに感動しただけでなく、金木犀の色も空の色をバックに輝いて見えたと思います。 「夜の青空」ってどんな青空かなぁと考えました。 わたしは濃い紺色が金木犀には似合うと思いました。 (西陵中一年生)
吉田  駿
見るからに意地悪そうな人が意地悪にて少し気の毒になる(蝉束間)みるからに意地悪そうで、本当にこの上なく意地悪な人に意地悪なことを言われても、腹が立つと言うより、何だかもはやこの人って憐れだなと思う。やっぱりそういう人って意地悪なことを言うたびにいろんな人からそういうふうに思われているのに、自分では気が付いていないんだろうなと思うと、やはり少し気の毒だ。そういう人には誰かが言ってあげるべきなんだろうか。
安孫子はづき
真っ黒なガマに無数の無念の死つまりて点す形象ある身が(秋徒然)小学校の時も中学校の時も毎年、毎年、沖縄の戦争について先生が語ってくれた。小学校三年生の時までは「私に関係ないもの」と思っていたけど、後にそれが関係あることが分かった。沖縄を戦地にして、戦争が始まった。でも、やはり戦争は殺戮の世界であった。沖縄人も巻き込まれて、ガマで焼き殺されたり、本州からやってきた兵隊に、自決しろと言われたり‥‥殺されたり、自決した者達の中に子供もいたという。まだまだ生きられた筈なのに、戦争が未来を奪った、戦争とは何て惨いんだろうか。

◆三六号から長い時間が過ぎてしまった。忙しいから出来ないと言いたい処もあるが過去もっと忙しい時に出来たこともあるので文字通り心を亡くしていたのかもしれない。◆前号では集団の形に殊にこだわり過激な言葉も敢えて使ったが生徒等の受け取りには明らかに戸惑いが感じられた。独裁国家に文学はない。世間に追随して生きていくのでなく文学の心にこだわりたい。◆昨年末には、三浦綾子文学に惹かれて僕と会うたびに言葉を交わしていた保護者が突然に亡くなり、今年一月の連休には伯父が亡くなった。伯父とも電話で数日前には言葉を交わしていただけに人の死の現実の呆気なさに言葉を失った。今回も挽歌ばかりになってしまった。◆週休二日制や総合学習といった学校の煩雑さや生徒指導担任業務などで体も心も従いていけなくなってきている。それに加えて後期選択授業同人誌又その感想集も出さねばならず自分で仕事を増やし勝手に追い詰めていることもあるのでこの困難さから何とか抜け出そうとしているのかもしれない。◆この二月21から23日まで網走。21本田重一さんと女満別から能取岬、北浜、斜里岳海別岳を見て知布泊まで、みゆき旅館泊。22向陽丘から二ツ岩、井上冨美子先生宅後バスで浜小清水へ氷塊に乗り列車で帰り夜は光岡亜衣子先生宅で食事。23夜明け前から帽子岩、赤白灯台の処へ。零下15度を超えていたが氷を掻き分けて進む小船の力強さに見取れていた。その後から忽ち海は凍るのである。本田さんと能取岬北浜女満別へ。これは次号のお楽しみに。

編集後記
もっと早く発行をと言っていたにも関わらず今になってしまった。今はこんな状況なのかもしれない。西陵中十年目になり、一年クラス担任、剣道部また流氷記と消化不良ぎみになっているようである。朝日新聞折々の歌に取り上げられた反響が今も続いているが、連綿と続くものがあり主題があり且つ何か発見のある形でなければならぬ流氷記のことがいつも気にかかる。皆さんの言葉がそれを推進させてくれる。僕だけの流氷記ではない。それでも時は慌ただしく過ぎ、いつの間にかもうアカシアの散ってしまったのを目の当たりにしている。流氷記は僕のライフワーク、あらゆることに貪欲でありたいと思う。