田 辺 聖 子
母亡くしし悲しみ身体に沁みとおり悪意にも心揺れることなし(悲母蝶)お母さまのご逝去、つつしんでお悔み申し上げます。この三十九号は、病哭のお歌がならんでいて、心を搏たれます。右のお歌に、私は共感しました。悲しみは人の心を浄化し、魂を天外に拉して、この世のものならぬものを、かいま見させます。人の世の@り、というべき、悪意や邪智から、心はしぜんに遠ざかってしまいます。悲しみの深さが、お歌によくあらわれています。
(作 家)
藤 本 義 一
苦しみを解き放たれて横たわる母あり微笑のかく美しき(悲母蝶)
酷暑のヨーロッパの旅から帰って、この一首に会い、私も両親の死の直後の心象を思い出しました。いずれ死を迎える者が、死を送る立場となると、誰しもがこういう心情を宿すのだと思いました。この一首を選んだのは、検査入院していた病室で、隣の部屋には、痴呆の進行した八十代の女性がいて、深夜でも昼間でも突如大声を放っていたものです。彼女は《デンキ!デンキ!》と叫んでいました。看護の人に聞いてみると、電動車椅子を要求しているとのことでした。生きている間の欲望もまた、人間の美しさでないかなどと考えたものです。 (作 家)
中 村 桂 子
緊張が緩みはじめて母の死の七日後涙滴りてくる(悲母蝶)
お母様を突然に亡くされてのお気持、どの歌にも素直に表現されており、十五年前の私の体験を思い出しました。暫くの間は、涙も出ないほど悲しかったこと、もういないのだという気持とどこかにいてくれるような気持とが混じり合っていたことなどなど。とてもすてきなお母様でいらしたことがよくわかります。実は私も、母のように生きたいと思い、今もそう思い続けておりますので、私もそうだったと思う歌を選ばせていただきました。 (JT生命誌研究館館長。『あなたのなかのDNA』)
畑 中 圭 一
あえぎつつ子のこと夫のことを言う母を叱りてたまらなくなる(悲母蝶)「悲母蝶」全九六首のうち八七首が母の死を歌っており、その迫力は斎藤茂吉の連作「死にたまふ母」を想起させる。なかんずくこの歌では、死の迫った母の没我的な健気さが「あえぎつつ」という詞でリアルに表現されており、そこに《古き良き日本の母》を見てしまうのである。それを見て「私」は「なぜもっと自分のことを考えないんだ」と「叱り」ながらも、一方で母の限りない優しさに「たまらなくなる」。その内面的な矛盾も深い共感をさそう。 (詩人。児童文学者。『文芸としての童謡』『いきいき日本語きいてェな』『すかたんマーチ』)
島 田 陽 子
苦しみを解き放たれて横たわる母あり微笑のかく美しき(悲母蝶)
死に至る病もさまざまあるでしょうが、せめてその最後は痛みも苦しみもなく、と願うのが人としては普通のこと。母上をうたわれた作品拝読して、その願いは甘いものだとわかります。けれど、母上の苦しみを共に苦しんだ後のこの一首に、作者もほっとし、いや、最も安らいだのは死者その人にちがいないと思えば、真実慰められます。そうであればこそ「庭を這う小さな茶色の毛虫見ゆ健気に動く命というもの」に共感を覚えます。生きているというのは動くこと、どのような生であれやがての日まで健気に動いていきたいと思います。 (詩人。童謡作家。『うち知ってんねん』『共犯者たち』『島田陽子詩集』『金子みすゞへの旅』。)
加 藤 多 一
もういいよ死んでもいいよと苦しみの母見て思う励ましながら(悲母蝶)例えば、斎藤茂吉の「死に給う母」一連の中の「のど赤きつばくらめ二つ梁にゐてたらちねの母は死に給うなり」と、この歌とのキョリを思います。近代短歌と現代短歌との間の、苦しいけれど必然の隔たりと、川添英一の人間観の新しさと――前者は名歌といわれるテンノウ制のもと家父長の制度の中の言語であり、川添のは、人は神ではなく、純粋で愛すべき哺乳動物の一種・歴史を作る誇りと責任をもっている地球の一生命体という認識。下句はもうちょっと文学上のレトリックでなんとかしてほしいが、しかし、技術の恐ろしさもあり――
(児童文学作家。 オホーツク文学館長。『ふぶきだ走れ』『原野に飛ぶ橇』)
三 浦 光 世
母亡くしし悲しみ身体に沁みとおり悪意にも心揺れることなし(悲母蝶) 母上に対する挽歌を、これだけ多数詠み得たことは、いったいどこから来るのであろう。私には短歌休詠中であったこともあり、一首も作っていない。とにかく、おどろくべき真実の故と、心打たれた。いかに命を受け継いだ親とはいえ、こうまで悲しみを詠いつづけることは、決してたやすいことではない。「汝の父と母とを敬まえ」の聖書の言葉を、思わずにはいられなかった。苦しみを解き放たれて横たわる母あり微笑のかく美しきこの一首も間然するところのない佳作と思う。(『三浦綾子作品撰集』『死ぬという大切な仕事』)
岩 田 一 政
もういいよ死んでもいいよと苦しみの母見て思う励ましながら(悲母蝶)私の父は、蜘蛛膜下出血で倒れ、手術後意識が回復せず、二ヶ月半ほど病院で寝たきりでした。毎日病院に行くたびに意識が戻るように祈っていたのですが、同時に「即仏身」と安らかな死を願うお経を唱えていた自分を思い出します。生と死の境界が、それ程離れていないとも実感していました。親の死を看取る者の錯綜した思いがこもった歌と思います。(武道研究家。日本銀行副総裁。東京大学教授。)
上 山 好 庸
もうこれで死んでもいいと言う程の作品ありや今日もまた過ぐ(輝く旅)この世に生を受けた以上、自分の役割を全うしなければと思いつつも、つい怠惰な日常に流されてしまう。一生懸命さも時に空回りしていることに気がつかない。思い通りにいったかなと思うとすぐ自己嫌悪に陥る。「もうこれで死んでもいいと言う程の作品」には一生出会えないかもしれないが、それでも次こそはと気合を入れ替える。その膨大な積み重ねを振り返りながら「思いはおのずからでありたく」と納得することだってある。生きていくということは実に厄介なことだが、おもしろい。 (写真家。演出家。『明日香路』『厩戸皇子』)
中 島 和 子
もういいよ死んでもいいよと苦しみの母見て思う励ましながら
学校に戻れと苦しみの際で母言う言葉にならぬ言葉で(悲母蝶)「励ましながら」「死んでもいいよ」と思う矛盾。でも、どちらも真実の心なのですね。「学校に戻れ」という母も、心底は子にそばにいて欲しかったでしょう。この二首に、母と子が互いに想いやる気持ちがあふれていて、泣けました。私には親と呼べる人は既になく、「子」を卒業しましたが、娘たちの「母」として別れの時を少しでも先に延ばしたいなぁ、としみじみ思ったことでした。 (詩人。童話作家『まじょのけっしん』)
川 口 玄
雨の後ひんやり風の渡りいる庭にも母はもう出てこない(悲母蝶)
先年、八十八歳で亡くなった母は、植木の水やりが最晩年の仕事でもあり趣味でもありました。水道からホースを引っ張って、夏には大きな麦わら帽子をかぶって水やりをしていた姿を今でも覚えています。亡くなってから暫くの間、アレ、お婆ちゃん今日は居ないな、と一瞬の錯覚をときどき起こしたものでした。
(『大阪春秋』編集長)
猪 口 教 行
紫陽花のうすむらさきは母の色みまかりて後しめやかに咲く(悲母蝶)すべての母は、子どもにとって、美しくやさしい。そういう普遍性を感じます。お母様の死の前後を歌った息せき切った激しい作品群の中で、ふっと力の抜けた自然に浮かんできたような一首。「訴える歌」の間に挟まれた「惹き込まれる歌」。特に上の句、平俗とみる人もあるでしょうが、私は、素直で作意のない品のいい美しさを感じました。 (創元社編集部)
リカルド・ヲサム・ウエキ
楽になるとは死ぬことか苦しみにあえぐ母その心かなしみ(悲母蝶)まさにぴたっと置いた白石の音を聴きました。苦痛と悲痛と懺悔のなかで死ぬしか楽になる方法はないのだと考えながら死にきれず、とうとう嘘八百の小説のなかに逃げ込んでその苦痛を紛らわして生きてきたのですから。(作家。ブラジル在住。『白い炎』『アマゾン挽歌』『花の碑』)
佐 藤 昌 明
雨の後ひんやり風の渡りいる庭にも母はもう出て来ない(悲母蝶)はじめにお母様のご逝去を心からお悔やみを申し上げます。生まれ落ち分身しても母子は切ることのできない縁の糸でつながれ一体で生きていくもののようで、一方が消え去るということは半身を削られるような心情に陥るものです。この機に直面した川添さんの心境を率直に吐露した数々の歌の情景は、私自身の十三年前の母を失った自分の心の有り様に酷似していて、しみじみ当時を回顧させられました。私の母もまた庭仕事が好きで、日がな一日庭や野菜畠で過ごしていたものでした。雨の後の涼しさが増した庭に、もう二度と母の姿を見ることはできない‥‥さらりとした、しかし切なさのいや増す秀歌だと思います。 (作家。『北に生きる』。網走在)
釜 田 勝
苦しみを解き放たれて横たわる母あり微笑のかく美しき(悲母蝶)悲しい出来事がおありになり、第三九号は挽歌が多かったのですが、中でもこの一首が最も心に響きました。ちょうど十年前に母を亡くした時、私もこの歌の作者と同じ心境であったことが思い起こされます。永遠の眠りについた母の安らかな寝顔、まるで微笑むようなその目元は美しかった。そっと「極楽へゆきな」とつぶやいたことを覚えております。お母上様のご冥福をお祈りいたします。 (競馬キンキ元編集長)
林 哲 夫
流氷記入れるポストのその横にガクアジサイの紫匂う(悲母蝶) 同人雑誌も古書目録も、冊子小包で届く割合がぐっと減り、多くがメール便になっている。郵政公社もその状況を意識してか、冊子小包の値段をいくぶん下げた。それでも同じ重さならばメール便が安い。しかもカード式の後払いである。流氷記のミニレター……これほんとに六十円でいいのかな?
(画家。光文社文庫大西巨人『神聖喜劇』表紙など。)
藤 野 勲
梅雨開けて蝉やかましく鳴く波に乗りてはかなき母が来ている(悲母蝶)思いがけなくも母上ご逝去の報とともに届いた『流氷記』第三十九号は「悲母蝶」と名づけられ、突然の病魔に冒された母上の看病のための帰郷と、闘病・看病生活、そして母上の急逝へと続き、胸ふさがれる思いでした。どうしても自分が母を見送ったときのことが思い起こされ、僕の場合は身も心もボロボロになった母を抱えて病院から病院へとさまよい続けた修羅のような長い期間があり、それから四半世紀が過ぎた今もそのときの感覚からよく抜け出し得ていないようなのですが、川添氏の場合は「純粋で一途でお人好し、最期まで優しく美しい母だった」と送る言葉を結ぶことができているのは、不謹慎な言い様ながら幸せなことであったと心から思います。母上を悼む悲痛な歌で占められた本号の掉尾の絶唱をあげておきたいと思います。 (俳誌「ひいらぎ」同人)
大 島 な え
風吹けば雨の滴くを落としいる紫陽花母をかなしむごとし(悲母蝶)今年は夏が遅く残暑が長く続いた。そんな残った夏の終わり、我が家のクーラーから毎日、滴る細い水の道に泥が溜まり、或る日、一本の雑草が生えていた。日頃から掃除嫌いのお陰か、ベランダの小さな溝で、すっきり背を伸ばしている雑草は、真昼の太陽が良く似合っている。亡くなるものあり、また生まれるものあり。一寸先のことは何人にも判らない。 (作家。『本屋さんで散歩』)
神 野 茂 樹
一片のつもりが母の分骨かタッパー家の片隅にある(悲母蝶) 今回は選なしにしようかと思いましたが、小生も父の骨を持ち帰り毎朝勝手な願い事をしているので、この一首を選びました。勝手な願い事はさっぱり叶いませんが。 (『大阪春秋』編集委員)
井 上 芳 枝
苦しみを解き放たれて横たわる母あり微笑のかく美しき(悲母蝶)
八十三歳で他界した母の姿が重なります。目尻に光る一粒の涙が印象的でした。母は一九〇二年(明治三十五年)の寅(とら)年生まれ。千里を走るというトラのごとく、気丈でした。早世した父の跡を継ぎ、銭湯とタバコ店を営み、夜遅くまで働いていた姿が浮かんできます。また一面、歳をとってからも自慢の長い髪を上手に結いあげ、いつも身ぎれいにし、モダンで美声だった母は私の誇りでした。母上様のご冥福をお祈りしています。
(北九州市立大蔵中学校時代恩師)
山 内 洋 志
群れないと逆境になる職場にて独りしみじみ十年が過ぐ(帽子岩)
滑るたび骨うつたびに網走の苦しき甘き過去よみがえる
「北海道の人たちは権威に弱い。」と先生は言った。群れて誰かの傘の下に入っていることで安心感を得る。私にもそのような弱さがある。あの頃、教育の仕事には和や協調性こそが必要であり、特徴だとか異質なものを嫌う風潮があった。閉鎖、画一そのものであった。そんな職場に川添先生は飛び込み、逆境であったろうに、しっかりとした足跡を残して去ったのだった。私は先生よりも長く勤めて何を残すことができたか、いささか心許ない。「網走の苦しき甘き過去」が逆境と繋がるのであれば辛く悲しい。私は、間もなく教職を去る。この間出会った数多くの生徒、教師たちに「偏見の言の葉」を浴びせてきたことを悔やんでいる。
意に添わぬ者には敵意むき出しにして人かなしけだものなれば
三十八号『帽子岩』には、私が素直になれる歌がたくさんあった。生きるということの表と陰を見つめ続ける先生の仕事に感謝と敬意を送りたい。(北見市立北見北中学校長。網走二中元教諭)
小 川 輝 道
我に手紙書きたいばかりに毎朝の天声人語を母写し来し(悲母蝶)
短詩型表現を日々続けている人々に出会う時、感銘を覚える。限られた人達ではあるが、文化の底流を支えてきた表現者群といえる。翻って若い人達の活字離れ、関心の差異はどうなっていくのだろう。そんななかで生徒が短歌に親しむ働きかけをしている川添さんの人間性、純粋さに感心している。他界した母への挽歌にも清らかな心情の交流がみられ、この作品にもやさしさが満ちている。母に育てられ自らを育ててきた魂の純粋さが、表現を追求する心の土台となっているのだと思う。散見するニヒル、叙情の透明さに合わせ作品世界が大きいといえよう。
(網走二中元教諭。)
弦 巻 宏 史
桜雨聴きつつ眠る幼き日も今も変わらぬ耳の洞窟(帽子岩)
大粒の雨が頭蓋に沁みてくる屋根叩く音聴きつつ眠る(帽子岩)
私たちの日本は、四季を通して実に豊かな雨の国である。その時々のさまざまな雨の音がかえって静謐な時と空間を創り出していることがある。それは、当然自分の存在をみつめる時となる。あなたの感性を心の動きに自分を重ねて味わいました。どんな人にも訪れたことのある体験かと思いますが、幼き日…耳の洞窟…頭蓋に沁みてくる…の表現に至極納得しました。僭越にして、蛇足でもありますが、あなたの現代(戦争・政治等々)を見る眼に、観念的に過ぎはしないかと思うものを散見します。ご一考ください。 (元網走二中教諭。網走在。)
井 上 冨 美 子
紫陽花は萎れつつ咲く二十日して母の死いまだ受け入れずいる(悲母蝶)私も十九年前に母を亡くしました。その時のことを思い出しております。仲仲母の死を現実のこととして受け入れられなくて、日々を過ごしました。ある時、市民会館のロビーで、入口のドアのガラス越しに、母の姿を見つけ小走りで近づくと、それがガラスに写った自分の姿であったことに気づいてビックリ!一瞬でしたが私には母の姿に見えたのです。今でも不思議です。やがて時が過ぎ、夢の中で、にこやかに笑っている優しい母の顔に出逢うたびに、あの世でもう一度幸せをいただいているに違いないと思うようになりました。「百七冊途中で母の文字絶えて天声人語のノートが残る」「にこやかに笑う遺影の母がいてヤマユリふわり匂うこの部屋」親子の情愛の深さやお母様のお人柄がヤマユリの匂いのように優しく伝わってきます。
(元網走二中教諭。網走在。)
村 上 祐 喜 子
表層に積む雪取れて生まなまと裸身のごとき氷塊が立つ(悲母蝶)
被っていたものがとれ、その芯のところが見えたときハッとする。その美しさ、強さ、それが凛として輝いていたりすると、本質に触れることができた気がして目を見張る。見られたくないから被い隠すのではなく、見えない部分が輝いていて、その真の美しさを感じたとき、心が動く。見えない部分を磨くのは難しい。それゆえになお……。前頁にでてきたお母さまの湯灌の歌も「痛々し」より「美し」が心に響きました。「百七冊途中で母の文字絶えて天声人語のノートが残る」継続される力、川添先生の流氷記を編み出される力はお母さまから受け継がれているものだと感じました。 (童話絵本作家。西陵中保護者。)
千 葉 朋 代
頑張って頑張ってとしかつぶやけず母の苦しむ耐え難き声(悲母蝶) この先には苦痛しか無いと分かっていても、母が生きようと頑張るのは子ども達のためなのでしょう。母は子を産んだその時から、最期の一瞬まで、母であり続けるのですね。母を思うたくさんの歌に温かく、優しく、強いお母様の姿が見えます。お母様は肉の器から解放され、今も母としてそばにおられるのだと思います。
(『私の流氷』同人。札幌在。)
柴 橋 菜 摘
キンカンの葉を食い尽くし青虫の枝に止まれる無邪気な顔見ゆ(悲母蝶)我が家の青虫君(?)と語らったばかりの私に、ピッタリの一首。毎年、我が家の小さなキンカンの木に、キョロとした眼玉の可愛い青虫が来る。先日、その青虫君とバッタリ眼を合わし、お喋りしたところ。「しっかり食べて綺麗な蝶になってネ」と。虫も花も木も人も、各々の旅を生きている。今、私もその旅の途中である。
(大和高田市在住。)
吉 田 貴 子
あえぎつつ子のこと夫のことを言う母を叱りてたまらなくなる(悲母蝶)結婚して十四年。自分の中で《私》が少しずつ小さくなってゆき、《妻》《母》の占める割合が少しずつ大きくなってゆく。先日体調を崩し、救急車に乗った時、もし何かあったら夫と子供達はどうなるのだろう、と胸が締めつけられる思いをした。不思議と自分が死ぬことへの悲しみや無念さは思い浮かびもしなかった。しかし十四年前より今の方が何倍も幸せだ。十四年前には想像もつかなかった深い愛を感じることができる。何十年も妻として、母として生きられたお母様は、量り知れない程の幸せと愛の中で、その時最後の命の炎を燃やしておられたことだろうと思う。 (西陵中学校保護者。)
亀 口 公 一
紫陽花のうすむらさきは母の色みまかりて後しめやかに咲く(悲母蝶)私にとって親は、女房の親も含めて四人ですが、今は太宰府で一人暮らしのおふくろだけになりました。おやじの時は、九州に帰る新幹線の中で貴兄と同じ思いをしました。先日、義母の七回忌のおり、つゆくさが好きだった母を偲んで一句捧げました。〈つゆ草のむらさきとなり義母還る〉
(社会福祉施設長。大蔵中学八幡高校時代同期生)
佐 藤 通 雅
事実など簡単にねじ曲げて言う勢い口の立つ人かなし(悲母蝶)「口の立つ人」そういう人は老若にかかわらずいる。生徒、先生の別なくいる。自分も「事実など簡単にねじ曲げて」けろっとして語る生徒に、何人も会ってきた。教師は、成長の一過程として見守り、許すべきか。そうかもしれないと思い、そのようにしてきたが、「これで君とは訣れるよ」と内心でいい、訣別したのも何人かいた。生徒だからがまんする、けど、人間としては許せない――こういう場面に出会うのは教師としていちばんのかなしみだった。挽歌に圧倒されながらも、あえて別のをひろいました。(『路上』主宰。『往還』)
北 尾 勲
五分ごと母にうがいをさせてやる深夜よ水がごぼごぼと湧く(悲母蝶)『悲母蝶』九十六首の中では、この一首が目に止まった。「雑記」によると、急性膵炎は腹の中が火事になっている状態で、五分ごとに喉の渇きを潤してやらねばならない、という。そんな切羽詰まった状況下で作られた作品である。この歌のポイントは、下句の「水がごぼごぼと湧く」であろう。病院でそんな情景が見られたかどうか。おそらく、これは作者の心象風景であろう。ところで、この一首、病院という設定ではなく、単独に存在しているとしたらどうか。どんな読みが出来るか。母が寝ているのは田舎の農家、水がごぼごぼ湧き出ているのは自然湧水―とは読めないか。
(『ヤママユ』)
高 階 時 子
母さんと叫べば数字がまた動く最期の母の心と通う(悲母蝶)母の死を詠んだ痛切な歌が続く。私は母を看取ることなく49歳で亡くした。喘息の発作中の突然の死だった。作者の母の死を詠んだ歌群はいっそう心に沁み入る。呼吸器をつけた母の命が今にも消えようとしている瞬間を「数字が動く」と具体的に表現した。呼ぶたびに母が応えるかのように、呼吸器の針が揺れるのだ。「最期の母の心と通う」はいっそのこと削ってしまって、事実だけをを述べた方がよかったかもしれない。「周りには過去となれども生まなまと日々母の死が反芻される」(悲母蝶)最愛の家族に死なれ、残された者はその死を受容するのに長い時間が必要となり、周囲の日常生活が普通に営まれていることにすら違和感を覚えるのだ。 (『礫』)
木 村 草 弥
梅雨明けて蝉やかましく鳴く波に乗りてはかなき母が来ている(悲母蝶)私の父は食道ガンで病院で亡くなったが、母は自宅で看取って死なせた。川添さんのお母さんのような苦しみがなかったのが、せめてもの慰めである。血のつながる父母との死別は、この上なく悲しいものだ。他人には取って代わることの出来ないもので、今号の87首に及ぶ「母の死」にまつわる連作は読者の胸に迫るものがある。
・あえぎつつ子のこと夫のことを言う母を叱りてたまらなくなる
・はだか身は美しけれど痛々し母の湯灌の束の間かなし
・苦しみを解き放たれて横たわる母あり微笑のかく美しき
・大いなる悲母とはかくも苦しみも怒りも包みこんでしまえり
掲出歌の他に4首だけ挙げておく。 合掌。
(『未来』『霹靂』)
新 井 瑠 美
水滴が横に走りて母の死を新幹線の窓もかなしむ(悲母蝶)久し振りに拝見した『流氷記』三十九号は、川添氏の慟哭の集である。急逝の母を偲んで、身も世もなく悲しむ壮年の生まの声を見る。「街の灯も山も飛ばして垂乳根の母の命を助けてくれよ」逝去された母上と私は同年齢とか、私の終末に果たして、このように叫んでくれる息子であろうかと、十五年会わぬ息子を思って少し淋しい。川添氏の母恋いの声を今後も目にしながら、母としての生き様を思うことであろう。「どのような生き物かになり母が今我の周りにいてる気がする」関西弁の混じったこの一首にも川添氏の限りないやさしさを見ている。 (『椎の木』)
利 井 聡 子
もういいよ死んでもいいよと苦しみの母見て思う励ましながら(悲母蝶) 母上の危篤を目の当たりにしながら、その現実に耐え難い作者の心情がひしひしと伝わってくる一首。苦しみに耐えている母上の姿に、作者のやさしさは「もういいよ死んでもいいよ」と心に叫びながら、もう一人の作者の口は頑張ってと母上を励ます。千々に乱れる作者の心情を思うとき作者にとって母上は如何に偉大な、かけがえのない存在であったか。昨年母を亡くした私にとって、胸のつまる思いのした流氷記『悲母蝶』でありました。(『飛聲』。摂津富田利井常見寺坊守。)
川 田 一 路
海覆う流氷原の束の間がこの世か死者こそ数限りなし(悲母蝶) 神が作り給うたのか、自らが進化を果たしたのかは問わないまでも、我々は人類が長い歴史を刻んできた中でひとつの命を与えられ、短い時間この世でたゆたうているのである。そう考えれば流氷原だって然り、大海原の存在の中で一瞬、おのれを形づくり、きらめきを放ち、やがて水に戻ってゆくのであろう。この儚さ、そして恍惚感―― 作者のお母さまが亡くなられたという事実と相まってその気持ちがより強く訴えかけてくる一首である。
(『ヤママユ』)
羽 田 野 令
生まれては消えゆく蝶かはらはらと袖はためかせ束の間を飛ぶ(悲母蝶)お母さまを亡くされた悲しみの日々の中で詠まれた一首である。人の命のはかなさをひしと思いしめる時、命有るものがいとしい。小さな蝶に留める目は、生まれたものは必ず死ぬという万物の摂理を見る。その蝶はひらひらとではなく、まるで花が散るように「はらはらと」と飛んでいるという。在るということのたよりなさを思う作者の気持ちの中に導かれてゆく。少し気になったところは、終わりの方の「束の間」であるが、上の句と少々つくように思う。かえって、場所が描かれる方が、像が結び易く、歌に広がりも出てくるのではないだろうか。 (『ヤママユ』『吟遊』)
里 見 純 世
雨の後ひんやり風の渡りいる庭にも母はもう出てこない(悲母蝶)今月号を拝見して御母上を亡くされた先生の歌に心打たれました。謹んでお悔やみ申し上げます。さて私の選んだ一首ですが、味わえば味わうほど余韻を引いて何とも言えない先生の悲しみが伝わってきます。何といっても下の句の「母はもう出てこない」に万感が籠められていて惹かれました。同じような気持ちで次の一首にも私は心を揺さぶられました。「水滴が横に走りて母の死を新幹線の窓もかなしむ」此の歌では上の句の「水滴が横に走りて」が臨場感があって悲しみをこらえている先生の姿が浮かびあがっています。 (『潮音』『新墾』。網走歌人会元会長。)
葛 西 操
電話すれば出そうな気がする真昼間よ母の命は既になけれど(悲母蝶)この度お母様がお亡くなりになりましたとおいでですが世の中で母を失うということは何ものにも替えることのできない宝物を失うことです。心よりお悔やみを申し上げます。私も十五年も前に母を失いましたが亡くなって初めて有り難みが身を包みました。何とお悔やみを申し上げてもこればかりはどう仕様もないものですね。命在るものいずれ旅立たねばならぬもの。でも、本当にお歌のように今でも傍にいるような気持ちになるものです。哀しいのはこの歳になっても母の名を呼ぶことが度々あることです。どうぞお力を落としのないよう、お身体を大切に。心よりお母様のご冥福をお祈り申し上げます。(『原始林』。網走歌人会)
南 部 千 代
もういいよ死んでもいいよと苦しみの母見て思う励ましながら(悲母蝶)苦しんでいられるお母様にいっそ楽にしてあげたいと云う気持ちと辛くともがんばって欲しい、いかにも矛盾しているような川添さんの心がよく伝わって来ます。大変なことでありましたでしょう。心からのご冥福を祈ります祈りお悔やみを申し上げます。暑い九州からの流氷記三十九号、よく出されたと驚いております。「電話すれば出そうな気がする真昼間よ母の命は既になけれど」人はこのようにして次第に納得してゆくのでしょう。母恋いのお歌、御自身の心ゆくまでお詠み下さい。
(『網走歌人会』)
田 中 栄
苦しみを解き放たれて横たわる母あり微笑のかく美しき(悲母蝶)病苦から解放されて亡くなられた母の微笑がこのように美しい。悲しみが胸迫ってくる思いがする。母の最後の微笑が一つの発見だが、生前やさしかった母が見えてくるようである。ただ少し気になるのは「苦しみを解き放たれて横たわる」だけでは亡くなられたということが分かるか、どうかである。連作として見れば理解できる。ともかく悲しく切ない歌。
(『塔』編集委員)
前 田 道 夫
学校に戻れと苦しみの際で母言う言葉にならぬ言葉で(悲母蝶)
母上の最後を看護られた作品の数々、いずれも身につまされるものがあり、私の母の場合なども思いつつ読ませて貰いました。一首は、「あえぎつつ子のこと夫のことを言う母を叱りてたまらなくなる」とともに、自分のことよりも夫や子のことを思いやっている、優しい母上の人柄がよくあらわれており「言葉にならぬ言葉で」が、情景をよく伝えていると思われます。「梅雨明けて蝉やかましく鳴く波に乗りてはかなき母が来ている」母とは亡くなられた後も、折に触れて身近に感じることが出来るものだと思います。 (『塔』)
榎 本 久 一
少しずつ死を目の当たりにして人はやがては来る日思いつつ寝る(悲母蝶)「少しずつ」は「目の当たりにして」にかかるのか「思いつつ」にかかるのか、前者にして味わおう。「当たり」は「辺り」の意味に読んでしまったが「てがかり」の意味もあるので、そう読んでみよう。「来る日」は「死」でなく「日」であることで広がりが出来たと思う。あたりまえの成り行きからはまってゆく心理をとらえているが、今回一連の母の死を扱った歌と共に読んで一入実感が湧く歌だと思った。
(『塔』)
小 石 薫
朝の畦道を歩めばツユクサの露が微かな風さそいおり(悲母蝶)突然亡くなられたおかあさまの歌を『悲母蝶』として編まれた号です。一首一首に澄明無垢な心情の流露を見る思いがいたします。その中に置かれたこの一首の、特に下の句に心ひかれます。いま、という時間に直接触れた言葉は何ひとつ無いのですが、極限まで鋭敏になっている神経が見逃さなかった風景があります。「緊張が緩みはじめて母の死の七日後涙滴りてくる」やわらかな、自然な人間の心をたどるおもいです。うたもさりながら、うたから立ち上がってくるお母さまの女性像にひかれるものがありました。 (『塔』『五〇番地』)
鬼 頭 昭 二
母さんと叫べば数字がまた動く最期の母の心と通う(悲母蝶)生と死の境を本人はもちろん、それ以上にその場所にいる人々は理屈や感情いや感覚までも失って自分の枠を脱け出てさまよっているのだろう。それははっきりしない薄い膜のようでもあり、隔絶された大きな淵のようでもある。父の死を宣言されたとき、私一人しかその場に居合わせなかったが、自分の存在の希薄さを思い出した。
(『五〇番地』)
東 口 誠
道の辺のしのぶもじずり若き母見知らぬ人と歩みつつおり(悲母蝶)慈母の臨終の経緯は「雑記」に詳しい。母をどんなに愛していたか、この文章だけでなく、多くの作品、「悲母蝶」という編名から充分にうかがわれる。掲出の作品は、亡き母の若いころのある場面を想像して詠んだ。自身とやや距離をおいた母である。一、二句は実景と見る。百人一首が下敷になっていると思う。「しのぶもじずり」はネジバナ。その可憐な姿と若き日の母のイメージが重なる。病気と闘う母、作者の仕事を気づかう母、死んでいく母、それぞれを詠んだいい歌の中で、この歌もまた母を思う心持ちの伝わってくる秀作である。 (『塔』『新アララギ』)
唐 木 花 江
紫陽花のうすむらさきは母の色みまかりて後しめやかに咲く
にこやかに笑う遺影の母がいてヤマユリふわり匂うこの部屋
生まれては消えゆく蝶かはらはらと袖はためかせ束の間を飛ぶ
紫陽花に吸われつつ降る雨見えて母の気配か甘き香の立つ(悲母蝶) 日頃の強烈なメッセージはなく素直で自然な詩情がある。詩とは強固な意見ではなく美であり、精神の高さであり、感動だと考えている私にとってぴたりと合致した作品群であった。ご冥福を祈ります。 (『リトム』『象』)
甲 田 一 彦
苦しみの母が望んだかもしれぬ浄土を拝むなむあみだぶつ(悲母蝶) 母上の急逝を心から哀悼申し上げます。その悲しみも覚めやらぬ中で、この三十九号が出たことを、何と申し上げてよいやら、言葉もありません。苦しみの中にも見事な大往生を遂げられた母上に、作者が捧げる最高の挽歌が右の一首だと思いました。死とは、阿弥陀如来の西方浄土に生まれることです。しかし、信仰とはその人のものなのですから、作者は「母が望んだかも知れぬ」と詠んだのです。作者の愛してやまぬ母上が、苦も悲もない静寂の浄土に永遠の命を生きられることを願って「なむあみだぶつ」と手を合わせているのです。流氷記第三十九号を読んだ者はみんな一緒に「なむあみだぶつ」と合掌するに違いないと思う一首でした。 (『塔』。北摂短歌会会長。)
遠 藤 正 雄
手を伸ばし蛍光灯の紐掴む天より光賜るがごと(悲母蝶) 数々の母君への思いの歌のなかで、一際、存在感を示している歌である。「蛍光灯の紐掴む」という、日常のありふれた動作を詩に昇華させた。あらためて、詩の根底に触れた思いがする。「生き様も死に際も母見事にて悲しけど誇らかに見送る」私の母の一生と、その死に際を、この歌に見るようで、切ない思いである。合掌。
塩 谷 い さ む
にこやかに笑う遺影の母がいてヤマユリふわり匂うこの部屋(悲母蝶)今、私は妻の遺影と骨壺の前でこの歌を読んでいる。恰度、妻が亡くなった時刻を少し過ぎた。人生の哀感を共にしながら…。もういいよ死んでもいいよと苦しみの母見て思う励ましながら
臨終のシーン幾度もよみがえり母が身近となりてしまいぬ
流氷記読みつつ生きて死んでゆく人あり母も一人となりぬ
殺す気になれず毛虫を見ておれば赤子のごときかなしみが湧く
紫陽花は萎れつつ咲く二十日して母の死いまだ受け入れずいる(妻逝きてなぜかかなしい夏の雨) (『砂金』『塔』)
平 野 文 子
風吹けば雨の滴くを落としいる紫陽花母をかなしむごとし(悲母蝶) 風に吹かれてはらはらと、雨の雫を落としている紫陽花の花、そのはかなげな花の風情に、最愛の母上を亡くされた傷心の作者の思いが重なる。花の雫は、あたかも母上の死を悼むかの如く……母さんと叫べば数字がまた動く最期の母の心と通う
とも詠まれている母上への挽歌が切ない。いつかは訪れる人の世の別れに、胸が締め付けられます。悲しみのなかにも紡ぎ出される心の有りようが素直に詠まれて胸を打たれました。
(『かぐのみ』『北摂短歌会』)
山 本 勉
どのような生き物かになり母が今我の周りにいてる気がする(悲母蝶)「母こそは命の泉」という歌を学校で習ったことがあります。八月の歌会で、川添さんがお母様を亡くされたことを、好田先生から聞き、大きな衝撃を受けています。私も、三十年前に点滴ミスで母を失いました。失ったというよりも、もぎ取られたと言い替えるべきでしょう。病院への恨みと悔しさは三十年後の今も忘れることができません。三九号は『悲母蝶』とあり、お母様を失った悲しみが淡々と綴られています。川添さんの歌はむずかしいと敬遠していた妻が、最後まで読んで泣いていました。私も『悲母蝶』を読み、川添さんの悲しみが自分の悲しみと重なって胸を熱くしました。見えない、手の届かないところにいる母。その「母が今我の周りにいてくれている」。そう信じないとやり切れない。そんな思いがこの歌の中に込められていて、涙を流して読んだ一首です。 (『北摂短歌会』)
磯 田 愛 香
生まれては消えゆく蝶かはらはらと袖はためかせ束の間を飛ぶ(悲母蝶)この歌が何故か気にかかりました。気にいったと言うより、気になったのです。人の死、人の気持ち、感覚、私たち「人」たるものの産み出したモノが蝶となっていくならば、きっと綺麗な蝶なのでしょう。 (西陵中卒業生)
小 西 玲 子
それぞれに正義と悪があり我も悪の一人になることがある(帽子岩)誰だって良いところや悪いところを持っています。だから人と人とは向き合うことがとても難しい気がします。心と心で向き合うって無理なことなのかなあと思うこともあります。誰かと向き合いたい時、私は自分自身を振り返ることはすごく大切だと思うのです。相手の悪いところがあってもそれは自分自身にもあるかもしれません。でも私はどんな人にも正義があると思います。色々な人達に出会って自分の正義を知り、悪を知って相手と向き合ったとき、その正義を分けてあげられて、その人の正義を築かせてげられるような人間になりたい。
(西陵中卒業生)
高 田 暢 子
雨の後ひんやり風の渡りいる庭にも母はもう出てこない(悲母蝶)
今回の流氷記は全体を通してとても悲しいものばかりで、どれを選べばいいのかわからなかった。一つ一つの歌にお母さんへの思いが込められていて、本当に私もその場面を見、先生の悲しみが伝わってくる気がした。私はまだどうしても逢いたくてももう会えないという経験はしたことがない。まして自分の母親が死ぬなんて考えられない。私には《死》は遠すぎる。今の私には早く先生の悲しみが癒え、またいつもの川添流に戻ってほしいと願うことしかできない。
(西陵中卒業生)
中 恵 理 香
もういいよ死んでもいいよと苦しみの母見て思う励ましながら
(悲母蝶) 誰でも自分の大切な人が苦しみながら死んでいく姿は見たくない。しかし、死んでほしくないという気持ちもある。だから、苦しんでいる姿を見て頑張れと励ますのだ。この一首にはその両方の気持ちが込められている。もし、自分もこのような
状況に遭遇したとき、この一首のように思うのかもしれない。
金 指 な つ み
流氷原沈む夕日の瞬間に全ての音が吸い込まれゆく(悲母蝶)
先日学校の勉強合宿で長野に行ってきたのですが、長野の美しい自然の中に沈もうとする夕日を見た時このうたのような感覚がしました。その時私は少し悩んでいたのですがその美しい景色を見て胸がつまり目頭が熱くなってしまいました。もう他のことが何も見えずそのことしか頭に浮かばなくなるほどでした。悩みという迷宮の出口で見つけた想い。それが「愛する人々と共に生きたい。少し距離ができたって御互いに想いあっていれるような、そんな関係でありたい。そしてその人々とずっと一緒に歩んでいきたい。」ということでした。人間はいつ死ぬかわかりません。だからこそ輝いている「今」を精一杯生きるべきだと思います。私はまだ未熟な子どもですがそれでもこの夏休みで少し心が成長した気がします。この夏休みに見つけた想いを大人になってもずっと持っていたいです。この答えを教えてくれた景色に感謝しています。この歌を見た時あの景色を思い出しました。
白 田 理 人
揚羽蝶横切るたびに母が来て見守り給う胸ふさがリぬ(悲母蝶) 流氷記第三十九号の表紙には「悲母蝶」という題が書かれてありました。この意味を考えながら歌に目を通してみると、御母様のことが切々と詠み込まれていました。ふと、中二の時の先生の授業で、斎藤茂吉の歌を学んだ時のことを思い出しました。先生の一つ一つの歌に、先生の御母様への優しさが感じられました。特に、御母様の象徴として蝶を描いている歌に惹かれました。僕は「悲母蝶」の意味を理解しました。花々の周りを、自由に軽やかに舞う蝶。その姿に重ねあわされた御母様は、どのような方だったのでしょうか。きっと天衣無縫な方だったのだと思います。そして、先生にとっては、いつまでも本当の「悲母」であることでしょう。
(西陵中卒業生)
衛 藤 麻 里 子
ヒトラーや金正日やスターリン身近にいると思うことあり(帽子岩)
高校に入学し、まだお互いを知り合わない頃、話し合いをするときに、中心になる人がいた。話が進まない中で、そのような人はとても大切だ。ヒトラーなどのように独裁者ではない。でも、高校生活に慣れて、クラスの仲間のこともよく分かってくる。そんな時期になっても、みんなの中心に無理矢理なろうとする人がいる。何か話し合いもしにくくなる。そして、みんなが不快なまま話が進んでしまう。私もそのようなことにならないように、周りの人のことも考えて行動しようと思う。
(西陵中卒業生)
乗 岡 悠 香
朝の畦道を歩めばツユクサの露が微かな風さそいおり(悲母蝶)
いつの間にか風が夏から秋に変わっているな〜と思うこの頃、風と一緒に金木犀が吹いてきて、とてもいい匂いがしてた。風はいつも色んなものを運んできてくれるから、呼び止めたら振り返ってくれるから、優しいね。この日もツユクサや露が風に伝えたいことがあって呼び止めたんじゃないかな。「毎朝ごくろうさま」って。
(西陵中卒業生)
小 樋 山 雅 子
物忘れ激しきことも責めるより笑うよりしょうがないじゃないか
(輝く旅)私は物忘れが激しい。忘れてはいけないことは手首にペンで書いている。それでも時々忘れるほどだ。忘れていて、はっと気付いたらもう遅かったというような時、自分がとてつもなく情けなくなる。「ああぁ〜、私のアホー、マヌケー」と。そして、それを友達に責められると余計に落ち込む。でも、あっはっは、と笑い飛ばしてくれると、こっちまで笑えてくる。怒るか、笑うか、そのどちらを取るかは人それぞれだけど、私は笑い飛ばしたいと思う。何だかそっちの方が絶対すてきだと思うから。
高 谷 小 百 合
どのような生き物かになり母が今我の周りにいてる気がする(悲母蝶)私は、虫などを見るごとに殺そうか迷ってしまいます。ひいお婆ちゃんが虫になって私達を見に来ているのではないかと、いろいろ考えてしまうからです。だからこの歌は私にとって一番心に残りました。私はおじいちゃんに、一番の親不孝は親より先に死ぬことだと、何回も言われたことがあります。私はおじいちゃんの言ったことを絶対守ろうと思います。でも親を亡くすことはとても悲しいです。だからこの歌のように虫になってでも周りにいてほしいと私は思いました。
(西陵中三年生)
中 越 あ す か
逃げ惑い殺されてゆく人々の沖縄今も戦闘機発つ(秋徒然)沖縄は戦争が終わってもアメリカ軍の基地があり、今でも戦争が終わっていないような気がします。私たちの学年は沖縄へ修学旅行に行けなかったのですが、平和学習でたくさん勉強しました。資料によると、アメリカ軍が上陸して戦った場所で、しかも日本軍からも防壁にされたり、味方なのに殺されるという、信じられないこともあったそうです。当時沖縄のどこにいても安心できない状態で、逃げても逃げてもどこかで殺されてしまっていた沖縄の人達の悲しみはとても深いだろうと思います。まだ日本は決して平和ではないと改めて考えさせられました。
(西陵中三年生)
古 藤 静 香
華やかに飛びて視野から消えている蝶よ逢うこそ別れのはじめ(悲母蝶)誰かと逢うことは誰と別れることを意味するのでしょうか。それとも別れるために逢うのでしょうか。この歌を読んだとき私はどうしても別れるために逢うような意味に感じました。そもそも逢う事に理由なんてあるのかさえ分かりません。逢わなければ別れずに済むのは当然ですが、逢ってしまったからには別れなくてはいけないというのについて中学生の今、まだ納得いかないというのが、正直な気持ちです。 (西陵中三年生)
磯 部 友 香 梨
少しずつ死を目の当たりにして人はやがては来る日思いつつ寝る(悲母蝶)他の歌から伝わってくる先生の想いを少しでも理解したつもりでこの歌を選んだ。幸いにもまだ近い人を亡くしていない私にとって、人を亡くすということは、頭で考えることこそできるが、感情ということになると推測の域を出ることができない。だから全ては推測になってしまうが、「母の居ない家に帰れば声掛けてくれる気がする風渡るたび」からも感じられる。虚無感・途方のない悲しみは、どうしようもない感情なのではないか。重いショックを受けたとき、人は立ち直るのにかなりの時間を要し、一緒にいた時間が長いほど長い時間がかかる。今自分に出来ることをやる。「とりあえず」でいいから食べる、寝る…そういったことをきちんとしていくことで自分にとっても周りにとっても随分な救いになるのではないか。人のことを良く考えていた方なら、自分を大切にして生きる姿を見て、報われることもあると思う。精一杯の心を込めて、来世でも幸せになられることを願いたい。
森 田 小 百 合
華やかに飛びて視野から消えている蝶よ逢うこそ別れのはじめ(悲母蝶) たとえ蝶が目の前の花に止まっていても、いつのまにか違う花を求め、飛んでいってしまうように、人間もまたいつの間にかいなくなってしまう儚い生物だと思います。ついさっき、今日、昨日まで一緒にいてても、急に誰も知らない未知の花に飛んでいってしまうからです。
(西陵中三年生)
松 本 美 穂
リモコンにみな操られているような視界は携帯持つ人ばかり(帽子岩)私達はみな、ただ求めるがままにまるで機械のように生きているだけではないかと思うことがあります。生きている意味すら考えず、ひたすら進み続ける、機械化されるように…。機械は確かに便利です。しかし、同じ動きをしている者たちばかり。そんな姿にはっとすることがあります。これが現代の人間の姿なのでしょうか。そんな世の中では、作り上げられる物全てが同じ物になってしまいます。そうならないためにも、周りに操られない自分だけの道を歩みたいです。
(西陵中三年生)
松 山 晴 香
キンカンの葉を食い尽くし青虫の枝に止まれる無邪気な顔見ゆ(悲母蝶)私は虫が大嫌いです。青虫がキンカンの葉を食べてしまって木にとまっているその顔が無邪気に見えるなんてと思いました。が、先生のお母さんが亡くなった後それが可愛くみえてしまうのにはなぜか惹かれてしまいます。祖母の家の庭に一本のキンカンがあり、毎年、葉の緑に負けないぐらいたくさんの黄色い実を付けます。父はたまにそれを取って食べ、祖母は砂糖と煮てジャムにします。私はこれもあまり食べません。この歌からそのキンカンのことを思い出してしまいました。
(西陵中二年生)
安 孫 子 は づ き
少しずつ死を目の当たりにして人はやがて来る日思いつつ寝る(悲母蝶)人は生まれたときから運命という重荷を背負わされている。その運命とは絶対なる死のことです。生ある者には 死は欠かせないものなのです。その死は 人によって誤差があります。己が死ぬのが先か、友人や家族が死ぬのが先か・・・・そのような死を目の当たりにして 人は強く生きていくのです。人が死んだからっていつまでもクヨクヨしないで死んだ人の分まで生きてはどうでしょうか?人が死ねば二度とこの世に戻らない。だからこそその人の分まで人生を楽しんではいかがでしょうか?
田 村 恵
少しずつ死を目の当たりにして人はやがては来る日思いつつ寝る(悲母蝶)先生は授業でこの歌のようなことをよく言われているけれど、私は自分が死ぬなんてあまり考えたことがないから、先生はすごいことを考えていると最初は思っていた。でも、よく考えてみれば、私だって誰だっていつ死ぬか分からない。そう思うと少し怖い。でも、私は生きている。それなら先のことを心配するより、今を楽しく精一杯生きたい。
(西陵中一年生)
吉 田 佳 那
どのような生き物かになり母が今我の周りにいてる気がする(悲母蝶)この歌を読むまでは、人は死んだら終わりと思っていたが、この歌では肉体は滅びてしまうけど、死んだ後にも大切な《心》を残し続け、その心は決して滅びることはなく、いつまでも私たちのそばにいるということを教えてくれた。心は目に見えないけれど確かに存在し、生き続けているのだ。それがふと、飛んできた蝶や草花に目を止めた時、映ることがあるのではないだろうか。そう思うと、生きていた時よりも死んでからの方が、心は近くなったと思う。
(西陵中一年生)
加 藤 靖 子
灰色に街はアスファルトの匂いヒトの地球は滅びゆくべし(悲母蝶)身近にあるアスファルトを使って地球のことを伝えているところがいいと思いました。私は、この歌のようにならないように、身近なことから努力したいです。
(西陵中一年生)
永 島 侑
いつもとは違う妹声荒らげ電話に母の苦しみ伝う(悲母蝶)早朝、先生から突然電話があり、「母の具合がとても悪いので今、九州にいる。学校に行けないのでクラスのこと頼みます。」と言われました。必死で眠気を抑えて聞いていた私でしたが、お母さんにそのことを話すと「え!本当に?!」と言われ、ようやく事の重大さに気づきました。何日経っても先生は戻って来ないので、最初は国語が自習だ。良かったなどと思っていましたが、どんどん近づいてくる期末テストのことで頭が一杯になっていきました。テストの最終日に先生はやっと戻ってきたので「先生、遅かったよ!」と言おうとしましたが、先生のお母さんのことを聞くと、それも言えなくなってしまいました。テストの次の日から先生は、お母さんのことで本当は頭は一杯だったのに私達の授業をしてくれました。その時先生は強く見えました。でも本当は強がっていただけなのじゃないかな?
(西陵中一年生・学級委員) 伊 藤 美 沙 絵
母さんと呼べど返事をしてくれぬ美しいその死に顔がある(悲母蝶)私は一昨年にひーばあちゃんが亡くなってお葬式で待っている間、何回も遺体を見せてもらいました。死んでいるように見えない美しい顔でした。私はこの歌を読んだ時に、亡くなった人の顔が美しく見えるのは誰でも一緒なんだと思い、とても嬉しかったです。ひーばあちゃんにはたくさんの思い出はありません。でも今までで一番美しく見えたのですから、川添先生はお母さんで思い出もたくさんあり、私が思う以上に美しく見えたと思います。「返事をしてくれぬ」のは当たり前なのですが、呼んでも返事をしてくれないのはとても悲しいことです。 (西陵中一年生)
山 口 由 貴 子
頑張って頑張ってとしかつぶやけず母の苦しむ耐え難き声(悲母蝶)人はいずれ亡くなってしまうけど、一分一秒でも永く生きていたら必ずいいことがあると思う。生きてて良いことばかりじゃないけど、死ぬより生きてた方がいい。その支えになるのが家族だと思います。死ぬ直前まで家族の人が近くにいてくれるとちょっと安心します。今は、私は生きててよかったと思います。いろんなことも体験できたし、これからもずっと永く、人よりいっぱい生きていたいです。 (西陵中一年生)
佐 竹 藍
もういいよ死んでもいいよと苦しみの母見て思う励ましながら(悲母蝶)「もういいよ、死んでもいいよ」という言葉はものすご
く残酷なことだと思います。でも死の間際にももなると、その「もういいよ、死んでもいいよ」というのが一番の励ましになると思います。死にそうなときに「生きててくれ」と言われても「頑張って生きてます」ってなるけど、しんでもいいと言われたら、安心して死ねると思います。「もういいよ、死んでもいいよ」というのは残酷かもしれないけれど、人を安心させることもできるいい言葉なのかもしれない。 (西陵中一年生)
中 山 あ き み
電話すれば出そうな気がする真昼間よ母の命は既になけれど(悲母蝶)人が死ぬところをみて、頭の中では死んでいると分かっているのに、まだその人が生きているような気がすることが多々ありました。 「死んだ」ということを認めたくない気持ちがこういうふうにおもわせるのでしょうか?
(西陵中一年生)
村 井 良 輔
もしたらで母生き返る訳もなく一週間がもう過ぎている(悲母蝶)
ぼくも、将来お母さんが死ぬと、同じことをすると思う。一度死んだら生き返らないのは分かっていても、お母さんが死んだと信じたくない、そういう思いが伝わってくる。(西陵中一年生)
澤 口 保 洋
殺す気になれず毛虫を見ておれば赤子のごときかなしみが湧く(悲母蝶)毛虫とか小さな生命も、赤子と同じ命と思えば、平気で命を奪ってしまおうとする気持ちを持てばかなしくなるという意味を持ったものだと思いました。どんな小さな生命であっても命を奪ってはいけないと思いました。 (西陵中一年生)
妹 尾 美 鈴
庭を這う小さな茶色の毛虫見ゆ健気に動く命というもの(悲母蝶)
たとえ小さな虫でも、人間と同じで一生懸命生きているんだと思います。それは分かっていても、私は普通に蚊を殺したりしています。動物も虫も植物も、いつも人間を怖がりながら生活していると思うと可哀想です。人間は堂々と生活しているのに、虫たちは、人間に捕まらないように、殺されないように…といつも気を付けながら一生懸命に生きているんだろうな。だから、虫の命も動物の命も大切にしないといけないな、と思いました。
中 皐 月
戦争では罪にはならぬ人殺し三面記事とは何なのだろう?(帽子岩)戦争で多くの人が亡くなります。その多くの人を殺すのは人です。戦争でどれだけの人を殺すのでしょうか?考えただけで悲しくなります。最近、いやな事件が多いけれど、その中で、どこかで戦争が起きています。今、私たちの周りで人殺しが起これば、それはすごくすごく重い罪になります。なのに戦争での人殺しは罪にならないのでしょうか?すごく不思議に思います。本当によく分かりません。戦争とは本当に国のためなのでしょうか?人を殺すことが本当に国のためなのでしょうか?
(西陵中一年生)
鈴 木 禎 生
どこまでも平和な日本の若者が戦争ゲームばかりしている(悲母蝶)日本の歴史には、戦争という悲しい出来事がはっきりと刻まれています。しかし、それを踏みにじるように、戦争で平気で人を殺して楽しむGAMEが売られているのを見ると、戦争で死んだ人々に対して、馬鹿にするような態度をとっているように思えてきます。戦争は実際、残酷窮まりない悪魔のようなものなのに、それで笑いながら遊ぶのは完全に気が緩んでしまっているんだと悲しくなってしまいます。
(西陵中一年生)
乗 岡 悠 香
生まれては消えゆく蝶かはらはらと袖はためかせ束の間を飛ぶ
華やかに飛びて視野から消えている蝶よ逢うこそ別れのはじめ(悲母蝶)蝶って不思議なヤツだと思うの。あ!蝶々が飛んでいると思って次の瞬間見たら、何かもう何処か行っちゃつて?あれーと思って振り返ったらそこにいたりして。瞬間移動でもしたんか?!って思う。でも、してないって言い切れないよね。私は今まで揚羽蝶をけっこう見てきたけど、もしかしたらみんな同じ一つの揚羽蝶だったかもしれない。きっと彼らは瞬間移動も出来るけどタイムトラベルも出来るのよ、はかないなぁって、かわいそうだなぁって私たちに思わせといて、本当は私たち以上に長い間生きてるんだよ。 (西陵中卒業生)
編集後記
母の葬儀が終わって高槻に帰ると吉永さんより「ゆめいちず」と書かれた立派な扇子が届き、伯父と母の死が続き挽歌ばかりだった自分にとって希望と夢のある『夢一途』で行こうと決めた。涙もろい母であったが明るいことが好きで僕がいつまでも死を悼んでいるのを叱ってくれているような気がする。日に日に悲しさの増すこの頃だが無理にでも明るく夢を抱いて生きていきたい。亡くなった方も含めて流氷記には沢山の期待と夢が詰まっている。なかなか流氷記を出せないのはこんな産みの苦しみを味わっているに過ぎない。常に味わえるものでありたい。