島 田 陽 子
この道を選ぶにあらねど後戻り出来ぬ地点を過ぎてしまえり(花びら) 足立巻一氏の書かれた色紙「人の世やちまた」がいつも私の目の届く所にかかっています。やちまたに立った時、いくつもの道の中から一つを選ぶのは結局自分であり、たとえそれが本意でなくても納得した自分がいたのだと思います。あの時、もし違う道を選んでいたら……と、思わぬ人はないのではないでしょうか。私など自分で選んでおきながら、後戻りしたい地点がいくつもあって、人生やり直しの利かないことを思い知らされてばかりです。ただ、いつの日も全力をつくすことだけはしたい、悔いを残さないためにと、乏しい力をふりしぼっています。
  (詩人。『島田陽子詩集』『ほんまに ほんま』)
畑 中 圭 一
我が過去は中途で終わることばかり続き補う夢あまたあり(花びら) 短歌一筋、まっしぐらに走っていると敬服していた川添氏にもこんな呟きがあるのかと、妙な親しみを覚えた。しかし、中断した事の続きを補填する「夢あまたあり」と歌えるだけ、氏はまだまだ若いのだ。何ひとつまとまったことができぬままに古稀を過ぎた私など、補填の意志すらない。 「未完で終わったものの集積が自分の人生だと思えばいい」と開き直っているのである。 (詩人。『いきいき日本語きいてェな』『ほんまに ほんま』)
 三 浦 光 世
優しくて礼儀正しく温かい生徒に接することのよろこび(花びら)屈折した表現、深い想念等々、感銘させられる作品の多い中で、この一首は一見平凡に見えるのだが、なぜか見逃せない感じを抱かせられた。教職という立場にあって、粗暴にして非礼な生徒にも悩まされることが少なくないのであろう。この作品には人生への感動が大きく出ていると見た。やはり非凡な一首と言えよう。次の一首にも心打たれた。亡くなりて後に幾度も声を聞く母は棲むらし耳の奥処に(『綾子へ』)
 加 藤 多 一
コンセントより外されて横たわるコードか希望叶うまで待て(花びら)川添英一の眼のカメラは、ときにモノが持つ絶対的絶望をとらえる。その眼の方法に衝撃を感じる。だらしなく横たわっているのは、オレなのだ。その絶望のはての足指の力で、希望をとらえることができるのだろうか。このように触発されて読んだ。それゆえ、下句の俗流幸福論的なことばが不満だ。ほんとうはこんな形で「希望」を安易に言語化したくない作者だろうと思うから―。それにしても、西陵中卒業生の荒木さん、高田さんの評の何という新鮮さよ。   (児童文学者。オホーツク文学館長。)
 リカルド ウ エ キ
主人公間一髪で助かれど周りのみじめな死はいかんせん(花びら) ドラマでつくられたこんなめでたしめでたしの終演は、現在世界中のあちらこちらで架空の物語ではなく、現実に現在起こっているニュースとして映像化され生放送で視せられる残虐で独善的な場面ですが、まるで現代人は植物人間化してしまったように、感動もなく無神経に眼を背けることもなく凝視しています。観光都市リオでは麻薬組織同士の抗争に軍警が介入して三つ巴になって射撃し合っている情景が映像化されていますし、同じ時間に、ジャングルのなかでインディアンの弓矢で宝石採掘者がばたばた倒れている光景も観られます。まさに北米の西部劇とカポネの時代が、ブラジルでは二十一世紀につくりものではなく再演されているのです。みじめに死んでゆくのは流弾に当たった市民です。     (ブラジル在住作家。『白い炎』『花の碑』)
中 島 和 子
優しくて礼儀正しく温かい生徒に接することのよろこび(花びら)教師をしている娘夫婦の会話を思い出しました。グチっていたはずなのに、いつのまにか生徒を弁護している。「しんどい、しんどい」と言いながら、学校の話になると目が輝いてくる――。そうか、そういう職場に娘たちはいるのか、辞められないはずだ…と思いました。一読した時はサラリと流してしまったこの一首が、読み返すたびにほのぼのとした気分にさせてくれました。(童話作家。『さいごのまほう』)
川 口 玄
安威川の堤あぶら菜ひろがれば蝶も躍動して移りゆく(花びら)今号には私の好きな歌が多く
「目つむれば宇宙の果てに浮かびいる死もかく暗く明るきものか」
「優しくて礼儀正しく温かい生徒に接することのよろこび」
「迷い込み森を歩けばひとところ桂の芽吹きに水滴りぬ」
「大木にあらねど椿赤き花今年の命の輝き放つ
「夜が明けてやがて雀がやってくる金木犀に意識している」
「みんなまだ若いつもりで乗っている夜の電車はひっそりとして」
「天井の木目の模様渦巻きて脳のごとしと思いつつ見る」
「いつの間に今は昔となる齢おさなき心進歩なきまま」
「これまでに生きてきて今生きてゆく瞬時も心さまよいながら
」以上の九首で、迷いましたが、やっぱり早春の明るい気持ちをうたった表記の歌にひかれます。     (元『大阪春秋』編集長)
南 日 耿 平
花びらが流氷のごと散ってゆく瞬時も心さまよいながら(花びら)
何故か私は道元の〈有時現成〉が蘇ってくる。私の青春時代は戦争と闘病体験の生死の世界。兄も弟も戦場。母は国防婦人副会長。九十八歳まで生きてくれたが、私も九十一歳。平和になってはいるが、死の世界は誰にでも迫ってくる。それが人生だと必死に生きている川添さんの学生時代が語られており懐かしいかぎり、石井正司先生もあなたのフアンの一人、素晴らしい先生でした。高岡哲二さんは昔からの碁敵で飲み友だち(日本歌人同人)。兄上を戦争で亡くされている。今は亡き寺尾先生も山下清さんのフアンの一人。皆いい方ばかり。(近藤英男奈良教育大学名誉教授)
佐 藤 昌 明
ともすれば毒もて毒を制しいる教師となりてしまうことあり(花びら)「こうしなければ…ああいうことをすると…」「こうなってしまう…ああなってしまう」と、軽い毒で刺激する手法を教師はよく使う。学校という特殊社会に巣くう、特別害にならないワラジ虫によく似たキョウシ虫は、自分の安穏な居場所を確保するためには、自我の主張に邪魔な周りの虫に、神経をチカチカ刺激する程度の毒を放出して牽制する。中には死に至らない程度の正義サリンを撒き散らす虫もいるから油断できない。彼らに共通しているのは、些か過剰な嫉妬心と劣等感である。ガッコウ社会を脱して十年経つが、同じような虫が一般社会にもウジャウジャ這い回っていることがよく分かった。そしてその中の、もはや足腰萎えて何の役にも立たないのに、毒だけは半人前くらいは放出しようとしてあがく老齢ワラジ虫の一匹が私自身だということも分かった。   (作家。元小学校長。『北に生きて』)
藤 野    勲
いつの間に今は昔となる齢おさなき心進歩なきまま(花びら)そうだ、本当にその通りだ。この一首を前にしてそうした感慨を強烈に抱くのは氏あるいは僕などのような年齢に達した者ならではのことなのでしょう。〈幼なく哀しげな心をつゑにして/おまへは何処までゆくの〉(「夕の死者」)という吉本隆明の初期の詩を思い出したりもします。そしてそうだ、本当にその通りだと強く感じながらも、次の一首に出会うと、「進歩なきまま」の道のりが実は遙かな距離を歩んでしまっていることでもあるのだということにも気づかざるを得ないのです。「この道を選ぶにあらねど後戻り出来ぬ地点を過ぎてしまえり」。これもまたそうだ、本当にその通りだという感慨を我が身に引き寄せて強く抱かせられる一首で、意識しようがすまいが、実はその一瞬一瞬を僕たちは選んで生きているのだということであるのでしょう。「おさなき心」を杖にして。(俳誌「ひいらぎ」同人)
井 上 芳 枝
優しくて礼儀正しく温かい生徒に接することのよろこび(花びら)生徒指導でいろいろと苦労した頃を思い出します。いつも歌われているような生徒たちばかりだと、楽しくて事がはかどっていくのですが…、でも、優しくて礼儀正しく温かい生徒は必ずいるものです。中学二年生を担任の時、「先生の方が正しいわ」と、日ごろおとなしい生徒が勇気を出して発言してくれました。ぱっと私の心を明るくしてくれた時のよろこびは、今も忘れてはいません。    (北九州市立大蔵中学校時代恩師)
小 川   輝 道
玄関を出でて緑の葉の繁き山椒噛んで今日始まりぬ(花びら)一人一人に人生の句読点がある。緑繁る季節、玄関を出て今日からの出発を実感する。新しさに向かう出立と受容。山椒噛んでいる人は、何語とも味わおうとする自然人で渉猟してやまない達人ともいえよう。今号も共感する作品が多かった。「いくつもの殺人事件」、この名のドラマが毎夜番組を覆っていて、殺人教唆の刺激社会は困りものだ。「ゴミ袋漁りて」カラスの鳴き声は、弛緩した霊長類を嘲り吹聴する如く叫んでいる。カラスの習性を言語化し人間批評の絶品と思う。「地に落ちた椿の花」落ち続く花に無常を見る、死生観へのこだわりは深い。(元網走二中教諭。北見在)
井 上 冨 美 子
足指に力を込めて第一歩踏み出さんとす今日の初めも
玄関を出でて緑の葉の繁き山椒噛んで今日始まりぬ(花びら)

この四月より茨木市立西中学校へと転勤されて、力強く第一歩を踏み出された川添先生の緊張感と心意気が、このお歌より明るく伝わってきて嬉しく思いました。「優しくて礼儀正しく温かい生徒に接することのよろこび」暗澹たる世情の中、何か少し救われたような気持ちになりました。(元網走二中教諭。網走在。)
釜 田   勝
自分だけは死なぬものだと思いしがこの頃衰え激しくなりぬ(花びら)自然の摂理というか、老いるということはしごく当たり前のことなのですが、それを実感としてとらえ、サラッと歌い上げた純朴さに心惹かれました。若い時なら少々無理は利いても、歳を重ねるにしたがって気力、体力の衰えは如何ともしがたく、川添さんも、もうそのような年齢になられたのかと、時の流れを感じております。ご健康を祈って止みません。(元競馬キンキ編集長)
山 川 順 子
天井の木目の模様渦巻きて脳のごとしと思いつつ見る(花びら)夜布団に入り豆電球の明るさに目が慣れて天井を見ると猫の目、竜の目に見える時がある。朝早く覚め眠れずに天井を見ていると人や鳥の姿に見える事もある。これは何も考えていないでボーっとしていても全くの空にはなれないからか。せめて寝る前と朝は楽しいものを見たいと思う。 (『私の流氷』。札幌在)
吉 田 貴 子
自分だけが死なぬものだと思いしがこの頃衰え激しくなりぬ(花びら)‘花びら”の中でこの歌と石井正司先生の歌評が心に残りました。川添先生はやはり青年のころから、周りの物事に対する鋭い眼光と深い感受性をもっていらっしゃったのだなあと思いました。しかしそれはこの世の中で時に先生を悲しいお気持ちにさせたり生きにくくさせたりするものであるのかもしれません。流氷記を手に取るたびやさしさと同時に世の中の矛盾に負けない力強さを感じていましたがやはりまだ今回も心にお疲れが残っていらっしゃるように思いました。胸が痛みます。(西陵中保護者)
松 坂   弘
犯罪を追いかけ死刑待ちわびる報道陣という人種あり(花びら)
二〇世紀の終りのある時期から「報道公害」が加速的に増えています。環境公害の増加とよく似ています。報道の自由とプライバシーの保護ばかりが論じられているけれど、そのいずれにも無関係、中立の人だっているはずです。人のプライバシーに無関心の人はどうなるのか、と問いたいのです。この歌は現代における過剰報道への痛烈なる批判として読みとってみましたがいかがでしょうか。四年間暮らした高槻の日吉台の風景と思い浮かべつつこれをしたためました。 (『炸』主宰)
米 満  英 男
いくつもの殺人事件並びいるテレビは最も平和を嫌う(花びら)
テレビの普及率はほぼ百パーセントに近い。食事の間も、その後もつけっ放しになっている。ニュースや時事解説や生活番組などを除いて、おおむねバカバカしい娯楽番組がつづく。その中でドラマや映画の視聴率も高い。思わず引き込まれる〈名作〉もあるが、出来合いのスリラーが多い。そこでは悪人善人を問わず、片っぱしから殺される。死ぬ方の役者も大変だ。苦しんだあと血まみれにされる。そうだ、それは原作者も、脚本家も、制作者たちも――いや視聴者自身が〈平和嫌い〉で、観念的な殺戮と化しているからである。ああ、怖い――。   (『黒曜座』主宰)
長 岡 千 尋
道の辺に落ちて重なる桜ばな雨に打たれて匂いを放つ(花びら)
作者の亡母をうたった挽歌は、率直な感情で満ちていて、うつくしく、かなしい。―私の母が死んだのは、私が二十歳の時、母は四十三歳だった。歳よりも若く見られた母は、緑色系の洋服が似合った。若いだけ病気の進みは早く、肺癌が見つかってすぐ死んだ。―私は今でも母の体の匂いを覚えている。この川添さんの体の匂いは、きっと母の匂いであろう。違うかもしれないが、私はそう思ってならない。「亡くなりて後に幾度も声を聞く母は棲むらし耳の奥処に」私は母が死んで三十年、川添さんは一年、でも、同じ。ずっと魂で母はここにいる。(『日本歌人』選者。『かむとき』編集人。)
川 田 一 路
春の雨やさしく叩く生きるものなべて目覚めよそう悪くない
こちらにもあちらにも真実があり悪魔といえど滅ぼすなゆめ(花びら) 毎回シニカルなどちらかと言えばマイナス方向に目がゆく作品群のなか、今回のこの二首も並んで登場し、アレッという感じを受けました。考えてみれば、いかなるマイナス思考をしシニカルな考えを持とうとも我々は生きているのです。そして表現してゆくのです。そう、その根本には清濁併せ持ち生を賛歌してゆく心がなくては全てが成立しないのです。そんな作品の心の底を垣間見て嬉しくてこの二首を取り上げました。(『ヤママユ』)
新 井 瑠 美
屋根に落ち地に落ち溝に落ちる雨聴きつつ朝の識域にいる(花びら)
目覚める前の意識下で聞きとめている雨の音。屋根に落ち地に落ち溝に落ちる雨の行方を鋭敏に聴きとめている作者の感性の豊かさを見てとる。なだらかに四句まで歌ってきて〈朝の識域〉である。川添氏の、又違う一面を見せて貰った気がする。ささやかな一粒の雨が、とてつもない大きな物を控えさせているようだ。〈オオイヌノフグリの青に吸い込まれそこだけ宇宙のごとくに楽し〉は視覚感か。〈優しくて礼儀正しく温かい生徒に接することのよろこび〉こんな生徒ばかりなら先生方も苦労なさるまいが、先生にこう見られる生徒は幸せである。 (『椎の木』)
羽 田 野  令
屋根に落ち地に落ち溝に落ちる雨聴きつつ朝の識域にいる(花びら)「識域」という聞き慣れぬ語がある。サブリミナルという言葉
が「識域下の」と訳されるそうだから、その反対の訳語から来ている言葉なのだろう。聞き慣れぬが、字から意味は取れる。その硬い語感が、この歌で詠まれている状態と妙に合うような気がする。雨の音が、まだ覚めやらぬ自分の意識を叩いてゆく。「屋根に」「地に」「溝に」と、重ねられているのも効果的だ。朝はそういう風にやって来て、私たちは一日を始める。 (『ヤママユ』)
森  妙 子
みんなまだ若いつもりで乗っている夜の電車はひっそりとして(花びら)夜の電車、たぶん大方の人が通勤帰路であろう。通勤路は家庭と会社を繋ぐ命の路線である。そして、退社後自分を取り戻せる最初の居場所ではないだろうか。人は幾つになっても自分は若いと自負している。年齢が加われば加わるほどその思い込みは大きくなるようだ。その思い込みのお陰で未来をいつまでも見つめていける。そういう人達が乗っている電車。そこは、一日が終わって自宅までの、少し哀感も漂う居場所なのだ。日常生活の機微を見事に詠い得て余りある。 (『ヤママユ』)
里 見 純 世
犯罪を追いかけ死刑待ちわびる報道陣という人種あり(花びら)暗いニュースが続く現代世相の一断面を鋭く衝いて歌い上げている点に注目しました。特に下の句の報道陣という人種ありという表現にハッとさせられました。次に如何にも先生らしい歌い方だと思い共感した二首をあげてみました。「飛行機の窓より遠く流氷は海にためらいつつ浮かぶ見ゆ」「接岸もせずに漂う流氷を我のごとしと遠く見ている」 (『潮音』『新墾』網走歌人会顧問)
田  中    栄
穏やかで優しいことが障碍か教師の受難いつまで続く(花びら)
教師の率直な反省の気持ちが素直に述べられている。現在の中学生は野生というのか放恣な面が顕著でないだろうか。それに対応するには、「穏やか」とか「優しい」こととは反対な「厳しく」また「厳格」な面が要求されるのであろう。然し教育者としてこの歌のような「優しい」「教師」が最も必要なのでなかろうか。下句の嘆きがよく分かるが、克服してもらいたい。ともあれ一首の中に批評が感じられるのは詩として新しい行き方と言える。 (『塔』)
葛  西    操
亡くなりて後に幾度も声を聞く母は棲むらし耳の奥処に(花びら)
どの頁にもお母様をお慕いのお気持ち、身に沁みて先生のお心の内お察し申し上げます。私も四人の子の親として、亡くなられましたお母上様のご立派な方でおいでのご様子と深く感じております。今の世は、私達の育った時代と異なり、親子の愛情も何も感じられない世の中です。私はお陰様で子や孫にまで慕われて居ります。先生も教師という立場にて本当にご苦労の時代ですね。どうぞ体に気を付けてお過ごし下さいませ。何と申しましても健康が第一ですから。私も九十四歳の今、子供達に支えられて無事に過ごして居ります。    (『原始林』。網走歌人会。)
前 田 道 夫
新雪を踏みてははしゃぐ娘より羽根生えて我が圏外へ飛ぶ(花びら)新雪を踏んで遊んでいる娘さんの姿が生き生きと見えてくる。「踏みては」の「は」の強調が効果を挙げていると思う。 「娘より羽根生えて」 は、初め稍甘いかと思ったが何度か読んでいるうちに苦にならなくなってきた。自分の手の届かない処へ飛んでゆきそうな娘さんへの想いが伝わってくる一首。 「網走の夜の氷の滑り台少女の喜鳴たちどころに消ゆ」 「喜鳴」という言葉は辞書を牽いても見当たらない。悲鳴が苦しみや驚きの声なら、喜んで挙げる声として喜鳴があってもおかしくはない。この一首、喜鳴が面白いと思った。 (『塔』)
 榎 本 久 一
海に背を向けて漁船の並びいる冬の日ビュッフェの絵にいるごとし(花びら)静岡県のペルナールビュッフェ美術館へ見に行った記憶がよみがえる。彼の風景画に漁村の風景があったかどうかは、定かではないがキリスト受難の絵とか都会の風景がモノクロの鋭いタッチで描かれていて、大変なショックだった。海に背を向けている漁船の舳先などをイメージしていると、粗い線描で曇天をあらわしている。彼の風景のなかに居る気がする。ピッタリし過ぎかな。彼が氷砕船など描いていたら又素晴らしいだろうな、などと思う。 (『塔』)
東  口    誠
よく見ればジシバリ黄花あふれいる野のやわらかき細道続く(花びら)
内へこもるような歌が続いて、やや息苦しい思いでいるところに、掲出歌に出会いホッとした。それだけの理由で選んだといえば作者に対して失礼になろうか。しかし、私はこの歌が好きだ。私の住んでいるところも同じ風景が随所に見られる。ジシバリは文字どおり「地縛り」。庭にでも生えるようものなら駆除に四苦八苦させられる。そのしつこさに反して花は実に可憐だ。道を歩いていて、この花を見ると心が洗われるようで、ささやかな幸福感を味わうことができる。淡白すぎて物足りない気もするが、郷愁を誘われる歌、心にしみる歌である。(『塔』『新アララギ』)
小  石    薫
母の許ムラサキカタバミちぎりいし茎の酸っぱさ今は見て過ぐ(花びら)黄色のカタバミはよく見かける草ですが同じカタバミでも違う科に分類される草でしょうか。それは色が違うだけのカタバミから噛んで遊ぶことは想像できないからです。きっと幼い頃親しんだ植物で茎の酸っぱさにはお母さんの記憶も残っているのでしょう。「今は見て過ぐ」という結句に心の中にある濃く長い時間を思います。「よく見ればジシバリ黄花あふれいる野のやわらかき細道つづく」も注目しましたが「よく見れば」の初句はやや気になります。 (『塔』『五〇番地』)
鬼 頭 昭 二
迷い込み森を歩けばひとところ桂の芽吹きに水滴りぬ(花びら)実景というより作者の心象を表したかのような象徴的な作品である。死への意識が見られることの多くなりつつある作者であるが、自分の生き方に間違いはなかったとも言えるようになっている。過去のあれこれを脱けて、ささやかではあるが安息のようなものもほのかに得つつあるのだろう。(『五〇番地』)
古 川 裕 夫
秒針が時刻む音響きくる深夜は人の領域ならず(槌の音)ある夜、作者は眠れなかったのか、または、何かの理由で目覚めたのか、はっきりと聴覚は鋭くさめて時計の秒針の小さく刻む音を捉えた。この時間感覚は正常の他の人々がすべて睡眠の中にあり、深夜は意識外にあって音を聴く領域ではないと云うのである。確かに深夜の領域は人外の世界で、生きていても認知されない時間なのである。鋭い感覚で一首が生きてくる。この次には冷蔵庫のうなり声の歌があり丑三つ時に聞こえてくると詠っているがこの作品の方がすぐれている。 (『塔』)
塩 谷 い さ む
少しずつ笑えなくなるそのうちに裁かれている自分に気づく(花びら)
その通りですね。調子に乗って、いや乗せられていたのだと気が付いた時はすでに遅かった、いつの間にやら裁かれていた。哀しい現実の明け暮れである。用心が肝要です。「高笑いつづく遊びの領域で裁かれ始末される人あり」他人事ではありません。ご用心、ご用心です。そして 「自分だけは死なぬものだと思いしがこの頃衰え激しくなりぬ」 も同感しきり。遠い戦の日、自分だけは死なないと思って居た。みんなそう思っていた筈であったと思う。哀しい、哀しい現実が蘇って来る。「夢を見るように月日が過ぎてゆく母亡くなりてもう桜咲く」 (『塔』)
甲 田 一 彦
夢を見るように月日が過ぎてゆく母亡くなりてもう桜咲く(花びら)
作者が、母上を亡くされて間もなく一年になりますが、「母を憶う歌」を読むたびに、涙の湧く思いがします。この歌には特に共感しました。私も母を亡くして半年が過ぎたのですが、その時間の経過をどう表現するかに苦しんでいる時に、この歌を読んで目がさめる思いがしました。「もう桜咲く」この結句の中に、時間がたたみ込まれていることに感動しました。これが川添短歌の神髄であるとひそかに頷いています。 (『塔』。北摂短歌会会長)
平 野 文 子
亡くなりて後に幾度も声を聞く母は棲むらし耳の奥処に(花びら) この一首の次頁に「花びらが落ちる桜の下に来て母のいまわの際想いおり」とも詠まれています。二首ともに亡き母上への挽歌であり、限りない母上への追慕の心象の歌でもあります。思い出の中の母上は、お姿はいうまでもなく、そのお声までも今なお作者の耳に幾度となく聞こえてくるのでしょう。私なりに考えてみました。お声が聞こえる以上、母上のまぼろしは小さな形に変身して、作者自身の耳の奥におられるのではないでしょうか。そして、第四句「母は棲むらし」に納得いたしました。(『かぐのみ』)
大 橋 国 子
地に落ちた椿の花の増えてゆく無常はかくも淡々として(花びら) 花そのものボタリと落ちる椿は悲しいけれど美しい。桜の散るさまとはまた違って、形あるもの麗しいものの久しくないことを示して、寺の庭に山道に点々と零れている。無常ともとれる姿だと思うが、桜のようにかまびすしくなく淡々とした花は茶花として使われるにふさわしいと思う。紅い椿の様子が思い出される。「いくつもの殺人事件並びいるテレビは最も平和を嫌う」テレビがあるから世の中が怖い社会に成っているのではないかと思う事さえある。マスコミの姿、一つの真実ではないかと思って読んでしまった。 (『北摂短歌会』)
山  本    勉
穏やかで優しいことが障碍か教師の受難いつまで続く(花びら)
他人の揚げ足を取って得意がるのはサラリーマンばかりと思っていたが、中学校という職場にもあることを川添さんの作品を通して改めて知り考えることが多くあった。 「優しくて礼儀正しく温かい生徒に接することのよろこび」 職場でのさまざまな嫉視の中、のびのびと育てられた生徒は、かけがえのない宝であり、心の支えであっただろうと、私の方が救われた思いになる。 「私の選ぶ一首」 に寄せられた西陵中の生徒たちの寄稿文に川添先生への思いが反映している。そして 「十年を過ごしし西陵中を去る桜坂には花散りながら」中学を去る思いが散る桜に懸けられている。 (『北摂短歌会』。『ポエムの森』)
中 島 タ ネ
十年を過ごしし西陵中を去る桜坂には花散りながら(花びら)十年という年月を過ごした学校に別れる時数え切れない位の生徒との色んな想い出を心の頁に刻み校門を出た時美しく咲いた桜がハラハラと舞い散り別れを惜しんでくれているような気持ちに。去年この桜が咲いた時はお母様はこの世の人だったが今は亡く再びこの桜を見る事はないだろう。別れの意味は違うがこの学校を去り新しい職場での希望にありがとうさようならと言いながら去って行かれるお姿が目に浮かぶような感じを受けましたのでこの歌を選ばせて頂きました。  (福岡市在)
金 沢 寿 昭
仏壇屋親鸞日蓮並びいてあの世この世の金ピカあわれ(夢一途)三十代の頃に心の病に陥りそうになった母は仏の道に救いを求めたという。その姿を見て、という訳でもないが、自分自身が仏教系大学に入り、アルバイトまで仏壇屋ですることになったのは、一体どういう巡り合わせか。仏様は立派な仏壇の中にいるわけではなく、いつも私達の傍らにいるんだよ、と母の生き方を見ていて感じさせられる。その一方で、坊主として生活している友人が何人もいる。立派な戒名をもらうのも金額を積めば良いなんて。極楽浄土も金次第ということなのか。(茨木市立西中学校教諭)
大 島  な え
少し気に入らねば削除して進むインターネットに人溢れゆく(花びら)小学六年生の女児がインターネット掲示板の書き込みが一番の原因で殺された。事件の後に原因と言われた書き込みは削除され闇に消えたままだ。パソコンとインターネットで世界の情報は近くなり、また簡単に言葉が溢れ出ては消されてゆく。膨大な文字の渦に巻かれ、めまいが起きることもあるだろう。決して他人事でないのを、私は数日前に思い知らされた。少しの行き違いから腹が立ち書き込んだ文は、知られてはいけない人の目に触れ大きな溝になってしまった。自らの文責は全て自分にある。そして今は削除され闇を彷徨っているだろう。(『本屋さんで散歩』)

◆六月半ばまでに届いた一首評。いつも書くことだが僕の創作と一心同体になって記された文章群。生徒評と同じく僕の作品そのものよりも素晴らしいものも。今は同志といってもよい人々の心の厚みがそのまま作品に反映されればと精進しているのだが…。

北 川 貴 嗣
流れ寄る氷塊一つ午後の日を浴びて呟きながら溶けゆく(未生翼) 僕は先日、修学旅行で北海道を訪れた。流氷がやってくる季節ではなかったが、北海道の広大な大地から眺める大海には、深く吸い込まれるような思いがした。実際に見たわけではないが、音をたてながら溶けていく白い氷塊と、それが起こっているいる午後の何となく時の流れがゆっくりした時間、白昼とでもいうのであろうか、そういった様子が頭に浮かんだ。流氷の原も翌日にはなくて流離の憂い青々と海(未生翼)何か大きな大切なものが急になくなり、心にポカンと穴があいてしまっているような感じを受けました。「青々と海」にそういった深い喪失感が表現されているように思います。  (西陵中卒業生)
小 西 玲 子
これまでに生きてきて今生きてゆく瞬時も心さまよいながら(花びら)毎日毎日があっという間に過ぎて十八回目の春が来ました。今まで何度悩んだり孤独を感じたり寂しくなったりしただろう。自分自身が分からなくなったり周りに求めすぎてしまったり。でも今の私には、自分の居場所、大切な人、もの、感謝すべきことがあの頃よりも分かる気がします。時には戸惑いを感じながらも人は何かに助けられて生きていくんだなあ。けれど一番大切なのは、自分自身の気持ちだと思った。あの時の《今》が今になって繋がるから私は一杯の気持ちで生きていきたいです。(卒業生)
斎  藤   萌
足指に力を込めて第一歩踏み出さんとす今日の初めも(花びら)
眠くても嫌でも朝は自分の一日のために起き上がって、まず歩かなければなりません。嫌だからといって起き上がって踏み出さないことには、ずっと何も変われないような、そこから起き上がれないような自分を見ているだけで、そこからまた私たちは起き上がれない自分を嫌ってしまうこともあります。見えない先のことを考えるよりもまず、この歌の通りに自分の目の前の一歩を踏み出すことで何か必ず良い方に進んでいくと思います。(卒業生)
田 坂    心
今が次々に昔に変わってく自分にも死が確実に来る(槌の音)今という時間は、一瞬にして過ぎて行き、中学生の時に来た高校受験のように、また大学受験が来る。今よく考えてみれば、中学を卒業して、もう一年になった。いつの間にか過ぎて行く時間そして、いつか来る「死」。この死はいつ来るか分からない。もしかしたら明日かもしれない…。しかし、私はこの死が来る前に社会貢献の、歴史に残るほどの大きなことをしてみたいと、日々、野心をふくらませています。 (西陵中卒業生)
岡 本 英 璃 乃
片隅に絶えず置かれて死亡欄母より若く死ぬる人あり(花びら)
人はいつ死ぬかわかりません。八十代で亡くなってしまう人もいれば十代の若さで亡くなってしまう人もいる。まだ自分は若いんだと当たり前のように今生きていますが、若いからといって明日も明後日も必ずこの世に自分が存在するとは限りません。そう思った時、この命がある今を精一杯に生きないといけないなと思いました。十年を過ごしし西陵中を去る桜坂には花散りながら慣れ親しんだ場を離れることはとても寂しく、新しい場所に向かうのはとても不安です。私も中学を卒業し高校という新しい場所に向かう時、とても不安でした。でも、この前散ったと思ってた桜がまた咲いたとき、新しい環境に慣れた自分がいました。不安だった思いは消え、今は新しい場所で一日一日を楽しく過ごしています。また二年後に桜が散る頃にこの新しかった場所が慣れ親しんだ場となって離れたくなくなるんだろうなと思いました。
磯 部 友 香 梨
味わうでなくただイライラと過ごしいる中途半端な時間に怒る(槌の音)誰にとっても時間は平等に流れている。例え自分が何か失敗をして、「あの時に戻りたい」と思っても、結果を変えることはできず、またそれと同じように、自分がどのような感情を持って時を過ごそうとも、その時を取り戻す事はできない。この歌には、自分にも同じ時を過ごす事が許されているのだから、少しでも自分にとって意義のある過ごし方をしたい、という先生の思いが込められているような気がした。 (西陵中卒業生)
中 越 あ す か
早送りするように時過ぎてゆく朝から朝へ横たうばかり(花びら) とても楽しかった西陵中を卒業してからはや2ヶ月。あんなに不安だった受験も、いつのまにか終わっていました。高校生になってからも毎日楽しく過ごしていますが、入学式からあっという間に中間考査になってしまいました。本当に早送りをしたような早さを感じます。楽しい時間ほど、朝から朝へ早く過ぎていってしまうのだなと思いました。    (西陵中卒業生)
角 島 康 介 
犯罪を追いかけ死刑待ちわびる報道人という人種あり(花びら)
 「人間はあまりにも一つの事に集中してしまうと、常識的な事も間違って解釈してしまいがちになると思う。例えばこの短歌なら「仕事だ」という意識に集中し、人の死(スクープ)を待ち望んでいる。戦争もそうだと思う。平気で殺し合う。これは悪い事だとは思うが実際その場に立つと殺し合いをせざるを得ない状況なのだろう。それに近い状況がこの短歌だと思った。」(卒業生)
斎 藤 実 希 子
この道を選ぶにあらねど後戻り出来ぬ地点を過ぎてしまえり(花びら)一人一人に与えられた限りある時間の中でこの瞬間に決めてしまったことがこれからの人生に大いに関わってくることがある。だからこそ正確な道標が欲しいと切に思うことがある。だが最終的にどうするかを決めるのは自分自身にしか出来ない。十年後、二十年後にこの道を歩いていることに自信と誇りを持っていけるよう今の今を大切にして過ごしたい。  (西陵中卒業生)
森   晶 子
みんなまだ若いつもりで乗っている夜の電車はひっそりとして(花びら)わたしはこの歌から「若さ」とは何だろうということを思い浮かべた。そしてそれは、実年齢+その個人の心理状態の位置によるものなのだろうと考えた。わたしはまだ高一。けれどもう十五。今のこの、小学生でも立派に自己アピールをする時代の中では、自分は若いなど言い切れない気がしてきました。実際、現実の社会は一歩間違えば明日のわからない、ある意味で危険な空間だ。将来への不安と、自分に与えられている重い責任のようなものを感じた。  (西陵中卒業生)
吉 田 佳 那
わが過去は中途で終わることばかり続き補う夢あまたあり(花びら)
川添先生は普通の大人とどこか違っていた。歌集を読むとよくわかるが周りのものを見る目がとても新鮮な感じがする。いろんな物に目を向ける元気があふれている。だから退職まであと6年と書いてあって驚いた。先生だったらたくさんの夢をこれから本当にかなえてしまわれるのではないかという気がしている。
長 谷 友 介
カマキリに射すくめられつつ人間も心優しき生き物となれ(槌の音)
中島和子さんは僕と同じタイプなんでしょうか。僕もカマキリには触れません。鎌があるからなんでしょうか。その鎌が人間たちをじっと見張り続けているような気がして仕方ありません。
佐 竹   藍
おいしそうされど料理の残酷の明るさばかりテレビに映る(花びら) テレビに出てる料理は全て美味しそうだけど、裏では動物を殺したり人が苦労したりと料理を見ただけでは分からないものもある。身近なことで言うと、外っ面はいいけど裏では何をしているかわからない人間や動物のことをいうと思う。全てを表に出せる人はそうはいないだろう。 (西陵中二年生)
中 野   大
パソコンも不意に固まる死といえど流れる時間の一つに過ぎぬ(蝉束間)パソコンを持っている人はあるだろうか、ウイルスに侵入されたことが。一度侵入されるとどうしようもない。元に戻っても、一度侵入されたら、次々とパソコンを狙ってくる。使っている人はただパソコンでホームページやら電子メールをしていただけなのに…ウイルスのバカ―ッ! (西陵中二年生)
岡 本 藍 里
小春日の枝に安らう母子猿幸せは人のみにあらなく(槌の音)幸せ、楽しい、嬉しい。このような感情は誰だって感じたことがあるだろう。人に生まれてよかった、という人は多いけれど、他にも感情を持つ生物は沢山いる。犬や猫、虫も感性があるもしれない。植物は…無い、と思う人が多いと思う。でも、あるかもしれない。例えばサボテンなんかは話しかけると喜ぶらしい。実際私が育てていた時も毎日話しかけていたし、毎日話しかけていると、サボテンの表情のようなものが見えたりする。表情といっても人の顔とは違う。これは育てたごく一部の人しか分からない感覚である。
死者送る自ずからなる黒服の親族烏のごとくに集う(水の器)この一首は悲しいはずの葬式を「恐ろしい」と感じさせるものです。確かに皆、烏のような黒い衣をまといます。私は九歳の時、おじいちゃんの葬式で、その人々の事をこう捉えました。―死神―死神が棺桶を取り囲み、おじいちゃんの魂を連れて行ってしまう。そう思ったものです。 (茨木西中二年生)
中 川 真 菜 美
ゴキブリに悲鳴を上げる妻よそれニンゲンよりも大きなものか(帽子岩)よく女の子が虫などを見て「キモイ」とか言ってキャーキャー言って逃げたり殺したりする。それを見て私はかわいそうだと複雑な気持ちになる。虫たちも人間に見つからないように一生懸命に生きている。それを殺してしまうのは虫の家族が悲しんだりする。短い命をとても身近に感じてしまうから…。
板 谷 弘 貴
コンセントより外されて横たわるコードか希望叶うまで待て(花びら)
僕はこの歌をこう解釈しました。コードが自分で、それをコンセントに差してくれる人間がチャンス。コンセントは希望。希望を再び叶える為にチャンスを持たねばならない…。そうして辛抱することも大切だとは思います。しかし僕は、チャンスとは己の手で掴み取るものであり、希望とは己で叶えるものだと信じています。自分がコードを差す人間となる。コードはチャンスになる。それをコンセントに差し込むかは自分次第。人生は自分で切り開いていくものだと思うのです。僕はこれからの人生を、コンセントに繋げて、自分の夢を叶えたいです。(茨木西中二年生)
藤 本 美 紀
母想うたび胸詰まりつつ眠る夢の中では死者生きるらし(槌の音)
私は小学校六年生の時に大宮のおじいちゃんを亡くしています。その時はなぜおじいちゃんが死んだのか分からなくて泣いてばかりでした。眠る前にもおじいちゃんが死んだことを思い出すと泣きたくなることがあります。それに、母さんが亡くなったと想像すると胸が苦しくなるし泣きたくなります。でも死んでしまったらもう会えないじゃなくて、亡くなった人達は自分の中で生きていると思うことで、少しは毎日が楽しく過ごせるんじゃないかと思いました。   (茨木西中二年生)
広  兼    秀
優しくて礼儀正しく温かい生徒に接することのよろこび(花びら)いつも手を焼いて苦労させられている生徒がいる中で優しく礼儀正しい生徒に会って、いつも手を焼かされている苦労を忘れ、心が和む喜びがよく分かってきます。でも、いつも手を焼いている生徒が学校の中にいるからこそ、この優しくて礼儀正しく温かい生徒のいる喜びがよく心に沁みてくるのだと思います。だからある意味で手を焼いている生徒がいて優しく礼儀正しいがいる丁度よいバランスがいいと思います。僕が教師になったらこのようなバランスを保っている学校に行きたいです。(茨木西中二年生)
西  由 里 加
今が次々に変わってく自分にも死が確実に来る(槌の音)昔のアルバムをめくってみて、この頃は何を考えていたのかなぁと思うことがある。後になってみるとその時に考えたり笑ったりしたことも、殆ど記憶の中に残っていないのに気付いてかなしくなってしまう。しかし、今の私は今迄の十三年間に考え思い経験した事の積み重ねで存在しているのだ。今考えていることもすぐに昔になるだろう。一年後の私が何を思っているのか想像もつかない。死ぬなんてまだ身近に感じたことはないが、それまでに私が考え生きてきたことは絶対に忘れたくない。 (茨木西中二年生)
藤 田 恭 平
時代劇いつもついでに殺される人あり一件落着なんて(槌の音)
時代劇を観ていて主人公が悪事を働く者をこらしめる話が多いけど、いつも手下が出てきて殺されている。僕は今までこういう
ところに注目して観たことはないけど、この歌を読んで、悪事を働く者は懲らしめられて一件落着ではなくて、たくさんの殺された人のことを考えると、全然一件落着ではないと思った。本当に解決するには話し合ったり人が死ななくてもいいような解決法を取って欲しいと思う。 (茨木西中二年生)
中 田 有 来 未
止まるたびカサリと音の聞こえくる新聞配達バイクの巡り(銀杏葉)朝、早く目が覚めてしまったら、聞こえてくる新聞配達をしているバイクの音が……聞こえてくるたび私は「毎朝大変だなぁ〜」と思う。母の話では、新聞配達の人は朝四時前には起きている。そう聞いて私は、すごいとも思うし大変だとも思う。けれど新聞は、みんなに事件や事故その他を知ってもらうために朝早くから配達をしていると思った。「毎日、ご苦労様です」と一回言ってみたいと思った。 (茨木西中二年生)
白 石 千 尋
大木にあらねど椿赤き花今年の命の輝き放つ(花びら)私の家の庭の椿が例年と違い、今年は見事に満開でした。いつもはなかなか綺麗に咲いてくれないので嬉しくて写真まで撮ってしまいました。しかも雨が降ってもまだ力強く咲いていたのです。今年は何か良いことが起こりそうな予感です。私もあの椿のように強くなりたいなぁ……。銃あふれやられる前にやれという論理に世界滅びつつありいつからなのだろうか。この世界に「平和」という文字が無くなってしまったのは。日本は取りあえず今は一応平和です。でもそれは本当の平和と言えるのでしょうか。「やられる前にやれ」それが人々を巻き込む引き金になっている。解決方法は「殺す」しかないのだろうか。「邪魔な奴は消す」。それでいいのだろうか。命の重さは自分でも同じだろう。そう簡単に人の人生を奪っていいものではない。世界中から見たら、それはごく一部の国の出来事で自分には関係ないと思うだろうがそれは違う。私達は同じ地球に生きているのだから。誰もがこのままで良いとは思っていないだろう。でも、この論理がある限り世界を平和に導くことは難しい。この歌にはとても同感できた。 (茨木西中二年生)
森  あ す か
夢を見るように月日が過ぎてゆく母亡くなりてもう桜咲く(花びら) 私の母はまだ生きているけど、亡くなるとか想像したらゾッとする。この一首と似たようなので 「我が裡の半ば失い母の死の後はまたたく間に時が過ぐ」 というのがあったけど、先生はそれだけお母さんが生きていた頃が最近に感じられるんだなぁと思う。
浦 田 貴 大
逃げ惑い殺されてゆく人々の沖縄今も戦闘機発つ(秋徒然)僕は平和学習で沖縄戦のことをいろいろ知り勉強した。アメリカ軍が上陸して、日本人が次々に殺されてとても残酷で悲惨でした。信じられないほどに人が死に沖縄の人々が悲しみ逃げ惑い、想像を絶することがこの歌でも分かる。今はまだ平和ではないけれどこのようなことが起きないようにすることが一番だと思う。神様に願い平和が訪れるのを待つ、そんなことも考えさせられました。
平 瀬 達 也
いくつもの殺人事件並びいるテレビは最も平和を嫌う(花びら)最近のニュースには明るい話題が出てくることが少なくなったと思う。テレビだって悪いことよりも良いことを放送したいと思っているだろう。ナイフだって人を傷つけるのになんて使って欲しくないに決まっている。人を傷つける道具なんかこの世にあって欲しくない。そんなことを一番思っているのはテレビや新聞紙なのではないだろうか。人のあら探しばかりでなくて、もっと明るく温かい話題でテレビが染まってほしい。(茨木西中二年生)
川 上 夏 紀
どこまでも平和な日本の若者が戦争ゲームばかりしている(帽子岩)
流氷記第四十号を読んだ。どの号もそうだけどたくさんの批評があって一人一人の思いがよく書かれている。「最近クラスで誰かに死ねとか殺すとか言っている人や自分の気に入らない人にちょっかいを出したりしている人をみかけたけど、その人たちはもう少し相手の気持ちを考えたり、自分がしたことを反省してみたりする必要があると思います。」 というこの人の気持ちがよく分かり納得した。こんな一首を書いてみようとも思った。(二年)
泉 田 真 美 子
小春日の枝に安らぐ母子猿幸せは人のみにあらなく(槌の音)
四二号『花びら』十九頁のこの歌の評の人と同じことを思っています。私たち地球人はなぜこんなやり切れないことばかりするのか、とても悲しいです。ただ「元に戻すことは出来ない」と書かれてあるのには、私は違う意見を持っています。どんなことでも自分たちがやったことは自分達で戻せるんじゃないかと思っています。日本は今どちらかと言えば平和ですが、日本だけでなく地球全体が安心平和でないと平和とは言えないと思います。(西中一年生)
友 居 洋 暁 
地平まで続く流氷原を越え真っ赤な夕日今沈みゆく(悲母蝶)ぼくは地平線をほとんど見たことがなくて、あまり想像できないけど、もしそんな景色が見られたら一生忘れられないくらい心に残ると思います。最近イライラすることが多いけど、そんなのも全て洗い流してくれると思います。 (茨木西中一年生)
山 藤 朝 美
いくつもの殺人事件並びいるテレビは最も平和を嫌う(花びら)
この頃事件も多くなりニュースでは情報が絶えない。テレビは平和の素晴らしさや喜びを知らないのだろうか。殺人事件ばかりの並ぶ番組欄が平和や安らぎに満ちた言葉で満たされることがいつかあるのだろうか、ふと考えてみた。パソコンの画面なれども警告を無視して先に進むことあり(輝く旅)こうしないといけないというものがありながらどうしても先に進まねばならないことがある。今の私にも未来の私にもそういう道がどこかに在って進んでいくとき真っ直ぐに進んでいくもう一人の私が見える気がする。
川 上 和 泉
わが裡の半ば失い母の死の後はまたたく間に日々が過ぐ(花びら)
私の母はこの三月十六日からずっと入院しました。母の担当の先生が決めて四月一日に手術が行われることになりました。私はその時ふっと思いました。もし手術をしている間に死んでしまったら「死の後はまたたく間に日々が過ぐ」その通りだったと思います。でも手術後も母は生きていました。母がガンだったことはショックでしたが今、母はとても元気です。大丈夫なのかと手術中に心を痛めていたことをこの歌から改めて思い出しました。(同)
横 田 貴 大
マスゲーム美しされど背後にてアドルフヒトラー右手を挙げる(断片集)マスゲームは集団でやる運動…第十一回ベルリンオリンピック。ヒトラーの膝元で行われた悪名高き祭典。背後にヒトラーがいて戦争に利用されていった…。今は民主主義でいいけれどあの時代の怖ろしさがどこかにあるのかもしれない。(西中一年)
西 之 辻 泰 宏
朝方に耳を澄ませばバタバタと天気予報の雨落ちてくる(花びら)
前夜の天気予報で「明日は朝から雨が降るでしょう」と言っていた。朝、目が開いたとき「あっ、雨は降っていないな」と思い耳を澄ましていると、急に雨がバタバタと降ってきた。予報の当たった驚きと雨の中にいる複雑な気持ちがよく分かる。(西中一年) 長 谷 川 未 紀
いっばいに花咲き花も散りてゆく夜桜夢の中にもつづく(花びら) 先生にこの一首の意味を聞いてみると「寝ている時にも夢の中で桜が散っている」と言っていたのできれいだなぁと思ったのでこの歌を選びました。桜は春にしか咲かないけれど夢の中には一年中咲いているというのがうれしいと思いました。人間もどこかで神の操作するロボットなのかと思うことあり神様に私たち人間は動かされていると思う。しかし私は神様なんて信じられない。神様は人間の都合で創られていると思う。私の勝手な想像だが、神様が私たち人間に紐を括りつけてマリオネットみたいな感じで動かされていると思う。だが私は時に、したくない事をしてしまった時や手を挙げたいのに挙げられなかったりする。それは神様が与えた試練なんだろうかと私は考えた。もし神様がいたら自由にして下さいと言いたいです。 (茨木西中一年生)
植 田 万 緒
今が次々に昔に変わってく自分にも死が確実に来る(槌の音)この感想を書いている時も時計は動いている、ちょっとずつ死に近づいている。そう思うととっても怖い。けれど時は止められないしどうしようも出来ない。だから今を大切にして私がこの世からいなくなっても思い残すことが少なくなるように生きていたい。
久 保 七 恵
今が次々に昔に変わってく自分にも死が確実に来る(槌の音)今も次々に一秒二秒三秒と時間が過ぎていく。つまり死が近づいているということだ。死はいつに来るのか、そんなことは誰も分からない。明日に来るかもしれない。明後日かもしれない。そんな緊張の毎日。でも死は誰もが来るもの。だから毎日を大切にしたい。後悔がないように… (茨木西中一年生)
小 野   舞
犯罪を追いかけ死刑待ちわびる報道陣という人種あり(花びら)
数年前の事件を私は今でも覚えている。池田附属小学校の小学生が何人も殺された。あの事件の容疑者の宅間さんは死刑になった。私は死刑になったことについては当たり前だと思う。でもそのことをテレビなどで放送し死刑の報道を楽しみ祝う…そんな人達の興奮の様子がごく当たり前のように見られた。死刑は人一人の命を奪うということ、そこに気持ちがいくべきだと思う。弱い立場の人をみんなでいじめて楽しむような心を私は持ちたくはないと私は思った。   (茨木西中一年生)
今 久 保 里 奈
丸まりて布団に入ればじんわりと体に沁みて温かさ湧く(悲母蝶) 私も、布団の中に入れば「気持ちいい―」と思います。一日の疲れがすーっと抜けていくような感じで気が失われていきます。一日の中で布団に入った時が一番幸せだなぁと思います。こんな幸せな時間をこれからも大切にしていきたいです。(西中一年生)
柿 本 朋 也
人間もどこかで神の操作するロボットなのかと思うことあり(花びら)僕も何だかそんな気がするし、もしそうなら神様も気まぐれだなと思う。そして、神様は楽しいこと苦しいことちょうど五分五分でしているんだと思う。でも僕はロボットじゃなく自分は自分だと思う方が楽しいと思う。でもやっぱりこう考えるとそう思ってしまう。  (茨木西中一年生)
三 條 場 友 扶
秒針が脳に刻んで行く過去を探りて眠るゆめのまた夢(花びら)一秒一秒ごとに脳に刻んでいく記憶。かなり時間が経った後でその過去の記憶を探すのは難しいけれど、先生はゆめのまた夢という言葉でそれをふんわりと楽しんでいるように思う。夢の世界で遊んでいるような気がしてならない。    (茨木西中一年生)
北 川 貴 嗣
生徒吐き出でし校舎を見上ぐれば光りつつ雲移動していく(断片集)僕には、人間の暑苦しさと自然の清々しさとの対比、言い換えれば密と疎との対比が素晴らしい歌だと思いました。また、人工と自然のギャップに対し、作者が自然に非常に親しみを持っているように感じました。人という生き物は独りでは生きていけません。特異な場合を除き、常に集団で生活しています。そして、互いに共通点を見つけ合うのを好みます。それに対し、自然は全てが固有です。この場合、それは雲です。作者は、人間の集団性に疲れを感じ、常に様々な姿を見せてくれる自然に思いを寄せているのではないでしょうか。「光りつつ」に作者の自然への憧れが表れていると思います。 (茨木市立西陵中卒業生)

雑記◆歌とこの雑記を残して母の一周忌に九州に向かう。大型の台風が南方に迫って時々細かな雨が降る。母の突然の死が周りの植物の見方までも変えた。実際に家に着いてみると母の声が至る所から聞こえてくる。最後の最期まで意識のはっきりしていた母はその死後までも周りを仕切っているのかもしれない。その通夜の時にもその火葬の時にも一筋ザァーと紫陽花の雨が降った。一年経った今も母と共に景色が流れていたような気がする。◆思えば母の死の頃、流氷記も完全に行き詰まっていた。自分の中で萎えていくものがあり、創意と切り離れて周りと同調し普通化していこうとしていた時期でもあった。それでも何とかしないといけないという裡なる欲求が芽生えるがその都度抹殺されてゆこうとしていた時期なのだろう。それを見透かすように母の懸命な姿があった。母の天声人語のことや折々の歌のことなど偶然の事とは今も思えない。◆流氷記も初めは妨害とまではいかないまでも続かないからやめとけとかうまくいく筈がないという声に満ちていた。キリストやジャンヌダルクのように殺されたり上杉鷹山や二宮尊徳のように多くの反対者に苦しめられた時期のあることは承知している。対する人々を徒に敵視するのでなく変えていくくらいの気持ちで精進していきたい。◆塔の先輩にあたる清原日出夫が亡くなる。僕の塔編集時には論争もしたし良く思われていなかったが、最近は流氷記に対して好意的な便りを時々もらうようになってきていた、その矢先である。歌壇の寵児でもあったがこれから開発すべき世界があったような気がしてならない。

編集後記
 ご覧のように西中学校生徒も流氷記に徐々に親しんでくれるようになった。前号から表紙写真も網走流氷とは離れつつあるが日常での無常観や孤独感、漂泊への思いこそが流氷の本質であろうと日々の暮らしに目を向けている。もう6月半ばになり母の死から一年が過ぎてしまおうとしている。順風満帆に行く筈もないが流行よりも不易を追い求めた芭蕉の気持ちで流れていきたい。校庭にも日々新たな花が咲くがすぐに次の花へと移り替わる、そんな景色を眺めながら日々が流れていくのを目の当たりにする。自分は流氷の一塊となって海を漂いながら…。