島 田 陽 子
引き出しにしまうごと母容れられて骨のかけらとなりて帰りぬ(夜汽車)
時間を経ても作者の母恋いは深まるばかり。その一因と思われる辛い思い出の一首もありますが、「ここにいたら母さん喜ぶだろうなぁ次々開く花火観ている」「母さんとつぶやくだけで苦しみが少し和らぐような気がする」「寝て見える所に母の写真ありなあ母さんと言いつつ過ごす」など、語りかけの語調の中に母への甘えや感傷がいやみなく、素直に伝わってきます。俳句とちがう抒情詩の強みでしょう。反面、選んだ一首の衝撃には及びません。どちらをとるかは読者の好みですが、私はやはり「引き出しにしまうごと」の痛切な発見をとりたいと思います。(詩人)
畑 中 圭 一
救急車待ちて路上に臥しし人われに重なりまんじりともせず(夜汽車)急病か交通事故か、路上に横たわる人を見て、その人の苦しみがわが事のようにひしひしと感じられる。その情景がいつまでも脳裡から消えず、眠ることもできずにいるという歌。ひとの苦しみを自分の苦しみとして共感する心のやさしさと、それを支える感受性と想像力の豊かさに胸をうたれる。眠らずにいる「現在」に、その人が横たわっていた「過去」がぴったりと張りついてリアリティを高めているが、その鍵は「臥しし」の「し」という助動詞にあるようだ。言葉に無駄のない、引き締まった歌だ。 (詩人。児童文学作家)
中 村 桂 子
一日の一コマにしてそれぞれの顔して車すれ違い行く(槌の音)
ごぶさたしております。一人一人の人が悩み、考えながら生きていくのが世の中だと思ってきましたが、何も考えず、何も悩まずに事を進めて行くことがよいというような状態になり、このままではどこへ行くのか。なんでこんな世の中になってしまったのでしょう。早く〈考えること〉〈悩むこと〉の意味をとりだしたい。それぞれの顔はどんな顔なのでしょう。歩いているのではなく、車ですれ違っているところも象徴的です。ここにいたら母さん喜ぶだろうなあ次々開く花火観ている(夜汽車)いろいろな意味で、ちょっと整理をしたいと思う時期はあるものです。本当に自分らしく暮らしたいという気持になって。別に世の中が嫌になったというのではないけれど、時には殻の中にも入り込んだりして。そんな時には素直に素直になってみたくなるものです。この歌をそんな気持で味わいました。(JT生命誌研究館館長)
三 浦 光 世
寝て見える所に母の写真ありなあ母さんと言いつつ過ごす(夜汽車)
氏の作品には、ユニークで深い発想によるものが実に多い。それを学び取りたいと思うのだが、非力の私にはとても出来ない。つい、自分の生活に共通する作を取り上げることになる。右の作も、わが生活にそっくりといえる。しかしそれを一首としてまとめることは、できなかった。母上への敬愛が、根本的にちがうのであろう。上句は誰しもうたえるとして、下句の率直な表現は、やはり対象に素直な眼を持っていて、はじめてなし得るところと思う。(作家)
加 藤 多 一
啄木と茂吉と我を並めくれし人に歌わん腐ることなく(夜汽車)
私も腐りかけています。文筆の人はクサルのが早い。当今いちばんそれが進捗しているのは、ある心理学者が文化庁長官になり、旧終身科教科書そっくりの「心のノート」を小中学生の全員に押しつけている現象でしょう。私も地方でセンセイと呼ばれないよう腐らないように細心の注意をしていますが――ところで茂吉は戦争時局便乗歌がよく知られていますが、実に啄木こそクサラナイ歌人の典型ですね。あの侵略ムードいっぱいの時代にこの歌。骨がゆすぶられる。『地図の上朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつつ秋風を聴く』 (児童文学作家。オホーツク文学館長)
リカルド・ウエキ
英雄も犯罪者も死を弄び人の歴史の不可解続く(夜汽車)
宗教の脅迫と救済のための終末観の嘘が、見事に剥き出しにされた1999年は、無事に通過したと誰もが安心したあとも、大自然の脅威と人為の戦争への不安がつづいている今日この頃、性懲りもなく同類を殺し合う醜悪な生き物ヒトが救われることはなさそうです。地球の自滅と人類の自滅とどちらが速くゴールインするでしょうか。 (作家。ブラジル在)
大 島 な え
救急車待ちて路上に臥しし人われに重なりまんじりともせず(夜汽車)このところニュースを見ると、殺人、強盗、自殺等全くこの日本の事実をつきつけられるものばかりで、良いニュースなんてあるんだろうかと言う気持になる。死という現実が架空の事実のように現実味無く若者の間でネットの裏で暗い空間を這い回り、犯罪は後を絶たない。しかし人は生きて血を流し傷つくと激しく痛みを感じている動物なのだ。深夜の救急車のサイレンは、そんな悲鳴にも聞こえてくる。  (作 家)
川 口  玄
金色に輝きながら夕陽待つススキに風はささやきわたる(夜汽車)美しい光景をうたった美しい歌として読むだけでなく、「夕陽」に、終わりに近づく人生を感じ、さまざまの思いに揺れ動いている自分をススキに見立てたくなります。古希を迎えて後悔あり、諦観ありで、中国人の言う「夕陽無限佳」の心境に近づきたいと思う近ごろです。 (『大阪春秋』元編集長)
神 野 茂 樹
雀鳴き始めし朝の快き喧噪にまどろみてわがいる(夜汽車)いつも最初の一首に心動かされるのは、多分、川添さんの作戦だと思うが、今回は、その歌から三番のこの歌を選んだ。こんな快い目覚めは長く長くしてことがないので。毎朝、今日は出掛けたくないなぁと思いながら、ようよう蒲団から抜け出す日々を送っております。  (『大阪春秋』編集長)
三 島 佑 一
日々眠るは夜汽車のごとし次々に輝きと闇眺めつついる(夜汽車)「日々眠る」に「夜汽車」をつきあわせて譬えられているのに衝撃を受けました。いわれてみれば夜汽車は、窓外の輝きと闇が次々目に入ってくる。それに夜汽車は動くもの。日々の眠りを動きにおいて、移ろうものとして捉える視点が面白いです。そして人生もつまりは輝きと闇の交錯です。それを距離をおいて眺める。眠りにはそういう客観的静観があるといえましょうか。日々の眠りという習慣的日常に、気づかなかった視座を与え、それに人生を感じさせてくれる。味わい深い一首と思いました。(文芸評論家、歌人)
佐 藤 昌 明
流氷となりて眠れば眼裏の海に無数のクリオネ泳ぐ(夜汽車)我が家から望むオホーツクの海に、流氷が白々と輝いて横たわる。あの流氷のせいで、こんなに雲一つなく晴れているというのに、マイナス十五度の凍えた風は身を切るように冷たい。「流氷で喜ぶのは観光客だけだよな‥‥」一緒に除雪する隣人が、毛糸の帽子の中でボソッとつぶやく。しかし、冬何カ月か網走を離れた私が「流氷が離れないうちに早く帰りたい」と真剣に考えたことがあったことを思うと、この歌が、単なる作者のノスタルジアではないと頷ける。流氷は人の心を捉えて離さない『魔氷』でもある。  (作家。網走在)
鈴 木 悠 斎
心して独りなるべし生きながら我がシャレコウベ風化してゆく(夜汽車)
私事で恐縮ですが、昨年神戸で「おしゃれ神戸展」という創作花札の個展を開きました。その中で赤いマントをひるがえした女性を描き、そのマントに「おしゃれ神戸」と書きました。そしてその姿をそのまま骸骨にして、黒いマントに「しゃれこうべ」と書いた作品も作りました。これらは文字通りのしゃれですが、鬼貫の句に「骸骨の上を粧うて花見かな」というのがあります。どんなベッピンも男前もひと皮むけばシャレコウベです。昔の詩人はそのことを自覚していました。芭蕉も「野ざらしを心に風のしむ身かな」と詠んでいます。川添氏は頭に動脈瘤が見つかったことをシャレコウベが風化してゆくと歌われましたが、そのシャレコウベは風化してだんだんもろくなってゆきますが、ますます白く冴え渡ってゆくでしょう。「心して独りなるべし」はちょっとあからさまにも思えますが、生きながらシャレコウベが風化してゆくという表現は鬼気迫るものがあります。 (書家)
村 上 祐 喜 子
クリオネは羽根きらめかせ懸命に赤き心の鼓動を伝う(夜汽車)
二月の中旬、テレビや新聞で流氷原を何度か見、その度にまだ訪れたことのない北海道の海に想いを馳せ、また川添先生がそこに魅せられて何度も足を運ばれているお気持ちがよくわかりました。同時に流氷原近くの水族館のクリオネも映し出され、愛嬌ある妖精の姿に和顔になっていく自分を感じました。健気な命、愛らしい動き、それだけで幾多の言葉より伝わるものがあり〈赤き心の鼓動〉を感じました。文庫本や今号の表紙写真にも同じ思いを抱きました。静寂な中にぽっと一点赤くなり、まわりが染まっていく美しさ…ひきこまれる情景です。   (絵本作家)
井 上 芳 枝
美味い店入るたび母にたべさせて上げたかったが込み上げてくる(夜汽車)お母様思いの川添先生の切ないほどの気持ちが伝わってくる歌です。「たべさせて上げたかった」きっとお母様も良き息子に恵まれ、天国でどんなに喜ばれていることでしょう。結句の「込み上げてくる」に、グーッと感情の流れが押し寄せてくるようです。 (北九州市立大蔵中学校時代恩師)
伊 藤 勝 子
表層を飛び交う言葉の奥にある心を観つつ対話は弾む(夜汽車)
◇本当のこという人は嫌われる社会か今も昔も同じ◇つみびとのように自分が語られる類なきものは気に障るらし 相手の真意を考えながらの対話。筋の通ったことと思っても、数で押されて疎まれる。心ない言葉で痛む心。それを癒してくれるお母様。寝て見えるところに母の写真ありなあ母さんと言いつつ過ごす 亡くなられた今も猶、先生の心を温かく包んでくれるお母様、他の多くのお母様を詠まれた歌で先生のお母様への深い愛が読み手にも伝わり心が丸くなる思いです。前後の歌は常日頃身につまされて感じていることなので三首も選んでしまいました。(佐呂間在)
柴 橋 菜 摘
心して独りなるべし生きながら我がシャレコウベ風化してゆく(夜汽車)夜汽車の一隅に同乗させて頂き、その一首一首に想いを致すなかで、はたと自分の姿を突き付けられた。生きながら風化して宇宙のチリに紛れていく。人の一生、あくせくゴタゴタが何ほどのことか―。『朝の紅顔なれど 夕に白骨となれり』父を突然心臓死で亡くした二十三年前、この言葉ほど私にズシンと落ちたものはなかった。どんなにあがいても、同じ道を行くのである。たとえ我が身は白骨となっても、魂は次の世界へ旅立ち、懐かしい人々と逢えると信じている。この世で成さねばならぬ仕事を終えてのちに―。 (大和高田市在)
山 川 順 子
山壊し川を氾濫させて雨今朝はカラリと秋晴れとなる(夜汽車)
昨年から今年の天災、地上は悲惨なのに空は何ごともなかったようにスッキリ晴れている。あの雨が、地震が、津波がうらめしい。神様はいないのか? いや、いるからこその現象か。あまりにもむごすぎる。(札幌市在)
米 満 英 男
ぐしゃぐしゃと絡まり身動きさえ出来ぬスランプ抜けよ知恵の輪のごと(夜汽車)
歌づくりを続ければ続けるほど、歌が遠ざかるような気がする。歌が逃げるはずはない。こちらが疲れて来たのか、飽きて来たのか。些かならず疎ましい気分になる時がある。永年に渡り、まさに歌を愛し、歌に愛されて来た――と思っていたのは、実は錯覚で、歌の奴は平然として、こちらを見捨てるかも知れない。さてこそ、これから先の歌道中は、彼奴の後ろ姿を追い続けるのでなく、逆に追い抜き、振り返りながらアカンベーでもして見せよう。〈知恵の輪〉をするりと抜けたその先に、歌の果報が待っている――。あれっ、戯れ歌一首がぽろりと生まれた。(歌人)
道 上 隆 三
パチンコ屋ばかり豪華に人間が同じ方見て並んで座る(新緑号)
世俗的になる材料を見事に料理している。平凡でなく平明に、すべてバラバラの現世を鋭く抉る。かつて滾った再建日本の国民パワーも今は被災地にしか見られない。目的を失った社会への痛烈な批判であり、それはまた自己への戒めでもある。稲の葉にちょこんと座る雨蛙母亡き我のなぐさめとなる(紫陽母)郷愁の湧く一首。雨蛙の姿もあまり見られなくなっているが、茂吉の歌の世界をふと思い出す。じっと稲の葉に留まっている蛙はいまにも鳴きださん構え、その蛙に雨の降り出す刻を待つ少年。この軽妙な俳諧性に男の感傷が滲み出る。 (歌人)
安 森 敏 隆
英雄も犯罪者も死を弄び人の歴史の不可解続く(夜汽車)文庫本『流氷記』のあと、川添さんがどうふんばるかが、とても楽しみだった。その意味でこの「第四四号」はとても意味があるし、嬉しい。〈死〉と〈生〉は不可解でもあるが、とても本質的で逃れようがない。そして「英雄」も「犯罪者」も等しく平等である。私は今、ひょんなことから引野収さんと浜田陽子さんをモデルにした朗読劇「いのちの短歌」(作・演出 藤沢薫 監修者 安森敏隆)にかかわり、引野収さんの、四十年間仰臥のままで手鏡に映る世界を詠んだ歌をよんで、まことに感動している。それが、川添さんのこの歌にかさなった。 (歌人)
弦 巻 宏 史
金色に輝きながら夕陽待つススキに風はささやきわたる(夜汽車)
ススキが悲しいほど少なくなった。私には多いほど懐かしい。夕暮れは美しい風景である。五感もからだも揺すぶられる。僭越ながら、私はいま多くの人びとによって取り戻したい風景、とりわけ子ども達に育てたい感性のひとつだと思うのです。「例外や境界不明の文法を教えるやるせなさ持ちながら」これも基礎学力の教育なのですか?同感です。「災害も多大な死よりも正月は芸能人のお笑いに満つ」まさしく、少しの時でも立ち止まりたいものだと思うのです。 (元網走二中教諭)
小 川 輝 道
白鳥のように飛びたいおらびつつ流氷原を見下ろしながら(夜汽車)
「文庫本・流氷記」を世に出し、長い時間に辿った実作と編集交流の足跡をまとめることにより大きい区切りにした。「力仕事」であるだけに徒労感や表現のあり方を模索する苦しみが続いたことと思う。生まれ出ずる悩みは表現者の宿命とはいえ、孤独な格闘に共感や同情を持つものです。右の作品は川添さんの新しい原点となった流氷原を広く鳥瞰しながら大きく飛翔し続けたい気持ちが素直に込められていてほっとさせられる作品だった。抱える身体状況、憧憬と飛翔、再生への想いが深く、苦悩のただなかに切望する情念のおおらかな表現を多としたい。(元網走二中教諭)
井 上 冨 美 子
白鳥のように飛びたいおらびつつ流氷原を見下ろしながら(夜汽車)この度、発行された川添英一歌集流氷記の文庫本を手にした時、四十三号まで続いた手作りのミニ流氷記は、発行されないのではないかと思っておりました。川添先生にとりまして、お歌との三十年という長い道のりを経て、いろいろな思いが一杯込められた文庫本流氷記が、発行されたということで大きな大きな一区切が出来たように思われたからです。ところがそれは素人の浅はかな考えであることを、この歌を拝見して知りました。初心に立ち返り、敢えてご自分を厳しい中に置き、創作の中でご自分の世界を確立したいという、川添先生の熱き心情が伝わってまいりました。(元茨木二中教諭)
羽 田  野   令
梅雨の間のズボンの裾の濡れているシロツメ草を踏みて帰れば(紫陽母)家に帰って脱いだズボンの裾が濡れている。おやっ、何でだろう、あっそうか、シロツメ草のところを通ったからだ、と気付く。詠まれているのは、こんな何でもないことである。ズボンを濡らしたのは、シロツメ草のちょっとした悪戯のようにも思え、このシロツメ草たちに可愛らしさを感じる。都市の日常生活の中の一場面をこのように切り取る作者のこの視点に好感を持った。 (歌人)
里 見 純 世
本当のこという人は嫌われる社会か今も昔も同じ(夜汽車)先生の歌を読んでいて成る程と同感を覚え、自分もこういう率直な歌を詠んでみたいと時々思います。然し仲々読めませんので、此の点について表せずにいられません。本集を読んで、小生の心にすうっと入ってきた歌を次に書いてみます。▽低き雲ゆっくり光りながら行く体育大会予行はつづく作品の出来ないことが一番の苦しみ世間の只中にいて冤罪に満ちてこの世は実直な人ばかりかく災いに遭う (歌人)
葛  西    操
美味い店に入るたび母に食べさせて上げたかったが込み上げてくる(夜汽車)新しい年に向かって先生お元気で何よりです。私は今、先生のこのお歌を読んで過ぎ去りし樺太引き揚げの苦しみを思い出して亡き母を偲び、涙して、思い出しております。当時幼子五人も連れ、夫は招集、五年後の帰国。本当に亡母在りて今日の私は子供共々無事に暮らしております。母のようなことは、今の世の若き母親にはとても真似は出来ないと思います。今の世はちょっと狂っているように見え、何か末恐ろしい感じがします。私は朝夕の仏前に向き、今日ある事を感謝して祈りを捧げています。先生にもお母様が見守っておいでと存じます。お元気でご無事でお励み下さいませ。 (歌人)
前 田 道 夫
我が脳に動脈瘤ありありありと氷塊岸にとどまるごとし(夜汽車)
脳に小さな動脈瘤が見つかったとのこと、大変なショックを受けられたこととお察しいたします。しかしそれも「氷塊岸にとどまるごとし」と客観的に捉えられていることは、さすが『流氷記』の作者ならではのことと深く感心しております。健康であっても人間明日のことは分からないもの、私も自覚症状はありませんか癌を抱えております。「すんなりと常に流れてゆけぬもの動脈瘤あり親しくなりぬ」の歌のように、体内に棲んでいる病とも親しくし一病息災で生きてゆきたいと願っております。(歌人)
新 井 瑠 美
にわか雨降りて木陰の曼珠沙華独り輝くのも悪くない(夜汽車)上句で、俳句になる情景が見える。見えるということ何よりの安定感があり、付け足すものは何もない。そこで作者は、下句につぶやくように言ったのだ。〈独り輝くのも悪くない〉これが又、不思議に活きて、自負だけではない含羞までほの見えてくる。人は人、自分が輝いた生き方が出来れば、それでいいではないか。そう教えられた一首であった。〈通過する夜汽車の窓にいる我とそれを見ている我とがありぬ〉 (歌人)
松 永 久 子
表層を飛び交う言葉の奥にある心を観つつ対話は弾む(夜汽車)久々の歌集のなつかしさ。早速に魅かれた一首。人間の習性や心理の絡みを巧く捉えて表出されている。五句目の対話は進むのではなく「弾む」だからなおしたたかであろう。誰しもがこのように言葉の奥にあるものを充分に感じ取りながらの会話を持てたら人生はどんなにか深い幸せが得られることだろう。「飛鳥人そこにいるよな萩の花しばらく風の間にまに揺れる」萩の花の古風さが古代人とよくマッチし、何か一幅の絵を見るようなゆかしく妙なるものが湧き出て大いに共感させられました。今号はすっきりした印刷でよかったです。 (歌人)
鶴 野  佳 子
和やかに教師と生徒という立場ほどかれつつ午後冬の日を浴ぶ(春氷号)好きなうたはいっぱいありましたけれど、この作はことに好きです。私はその生徒のひとりとなって共に冬の日を浴びています。ほんのりあたたかな冬の日溜まりで、教師と生徒が心をかよわせている。いい光景ですね。
 キタキツネ歩みしのみの流氷原その下にして育つ魚あり
 踏むたびに我が足音の響くらし崩れつつ立つ流氷の見ゆ

これらも私の心に残った作品です。ありがとう。(歌人)
小  石    薫
雨を呼ぶ風ひんやりと過ぎて昼オシロイバナの揺れやまずいる(夜汽車)「雨を呼ぶ風」から「オシロイバナ」と続いてゆく言葉の呼応に、都会暮らしで忘れかけている季節の微かな移ろいを感じ、とても郷愁をさそわれます。その風景の中で澄んでゆく気持も伝わってくるようでした。「くぐまりて生徒の歓声ひびきくるグランド秋は海底のごと」前作品とまた背景は違うのですが「生徒」「海底」という着目にすんなり共感できます。解説などせず、心に響いてくるものを味わいたい歌です。 (歌人)
古 川  裕 夫
仕方ない死ということか猫の死を跨いで車あまた過ぎゆく(夜汽車)現代の車社会では、乗車している人が誰も一度は目にしている光景であろう。日常茶飯事が淡々と歌われている。ある意味では同時に極めて非情の出来事である。この一瞬に目を止めた作者の視線はやはり鋭いと云ってよいのではなかろうか。仕方のない死、これは本当に仕方のない死である。 (歌人)
田 土 才 惠
ここにいたら母さん喜ぶだろうなぁ次々開く花火観ている(夜汽車)こんなに素直で平明で心やさしい歌があるのかと、はっとさせられた一首です。誰でもがほっとできる歌。中学生の皆さんが口遊んでくれる歌であり、思い出してくれる歌になるのではないだろうか。これから先の遠い日に花火を見ては、この一首を思い出し、この『流氷記』を、また中学生活を懐かしく振り返る日があることを信じています。母を思う人の心は永遠であり、心の中に住みつく一首となりましょう。歌は人の心を温かくしてくれる道具のひとつでもあると私は思うのです。 (歌人)
高 階 時 子
寝て見える所に母の写真ありなあ母さんと言いつつ過ごす(夜汽車)
死んでなお、これほどまでにこどもから慕われる著者のご母堂が心底羨ましい。私自身は一人っ子でいつも両親に気遣われ見つめられてきたせいか、二五歳の時、四九歳で母が亡くなった時に深い悲しみと同時に解放感を感じた。そして母の死に解放感を持ったということに罪悪感を感じて今まで生きてきた。亡母は恋しいが、母恋いの歌を詠めないでいる。著者は寝ていても見えるところに母の遺影を置き、毎日、母に呼びかけている。母は死後も常に著者のそばにいる。母の存在が著者の日常を支えている。そのことがよくわかる。なんの衒いもない母恋いの作品群に圧倒されてしまう。 (歌人)
唐 木 花 江
心して独りなるべし生きながら我がシャレコウベ風化してゆく(夜汽車)「夜汽車」。詩的風情豊かなタイトルである。しかしこの「汽車」さえも近代文明は風化させていくのだ。懐かしいものの全てが私達の日常から風化し、去っていく。それは肉親も然り。生あるものは少しずつ風化し消滅する。その中で人間の心はそんな孤独に耐えて生きていかねばならない。「シャレコウベ」というインパクトが更に寂しさを印象付けている。この頃の私もまた「孤独にいかにして耐えて生きるか」が生活のテーマになってしまった。老いていかねばならない孤独は若い日にはなかった。まさに「心して」である。「人は死ぬ」のだ。(歌人)
塩 谷 い さ む
本当のこという人は嫌われる社会か今も昔も同じ(夜汽車)昔の人が言った「人生は猫をかぶって生きろ」と被れるものなら被っていたいが…難しい。世渡りの上手な男が、開口一番「皆さんの意見に従います」と誰も発言しないうちに言う。あまりにも人間として哀しすぎるが、本当のことを言いたい。本当のことを聞きたいというのは、昔も今も変わらない。正義感の強い人ほどそう思うのだ。全く同感である。「我もまた地球と同じ内に棲む善玉悪玉仲良く暮らせ」と作者は叫ぶのだが。そして「窯元に川副川添姓のある伊万里焼見て半日遊ぶ」のうたにホッと救われている。
林   一 英
寝て見える所に母の写真ありなあ母さんと言いつつ過ごす(夜汽車)
鴨居の上か壁に掛けられたお母様の「にこやかに笑う」「常微笑の」遺影を眺めながら、夏なら「ヤマユリの匂うこの部屋」に作者は寝起きしているのであろう。柔らかい光になって隅々にまで瀰漫しているお母様の眼差し―愛情に浸りながら追慕の情を深うしている作者。二人を包んで流れている至純で永遠の時間。「なあ母さん」この呟きが美しい。広やかな開口音アを四つ連ねた優しい呼びかけで、お母様の気持ちをひたすら自分に向けながら、作者は日々亡き母様と何を話しているのであろうか。親子の閑かな語らいが聞こえてくるような、穏やかで深い味わいを湛えた歌である。 (歌人)
甲 田 一 彦
ぬばたまの夜汽車の窓は明るくて目を閉じるたび母顕れる(夜汽車)
母上の急病の報らせで乗ったのが夜汽車だったのか。この号では百八首中に、夜汽車が十二首も出てくる。しかし、この夜汽車は、作者の心象にある列車であろう。「窓際の我を写してその果てに夜汽車は流氷原のただ中」作者が実際に利用したのは新幹線特急で、化石のような夜汽車ではない。作者をとらえてはなさない流氷にも感動するが、今後の作品に、亡き母上に重なるこの夜汽車がどう進行するのかを楽しんで待ちたい。(歌人)
大 橋 国 子
目を閉じて銀河世界に入る夜汽車窓は過去へ過去へ流れる(夜汽車)
昼の汽車ではなく夜汽車は過去へ流れ、過去への思いに引き込まれるものだと思います。闇も星も本当は明日の朝という明るい日が待っているかもしれないのに…。心に自分が闇を抱える日は、殊に途方もない銀河の世界へと逆行するように見えるのではないでしょうか。でもこの歌は妖しく美しい。天上の世界の列車のように見えます。銀河鉄道スリーナインのように。辛い過去を振り捨てて目的地に辿り着くことを祈っています。(歌人)
川 田 一 路
島が出来山が出来する必然の地震津波を受け入れて観る(夜汽車)天も地も、そして人間すらも、神が造ったものでは決してない。自然が淘汰に淘汰を重ね造りあげたものだ。その一要因としての人間が全てを支配出来るという錯覚が悲劇を生む。いろいろな天災?の訪れを機に考えを改めたほうがいいのではないだろうか。 (歌人)
黒 田 英 雄
地表まで雪は呼吸を止めず降り人の歩みを美しくする(夜の大樹を)雪それ自体に、踏まれることに殉ずるひそやかな覚悟があるかのように思わせて、すぐれた擬人法だと思いますし、人の歩みを美しくするという表現に、人間存在の汚濁をすすぐ浄化作用を見て、琴線に触れます。また、単純にこの静かな光景が、静かな町が、その香りとともに漂ってきて、美しい絵画を見ているような素晴らしい歌だと思います。 (歌人)
工 藤 き み 子
もういいよ死んでもいいよと苦しみの母見て思う励ましながら(悲母蝶)励ましながら、できれば今少し生きてそばにいて欲しいと思う反面、死の淵で藻掻き苦しむ母の姿にとっさに出たであろう〈もういいよ死んでもいいよ〉の二句に胸を打たれた。十七年間、介護婦として数え切れない死に接してきたが、病院である以上、医師は近づいてきた死に猛然と挑み、死をくい止めるための蘇生術に余念がない。臨終とは、さながら医師と死との壮絶な闘いの場である。死出の旅に出る人に少しは力を残して置いて欲しいと思うほどだ。尊厳死を望む家族の思いがこの一首より切々と伝わってくる。 (歌人)
松 野 幸 穂
我もまた地球と同じ内に棲む善玉悪玉仲良く暮らせ(夜汽車)歌の幾つかからは作者の現代社会の不条理を衝くやや冷たい眼差しを感じた。しかし掲出歌には、底抜けのおおらかさに似た作者の思いが表れているのではないかと思った。「我」という生命の内にもさまざまな意味で「善と悪」が共存している。善玉菌対悪玉菌、善意と悪意など。地球という単位で考えても争いは絶えることなく続いている。が、地球という生命体に棲むからには、辛くても喧嘩しても仲直りしてやっていかねばならないのだ。現代社会に生きる我々に、大きなスケールの境涯を知らせてくれるような一首。  (歌人)
山 本   勉
災害も多大の死よりも正月は芸能人のお笑いに満つ(夜汽車)
去年の暮れは、世界中が震え上がるような大災害が起こった。大自然は時に、信じられない力を生み出すものだ。地震列島と言われる日本に住んでいれば、決して対岸の火事とは思えない惨事が、ブラウン管を通して食卓に流れてくる。被災者たちは、肉親を捜し求め、どう生きれば良いのかと途方に暮れている最中に、よそさまの出来事と言わぬばかりに、テレビでは馬鹿げた番組を垂れ流している。正月番組では芸能人たちのお祭り騒ぎ。それが良いとも悪いとも言えないが、あの大津波の犠牲者を思うと、とても笑う気にはなれない。この一首、私の言いたいことを言ってくれた。 (歌人)
小 原 千 賀 子
ぬばたまの夜汽車の窓は明るくて目を閉じるたび母顕れる(夜汽車)コントラストの美しい歌。「ぬばたまの」という闇をあらわす枕詞と明るい窓。そして目を閉じると、あたりは夜だから暗いはずなのに、お母様が見えます。目を閉じたからといって、闇ではなく、それは明るい映像です。この歌は、二つの明暗のコントラストによって、安定した美しさがあります。作者は、どんな夜汽車に乗っているのでしょうか。私には、宇宙を駆けるような銀河鉄道が、思い浮かびます。リズムもよくて愛誦性があると思います。夢を見るように月日が過ぎてゆく母亡くなりてもう桜咲く(花びら)この歌は、作者の日常と心情がよく伝わってきて、切ない。時の移り変わり、悲しみと美しさ。人が亡くなるというのは、どういうことなのだろうか。「死は終わりではない」という言葉を何人かの人から聞いた。肉体がなくなり、うつし身の人には会えなくなるが、存在は変わらない。川添氏の歌を読んでいると、そう思う。今年の桜を、どんな思いをもって川添氏は見るのだろう。
若 田 奈 緒 子
飼い主の引っ越し過ぎてもたれ泣く仔猫と目の合うこと怖れいる(夜汽車)この歌は共感とは程遠く、衝撃を受けた。人間の都合で置き去りにされた仔猫を見て、目も合わせられない感情に襲われる大人が世間にはどれ程数えられるだろうか。子供でさえ、可愛想、助けてあげたいと思う程度だろう。私もその一人だと思う。目の合うこと怖れいるという表現は、人間と猫という力関係の中で猫を哀れんでいる時には決して出てこないだろう。同じ命ある動物として、猫と同じ立場に立ち、人間の不条理さに怒りを覚えたゆえの表現だと思う。一匹の仔猫の痛みにこれ程までに立ち止まれる人こそ、国語という心と密接した科目を教えるのにふさわしい先生だと強く思う。 (茨木西陵中卒業生)
高 田 暢 子
この歩みいつか途絶えるところあり朝顔の花今朝はしぼみぬ(夜汽車)人もいつかは死ぬ。老いて枯れていく。私は花の一生と人の一生とは全然似ていないと思っていた。人は輝こうと思えば輝ける。生きようとすれば寿命までは生きられると思っていた。けれどどんなに努力しても、どうにもならない、死んでしまうことがあると知った。途中で人に踏みつぶされたり、手折られたりしても、再びたくましく生きられる花、そうでない花。やはり、人の一生は儚いものなのだろうか、だから美しく花に似ていると感じるのだろうか。まだ私にはわからない。 (茨木西陵中卒業生)
小 西 玲 子
母のこと考え思いに浸るとき楽になるわが束の間がある(夜汽車)私は、亡くなった祖父のことを、最近は優しい気持ちで思い出すことができます。朝起きてすごく気持ちの良い天気だと、心の中で祖父にその空が見えているか聞きたくなる。いつも通りの帰り道でも、小さな池でも、祖父に見せて上げたくなります。そんな時私は温かい気持ちになります。でも祖父ならきっと全部見ている気がします。毎日私を見守っている気がする。祖父が私や家族に生きた証を残していった、その証の一つが私の中にあるということだと思います。私の心の中にはこれからも変わらず祖父がいます。(西陵卒業生)
山 田 小 由 紀
表層を飛び交う言葉の奥にある心を観つつ対話は弾む(夜汽車)最近、私は自分の思いを正直に話すことができない。どんな時でも大丈夫、大丈夫と強がったり、こんなこと言われたら自分でも嫌だなぁと思いつつも嫌みなことを口にする。話している相手もそんな私に不満は感じていると思うのだけれど、表面上の対話だけは弾んでいる。とても悲しいことだと思う。心が寂しくなってしまう。中学生の頃は当たり前のように思っていた、自分に素直になって、人に心を表すことの大切さを感じた。当然、そこには衝突が生じることもある。けれど、得るものも大きい。肉親でも友人でも、本当に分かり合うためには心の奥から気持ちを伝えなくちゃいけない、当たり前のようで忘れかけていたこの事を、この一首で思い起こした。ここにいたら母さん喜ぶだろうなぁ次々開く花火観ている(夜汽車)体調を崩したり、何も食べられなくなった時期には、気持ちまでマイナス思考になってしまう。そんな心が寂しい時、ふと心に思うのはやはり肉親の温かさ。この一首に、母親を想う優しい先生の姿と共に、どこか寂しい影を背負う先生が想像されてしまった。(西陵中卒業生)
高 谷 小 百 合
美味い店入るたび母にたべさせて上げたかったが込み上げてくる(夜汽車)
私はよく後悔をします。あれをしておけばよかったな、などがよくあります。この詩は川添先生のやさしさや思い遣りが伝わってきます。お母さんを亡くしたらとても寂しいけれど、きっと自分の中では生きていて、何をしていてもお母さんを思い出せるんだろうなと思います。先生の詩の、たべさせて上げたかった、という部分はとても悲しくなるけれど、きっとその思いは、お母さんに届いているんだろうなと思いました。 (西陵中卒業生)
森   晶  子
飛鳥人そこにいるよな萩の花しばらく風の間にまに揺れる(夜汽車)日本史を学び始め、最近ふと私の今いるこの土地に昔々根付いていた太古の人々からの歴史というものを感じるようになった。日常生活の中で目にするのはもちろん現代のハイテクな姿だが、自然の安らぎに耳を傾けると、自分がタイムスリップしそうな気がすることがある。また、特に戦争などの大事件について考える機会に頭に浮かぶのは、歴史は繰り返される、というフレーズ。新しい時代に生きる者ほど先代の過ちを踏み台により賢い社会にせねばならぬのに、人間にはそれが難しい。とあるきっかけから先人の生き様を思うとき、人間の深みと愚かさの両面が見えてしまうのはなぜだか切なさを帯びている気がする。 (西陵中卒業生)
吉 田 佳 那
蛛膜下出血予備の爆弾が目の裏側にくっきりと見ゆ(夜汽車)先生がご病気らしいとうわさをきいたが、まさか蜘蛛膜下出血の一歩手前だとは、知らなかった。本当にびっくりした。詳しい事がわからないのでとても心配だ。川添先生は、普通の人の何倍もエネルギーがあって、絶対病気になんかならないと思っていたのに。でも爆弾をくっきり見ながらも、流氷記をバージョンアップされる所が、川添先生だと思う。(西陵中三年生)
輿 能 本 風 香
バーチャルが本物になる喜びとかなしみ今も死を恐れつつ(夜汽車)
現代の小中学生には死んだ人は生き返ると思っている人が実に多いそうだ。そういう人が今の少年犯罪を起こしているように思う。どこまでが現実で、どこまでがバーチャルなのか、その境目が分からずに殺人鬼となり、世間を騒がしている。文明の発達も良いが、もう少し人としての発展をしてほしいものだと私は思う。  (茨木西中三年生)
岡 本 藍 里
服を着て携帯もってああ人は奇妙で不思議な事ばかりする(卵黄海)服を着て携帯もって・・・。今の世の中では疑う余地の無いぐらい当たり前のこと。特に『服を着て・・・』などは、着ないほうがどうかしている。しかしよく考えてみれば、その様な事は全くもって奇妙な事である。この宇宙でそんな事をするのは人間ぐらいしか存在しないだろう。[恥を隠したい]と言う己が欲望の為に、服や道具を作り資源を破壊してゆく・・・・。人間とは何と愚かな生き物なのか。そして、この世の中で一番謎に包まれているのは人間ではないのだろうか。(茨木西中三年生)
小 野 ま い
ニンゲンは改良されて来たのかとこの頃不思議に思うことあり(夜汽車)
この歌を読んで、確かにそんな気がしました。何をしてても真剣になれば、難しいことだって簡単になることがあります。人間はしんどいことでも真剣に努力すれば楽しくなり、生き生きと少しずつ少しずつ改良されていくように思います。自分でもそういう力をつけたいし、自分で自分を改良できるようになりたいです。 (茨木西中二年生)
山 崎 響 子
目を閉じて見れば明るく果てしない流氷原を夜汽車が走る(夜汽車)目を閉じると明るく果てしない流氷原を夜汽車が走るという空想的なところがいいと思います。つらい時にこの一首を読んだら、きっと心が楽になることだろう。そして、この一首のシンプルさもいいです。目を閉じると…!本当に明るく果てしない世界が…どんな世界なのか想像するのが楽しくなります。これからも人々を励ますような、こんな一首を書いてくれればいいな、と思いました。(茨木西中一年生)
中 野 泰 輔
母のこと考え思いに浸るとき楽になるわが束の間がある(夜汽車)自分でも、母と一緒にいるのは忙しい一日の中で数少ない時間なのだと思う。世間ではマザコンと言われるかもしれないが、人間誰でも母親に対する気持ちは変わらないと思う。母というのは、自分をこの世に解き放ってくれた人でもあり、神様でもあると思います。長い一日の中でも母親と一緒にいる時、母のことを考えている時が一番落ち着ける時間なのかもしれません。 (茨木西中一年生)
玉 谷 純 基
この道を選ぶにあらねど後戻り出来ぬ地点を過ぎてしまえり(紫陽母)これを読んだ時。もしぼくが違う道を行っていたら、もっと楽しかったのだろうなと思ってしまった。あっ、違う道を行っておけばよかったなと思うのは一つの発見だった。そんなことをこの歌が教えてくれた。

編集後記
45号夜汽車から長い期間があった。田中榮さんの亡くなったことで体ごとごっそり消耗してしまった。何かを発見したり感動するたびに田中さんと喜びを共有していた日々が一気になくなってしまったのだ。さらにこの号の題名もなかなか定められずひときわ美しかった桜を彼に伝えたかった無念の思いか一期一会の言葉が体中を駈け巡った。流氷記はこんな時期こそ見事に乗り越えていかなければならないのだ。田中榮さんの言われたように流氷記を突っ張ってでも敢行していきたい。きっと僕にしか流氷記にしか出来ない世界が広がっていくに違いないから。