中   村    桂   子
二つ岩一つの岩に見えるまで歩めば心和らぎてくる(氷点旅)
 前回の那智の滝もそうでしたが、今回の二つ岩も実際に訪れたことはありません。ですから、勝手なイメージを作り、勝手に歩いていく気分を味わいましたが、それで、私もなぜか和らいできました。前回の歌の評の中に、核大国のアメリカが他の国に核を持つなと言う不思議に触れた中学生の言葉がありました。兵器を持っているかもしれないと言って勝手によそに入り込んで子どもの命まで奪うのもなぜそれが許されるのか分からないことです。分からないこと、怒りたくなることの多い中で、心和らぐ時をいただけて有り難く思います。     (JT生命誌研究館長)

畑   中    圭   一
首垂れて枯れ蓮群るる鎮まりの水面は白い空映しいる(氷点旅)
 一見、冬枯れの蓮池を詠んだ写生の歌であるが、よく見ると「首垂れて」「鎮まりの」の二句、さらには「白い空」という句などから、硬直し、萎えた心をうたった暗喩的表現の歌であることが分かる。「鎮まり」という語は本来「(神が)鎮座する」という意味だが、作者はそれに「静まる」「沈む」の意を掛けて表現したと理解したい。こわばって容易に動こうとはしない精神風景が、どことなく東洋的無常観を伴ってうたわれていると見たのは、私だけだろうか。               (詩 人。児童文学者)

三   浦    光   世
孤児あれば父母のこと話せずに授業が進む如何ともなし(氷点旅)様々な環境にいる生徒たちに、いかに教えるか、むずかしいことであろう。孤児の前では、両親のことを話し得ない苦衷、その苦しい思いを一首に訴えて、深い共感をもたらしている作品。三歳で父を失った私には、切実この上もない。人間に対する愛がなければ、到底このような一首にはならない。単なる同情からは生み出すことのできない作品と思う。   (三浦綾子文学館館長)

加   藤    多   一
黎明の高く悲しき猫の声聴きつつ時は瞬く間に過ぐ(氷点旅)
 この歌の、伝統的作歌技法に落ち込まない不器用さ(大結社の大選者のみなさんは「稚拙」という表現にしたいところを、営業を考えて我慢して「素朴」とでもいうのでしょうね)「黎明」も「聴きつつ」も荒っぽくて安易ではありますが、この川添流不器用さを失わないで欲しい。そうでなければ、自他を告発する鋭い歌の種子が育たなくなるのは必定。エライ歌人はみなそうなっていき、限りなく「宮中御歌始言語」に近づいていくのだから‥‥歯の根っこ怒って語りかけてくる夜は痛みを受け入れて寝る この方向好き。 (児童文学作家)

萬 里 小 路   和  美
母居ればもっといいのに金木犀匂うことふと告げたくなりぬ(那智滝)金木犀の甘く優しい匂いに出会うと、その喜びを誰かに伝えたくなります。作者のお母様が、金木犀の香りの中で、ほほ笑んでいらっしゃるのを感じさせてくれる歌です。我家の娘達が幼い頃、庭の金木犀の花を集めて、ひとつひとつ画用紙に貼りつけ、花束の形にして誕生日にプレゼントしてくれました。いつまでも忘れられない金木犀の思い出を大切に生きていきたいと思います。     (詩  人。京都八幡市在)

 川   口      玄
小生の好きな歌、なるほどと納得できる歌を左に列記しました。
今朝冷えてどこからともなく虎落笛家々の間を渡りゆくらし
次々に明るく家が浮かびいて私の町も雪暮れてゆく
思っても詮無きことが次々に出でて自分を叱りつつ寝る
生も死も詠うよりほか術なくて信仰深き人を羨む
信のない我が行き先は如何ならん神に召されてとは言うけれど
   (『大阪春秋』元編集長)

神   野    茂   樹
しょうもない歌にもならぬことばかり無駄に過ごしていると思えり(氷点旅)
以前にも記しましたが、ボクはどうも花鳥風月に鈍感で、ややもすればヤボな(失礼!)歌を選んでしまいます。ボクの選んだ歌ばかりを集めるとユニークな歌集ができるかもしれません。右の歌の他
偉そうな教師に反撥したくなる生徒の心残しておこう
良い教師悪い教師と分けてくる教師が責める苛立ちながら
   (『大阪春秋』編集顧問)

菅   沼   東 洋 司
流氷となりて彷徨う道東の雪は静かに沈みつつ降る(氷点旅) 世の中は意にそわないことが多い。こうあるべきと思うのに決してそうはなってくれない。複雑多岐な人間界の仕組み。もつれやすい人間たちの感情。スンナリと行かないのは仕方のないことと諦めていても、やはり正直な己の心はつねにどこかで反発しているようです。そんな迎合し難い気持が流氷に降り積もる雪に託されたのでしょう。雪が音もなく道東の海に降りつづけるのを見ている作者の心情は決して穏やかなものではないようです。正当化、保身の為の嘘に満ち幾多の事実変えられていく 私の中で共鳴し合ったこの二首、詩人の心底を流れる偽りのない思いと受け取りました。          (作 家。ブラジル在)

鈴   木    悠   斎
悔しくて眠れぬ夜は歌作る絶好の時作れば楽し(氷点旅)
 これと似た歌を以前に見たことがあると思っていたら、三八号(帽子岩)にありました。「悔しくて眠れぬ夜は選り分けて言葉を歌となるまで磨く」。歌としてはこちらの方がずっと重みがあっていいと思いますが、やはり川添さんは怒りの歌人だと再認識しました。五号(冬菊号)に「我が歌の存在理由かもしれぬ鬱々としてなじまぬ世間」という歌がありますが、これこそ氏の歌の本体でありましょう。おめでたい世間に背を向けて、悲しみや憤りを糧にいい歌が出来るのです。大阪では「こけてもただじゃ起きん」と言いますが、余り大阪過ぎ でしょうか。  (書 家)

込   堂    一   博
焼香の順に並べど明らかな死の順番が何処にかある(秋徒然)
 葬儀に参列すると、亡くなった故人と、生きて参列している人々との間には、大いなる違いがあるように感じることがある。しかし、作者は自分もやがて死すべきもので、その峻厳な死の事実から決して逃げ出すことができないことをしっかりと直視している。「突き詰めて思えば生も死も全てあっという間の過去となりゆく」「数日前話したばかりの伯父が今火葬の炎のただ中にいる」これらの歌も、人間の生のはかなさと、死の現実から決して目を離していない。生と死を真正面に見据えて生きている、この作者、川添英一という人は、まさに人生の求道者だ。

小   川    輝   道
道真中保ちつつ角曲がりゆく全盲なれば神宿るらし(氷点旅)
障害を持つ人たちの不思議なほどの身体能力、研ぎ澄まされた反射神経に驚きを禁じ得ないことが多い。川添さんが都市住民の生活行動を何気なく目にしている時、全盲というハンディのある人の行動の力に驚嘆している。不自由な人の苦闘に気づき、路上の行動者を表現できたことは、この人らしい感性の賜物なのだと思わせられた。黒土は北海道の春の色堅雪溶けて湯気立ち昇る 大地を閉ざしていた堅雪も消え去り、一斉に湯気が立ち昇る景観は、黒土が呼吸しているようで、生気に満ち躍動感に溢れている。春の大地の壮観さを表現している。    (網走二中元教諭)

井   上    芳   枝
雑踏に目を凝らし見る亡くなった母がまだいるような気がして(氷点旅)いつも心の中はお母様とご一緒の川添様。お母様もきっとそばで川添様を見守ってくださっていることと思います。「目を凝らし見る」に揺るぎない強さを感じます。母親と息子の心の結びつきは深く美しいものです。「母がまだいるような気がして」にほのぼのとした川添様の温かさを感じます。
        (北九州市立大蔵中学校時代恩師)

井   上   冨 美 子
氷点の陽子となりて歩みいる海岸町から二つ岩まで(氷点旅)
二つ岩一つの岩に見えるまで歩めば心和らぎてくる
神様のような人よと母言いし三浦光世氏わが前にあり

氷点旅のクライマックス!川添先生のお話をお聞きし、こんな偶然が本当にありうるのかと思いました。ここ数年、オホーツク海に流氷の姿が見えるのは本当に限られた期間で短くなりました。川添先生が当地に姿を現すのを待っていたかのように、流氷も姿を現し、そして教え子を訪ねて二つ岩の渚亭に足を向けると「三浦綾子文学の旅」の立て札が。そしてそこにお母様が神様のような人よと言ってらした三浦光世氏本人がいらっしゃった‥‥本当に奇跡のようなお話しです。川添先生の興奮醒めやらぬお気持ちがこちらにも伝わってきました。川添先生の日頃の思いが通じたのでしょうね。そう言う意味で、この三首は私にとっても特別な歌となり心に残りました。  (網走二中元教諭。網走在)

里   見    純   世
黒土は北海道の春の色堅雪溶けて湯気立ち昇る(氷点旅)
この一首、北海道の情景と先生のお気持ちとが一致して感心しました。外にも、次の歌にも先生のお気持ちがよく出ていると思います。
ただ白き美幌峠の小丘に本田重一思いつつ行く
神様のような人よと母言いし三浦光世氏わが前にあり

あとがきに中川イセさんのことが書かれていましたが、小生も市民葬に出席し、敬意を表しました。
網走の誇れる中川ばっちゃんの市民葬とて吾も連なる  純世           (歌 人。網走市在)

米   満    英   男
ゆっくりと走る人あり川遠を溶かして赫き日が沈む見ゆ
海底を泳ぐウミウシさながらにわが舌歯茎と歯に触れて棲む
蛇のようにミミズのように我が髪が洗面斜面を流されて行く
川明かりすべてが遠く聞こえいて風吹くたびにさざ波の立つ
流氷となりて彷徨う道東の雪は静かに沈みつつ降る
見る限りサロマ湖白き一枚の布にて空とのけじめすらなき
   (歌 人。宝塚市在)

堤     道   子
ただ白き美幌峠の小丘に本田重一思いつつ行く(氷点旅)
 作者は本田重一氏と共に縁の地となつた流氷の海のある街へと心が急く。作者は道東は体の一部となっているとも歌っている。住んだ体験の中で貴重となった人との出会いが、色々な過去を振り返らせて道東へ呼ぶのであろう。また私の記憶の中からは、本田氏が本州の歌友に向かって旅をする一途な姿を想像される言葉を聞いたことがある。当時は「流氷記」を書いている作者と本田氏のつながりも知らなかった。今、明らかになってみると、作者と本田重一氏の出会いと旅は、深く大切なものであったと知るのである。     (歌 人。北海道芽室町在)

利   井    聡   子
冬空にオレンジ色の満月がこの世の出口くっきりと見ゆ(氷点旅)先日、友人達と作歌上での「出口」「入口」の論議をしたばかりだったので、まず、この一首に目がとまった。この歌の場合の「出口」は、上句にオレンジ色という美しい色を配したことにより、対比する地上の醜さを暗に表している。それ故、この出口は、この醜さからの脱出願望とも受け取れる。この月の色が、灰色とするなら、また、満月が眉月とするなら、当然「入口」になるだろう。作者の位置や上下の言葉遣いで「出口」「入口の使い方が全く違ってくる面白さを再確認したものである。 (歌 人)

高   階    時   子
見る限りサロマ湖白き一枚の布にて空とのけじめすらなき(氷点旅)サロマ湖は北海道網走支庁にあり、北海道で最も大きな湖である。私はサロマ湖を実際に見たことはないが、この歌を読むと薄い青みを帯びた白い湖面が目の前に広がっているように見える。それはまるで空とひと続きの布のように光っている。雄大な情景である。サロマ湖は「佐呂間湖」のように漢字表記がなされることがあるが、この一首ではカタカナ表記の「サロマ湖」とすることで、神秘的で情景がより広がりを持つように思われる。
 作者は『流氷記』という掌に載るほどの小さな個人歌誌を発行している。毎号100首近い短歌と、読者から寄せられた前号の一首評から構成されており、年に数冊ほど発行。入力、印刷、製本と全て手作りの歌誌である。最新刊は2007年3月で51号となる。旺盛な作歌力と持続力に感服。
  (歌 人。彼女のブログ『私の選んだ一首』四月十五日より。)

唐   木    花   江
再生を信じたくなる二月尽椿の赤き花転がりぬ(氷点旅)
転がって死ぬ「花首」美しき頭蓋、再生を想起させるに充分だ。赤い花の転生は何だろう。考えるに鬼気迫るものがある。仏教的思想も作用し、読み手によっては更に深い哲学的考察も可能だろう。「動かずに見えて流れるものばかり川土手歩めばこの夕明かり」上三句にも仏教的教えが感じられる。歳月も風も雲も地球でさえ、すべて流れ去るものばかりだ。川添英一には安威川詠が多く、故田中栄には紀ノ川詠が多くあった。師高安国世も田中栄もすべて遠くに流れ去った。某短歌結社での楽しかったことの数々も今の私にとっては、遠くに流れ去ってしまった。     (歌 人。大和高田市在)

前   田    道   夫
冬空にオレンジ色の満月がこの世の出口くっきりと見ゆ(氷点旅)  満月をこの世の出口と捉えたところがユニークである。出口であるから此処を通っていった肉親や友人等、親しかった人が偲ばれるとともに、自身の行く末にも想いを馳せているところであろう。この作品と並ぶ
歯の奥の痛みに耐えて眠る夜は愛欲すらなきことを哀しむ
口の中常濡れながら内臓の入り口守る舌ひらめかせ
歯の根っこ怒って語りかけてくる夜は痛みを受け入れて寝る
内臓の痛みが教えてくれること無数の命が命を守る

等、肉体の痛みや命を詠った作品。それぞれ身につまされるものがある。            (歌 人。浜松市在)

池   本    一   郎
桜も咲き出しました。春本番です。流氷記五一号いつもながらありがとうございました。私の好きな歌は
ゆっくりと走る人あり川遠を溶かして赫き日が沈む見ゆ
見上げれば音くぐもりて滝の水落ちる途中に次々凍る
吹雪きつつ美幌峠の黒き文字何も見えない白きただ中

などです。流氷はいつか見たいものです。多謝。
(葉書にて、歌人、鳥取県ゆりはま市在)

古   川    裕   夫
束の間も一期一会か安威川の浅瀬を歩む白鷺が見ゆ(氷点旅)安威川は作者が多の作品にも使っている固有名詞である。一瞬白鷺の目と作者の目が合ったのである。束の間の出会いで、鷺はすぐに空へ消えていったに違いない。鷺はコウノトリ科に属するサギ科である。眼の周囲は露出し主として魚を捕食する。一期一会は禅のテーマである。この時限りの出会いなのだ。浅瀬を歩む鳥の鋭い姿が魚をつついている様子が見えたのである。この時限りの出会い。明日は鷺も自分もどうなっているのだろう。限りなく残る白鷺の残影である。       (歌 人。滋賀県大津在)

 林     一   英
冬空にオレンジ色の満月がこの世の出口くっきりと見ゆ(氷点旅) 川添さんの歌はどれもいい。五一号でも特に好きなのが十二首もあった。その中で、私に一番だったのが冒頭のこの歌だ。冬空にオレンジ色の満月とは既に稀有だが、その円環が現世からの出口とは。これは隠喩などではない。「この世の外へならどこへでも」と願ったのはゴーガンだったか。オレンジ色に荘厳されたあの出口を出でて作者が旅立とうとするのは、あの懐かしい母君のいます涅槃の世界だろうか。それとも、「すべては整いと美と栄華と悦楽と静けさと」がある『悪の華』の詩人が希求した、この世にあって、この世のものならぬあの絶対境であろうか。          (歌 人。福井市在)

  甲   田    一   彦
川明かりすべてが遠く聞こえいて風吹くたびにさざ波の立つ(氷点旅)北摂の山を流れ下る川で、大きいのは高槻市の芥川と茨木市の安威川である。作者は毎日この安威川を越えて通勤しているので、この流氷記にも再々詠まれている。これらの歌の中でもこの歌が目に止まったのは第一句「川明かり」である。ここで切って「すべてが遠く聞こえいて」を持ってきたことに感心させられた。一首は「川明かり」から「音」そして「風」結句で「さざ波の立つ」川へとおさめられている手腕に深く学びたいと思った。町外れを流れる鄙びた感じの安威川を「すべてが遠く聞こえいて」と適切にとらえた見事な一首です。 (歌 人。高槻市在)

竹   田    京   子
夢ばかり次々出でて朝方は現つも夢の一つとなりぬ(那智滝)
「夢は人間に限られた現象ではない。ほとんどの温血動物が見るとされる‥。」私の場合、今まで「夢」は凡そスローモーション映像だと思ってきたのですが、「夢ばかり次々出でて」の表現、作者はやや速いテンポで夢見ていたのでしょうか。地震の夢、火事の夢、殺される夢など俗に悪夢とは限らず、犬、猫の夢、エレベーターの夢などだったのでしょうか。又、ラッキーな蛇の夢だったのでしょうか。少々たじろいでしまいました。又、「朝方は」の表現に注目するのですが、自然の現象で隙も感じさせませんが、再読した時、決して安易な表現ではないと言い切れないものを幾分感じるのは何故でしょうか。そして、ある時は無理に「早暁は」などと表現しなくても「朝方は」と表現するだけでも良いという谺が返ってくるような気がするのです。又、下句共感するのですが、よく生と死は隣り合わせだとか言うことがありますが、「夢も現つの一つ」ではなく、「現つも夢の一つ」であり、夢と現実も隣り合わせだと教えてくれているようでもあります。                     (歌 人。尾道市向島在)

塩   谷   い さ む
思っても詮無きことが次々に出でて自分を叱りつつ寝る(氷点旅)眠ろうとしてもなかなか眠られない。ああすれば良かった、こうしてやれば良かったのにと、自分の不甲斐なさを責めている。昔から「悪人はよく眠る」と言われるが、作者は善人であるという証拠を如実に表現したこの歌に共鳴している。明日になれば妙案が浮かぶかも知れないから、羊の数でも数えてもう寝よう。(明日のために‥‥)善人の歌をもう一首挙げてお休みを言いたい。「見る夢の中では死者も生きていて時々若い母も出てくる」お母さんも見守って居られるのです。お母さんは亡くなられた時のままです。

森       妙    子
冬空にオレンジ色の満月がこの世の出口くっきりと見ゆ(氷点旅)冬空に出ているオレンジ色の満月。空気は澄んでいます。いつかこの世から出て行く時は、こんな夜にこんな満月に乗って‥‥透明な無の世界へ行きたいものです。「ねがはくば花のもとにて春死なむその如月の望月のころ」西行法師の歌が自然と口をついて出てきました。死に対するロマンとでも言うのでしょうか。何事にも詩のこころで接していらっしゃることに感動しました。(歌 人。和歌山県橋本市在)

川   田     一    路
動かずに見えて流れるものばかり川土手歩めばこの夕明かり(氷点旅)
目の錯覚、心の錯覚というものは恐ろしい。思い込めばそれは固定観念となり、その眼差しで全てを観てしまう。夕明かりの川土手を歩んでいると、暗に今まで信じていたことが不確かなものであると気付かされることがある。しかし、もう一歩踏み込めば、動かないと思っていたものが流れるのではなく、全て動かないものばかりのなかで、自分だけが漂い流れているのかもしれないのだが―と、そんな思いに至らせる作品。(歌人、京都在)

福   井   ま ゆ み
神様のような人よと母言いし三浦光世氏わが前にあり(氷点旅)
光世氏の夫人であられた故三浦綾子氏の作品は、十代、二十代のころに読み込んだことがある。分かりやすい文章の中に、一本目に見えない背骨のようなものが通っている印象を受けた。後で、綾子氏が結核で入院中に短歌を作っていたことを知った。そして、すっきりした文章は、短歌の修業中に身につけられたのだろうと思った。綾子氏の代表作は『氷点』だろうが、私は『細川ガラシャ夫人』のような歴史物もお薦めしたい。戦国時代にキリスト教を信仰するという困難な道を選んだ女性の姿が見事に描かれている。(歌人)

谷   藤    勇   吉
夢だけは誰の邪魔することもなく存分に見る今日も明日も(氷点旅)一読して、この作品は「夢だけは誰にも邪魔をされないで存分に見る今日も明日も」と訂正すべきではないかと思った。何故なら「氷点旅」所収の「人がはやペットにされて飼われいる未来の地球転がっていく」「偉そうな教師に反撥したくなる生徒の心残しておこう」「良い教師悪い教師と分けてくる教師が責める苛立ちながら」「グランドのサッカーの声聞こえいて学年会議は縺れつつ行く」「聖職者ジャンヌダルクを貶めし神父もキリスト教徒の一人」などといった作品を見るとき、中学教師としての作者の日常生活は、必ずしも満足出来るものではないだろうと思い、現実生活に満足出来ない作者が、それ故にやむを得ず見る夢に何か問題があるとしたら、夢をみようとする作者を、誰か他者が邪魔をする可能性があるかもしれない、という問題だろうとも思ったからである。しからば、この作品は推敲不足のまま歌集「氷点旅」の穴埋めのために載せられた作品、もしくは逆説という無用な技巧を弄しての日常の作者の作風に相応しくない作品なのであろうか。その答えはいずれも「NO」である。評者が思うに、この作品の作者は、自身の主張や行動のみを肯定し、他のそれを否定するような人間なのではない。教員生活を中心とした現実生活の中で作者が接する「誰か」は、時に、作者の現実生活を一層つまらないものにし、作者の生存や生活の「邪魔をする」ことがあるかもしれない。だが、それと同様に、作者自身の言行や存在が自分以外の「誰か」の現実をつまらないものにし、彼らの生存や生活の「邪魔をする」こともあるに違いない、とこの作品の作者は思っているのであろう。私たち人間は、現実生活の中でお互いに邪魔したりされたりする、という関係にある。私たちが人間である以上、その煩わしい関係から逃れ出ることは出来ない。私たちが現実生活に生きている以上、その悲しい宿命を背負っていなければならない。ならばせめて、私は「夢」を見よう。今日も明日も存分に夢を見よう。現実の世界とは違って夢の世界では、人は誰の邪魔をすることもなく、誰に邪魔をされることもないのだから。私は、敬愛する川添英一氏のこの傑作をこのように理解する。『流氷記』の中のこの作品の直後に納められている「僕の夢だれかの夢と繋がって眠りの森の地球広がれ」という作品は、そうした川添氏が、敬虔な祈りと贖罪の気持ちをたっぷりと込めて詠んだものである。   (歌人。秋田県横手市在)

名    越      環
冬空にオレンジ色の満月がこの世の出口くっきりと見ゆ(氷点旅)満月にはパワーを感じてきました。実際に地震が起きるのも満月の後などに多いという研究もあるようです。どこの土地でご覧になった満月なのかは分かりかねますが、旭川の盆地でもしこのオレンジ色の満月を味わったら、この世の出口に見えること間違い無しです。満月を出口と捉えられた作者の心の奥を覗き込むような作品だと感じ、共感しております。もう一首、氷点の陽子も右にオホーツク氷海見れば愛しみが湧く 川添先生とは全くのお導きにより二月の「流氷ツアー 三浦文学の旅」で出逢いましたので、この第五一号は、宝物の一冊なのです。 (仙台在)

  山    本      勉
聖職者ジャンヌダルクを貶めし神父もキリスト教徒の一人(氷点旅)ジャンヌダルクは百年戦争末期にフランスを救った少女である。彼女の名前を聞いただけで涙が出そうになる。「ジャンヌダルクを貶めし」全くその通りである。オウム真理教がそうであったように、宗教というものは厄介なものである。信者とは神又は教えを信ずることから始まる。その宗教が強大な権力を持った時、世の中は狂い始めるのではないだろうか。ジャンヌダルクを宗教裁判にかけ、生きたまま火刑にした。私の読んだ本によると、十五〜十八世紀の三百年間に荒れ狂ったあの惨たらしい魔女狩りの、最初の犠牲者がジャンヌダルクだったとあった。在りもしない魔女をでっち上げ、拷問、陵辱、財産没収など、権力を恣にしてきた聖職者達。キリスト教が封印してきた惨たらしい虐殺の数々を思うと、また眠れなくなりそうだ。(歌 人)

池   田    裕   子
既にわが一部となりて道東の風吹き抜ける眠りつくまで(氷点旅)長年住み慣れた道東の風はすぐに我を迎えてくれ、我のものとお感じになられ、冷たい北の風にまで心温まる思いが実によく分かります。心の故郷でしょうか。私自身一度も足を踏み入れたことのない憧れの地であり、想いを寄せる想像の世界であるにも関わらず、何故か網走も知床も流氷さえも、また、咲き乱れる花々の頃、雪に埋もれた山も里も懐かしいのです。本田重一氏の歌に親しみ、「氷点」「続氷点」を読み、古い記憶に「挽歌」があります。この土地の美しい名前にも惹かれます。愛も善も悪も一冬の雪の中に鎖されて新しい春が生まれるような気が致します。次の日の朝のお目覚めは素晴らしかったと思います。二つ岩が一つに見えるまで歩いてこられたのですか。また、陽子も見た燃える流氷までも想像してしまうことの出来る一首でした。(高槻在)

藪   下   富 美 子
夢だけは誰の邪魔することもなく存分に見る今日も明日も(氷点旅)とてもロマンチックな歌ですね。現実の世界では喜怒哀楽をそのままあまり表に出さないようにと云われてきましたが、夢の中では邪魔することも邪魔されることもなく自由で、心ゆくまで自分の世界に居られますね。川添先生の夢はどのようなものなのか、勝手に想像してしまいます。せめて夢の世界だけでも大きく楽しいことが今日も明日も続きますように。(高槻市在)

青   木    静   江
道真中保ちつつ角曲がりゆく全盲なれば神宿るらし(氷点旅)この歌を読んでハッとしました。歳と共に、目にトラブルが生じ、涙が出たり、見えにくくなったりで、不満ばかりブツブツ言っている自分が恥ずかしくなりました。全神経を集中させて、正確に角を曲がって歩まれる、まるで神業のように‥‥先生は黙ってじっと見守っておあげになる。先生の優しいお心遣いに心打たれました。 (高槻市在)

坪   内    久   江
蛇のようにミミズのように我が髪が洗面斜面を流されて行く
歯の根っこ怒って語りかけてくる夜は痛みを受け入れて寝る

洗面所での髪の毛一本に、蛇とかミミズを連想されて一首詠まれていられる。歯痛になっても「根っこが怒って語りかけてくる」なんて言葉がどうして出てくるのか。先生は常に神経のアンテナを張り巡らせて、研ぎ澄まされた感覚で、何でも題材にされていられる。歌は身の周りに転がっているのですね。私には、先生のようにはなかなか一首が詠めません。視野が狭いのだろうか、いや、何事にも先入観念を捨てて、頭を空っぽにしてものを観ていこうと思います。 (高槻市在)

 柴   橋    菜   摘
桜木は我かと思う次々に泪のごとく花びら落とす(桜一木)吉野で育った私には、桜は当たり前のように存在し、芽吹き、開花、落花を当然の如く眺めてきた。花びらを泪と捉えられていることにハッとする。そしてその桜木は川添さん。でも、私かも知れない。確かに冬の裸木に自分を重ねることはあったが。散り具合の儚さを感じながら、それを泪とまで思い致すことはなかったと思う。川添さんの思いの深さに、感じ入るばかりである。               (大和高田市在)

川  添    恵   子
拳銃をみんな持ってるアメリカが核を持つなと小国に言う(那智滝)私は、広島生まれの、広島育ちです。そして、被爆者です。誰もが被爆の実態を知らずに、戦争とか核、原爆を論じることに‥‥?  川添英一様、有り難う御座います。知床を訪ねる途中、知布泊の喫茶店に立ち寄らせていただき、同姓の川添様の『流氷記』を手にしました。私には、歌も詩も詠むことが出来ませんが、流氷記有り難う御座います。これから一年生のつもりで楽しみにします。   (広島市在)

伊   藤    勝   子
気に入らぬ者を悪だと決めつける人よもういい加減にしろよ(氷点旅)こころで聴き、こころで見て詠まれる先生の短歌は何時も真っ直ぐこころに響きます。人も物も狭い視野で判断する自分が恥ずかしくなりました。今までは波風立てぬよう、自分を抑えての人付き合いでしたが、この歳になったら心に素直でよいと思うようになっていました。でも、自分の狭い了見では、相手に失礼があるやも知れません。好き嫌いのはっきりしている我が心の有様を深く考えなさいと言われているような一首でした。

中   島    タ   ネ
彼と来し故にこの地に会いたくて晴れて美幌峠に立ちぬ(氷点旅)このお歌は、お友達を偲んで、過ぎし日に男の友情と夢とロマンを語りながら美幌峠に来て、今ならまた違う話、未来のことなどいろんなことを思いながら佇んでいらっしゃるお姿が目に浮かぶようです。北海道には平成四年十月に一度旅行したことがあり、思い出しております。何処も広々とした美しい紅葉や湖があり、行く場所には雪が降っていたり、あの網走刑務所の前も通りました。霧の摩周湖と言われている湖は霧で見えませんでしたが、それが一層神秘的であり、深い湖の底に神か魔物が棲んでいるのか、見たい衝動にかられ、心残りでした。今、またあの旅行の思い出の一時を回想致しておりました。      (博多在)

瀬   尾    睦   子
人生は所詮ギャンブルなのだろう明日の命を誰も知らない(那智滝)主人が亡くなってからいろいろと考えていましたが、もう前を向いて生きていかねばと思います。明日の命があるとは限りません。一日一日を大切にしていかないといけませんね。英一さんや亡くなったお母さんにはいろいろと教えてもらっています。次の号も楽しみにしています。 (母の友人。北九州八幡在)

池 之 側   宏   美
悔しくて眠れぬ夜は歌作る絶好の時作れば楽し(氷点旅)とっても気持ちが伝わってきます。悔しくてこみあがってくる気持ちがエネルギーとなってひらめきにかわるのかな。いい歌ができれば悔しさもありがたい気持ちに変わりいい眠りにつけそうな気がします。束の間も一期一会か安威川の浅瀬を歩む白鷺が見ゆ 心に風景が浮かび、とてもなごみます。子供のころには名前さえ知らなかったきれいな鳥が白鷺だったのだなあ。年をとったことをとても感じてしまいます。大好きな川をいつの間にか遠くに忘れていたような。偉そうな教師に反撥したくなる生徒の心残しておこう とても私自身の気持ちがでています。教師=大人なのですが・・・言葉ではとっても難しいのですがなぜわかってもらえないんだろう。みんな生きてきた道なのになぜ忘れてしまうんだろう。と、言いつつ私も忘れているところもあるんだけど・・・          (西中学校生徒保護者)

西 田  恵 理
流氷の海駆け巡る鹿の群れ見れば時めく我が命あり(氷点旅)
「流氷記」の表紙の写真とこの一首より、自然との融合を感じ、
未だ見ぬ氷海に強く心惹かれました。そして、冬の北海の地の情景が目に浮かぶような爽やかな歌を多くお見受けし、自分自身の心を洗われる思いで、読ませていただきました。「氷点の陽子となりて歩みいる海岸町から二つ岩まで」詠まれた内に秘められた思いはいかほどか。氷点の陽子となって歩んだ川添先生になって歩いてみたいと思いました。川添先生のファンになった保護者より。                  (西中学校保護者)

高   田    暢   子
流氷が接岸している報を聞き白梅光る坂下りゆく(桜一木)自分がいつも今みている日常の景色が流氷接岸のニュース一つで違ってみえる。と、同時に、今すぐにでも網走に飛んで行きたいという先生の気持ちがはっきり表れている歌だと思う。最近は温暖化などの問題で、接岸しない年も出てきたようで、私はまだ一度も見ていないため、出来るだけ早く、見に行ってみたいと思う。 二つ岩に燃える真っ赤な流氷を辻口陽子見し今もなお(氷点旅)私は本物の流氷を見たことはないけれど、真っ白で、どこまでも自然な色のはずの流氷を真っ赤と表現した先生は、真に辻口陽子の目で見たのだろうと思った。自分に厳しく、自分の罪、人間の罪に正面からぶつかり、一度は死をも選んだ辻口陽子には、流氷は純粋で汚れのない白ではなく、人間の感情のような赤であったのか。今の私には流氷はどう見えるのだろうか、見てみたいと思った。   (西陵中学校卒業生)

小   西    玲   子
すんなりといかない方がいいのかもなど青空は教えてくれる(那智滝)自分らしく生きること、自分の理想に近づきたい気持ち、考えれば考える程に疑問を抱いてしまったりすることは誰にでもある気がします。私はそんな時こそ、周りからたくさん感じるアンテナを出します。ヒントは山ほどあるから。果てしない青空からは無限のパワーを感じる。月を見ていたら、いつかそこまで届きそうな力が沸き上がってくる。音楽を聴いていても、家族や友達との会話の中にだってヒントがある。でも、それを感じとるのも自分次第で、答えみたいなものは自分の中にあるのかなと思います。自分に対しても相手に対しても素直な気持ちはとても大切だと思います。迷いながらも素敵な自分になりたいです。         (西陵中学校卒業生)

山   田    小 由 紀
しょうもない歌にもならぬことばかり無駄に過ごしていると思へり(氷点旅)「あぁ、今日は無駄に過ごしてしまったな。」そういった思いは多くの人が感じたことがあろうと思います。それは、何もしなかった日なのか、雑用にばかり忙しく追われた日なのか、人それぞれでしょう。でも、充実した日も、無駄に感じた日も、全て繋がっているように思えます。例えば、ボーっと過ごした一日にはふと、忘れかけていたことを思い出す一瞬があるものではないでしょうか。昨日食べた御飯、しんどかった満員電車から、数年来の友人のことまで。私の短い十九年の人生から感じたことですが、人が無駄に感じている時間は、知らず知らずのうちに記憶を調整しているのではないでしょうか。忙しすぎる毎日に、大切な事を忘れてしまっている人もいるのではないでしょうか。 (西陵中学校卒業生)

森      晶    子
我が言葉他人の言葉も流れいてこの視野こそが生なのだろう(氷点旅)私は人前で自分の意見を述べた次の瞬間に、ふと不思議な感覚にとらわれることがある。自分の口から発したはずの言葉が他人の言葉のコピーにしか思えなかったり、頭を通らずに口がひとりでに動いているかのように感じたりするのだ。確かに少し考えてみると、自分が使っている言葉はどれもオリジナルではない。誰か過去の人間が作った単語を組み合わせるレパートリーにかろうじて個性を出すことができるのみだ。それでも人は、意思疎通のために言葉という仕組みを借りねばならない。限られた言葉の枠の中でいかに物事を表現するか、を考えることが和歌や文学のスタート地点だと改めて感じた。 (西陵中学校卒業生)      

平   岡    勇   作
見る夢の中では死者も生きていて時々若い母も出てくる(氷点旅)古代人にとっての夢は現と掛け離れたものではなく、あくまで一つの現実であると信じられていた。離れた恋人同士も相手が自分の事を想っていれば、夢の中に出てくる、と本気で信じていたようだ。然れど、先生のこの作品は、古代人の思考に大いに当て嵌まる。先生も母親様の事を懐かしく想っていたから、母親様も先生の事を想い見守っていたから、夢の中で再会出来たのだと思う。…ただ、早くに正夢とならないよう、健康等には御気をつけ下さいませ。              (西陵中学校卒業生)

石   丸    雄   一
さまざまな図形の中にヒトが棲む雲の上からふと見下ろせば(氷点旅)考えてみれば確かに今の都市に限らず、昔からヒトは土地をはっきりとした線で区切っていたように思います。それを雲の上から見ようものなら、きれいな図形が見えることでしょう。しかし、その図形の中にいる人は、どちらかというと、閉じ込められているような気がします。それは、土地という空間に限らず、「時間」をも表していると思います。ヒト、特に現代人、その中の日本人は常に時間に縛られることが多い民族です。今、日本の中で時間を気にせず生きている人は、わずか一握りしかいないです。少なくとも自分も時間に縛られているヒトの一人であると思います。時間に縛られているということは、つまり、図形の中で動けないことと同じと考えます。この今の時代こそ、図形の中から解き放たれ、自由を必要としていると思います。

和   田    ひ と み
しょうもない歌にもならぬことばかり無駄に過ごしていると思えり(氷点旅)最近の私というのは、全くといっていいほど勉強もしておらず、遊んでばかりいます。今の私は、一秒一秒の大切な時間をすごく無駄にしているのです。心中では「勉強せな!もう三年生にもなるしなっ!」と思いつつ、やっぱり、私は自分に負けてしまい、どうしても楽な方向(遊ぶ、とか‥‥)に行ってしまっているんです。思えば、このところ、このようにずっと楽な方へ楽な方へと行ってしまっているようです。もうすぐ受験生であるというのに、全く手に付かない勉強。三年生になり、受験生になるという目的の足りなさ。たった今、つくづく思い知らされたように思いました。けれども今頃こんな手遅れのような時期から「頑張る」といっても、三年生になるまでに間に合うのかが不安で、そして、心に引っかかっていることといえるのですが‥‥何だか今まで楽しければそれで良かった、というあの時間が、今になってとても無駄でくだらなくて、しょうもないもののように思えてきて、悲しいような悔しいような気もするのですが、それはそれで、私の大切な思い出として宝にして残しとどめておきたいと思います。もう迷う時期ではないことを改めて実感させられる気がしました。 (茨木西中学校三年生)  

山   崎    響   子
見る夢の中では死者も生きていて時々若い母も出てくる(氷点旅)夢とはとても不思議だと思います。この一首には、死んだ人が出てくると書いてありますが、逆に、今生きている人が死んでしまったり‥‥どこか知らない所に自分が立っていたりします。幸せなことに、私の周りにいる人は誰も亡くなっていないので、夢の中に亡くなった人は出てきませんが、恐いような気もします。でも、逆に嬉しいのかもしれません。夢はその人しか見られないし、未知の世界だと思います。夢について書かれていたので面白いなと思いました。        (茨木西中学校三年生)

井  野  辺   優   香
夢だけは誰の邪魔することもなく存分に見る今日も明日も(氷点旅)夢は寝ている時に見るものです。だから邪魔など誰にもされません。私は夢を見るのは大好きです。なぜなら現実ではあり得ない事が起きたり会えない人に会えたりするからです。しかも自分が見た夢の内容など周りの人は知りません。だから一人で色んな物語が思う存分見られるのは素敵な事だなと思いました。この歌を見て、夢っていいなぁと改めて思いました。今日も明日も明後日も夢を見ると思うけど、どんな夢を見るのか今から楽しみになってきました。 (茨木西中学校三年生)

能   勢    一   穂
今朝冷えてどこからともなく虎落笛家々の間を渡りゆくらし(氷点旅)私の家でも夜中に虎落笛がよく鳴っています。よく考えると、虎落笛は今までいろんな家を通って来たわけですが、もしかするといろいろなものを見て来たのかもしれないです。江戸時代頃から今までを間近で見ているのかもしれません。風って世界で一番いろんなものを見ていると思います。(もしかしたら神様よりも)その中で虎落笛って、家の中に入って来られる唯一の風なのかなって思ったりしました。これからは家の中で虎落笛に笑われないような生活をしたいです(笑)。(茨木西中学校三年生)

田   寺    聡   子
夢だけは誰の邪魔することもなく存分に見る今日も明日も(氷点旅)いじめられっ子も、成績が良くない子も、夢を邪魔されることはありません。逆に言えば、誰にも人の夢を邪魔する権利などないのです。私は初め、この歌の「夢」は寝ている時に見る「夢」かと考えていました。でも、この歌の「夢」は、将来の「夢」と考えてもいいと思うのです。もし、将来の「夢」のことを歌っているのならば、「今、夢はいくらでも見られるから、ゆっくり考えなさい。」と言われているようで、自然に「はい!」と返事をしてしまいます。私はやりたいことがたくさんあって、未だに将来の夢が決まらないけど、まだまだ時間があるのだから、ゆっくり今まで通り「夢」を見続けたいと思います。

池 之 側   遼   河

氷点旅から好きになった歌ベストファイブ

冬空にオレンジ色の満月がこの世の出口くっきりと見ゆ・情景が思い浮かべやすいからいい。
砂浜の波打ち際のような雲めざして雁の群渡りゆく・こうゆう景色を思い浮かべるととても和む。
首垂れて枯れ蓮群るる鎮まりの水面は白い雲映しいる・こうゆう景色が観られるとこに住みたい。
神々の岩より生まれて熊野川大きな龍の常進みゆく。・神々しくてインパクトがある。
流氷の海駆け巡る鹿の群れ見れば時めく我が命あり・一番好きになった歌。  (茨木西中学校二年生)

浜   崎    貴   生
気に入らぬ者を悪だと決めつけるヒトよもういい加減にしろよ(氷点旅)自分の心の中で、ちょっとした相手に対するズレが自分に出てきてしまい、いつの間にか相手を「悪」だと決めつけていって、その人が身の回りの人によって知られていき、自分が作ったその曲がった真実がいつの間にか見えなくなってしまうことがある。このようなことがもしクラス内に入ってしまったら、いじめや暴力などに発展していくことが予想できます。この川添先生の一首は、いじめなどの本質を表していると思います。いじめはこういう人がいる限り続くと思います。(茨木西中二年生)

中   野   健 太 朗
正当化、保身の為の嘘に満ち幾多の事実変えられて行く(氷点旅)僕はこの歌を読み、今の世の中を表しているように思いました。犯罪等の悪事も、人を騙し事実を曲げれば無罪になる。真実は見えなくなりその嘘が真実として塗り替えられてしまう。このようなことがもし正当化するようなことがあれば世の中がおかしくなってしまいます。或る意味、この歌は未来の世界を想像した歌と言えると思います。今のニュース、報道の中にも疑わしい無実だって幾つもありました。この歌が未来を考えて作ったとしたらこの歌の通りになります。今と未来を重ね合わせた素晴らしい現実的な歌だと思いました。 (茨木西中学校二年生)

五   寶   里 伽 子
夢だけは誰の邪魔することもなく存分に見る今日も明日も(氷点旅)現実にはルールというのがあるけれど、夢というのはルールがなくて、いろんな事を考えられ自分だけの自由の世界を作られる大切な世界だと思いました。だから、誰にも邪魔できない大切な世界というのは必ずあるのだから、大切にしてほしいし、大切にしたいと思いました。将来の夢だって恥ずかしがることなんて決してないと思いました。夢というのをこれからもずっと忘れず、大切にしていきたいと思います。まだ若き君らは羽が生えているテストに頭働かせつつ 私たちは若い。だからテストっていうものなんかに負けず、背中に生えている羽を羽ばたかせいろいろな扉を開けねいろいろな世界を見ていきたいと思います。でも、やっぱりテストっていうのもその扉を開けるための必要なものだと思います。これからもいろいろな扉を開け、いろいろな世界を見ていきたいと思いました。 (茨木西中学校一年生)

北   川    友   香
気に入らぬ者を悪だと決めつけるヒトよもういい加減にしろよ(氷点旅)この歌を読んだとき、心が「ズキン!!」としました。私は小学生の時、自分が好きでない人のことを悪く言ったりしたことがあるからです。もし、今、自分が気に入らない人がいて、その人の悪口を言ったりしている人がいたら、この歌を読んで、そんなことおかしい!と気付いてもらい、そんなことを今すぐやめて欲しいと思います。男の子に上げ損なったチョコレート食べてるらしい帰路追い越せば(桜一木)私はまだチョコを男の子に上げたりしたことないけど、中二や中三、高校生になったらチョコを渡したい人とか出来ると思います。でもそんな時はこの歌のように上げ損なったりせず、勇気を出してアタックしたいと思います。  (西中学校一年生)

国   田   恵 美 子 
流氷の海駆け巡る鹿の群れ見れば時めく我が命あり
湖は天を映して自ずから磨かれ天より輝きて見ゆ
摩周湖のカムイヌプリ我が幸せにありやあらぬや安らぎて見ゆ

氷点旅のこの三首が特に好きです。二十年前、北海道に旅行した時、阿寒湖、摩周湖、屈斜路湖に行き、美幌峠から見た湖の印象が鮮やかに甦りました。 摩周湖ではお歌の通りの光景だったと改めてその湖面の神秘さを感じました。 (高槻市在)

柴   橋    菜   摘
大宇宙わずかに変わるとも見えずたちまち人も地球も滅ぶ(那智滝)人工衛星を打ち落とす技術が開発されたという。知らない間に、この宇宙にはいっぱいの人工衛星が、宇宙のゴミとして回っていて、衝突による破片が、他の衛星を傷付けるというのである。進歩を求める知恵が、いつの間にか自分達を破滅に追いやる凶器になったのか?地球上の皆が手を取り合わないと、粉々になるのは、私達が今生きているこの地球である。それにしても、川添さんの思考回路の広さ、深さよ、である。

高   田    暢   子
雲一つなく晴れわたった昨日から続いて今は雨降り続く(那智滝)
昨日まであんなに晴れていたのに、今日はなぜこんなにも暗く、どんよりと雨が降っているのだろうといつも思う。また次の日に嘘みたいに晴れると、雨が降ったことなんて忘れてしまう。太陽はいつも変わらずに昇ってきて、そこにいるのに、ちょっと雲で隠され、雨が降ると、不安になる。ずっとこのままでないかとさえ思ってしまう。どうしても、と信じることができないだろうか。目に映るものにすぐに惑わされてしまう。先生の句の「今は」というところが光ってみえた。(西陵中学校卒業生)