第五十八号一首評
中 村 桂 子
横になり眠れば父と母に逢う彼岸此岸は我が裡にあり(幸紐絡)久しぶりにいただいた『流氷記』を用いた第一首目ということもあってのことでしょう。御両親への想いがそのまま表れていて心に響きました。同封されていた中学三年生の「国語授業の感想」が川添先生のお人柄を伝えて楽しく読みました。「待ちわびて国語が好きな生徒たち授業があっという間に終わる」まさにその通りのクラスの様子が眼に浮かびます。中学生たちの一首評もすばらしく、これからもさまざまな形での先生としての御活躍を期待します。(生物学者。生命誌研究館館長。「いのちってなんだろう」。光村国語教科書編集。)
岩 田 一 政
横になり眠れば父と母に逢う彼岸此岸は我が裡にあり(幸紐絡)
私も半年前に母を亡くしました。父は十年前でした。この歌のように眠ると父と母に会うことができます。人の眠りは、生と死の境を越えることが出来るように感じます。自分が生まれる前の世界に戻ることが死であると思います。
(日本経済研究センター理事長。元日銀副総裁。東大名誉教授。武道家。岩田さんとは網走で大東流合気武道を修行し故武田時宗宗家の秘書のようなことをしている時、フランスの武道家アラン・フロッケの通訳として来られていた時からのお付き合いです。『デフレとの闘い―日銀副総裁の一八〇〇日―』等の著書の他、武道のことにも造詣の深い友人です。「聖光上人の『なきに事かけぬやうを思ひつけふるまひつけたるがよき也』とは味わいのある言葉と思います。」の添え書きがありました。)
菅 沼 東 洋 司
明日が来るのを待ちわびる確実に死が近づいてくる筈なのに(幸紐絡)死は身近にありながら常に人生の一番遠いところに在ります。死を思いつつも忘却し、明日を思いながら生きている私たち。「生きる」とは明日へ思いをつなげること。明日というのは生きるための糧なのだと考えております。待ちわびる、それは生きることに対して貪欲になる人間の本性であると言えるでしょう。平明な言葉で、あるがままの人間を言い当てて下さいました。(作家。ブラジル在住)
鈴 木 悠 斎
借金の重みで日本州となりかつて日本という国ありき(幸紐絡)
大国の日本自治区となることも津波の如くあるやもしれぬ
日本という国名も消えてゆく危機ありありと侵略される
これらは将来大いにありうることでしょう。私はそうなる前に、日本はアメリカの州になるのが一番幸せな方法だと思います。アメリカの一員になればお隣の大国や小国から侵略される心配はないし、借金も何とかなるだろうし、国民の大多数がアメリカびいきらしいので何もかも万々歳ではないかと思いますが、いかがでしょう。星条旗の星の一番尻に赤丸をつけ加えてもらって。(書家。鈴木さんの添え書きに「今回の一首評は多少の皮肉をこめて書きましたが‥」とありますので‥)
神 野 茂 樹
待ちわびて国語が好きな生徒たち授業があっという間に終わる(幸紐絡)仕事中に届いた『流氷記』。別添の「国語儒教の感想」も拝読。先生の授業は楽しそうですね。さて、選んだ一首。「待ちわびて‥あっという間に授業が終わる」と「授業」の位置を替えたら平凡なんですかねぇ。蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」なんてそのままですが、語調が良いのでそれこそあっという間に覚えてしまいます。晶子の「やわ肌の熱き血汐にふれもみでさびしからずや道を説く君」も内容もスゴいですが語調もいいので難なく覚えてしまいました。 (『大阪春秋』元編集長)
小 川 輝 道
生き生きと脳裡に浮かぶ父と母亡くなりてより身近となりぬ(幸紐絡)この数年、遠く旅立った父母のことが流氷記でさまざまに詠まれてきたが、これもその心情を語っている一首である。自らに老いに近づき、最晩年の父母のことをより近く知り、今までには感じることのできぬ深さで実感してきたに違いない。九十八歳の母を見送った私も、齢を経ることにより深く感じ、共感や同情が強まったように思う。「亡くなりてより身近となりぬ」は、しみじみと率直に深い表現であったといえよう。「新鮮な死体が並び」「真っ黒い海のはらわた」「服を脱いだように花散り」、これらから、私は詩人の表現の特異さと感性の鋭さを感じる。「神は何も言ってはおらぬ神を言い訳に」は、怨念や復讐の争いを繰り返す耐え難い世界の不幸を美事に捉え、いらだちさえ聞こえた。 (網走市立第二中学校元教諭)
井 上 冨 美 子
明日が来るのを待ちわびる確実に死が近づいてくる筈なのに(幸紐絡)生を受けた以上、死は必ずやってくる。これは避けられない真理です。大宇宙を思い描くと、本当にちっぽけなひとつの命。細やかな細やかな命の灯火です。丁度、母が他界した年齢を迎えている今、殊の外、気に掛かります。毎朝夕、ご先祖様に手を合わせる時「昨日も一日無事でした。有り難うございました。」と念じている昨今です。明日は今日今日は昨日へ変わりゆき時の流れは容赦なく過ぐ。本当に一日一日が矢のごとく早く過ぎていきますね。年と共に痛く感じ入ります。目の覚めることなき時がいつか来るなど思いつつウトウトといる。ありますあります。本当に。 (網走市立第二中学校元教諭)
高 岡 哲 二
流氷記第五七号『幸紐絡』をお贈り下さり有り難うございました。御活躍の由、拝読させてもらいました。私の心に響いた歌を掲載させてもらいます。わが命など一瞬のきらめきか冬の銀河の瞬きつづく 冬の銀河が儚い。真っ黒に海のはらわた寄せて来る津波に町は流されて消ゆ 流されて消ゆに、思いが込められている。
(朝日新聞大和歌壇選者。思えば高岡さんを紹介してくれたのは近藤英男先生だった。明日香や大和に関わりの深かった近藤先生や寺尾勇先生も故人になってしまった。)
堤 道 子
夢現つ夢の一つの人生を今生きている風に吹かれて(幸紐絡)
思わねば思わぬままに迎えねばならぬ不可避の死を思いおり
昔も今も真実実感を人の心に与える李白の詩を思い出してしまう。
それ天地は万物の逆旅にして/光陰は百代の過客なり/而して浮生は 夢のごとし/歓を為すこと幾何ぞ/古人燭を秉りて夜遊ぶ/良に以有 るなり/‥‥
浮生は夢のごとしで、一生はたちまちのうちに過ぎてしまう。だから古人は夜も燭をとって自然の中に息づく命の意味の深さを探ろうとしたことを李白の詩に知らされる。作者も自発性をもって生きることの意義を確かめる努力をしなければと、生の終極へ向かう時の流れを嘆じている。風の吹く中に立つ作者の模索している姿を深く感じる歌である。(歌人。北海道在。)
前 田 道 夫
明日が来るのを待ちわびる確実に死が近づいてくる筈なのに(幸紐絡)明日に予定を持っている時など早く明日が来ないかと待ちわびる気分になるものである。然し考えてみれば明日には確実に死が含まれているのである。それを待ちわびるというのもおかしなものである。第五十七号の作品には歳月、時間の流れの迅さを歌ったものが多く見られ老いに向かってゆく気持ちの寂しさを汲み取ることの出来る作品が多い。以下、作品だけを抄出しておく。「次々に現つは過去となりてゆく藤の花房人愛でる間に」「気がつけば還暦なのか生なんてあっと言う間に終わってしまう」「いつの間に夢も現も過ぎてゆく死に何となく近づきながら」(歌人。僕が『塔』編集時からのお付き合いになり、もう四十年間を越えてしまいました。父と同じ大正十四年生まれ。)
林 一 英
昨夜見し夢の続きの中にいるもう日が暮れてきたというのに(幸紐絡)白昼夢などではないのである。昨夜の夢がまだ延々と続いているのだからまだ夜は明けていないのである。長い長い物語の中にいる「私」。多分恋人などではあるまい。作者にとって縁の格別深かった人といえば、先刻亡くなられたお父上だろう。以前読んだその追慕の記を思い出す。それにしてもこの夢の中の物語は格別である。滅多に経験できる物語ではなさそうである。しかもまだ終わる気配もない。父親となら今更二人は何の思い出話に耽っているのであろう。この世で語り尽くせなかったもろもろの思いや夢。それらをこうして果てることのない夢の中で二人は―。(歌人。林さんとは『流氷記』文庫本以来、格別に身近な存在となっている。その作品の格調の高さに惹かれたことと、父と同年でもあり元教師という職歴もあるのかもしれない。)
高 階 時 子
一人崩れても壊れる七段の組体操が立ち上がりゆく(幸紐絡)まだ八月なので運動会、体育祭には少し早いが、九月の新学期が始まると、すぐに運動会の練習が始まる。最近は五月頃に開催される学校も多いらしいが、私の住んでいる地では小学校、中学校の運動会は九月、十月に開催される。地域あげての行事であり、幼稚園児や老人会の演技も組み込まれている。運動会の華はなんといっても組体操だと思う。熱狂的な応援といえば学級対抗リレーかもしれないけれど、リレーは選ばれた走者たちの種目だ。けれども組体操はほとんどが全員参加(あるいは男子だけ)であり、単純な型から順に高く複雑な型に発展し、最後は七段もの高いピラミッドが完成する。(私の小・中学校時代は組体操は男子だけで行われていたが、最近では男女とも参加しているようだ)笛を合図に少しずつ少しずつ段階を経て、最後の七段ピラミッドが立ち上がっていく。掲出歌のとおり、下で這いつくばって支えている者も、最上段に立つ一人も、誰一人が崩れても美しいピラミッドは成り立たない。
ここまでするのにどれほどの練習が繰り返されたことだろう。見物している者としてはただただ感嘆するのみである。(歌人。『私の選んだ一首』より)
甲 田 一 彦
土間竈田舎にありし幼き日思い出しつつ眠りに入りぬ(幸紐絡)昔の家は広い土間があり、そこには大きな竈がデンと座っていたものである。私の家も代々の百姓であったので、黒い竈があり、大きな鉄鍋や釜がかけられ、朝に夕に炊飯の火が燃えていたものである。柴や薪、それに藁などが燃料てあって、その赤い火に照らされている母の顔や、鍋や釜から噴き上がる白い湯気が、今も眼前に浮かんでくる。しかし、時代の波が容赦なく竈にも押し寄せたのである。私が小学校低学年であった昭和一桁の時代に、我が家の土間の黒光りのしていた土の竈は、ハイカラなレンガ積みの竈に改修されたが、鍋釜や燃料は変わらないままであった。その竈が土間と共になくなるのは、戦後数年経って生活も落ち着いた頃である。町内にガス管が導入されたのである。土間は板張りの台所となり、ガスコンロがタイル張りの台の上に鎮座したのです。そのうちにご飯は電気炊飯器、風呂はガス釜、水が水道となったのは昭和三十年直前のことでした。作者と私は、年齢が一回り以上離れているのですが、土間竈の家で幼い日を過ごしたのが思い出の原風景なのである。それが今は「朝御飯炊く音ドラマめきてくる布団の中にうとうとといる」還暦を迎えた作者がさらに前進されることを祈りつつ。(歌人。元校長。北摂短歌会長)
山 口 美 加 代
鮮やかに母現れて夢の中なれど泪で胸熱くなる(幸紐絡)やはり亡くされたお母さまの歌は胸を打つ。夢ならば、誰がどんな状況で現れても不思議ではない。目覚めた後に胸が熱くなるのなら普通だが、作者がこれは夢だと察しているところがこの歌の特徴だと思うのです。夢だとわかっているからこそ、胸が熱くなり、せつない。星に住む王子のように流氷の上を歩けばかすかに揺れるちょっとメルヘンチックな一首。一面に広がる白い流氷、それだけでももうメルヘンの世界。流氷を揺らしながらそこを歩くのはもちろん、王子に違いないと。また近くには王妃もいたのではと想像が膨らむ。川添さんには珍しいお歌だと読ませていただきました。もう一首珍しいお歌を。わが口の中に我が舌ゆらゆらと深夜も濡れて常泳ぎおりこちらは一転して、エロスを感じさせる。わが口と我が舌とわざわざ重ねて表現し、舌を別のものとして捉えられ、自分の意識外のものを演出されたのではないかと思うのです。舌が泳ぐというのも面白い発見でした。(歌 人)
横 山 美 子
かつてフジテックタワーの聳えいし空より雪のゆったりと落つ(幸紐絡)前号では、消えていくフジテックタワーの歌がたくさんあって印象的だったが、その余韻のようなこの歌を今号に見つけた。今は、もうなくなってしまったタワーであるが、作者の眼裏には、今も、その姿が残されているのであろう。それは、一見感傷のようであるが、決してそれだけではない。作者の情の深さが、消えてしまったタワーをこのように詠わせるのだ。また、タワーの記憶が、父母の記憶にも繋がっているから、作者は余計詠わずにはいられないのかもしれない。「そびえいし」と「そら」の「そ」、「ゆき」と「ゆったり」の「ゆ」の韻律のよさが、そういう作者の心を、やわらかく深く読者の心に沁みこませているように思う。(歌人)
山 本 勉
物忘れ惚けゆきつつ死の準備しているのかと思うことあり(幸紐絡)この歌はずばり私のために創られた作品のように思えた。「物忘れ」「惚け」「死の準備」この三つのフレーズに、今の私を言い表されている。「物忘れ」「惚け」は数年前から気になっていたが、更に三年前に腎臓癌の手術をうけ、三ヶ月前にそれが左肺に転移して手術を受けた。そのことがびっくりするほどぴったりと当てはまっているのに驚いて、この作品を採った。「目の覚めることなき時がいつか来るなど思いつつウトウトといる」「次々に捜すことのみ現れて夢の中でも本見失う」「本当に独りになりて死にたいとこの頃思う風の吹くまま」などは川添さんの得意な「死」の歌である。印象的なのは「中国や北朝鮮を理想としかつての学生運動かなし」。昭和三十五年の反安保デモで樺美智子が死亡したが四十四年東大安田講堂落城などのあった全共闘運動の様子が道浦母都子歌集『無援の抒情』に詠われている。他に「大国の日本自治区となることも津波の如くあるかもしれぬ」など、近年の日本の危うさを詠った一連の作品に惹かれた。かつてのような大政治家がすっかりいなくなった我が国の将来を案じずにいられないのは私一人ではないだろう。 (歌 人)
小 原 千 賀 子
星に住む王子のように流氷の上を歩けばかすかに揺れる(幸紐絡)流氷がどんなものか全く知らない私は、川添さんの短歌の世界を通してのみ「流氷」を感じています。その中でもこの歌はとても気に入りました。物語のような短歌で、川添さんの作品の中ではめずらしい「かわいらしさ」があります。私は、サンティグジュペリの『星の王子様』を思い出しました。もしも、星の王子様がこの歌を読んだら「君の星は白い氷でできているの?」と聞いてくれそうです。そんなことを想像してとても楽しくなりました。こうして想像の世界に心を遊ばせてくれるのも短歌の良さだなあ、と思いました。(歌人)
池 田 裕 子
緊張と覚悟の上に颯と立つ少年に風さわやかに吹く(幸紐絡)二年間の空白はすごく長く感じられお身体の調子など心配していましたが五七号が届きほっとしました。教え子を詠まれたこの歌が印象深く残りました。ちょうどこのくらいの孫が入試を控えて覚悟の上での生き方を見ていると颯と立つ精神力を涙ぐましいまでに感じ、周りにいる家族などは常に爽やかでありたい、そんな思いをこの歌で感じました。組体操の真上に立つ気持ちも同じではないか、立ち上がるその心根が尊く掛け替えのない経験となっていくことだろう。小さい一つの覚悟みたいなものが若者よ頑張れ、日本よ頑張れ、に繋がるのではないかと秘かに思った。(歌人)
藪 下 富 美 子
鮮やかに母現れて夢の中なれど涙で胸熱くなる(幸紐絡)母親の思い出というものはいくつになっても、また夢の中であっても胸が熱くなります。いつまでも夢が覚めないでほしい・・と。先生のお気持ちがよく分かります。(歌 人)
国 田 恵 美 子
待ちわびて国語が好きな生徒たち授業があっという間に終わる(幸紐絡)『国語授業の感想』を読ませて頂いた後にこの歌に会い、分かる分かると授業風景が見えてくるようで、私も中学生の時、川添先生のような授業をされる理科の先生に教わり、理科も先生も大好きになり、授業を待ちわびているそんな気持ちが伝わって遠い昔の自分を思い浮かべていました。とても素直な中学生たちの心に先生のことは生涯忘れないことでしょう。「あと五十年生きて下さいね」という生徒の思いを無にしないでお身体くれぐれも大切になさって下さいますように。動脈瘤の検診は必ず受けて下さいますように!(歌 人)
田 中 由 人
枯れて立つ背高泡立草揺れて電車過ぎ行くまで待ちている(幸紐絡)何とも言えぬ寂寥感がいいですね。高速で走り去る電車とその風圧でユラユラと揺れるセイタカアワダチソウ。たぶん、群生したものではなく、草刈りや草引きから取り残され一株だけ晩秋に黄色い花をつけたのでしょう。セイタカアワダチソウはたくさんの花をつけるのに厄介者です。花として「鑑賞」されることはまれでしょう。しかし、生命力、繁殖力は強い。冬を越してもなお線路わきに、枯れた姿で佇立する。その強靭な一茎の揺らめきと電車のスピードとの動きの対照が、寂寥とある種の強さをイメージさせます。セイタカアワダチソウは、私たち現代人のメタファーとも言えますね。よいスナップショットだと思います。(福岡県立八幡高校同窓生。)
畠 山 眞 悟
鮮やかに母現れて夢の中なれど涙で胸熱くなる(幸紐絡)畠山の父は七十三歳と早く亡くなったが、柔道師範を退職後ずっと続けていたので盛大な葬儀だった。母は、私が病気のとき住み慣れた京都九条から無縁の地茨木に連れてこられ淋しく亡くなった。母のことを思い起こすと慚愧の念を禁じ得ない。川添先生の精力的なご研究を折々に読ませて頂くにつけ、同じ職場に戦友がいるような安堵感に包まれる。有り難いことである。(養精中学校教員)
上 柳 か お る
父と母亡くして何もかも虚しされど世の中何も変わらず(迷羂索)
今はもう叶わぬことと思うのみ父と母のいるあたりまえ 私自身、両親を亡くしているせいか、このようなご両親を慕われている歌に惹かれます。ご両親を亡くされて、季節ごとの思い出の中で悲しさ、虚しさを再確認しているにもかかわらず、世の中は何も無かったかのように過ぎていく。何とも言いようのない腹立たしささえ感じるような気がします。両親が元気な時は、こんな日がくるとは全く思わなかったのに。亡くなってから、存在感の大きさや、ささやかな幸せが分かるのですね。(三島中学校保護者)
上 柳 良 太
フジテックタワー解体父母の亡くなりて後と記憶に残る(迷羂索) 僕はこの一首を読んで、おじいちゃんが死んだ時のことと照らし合わせて共感しました。なぜなら僕もおじいちゃんが死んだ後の、何でもない細かいことまで、五年経った今でも覚えているからです。亡くなった日は、集めていたカードを水溜まりに落としたました。僕は歌の内容よりこの一首を見ることで、おじいちゃんの死を思い出しました。僕が雪を見ておじいちゃんを思い出すように、川添先生もフジテックを思い出すことで、お父さん、お母さんのことがよみがえってきたのですね。きっと天国でも喜んでくれていると思います。(三島中学校卒業生。このお二人の一首評は五七号に掲載すべきものでしたが大切にしまいすぎてすぐにファイルにしていませんでした。五七号刊行後に部屋を整理していてごく身近なあっと言う所から出てきたものです。)
広 瀬 礼 子
明日は今日今日は昨日へ変わりゆき時の流れは容赦なく過ぐ
湯けむりの瞬時に変わる姿こそこの世の形なのかと思う(迷羂索)
この二つの歌を見た時、自分の現場のことを思いだした。昨日まであんなに元気だった人が…まるで別人のように元気がなくなっている。看護師は何もなかったように、いつものてきぱきとした行動で患者に接している‥‥。湯けむりが瞬時、瞬時に変化するように、この世の形も日々変化することを実感した。明日もまた何でもないように変化しながら今日へと変わっていき、容赦もなく昨日へと変わっていくのだろう。(三島中学卒業生)
工 藤 優 梨 香
それぞれの終着駅にて降りてゆく人乗せて電車未来へ走る(未生翼)人のゴール地点には、その人が頑張っただけの喜びが待っていて、そのゴール地点に着いたら、すぐにまた新しい未来が待っている。人生というのは、その繰り返しだ。その途中では、誰もが苦しみを味わうことになると思う。その苦しみがあるからこそ、人生は面白いと素直に言えることが出来るのだ。ただの楽しいだけでは何の面白みもない。苦しみも、きっとどこかで役に立つはずだ。私は、この一首を読み、人生の一つの価値観を感じることができる。未来へ進む一歩の努力を、私もしていきたいと思う。
(茨木市立養精中学校二年生)
篠 崎 晴 香
夢現つ夢の一つの人生を今生きている風に吹かれて(幸紐絡)この歌の深い意味はよく分からないけど、この歌の響きが好きです。私は、夢を持ってたった一度しかない人生をどんなに苦しくても一生懸命生きている、という意味が込められているように感じました。私も夢を大切にして、その夢を叶えるために今を一生懸命生きていこうと思います。そして、どんなに大きな壁にあたっても、そこであきらめずに乗り越えていけるような、強い心を持った人になりたいです。これからは、今まで以上に一日一日を大切にして、ムダな時間を過ごすことのないようにしっかりと計画を立てて行動していこうと思います。(茨木市立養精中学校二年生)
湯 浅 実 奈
花びらが落ちてしまえば鮮やかに若葉桜木光をまとう(幸紐絡)桜などの木は、春に華やかに咲く花がメインでみんなに注目も浴びているけれど、花が散った後の若葉にだって良い所はたくさんあるんだよ、と語りかけているようです。若葉に太陽の光がキラキラと輝くのも桜の花とは違った何とも言えぬ風情を感じます。目立っている人も脇役の人がいるから輝ける、素敵な花だって芽や葉という背景があってこそ輝くのです。この歌はそんな芽や葉のような脇役にスポットライトを当てたものだと思います。私も決して花のようになれなくても芽や葉のように脇役でも個性のある人になりたいなと思いました。 (茨木市立養精中学校二年生)
服 部 知 世
明日が来るのを待ちわびる確実に死が近づいてくる筈なのに(幸紐絡)この一首を読んで、とても衝撃を受けました。今まで明日は死に近づいているなんて考えたこともありませんでした。私は死にたくないのに、明日を待ちわびていると思うと不思議でした。今日出来なかったら明日やろうと思うことがありますが、もしかしたら明日死んでしまうかもしれません。そう思うと怖くなりました。今、当たり前に過ごしている時間は、死に近づいていることに初めて気がつき、びっくりしました。でも、だからこそ今日一日を精一杯に過ごしていくことが大事なんだと思います。たとえ明日を待ちわびている時に死が近づいているとしても、私は死んだときに後悔したくありません。だから毎日がんばって生きて悔いのないようにしたいと思います。(養精中学校二年生)
今 本 郁 乃
紫陽花の葉に次々と落ちてくる雨あり木琴叩くがごとし(麦渡風)紫陽花の葉に落ちる雨の音を「木琴を叩いている音」と表現するところが季節感あふれていておもしろいと思いました。私は今まで、雨の音に興味がありませんでした。でも、この歌を読んで一番心が和んだし、落ち着いた気持ちになりました。これからは、いろいろなものを視点を変えて見てみようと思いました。私はこの歌の表現の仕方が好きです。(茨木市立養精中学校二年生)
山 本 萌 乃 佳
明日が来るのを待ちわびる確実に死が近づいてくる筈なのに(幸紐絡)この歌を読んだ時、本当にそうだなと思いました。私は毎日の生活が最高に楽しいので、寝る前も必ず明日が楽しみだと思いながら眠りに就きます。でもそれは、歌に書いてあるように、確実に死が近づいてきている筈なのです。人間はいつか必ず死に至ります。しかし、いつ死ぬかなんて誰にも分かりません。だから人間はたとえ死に向かって行っているとしても、「明日が来るのを待ちわびる」のだ、と私はそう思いました。なのでこれからも、たとえ死が近づいてくるとしても明日が来るのを楽しみに生きていきたいと思います。 (茨木市立養精中学校二年生)
川 井 伶
近づけば近づく程に寄り添いて一つの岩となる二ツ岩(新緑号)私の近くにはいつも誰かがいる。家族、友人、先生‥‥だれか一人はそばについてくれる。そんな温かい存在がたくさんいてくれることの有り難さ、幸せさがすごく身に沁みてくる。一人では出来ないことももう一人がいれば、互いに良い結果を生み出せると思う。この一首には生きていくための一番大切な事が書かれている。いつか駄目になりそうな時でも、そばにいてくれる大切な人と一緒に前を向いて助け合っていきたいと思う。このいつまでも続く日々に出会いを大切にして、これからもこの一首を忘れることなく生きていこう。 (茨木市立養精中学校二年生)
東 原 彩 香
明日が来るのを待ちわびる確実に死が近づいてくる筈なのに(幸紐絡)人は生まれた瞬間から「死へのカウントダウン」が始まります。一日、過ぎれば一日、死が近づくのに、楽しい予定があれば、明日という未来ばかりを見てしまいます。「早く明日にならないかな」と今日という日を無駄に過ごすことさえあります。この一首から、今日という何気ない一日を精一杯、有意義に過ごす大切さを教わりました。待ちわびるほど魅力的な未来が多ければ幸せだけど、その未来は過去の積み重ねでもあるから‥。今日から、今から、もっと中学生という時間を大切にしたいと強く思いました。 (茨木市立養精中学校二年生)
松 尾 有 希 子
新鮮な死体が並び流れくる回転寿司をほおばりて食ぶ(幸紐絡)この歌の中に『死体』という言葉があって「ええっ!!」と思い、この歌について考えてみようと思いました。まず、この歌の『死体』って『刺身』のことなんですよね‥‥。私はよく水族館に行きます。水族館の魚は色んな色をしていたりして綺麗です。私が感動していると、母に「この魚、食べてるんだよ。」って言われ、いつもその時〈かわいそう〉って思ってしまいます。でもお寿司屋さんに行くと十貫ぐらい食べてしまいます。生きている魚を見ると食べたくなくなるのに死んで刺身になっている魚を見ると食べたくなるのは何ででしょうか。同じ魚なのに。そんな私の疑問と、この歌の思いが同じような気がしたのでこれを選びました。
生きて死に生きて死につつ人もいて地球は回り宇宙も動く一日に、ある人は生まれてみんなから祝福されます。しかしまたある人は亡くなりみんなから悲しまれます。いろんな人が祝福されたり悲しまれたりしているのに、地球はその時だけのんびりと回るということはなく、静かに太陽の周りをぐるぐると回っています。何が起きても、大きな世界に関わるような事が起きても、いつも通りに回るのは何だか無愛想な感じがします。でも、大きな大きな世界から見たら、それはどうってことない事で当たり前かもしれませんが少し淋しいなと思いました。(養精中学校二年生)
秦 亜 美
IDとパスワード押せサモナイトアナタノスベテケサレテシマウ(幸紐絡)この歌を見たとき、なぜかすごく心に響きました。IDとパスワードがなければ自分が自分でいられなくなると思うと〈自分らしく〉とは何かを探してみようと思いました。今は何気なく毎日を過ごしているけど、いつか本当にこんな時代が来たら世界はどうなってしまうんだろうかと思いました。だから今、自分に出来ることや、しなければいけないことを一生懸命やろうと思います。友だちと過ごす一日、家族で過ごす一日を大切にしていきたいと思います。 (茨木市立養精中学校二年生)
山 内 花 菜
明日は今日今日は昨日へ変わりゆき時の流れは容赦なく過ぐ(幸紐絡)この歌を読んだ時ハッとしました。私の普段の生活を表しているようだったからです。私はいつも、あれをしよう、これをしようと明日を思い描いています。でも、思い通りに行きません。なぜなら、少しぐらい大丈夫とぼんやりしているからです。一日の最後に、今日あのテレビを観なかったらもっと違うことが出来たのに、本当にあの番組観たかったのかなと後悔する日がよくあります。そんな時この歌の「容赦なく」という言葉は厳しいけれど、本当にその通りで、時の流れは容赦なく過ぎていると実感しました。時の流れを変えることは出来ません。でも中学校生活はあと二年もないです。だから、残りの中学校生活は、後悔ばかりの日々の積み重ねではなく、印象に残るような日々を積み重ねていきたいです。 (茨木市立養精中学校二年生)
久 後 菜 摘
眠るたび死んでは朝に生まれくる命と思えば一日は楽し(凍雲号)時間は何もしなくても勝手に過ぎていきます。それなのに人間は思い通りにいかないことがあると、すぐ立ち止まってしまいます。でも、日々の中には一日一日違う自分がいて、時間が何もかも流してくれていると思えば楽になれるということを、この歌が教えてくれました。私は、一日を楽しめないのは、嫌なことをいつまでも引きずってしまうからだと思います。そんな時に、この歌のように毎日新しい命をもらっていると考えたら、一日を大切に過ごせるんじゃないかなと思いました。私も、毎日新しい気持ちをもって生きていきたいです。 (茨木市立養精中学校二年生)
松 田 純 奈
待ちわびて国語の好きな生徒たち授業があっという間に終わる(幸紐絡)この歌を読んで最初に感じたのは、同じ気持ちだなということです。今回、川添先生に教えてもらえるようになってから授業が楽しくて、他のことを考える時間もなくて、気がつけばチャイムが鳴る毎日だからです。この歌にもあるように国語の時間がずっと楽しみだからです。今までの授業が楽しくなかったわけではないけれど、先生の授業には、今までにない体験談などを聞くことが出来るので、改めていい先生に出会えたなぁと思いました。これからも先生が言ったことをしっかりとメモして授業に臨みたいと思いました。 (茨木市立養精中学校二年生)
山 本 風 花
日本という国名も消えてゆく危機ありありと侵略される(幸紐絡)今、日本はたくさんの借金を日本の銀行にしています。日本に住んでいる人が一人当たりたくさんの借金を日本に返すということにもなります。しかし、日本がもっとたくさんの借金を銀行にすることになったら、日本の銀行がつぶれてしまい、日本という国が消えてしまうかもしれません。この歌はそれについてのことだと感じたので選びました。これからも日本にお金が無くなっていき銀行がつぶれて、日本が危機にさらされ侵略されて消えていくのは嫌だと私は思います。 (茨木市立養精中学校二年生)
野 口 佳 純
待ちわびて国語が好きな生徒たち授業があっという間に終わる(幸紐絡)今日の国語の授業が思い浮かびました。川添先生の国語の授業は、一つ一つちゃんと教えてくれるし、私たち生徒が一人残らず覚え終わるまで飽きずに教えてくれるので好きだし分かりやすいと思います。そのいつも楽しい授業が思い浮かびました。私は、苦手な授業だと、違うことに目が行ってしまい、集中出来ない時が多いけれど、先生の国語は、違うことをする時間がないくらいたくさんの知識を教えてもらえます。なので一回一回の授業が他の教科よりも毎回短く感じます。国語の授業は短く感じるけれど、その中でもたくさんのことを学んでいるんだなと改めて思ったのでこの歌を選びました。 (茨木市立養精中学校二年生)
岡 本 明 香 里
IDとパスワード押せサモナイトアナタノスベテケサレテシマウ(幸紐絡)この歌はいかにも今を表しているな、と思いました。パソコンで何かをやろうとすれば必ず《ID》と《パスワード》というものがいる。もしどちらかが分からなくなれば何も出来なくなる。今の時代、IDとパスワードを覚えるのが大変で、自分の家に鍵を無くして入れないようなもどかしさを感じました。もっとのんびりとした平和な世界は未来には来ないのでしょうか。この歌は後半のカタカナにも目をひかれ選びました。人間が機械に支配されてしまわないように祈りたいです。(養精中二年生)
進 藤 紗 弥 香
地表まで雪は呼吸を止めず降り人の歩みを美しくする(夜の大樹を)ただの地面を歩いても何も起こらない。だが、雪が降り積もっていてはどうだろうか。歩けば当然足跡がつく。ただの地面より歩きにくくなっている。人生も同じだ。特に変わったこともない普通の人生を歩んでいくのは面白くない。雪のように悲しみや苦しみなどの障害物のあることで、初めて人生というものが面白く、そして美しくなれるのだ。しかし、人はそれを避けてしまう。雪が降り続けているのと同じように、私たちも美しい人生にするために、負けずに歩み続けていくべきだと私は思う。(茨木市立養精中学校二年生)
三 好 真 央
落ちてきた蝉を貪る野良仔猫命が命の中に収まる(専待春)この歌を読んだ時ふと自然の厳しさ、小さな命の輪が思い浮かびました。生きていくのには食べていくしかありません。この落ちた蝉は、落ちてしまったがために食べられてしまいましたが、野良仔猫の生きる活力となったのです。私はこの蝉のような人が少しでも増えていけば人々はもっと明るく前向きに生きていけるんじゃないかなと思います。小さな仔猫が必死に蝉を貪る姿がすごく想像できて印象に残りました。 (茨木市立養精中学校二年生)
仲 紀 帆
息を呑む群衆のなか面を打つ少女が海豚のごとくに跳ねる(夏残号)この歌をみてすぐに身近な先輩の顔が思い浮かびました。皆が息を呑んで見守るなか、まるでイルカが跳ねるように一瞬にして面を決める、まさに先輩そのものだと思いました。一体どこでそんな練習をしたらそんなに強くなれるのか、圧倒的な何かでいつも私を驚かせます。先輩は優しくしっかりしていていつもチームを引っ張ってくれ、私もこのような先輩になりたいと思っています。面が一瞬にして決まり、「面あり!」と旗があがるようなあの先輩のようになりたいです。(茨木市立養精中学校二年生)
大 山 美 優
新鮮な死体が並び流れくる回転寿司をほおばりて食ぶ(幸紐絡)私は、毎日毎日、何も考えずにご飯を食べています。しかし、よく考えると、人間はみな肉や魚を食べるとき必ず、その小さな生命をこの世から無くしています。だからといって可愛そうだから食べない、食べられないと言っていては話になりません。だから私は、人間はそういうことを考えず口にしているのだと思います。私は、人間はラッキーだなぁと思いました。なぜかというと人間は食べられるということがないからです。この歌を読んで私は、たくさんの生命のおかげで生きているので自分の命は自分だけのものだと思ってはいけないと思いました。(養精中学校二年生)
岸 田 優 作
フジテックジテックテックとなってゆき今クの半ば塔崩れゆく(迷羂索)「ジテックテックとなってゆき」という所が面白くてこの歌を選びました。「塔崩れゆく」という所も「エレベータのいろいろな実験お疲れさま!」という思いも感じました。安全を守り精確にエレベーターを起動させる実験も一応の役目を終わり崩されてすっかり残像もなくなってしまいました。改めてそんな哀しい気持ちがよみがえりました。(茨木市立養精中学校二年生)
安 永 蓮 人
フジテックタワー解体されてゆく怪獣クレーン微かに動き(父無夏)僕の住んでいる家からは、以前はフジテックの塔が見えていました。ある時から塔が少しずつ上から解体されていきました。壊していくクレーンが怪獣のように見えて、その怪獣に食べられていく塔の気持ちで毎日眺めていました。建物でも痛い痛いと叫んでいたのかもしれないという気持ちで‥。今は窓を見てもどこにも塔を見ることが出来なくなりました。フジテックタワーは本当に残しておいてほしかったです。(茨木市立養精中学校二年生)
塚 本 晴 也
雪解けの冷たき水を飲みて咲く桜花びら星のごと降る(桜伝説)冬から春になると、冬の間は死んでしまった葉や花が春になると、水を吸収して光り輝く星のように舞い散る桜の花びらが思い浮かびました。桜の花が散ってゆくと春のやさしい風をなおさら感じさせてもらえます。それに、桜が告げてくれる春は、人間や鳥などの動物、咲きかけの植物などを冬から目覚めさせてくれます。そんな桜が毎年、咲いていることを思うと、桜も生きるのに頑張っており、自分も精一杯に生きていこうと感じさせてくれます。(茨木市立養精中学校二年生)
西 川 未 悠
いつの間に夢も現も過ぎてゆく死に何となく近づきながら(幸紐絡)あぁ、その通りだ!と見た瞬間に思った。「いつの間に」と「何となく」の言葉に特に反応していたように思う。普段、死に近づいていると認識するわけでもなければ、近づいているとはっきり分かることすらないのだ。一日を過ごすということは、一日、死に近づいているということなのだと初めて感じた。今まで、身内が亡くなったことはあったし、死がどういうことか知っているつもりでいた。でも、自分が死ぬなんて怖くて考えられなかった。死に近づきながら生きていくのだと思うと少し怖い気もする。しかしその方が一日一日を充実したものに出来るのかもしれない。何となく生きるのは嫌だと思ったことだけでも成長だと思う。(茨木市立養精中学校二年生)
岡 橋 舞 美
花壇に咲く花よりもなお美しく咲く雑草と呼ばれる花あり(断片集)雑草といえばたいていの人にはあまり良い印象がないと思う。しかし、この歌は、見る角度を変え、雑草のすばらしさを歌っていると私は思う。雑草は踏まれても根だけが残っても力強く成長する。やがて、小さくてかわいらしい、花壇の花にも負けないくらい美しい花を咲かせる。この歌の、みんながあまり目を向けない雑草をテーマにしているところに心ひかれた。(養精中二年生)
杉 浦 瑠 衣
テレビにて除夜の鐘聴き眠りいる別にいつもと変わることなく(幸紐絡)一年の最後の日、大晦日は夜遅くまで起きてはしゃいで、除夜の鐘を聴いて寝るけれど、特にいつもと変わらない。人はイベントを作って、いつもと違うように楽しんでいるけど、日常通りにしたら、特に何も変わっていないよということなのだろう。いつもと違う日だから、いつもと違わないと言える、そういうところが面白いなと思いました。(茨木市立養精中学校二年生)
石 井 三 紀 子
目の覚めることなき時がいつか来るなど思いつつウトウトといる(幸紐絡)私はまだこれから、今まで生きてきた時間の五倍以上はまだまだずっと生きていくと思っています。だから自分はいつか絶対に死ぬんだという実感がないです。でも、この歌を見て、死が「いつか来る」ということを考えてしまいました。それがいつになるかなんて誰も知りません。今寝て、それが最後になることだってあるのかもしれません。「思いつつウトウトといる」を読んだ後、いつかは死ぬ、だけどいつも通りにしている方が充実できるのかもとも思いました。(茨木市立養精中学校二年生)
川 本 実 歩
明日は今日今日は昨日へ変わりゆき時の流れは容赦なく過ぐ(幸紐絡)「明日は今日今日は昨日」というところを読んで、一日一日が本当にあっという間に過ぎ去っていく感じがよく伝わってきました。時は止まることなく流れていて、その流れにただ身を任せていると、本当に「容赦なく」一日は終わってしまいます。また、日々実感していることとしてふと気が付けば「明日は今日」「今日は昨日」になっていたりします。だからこそ、時間を意識して止めることの出来ない「時」を大切に、「今日」という一日一日を大切に過ごしていきたいと思いました。(養精中学校二年生)
青 木 由 真
生きて死に生きて死につつ人もいて地球は回り宇宙も動く(幸紐絡)今、この瞬間に人が死んでいる。また、今この時を一生懸命に生きている人もいる。この歌を読んで、人はいつも死と隣り合っているということを感じた。今日とても元気な人でも、明日はもうこの世界にはいないのかもしれない。数時間後、いや、数分後には別の世界へ旅立っているのかもしれない。そう考えれば、今を生きていられることの有り難さや凄さが感じられる。そんな今を乗せて地球は常に回っている。そして、地球と共に宇宙も動いている。世界は人の誕生と死が回ること、地球と宇宙が回ることによって成り立っていると思う。(茨木市立養精中学校二年生)
八 子 望 美
ゴキブリに悲鳴を上げる妻よそれニンゲンよりも大きなものか?(蝉束間)教室などに虫が入ってくると、必要以上にキャーキャー叫ぶ人がいます。それを見ていつも私は、虫の方が百倍怖がっているよ、きっと!と思います。自分よりも百倍も千倍も大きなものがいるところに入り込んでしまうのだから、優しく逃がしてやるべきだと思います。私も虫が大好きという訳ではありませんが、ゴキブリや蜘蛛に会っても「あら、こんにちは!」くらいになってみたいです。 (茨木市立養精中学校二年生)
伊 藤 颯 馬
羽のごと竹刀の先を震わせて小手浮き上がる瞬時を狙う(夏残号)この歌を読んだとき僕はすぐに試合の情景が目に浮かびました。試合の緊迫のなか、相手が面で思いっきり決めにきている所を華麗に出小手で仕留める。これを決めた時の気持ち良さはもう最高です。僕の得意技も出小手です。この技は、格上の相手にも一本を取れる技です。相手は警戒して面が打てません。また、「羽」という表現を僕は、面が来るのに対して勝手に手や竹刀が鳥のように浮いて一撃を放つというふうに捉えました。面や胴のように正々堂々とした技ではないと思っていたけれども、この歌を読んで、出小手もきれいな技なんだと初めて感じました。稽古積み重ねてもなお勝ち負けにこだわり基本を外す者あり(秋夜思) 僕の剣道や卓球によくあることだなぁと思った。僕が試合するときには「絶対に勝つ!」と頭で繰り返してばかりで、周りが見えなくなり、意識してやらなければならないことも忘れて、最後は結局基本的なところで負けてしまうパターンがよくあるからだ。勝とう!とする心は大切だと思うけど、もっと落ち着いて冷静に、何事にも動じない「強い心」を持って、基本に忠実できれいな一本、一点を取れるよう努力していきたい。(養精中学校二年生)
横 山 佳 歩
それぞれの終着駅にて降りてゆく人乗せて電車未来へ走る(未生翼)人はそれぞれ自分にとってのゴール、終着駅があるはずです。ただ楽をしてゴールに着くなんていう人生は楽しくないと思います。道は険しくても苦しくてもそれを乗り越えての達成感があったり次もまた頑張ろうと思えたりします。自分の思っていたゴールに着かず、あの時はこうすればよかったのに、と後悔しているかもしれません。後悔だって角度を変えてみるとゴールへの道筋の一つかもしれません。苦しみもゴールに向かうレールだし、レールがあるから電車は走れます。人生もいろんなレールが繋がって未来へ進んでいるのです。今ある全てのことが役に立って未来へのレールを進んでいると思いたいです。
(茨木市立養精中学校二年生)
広 野 ひ か る
何につけ五七五七七で書く支離滅裂も思考のひとつ(幸紐絡)流氷記を読んでいたら、これはどういう意味だろうと思う時があります。この歌はそういう状況にぴったりだと思い、選びました。人はそれぞれ顔や趣味が違うように作る歌も違うと思います。いろんな人の歌を読めば意味が分からないものがいっぱいあると思うけど、それは作った人に何か考えがあるのかもしれません。今まで分からなかったのに、突然その意味が分かったとき「あぁ〜そういうことだったのか!」と楽しくなるものです。こんなところに短歌の面白さがあったんだと思いました。
(茨木市立養精中学校二年生)
小 池 知 沙 帆
花びらが落ちてしまえば鮮やかに若葉桜木光をまとう(幸紐絡)この歌を見た瞬間、無数の花のかたまりから雨のように降り注ぐ薄紅色の桜吹雪に、日だまりのような日の光、ちらほらとのぞく黄緑色の小さな葉っぱと、まるで目の前にあるかのように、鮮やかにその風景が浮かび上がってきます。また花びらの一枚だけがひらりと落ちているさまも容易に想像でき、とても美しい絵のような光景が浮かびます。春のうららかさとともに暖かさも一緒に、一足先に運んでくれたようです。読むだけでふんわりと温かい気持ちになります。私はこんな歌が大好きです。 (茨木市立養精中学校二年生)