文庫版『流氷記』刊行にあたって

廿歳の頃、東大寺観音院上司海雲師の許で三月堂に通い、廿代後半には竜安寺内大珠院盛永宗興老師に参禅、そんなことをしているうち、網走に動く禅、大東流合気武道宗家武田時宗師が居られるとのこと、中川イセさんのお世話で内弟子になり網走二中に四年間勤務した。北海道は僕がかつて編集した『坂田博義歌集』にまつわる所でもあり、啄木の彷徨った地でもある。摩周湖や美幌峠など気のはやるままに何度も車を走らせ、北海道の自然に触れることも出来た。宗家は亡くなったが、網走に毎年訪れる流氷が僕の心に残った。川添君歌をやめては駄目だと訪れた田中栄と見た流氷原の広大さを忘れることができない。夕日に濡れる流氷は、三浦綾子「続氷点」の最終章『燃える流氷』の風景でもある。自分を許せなくなった陽子が最後にたどり着いた許しの風景、この流氷にまつわる風景が僕のこれからの人生にもずっと関わっていくのだと思っている。
 故寺尾勇先生から、君の流氷記は文学史上類のないものだから自信を持っておやりなさい、と言われた。当初、自分としては特別なことをしようというつもりもなかったが、お隣の岩井三窓さんの豆本を見て、自分の思い通りの手作りの本を作ってみようとしたのが、ここまで来てしまった。八号辺りから僕の歌とその批評の対比という形が定着して、それが流氷記の魅力の一つとなった。そこで、この『流氷記』の解説代わりにこの一首評を挙げたい。最新の四三号まで延べほぼ二千二百人の評から、さらに四三号歌の評や『夭折』『夜の大樹を』の評を併せて、その中からほんの一部のみ選んだ。丁度五十ページ分一七六名の一首評である。中には文化史上貴重な文章もあり、寄稿頂いたたくさんの人々に心から感謝したい。選考の不手際や不明、選び漏れなどあると思う。しかし、この文章群が流氷記を読み解く一助となるのは間違いない。