耕 平成十年
北緯四十四度は斜めに雪が降る傘は要らざり襟たててゆく
地つづきとなりし氷原所有者の杭なきまほらを尾白鷲舞ふ
耕して翔ぶを知らざるひと生なり北へと帰る白鳥仰ぐ
飛ぶことは火勢の持続ジャンボ機も鳥も空には止り木がなく
昨日までここには雪が降ってゐた錯覚に散る北のさくらは
先に咲く花より先に散らしめて桜前線網走へ着く
羽搏きを止めなば墜つる空間にとどまりあへず散るさくらかな
見通しのなき農なれど苦しさを言はぬ息子と麦の種子播く
機械なくば農なりたたず子の出費を扶けむとして貯金を下ろす
雑草の名前も知らぬ若者と農の未来を語り合ふ日よ
フォークリフト2トンの肥料を持ち上げる時にちらつく輸入の原価
バイパスの予定地の杭打たれをり早苗のそよぐ田の真ん中に
いちまいの縫はるる前の薄絹のくれなゐ淡し春の夕ぐれ
燃料計ゼロになるたび満タンに給油を受けをりどうなるだろう
粗大ごみに明日は出さるる冷蔵庫かすかに唸りて余力を示す
遺伝子の組み換へ農にも及びつつ明治以来の男爵薯植う
DNA択ぶ権利を雌が持つなるほど男は大変だなあ
真の美は内に宿ると思いつつ鏡を前に髭深く剃る
北の海ひとたび凪げば蒼深くオホーックブルーと躊躇はず呼ぶ
丘に佇てばひたと寄せ来るオホーックの海霧動く速さ目に見ゆ
昼日中十五度を切る北限の水稲受難の夏はふたたび
凶作と決まりてもなほ来年の為に引き抜く稗の根重く
コンバインとよもしてゆく北見野のはてに連山低くつらなる
十トンの小麦を積みてハンドルを切ればじわりと重心移る
網走管内北見ノ国と古称せり車両に付さるる北見ナンバー
沿線に終夜を灯す無人駅片道切符のままに還らず
土を掘りそこに生きる薯幼らに見せて帰しぬ夏の休みを
跡継ぎは一人にて足る都会より次男は今年の作柄を問ふ
生者みな土と化しゆくその土のサンプルを採り肥沃度計る
エンジンに石油を燃やす人工音虫の鳴く音を圧してひびく
農 平成十一年
より深く音の泉を汲むといふ母の補聴器に電池を入れる
高圧の電流架線を渡るとき鉄塔は耐ふ火焔の重さ
生きて根を張る巨樹よりも頼もしく見て佇めり鉄塔一基
長大橋も高層ビルも遠くあり豆刈りをれば虹立つが見ゆ
むしばまれつつ自転する球体に豊けく稔るいんげんを刈る
オホーックの山背が氷雨を運び来て飛ぶことのなき翼を濡らす
雑草にも稔りの秋は訪れて抜けば次代を托す実の散る
赤銹のロシアの船は国情を見せつつ積荷の蟹を降ろせり
出航を間近にロシアの蟹船を降り来て買ひ物の袋を提げゆく
連れ立ちてロシアの船乗り所在なく網走の街に歩を返しをり
日曜はシャッター閉ざす過疎の街ふたたび開かぬ店も混れる
豊作もここでの指数は七十ほどそれでも北見の稲作つづく
労賃の値上げを遠慮がちにいふ農婦の白髪に夕光宿る
ビート掘る子と嫁扶けて妻とありちらつく雪も今寒くない
終点のひとつ手前の無人駅降りて歩めば灯影もあゆむ
太陽をレーダーのごと追尾せし日向葵襤褸の秋昏れてゆく
破綻して看板変れる銀行が一角を占む雪の十字路
暮れなづむ航空公園零戦の飛び立つ姿勢に雪降り積もる
生きて根を張る巨樹よりも頼もしく鉄塔一基冬の野に立つ
塵芥車より零れて地軸の螺子外れ地球儀路上をしばし転がる
父が植ゑ子のわれが伐るからまつの吾が植ゑたるは子に托すのみ
年輪の示す事実の重たさはからまつ何処を切っても昭和
森へ還る道を探せど見つからず金銭で済むけふを生きたり
格納庫に冬を眠れるトラクター待機の姿勢に前方を向く
幼子と今日の対話も噛みあはず老女さびしき重層家族
日を追って立居難儀の老い母を卓に誘ひ食を共にす
歩まむと蹌踉めく母に貸す肩は木となりて立つわれの片枝
傘寿をすぎ残る時間とメスを入れ起る苦痛の重さを較ぶ
透明なる点滴の液が母の?をめぐりて濁る導尿バック
流氷を見せむとエレベーター昇る車椅子にて視野展くまで
白内障の網膜に映ゆる流氷野ただ窮極の白といふのみ
闘ひの姿勢に防風林立ちて鎮むれどなほ雪原すさぶ
雪原につづく氷海境めがあらず海鳥ひくくさまよふ
灯台は夜ごとの闇に船影のなき氷原へひかりを送る
雪山に岸壁とどろく滝がある知床をゆく 獣界をゆく
十二万頭の鹿を半分に撃ち殺す棲み分け叶わぬ北の国原
獣より疾く車で走りつつ冬眠したいと思ふ日がある
惟みればわれらも獣の一種族冬の樹を伐る鋸の目を研ぐ
ポケットに手を差し入れて触れてみる匕首よりも鋭き紙幣
経済の論理をいくら説かれても選択肢なく凍土層なす
北限のハンディを埋めむと設へるハウスに種子播く冬の底辺
耕してなりはひとするその真上いくたび白鳥北へと帰る
その場所を唯一として立つ木々の梢するどく凍天を指す
雲きれて尾白鷲舞ふ空の奥碧深かりきオホーツクの冬
膝までの深き足あと雪に印す生きた証をほかに持たない
暖冬と書きてマイナス十八度今朝の温度を併せて知らす
鉄の柄を握れば吸ひつき皮膚を剥ぐ知る人ぞ知る零下三十度
農として生きるほかなき家系かと帳簿をつけつつ子が呟けり
己のみよかれと希ふときもあり朝の市場へ積荷を降ろす
使命感の失せゆく農業やむなきか米も小麦も輸入が廉い
またしても離農者送りて飲むビール雪に差し込み芯まで冷やす
雪解けて玄関に吊る作業衣を着れば去年の土の香のこる
引き揚げてスクリューあらはに休漁の漁船が並ぶ凍れる港に
沖合ひより流氷群は迫りつつ残れる海面の蒼き沈黙
ぴかぴかの机を買ってもなほ祖父の机が好きな女児入学す
千粁の彼方も隣の街までも同じ切手の春のいうびん
梅と桜いっときに咲く春夏のいずれと呼ばむ北の五月を
移植機より放たるるのを受け止めて土やはらかく苗に寄りゆく
幾日も種芋を播く前傾の芯あり夕べのビールつらぬく
人の一生長すぎないか土に播く種子は稔りてたちまち枯れる
ここ一番と今日を思ひて地下足袋を穿けば若者じろり見てゆく
ふり返る暇などとてもなかったとパートの老女は草を毟れり
育つ苗枯れゆく苗を選り分けて一方を植ゑいつぱうを棄つ
人の住まぬ処に橋は要らぬといふその橋渡りて畑へ通ひぬ
庭に咲く主のをらぬをだまきを剪りて届ける母の病室
あかときに時計の音を囀りと聞きて眠りぬ木の芽立つ頃
托卵の後ろめたさか去りがたく郭公が啼く北の夏山
オホーック圏全国一の三十五度夏のひと日のフェーン現象
一夜すぎ一転オホーックの高気圧冷気圧し来る霧の微粒子
育みし麦の穂波を黄金いろの烙印として盛夏を迎ふ
秋の野に呼ばれて声を返すときゑのころ草の実がこぼれ落つ
充たされぬままに刈られし麦跡の秋の小草はなべて実を持つ
省力に撒けば虹立つ除草剤めぼしい人はみな街に棲む
殺すのも枯らすも同じ荒草に火よりも熱く除草剤撒く
除草剤なければ農業なりたたず子が言ひわれも深く頷く
三日月の形に鋼の鎌はあり藜の大株ざっくりと刈る
待ちかねし雨雲阿寒の峰に去り共済調書に早魃と書く
昨夜の雨たちまち干涸ぶ三十度北見に異変の夏は逝きつつ
死の後は無になるだけと言ひ張れる妻と豆刈るこの秋もまた
薯掘機六百万円子の示す今は買へないカタログ見入る
ハーベスターの選別台に妻と立つ晴れて阿寒の噴煙が見ゆ
薯掘機の分離出来ざる土くれが薯に就くのを手で取り除く
自給率三割にして米余り麦を作れば高すぎるといふ
最終便発ちて野末の空港は寂かに虫のすだく夜となる
土 平成十二年
破滅する予言はづれし世紀末病みつつ球体自転してをり
冬が来る余力ある葉をカットして砂糖大根けふも堀り継ぐ
陽に曝し雨滴雪粒打つままに作業衣そびらが色褪せてをり
与へられ受け取るのみに生きるのが農に非ずやどんぐり拾ふ
開拓の五代目の子らその親も走る過疎地のけふ運動会
一握の土に思へり無から有を生ずる極みに農はかがやく
三十度の直射に堪へし麦藁帽を玄関にかけて共に冬を越す
砂糖大根かくも甘かりその起源を辿れば名もなき草の実ひとつ
買ひ取りの価格は遠くで決められた薯のひとつを手に遊ばせる
爪くろく土染みし掌に柏手を打てば祭の杜はさむし
斃れたる耕馬あまたを埋めし野にアクセルを踏めば蹄の音せり
この国の真中に聳ゆる冨士の嶺を八十年生きて見ずに父逝く
開拓地へ嫁ぎて十九に吾を生む幸せだったと母から聞かず
炎天に麦を手鎌で刈り取れる十二のわれの掌は小さかり
世の母の万引き一度は許されむ修学旅行に穿く靴がなく
妻と母諍へば妻の肩を持ち時経て母に茶菓を買ひ来ぬ
枕許に一本の杖置かれあり再び起きざる母が寝てゐる
二肢をもてなぜ歩むのが可能かと進化の過程を愚かにも問ふ
トイレさへ行けぬを嘆く母のこゑ俯きて聞く椅子ぎいと鳴る
かなしみの汲めども尽きぬ泉あり飲食を経てそのいずみ湧く
はよ帰り畑へ出でよと病室に母は言ひにき余命いくばく
発作起き倒るる母を抱き止む死んでもいいよこの腕の中
処置をするゆゑに廊下へ出よといふ終末医療の母遠くゐる
生きたいか死を望むのか問はれずに延命装置の管つながれる
若しも死を十日の後と知るならば如何に生きなむ十日を過ぎたり
訪ね当てしこの世の出口を臨むごと流氷迫れる丘に佇む
天動説を疑う余地なし日は昇りはた沈みゆく雪の曠野に
いのちより大切なものあるなしを問はれて示す雪の結晶
機械ありて農家は楽と云はれつつサロンパス貼る骨の継ぎ目に
年にひとつ年輪刻む切株を残しし丸太のやうな一生
津軽海峡以南を内地と今も呼ぶ父祖の地岡山に知る人もなく
寒冷地の米は不味くてスーパーにずらりと並ぶ内地銘柄
出来高を問ふ人もなくスーパーの売り出しばかりに人が集まる
雪中に踏み出す脚の付け根まで泥濘りて地面に足がとどかず
ものを作るだけが望みであったかと薯の塩煮を食む雪の夜
買ふ人なく畑の借り手を探すといふ街にも働く場所はなけれど
死ぬる時も生まれたときも裸といふ何の未練ぞ畑に汗して
汗しるき耕馬を鞭打つ原風景消えず眺むる雪野はるけし
墾きたる祖霊は未ださすらふか夜更けて吹雪く風の哭くこゑ
耐へてゐる架線が重く垂れ下がり電柱は雪に突き差してあり
雪降れど傘さす風情ここになく雪は斜線を引きて身を打つ
流氷群拒めず受け止む海岸線後へは退けず北へとつづく
氷海のはてはおぼろに島の影ひとつ急げりこの世の出口へ
生まれたる処がすなはち死場所にて冬は雪降り流氷が来る
珈琲店をひらく次男へ畑を売りし小切手渡す雪の札幌
採算が合はねば麦作を見切るといふ子の帳簿見る雪の夜更けて
年に一度の稔りがすべて カードには無縁の財布を出して支払ふ
穢れなき終焉はあらず春来り街にくろずむ雪の残骸
雪が解けて渇きは起る平原の舗装路をろちの如くにうねる
微生物に分解されて土となる思想うべなふ耕す立場
採算が合はねど麦作を捨てられぬ子に慰めを軽くは言えず
食料は輸入が廉く使命感失せし農夫の漂流つづく
土いじり一度は趣味としてみたい夜を日に継ぎて種播く春を
携帯のアンテナ伸ばし風を呼ぶオホーツク海の岸辺に立ちて
橋桁を未だ架さざる橋脚あり川幅広き春の濁流
本流へ入る支流は濃く濁り融け合へずゆく雪解けの川
暴力を自然は振るふ雪二尺種を播けずに五月に入る
廃屋を傍へに桜咲き盛る鍬を捨てたる人はいづくに
故里へ帰られず土となりしかば殊に色濃し北のさくらは
前方は定かに見えず朝霧を押し分けてゆく播種機を曳きて
トラクターの徹夜の作業を終へて来し子の若白髪灯下に目立つ
耕して終る一生どうしても砕けぬ土の塊がある
選別機の音高く澄む午前四時グリーンアスパラ揃へては切る
植ゑてから二十年なほアスパラの株より新芽がつきつぎと立つ
今一度生まれ変わつて来たいといふ癌病棟に言葉なく聞く
麦の穂の露含む朝コンバインにしばし待機の若者たむろす
七米の刈幅いつぱい麦を呑むコンバイン行く北見の真夏
図体は小山のごときコンバイン指いつぽんの操作に動く
六十度の熱風吹き込む乾燥機麦の粒形徐々にととのふ
露しるき朝の畑にアスパラを剪ればグリーンのひかり滴る
選別機の音高く澄む午前四時グリーンアスパラを揃へては切る
ブレーキ痕の先に蝦夷鹿仆れをり釧路市場へ向かふ阿寒に
アスパラの鮮度を保つは難かりき死体を維持する作業にも似て
麦畑の千の刈株太陽があまねく照らすときにかがやく
いと易く死を得て虹は干涸ぶる人の長生きを嗤ふともなく
死後もなほ伸びる白髪を刈りに来る髪切り虫飛ぶ母の一周忌
陽の下に七日がほどの死の予告どこまでもつづく蝉しぐれなり
乾燥機のスイッチ入れる自然界にあらざる熱風立ち上がりたり
物体がやうやく光を纏ふころ朝露ほろり薯の葉すべる
豆を刈る播きたる種子と寸分を変わらざるもの生まれ来たれり
乾燥機のスイッチ入れる自然界にあらざる熱風立ち上がりたり
運賃と箱代だけの菠薐草扱ひ料引き清算書来ぬ
農作業に明け暮れ夢の褪せ来しか寡黙の日あり若き嫁には
稔 平成十三年
野に棲める幾万の虫その中の一匹が来てひと夜さを鳴く
標本の蝶も蜻蛉もほんたうの死をまだ知らず背中が痛む
虫の音に万感こもる思ひせりカラオケ列島秋の空しさ
農作業に千円の時計が丁度よい時々止まるが叩けば動く
収穫機より砂糖大根を受けて土場へ降ろすダンプの仰角月を指す頃
田園の荒れなむとするこの秋を白鳥来りて落穂を拾ふ
餌付けされ湖岸へ寄れる白鳥は前世に約せしパン屑を乞ふ
やうやくに稔れる豆を煮て食す終末思想と遥かに遠く
バケットに二トンの甜菜を差し上げる鉄のアームの描く動線
人の棲む家は四角くその壁を打ちて吹雪の哭く夜は長い
鍬をもて拓きし過去が徒労とは価値観移ろふはての雪原
雪被ふ沼に末枯れし蒲の穂の絮ゆつくりとほぐれる冬至
山深く自生のオンコを庭へ植う究極の愛を探し倦ねて
また逢へる約束の日が来るやうな流氷南下の報せがとどく
雪原に誘導灯が赤く染む首都よりの機をしばし待つ夜
年に一度顔見せる娘を空港に迎へて孫の手をまず握る
子を二人それぞれ生きよと送り出し結ぶ空路の頼もしかりき
遠くては看取れぬゆゑに癌よりも突然死こそ望むと言へり
また逢へる別れと言へど離陸する機を見送れば風花が散る
渡り鳥いのちを賭けて渡らねばならぬルートを子は来て帰る
鍬を持ちスコップを持ちハンドルを持つ手が遂に痺れ始めぬ
アマリリスの小さき芽が出づ真冬日の部屋にいのちの炎立ち来ぬ
餌付けされパン屑乞ひゐし白鳥がある日旅立つ何事もなく
かもめ群れ啼くこゑしげきひと処流氷とぎれて海面がのぞく
大鷲の直撃をうけあざらしが鮮血流す流氷の上に
しれとこの雪の連山とほく見て尾白鷲舞ふ流氷曠野
地を深く穿ち湧かしむ露天湯へ氷を解かすやうに入りぬ
自らの翼を拡げて翔ぶごとき妻のコートの冬のむらさき
網走と言へば北はて監獄の街としてのみ記憶されゐき
流氷群迫りて沿岸を埋め尽くす開拓期にもITの今も
流氷原とぎれて海面蒼く見ゆ「海明け宣言」出づる日近く
神佛を信じてをらねど菩提寺に寄進す貧しく逝きし祖のため
融雪剤くろぐろと撒く雪原に陽の照れば水の呼び交はすこゑ
唐突にオラも農家になるといふしかと受け止む六歳のこゑを
北に果つるひと生肯ふ旅に出で雪折れの杉を奥飛騨に見つ
白川郷の藁屋に偲ぶ蝦夷の冬を拝み小屋にて堪えし開拓
犬死にの下級武士の血染むさくら車窓にしつつ関ヶ原すぐ
山畑に老い人ひとり土を掘るいざ帰りなむ種撒く北へ
こなごなに砕かれ土くれ均されて種子受け入れる前の優しさ
機械耕の土はやはらかしさりながら踏めば芯あり骨までひびく
獣なら渇けば水を飲むだらう何を切り裂くエンジンの音
祷りとはさういふものだ黒衣着て日がな地を這う蟻の一群
この辺で引退しますと言へなくて子と嫁植ゑる苗を運びぬ
藻琴山の低き山容日々親し裾野へつづく馬鈴薯の花
甜菜苗日ごとに伸びて中耕の葉擦れやさしくタイヤに触れる
一時間前まで地上に立ってゐた経過を述べてアスパラ売りぬ
鮮烈に生きた証を持たなくてアスパラを切るグリーンのしづく
二十幾年の古きアスパラ廃耕の決意をしてよりわが影うすし
隙間なく充填されし土の層たがやせば呻く杭打てば啾く
屋根の下に働く仕事がいいといふパートの老女と並びて草取る
コンバイン動かす若者集団に子もゐて高速作業がすすむ
麦を刈る頃には母の三回忌黄金の穂波を風が梳きゆく
マンモスの地を這ふごとくコンバイン屋根ある車庫へ唸りつつ入る
おほかたを輸入に頼れる業界は国産小麦の契約しぶる
麦刈りを終へて高鳴る盆太鼓孫の踊りを妻と見にゆく
くり返しお前は農家の跡取りぞ言ひし叔父逝く農捨てし叔父
これ以上望まぬことを充ち足るといふであらうか草食む牛よ
杭打ち機幾日をかけて杭を打つ未来へ橋を架けるごとくに
渇くこゑ聞こえて苗に水撒けば地下水脈は虹をともなふ
人には人の薯には薯の体温あり掘り上げて暫してのひらに置く
稔るとは枯れてゆくこと咲き終へて向日葵の佇つ秋が淋しい
繋がれて生きて来たのだ共食ひの肉骨粉を牛は欲しがる
餌を与へ慈しみつつ屠場へとつぎつぎ送る生業として
のつしのつしとタイヤ地を這うつきつめて思えば紙幣の欲しい農業
麦 平成十四年
死の怖さ生の苦しみ堪へぬきて剥製の鹿は佇ち尽くすなり
野にありて働くのみに老い初むる妻の背の燃ゆる紅葉
食糧が余りて農業報はれぬ飢餓の来る日を子は待つといふ
妻と子と嫁と甜菜を日がな掘る眠れば砂糖が雪のごと降る
地の精を吸ひて育ちし甜菜糖天の雪ほど白まさるかも
親への思ひ子どもへの愛それぞれの違ふ深さに落葉降り積む
足腰は痛くないかと問はれをり胸の傷痕誰も知らねば
雪の来る前の凍土に秋の麦芽生えて冬へ真向ふグリーン
境界に十字を刻む石の杭譲れざるものやはり多かり
苦しきは農業のみではなかつたとリストラの記事をくり返し読む
死んだふりをすれば羆も見逃すと聞けば験してみたい現実
馬鈴薯の澱粉砂糖大根の精白糖競ふごとくに降る雪白し
オホーツクを泳ぐ姿の新巻を疎遠の内地へ遠く発たしむ
雪けむりもろとも列車はトンネルへ短く汽笛を鳴らして入る
水の精凍てて舞ひ立つ樹氷群あばしり川に沿ふ道をゆく
年輪をひとつ加へて年を越す万の樹木にわれは均しく
幸せを金で買へると知り初むる孫はよろこぶお年玉得て
学校を出ても働く場所がない春はいつ来る北風の街
ただひとり吾はこの世にあると思ふ雪原のはてへ沈む日輪
見はるかす氷原に船影未だなし自らのために灯台ともる
時ならぬプラス八度の温暖化ぶきみに二月の雪が解け出す
雪像の骨組みあらはに解け始む異変に構はず楽しみませう
ジャンパーの他は似合はずバーゲンに妻とつれ立つ建国記念日
買ふたびに儲ける人が他にゐて息を密める冬の農機庫
氷海を裾野に連山立ち上がる稜線けはしき知床半島
物流を担ふ大型トラックが峠の難路をいまも越えゐむ
めまんべつ空港首都へ関西へここには棲まぬ人乗せて飛ぶ
北見ノ国網走郡と呼びゐしはいつ頃ならむ古き葉書に
讃岐にも備前にも梅咲くたびに血縁うすれ蝦夷遠くなる
流氷去り雪消ゆれども圧し来たる重さ変わらず凍土を掘りぬ
天翔ける白鳥泥に塗られをり畑に降り立ち落ち穂を拾ふ
生きるため食はねばならぬ白鳥の歩む残雪はだらの野面
種を播くいくたびの春むかし蝦夷これからもえぞ白鳥渡る
川沿ひの柳にビニール片々と雪解の水位を今に残しぬ
三千粁の彼方の黄砂オホーツクへ抜け出づるまでの小暗き幾日
六百年を生きて桂はなほ芽吹く網走本線踏切ちかく
天気図に精しき息子雲を見て今日の天気を識るすべ持たず
幼子が語りかけつつ如雨露に撒く最後の鉢には水が当らず
葉桜の木の間隠れに海を向く熊吉像は帽子をとりて
築三十年生き死につづくこの家を仮の宿とし巣籠る鳥よ
梯子をかけ巣より小雀取り出しし悪童それぞれ老いてあるべし
拳にも満たず空間飛ぶ自由余分なものは何も要らない
惜しむべき何もなからむ空を飛ぶ生命体の重さのほかは
抜き捨てし黎ひと夜の雨を得て再び生きむと身を起し来ぬ
黒と白の毛が地図のごと生えて来るモーと啼かずに牛はをられぬ
十トン車一台五万は高いのか安いか堆肥の山を見上げる
耕して収入を得る苦しさを知らず農こそ理想と云へり
麦秋の野にただよへる緊迫感コンバインが行く一台また一台
雨が降れば穂発芽始むる熟れ麦をさうはさせじと夜も刈り急ぐ
はしなくも冷夏となりし空気吸ひ唸りを上げる麦の乾燥
新品種の春播き小麦「春よ恋」コンバインより吐き出され来つ
二トン車に六トンの麦を積むのさへ知らぬふりする派出所の前
村中のダンプ車集まる受け入れ所順番を待ち夜を明かしたり
直線に風景を截る人工林静止衛星のごとく月出づ
耕して整地をすれば足跡をつけるに惜しき地球の表面
たがやして耕して終る日もあらむ池の掃除す蟷螂の鎌
生きて死ぬ他には何があるだらう去年より淋しく蟋蟀が啾く
頼まれて拒めぬ楡かほしいまま葡萄をのぼらせ共に紅葉す
弟妹七人親亡き後のふるさとの土の香封じて薯を送りぬ
薯 平成十五年
雨降りに早に一喜一憂のとき経て立冬砂糖大根を掘りつぐ
乗用車は運転しないが畑での妻は葉切機のスピード上げる
出荷日の前に堀り上げテントをかけ陽を当てぬよう雨受けぬよう
掘り上げて圃場の隅へ積むビート一気に二トンをショベルが掬う
製糖場へ直線農道五十粁ピストン輸送の大型車群
砂糖黍の畑は荒れて刈る人の老い深く見ゆ沖縄の旅に
万一のときには要るが平常は国産いらぬと農業をいふ
四つ肢のけものの過去を呼び覚ます四駆車を駈る北見平野に
ゆく鳥の群れ飛ぶ宙を悲しめり老いて墜つるを捨て来しならむ
スコップに掬へば僅かに場所を変へ土は新たな光を宿す
雪と氷にたうとう負けたと云ひ残し首都圏へ去る老獣医師は
静かなる着地を希ひ風雪に耐へし幾日ぞ落葉降り積む
一山のからまつ黄葉吹く風に金糸を散らす火の粉を降らす
メードインチャイナの服に馴染む身をオホーツク颪が突き刺さり来る
一刻をあらそふ雪の降る前は凍土二寸をもろともに鋤く
いちねんに一度の稔り一生にいくたびならむひいふうみいよう
白き糸を引きて斜めに雪疾る素直に地面へ降りてはくれぬ
何事が起れど裏切る筈はなくお前が好きだ 土のかたまり
千年の古寺に撞かるる除夜の鐘国のはたてのわが家にて鳴る
藻琴山のふところ深く抱く水を若水として蛇口より汲む
狂牛病出た網走の牛飼ひはまもなく街で日雇となる
厚ロースを焼きつつ思ふ四つ肢で立ってゐたのは何日前か
流氷群迫りて陸地と合体す日に夜に接点きしむあばしり
鶴嘴を打てば手酷くはねかへす雪下の凍土怒れるごとく
狂牛病出て牛飼ひが日雇となるところまでニュースは追はず
一粒を万倍とせむ夢をもて播けどもまけども一粒の種子
氷原の真下に若しやうねる波怺へてあらむ幽かな軋み
流氷は鳴るのか泣くかこの世にはあらざる声ぞ網走の浜
解けるまで待て 否待てぬ白妙の野に種播かむ雪を融かして
融雪材にくろく染まりて太陽の視線が熱い雪の微粒子
六花の結晶水へと変る刹那には凄まじからむ内なる崩壊
流氷の沖に生まれし春の風陸を十粁わが街に吹く
波荒く寄せ来しならむ氷塊が打ち重なれる流氷荒野
海明け宣言未だし風のうらがはに流氷の冷え含みて戦ぐ
雪解け水を流して辿る幼な日の道の傍へに福寿草咲く
北へ帰る白鳥夕空を過りゆく大いなるつばさ空を漕ぎつつ
雪未だ残れど新酒をトラクターに供へて区切る冬から春へ
ブルドザーが景観変へたる畑地帯廃屋のさくらきはやかに咲く
地下足袋の小鉤をひとつづつ掛ける土のやは肌踏むその前に
五月十日マイナス三度の強霜あり砂糖大根の稚苗が地に縋りつく
畑過る鉄塔繋ぐ高圧線電気の重みにひくく垂れをり
木は人に見られるために立つてゐる何を躊躇ふ春の剪定
春が来て白き花咲き秋来れば赤き実が生る名知らぬ木なれど
子を育て世に出すほかは何かある声援惜しまず運動会に
合併にて消えゆく町が時ならぬ町長選挙に哀れ華やぐ
幸せを待てば必ず来るといふ素焼の梟けふも飛ばない
土を掘る刃先が火花を放ちゐむ耕して至る栄華なぞなく
雑草の種子は万倍稔らせてならじと刈れば刃に絡みつく
太陽の炉芯は今も炎えてゐむ暑き日とてなく土用をすぎる
陽が照れば石ころさへも燃え始む芯まで石のその苦しさに
誰よりも愛してゐると近すぎる人には云へず麦の穂を抜く
コンバインのライトに泛ぶシルエット嫁の作業衣紅鮮らかに
前部より刈り込み脱穀処理の後麦稈を吐く轟音と共に
生き物が欲望抑へて唸るごと車体を震はすエンジンの音
腹中のタンクは五トン刈り込みし麦満量の表示灯点く
回転する部分は鉄と鉄ゆゑに悲鳴とも聞く動力伝達
一圃場終へて本部を呼び出しぬ次の指示待つオペレーターは
交通量多き公道片寄せてコンバインしばし身動きとれぬ
国内の車輌規格になきゆゑに車幅を示す赤き布ぎれ
会長職あり機械部長に運行長肩書きがある麦刈る間
麦を積むダンプ列なす受け入れ場JA職員指示灯を振る
刈取料反五千円乾燥料他諸経費重くのしかかる
草むらと云へど実態確かむる最も深く腰下ろすため
背丈ほどのタイヤが回るゆつくりと大地へ己を刻むごとくに
夏休みをどこへも行けぬ孫のため蝉を帽子に入れて帰りぬ
熊出没 役場JA警察より全戸発信のファックス来ぬ
これよりは立ち入る資格ないといふ雲雀の巣よりそつと離れる
進むより来た道をまた帰りたい山吹升麻の咲く道をゆく
捨ててある楢の枯枝に火を与え熾となるまで今は灼きたい
炎天に麦刈る幼時体験を原風景とし渇く日がある
ペットボトルを切りて作れる風車アシタは明日の風吹くだらう
いつまでも生きてゐたいか問はれさうカバノアナタケじつくり煮詰む
ありがたうございましたと近頃の子供は余り云はなくなりぬ
空晴れていくたび薯を掘る秋か遠く阿寒の噴煙が見ゆ
堀り上げる薯は選別台の上をんならびて急ぐタンクの中へ
妻と子と嫁とパートの奥さんと土くれ取る手がぶつかり合ひぬ
白日に男爵薯を地に置けばたぐひ希なる穏やかな貌
堀り零せし薯は手間賃なきゆゑに拾はぬといふ子に随ひぬ
母さんは薯堀り孫は入口をいくたび見たか 授業参観
見たことのない昔から来たといふ薯に混れる石ころひとつ
鋤
平成十六年
雁形を組みて空ゆく先頭の一羽と同じくらいに淋し
「殺る」といふ疑似体験を易々と手に入れ少年ゲームに耽る
子は遠く都会にあると聞きしかど夜ごと灯して老独り棲む
沁み透るほどの夕映え紅葉の北見平野をまるごと燃やす
取入れを無事に終へたり洗車機の圧上げて洗ふビートハーベスター
生産者の手取り如何程スーパーの熊本みかん箱で千円
ひとつづつ木より毟つたその人も老いづく農夫か蜜柑が甘い
故里の土の香添へて薯送る幸せならむ遠きはらから
旅の途次寄れるを帰つて来たとして白鳥迎へる駅前の湖に
羽毛布団にくるまりながら自らの発熱促す夜ごとの冬眠
同衾の相手を発熱体として強く意識す流氷圏は
自らの起す電気で煌々と雪原照らす夜のドライブ
薯よりも歳暮はオホーツクの鮭がいい云はれて戸惑ふ農業者われは
お歳暮の鮭は切り身にして欲しい芥の捨て場がないと娘はいふ
飛行音途絶えし女満別空港に昼夜を分かたず除雪車動く
手術台にライト眩ゆく照らされて再び生きる希望が湧きぬ
今まさに飛翔のかたち手術台に今までも一人これからも一人
麻酔剤を吸う瞬間をはつきりと記憶しその後を皆目知らず
大勢の患者の一人に過ぎざるか必死の思ひを医師に縋れど
深き根は地にゆるぎなし三世代棲みて耕す北の一角
雪中のハウスに幾万の生命体わが分身の如く萌え出づ
二ヶ月に二回の手術で十二キロ痩せて歩めり肩を借りつつ
捺されたくない負け犬の烙印を癌であつたと決していふな
病室を見舞ふ息子がひと回り大きく見える防寒着のせいか
農作業出来ぬと息子よ何をいふ二足歩行がふらつくだけだ
この冬も流氷来りて去るといふ海明け宣言を病室に聞く
生まれ変らばなほ辛からむ癌の予後を雪解けの水としばし戯むる
苗床より湯気立ちのぼるオホーツクの風の冷たき三月半ば
同じ日に播けども一歩先んじて芽立ちの双葉が陽に手をのばす
己が足も地より生えたる如くあり発芽期の土を踏みしめて立つ
温風機いまし作動す設定の温度をまもる無人のハウスに
家財出し空家となれるを取り壊す柄ぎいと鳴る千切れる前に
一匹の龍となりたる解体機梁を銜へて引きずり下ろす
補償金を手にするために百年の銀杏あへなく伐ると決めたり
いちゐの古木根方を掘りて菰を巻き植木師クレーンで高々と吊る
どんな木でも動かして見せる 植木師の穿く地下足袋が気概を示す
移植され生きねばならぬ公孫樹意を決してか芽吹き始めぬ
延命装置に生きゐし人が遂に逝く一本の木の枯れる苦しさ
その父を逝かせて寡黙になる嫁にからまつ林の郭公のこゑ
指させば光る箭が降る朴の花棄てよ忘れよ楽になるから
やや太き丸太が空を飛んでゐるこんな田舎に空港があり
木になれず草にもなれぬが春来れば密やかな芽を心中に抱く
強がりを云ひて妻子を帰したる入院初日の夜の寂しさ
云ひかねて告知を医師に托せしと妻子は密かに語り合ひゐつ
カルテより目を上げ医師は死亡率一位の癌を「治ります」といふ
体内へメスを入れずに一生を終へる希みを遂に断たれて
現代の高度の医療も病原を切り取り難しと真意を明かさる
最悪の場合も書かれてサインする製薬会社の名入りボールペン
一年を無事に生きたらまた一年生きて見たいと妻だけにいふ
兄弟でも財布の中身が違ふゆゑ口でいふほど助け合へぬも
手術痕あらはに長き病歴を聞かされてゐる男子入浴日
惚けたる人にも優しきカンゴシさんいちばん偉い人とは誰か
辛苦せし四十町歩を子の名にと使ひ古しの実印を捺す
粗衣粗食の親は九十まで生きたその差が悲し遺伝子構造
伐り倒し空は明るく晴れたのか開拓の末裔鋸銹びてゐる
薙ぎ払ふ青草の匂ひ胸を衝く点滴のしずくを見詰めてあれば
尿管より尿流れ出づるこの次に生まれるときは四つ肢がいい
眼つぶれば舞ひ降りて来る雪の精新たな切符の欲しい日がある
半身を喰はれて唸る牛のごとこの夜の吹雪は猛りて止まず
細き雨ささやくやうにルビナスの咲く一叢を濡らしつづける
麦を播けば麦の芽が出るそれすらも不可解にして麦の花見る
砂糖大根の葉陰に残る藜を引き抜けばあるかなきかの花粉を零す
農を継ぐ兄あり次男はひたすらにコーヒーを注ぐリラの札幌
奥深く抉る言の葉欲しくなる?瑰の咲く砂丘まで来て
麦を刈るエンジンの音日もすがら大地の鼓動が胸にとよもす
三十二度の大気充填されゐたり北見平野の麦刈るけふは
コンバインの吐き出す麦粒の重量感ダンプ車ギイとフレームが鳴る
麦を積む増枠深き四トン車嫁が手をふり圃場を後にす
切り株を踏めばはつかに露はじく去年と異なる予後の体力
草をとれど草生えて来る草もわれも選択肢なく生きて対峙す
父母も老いて在さむ彼の世にて墓前へ額づくわが髪しろし
早よ帰り畑へ出よと死の前に母は云ひたり迎へ火を焚く
深くふかく刻みて置かむ墓碑銘を名ひとつ残らぬ農の一族
運不運に支配さるるか金メタルも体操選手着地を決めたり
どちらかが必ず負ける全力を出し切ればよい それだけでよい
獣ならば生きてはゐまい 癌細胞を切り捨て存ふ初めての秋
火となりて燃え始めたり今朝食べた塩茹で薯が五体を動かす
術後には薯か甘藷をすすめられ何より美味いと食べて知りたり
北あかり男爵メーク粉吹雪とよしろもあり順番に掘る
薯を掘り跡地へ麦播く忙しさ五時には昏れて小暗き畑に
越冬麦の播種機スタートする前に目盛り見たしとわれは近づく
生えたとて花咲いたとて何かあらむ秋の小草の末枯れゆくなり
播 平成十七年
この石はまだ生きてゐる死に石はこれだと庭師のさすその石は
癌の部位切除終へたるその日より臨界の紅葉燃え始めたり
癌細胞を切り取りし跡の空洞へ心ゆくまで虫の音充たす
思ひ切りファスナーを引けば開腹のメスの冷たさジャンパーを脱ぐ
ひと日とて食はずにをれぬ飛ぶ鴎腹の白さはペンキの白さ
駐車場に靴を揃へて脱ぎてありぴかぴかの車出て行きし跡に
農の現場を離れてスリップダウンする考へて詠む歌の貧しさ
踏み込みを決めて上手を取るべしと元横綱はその奥を説く
自らのパワーを充鎮せしむるか高見盛のパフォーマンスは
這ひつくばる相手を助け起さむと差し伸ばす手を拒まれてをり
賭ならば救ひもあらむ実力にて負けた悔しさ計り知れざる
勝つよりも負けて去るのに味がある土俵に残す能面の笑み
播かざりし一粒の種子萌えむとす病みて一年抱くその実は
用立てし些かの金戻し来ぬ保険が出たといふ自殺なれども
雪原のはてより遠い処なし赤き夕陽の沈みゆくとき
アラビアより遥けきオホーツク沿岸部リッター百三十円高からざらむ
次世代を産めば命の尽きる鮭あまたの骸が谷下る
滅ぶもの美しからずと思ふ日よ零下二十度に貌を晒しぬ
除雪車が走り去るとき身を揺する震へが凍土の底より起る
雪に挿す枯木のごとき裸木の一群生きて立ち上りたり
エンジンを持てる機械は生きものと見做して年越す餅を供へる
風雪に呼べど声なく凍て土の下に幾世のわが祖は眠る
門先のアイスキャンドルに灯を点すわが胸の火をそつと移して
天気予報に浪の高さは示されず流氷覆ふオホーツク沿岸
トラクターに除雪機セットし高々と子は新雪を噴き上げてをり
現場へと戻る日はたしてありやなしや真冬日食後の一錠を飲む
滅ぶもの美しと見て誤たず零下二十五度樹氷きらめく
雪兎雪より白く冬を終へ翼の欲しい春の風吹く
雪中花いづくに湧ける力ぞと頬近づけて土の香を嗅ぐ
これぞと思ふ一花を未だ持たざれば春が来て咲く花の淋しさ
雪解けの泥の足跡を病室に残して見舞いの客は去りたり
内視鏡に見られたる日はそそくさと物体としての歩調に戻る
水槽の底よりゆらゆら眺めをりいまの水位は天井あたり
一歩先を歩いたことの無き靴か雪解けの水じわり浸み来ぬ
選択肢を持たざるわれは抗癌剤飲む一杯の水を乞ひにき
死んでゆく姿を他人に見せたくなしまた来てくれと弟にいふ
石ころに土の塊木の根つ子好きなものをばふいに問はれて
百万本の苗それぞれに生命ありその一茎のごとく呼吸す
流氷去りオホーツクの渚北へ延びるふたたび奔馬の鬣として
癌ふたたび蝕める身を朔北に終の一粒を播かむ野をゆく
共生と云へど受け入れ難くあり癌を生きよと医師に説かれて
いつ死ぬるか解らぬ事が今日を生きる原動力のひとつと知れり
悲しみに堪へぬきましたある朝黒い鴉に生まれ変って
容体をさりげなく問ふ君の言葉いのちの底ひへ真つ直ぐとどく
体深く抗癌剤を留めあり鉛のごとし北見平野は
桜ばな北のはてまで咲く国よ人住む限り血の色に咲く
身に深く排除叶はぬ癌あれば優しくなれる日怒り募る日
ロシア産熊の胆癌に効くと聞き妻は買ひ来ぬ大枚はたきて
十年前の写真を遺影に択び置き入院の朝送られてゆく
消灯の前に必ず電話する孫二人出てその後に妻出る
直角と云へど鋭し壁の角夜毎の北風来て哭くところ
本田重一履歴
出生 昭和七年十一月三十日
女満別町字大東百六十七番地で生まれる
女満別町立大東小学校卒業
網走中学校入学二年で病気の為中退(北海道網走南ヶ丘高等学校)
十九歳で父の農業に従事する
平成三年一月「新墾」入社
平成六年「第三十五回新墾新人賞」受賞
平成十年四月「塔」入社
平成十七年八月九日没(満七二歳)
本田重一歌集『耕凍』について
★本歌集は本田重一が平成十年から『塔』に掲載し発表した歌から厳選したものである。弟の本田春一さんのご尽力によって歌を集めることが出来た。年ごとに一字ずつのタイトルを寄せて彼の志を表し、歌集名を『耕凍』とした。本田重一の歌は女満別の地を耕しながら培った感性によって詠われたものばかりで、僕は彼から生活の汗そのものの感触や、冬には押し寄せてくる流氷の在り方を学び続けてきた。彼の死からもうすぐ一年になる。彼は歌壇の出世への執着など一切ない人だったが、その歌は純粋で美しく、最も北海道の風土やそこに生きる人々の気持ちが表出されている。心ある人達の目と心に触れて読まれることを切に願いたい。
編集後記
彼の履歴にもあるように彼には山路虹生の時代の歌がある。この歌集ではそれが入っていないがいずれは紹介したいと思っている。本田重一歌集だけでも選に困るほど格調があり密度の高い歌ばかりだった。秋には流氷記のスタンツと同じく読者の選ぶ歌と言葉を集めて号を重ねたい。ささやかでも実りのある歌集でありたいし読者の心をも表出していきたい。彼の歌を集めるのには春一さんの労力が欠かせなかった。これからゆっくりとした時を紡ぎながら彼の歌をじっくりと咀嚼していかねば。この歌集は流氷記ホームページにも載せていきたい。文字通り手作りの集だが彼の心に適うと思う。