歌の批評者+自己・他己紹介+選んだ歌(前の数字は『耕凍』のページ数+感想文+転載文
島 田 陽 子
日本文芸家協会、現代詩人会、詩人クラブ、童謡協会会員
03北の海ひとたび凪げば蒼深くオホーツクブルーと躊躇はず呼ぶ
10十二万頭の鹿を半分に撃ち殺す棲み分け叶わぬ北の国原
13千粁の彼方も隣の街までも同じ切手の春のいうびん
35山畑に老い人ひとり土を掘るいざ帰りなむ種撒く北へ
78ロシア産熊の胆癌に効くと聞き妻は買い来ぬ大枚はたきて
日本の農政は私などが見てもおかしい。自給自足できず他国依存は余儀ない面があるにしても、このままでいいとは思えない。その出口なき農の苦しみをつぶさにうたった本歌集だが、「コンバイン動かす若者集団に子もゐて高速作業がすすむ」「トラクターに除雪機セットし高々と子は新雪を噴き上げてをり」などに、機械化による経済負担はあっても明日への希望も感じられてほっとする。また「物流を担ふ大型トラックが峠の難路をいまも越えゐむ」「生きて根を張る巨樹よりも頼もしく鉄塔一基冬の野に立つ」「子をふたりそれぞれ生きよと送り出し結ぶ空路の頼もしかりき」と、流氷の地に生きるひとの独特な視点、癌手術後の率直な吐露など感銘深く読ませてもらった。
高 辻 郷 子
網走歌人会、心の花会員
38人には人の薯には薯の体温あり掘り下げてしばしてのひらに置く
62深き根は地にゆるぎなし三世代棲みて耕す北の一角
67眼つむれば舞ひ降りて来る雪の精新たな切符の欲しい日がある
76石ころに土の塊木の根っ子好きなものをばふいに問われて
77流氷去りオホーツクの渚北へ延びるふたたび奔馬の鬣として
本田重一の歌には、冷徹で刃物の如き切れ味がある。北の大地の一角に、不退転の決意と情熱で、農に生きた男の毅然たる背骨が、どの作品にも鋳込められているようだ。一首目、生命の同質性を凝視する視線は、穏和だが鋭い。二首目、北見平野の大地に根付いた三世代の揺るがぬ活力を詠いつつも、そこに一枚加わっている己れ自身の生命の、無常の果を遠望している冷静さがある。手放しではない。三首目、新たな人生の切符を切望し、幻視する雪の精への憧影。四首目には氏の人生観が述べられ、五首目に流氷が去り、オホーツク海の渚が生命を奪還する季節をダイナミックに詠じた。時の流れの永遠なる天界に浮上した氏の魂は、今もどこかで、銀の鬣をなびかす氷海を見下ろしている事だろう。
米 満 英 男
短歌歴六十余年。後は我が身の朽ちる迄―。
06むしばまれつつ自転する球体に豊けく稔るいんげんを刈る
24生まれたる処がすなはち死場所にて冬は雪降り流氷が来る
35こなごなに砕かれ土くれ均されて種子受け入れる前の優しさ
48四つ肢のけものの過去を呼び覚ます四駆車を駈る北見平野に
64一匹の龍となりたる解体機梁を衒へて引きずり下ろす
本田重一氏の歌を読み取り、深く感動致しました。平成十年から十七年に至る間の作品を、耕、農、土、稔、麦、薯、鋤、播という順繰りに並べておられる処に、見事に特質を確と表現しておられます。よくぞこれ程までの作品を鮮明に、かつ心搏に合わせて、独自の歌を作り上げられたものと、只只感服致す次第です。21若しも死を十日の後と知るならば如何に生きなむ十日を過ぎたり
29野に棲める幾万の虫その中の一匹が来てひと夜さを鳴く
42ジャンパーの他は似合わずバーゲンに妻とつれ立つ建国記念日
58空晴れていくたび薯を掘る秋か遠く阿寒の噴煙が見ゆ
16死んでゆく姿を他人に見せたくなしまた来てくれと弟にいふ
立派な作品が、精魂込めて作り上げられています。只只合掌。
里 見 純 世
病床の歌一首一首に胸をうたれました。どの歌も光っています
36藻琴山の低き山容日々親し裾野へつづく馬鈴薯の花
43めまんべつ空港首都へ関西へここには棲まぬ人乗せて飛ぶ
65強がりを云ひて妻子を帰したる入院初日の夜の寂しさ
77共生と云へど受け入れ難くあり病を生きよと医者に説かれて
78十年前の写真を遺影に択び置き入院の朝送られてゆく
網走歌人会では山路虹生というペンネームで出詠されており、みなさんから敬愛されていました。本田重一さんが病気で亡くなられたことは、知る由もありませんでしたので、正直言って驚いています。新墾で新人賞を取られ、優秀な歌人であることは知っていましたが、塔で活躍しておられたのですね。本当に惜しい歌人が亡くなり残念でなりません。今回、川添さんより送っていただいた本田さんの歌を読ませていただき、初めて読む歌が多く、特に病気で苦しまれている歌にショックを受けました。本田さんがにんなに病気と闘っているとは思ってもみなかったので、一首一首に同情させられました。目の確かさと相まって心の動きが、飾らない表現力を伴ってどの歌も息づいています。
葛 西 操
川添先生のご紹介です
78ロシア産の胆が癌に効くと聞き妻は買ひ来ぬ大枚はたきて
40親への思ひ子どもへの愛それぞれ違ふ深さに落葉降り積む
20妻と母諍へば妻の肩を持ち時経て母に茶菓子買て来ぬ
69はよ帰り畑に出でよと病室に母は言ひにき余命いくばく
65強がりを云ひて妻子を帰したる入院初日の夜の寂しさ
この度川添先生のお便りにて本田重一様の御在りし日のご様子を知らされ、また私は本田様と網走歌人会にて平成十五年頃一度お会いしましたのでしみじみと想い出しています。大変静かなお方とお見受けしました。川添先生より、ご病気でお亡くなりになられましたとお聞きしました。どうか安らかにお眠り下さいませ。平成十五年あたりのお歌には見覚えがあります。とてもお優しい心が伝わってきます。お母様、奥様と共にご多忙の中でもいつも大変にお心に掛けてお出でのご様子がお歌の中に表現されておりました。私も歳(九十六歳)ですが、もう一度お会い出来なかったのが心残りです。心安らかに居られることを心よりお祈り申し上げます。
南 部 千 代
網走歌人会会員
6雑草にも稔りの秋は訪れて抜けば次代を託す実の散る
11ポケットに手を差し入れて触れてみる匕首よりも鋭き紙幣
55誰よりも愛してゐると近すぎる人には云えず麦の穂を抜く
69草をとれど草生えて来る草もわれも選択肢なく生きて対峙す
77悲しみに堪へぬきましたある朝黒い鴉に生まれ変って
本田重一さん(山路虹生さん)として一生の間のある時間を短歌を通して知り合へたことはとても貴重な時間であったと思う。そして今、この『耕凍』と云ふ一冊に出会い、彼の絶唱を思うとき、なんとも切なくなります。どの歌も深く、重く、一度きりの彼の人生の軌跡として、私の心に揺さぶりかけてくるものがあります。ありがとうございました。歌の仲間として、心からお礼を申し上げます。と同時に心から追悼の祈りをこめて一文を認めました。惜しんでも惜しみ足りない歌人の本田重一さん、安らかに合掌
堤 道 子
3北の海ひとたび凪げば蒼深くオホーツクブルーと躊躇はず呼ぶ
8父が植ゑ子のわれが伐るからまつの吾が植ゑたるは子に託すのみ
25暴力を自然は振るふ雪二尺種を播けずに五月に入る
69深くふかく刻みて置かむ墓碑銘を名ひとつ残らぬ農の一族
76癌ふたたび蝕める身を朔北に終の一粒を播かむ野をゆく
本田重一氏の作品は何時も厳しい自然と向き合い、生命を見つめる目は心血を注ぐ言葉で呼吸する姿として感動を与える存在であったと思う。私は一度もお逢いしなかったが、『新墾』誌上でご一緒したので、或る時「山路虹生」という筆名について意見を述べ合ったことがあった。当時私自身の筆名についても考えが揺れていた時であった。「筆名で自分を伝えることもよいが、子々孫々に伝える自分の生の証は、本名がより強く重い」と私の思いのままを伝えた記憶がある。その後「山路虹生」は本名に変わっていた。病についての歌は、氏が新墾を去った後のことと思うので全く私は知らなかった。無念の思いが伝わって来る。御冥福をお祈りする。
佐 藤 昌 明
網走の住人。『流氷記』で和歌のよさと難しさを実感。
20妻と母諍へば妻の肩をもち時経て母に茶菓を買い来ぬ
20発作起き倒るる母を抱き止む死んでもいいよこの腕の中
22津軽海峡以南を内地と今も呼ぶ父祖の地岡山に知る人もなく
26廃屋を傍へに桜咲き盛る鍬を捨てたる人はいずくに
29農作業に明け暮れ夢の褪せ来しか寡黙の日あり若き嫁には
川添さんの知遇を得て『流氷記』を継続して読ませてもらい、その創造性、繊細さ、率直さ、表現の巧みさにただただ驚かされてきたが、今回、またまた大変なご労力で本田重一氏の歌にふれさせていただくことができ、川添さんが異常(?)と思われるほど慕っておられる本田氏の魅力が薄々ながら分かったように思う。素人の私のいうことが当てはまるとは到底思えないが、本田さんは長年農業に携わっての血の滲む辛苦を通して、自然と人生、果ては地球の未来までをも透徹した目で見通し、しかも芸術家に欠かせぬ客観性と清新さを失わず詠まれており、第三者をして怠惰な意識の革新を迫られる。『優れた作品は優れた人によってのみむ理解される』の言を今更ながら確認させていただいた。感謝。
山 川 純 子
北海道生まれ在住。「ぱにあ」「花林」所属。
15育みし麦の穂波を黄金いろの烙印として盛夏を迎ふ
16除草剤なければ農業なりたたず子が言ひわれも深く頷く
39妻と子と嫁と甜菜を日がな掘る眠れば砂糖が雪のごと降る
47弟妹七人親亡き後のふるさとの土の香封じて薯を送りぬ
57夏休みをどこへも行けぬ孫のため蝉を帽子に入れて帰りぬ
本田重一氏とは同郷で、二、三度会ったことがある。スーツ姿の似合う、きゃしゃな感じの人だった。当然ながら、農業は人々の命を支えるための食料を生産している訳だが、作物の生育過程と地域にあっての社会的生活風景家庭生活の様子がつぶさに見えてくる。特に作者が癌に冒され、命の終を意識してからの眼差しは自愛に満ちている。どの歌も感情を抑制し、淡々とした表現で読む者の心を突き動かす。〈草をとれど草生えてくる草もわれも選択肢なく生きて対峙す〉〈生えたとて花咲いたとて何かあらむ秋の小草の末枯れてゆくなり〉雑草を詠んだ二首、これらは「ものの哀れ」であり、「万物愛」ともいえる。いま改めて本田重一氏の歌の重さと向き合った。
鈴 木 悠 斎
書家ですが、現在創作の花札を作っては発表しています。
1北緯四十四度は斜めに雪が降る傘は要らざり襟立ててゆく
4コンバインとよもしてゆく北見野のはてに連山低く連なる
9格納庫に冬を眠れるトラクター待機の姿勢に前方を向く
27霧しるき朝の畑にアスパラを剪ればグリーンのひかり滴る
30収穫機(ハーベスター)より砂糖大根(ビート)を受けて工場へ降ろすダンプの仰角月を指す頃
★北緯四十四度は斜めに雪が降る傘は要らざり襟立ててゆく 極北の開拓農民のキリッとした姿勢と誇りが感じられる歌です。★コンバインとよもしてゆく北見野のはてに連山低く連なる 収穫の喜びと北の大地の雄大さが伝わってきます。音と風景と感情が見事に溶け合っています。 ★格納庫に冬を眠れるトラクター待機の姿勢に前方を向く 北国の農民の春への思いがトラクターに仮託されおもしろい歌になっています。 ★霧しるき朝の畑にアスパラを剪ればグリーンのひかり滴る 清々しい朝の収穫の風景です。 ★収穫機より砂糖大根を受けて工場へ降ろすダンプの仰角月を指す頃 収穫期の夕景が目に浮かぶようです。ダンプの仰角が月を指すというのがいいですね。
井 上 冨 美 子
18一握の土に思へり無から有を生ずる極みに農はかがやく
26耕して終わる一生どうしても砕けぬ土の塊がある
62深き根は地にゆるぎなし 三世代棲みて耕す北の一角
77いつ死ぬか解らぬ事が今日を生きる原動力のひとつと知れり
78十年前の写真を遺影に択び置き入院の朝送られてゆく
ここに謹んで本田重一様のご冥福をお祈り申し上げます。
美しく厳しい北の大地で農を営み、家族を養い、国の農業政策に苦慮しつつも、人を信じ大地を信じ逞しく生きてこられた本田重一様。純粋で飾らないありのままの姿を詠まれた一首一首は、ストレートに心の中に熱く重く伝わってくるものばかりでした。五首に絞ることがなかなか出来ず、何回も『耕凍』を拝見させていただきました。私のような凡人には、とても語る資格などありませんというのが本音です。この原稿を書くのには私なりに勇気のいることでした。『耕凍』に出逢えて、緩んでいた私の心が引き締まる思いです。川添先生のご努力で、こうして『耕凍』を拝見できましたことに対して、心よりお礼申し上げます。
小 川 輝 道
同地方で中学校教育にあたった。流氷記を通し農民歌人を知った。
11耕してなりはひとするその真上いくたび白鳥北へと帰る
11その場所を唯一として立つ木々の梢するどく凍天を指す
47弟妹七人親亡き後のふるさとの土の香封じて薯を送りぬ
49一刻をあらそふ雪の降る前は凍土二寸もろともに鋤く
51鶴嘴を打てば手酷くはねかへす雪下の凍土怒れるごとく
前二首は、今年も北へ帰る白鳥を見上げて、生涯をかけて働き続けた農への想いを、深い心情をもって詠みきっている。その姿は梢するどく凍天をさし屹立している木々のように、ひとり農をもって自立している力強さを見せてくれる。その存在のありように打たれる。共通していることは、削ぎ落とした表現の簡潔さにある。真上、北へ帰る、唯一として、凍天を指すなどが示すつよさとリズムの表現の力、生きていることばの力に目が洗われる。 「凍土」があらわしている北国の自然の厳しさは、一刻をあらそい、手酷くはね返す凍土に、立ち向かう農の現実に生きていく人が、ふるさとのめぐみを弟妹に届けるやさしさを詠んだ。北方に生きる人の姿を生き生きと表現した美事さを感じる。
前 田 道 夫
塔短歌会会員
01耕して翔ぷを知らざるひと生なり北へと帰る白鳥仰ぐ
04コンバインとよもしてゆく北見野のはてに連山低くつらなる
11雲きれて尾白鷲舞ふ空の奥碧深かりきオホーツクの冬
20発作起き倒るる母を抱き止む死んでもいいよこの腕の中
34唐突にオラも農家になるといふしかと受け止む六歳のこゑを
本田重一さんは北の大地において農業一筋に生きてこられた方のようである。作品は、女満別を訪れたこともなく農業のことなど全く知らない私にも風景や仕事の状景等ありありと伝わってくるものがある。作品に詠われている「暖冬といつてもマイナス十八度」や「零下三十度」の土地における農作業を表すに『耕凍』とは、真にぴったりと合った歌集名であると思われる。
「今まさに飛翔のかたち手術台に今までも一人これからも一人」病床にあっても事故を客観視して捉えている感性には胸打たれるものがある。七十二歳でなくなられた由。高齢化社会の現代においては早世ともいうべきであり、惜しまれるところです。謹んで御冥福をお祈りいたします。
道 上 隆 三
農に生れた農民歌人の純粋な叙情性。
2見通しのなき農なれど苦しさを言はぬ息子と麦の種播く
7労賃の値上げを遠慮がちにいふ農婦の白髪に夕光宿る
18一握の土に思へり無から有を生ずる極みに農はかがやく
54土を掘る刃先が火花を放ちゐむ耕して至る栄華なぞなく
69切り株を踏めばはつかに露はじく去年と異なる予後の体力
戦後の山形の農民歌人で朝日新聞歌壇の選者も勤めた結城哀草果は、農家で生れ、麦踏みをして育った私には、極めて親しみ深い歌人であった。哀草果は農の生活と山の美しさを素直な感性で詠い上げていた。『耕凍』の作者本田重一氏は哀草果と似通う詠風をもって、農の生活と海の厳しさを詠い上げている。私自身には滅亡した生家と郷土への偏愛があり、それだけにこの一集は親しみと愛しさで一気に読んだ。多くの感動的な歌に出合ったが、頭出の五首はそれらのなかで一寸立ち止まった歌であって、私の薦める秀歌というものとはまた違うと言える。
松 永 久 子
橄 覧、 五〇番地(購読)
18開拓の五代目の子らその親も走る過疎地のけふ運動会
18一握の土に思へり無から有を生ずる極みに農はかがやく
19斃れたる耕馬あまたを埋めし野にアクセル踏めば蹄の音せり
19開拓地へ嫁ぎて十九に吾を生む幸せだったと母から聞かず
27露しるき朝の畑にアスパラを剪ればグリーンのひかり滴る
主に「土」に魅かれた。三十町歩の開拓地。五代目の子らが住むとさえ、悠久を思わす過疎の大地に営々と生き続けられた本田さんの歌に、思わず涙がにじむやうな、衿を正されるような重みと、ある緊張をもって拝読した。あらゆる辛い困難な状況をも豊かな作者の詩情に消化されてゆく感動を覚えた。
癌ふたたび蝕める実を朔北に終の一粒を播かむ野をゆく
病魔と闘いながら最后まで農を全うされたことを、せめてものお幸せと思いたい。(先ほど、弟が三ヶ月の闘病であっという間に逝ってしまったので‥‥。)
古 川 裕 夫
農の歌が極めて特徴的です。
11ポケットに手を差し入れて触れてみる匕首よりも鋭き紙幣
53畑過る鉄塔繋ぐ高圧線電気の重みに低く垂れをり
63この冬も流氷走りて去るといふ海明け宣言を病室にて聞く
74現場へと戻る日はたしてありやなしや真冬日食後の一錠を飲む
77体深く抗癌剤を留めあり鉛のごとし北見平野は
本歌集は作者本田重一の農に生きた一生を特徴的な歌い方で綴ってある。歌集には、コンバイン、砂糖大根、北見、網走、麦刈、阿寒、オホーツク、流氷、海明け宣言、凍土など、北海道の原野を耕して一生を費やした本田重一の素朴な生きざまが惻々として胸を打つ。私自身が極めて稀な耳下腺癌に侵され乍ら生きているので共感を呼んで余りがある。圧巻は下へ流れる程凄い。前掲の五首の後の三首など、他人事とは思えない。抗癌剤、これは私も飲んでいる。彼も一縷の思いで抗癌剤に縋ったのであろう。遂に効なく七二歳で彼の世へ旅立った。集の最後から四首目、熊の胆を妻が購ってきたのを飲んでいる。効ありと思ったか、思わなかったか。遂に旬日を経て帰らぬ人となってしまった。
唐 木 花 江
歌壇的に高名な歌人たち、この無名歌人の実力を知るべし
03いちまいの縫はるる前の薄絹のくれなゐ淡し春の夕ぐれ
33自らの翼を拡げて翔ぶごとし妻のコートの冬のむらさき
46直線に風景を截る人工林静止衛星のごとく月出づ
50何事が起れど裏切る筈はなくお前が好きだ土のかたまり
77悲しみに堪えぬきましたある朝黒い鴉に生まれ変わって
集の多くは重厚な写実作品であったが、私の目指している反写実作品を撰んでみた。どの作品も表現の素晴らしさ、暗喩や示唆の深さに感嘆し惜しみながら多くを割愛した。一首目二首目、この詩的な感性の美しさ。天与の才だろう。点在する美意識が集の格調を高くしている。美意識も非難して何が文学かと私は言いたい。三首目、的確な把握と静寂の表現、結句の主観が凡な風景終わっていない。四首目、土を信じ、土を愛して生きた作者ならねばの作だ。しかし土に寄せる悲哀も感じられる。五首目、黒い鴉に一点集約される生の悲哀、涙なくしては語れぬだろう。先ず利益を確保しての遺歌集出版もあるというなか、私財を投入したこの友情出版に敬意を表して止まない。
甲 田 一 彦
石ころに土の塊木の根っ子好きなものをばふいに問はれて
北海道北見の原野で農民として生きた本田重一の真骨頂を示した歌である。厳しい自然とのたたかいに翻弄されながら、それでも歯を食いしばって立ち向かう農民魂の発露である。
この歌集は、平成十年から十七年に到る晩年の作品を、「流氷記」の著者川添英一が渾身の力をこめて作り上げたものである。年度ごとに耕・農・土・稔・麦・薯・鋤・播の一字をひいてみると、この歌集の神髄がつかめる気がする。
『耕』
耕して翔ぶを知らざるひと生なり北へと帰る白鳥仰ぐ
『農』
農として生きるほかなき家系かと帳簿つけつつ子が呟けり
『土』
一握の土に思へり無から有を生ずる極みに農はかがやく
『稔』
やうやくに稔れる豆を煮て食す終末思想と遙かに遠く
『麦』
雪の来る前の凍土に秋の麦芽生えて冬へ真向ふグリーン
『薯』
掘り零せし薯は手間賃なきゆゑに拾わぬといふ子に随ひぬ
『鋤』
辛苦せし四十町歩を子の名にと使ひ古しの実印を捺す
『播』
播かざりし一粒の種子萌えむとす病みて一年抱くその実は
最後のこの歌の「一粒の種子」は癌であって、不意にこの農民歌人の命を奪ってしまったのである。病に倒れやがて逝去された母の歌にさえ、厳しい朔北の農の実態が如実に読める。「はよ帰り畑へ出よと病室に母は言いにき余命いくばく」「早よ帰り畑へ出よと死の前に母は云ひたり迎え火を焚く」書くことは尽きないのですが、安らかに眠られることを祈り合掌。
高 階 時 子
本田重一歌集『耕凍』
厳寒の北海道網走の地で土を耕し農に生きた本田氏の
歌群の重さに圧倒される思いで読み終えた。
心に響く歌が多くあった。
○三十度の直射に堪えし麦藁帽を玄関にかけて共に冬を越す
厳寒の地も夏は三十度を越える暑さとなる。夏の間、野良で毎日被っていた麦藁帽は色も褪せくたびれてしまったが、冬も玄関にかけておく。出入りするたびにその麦藁帽と顔を合わせる。戦友のように。
○斃れたる耕馬あまたを埋めし野にアクセル踏めば蹄の音せり
共に耕し働き続けて、疲弊して死んでいった馬たち、よく働いてくれたその馬たちはこの野に眠っている。私はずっと今もその野を耕し続けているよ。共に働いてくれた馬のことは決して忘れない。アクセルを踏んで働いていると、馬たちの蹄が聞こえてくるようだ。上句「斃れたる耕馬あまたを埋めし野に」からは馬を家族の一員のようにして共に働き暮らした哀切な思いがひしと伝わってくる。ことに「斃れたる」という漢字の重さが強く残る。
○妻と母諍へば妻の肩持ち時経て母に茶菓を買ひ来ぬ
妻と母親との間に立って神経を使っている男性の姿をユーモラスに詠んでいる。とりあえずは、生涯を共にする妻の肩を持たなくてはならない。そしてあとでこっそりと母親のご機嫌も伺っておく。同居をすれば、男性は否応もなく、二人の女性の間で右往左往せざるを得ないだろう。男性は母親のそばにいるかぎり、いつまでも子供の役割を演じ続けなくてはならない。これはこれで辛いことである。
加えて、特に印象に残った歌です。
○はよ帰り畑へ出でよと病室に母は言ひにき余命いくばく
○格納庫に冬を眠れるトラクター待機の姿勢に前方を向く
○人の一生長すぎないか土に播く種子は稔りてたちまち枯れる
○育つ苗枯れゆく苗を選り分けて一方を植ゑいつぱうを捨つ
○あかときに時計の音を囀りと聞きて眠りぬ木の芽立つ頃
○買ひ取りの価格は遠くで決められた薯のひとつを手に遊ばせる
林 一 英
いくつかの学校で教師を勤め、現在は無職。八十一歳。
1耕して翔ぶを知らざるひと生なり北へと帰る白鳥仰ぐ
12農として生きるほかなき家系かと帳簿つけつつ子が呟けり
23墾きたる祖霊は未ださすらふか夜更けて吹雪く風の哭くこゑ
24生まれたる処がすなはち死場所にて冬は雪降り流氷が来る
39野にありて働くのみに老い初むる妻の背の燃ゆる紅葉
好きな一首を探すのに苦労する歌集もある中で、『耕凍』は心打たれる歌が余りにも多くて、右の五首を取り出すことも私には容易ではなかった。一首目の「翔ぶを知らざるひと世なり」の直截な断言に私はまず打たれた。翔ぶは白鳥との縁で撰ばれたのでろうが、父祖が開拓し墾いた、祖霊のまださすらふ北辺の大地に三世代目の農民として生きる本田さんの一生は、翔ぶこととは宿命的に無縁の、恐らく翔ぶことを束の間も願ったりはしなかったであろう人生であり、この表現には、本田さんの、ひいては御家族の、そうした定住者としての生きる姿勢がゆるぎなく表現されていて忘れがたい。白鳥を仰ぐ目にも、自由な飛翔へのひそかな願望が宿っているのではない。白鳥もまた生きるためには翔ぷことしか知らない宿命に耐えているのである。
山 川 順 子
流氷が縁でお仲間に入れた幸せ者です。
16殺すのも枯らすも同じ荒草に火よりも熱く除草剤撒く
21いのちより大切なものあるなしを問はれて示す雪の結晶
65体内へメスを入れずに一生を終へる希みを遂に断たれて
66一年を無事に生きたらまた一年生きて見たいと妻だけにいふ
77悲しみに堪へぬきましたある朝黒い鴉に生まれ変って
人はドラマのようにカッコ良くは死ねない。六十歳前の叔母は女の大事な部分を全摘され抗癌剤のつらさに堪えたのに、一年で尽きた。八十歳前の父は二度の手術の末救命されたが、体が不自由になった。人には定命があると、人は生かされていると、骨と皮のみになった父の姿を見て思う。病人の側にいるせいか、撰んだ唄が、病に関するので、少し悲しい。本田重一様は、厳しい自然と大地と正面から向き合い、さらに歌を詠み、と一生を自然に任せて土に帰りたかったろうに、最後は現代病に倒れ、この一点のみが、無念だったろうと思う。ありのままを素直に表現された本田様。そちらから命を粗末にするこの世をどう詠みますか?
山 本 勉
北摂短歌会及び「あめつち」同人
38餌を与へ慈しみつつ屠場へとつぎつぎ送る生業として
39野にありて働くのみに老い初むる妻の背の燃ゆる紅葉
54土を掘る刃先が火花を放ちゐむ耕して至る栄華なぞなく
59母さんは薯掘り孫は入り口をいくたび見たか 授業参観
67眼つぶれば舞ひ降りて来る雪の精新たな切符の欲しい日がある
本田重一という歌人のことは、何も知らなかった。川添さんが流氷記や「塔」の中に、姦しい位に歌われていたので、その名を知った次第である。『大丈夫が心定めし北の海風吹かば吹け波立たば立て』。「耕凍」を読みゆくに従って、若い頃読んだ依田勉三の生涯と重なってしまった。北海道の厳しい冬。ナチがモスクワを攻めた時のあの凍土。タイヤやキャタピラーを咬んだ泥土は、鶴嘴を打ち込んでも火花を散らして跳ね返す。零下の凍土で、父祖から受け継いだ土地を守り続けた本田重一。零下の地獄に負けなかった氏も、癌には勝てなかった。長寿社会の今、七十二歳で逝ったなんて、惜しまれてならない。一度でもお会いしたかった人の一人である。(合掌)
福 井 ま ゆ み
道東に生れ出でし、大らかで切ない歌群
19斃れたる耕馬あまたを埋めし野にアクセルを踏めば蹄の音せり
32渡り鳥いのちを賭けて渡らねばならぬルートを子は来て帰る
33しれとこの雪の連山とほく見て尾白鷲舞ふ流氷曠野
49雪と氷にたうとう負けたと云ひ残し首都圏へ去る老獣医師は
50最悪の場合も書かれてサインする製薬会社の名入りボールペン
19明治以来の開拓の厳しさを詠っており、家族の一員である馬への思いにあふれている。
32国内留学・Uターン組の私は、身につまされる。地方都市はジェット機が生命線なのである。
33本田氏の代表歌。詠いぶりが大きく、ゆったりしていて、内にエネルギーを秘める。
49ペットの獣医ではなく、牛馬の獣医。激務の末、関東に帰る人も、見送る人も切ない。
66わが家には、どの引き出しにもある薬品名入りボールペン。これで手術同意書にサインするとは‥‥。塔誌上で拝見して、ぎょっとした歌である。
池 田 裕 子
北摂短歌会入会四年目
5より深く音の泉を汲むといふ母の補聴器に電池を入れる
23墾きたる祖霊は未ださすらふか夜更けて吹雪く風の哭くこゑ
41ただひとり吾はこの世にあると思ふ雪原のはてへ沈む日輪
50何事が起れど裏切る筈はなくお前が好きだ 土のかたまり
77身に深く排除叶はぬ癌あれば優しくなれる日怒り募る日
初めて本田さんの歌に接し、すでに亡き方とは思へぬ親近感をまず第一に感じました。そして農業の厳しき北国の季節の替わる美しさ、ご自分を貫く純粋さと清々しく又家族への思いやり、土地への愛しみ全てが詩人だと思いました。北摂短歌会の一員としての幸であり、読ませていただき感謝申し上げます。歌の評など出来る筈のない私ですが、心に残る歌が多くありすぎました。「バイパスの予定地の杭打たれをり早苗のそよぐ他の真中に」「いちまいの縫はるる前の薄絹のくれなゐ淡し春の夕ぐれ」「鍬をもて拓きし過去が徒労とは価値観移ろふはての雪原」「農として生きるほかなき家系かと帳簿つけつつ子が呟けり」など限りなくあります。この一冊も宝石のように大切に致します。御冥福お祈り申し上げます。
藪 下 富 美 子
北摂短歌会同人
9日を追って立居難儀の老い母を卓に誘ひ食を共にす
14庭に咲く主のをらぬをだまきを剪りて届ける母の病室
18一握の土に思へり無から有を生ずる極みに農はかがやく
25採算が合はねど麦作捨てられぬ子に慰めを軽くは言えず
25土いじり一度は趣味としてみたい夜を日に継ぎて種播く春を
本田重一様の遺歌集を初めて読ませていただき感激いたしました。網走中学入学後残念なことに病気のため中退され、後にお父上の農業に従事されたのですね。北海道の自然の懐に抱かれ、地を耕しながら、農業の厳しさの中での歌が多く詠まれていたように思われます。でも母上のことを詠まれた歌にはほのぼのとした優しさが感じられ、ほっとしました。農業での物作り(育てる優しさ)、母上に対しての優しさは本田様の心の中で一致しているのではないでしょうか。
国 田 恵 美 子
北摂短歌会で勉強中の未熟者です。
37これ以上望まぬことを充ち足るというであろうか草食む牛よ
40親への思ひ子どもへの愛それぞれの違ふ深さに落葉降り積む
20妻と母諍へば妻の肩を持ち時経て母に茶菓を買い来ぬ
51流氷は鳴るのか泣くかこの世にはあらざる声ぞ網走の浜
77身に深く排除叶はぬ癌あれば優しくなれる日怒り募る日
機械耕の歌がたくさんありましたが、私の子供の頃は、人と農機具と牛の力を借りての農作業でしたので、牛の役割は重要でした。私は、小学五六年の頃、牛の餌やりをしていました。毎日草刈りに行き、藁を小さく切って草を混ぜ合わせた餌を桶に入れてやると、牛はよだれを引いて、顔を斜に少し上を向いて、「モオァー」と甘え、声を出すその仕草が好きだったことを思い出します。草刈りの時に左手の小指を切り、その時の傷跡がいまだに残っている。三七頁の歌を読んで昔のことを思い起こしたが、牛は田植えの時の碁盤目の線引きや、稲刈り後の土起こしや、荷車を牽いたり、黙々と働いて役割を果たしてきました。この牛の心はうまく読めないけれど、結句の「草喰む牛よ」が、本田重一様の優しい目で牛を見詰められたお歌かなと思いました。
小 原 千 賀 子
主婦
選んだ歌
40親への思ひ子どもへの愛それぞれの違ふ深さに落ち葉降り積む
50何事が起これど裏切る筈はなくお前が好きだ 土のかたまり
70火となりて燃え始めたり今朝食べた塩茹で薯が五体を動かす
75雪兎雪より白く冬を終へ翼の欲しい春の風吹く
77悲しみに堪へぬきましたある朝黒い鴉に生まれ変わって
感想
本田さんの作品は『塔』誌上で読んだことがあり、骨太でとても力強く、心情がよく表されているなあと思っていました。今回『耕凍』としてまとめられたものを読ませていただき、歌の力に圧倒されています。北海道についてはほとんど知らない私ですが、作品を呼んでいると、麦、ビート、馬鈴薯、樹氷、雪原、また春の桜、グリーンアスパラなど、さまざまな作物や自然が、近いものに感じられます。特に土に対する作者の愛着が、よく伝わってきて、こんな歌を詠めるのは本田さん以外にはいないのではないかと思います。また、雪兎の歌と、鴉の歌は、特に印象的で、作者の心が見事に31文字に表されていて、すばらしいと思いました。
高 田 禎 三
退職後歌を始めました。
2見通しのない農なれど苦しさは言はぬ息子と麦の種子播く
5跡継ぎは一人にて足る都会より次男は今年の作柄を問う
6雑草にも稔りの秋は訪れて抜けば次代を託す実の散る
12またしても離農者送りて飲むビール雪に差し込み芯まで冷やす
50何事が起れど裏切る筈はなくお前が好きだ 土のかたまり
私も田舎に生まれ育ち、退職後は小さいながらも水田を耕す専業農民(?)の生活を送っていますので、農業に関する多くの歌に実感し、共感を覚えました。農業が産業として難い現実は多くあります。本田氏の歌の中から拾い上げても「後継者不足」「機械化・資本投入・借金返済」「豊作で価格暴落・豊作貧乏・不作で減収」「遺伝子組み換え・食の安全問題」等等‥‥これらのどれ一つ取ってみても悩ましい問題ばかりで作者は、「見通しなき農業なれど」と言いつつも、息子〈後継者〉と麦の種を播き、厳しい北海道の地で農業と立ち向かわれていた姿に勇気をもらいました。
美 野 冬 吉
塔に所属させて頂いております。まだ駆け出しですが、一応歌人と言うことになりましょうか。
3粗大ごみに明日は出さるる冷蔵庫かすかに唸りて余力を示す
4 十トンの小麦を積みてハンドルを切ればじわりと重心移る
11 その場所を唯一として立つ木々の梢するどく凍天を指す
24 生まれたる処がすなはち死場所にて冬は雪降り流氷が来る
26 耕して終る一生どうしても砕けぬ土の塊がある
私は本田さんの事をこの歌集の上でしか知らないのだが、本田さんという歌人について、大半のことを知っているようにも思う。それは故人の歌が、生きるということに切実に繋がっているせいではなかろうか。この歌集には生きることに対する直向きさに裏付けられた力ある歌がぎっしりと詰まっている。その一つ一つの歌からは、故人が向き合った現実が、確かなリアリティを伴ってひしひしと伝わってくるのである。 人生は幸福であるに若くはないが、安易にもたらされた幸福の中で、人は人生の意味を失うこととなる。本田さんは厳しい自然や生活環境と対峙しつつ、見事に現実を生き切り、その足跡としてのこの 「耕凍」という確かな永遠に通ずる実りをこの世に残したのである。
川 添 英 一
北の大地に根ざした純な魂の歌
10雪原につづく氷海境めがあらず海鳥ひくくさまよふ
24生まれたる処がすなはち死場所にて冬は雪降り流氷が来る
34融雪剤くろぐろと撒く雪原に陽の照れば水の呼びかはすこゑ
51鶴嘴を打てば手酷くはねかへす雪下の凍土怒れるごとく
71癌の部位切除終へたるその日より臨界の紅葉燃え始めたり
弟さんの本田春一氏から歌を送っていただき、本田さんの歌を読み、歌集に編んでいった過程で、改めて本田さんの歌の素晴らしさとその純粋さに心打たれた。「私は歌壇で出世する気もありませんし、土を耕しながら歌を作っていくしかありません。」ということを常々言われていたが、あの女満別の美しい景色と過酷な自然の中で確実に自分とその足跡を歌に刻んでいたのだ。夏の夜九時頃に電話したとき、今仕事が終わったところだと、汗と土の匂いを運んでくれたような気がしたことがある。自分の死に対しても諦念とその落ち着きは、自分が継ぎご子息が継ぎして大地を耕すという大きな流れを掴んでいるからなのだろう。彼にとっては土も水も雪も流氷さえも、彼自身を含む自然の営みであり、全てを自然に詠われたに過ぎないものなのだから。
黒 田 英 雄
「塔」八月号裏表紙の広告に、「耕凍」本田重一著、の広告が載っている。これは、川添英一氏の編纂になる歌集である。送ってもらった僕は非常に感動した。諸君驚くなかれ。その歌集のサイズはいわゆるA6判より小さい。僕が吸っているマイルドセブンスーパーライトにおさまってしまいそうな小ささである。その凝縮された歌集に、川添氏の、本田短歌への思いがこめられているように思えて胸が熱くなる。
故・田中榮、同じく故・本田重一、正直言って「塔」誌を読み始めたころは、あまり気にしていなかった歌人だった。地味なタイプだからだろう。しかし、年月がたてばたつほど、このふたりの歌人の歌がボディブロウのように効いてきた。本田短歌は、網走での厳しい農作業の日々を、なんの飾り気もない言葉で表現し、まさに凍りつくような生活詠として読むものの胸をえぐる。毎号、本田氏の歌をある緊張感を以って読んでいた。田中氏の歌もそうである。マグマにも似た核がこの二歌人にはある。地味だが、存在感があり、歌とはそもそもこういうものだったのではないかと、僕は思うのだ。また、お二人とも、まさに黙々と歌をつくるタイプだ。私みたいにぎゃあぎゃあわめき人の悪口を並べながら歌を作っているものにとって、まさに畏敬すべき存在である。川添氏はえらい。好きな歌人の歌を編集するというのは偉大な業績であり、また、本田氏はそれに値する歌人だと思う。田中、本田両氏とも、歌人冥利に尽きるのではないか。亡くなったあとでも、ちゃんと歌を編纂してくれる人がいるのだ。人徳というものだろう。私がくたばったら、皆さん大喜びするだけであって、誰も歌集など出してくれないことはわかりきっている。その点このふたりは偉大な歌人だと僕は思う。おふたりとも、人の悪口を言わない温厚篤実な人格であられたそうだが、その内部のどろどろした葛藤、人間への透徹したまなざしを想像するに、慄然とするものがある。それが両氏の歌ににじみ出ている。決して温厚な好々爺の歌ではない。その点、見逃してはいけない。
本田重一歌集「耕凍」 黒田選二十二首(絞りに絞った二十二首である)
凶作と決まりてもなほ来年の為に引き抜く稗(ひえ)の根重く
労賃の値上げを遠慮がちにいふ農婦の白髪に夕光宿る
獣より疾く車に走りつつ冬眠したいと思ふ日がある
農として生きるほかなき家系かと帳簿をつけつつ子が呟けり
採算が合はねば麦作を見切るといふこの帳簿見る雪の夜更けて
トラクターの徹夜の作業を終へて来し子の若白髪灯下に目立つ
死後もなほ伸びる白髪を刈りに来る髪切り虫飛ぶ母の一周忌
農作業に明け暮れ夢の褪せ来しか寡黙の日あり若き嫁には
地を深く穿ち湧かしむ露天湯へ氷を解かすやうに入りぬ
くり返しお前は農家の跡取りぞ言ひし叔父逝く農捨てし叔父
ジャンパーの他は似合はずバーゲンに妻とつれ立つ建国記念
耕して収入を得る苦しさを知らず農こそ理想と言へり
生きて死ぬ他には何があるだらう去年より淋しく蟋蟀が鳴く
狂牛病(BSE)出た網走の牛飼ひはまもなく街で日雇となる
狂牛病(BSE)出て牛飼ひが日雇となるところまでニュースは追はず
補償金を手にするために百年の銀杏あへなく伐ると決めたり
体内へメスを入れずに一生を終へる希みを遂に断たれて
一年を無事に生きたらまた一年生きて見たいと妻だけにいふ
滅ぶもの美しからずと思ふ日よ零下二十度に貌を晒しぬ
雪兎雪より白く冬を終へ翼の欲しい春の風吹く
十年前の写真を遺影に択び置き入院の朝送られてゆく
直角と云へど鋭し壁の角夜毎の北風来て哭くところ
耕して翔ぶを知らず 林 一英
「耕凍」は横六センチ縦一〇センチの、掌中にすっぽり収まる小歌集である。本田さんが「塔」に入会した平成十年から十七年八月に七十二歳で病没するまでの八年間に誌上に掲載された作品の中から、親交のあった川添英一さんに依って選ばれた五三三首が収められている。
本田さんの作品に私が初めて接したのは、「塔」の十年七月号の四首で、この歌集にも採られている次の歌にひかれた。
耕して翔ぶを知らざるひと生なり北へと帰る白鳥仰ぐ
己の人生をかくもきっぱりと断定する二句三句の直截な表現と歌全体に揺曳する悲劇的な調子が印象的だった。
生まれたる処がすなはち死場所にて冬は雪降り流氷が来る
生きて死ぬ他には何があるだらう去年より淋しく蟋蟀の啾く
耕して終る一生どうしても砕けぬ土の塊がある
ただひとり吾はこの世にあると思ふ雪原のはてへ沈む日輪
石ころに土の塊木の根っこ好きなものをばふいに問はれて
父祖が開拓し墾いた「祖霊のまださまよふ」北辺の大地に三代目の農民として生きた本田さんの一生は、孤独で、宿命的に「翔ぶ」とは無縁の、翔ぶことなど一度たりとも願ったりはしなかった一生だったのだろう。
お会いする機会は終になかったが、風貌が目に見え、肉声が聞こえてくる歌群である。かくも一すじに、躊躇なく、凛乎たる調子で自己の全存在を表現した歌集を私はあまり知らない。真実性にもとづく虚飾なき表現に深い感動を覚える。
都市周辺の不耕作地主の末孫で耕作経験が皆無の私には、北の過酷な自然条件の下で体を労して日夜一途に農業に身を挺した人の魂の呻きとも叫びとも言うべき歌の力は圧倒的で、ただもう静かに読みひたるしかない。
「耕凍」には、運命共同体の一員として家業に従事する家族の姿を詠んだ歌もまた多い。妻、長子、その嫁、跡継ぎの孫、父と母が様々の姿で歌われていて感慨深い。
父が植ゑ子のわれが伐るからまつの吾が植ゑたるは子に託すのみ
開拓地へ嫁ぎて十九に吾を生む幸せだつたと母から聞かず
農作業に明け暮れ夢の褪せ来しか寡黙の日あり若き嫁には
唐突にオラも農家になるといふしかと受け止む六歳のこゑを
野にありて働くのみに老い初むる妻の背の燃ゆる紅葉
他から嫁いで来てわれと運命を共にする妻に対する感謝と深いいとおしみの気持がにじんだ歌で、燃ゆる紅葉は野に佇つ妻を荘厳して美しい。美しいといえば繊細なこんな歌も。
いちまいの縫はるる前の薄絹のくれなゐ淡し春の夕ぐれ
「耕凍」には、戦後無惨に解体してしまった日本の「家」の強い縦の絆が懐しく生きていて、家長たる吾のまわりにみんなが肩を寄せ合って生きる姿が歌われている。一家を統べつつ、家を離れた弟妹子息たちの気持までもそれぞれに汲みあげて本田さんは歌った。北辺の大地に立つ樹木のように、翔ぶを知らざる生涯を力一杯生きて、たおれた本田さんの、歌わずにはおれなかった様々の思いが結晶してこの美しい鎮魂の歌集は成った。(『塔』10月号掲載文)
最後の旅で 川添 英一
本田さんが亡くなってもう一年が過ぎてしまいました。その春に亡くなった田中栄さんと今は仲良く話でもしているんでしょうね。僕にとって二人は大きな心の支えでしたので、その喪失感は大変なものでした。その前の年に亡くなった母親のこともあって、まだこの状態はしばらく続きそうです。
塔の編集部から追悼文をということですが、三月号の「私の偏愛する塔の作家」にほぼ追悼文に該当する文章を書いています。その後に弟さんの春一さんのご協力により僕の個人誌『流氷記』の形式で歌集『耕凍』を出し、流氷記のホームページにもそのまま載せていますので、本田さんの歌がいろんな人の目に触れることが出来たのが幸いでした。
本田さんは生前から、ご自分では歌集を出す気はなく、その費用の負担など自分のために使えないという気持ちがあったようです。僕に対しても、この流氷の季節には案内できるけれども、夏の季節などは早朝から夜遅くまで働き詰めなのでお世話できません。申し訳ないけれども、と釘を刺されていたくらいでした。そういう話の流れの中で、本田さんの歌集を僕が流氷記のようにまとめて出しましょうかという話を知布泊の喫茶店でしたことが、妙に心に引っかかっていました。私なんかの歌をと言いながら、そんなこともお願いするかもしれません、と言われたのですが、それが実際になってしまいました。手間だけを掛けてお金をかけない僕のやり方が気に入ってくれていたようです。初めに会った時から、旧知の仲のように、話が合い、心が通じ合っていましたね。僕にとっては女満別の景色は本田さんそのもので「開拓の大地守りて清々し本田重一住む女満別」でしたし、「斜里岳の雪の形をみて決める種播き時あり土ほぐれゆく」の歌も、本田さんの肉声から生まれたものでした。今回、歌の編集をしながらも、本田さんの歌なのか自分の歌なのかわからぬほど、感性や見方の同じものを発見したりする驚きや喜びがありました。
北海道の自然の真っ只中にあって、本田さんほど純粋に自然も自分も耕し続けた歌人はいないと思っています。厳しい自然の中で女満別の地を耕し闘いながら何とその土を愛し続けたことか。その歌集の表紙ともなった白樺の林の風景は、彼に乗せていただいた車の中で「凄い!本田さん、止めてくれませんか。」と無理にお願いしてしばし車を止めて撮影したものです。奇しくも彼自身の畠のすぐ近くの風景でした。思えばこの写真も、流氷記の表紙になる知床の夕日の写真も、彼との最後の旅での風景でした。斜里から宇登呂に向かう途中、知布泊での夕日も喫茶店主が、何年かに一度あるかないかの夕日だと言っていましたし、夢のような美しい風景に囲まれた最後の数日でしたね。そんな夢のような風景の中で、本田さんの培っていたものを今、僕は味わっているばかりです。そんな本田重一歌集『耕凍』にたくさんの人が言葉を寄せています。『本田重一の歌』を、この秋には刊行する予定です。ぼくは本田さんを忘れません。これからも共に生きていくつもりです。(『塔』10月号掲載文)