拓本発見  遊行寺『芭蕉翁墓』染筆者の謎に迫る  付・「ぼろ塚」考

一、拓本発見から
 大阪春秋一四二号で遊行寺の芭蕉墓を採り上げたが、関西大学博物館で二月十六日にその拓本を閲覧してから短期間での原稿執筆での掲載であった。閲覧の結果、それまでの撰文とされた摂津名所図絵、摂津名所図絵大成に書かれていたものとはあまりに違っていて、結果的に十二文字もの誤字と脱字があった。また、昭和四十七年刊『蕉門俳人書簡集』の四四四頁には『浪華石碑六行会』を見て訂正したという訓読文が載せられているが、これも摂津名所図絵とは大差なく、誤字や異字が多い。摂津名所図絵と照合してみると、
(A〜Sは行、Aが一行目、Bが二行目を表す。01〜33は上から何字目かを表す)
  A18「官→ 宦」(摂津名所図絵では「官」→拓本では「宦」)。
C22「待→侍」
D12「辮→弁」
E30「 →干」(摂津名所図絵では「干」の文字が抜けている)
  F04「 →到」
H14P09「已→己」(摂津名所図絵では已然形の「已」になっている。自己の「己」)
J14「 →之」
L16Q01「囘→回」
P29「建→逮」
Q23「 →且」
Q32「巧→功」
R01「勒→勤」
であった。この拓本は原本とも云えるものであり、ここまで違っていたのは驚きであった。字体が違うくらいは許されても「建→逮」「巧→功」「勒→勤」の違いはどうしようもない。「官→ 宦」については、原拓ではどう見ても「臣」で、芭蕉について書かれているものを捜しているうち、偶然に蕪村の画を入手することになった。この蕪村の画賛には「芭蕉翁は藤堂家の臣也‥」とある。
 幸い漢詩人の松村龍古氏の助けを借りて何とか書き下し文を作成することが出来たが、その時が時間的にも限界であった。一〇五頁に「関西大学博物館蔵」と銘した原拓とその文字、そして書き下し文。その後に題字の黄檗佚山のことや、撰文を染筆したとされる真竹子こと滋野井公澄のことなど改めて調べればよいということでの一応の終結だった。
二、『芭蕉翁墓』染筆者について
 大阪春秋に原稿を送り、間もなくゲラ刷りなど送られてきた頃、まず佚山について調べてみた。
  佚山黙隠 いつざん-もくいん 〔コトバンクより〕一七〇二〜一七七八江戸時代中期  の僧、書家。元禄一五年生まれ。曹洞宗。書を新興蒙所(にいおき-もうしょ)にまな  び篆書にすぐれた。長崎で沈南蘋(しん-なんぴん)派の画法を習得し花鳥画もよくし  た。安永七年二月二四日死去。七七歳。大坂出身。俗名は森本三之助、のち森脩来。  号は常足道人。作品に「小篆千字文」など。
佚山は書家であり篆書が得意であったこと。当寺かなり著名な人でもあったということくらいしか分からない。もう少し佚山について詳しく書かれているものはないかと探してみると、中野三敏著『近世新畸人伝』(現代岩波文庫二〇〇四年刊)に『佚山道人默隠』の項目があると分かった。伴蒿蹊の『近世畸人伝』があるが、「宝暦前後の江戸の学芸界においていくぶんかでもそれに近い人々を拾い集めて『近世畸人伝』の拾遺を編むことを図ってのものである」とのこと。その『佚山道人默隠』の「宝暦十年まで」のところに、この「芭蕉翁墓」について書いているところがあった。比較的短いのでその部分を全文抽出する。(九九頁九行〜百頁六行)
 同年(享保十九年)秋、蕉門俳人の野坡が、芭蕉の歿地である大阪にその墓のない  ことを悼み、下寺町遊行寺内に墓碑を建立した。『諸国翁墳記』にも記す「屋土里塚」  がこれであろうか。小倉藩医香月牛山の撰文がこの年晩秋とあるゆえ、建碑もこの年  であったろう。現存する碑は戦災で表面のほとんどが剥落するが、碑に関しては『摂  津名所図絵大成』巻四や『摂陽奇観』に詳記されるところによれば、表面に「芭蕉翁  墓」と大書され「黄檗佚山筆」とあったという。現在の碑面では確かめられない。
大内初夫氏より、この建碑の由来を述べた刊本『六行会集』(元文三年〔一七三八〕  刊)の御指教に与ったが、同書の野坡序によれば、正面の今は剥落している十六字の  銘文は「中納言何がしの君」の染筆とあって、佚山云々はまったく見られない。同書  に掲げられた碑面の図にも同様である。佚山側の資料から言えば、第一に佚山が黄檗  禅に帰依した痕跡が認められないこと。第二に佚山号は後年の出家によるもので、当  時はいまだ俗人森本正蔵であることなどあって、佚山による篆額の揮毫云々はむしろ  否定されるべきである。わずかに現存する正面の「芭蕉翁墓」の四字も、やや丸味を  帯びた行書体で、佚山の書風とは思えない。やはり『摂陽奇観』などの誤記といわざ  るを得ないようである。
頭をガーンと叩かれたような衝撃が走った。墓碑が建立されたのは翌年の享保二十年のことであることの記述の間違いはあるが、「芭蕉翁墓」の文字は佚山の筆によるものではないという。ここに書かれているように『摂陽奇観』などに書かれているのが最初のことで、明確な誤記であるという。摂陽奇観巻之二十五ノ下の享保十九年の四行目から
一 下寺町遊行寺に芭蕉翁碑立
表題 芭蕉翁墓 黄檗佚山筆
背文 曼倩詼語
       相如俳文 滋野井中納言公澄卿の墨跡
       妙辞奇句 銘は豊前小倉藩醫師香月牛山撰ス
       思入風雪
とある。また、『摂津名所図絵』の東生郡遊行寺薬師堂の項の中に
芭蕉翁碑(はせををうのいしぶみ) 高九尺。初めは當寺厨の傍にあり、近年堂前  に移す。表題、黄檗佚山の筆。背文は滋野井中納言公澄卿の墨跡。銘は豊前の醫師香  月牛山撰す。
とあり、背文と表題も『摂陽奇観』と同じ。その後に
  碑銘曰  享保十九甲寅晩秋日。前豊倉藩醫官。八十翁牛山香月啓益誌
と、銘文の最後の行が先に書かれて、背文の訓読文が綴られている。『摂津名所図絵大成』
では、「遊行寺薬師堂」に
堂寺境にあり高凡九尺銘ハ豊前國醫師香月牛山撰
の説明の後、石面に云(表題)背ニ云(背文)とやや言葉を違えて後に銘文最後の行が最初に書かれて、摂津名所図絵と同じである。三善貞司著『大阪の芭蕉俳蹟』一二九頁に『芭蕉翁墓』の後に「真竹子書」とあるが、真竹子書とは、この三書にはどこにもなかった。「表題 芭蕉翁墓 黄檗佚山筆」と書かれているのはこの三書からであることが分かり、この石碑の経緯の書かれた『六行会集』には表題の「芭蕉翁墓」は誰が書いたとは書いていないとのことである。残念なことに私はこの『六行会集』を見ることが出来ない。どこに存在し、どうしたら見ることが出来るのか、未だその手だてを見いだせていない。
 となると、「芭蕉翁墓」の文字を書いたのは、野坡自身ではないのか、という思いが頭を掠めて次第に確かなものになってきた。というのは野坡の自筆による芭蕉翁之墓が元禄年間に福岡市東区馬出町に建てられていて、その墓の野坡の文字が頭に浮かんで重なってきたからである。『九州の芭蕉塚』(川上茂治著昭和四九年刊)によると『枯野塚』と呼ばれるその碑は野坡三十九歳の元禄十三年に建立されており、「芭蕉翁之墓」の野坡の文字が刻まれている。『石に刻まれた芭蕉』(弘中孝著 智書房二〇〇四年刊)の写真による野坡の文字の実直そうなやや行書めいた文字に似ている。この四月二十九日に、新幹線で博多まで行って、実際にこの石碑を間近に見てきた。この『枯野塚』は遊行寺の芭蕉墓と同じく、傍らに『旅に病で〜』の芭蕉絶筆の句があるのも酷似している。
上の写真は、右が『枯野塚』での野坡の自筆の文字。実際は『芭蕉翁之墓』とあるが、一字ずつ撮影して『之』は省略した。左が遊行寺の『芭蕉翁墓』の拓本(関西大学博物館蔵のものの一部合成)である。この二つの石碑の文字を見る限り、それほど特徴のある文字とも言えないし、右が野坡三十九歳、左が野坡七十四歳という年齢を考えれば、右の字は筆致が若々しいし、左は堂々として枯れた感じもあり、同一人と見て良いのではないかと思う。この文字が佚山のものでは無いとすれば、野坡以外には考えられないことだからである。
実はもう一つ、『近世新畸人伝』から衝撃を受けたことがある。野坡の手がけた『六行会集』「同書の野坡序によれば、正面の今は剥落している十六字の銘文は「中納言何がしの君」の染筆とあって」と書かれてあったことである。私はこの大阪春秋の前号に、撰文の染筆者について、野坡門下の宮司である青山文雄の野坡に宛てた消息に「滋野井黄門」とあることから、「この青山文雄の文面にある滋野井黄門という言葉が一人歩きして、従来、滋野井中納言と記されているが、滋野井公澄は享保五年に権大納言になっており、享保九年に正二位に昇進、享保十六年には出家している。黄門という名称はご隠居様といったニュアンスの言葉として使われており、辞書等に、黄門は中納言の異称とあるが、実際はそうばかりではなかったのではないか。」と書いた。『六行会集』にはっきりと「中納言」と書かれているのなら、滋野井中納言は公澄ではなく、その息子の滋野井実全であるということになる。香月牛山は「元禄十二年(一六九九)四十四歳の時、中津侯を辞して京都に赴き二条に医業を開いた。享保元年(一七一六)六十一歳の時、度重なる小倉侯小笠原氏の招聘により、小倉に住した。」とあり、京都での開業時には主に公家との交流を持っていたことから公澄とは昵懇の間柄でもあり、公澄に染筆を依頼したというのが道筋を立てやすかったのだが、当時既に隠居していた公澄は息子の中納言実全にその活躍の場を与えたというのが真相なのではなかろうか。ウィキペディアによると
  滋野井 実全(しげのい さねまさ、元禄十三年四月五日(一七〇〇年五月二三日)−  享保二十年十月二十日(一七三五年十二月四日))は、江戸時代中期の公卿。父は滋  野井公澄。子に滋野井公麗がいる。三歳で叙爵を受け、宝永四年(一七〇七7年)に  元服して従五位上侍従に任じられる。その後、昭仁親王の立太子とともに春宮亮に任  じられ、享保一八年(一七三三年)には参議に任じられ、翌年には従三位に叙せられ  る。享保二十年(一七三五年)、皇太子昭仁親王が即位して桜町天皇となると、実全  も権中納言に任命された。だが、間もなく病に倒れて三五歳で死去。父と同様に有職  故実に詳しく、皇太子に近侍していたために、立太子や皇太子元服に関する記録を多  く残している。
とあり、享保二十年当時中納言であり、この年の十二月に急逝している。こういうのも何かの縁というのだろう。生涯の最後の年に芭蕉翁墓の文字を書くことになろうとは。
 『芭蕉翁墓』は、松尾芭蕉の高弟野坡が七十過ぎの高齢になり、最後の仕事として挑んだものであり、その撰文は前の豊前小倉藩医香月牛山が野坡の依頼により作成したもの。撰文の書も牛山自身のものではないか。最近香月牛山の末裔に当たる香月則光氏とお話する機会があったが、牛山は能筆家でもあり、則光氏も彼の書を幾つか所持しているということであった。そんな牛山が自ら作った撰文の染筆を人に頼む道理がない。裏の撰文は香月牛山自身の染筆によるものであろう。題字背文の「曼倩詼語 相如俳文 妙辞奇句 思入風雪」の十六文字は牛山の友人滋野井公澄の子息で当時中納言になったばかりの滋野井実全のものであり、『芭蕉翁墓』の題字は野坡自らの書によるものである、という結論を得た。前号に筆者が書いたことの訂正もあるのでお詫び申し上げる。

三、ぼろ塚考
この 遊行寺『芭蕉翁墓』は『摂津名所図絵』等の記述の誤字脱字が、この瞬間までいろいろな問題をもたらしたものであったが、『摂津名所図絵』にきちんと採り上げられていたことで、その後に一人の学者が異説を提示したことにより、歴史から消えかかっている『ぼろ塚』について紹介したい。『摂津名所図絵』巻之五島下郡(しまのしもごほり)
に 宿河原 宿久荘にあり。〔延喜式〕〔和名類聚〕等に出づ。元亀年中羽柴筑前守秀吉公の御陣所なり。宿河原は川邊・武庫・八田郡にもあり。〔つれづれ草〕に云く。と徒然草百十五段の「宿河原といふ所にて、ぼろぼろおほく集りて、九品の念佛を申けるに、外より入くるぼろぼろの、もしこのうちに、いろをし坊と申すぼろやおはしますやと尋ねければ、其中よりいろをしこゝに候。かく宣ふはたぞと答れば、しら梵字と申者なり。をのれが師、なにがしと申人、東國にていろをしと申すぼろに殺されけりと承りしかば、その人にあひ奉りて、恨み申さばやと思ひて尋ね申すなりと言ふ。いろをしゆゝしくも尋ねおはしたり。さる事侍りき。こゝにて對面したてまつらば、道場をけがし侍るべし。前の河原へまゐりあはん。あなかしこ。わきざしたち、いづ方をも見つぎ給ふな。數多のわづらひにならば、佛事の妨に侍るべしと言ひ定めて二人河原に出であひて心ゆくばかりに貫きあひて共に死にけり。ぼろぼろといふもの、昔はなかりけるにや。近き世に、梵論字(ぼろんじ)・梵字・漢字などいひける者、其の始なりけるとかや。世を捨たるに似て我執ふかく佛道を願ふに似て闘諍(とうじゃう)を事とす。放逸無慚の有様なれども、死をかろくして少しもなづまざるかたのいさぎよく覺えて、人の語りしまゝに書きつけ侍るなり。」と全文が紹介されている。江戸時代初期にはこの『徒然草』の諸註書が盛んに刊行されており『つれづれ草寿命院抄』一六〇一年(慶長六)秦宗巴著、『徒然草埜槌』一六二四(寛永一)林羅山著、『徒然草抄』一六二四(寛永一)加藤盤齋著、『なぐさみ草』一六六五(寛文五)松永貞徳跋、『徒然草句解』一六六五(寛文五)高階楊順著、『徒然草文段抄』一六六七(寛文七)北村季吟著、『徒然草参考』一六七八(延宝六)恵空著、『徒然草諸抄大成』一六八八(貞享五)浅香山井著では、いずれも宿河原は摂津国にありと記述されている。また明治に入っても『増註徒然草』一八九二(明治二五)伊澤孝雄編輯、『徒然草講義』一八九四(明治二七)井上頼文著にも宿河原は『摂津の國にあり。』と記されている。 ところが大正三年(一九一四)『徒然草講話』沼波瓊音著により突然変わるのである。すなわち「今の武蔵國橘樹郡稲田村の大字にこの名遺れり、そのあたりなるべし。多摩川べりの川原なり、寿命院抄に摂津國にあり、といへど證も見えず。又この話の様武蔵あたりなるがよくかなへりと聞ゆ。「と云ふ所」と云書き方も京近き摂津あたりにては変なり。」という注釈からである。「證も見えず」とあるが、『太平記』巻第八の「摩耶合戦事」に「赤松は手負生捕の首三百余、宿河原に切懸させて〜」「諸人皆此の義に同じて、其の夜やがて宿河原を立て〜」と『宿河原』の記述もあり、「と云ふ所」という言い方が「変なり」と書かれているが、同じく徒然草第十一段には「神無月の頃、来栖野といふ所を過ぎて〜」とあり、来栖野は京都近郊である。しかし何故かこの沼波瓊音の注釈から、宿河原武蔵國説が大勢を占めるようになる。『徒然草解釈』一九二五(大正一四)塚本哲三著『徒然草』岩波文庫一九二八(昭和三)西尾実・奈良岡康作校注 『徒然草詳解』一九二九(昭和四)飯田豊著 『徒然草講義』一九三二(昭和七)佐野保太郎著 『新註つれづれ草』一九三四(昭和九)橘純一著 『方丈記 徒然草』日本古典文学大系岩波書店一九五七(昭和三二)西尾実 『徒然草全注釈』奈良岡康作一九八七昭和四二 『校註方丈記・徒然草』一九八八(昭和四三)鈴木知太郎著 『徒然草』新潮日本古典集成一九九七(昭和五二)木藤才蔵校注 現代語訳『徒然草』佐藤春夫訳二〇〇四(平成一八)ではいずれも宿河原は武蔵國にあると註され摂津国説と併記さえされていないものがほとんどである。きちんと両説が併記されどちらの説も平等に紹介されているものとして『徒然草新解』一九三五(昭和一〇)武田祐吉著 、『徒然草諸注集成』一九六二(昭和三七)田辺爵著、『徒然草全釈』一九六六(昭和四一)松尾聡著、『徒然草解釈大成』一九六八(昭和四一)三谷栄一・峯村文人共著、『徒然草全訳注』講談社学術文庫一九八二(昭和五七)三木紀人訳注があり、どちらの説も見ることができる。
 この間にあっても、『正註つれづれ草通釈中』瑞穂書院一九四一(昭和一六)で橘純一は、前述のように『新註つれづれ草』一九三四(昭和九)で宿河原武蔵國説を支持していたが、「頭註に、武蔵國の地名だらうと書いたが、これは地名辞典に拠っただけで、他に根拠がないから取消しておく。やはり京都附近の地であらう。しら梵字の詞と、これに對するいろをしの答を味はってみると、前者の師某が東國で殺されたのは、よほど前の事であり、このぼろたちは常に各地を転々とするものと思はれるから、この時の修行地が東国とは思はれない。」とし、『つれづれ草』一九四三(昭和一八)で山田孝雄は「古来摂津國といへり。太平記にその名見ゆ、三島郡宿久郷の地内にあたる、今福井村中河原といふこれなり、近来武蔵國といふ説あれど信じがたし。」とし、『徒然草』一九七一(昭和四六
)川瀬一馬校注では「摂津三島郡。〔現代語訳〕摂津国、宿河原という所で‥」と、摂津国説でのみ書いているものもある。
 そして最近は『『徒然草』の歴史学』五味文彦一九九七(平成九)では「〜しかし東国において、東国で殺されたと語るというのも奇妙なことであろう。東国ではない土地でこそ、東国で殺されたと表現されるものである。「いろをし房」は東国を逃れ、京の近くにやってきていた、と見たほうが理解しやすい。そうであれば、「しら梵字」は東国を回った末に風聞を得て京の近くに探し求めて尋ね当てたという動きが考えられるわけで、そのほうが諸国を漂泊する「ぼろぼろ」に相応しく、また決闘が東国ではなく、京の近くで行われたというのも読者にインパクトがあろう。〜」と、やはり宿河原は摂津国であると主張し、同年刊行の『徒然草全講義』江部鴨村著にも「私は摂津説を取る。と言ふのは、白梵字の言葉のなかに、師匠が東国でいろおしのために殺されたとある。もし宿河原の道場が武蔵の所在であつたとしたら、武蔵も東国の一部なのだから、別に東国とことはる必要はない。東国とことはつてゐることが、すなはち現在の地点の東国以外であることを裏書するものでなければならないのである。そして、それが東国以外の土地であるとすると、いはゆる東国を東国といへるのは、西部地方でなければならないのだから、かたがた今の宿河原は摂津のそれと推定する外はないことになる。」と摂津国説に戻ったような形勢となっている。
 ところが最新の横山高治著『北摂歴史散歩』二〇〇六(平成一八)には、宿河原のことがどこにも書かれていない。以前手に入れていた天坊幸彦(大宅荘一の恩師でもある)の『三島郡の史蹟と名勝』一九六一(昭和三六)にも書かれていない。これは一体どういうことなのか?ちなみに『西国街道』『茨木の史蹟』『わがまち茨木 民話・伝説編』には、江戸時代に建てられたという『ぼろ塚』の石碑とともに徒然草のことが紹介されているのに。横山高治さんに問い合わせてみると、「それは武蔵国ではないのですか?」という御返事だった。これはどういうことなのか、確かめたくなり、徒然草の注釈書を出来るだけ集めてみたのが切っ掛けであった。
茨木市の箕面との境目あたりの一七一号線、南清水町の不二屋の横の川原の細道を入ると小さな『ぼろ塚』の石碑がある。ほとんど文字も読めぬほどの小さな碑である。遊行寺の『芭蕉翁墓』とともに時代の流れの中でやがて消えようとさえしている。このまま放っておくと、ひょっとして誤った考えの許に歴史そのものが変えられてしまうのかもしれないという危惧感を持ってしまう。吉田兼好や松尾芭蕉は日本の精神の要の一つでもあり、それに纏わる史蹟が大阪に存在することを決して忘れてはならないことだと私は思う。