◇芭蕉高弟・志太野坡について

 私とこの芭蕉翁墓銘との出会いのきっかけは平成二十二年四月四日日曜日、福岡県久留米市にある浄土宗大本山善導寺にある小さな石碑を目にしたことから始まる。前日善導寺境内にある鎮西研究所に招かれて、浄土宗第二祖聖光(弁長、弁阿、鎮西上人とも。親鸞の先輩に当たる。聖光で統一)のことを話したが、帰阪するまでによく善導寺を見て知っておこうと善導寺の方の案内で境内を案内していただいた時に、芭蕉の高弟(蕉門十哲の一人)の野坡の墓があると、小さな石碑の前で説明を受けたことからである。石碑といってもほとんど文字を読むことすらできないものであった。
 志太野坡について改めて調べてみると、芭蕉の高弟で寛文二年一月三日(一六六二年二月二十一日)に誕生。越前福井の出で、幼年のとき父と共に江戸に移り、長じて日本橋の越後屋(両替商、現在の三越の前身)に奉公、その番頭(手代とも)であったと伝えられている。句は芭蕉七部集の一つ『炭俵』に多く所収され、その「軽み」は芭蕉に大いに期待されており、向井去来や森川許六への書簡にも「野坡の三つ物(年の初めに連句の三句目までを読んだもの)ご覧になり申さるべくや」「なかなかの出来にて候」「見所多く‥一つの手柄故、これ中の品の上の定めに落ちつき候」と、野坡について賞賛を惜しまぬさまがありありと見え、去来も『旅寝論』で「軽きこと野坡に及ばず」と述べ、芭蕉の門人中「軽み」の第一人者として挙げている。
野坡と九州との繋がりは、元禄十一年、越後屋両替商として長崎に商談に訪れることから始まる。銅座の願いを、長崎奉行となったかねて懇意の旗本某を頼って赴いたところ、既にその旗本は長崎奉行を辞職しており、伝手を無くして無聊の日々を過ごしていた時、野坡より三ヶ月早く帰郷していた向井去来の紹介でこの地の俳人に引き合わせてもらい、長崎俳壇の中心となっていった。師の芭蕉が九州への旅を夢見ていて果たせなかった、そんな思いもあったのだろう、野坡が九州に蕉風を広めていくことになる。
 野坡はこの元禄十一年を初めとして計十回ほど九州行脚を重ねている。士農工商の身分差別が確立していたこの時代、俳句の師匠というのは、今から考えても相当に優遇された世界であったようである。各地の庄屋や武士、それも家老などの大家に連日泊まり、俳諧興行を催す、その記録を書物にする、などの積み重ねで何年にもわたってやっていける環境であり、かつて士農工商の商、越後屋の手代か番頭に過ぎなかった野坡にとっては、夢のような時間でもあったのだろう。
野坡の行脚の跡をたどると、善導寺とはっきり記されているのは、正徳五年(一七一五)七月七日から九日の間、享保元年(一七一六)の冬、享保二年(一七一七)の春、享保十二年の二月中旬過ぎにそれぞれ善導寺門前の雪刀亭に滞在している。野坡は元文五年(一七四〇)一月三日に亡くなったが、善導寺にある石碑は、その百カ日を期して建立、「如来一音」に始まる文字から如来塚と呼ばれている。その概略を記すと
〔如来塚 元文五年 筑後善導寺 筑後善導寺境内の開山堂前の東南隅、志太野坡死後百カ日に建立。丈余の方形碑石の正面上部に「如来一音演説法衆生随類各得解懐誉音」中央に「蕉 門第二世浅生翁壽元居士」、左右に「元文五庚申天」「正月三日」、側面に「摂州大阪高津野々翁竹田氏 俳名野坡七十八齢卒」と刻まれている。建立者は台石に、「亀毛・升羽・木而・市山・雪刀・杜夕」とある。碑銘は、当山四十三世の懐誉上人の染筆で「如来一音云々」の華厳の要文により如来塚と呼ばれる。建立者はいずれもこの地方の野坡門弟。この塚の開眼供養は元文五年四月十四日、門人列席して追善俳諧五十韻が興行されている。〕

◇芭蕉墓撰文者・香月牛山について

善導寺石碑について長々と記したのには訳がある。本題である大阪遊行寺芭蕉墓の撰文を野坡に依頼されたのが、当時名声を誇っていた香月牛山であり、香月家に関わるからである。麻生氏(前総理大臣麻生太郎氏の先祖)と共に北九州での名門であり、法然の高弟で浄土宗二祖でもある聖光も香月家の出である。聖光は香月城主秀則の弟則茂の子であり、吾妻鏡にその武勇の記されている勝木則宗は秀則の子、聖光と則宗は従兄弟の間柄。香月牛山はその香月家十六代重貞の次男であり、聖光の誕生寺である吉祥寺には牛山の墓がある。聖光に関わる善導寺との交流が志太野坡と香月牛山との関わりに深く結びついているからである。
享保十九年(一七三四)の秋、野坡は難波から、門弟額田風之を伴って牛山のいる豊前小倉に赴いている。難波に建立予定の芭蕉墓碑の撰文を儒医香月牛山に依頼するための下向、善導寺僧等からの紹介状など下準備の整った上での訪問であったと思われる。このとき野坡は既に齢七十三、芭蕉の四十一回忌に当たるが、五十回忌にはとても命が持ちそうにない。師芭蕉は難波の地で亡くなったのに、大津の義仲寺や江戸の深川長慶寺に師の墓はあるが、難波にはない。師の絶筆の句と併せて建立したい。師の恩に報いるためにも是非実現させたい旨懇々と牛山に語り依頼したと思われる。牛山はその撰文に「この師の恩を感謝しての厚い志を持っての依頼にどうして断ることができようか」と、野坡の語る師を思う志に心を打たれた様子を描いている。牛山は元禄十二年(一六九九)から享保元年(一七一六)まで、京都二条に居住し医業を営んでいたが、その時に交友のあった滋野井公澄(しげのいきんすみ)にさらに染筆を依頼するようにと野坡に指示していたようである。野坡門下直方加賀神社宮司である青山文雄がその後に上洛して、滋野井公澄に依頼、その銘文を野坡に届けた時の手紙の文面が、享保二十年四月八日付で『枯野集』(文政八年刊)に残されている。即ち
  内々御頼之芭蕉翁墓銘、滋野井黄門公江願上候処、御作文及御染筆下賜候間、贈進之  候。御拝領可有之候。已上
   四月八日           青山内記志
浅生庵主人梧右
(内々、御頼の芭蕉翁墓銘、滋野井黄門公へ願ひ上げ候ところ、御作文および御染筆   下賜し候間、これを贈り進じ候。御拝領これあるべく候、已上。)
とあり、芭蕉翁墓銘のあらゆる材料が整ったのが享保二十年四月で、五月末に完成している。この青山文雄の文面にある滋野井黄門という言葉が一人歩きして、従来、滋野井中納言と記されているが、滋野井公澄は享保五年に権大納言になっており、享保九年に正二位に昇進、享保十六年には出家している。黄門という名称はご隠居様といったニュアンスの言葉として使われており、辞書等に、黄門は中納言の異称とあるが、実際はそうばかりではなかったのではないか。
香月牛山は若き頃、貝原益軒に師事したが、益軒からの信頼も厚く、『養生訓』の『育幼』の項目には「小児を保養する法は、香月牛山医士のあらはせる『育草』(やしないぐさ)に詳(つまびらか)に記せり。考みるべし。故に今こゝに略せり。」と、牛山の名を記しているほどである。当時のベストセラー作家のような一人であったとみて間違いないだろう。香月牛山についても概略を記しておきたい。
〔香月牛山 明暦二(一六五六)〜元文五(一七四〇)万病一毒を説く吉益東洞(華岡青洲は彼の弟子)の医説があまねく天下に広がったとき、後世派で一人気焔を吐いたのが牛山である。牛山は通称啓益、名は則実(則真とする説もある)、号を牛山、貞庵、被髪翁と称した。筑前国遠賀郡植木の出身で、明暦二年(一六五六)香月家十六代重貞の次男として生まれた。その先祖は香月城主であったが、牛山より四代前の香月考清の代に小早川隆景に征せられ、植木邑におち野に下った。牛山は若い頃貝原益軒から儒学を学び、また医を藩医鶴原玄益に学んで業とした。三十歳の時、豊前中津侯小笠原氏の侍医として禄を受け、十四年間さらに医学の研鑚に励んだ。当時の医学は古医方が擡頭し始めた頃であるが、一般には金元医学、特に李朱の医説が行われており、牛山も当然この医説を学んだ。特に牛山は李東垣の医説を奉じ、後に江戸中期の後世派の第一人者と称された。牛山の医説は儒者、本草家としての貝原益軒の実証的研究方法の影響を多分に受けているものと思われる。元禄十二年(一六九九)四十四歳の時、中津侯を辞して京都に赴き二条に医業を開いた。享保元年(一七一六)六十一歳の時、度重なる小倉侯小笠原氏の招聘により、小倉に住した。元文五年(一七四○)八十五歳の高齢で天寿を全う。生涯独身で子がなく、甥の則貫を養嗣としたが則貫は牛山に先だって没したため門人の則道を養嗣とし香月家を継がせた。牛山の医説は実際的経験の上にたって治病の腕を振った。その主とするところは温補剤であり、元禄、享保の頃の人達の生活にもよくマッチしたのであろう。牛山は非常に多くの著書を残している。代表的なものは『牛山方考』『牛山活套』『婦人寿草』『老人必用養草』などがあるが、著書のほとんどは仮名混り文で、大衆啓蒙に務めている。〕
 この香月牛山と志太野坡とが元文五年に共に亡くなっているのも何か意義深いものがある。

◇関西大学博物館所蔵芭蕉墓拓本

大阪春秋一一四号六八頁から三善貞司先生が円成院(遊行寺)芭蕉墓碑を紹介している。筆者も先日ここを訪れたが、文字の剥落のひどさは目を覆うほどで、その傍らにある絶筆「旅に病で夢は枯れ野をかけめぐる」の句も、表皮とも言える石が浮き上がっている状態、ちょっと触るともう跡形も無くしてしまうようで、その六九頁にある写真よりもさらにひどくなっている。ちょっとした風雨でもう駄目になってしまうことは火を見るより明らかである。当時は芭蕉茶屋と呼ばれる茶屋があるほどに栄え、たくさんの拓本も採られたに違いない跡がたくさん感じられた。その拓本でも残っていないかと捜したのが今回のことに繋がってきた次第である。
 たまたま、三善貞司著『大阪の芭蕉俳跡』一三〇頁に「前豊倉藩医八十翁牛山香月啓益」の文字が出ていて、豊前小倉のことを「豊倉藩」というのだろうか、と素朴な疑問が湧き、インターネットで検索したところ、偶然にこの芭蕉墓の拓本目録、関西大学博物館のホームページを見ることが出来た。そこで急遽博物館に閲覧をお願いして平成二十三年二月十六日に閲覧させていただいた次第である。写真も「関西大学博物館蔵」と明記すれば可ということなので、次頁に掲載する。大学内部やその筋の方々だけが知っていたようで、三善貞司著『大阪の芭蕉俳蹟』等でも円成院芭蕉墓の写真までであった。拓本とはいえ、実物を目にして体の震えがしばらくはとまらぬほど感動した。大阪府誌や摂津名所図絵にある撰文にも脱字があり、また文字の違いのあることも知ることが出来た。その撰文と共に漢詩人松村龍古氏の助言による私なりの書き下し文もここに載せておきたい。
円成院(通称遊行寺)
芭蕉翁墓(題字は黄檗佚山、書の真竹子とは滋野井権大納言公澄のこと)
〔正面〕
曼倩詼語
相如俳文 芭蕉翁墓 真竹子書
妙辞奇句
思入風雪 
〔側面〕  浅生庵野坡
   私淑 浪華後藤梅従甫 等与建
      洛下額田風之甫 
〔裏面〕碑銘
桃青子姓松尾字甚質號芭蕉翁産干伊賀宦干伊勢卒干難波其顛末載干野坡子
之碑文故不贅矣余嘗觀世間九流百家稱師呼弟者生前懐其徳者最多及身沒也
報其恩者甚少何乎葢學其道而未得則不遠千里來侍事左右而仰望其徳是有所
求干彼也既得之則棄之如弁髦以耻稱師況乎報其恩耶夫誹諧者和歌之一體也
嗜之者稱之道而擇之師者不亦宜乎翁素嗜此道壯而致仕遂離郷而到干両都及
難波所到之處門人弟子營室廬致衣食以給焉然其性洒脱四壁而立所寓無突黔
之地其動静語黙必於誹可謂此道之盟主滑稽之巨擘也嘗謂弟子曰誹諧者和歌
之一體也古哲所謂和歌無師伸己之性情而吟詠焉而天下之口非一世與時相變
矣以故格調亦自異猶和歌於今古唐詩於盛晩然唯顧結選道如何耳頼翁得此道
解其惑者億萬翕然而化矣葢關之西東嗜此道者悉莫不為之帰壹是皆稱其流亞
就中野坡子傑然繼其緒以倡此道干四方當翁之七回諱辰遠來西肥縦臾其門人
而建碣干長崎乎自裁碑文復當十七回忌之歴來筑紫與其弟子相謀而建碑干筥
崎今茲來赤間關卷防長以東迄難波諸州門生而彫刻石碑建干天王寺裏某所其
他翁之墓散在諸州者一在江之義仲寺一在東都深川長慶寺其在洛之雙林寺者
翁之門人支考所建云今野坡子所建者葢難波翁之所卒地也是欲傳師徳乎久遠
而不朽謝師恩乎當己以不誼也一日野坡子扣餘門來告曰我既老矣逮翁之五十
回忌亦不可知故有此舉今年實翁之謝世四十一年云且乞碑文余曰吾子之功其
勤哉余雖不敏不敢辭嘉奨其欲謝師恩之志為誌云
享保十九甲寅歳晩秋日前豊倉藩医官八十老翁牛山香月啓益誌
円成院(通称遊行寺)芭蕉翁墓碑銘(書き下し文 )
桃青子姓は松尾、字は甚質、芭蕉と号す。翁は伊賀に産まれ伊勢に宦い難波に卒す。その顛末は野坡子の碑文に載す。故に贅をせず。余嘗て世間の九流百家師と称し弟と呼ぶ者を観るに生前其の徳を懐ふ者最も多し。身を没するに及ぶやその恩に報いる者甚だ少なきは何ぞや。けだしその道を学んで未だ得ざれば則ち千里を遠しとせずして来たり侍して左右に事へてその徳を仰ぎ望みこれ彼に求むる所あるなり。既に之を得れば則ち之を棄つるに弁髦の如し。以て師と称するを恥ず。況んやその恩に報ひるをや。それ俳諧は和歌の一体なり。之を嗜む者之を道を称して之の師を択ぶはまた宜しからず。翁もとよりこの道を嗜み壮にして致仕し遂に郷を離れて両都に到り難波に及ぶ。到る所に處る門人弟子、室廬を営み衣食を致し以て給す。然り其の性四壁に洒脱にして立つ。寓する所突黔の地無くその動静は語るに黙すも必ず誹に於いてはこの道の盟主と謂ふべく滑稽の巨擘なり。嘗て弟子に謂ひて曰く俳諧は和歌の一体なり。古哲は所謂和歌に師無く己の性情を述べ吟詠す。かくて天下の口一世にして時と相変ずるに非ず。故を以て格調もまた自ら異る。なほ和歌の古今に於ける唐詩の盛晩に於けるが如し。然るに唯に結を顧みて道を選ぶは如何とのみ。翁に頼りて此の道を得、その惑ひを解くは億万翕然として化す。蓋しこれに関して西東この道を嗜むもの悉く帰一なさざる無し。これ皆その流亞を称す。就中野坡子傑然としてその緒を継ぎ、以てこの道を四方に倡し、翁の七回諱の辰に当り西肥に遠来しその門人を縦臾し碣を長崎に建て自ら碑文を裁す。また十七回忌の歴に當り筑紫に来たりてその弟子と相謀りて筥崎に碑を建つ。今ここに赤間関に来て防長以東に券み難波に迄る。諸州の門生、石碑を彫刻し天王寺裏某所に建つ。その他翁の墓、諸州に散在し一には江の義仲寺に在り、一には東都深川の長慶寺に在り。それ洛の雙林寺に在るは翁の門人支考が建つる所と云ふ。今野坡子建つる所は蓋し難波は翁の卒する所の地なり。これ師の徳を久遠に伝へ不朽の師恩を謝せんと欲すればなり。當に誼しからざるべし。一日野坡子余の門を叩き来り告げて曰く、我既に老いたり。翁の五十回忌に逮び亦た知るべからず。故にこの挙あり。今年実に翁の世を謝し四十一年、云ひて且つ碑文を乞ふ。余曰く、吾子の功をそれ勤めんか。余敏ならずといへども敢て辞せず。その師恩を謝せんとするの志を嘉奨し為に誌して云ふ。
享保十九年甲寅の歳晩秋の日、前豊倉藩医官八十翁牛山香月啓益誌す