今年、平成二十三年の四月と九月に、大阪の文化を代表する二人の先達が亡くなった。島田陽子と岩井三窓である。たまたま彼らの晩年に深く関わることが多くあったので、ここに記しておきたい。私は母を平成十五年に突然亡くしたが、それまで会っていなかった島田に会いたいと思い、彼女が代表をつとめる同人詩誌『ぎんなん』の例会に行った。私は短歌の個人誌『流氷記』を刊行していたが、私の歌にビシビシと言葉を掛けてくれていた彼女に母のような思いを抱いていたからであり、大阪を代表する女性として田辺聖子さんと二人、勝手に決め込んでいたりしたのもある。彼女は大阪万博の歌で名高く金子みすずを見出し大阪弁を駆使した詩も多数発表していた。私は『ぎんなん』の同人になり年に四回ほど彼女に会って話を聞くのを楽しみにするようになった。『世界の国からこんにちは』の作詞者として、その道に進むのがある意味順当であると思われていたが、彼女自身は『詩人』として生き、『詩人』として死にたい、ということを常々話していた。高齢にも関わらず日に数時間しか寝ずに仕事をしているとのこと。それでも詩誌への原稿はいつもギリギリだった。癌を患う前から毎日が真剣勝負。批評会では「言葉を並べただけ」「詩になっていない」といった手厳しいことを言われることもあったが、私は自分の作品がそう言われても不思議に納得するものがあり、有り難くさえ感じた。彼女の死後の六月に「お別れする会」があったが、そこで発言する誰もが、自分が一番親しかったと思っているという印象を受けた。実は私も、彼女の息子のように思っていたところ、実の息子さんが挨拶をなさって、少し目が覚まされた経験をした。島田陽子という詩人はそんな魅力を持つ愛されるお人柄でもあった。
私は阪神大震災の後、総持寺のマンションから高槻市富田町二丁目に引っ越したが、お隣が岩井三窓宅であった。たちまちに仲良くなり私の小さな書斎から窓越しに話をするといった関係になった。川柳界のカリスマ三窓も私にとっては「おじさん」であり、彼を支えた澄子(本名は澄)さんは「おばちゃん」だった。歌を忘れ失いかけていた私に小さな手作りの豆本を示してくれて、それが私の個人歌集『流氷記』につながり、「折々の歌」にも紹介されることにもなった。今では一般的になっている「虫食い川柳」の形も彼の発案になるもので、豆本にもいろんな工夫が詰まっていた。『番傘』編集長として『大阪弁川柳』選者として、川柳界には多大な貢献をした。一度彼の句会に御邪魔したことがあったが、川柳の研鑽にも色んなものがあって、彼の職人藝の凄さを随所に感じるばかりだった。彼は川柳一筋の人生を送ってきて、他の職業にはほとんど就かず、生涯貧乏に甘んじた生活であった。澄子夫人は彼に惚れ込んで嫁いだこともあったのだろうが、文字通り骨身を削りながら彼を支えたが遂に力尽きた。隣人である私が叱りつけて救急車を呼ぶまで彼に負担を掛けることを嫌った程である。三窓は長谷川一夫を思わせる程の男前で、おばちゃんお手製のベレー帽をかぶって出かける姿はいつも絵になる光景だった。『夫婦善哉』そのままのお二人だったし、声を張り上げたり争ったりという光景はお二人には一度もなく正に理想的な夫婦の姿だった。おじさんは愛する人を失ってからほとんど生きる気力を失っていたようで、ほどなくおばさんの許に旅立っていった。
大阪万博の歌が流れ、金子みすずの詩が紹介されるたびに、島田陽子のことが思われ、虫食い川柳がテレビなどで流れるたびに岩井三窓のことが思われるようになっている。大阪の文化の二つの灯がひそかにそっと消えていった。彼らの生き様や志は明らかに大阪のもつ独自のものだったのではないかと思わずにはいられない。今は寂しくて仕方のない限りである。