三年前、浄土真宗から浄土宗へと改宗し、実家近くの北九州市八幡西区にある吉祥寺の檀家になった。それまで法然とその弟子の親鸞しか知らなかったが、吉祥寺が親鸞の兄弟子であり浄土宗二祖となった聖光房弁長の誕生寺であることから、聖光を知ることになった。父母の遺骨を京都知恩院の寶物殿に納めることになり、その際買った知恩院発行の梶村昇『疑ひながらも念仏すれば往生す』に書かれた徒然草第三九段の法然の言葉を読み、改めて徒然草を読むことになった。岩波文庫『徒然草』第九八段の一言芳談の一節「遁世者はなきにことかけぬやうを計ひて過ぐる最上のやうにてあるなり」の解説に「聖光上人の語もしくは敬仏房の語」とあり、あらゆる徒然草の注釈書を集めることになった。結果、『一言芳談』の原本が現存せず、江戸初期にはまだ芳談と芳談抄との二つがあり、寛文元年刊『盤斎抄』には「抄云、敬仏房のことば也」とあるが、寛文五年刊『徒然草句解』には「本書の上(巻)に云、聖光上人の云く遁世者は何事もなきに事かけぬやうを思ひつけふるまひつけたるがよき也」とあり、寛文七年刊『徒然草文段抄』には「芳談には聖光上人の詞也」とある。文段抄は北村季吟の著であり、芳談抄でなく『芳談には』とある。季吟は松尾芭蕉の師でもあり『源氏物語湖月抄』などにより近世日本文学の源流を形成した偉大な先人である。文段抄による徒然草第三九段の法然上人の解説には「野槌云源空也」とあり、実証したものとそうでないものと厳密であり、季吟の「芳談には」とは確かに『一言芳談』を読んでの解説であることが確かである。その後『一言芳談』の原本が無くなり抄のみとなり、今は「敬仏房のことば」となりつつあるが、徒然草第九十八段に吉田兼好が書いたのは聖光の言葉である。また徒然草百十五段『ぼろ塚』のある「宿河原」の場所も大正三年刊沼波瓊音『徒然草講話』の注釈で津国宿河原から武蔵国宿河原へと変えられていった。これは五味文彦『『徒然草』の歴史学』などで茨木市にある津国宿河原へ戻りつつある。名誉回復とはなりつつあるが今は文字も読み取れないほどのぼろぼろの石碑があるばかりで『ぼろ塚』だと笑えない状態になっている。
このように、歴史は油断をすると、とんでもない方向に行きかねないものである。今ある歴史の認識を絶えず監視し検証していかなければならないことを痛感している。