平成二十二年四月四日日曜日、前日の三日に私は福岡県久留米市にある浄土宗大本山善導寺にある鎮西研究所に招かれて、江戸時代天保時代の木版による『鎮西国師行状和讃』や貞享の『徒然草諸抄大成』などを持参して、浄土宗第二祖聖光(弁長、弁阿、鎮西上人とも。聖光で統一)のことを話していたが、帰るまでによく善導寺を見て知っておこうと善導寺の大庭達空さんの案内で再度境内を案内していただいた。その時に芭蕉の高弟の野坡の墓があると小さな石碑の前で説明を受けたのが、この研究の切っ掛け、石碑といってもほとんど文字を読むことすらできない、古い小さなものである。でも、敬愛する松尾芭蕉に関わる野坡という名は聞き覚えがあったし、妙に心に残った。以前、芭蕉についての本を読みあさっていたことがあったが、この志太野坡についてはあまり印象に残っていなかったわけである。そんな悔悟もあってか改めて調べてみようという気になった。でも、このことが芭蕉の墓にまで関わってくるとはその時には思いも寄らなかった。
 志太野坡について改めて調べてみると、芭蕉の高弟で寛文二年一月三日(一六六二年二月二十一日)に誕生。越前福井の出で、幼年のとき父と共に江戸に移り、長じて日本橋の越後屋(両替商、現在の三越の前身)に奉公、その番頭(手代とも)であったと伝えられている。同じ越後屋の仲間に小泉孤屋と池田利牛がいて、足繁く芭蕉庵に通って、芭蕉と共に火桶を囲んでいたことが『炭俵序』に「‥常に芭蕉の軒に行かよひ、瓦の窓をひらき心の泉をくみしりて、十あまり七の文字の野風を励みあへる輩なり。霜凍り冬どののあれませる夜、この二三子に侍りて、火桶に消し炭をおこす‥」とあり、芭蕉七部集の第六集にあたる『炭俵』は芭蕉が最後の旅に出立した元禄七年六月に刊行、その「軽み」は芭蕉が晩年に到達した俳風でもあり、芭蕉に大いに期待されており、向井去来や森川許六への書簡にも「野坡の三つ物(年の初めに連句の三句目までを読んだもの)ご覧になり申さるべくや」「なかなかの出来にて候」「見所多く‥一つの手柄故、これ中の品の上の定めに落ちつき候」と、野坡について賞賛を惜しまぬさまがありありと見え、去来も『旅寝論』で「軽きこと野坡に及ばず」と述べ、芭蕉の門人中「軽み」の第一人者として挙げている。
野坡と九州との繋がりは、元禄十一年、越後屋両替商として長崎に商談に訪れることから始まる。当時、長崎貿易は清やオランダ相手の取引で支払い銀に不足を来たし、代物替えを行ったり、銀に代えるに銅をもってするために銅座を設けたりしていた。この銅座の願いを、長崎奉行となった、かねて懇意の旗本某を頼って赴いたとのことである。野坡が長崎に赴いたときにはすでにその旗本は長崎奉行を辞職しており、その伝手を無くして無聊の日々を過ごしていた時、野坡より三ヶ月早く帰郷していた向井去来の紹介でこの地の俳人に引き合わせてもらい、長崎俳壇の中心となっていく。向井去来が長崎の出身であることがここに繋がって来ている。師の芭蕉は九州への旅を夢見ていたが果たせなかった、そんな思いもあったのだろう、野坡が九州に蕉風を広めていくことになる。
 大内初夫著『近世九州俳壇史の研究』を頼りに野坡の年譜を作成してみると、この元禄十一年を初めとして計十回ほどの九州行脚を重ねている。十回といっても最初の長崎では四年間、元禄十五年から二年間、正徳二年三年五年と筑紫中心の行脚、享保元年から五年までと、九州を根城にしている感じで、とても大阪発とはいえない滞在日数である。士農工商の身分差別が確立していたこの江戸時代に、俳句の師匠というのは、今から考えても相当に優遇された、違った世界であったように感じられる。各地の庄屋や武士、それも家老などの大家に泊まり、連日俳諧興行を催す。その記録を書物にする、などの積み重ねで何年もやっていける環境であり、今では考えられない待遇でもあった。かつて士農工商の商、越後屋の手代か番頭に過ぎなかった野坡にとっては、夢のような時間であったのだろうと想像を逞しくしてしまう。野坡は幸せで心地よい人生を全うしたのではないか。
野坡の行脚の跡をたどると、善導寺とはっきり記されているのは、正徳五年(一七一五)七月七日から九日の間、享保元年(一七一六)の冬、享保二年(一七一七)の春、享保十二年の二月中旬過ぎにそれぞれ善導寺の雪刀亭に滞在している。その他の期間にも久留米や吉井の名が見えるので、或いはその間、善導寺にも滞在していたかもしれない。野坡は元文五年(一七四〇)一月三日に亡くなったが、善導寺にある石碑は、その百カ日を期して建立、「如来一音」に始まる文字から如来塚と呼ばれている。その詳細を記すと
〔如来塚 元文五年 筑後善導寺 筑後善導寺境内の開山堂前の東南隅、志太野坡死後百カ日に建立。丈余の方形碑石の正面上部に「如来一音演説法衆生随類各得解懐誉音」中央に「蕉 門第二世浅生翁壽元居士」、左右に「元文五庚申天」「正月三日」、側面に「摂州大阪高津野々翁竹田氏 俳名野坡七十八齢卒」と刻まれている。建立者は台石に、「亀毛・升羽・木而・市山・雪刀・杜夕」とある。碑銘は、当山四十三世の懐誉上人の染筆で「如来一音云々」の華厳の要文により如来塚と呼ばれる。建立者はいずれもこの地方の野坡門弟。木而は善導寺聖光院の住職。亀毛も聖光院の僧。杜夕は善導寺の寺庄屋で通称吉田九郎右衛門。雪刀・升羽について詳細は不明だが善導寺村の人。特に雪刀は池田氏で善導寺での中心人物の一人、雪刀亭は、野坡を始め多くの俳人達の宿や句会の場所として使われ俳句史上重要な役割を果たしている。この塚の開眼供養は元文五年四月十四日、門人列席して追善俳諧五十韻が興行されている。〕
善導寺境内如来塚について、今はここまで何とか分かった次第だが、いずれまた善導寺付近を調べるなどして、詳細や新たな事実を確かめたいと思っている。この如来塚のことを調べるのが縁で野坡の足跡をたどるうち、当時名声を誇っていた香月牛山との関わりが出てきたことに辿り着いた。法然の高弟でもあり浄土宗二祖聖光の寺でもある大本山善導寺の僧とも交流して、香月牛山のことが気に掛からぬ筈がないとの期待もあった。聖光は香月城主秀則の弟則茂の子であり、吾妻鏡にその武勇の記されている勝木則宗は秀則の子、つまり聖光と則宗は従姉妹の間柄である。香月牛山はその香月家の子孫であり、聖光の誕生寺である吉祥寺には牛山の墓がある。吾妻鏡にある勝木則宗について紹介すると
〔勝木則宗 『吾妻鏡』第十六に「波多野盛通、勝木則宗を捕ふ」の項があり、正治二年二日に、「今日御所の侍に出御。波多野三郎盛通に仰せて、勝木七郎則宗を生虜らる。景時が餘黨たるによつてなり。これ多年羽林(頼家)に昵近したてまつるの侍なり。相撲の達者、筋力人に越ゆるの壮士なり。盛通、則宗が後に進み出でてこれを懐く。則宗右手を振り抜きて、腰刀を抜き、盛通を突かんと欲するのところ、畠山次郎重忠、折節傍にあり。坐を動かずといへども、左手を捧げて、則宗が拳刀を膊に取り加へ、これを放たず、その腕を早く折りをはんぬ。よつて魂惘然として、たやすく虜らるるなり。すなはち則宗を義盛に給ふ。義盛御厩侍において子細を問ふ。則宗申して云はく、景時鎮西を管領すべきの由、宣旨を賜はるべき事あり。早く京都に來會すべきの旨、九州の一族に触れ遣はすべしと云々。契約の趣等閑ならざるの間、状を九國の輩に送りをはんぬ。ただしその實を知らざるの由これを申す。義盛この趣を披露するのところ、しばらく預け置くべきの由、仰せらるるところなり。」とあり、勝木則宗と畠山重忠の勇敢さ、潔さを述べ、波多野義盛に恩賞が下され、重忠に恩賞がなかったことを憤った真壁紀内に、畠山重忠は「かくの如き讒言もつとも無益の事なり、弓箭に携はるの習、横心なきをもつて本意となす‥」と、武士の心得を述べ、当時の理想的な武士の姿が描かれている。〕
また〔吾妻鏡第十七に 建仁元年十二月二十九日、「今日、景時が餘黨勝木七郎則宗、囚人の號を除かれ、鎮西に返し下さる。」とあり、
〔吾妻鏡第廿七巻には 寛喜二年二月六日、戊午 鶴岡別当法印(定親)御所に参り盃酒を奉る。相州(時房)・武州(泰時)参りたまふ。駿河前司(三浦義村)已下の数輩座に候ず。ここに上綱具し参る児童の中に藝能抜群の者あり。仰せによつて数度廻雪の袖を翻す。満座その興を催す。将軍家また御感の餘りに、その父祖を問はしめたまふ。法印申して云はく、承久兵乱の時、図らざるに官軍に召し加へらるるるの勝木則宗が子なり。所領を収公せらるるの間、則宗が妻息従類ことごとくもつて離散し、その身すでに山林に交はると云々。武州もつとも不憫の由申したまふ。かの則宗は、正治の比、平(梶原)景時に與同するの間、召し禁められをはんぬ。たまたま免許を蒙りて、本所筑前國に下向の後、院の西面に候ずと云々。八日 庚申 勝木七郎則宗、本領筑前國勝木庄を返し給はるなり。この所は中野太郎助能、承久の勳功の賞として拝領せしむといへども、子息の児童を賞せらるるによつて、則宗に給ひをはんぬ。助能また替りに筑後國高津・包行の両名を賜はる。武州殊にこれを沙汰したまふと云々。〕則宗の子の世代でまた所領が戻ったことが記されている。もちろん勝木と香月は同じである。
香月牛山は貝原益軒の信頼も厚く、益軒の『養生訓』の『育幼』の項目には「小児を保養する法は、香月牛山医士のあらはせる『育草』(やしないぐさ)に詳(つまびらか)に記せり。考みるべし。故に今こゝに略せり。」と、牛山の名を記しているほどである。香月牛山についても概略を書いておきたい。
〔香月牛山 明暦2(1656)〜元文5(1740)万病一毒を説く吉益東洞(華岡青洲は彼の弟子)の医説があまねく天下に広がったとき、後世派で一人気焔を吐いたのが牛山である。牛山は通称啓益、名は則実(則真とする説もある)、号を牛山、貞庵、被髪翁と称した。筑前国遠賀郡植木の出身で、明暦二年(一六五六)香月家十六代重貞の次男として生まれた。その先祖は香月城主であったが、牛山より四代前の香月考清の代に小早川隆景に征せられ、植木邑におち野に下った。牛山は若い頃貝原益軒から儒学を学び、また医を藩医鶴原玄益に学んで業とした。三十歳の時、豊前中津侯小笠原氏の侍医として禄を受け、十四年間さらに医学の研鑚に励んだ。当時の医学は古医方が擡頭し始めた頃であるが、一般には金元医学、特に李朱の医説が行われており、牛山も当然この医説を学んだ。特に牛山は李東垣の医説を奉じ、後に江戸中期の後世派の第一人者と称された。牛山の医説は儒者、本草家としての貝原益軒の実証的研究方法の影響を多分に受けているものと思われる。元禄十二年(一六九九)四十四歳の時、中津侯を辞して京都に赴き二条に医業を開いた。享保元年(一七一六)六十一歳の時、度重なる小倉侯小笠原氏の招聘により、小倉に住した。元文五年(一七四○)八十五歳の高齢で天寿を全う。生涯独身で子がなく,甥の則貫を養嗣としたが,則貫は牛山に先だって没したため,門人の則道を養嗣とし,香月家を継がせた。牛山の医説は実際的経験の上にたって治病の腕を振った。その主とするところは温補剤であり、元禄、享保の頃の人達の生活にもよくマッチしたのであろう。牛山は非常に多くの著書を残している。代表的なものは『牛山方考』『牛山活套』『婦人寿草』『老人必用養草』などがあるが、著書のほとんどは仮名混り文で、大衆啓蒙に務めたことが感じられる。〕
この香月牛山に享保十九年秋に七十三歳の野坡は難波に建立予定の芭蕉墓の碑の撰文を依頼するのである。先師終焉の地の難波に芭蕉墓の無いのを気にかけていた野坡は三十三回忌にもそういう計画があったが老齢ゆえ五十年忌には実現出来そうにない、そう焦っての計画でもあった。当代一流の儒医香月牛山は名文家としても著名であり、多くの著書を出版している。そして彼は野坡に縁のある善導寺とも関わりのある人物、師の松尾芭蕉に対してと同じように、一流の人物との出会いは胸が高まったに違いない。野坡は門弟額田風之を伴って豊前小倉に赴いて撰文を牛山に依頼している。その思いは撰文の中にも表れている。またその文字は牛山が京都時代に親しかったであろう権大納言滋野井公澄によるが、これは牛山が指名したのではないか、野坡の弟子青山文雄が京に赴いて滋野井公澄の筆をその帰路、野坡に手渡した手紙が残っている。
この墓は今は文字が殆ど剥落していて、筆者も先日円成院を訪れて参り、写真を撮ってきたが、見る影もなくその侘びしさに声を無くした。写真のように辛うじて芭蕉墓の文字が微かに分かるのみである。その傍らに芭蕉の絶筆句「旅に病むで夢は枯れ野をかけめぐる」の句もあるが、これももう表皮とも言える石が浮き上がっている状態でちょっと触るともう跡形も無くしてしまうごとくである。勿論触りはしなかったが、ちょっとした風雨でもう駄目になるのではないかと思うといっそう虚しかった。当時芭蕉茶屋と呼ばれる茶屋のあるほど栄え、たくさんの拓本も採られたに違いない跡を見て本当に哀しかった。
 ただ、偶然にこの芭蕉墓の拓本が関西大学博物館にあるらしいことが分かり、急遽博物館に閲覧をお願いして実は今日(平成二十三年二月十六日)に閲覧させていただいた次第である。写真も「関西大学博物館蔵」と明記すれば可ということなので、ここに掲載する。大学内部やその筋の方々だけが知っていたようで、三善貞司著『大阪の芭蕉俳蹟』等でも円城寺の芭蕉墓の写真までであった。拓本とはいえ、実物を目にして体の震えがしばらくはとまらぬほど感動した。大阪府誌等にある撰文等にも脱字があり、また文字の違いのあることも知ることが出来た。その撰文と共に私なりの書き下し文も載せておきたい。
いつかこの拓本等を元に、志太野坡の懇望した芭蕉の墓と絶筆の句碑が再建されることを夢見てこの稿を置きたい。
円成院(通称遊行寺)
芭蕉翁墓(題字は黄檗佚山、書の真竹子とは滋野井権大納言公澄のこと)
〔正面〕
曼倩詼語
相如俳文 芭蕉翁墓 真竹子書
妙辞奇句
思入風雪 
〔側面〕  浅生庵野坡
   私淑 浪華後藤梅従甫 等与建
      洛下額田風之甫 
〔裏面〕碑銘
桃青子姓松尾字甚質號芭蕉翁産干伊賀官干伊勢卒干難波其顛末載干野坡子
之碑文故不贅矣余嘗觀世間九流百家稱師呼弟者生前懐其徳者最多及身沒也
報其恩者甚少何乎葢學其道而未得則不遠千里來侍事左右而仰望其徳是有所
求干彼也既得之則棄之如弁髦以耻稱師況乎報其恩耶夫誹諧者和歌之一體也
嗜之者稱之道而擇之師者不亦宜乎翁素嗜此道壯而致仕遂離郷而到干両都及
難波所到之處門人弟子營室廬致衣食以給焉然其性洒脱四壁而立所寓無突黔
之地其動静語黙必於誂可謂此道之盟主滑稽之巨擘也嘗謂弟子曰誹諧者和歌
之一體也古哲所謂和歌無師伸己之性情而吟詠焉而天下之口非一世與時相變
矣以故格調亦自異猶和歌於今古唐詩於盛晩然唯顧結選道如何耳頼翁得此道
解其惑者億萬翕然而化矣葢關之西東嗜此道者悉莫不為之帰壹是皆稱其流亞
就中野坡子傑然繼其緒以倡此道干四方當翁之七回諱辰遠來西肥縦臾其門人
而建碣干長崎乎自裁碑文復當十七回忌之歴來筑紫與其弟子相謀而建碑干筥
崎今茲來赤間關卷防長以東迄難波諸州門生而彫刻石碑建干天王寺裏某所其
他翁之墓散在諸州者一在江之義仲寺一在東都深川長慶寺其在洛之雙林寺者
翁之門人支考所建云今野坡子所建者葢難波翁之所卒地也是欲傳師徳乎久遠
而不朽謝師恩乎當己以不誼也一日野坡子扣餘門來告曰我既老矣逮翁之五十
回忌亦不可知故有此舉今年實翁之謝世四十一年且云乞碑文余曰吾子之功其
勤哉余雖不敏不敢辭嘉奨其欲謝師恩之志為誌云
享保十九甲寅歳晩秋日前豊倉藩医官八十老翁牛山香月啓益誌

円成院(通称遊行寺)芭蕉翁墓碑銘(書き下し文 川添英一試作)
桃青子姓は松尾、字は甚質、芭蕉翁と号す。伊賀に生まれ伊勢に官し難波に卒す。その顛末は野坡子の碑文に載す。故に贅せず。余かつて世間九流百家師を称して弟と呼ぶ者を観るに生前其の徳を懐ふ者最も多く身没するに及んでその恩に報いる者甚だ少なきは何ぞや。けだしその道を学びて未だ得ず。則ち千里を遠しとせず来たりて事を左右に待つ。その徳を仰ぎ望みてこれ彼に求むる所あり。既に之を得れば則ち之を棄つること弁髦の如くにして恥を以て師と称す。況んやその恩に報ひるに於てをや。それ俳諧は和歌の一体なり。之を嗜む者之が道を称して之が師を択ぶ者また宜からずや。翁もとよりこの道を嗜み 壮にして致仕し遂に郷を離れ両都及び難波に到る。到る所の処門人弟子室廬を営み衣食を致して以て給す。然るに其の性洒脱にして四壁立つ。寓する所突黔の地無くその動静は語るに黙すも必ず誂ふればこの道の盟主滑稽の巨擘なりと言ふべきなり。かつて弟子に謂ひて曰く俳諧は和歌の一体なり。古哲は所謂和歌に師無く己の性情を述べて吟詠す。かくて天下の口一世にして時と相変ずるにあらず。故を以て格調もまた自ら異る。和歌の古今に於ける唐詩の盛晩に於けるが如し。然るにただ道を選り結ぶを顧みて如何といふのみ。翁この道を得るに頼みてその惑ひを解するは億万翕然として化す。蓋し関の西東この道を嗜む者悉く帰一なさざるは無し。これ皆その流亞を称す。就中野坡子傑然としてその緒を継ぐ。この道を以て四方に倡し、翁の七回諱の辰に当り西肥に遠来しその門人を縦叟し碣を長崎に建て自ら碑文を裁す。また十七回忌の歴来に當り筑紫にてその弟子と相謀りて碑を筥崎に建つ。今ここ赤間関に来りて防長以東に券し難波諸州の門生迄石碑を彫刻し天王寺裏某所に建つ。その他の翁の墓散じて諸州に在るは一は江の義仲寺に在り一は東都深川長慶寺に在り。それ洛の雙林寺に在るは翁の門人支考が建つる所と云へり。今野坡子建つる所は蓋し難波にて翁の卒する所の地なり。これ師の徳を久遠に伝へ不朽の師恩を謝せんと欲すればなり。当に誼しかるべし。一日野坡子余の門を叩き来りて告げて曰く、我既に老いたり。翁の五十回忌に逮ぶも知るべからず。故にこの挙あり。今年実に翁の謝世四十一年と云ふ。碑文を余に乞ひて曰く、吾子の功にてこれを勤めんやと。余敏ならずといへども敢て辞せずしてその師の恩を謝せんと欲する志を嘉奨し為に云に誌す。
享保十九年甲寅の歳晩秋の日、前豊倉藩医官八十翁牛山香月啓益誌す