良かれと思って後人がいろいろと工作をして、結局は真の姿を見失ってしまう。また、歴史の曲折の中で本人とは全く違う人物像が形成される。そのような人物がワンサといる。歴史の教科書はそれが分かっていても訂正しようとすらしない、そんなことがある。梶村昇は「法然」「南無阿弥陀仏の論理」「悪人正機説」「法然の言葉だった『善人なをもて往生をとぐいはんや悪人をや』」等で繰り返し『悪人正機説』は法然のもので、親鸞は法然のそのように「おほせられた」言葉を忠実に継いでいったのであり、大正六年に真言宗醍醐三宝院の法蔵から発見された『法然上人伝記』即ち『醍醐本』には「善人尚以往生況悪人乎事 口傳有之」の言葉がありそれを親鸞が伝えたに過ぎないのだと述べている。これは増谷文雄や梅原猛等もその著書に書いていて、疑いようのない事実といえるのだが、「親鸞は師法然の教えを一歩すすめ、悪人正機の教えを説いた」と、一旦決めてしまった親鸞=悪人正機説を教科書すら訂正する気配がない。これは法然の教えを継いできたという浄土宗の側にも責任がある。即ち法然の思想を従来多くの期間を『善正悪傍』(罪人なをむまる、いかにいはんや善人をや)という思想により踏襲してきた過程もあるから。そんな背景もあってか、現代ですら三國連太郎著『親鸞に至る道』には「法然には〜親鸞ほどの深刻な自覚はおそらくなかったとさえ想像される〜」とあり法然の言葉として「罪人なを〜」、親鸞の言葉として「善人なを〜」を挙げている。親鸞を持ち上げるつもりで書いたのであろうが、「法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう」と述べた、法然を絶対的に信頼し尊敬していた親鸞に対しても失礼な話ではないか。法然自身の言葉で法然を批判するのは、悪の汚名を突然着せられたさまざまなケースの歴史上の人物に重なってくる。
 このように師の法然すら誤解の渦の中にあって、法然を継いだ浄土宗二祖の聖光房弁長もまた誤解の中にあると言える。悪正善傍は誤解や曲解を受けやすい思想であり、聖光は師のこの悪人正機説を誤解を受けにくい形で、師の言葉として残している。「故法然上人御房はもとどりもなき十悪の凡夫と身をなして助け給えと申してこそよけれと仰せられしが〜」(鎮西法語)など、繰り返し説いている。この聖光を法然の継承者とする『法然上人行状絵図』第二一巻には「上人給はく、口伝なくして浄土の法門を見るは往生の得分を見失うなり。〜わが身は最下の凡夫にて善人を勧め給へる文を見て卑下の心を起こして往生を不定に思ひて順次の往生を得ざるなり。しからば善人を勧め給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり〜」と従来から法然の伝える口伝「善人尚以往生況悪人乎事」の存在を示唆している。親鸞とはまた違った形で師法然の思想を継承しようとしたのである。
『歴史研究』五九〇号史談往来にも書かせていただいたが、私は親鸞と聖光とは、同じ法然門下として、比叡山で修行した経歴や、その思想の培われ方からも、むしろ共通部分が多いと感じている。親鸞が最も尊敬し彼の著書『唯信鈔』を書き写したほどの、その聖覚法印は、深広の法然房、浅広の宝地房と言われ、法然と共に比叡山の二大双璧と讃えられた宝地房証真に師事しており、聖覚は、兄弟子として法然より前七年間師事した聖光と昵懇の間柄であった。また聖光建立の浄土宗大本山善導寺に伝わる蓮生房即ち熊谷直実の聖光房への消息写しに見られるように蓮生房との交流も共通、さらに親鸞が法然に入門した一二〇一年(建仁元)から四年(元久元)までは共に法然の許で共に研鑽している。聖光、親鸞共に選択集付属を許されているが、昭和五六年、九州歴史資料館調査で善導寺に伝わる法然画像『鏡御影』の右側裏側に「元久二年二月十三日」の文字が赤外線照射により逆字で現れたが、これは親鸞に贈られた法然画像と共に二つ作られたものの一方の画像である。法然はこの二人の高弟に同時に二つの自画像を作らせて送ったものであろう。この画像には法然の消息と共に親鸞の消息も添えられていたのかもしれない。その後、この二人の代々の後継者の間で互いに反目があり、法然上行状図絵辺りでは全く親鸞が無視され、近代以降の歎異抄による親鸞ブームでは聖光が無視されてき、そんな歴史の連続が続いてきた。私は親鸞も親しみやすく身近に感じているが、聖光もまた「八万の法門は死の一字を説く。然らばすなはち死を忘れざれば八万の法門を自然に心得たるにてある也」(一言芳談)と、人の生きる意味を問う宗教の根本的な思想がにじみ出ていて親しみのある先達である。