本当の『法然共生』について
川添英一
 昨年亡くなった知恩院門主坪井俊映は、仏教大学時代一九八五年の『仏教文化研究第三〇号』(聖光上人特集)「法然門下における聖光上人の地位」という論文で、法然門下の弟子達の思想について触れ、法然の教えに「異義が続出したといわれるいるが、しかし門葉を立て、異義といわれる流派では、決して自流の説くところは法然のそれと異なった別義を説くものとは考えず、いずれも法然の教えを祖述し敷衍するものであるという自負の念をもっているのである」とし、法然に直接教えを受けた聖光、証空、長西、隆寛、親鸞など、そのすべてが自分は法然の教えを忠実に守り広めているのだという思想であるとしていると紹介している。その中で「聖光の考えは、宗派的な観点より種々批判するものもあるが、法然の念仏思想の忠実な伝承者ということができる」という結論で終わっているのは、浄土宗の碩学として当然の結末であるが、私はこの坪井俊映の論文の中の、法然の直接の弟子たちは、後世言われているように、本当にそんなに思想が異なっていたのであろうかと疑問に思っている。 親鸞がこのように言われたという『口伝抄』で、さんざんに聖光のことを書いた後「かの聖光房は最初に鸞上人の御引導によりて、黒谷の門下にのそめる人なり、末学これを知るべし」と記しているが、聖光の方が先に入門したことは明らかで、これを書いた覚如の創作であることが分かるのだが、このように後の世代で、これらの法然直弟子達を仲間割れさせるような営為が目立つのである。本当にこの直弟子達は仲が悪かったのであろうか。法然はその信頼する弟子の幾人かに、決して口外するなと言いながら選択集を書き写させている。「源空(略)露命定め難く今日死せんも知れず明日死せんも知れず故にこの書をもってひそかに汝に付属す外聞に及ぶことなかれ」と。この選択集を受けた弟子は「歓喜身に余り、随喜心に留まる。」(聖光)「これ専念正業の徳なり(略)よりて悲喜の涙を抑へて由来の縁を註す」(親鸞)と特別な気持ちで受け取っている。この選択集授受の事実をどこかで知っているであろう、自分の他に与えられたであろうと思うと、その直弟子を批判することはそのまま法然を批判することになる。法然を批判することはそのまま法然の認めた自分の身に降りかかることになる。
 今、浄土宗では法然上人八百年大遠忌を記念して『法然共生』を言っている。共生は「ともいき」と読むようだ。浄土宗のホームページを覗くと 「浄土宗で言う共生(ともいき)とは、単にこのいまの世での生きものとの共生ということだけではなく、もう一つ大切なことが含まれているのです。それは過去から未来へつながっている“いのち”との共生です。」とあり、この「法然の許に還る」といったニュアンスはなさそうである。しかし 「法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。」とまで言い法然の弟子であることに誇りを持っていた親鸞も浄土真宗宗祖に祭り上げられ、「法然を越えた」とか「法然の思想をさらに進めた」と言われているが、果たして親鸞の真意であろうか。悪人正機説が法然のものであることすら一般には弘められていない。私は最近まで浄土真宗本願寺派の信徒であり、仏壇の飾りの絵像が法然親鸞でなくなぜ親鸞蓮如なのか不満であった。「親鸞は弟子一人ももたずそうろう。」と敢然として述べた親鸞の意思は果たして現在生かされているのだろうかという思いを持っている。先に述べた法然の直弟子の聖光、証空、長西、隆寛、親鸞、そして熊谷直実蓮生房、聖覚法印など、法然の許で、法然の教えを熱心に聞き、議論を重ねながら研鑽していた仲間たちがせめて法然という巨星の許で仲良く共生していかなければならないのではないか。本当は仲が悪くはなかった、良かったのではないか、むしろ庇いあっていたのではないかという論拠は充分にある。私のライフワークの一つにしていきたい。
 浄土宗や浄土真宗に限らず、宗教については、たまたまその宗教の寺に生まれたとか信徒の家に生まれたからというので信徒になっている例がほとんどである。その研究についても然り、そういう宗派などが互いに争うのもおかしなことである。世界の戦争の根幹にこのような宗教の争いがあるのも見逃せないのかもしれない。日本で歴史上の人物になっている親鸞や法然等についてももう一度吟味していく必要はある。宗教については親鸞の兄弟子にあたり浄土宗二祖となった聖光の言葉「八万の法門は死の一字を説く。然らばすなはち、死を忘れざれば、八万の法門を自然に心得たるにてある也」(一言芳談)という言葉が、すべての宗教にも通ずることではないかと個人的には信じていて、そこから考える突破口があるのではないかと思っている。