雷に始まった突然の雨でグラウンドが水浸しになっている。三階の窓から見ると、その白い水の筋がまるで人体図の血管循環図のように目の前に広がっている。このまま雨が続くと、そのうちの大きな筋が本当の川となっていくのだろう。魯迅の『故郷』の、「真実とはあるものともないものとも言えない。それは地上の道のようなものである。歩く人が多くなるとそれが道になるのだ」といった最後の一節を思い出す。歴史の流れにも同じようなことが言えるのではないだろうか。
『一言芳談』は吉田兼好の『徒然草』に
よって紹介され、徒然草を語るには欠かせない素材となっている。評論の神様と言われた小林秀雄も『無常といふこと』の冒頭で、「或云(あるひといはく)、比叡の御社に、いつはりてかんなぎのまねしたるなま女房の‥」の一節を採り上げ、「これは、『一言芳談抄』のなかにある文で、読んだ時、いい文章だと心に残ったのであるが‥‥『一言芳談抄』は、恐らく兼好の愛読書の一つだったのであるが、この文を『徒然草』のうちに置いても少しも遜色はない。‥‥」と、徒然草を語るのに『一言芳談抄』を、まず紹介しているほどである。
 ここで、小林秀雄が語っているのが『一言芳談』でなく、『一言芳談抄』であることに注目したい。現在私たちが見ることの出来るのは、兼好の語った『一言芳談』ではなく『一言芳談抄』であり、芳談と芳談抄ではいくつかの差違が見られるのである。
 『徒然草』第九十八段に

尊きひじりの言ひ置きける事を書き付けて、一言芳談とかや名づけたる草子を見侍りしに、心に合ひて覚えし事ども。
一 しやせまし、せずやあらましと思ふ事は、おほやうは、せぬはよきなり。@
一 後世を思はん者は、糂汰瓶一つも持つまじきことなり。持経・本尊に至るまで、よき物を持つ、よしなき事なり。A
一 遁世者は、なきにことかけぬやうを計ひて過ぐる、最上のやうにてあるなり。B
一 上臈は下臈に成り、智者は愚者に成り、徳人は貧に成り、能ある人は無能に成るべきなり。C
一 仏道を願ふといふは、別の事なし。暇ある身になりて、世の事を心にかけぬを、第一の道とす。D
この外もありし事ども、覚えず。
と、一言芳談のことを紹介している。その細かい注釈をみると、五つ挙げている一言芳談の言葉をそれぞれ誰が言ったのかに、若干の差違がある。(挙げている言葉を便宜的に@〜Dの番号をふっておく。)ほぼ共通しているのは、Aでは二人の言葉が合わさっており、前半の「後世を思はん者は、糂汰瓶一つも持つまじきことなり。」が俊乗房の言葉、後半の「持経・本尊に至るまで、よき物を持つ、よしなき事なり。」は解脱上人の言葉である。ちなみに俊乗坊とは俊乗坊重源、あの東大寺大仏殿再建に活躍した僧侶であり、解脱上人とは貞慶のことで平治の乱で自害させられた信西すなわち藤原通憲の孫にあたる。Cは松蔭顕性房の言葉。Dは行仙房の言葉である点は『一言芳談』も『一言芳談抄』も同じであるが@とBとが違っている。@の「しやせまし、せずやあらましと思ふ事は、おほやうは、せぬはよきなり」では、「明遍の詞」(一言芳談)と「明禅法印の詞(ことば)」(一言芳談抄)とに分かれるのである。明遍とは、高野聖の祖の一人、高野山の僧で今でも『明遍杉』の名前が残っており、これも前述の信西こと藤原道憲の遺児の一人である。またBの「遁世者は、なきにことかけぬやうを計ひて過ぐる、最上のやうにてあるなり」は「聖光上人の詞」(一言芳談)と「敬仏房の詞」(一言芳談抄)とに分かれている。聖光上人とは聖光房弁長のことで、法然の後を継いで浄土宗(鎮西派)二祖となった僧のことである。昭和三十七年(1962)に田辺爵によって刊行された『徒然草諸注集成』によれば、「聖光上人の語による。」と注し、「山田、松尾説に敬仏房とあるのは、続群書類従本によられた修正ではあるまいか。旧注はすべて聖光上人となっている。」とあるがその直ぐ後に「盤斎抄」のことを書いているのは不可解である。「旧注はすべて聖光上人」ではなく、旧注の盤齋抄では「敬仏房」であるからである。盤斎抄とは加藤盤斎著の『徒然草抄』のことで、江戸初期の寛文元年(1661)に刊行されており、それ以前の寿命院抄(慶長六年1601秦宗巴著)、野槌(寛永元年1624林羅山著)、慰草(慶安五年1654松永貞徳跋)には、誰の言葉かという注釈はなく、それが書かれている最初は盤斎抄であり、「抄云、敬仏房のことバ也」と書かれ、一言芳談抄の内容である。そして、徒然草句解(寛文元年1665高階楊順)、徒然草文段抄(寛文七年1667北村季吟)、増補鉄槌(寛文九年1669山岡元隣)、徒然草大全(延宝五年1677高田宗賢)、徒然草参考(延宝六年1678恵空)、徒然草諸抄大成(貞享五年1688浅香山井)等では、『一言芳談』の内容になっている。
 この一言芳談について特に詳しく書かれてある徒然草句解の一部を紹介してみる。

尊き聖のいひ置きけることを書き付けて、一言芳談(いちごんほうだん)とかや名づけたる草紙を見侍りしに、◇一言芳談ハ上下に分て両巻とし今世に行ハる誰人の撰といふ事をしらず其こと短くして其理長せる明僧の語共をあつめたり今本書に合せ考ふるに爰に引きたるとハまヽ文字の相違評略有兼好が見たる一言芳談にハかく有たるや但そらに訳したれば覚えあやまりたるにやされど語意はかハる事なし今本書を引合わせ皆句解の處に書加へ侍る。心に會(あ)ひて覺えし事ども。
一 志やせまし。せずやあらましとおもふ事は。おほやうはせぬはよきなり◇本書の上巻に云明遍ノ云しやせましせでやあらましと覚ゆる程のことは大抵せぬがよきなり。
一 後世を思はん者は。糂汰瓶一つも持まじき事なり。持経。本尊にいたるまで。よきものをもつ。よしなき事也。◇本書の下巻に云俊乗坊ノ云後世を思はん者ハじんだがめ一つも持まじき物とこそ心得て候へ 解脱上人ノ曰出離に三障有、一には取持の愛物本尊持経等まで、二には身命を惜しむ、三には善知識の教にしたがハざる。
一 遁世者は。なきに事かけぬやうをはからひて過る。最上のやうにてあるなり。◇本書の上に云聖光上人ノ云ク遁世者ハ何事もなきに事かけぬやうを思ひつけふるまひつけるがよき也。
一 上臈は下臈になり。智者は愚者になり。徳人は貧になり。能ある人は無能になるべき也。◇本書の下巻に曰松蔭ノ顕性房ノ云ク昔ハ後世を思ふ者ハ上臈は下臈になり智者ハ愚者になり徳人ハ貧人になり能ある者ハ無能にこそ成しが今の人ハ是にたがへり。
一 佛道をねがふといふは別のことなし。いとまある身になりて世のことを心にかけぬを第一の道とす。この外も、ありし事ども、覺えず。◇本書の上巻に云行仙房ノ云唯仏道をねがふといふハ別にやみやみ敷ことなし隙ある身と成て道をさきとしてよの事に心をかけぬを第一の道とす。

 言葉の注釈や他の引例等多く省略したが、このように『一言芳談』の内容が詳しく書かれている。年代的には先の盤斎抄の後である。
松尾芭蕉の師でもある北村季吟の『徒然草文段抄』刊行はその二年後であるが、その序説の《一部のq》のなかに

 凡此抄に何の抄に云ともなきは皆愚意の了管にまかせし事ども也。其外寿命院の抄、野槌等の説を用る所は、寿云、野云など其名を始めにあらはし侍りぬ。踏雪抄の中にてももし用べき所あるには即其名をあらはせり。又踏雪抄にも出たれどもと師説に聞おきし事、且予が管見にも見置し事は、其名をあらはさで書たる事も少々侍り。凡諸抄の説をしるして次に愚意の趣を書たる所には、季吟云々と書て其しるしとせり。古説と管見とまぎれざらんため也。もし古語双紙などの詞をひき用る次に愚説を書たる所も又かくのごとし。

とある。踏雪とは加藤盤斎の僧名で、踏雪抄とは盤斎抄のことである。北村季吟は『徒然草文段抄』を執筆するにあたって、盤斎抄を読んでいることが分かる。そして『徒然草句解』についての記述がなく、季吟にとっては参考とする対象外になっていたようである。さらに、異説があって判断に迷うところには「季吟云」と、自分の考えを述べるとあり、誠実な研究態度が窺われる。例えば、徒然草第六段「わが身のやんごとなからんにも、まして数ならざらんにも子といふものなくてありなん‥」中「そめどのおとど」の註に、「寿云、太政大臣良房。御諡ハ忠仁公、野同」とあるが、その後に、季云と、自分の見解を示し、「染殿とは所の名也。拾芥に正親町北、京極西一町云々。ここにおはしけるゆゑ染殿のおとどと申す也。忠仁公は清和天皇の外祖父なれば文徳天皇の遺詔によりて摂政し給へり。御威勢高くおはしけれど御むすめ染殿の后一人にて御嫡男なかりし故、御兄弟長良卿の御子、基経を養子にし給へり。基経、謚を昭宣公と申して御子孫繁栄ましましけれど是は御養子にてこそあれ、まことの御子孫はおはしまさぬなり。末のおくれ給へるはわろき。此の詞にて此段、偏に子孫なきことを願へといふにあらず。先祖よりおくれんよりはただ子なからんにはしかじとの心しられたり。」と兼好の、子孫など作らぬ方が良いという言葉を牽制しているがごとくの見解を示している。そういう前提でこの徒然草第九十八段の五つの言葉について文段抄を読むと、

@是明遍の詞也。(以下略)A是芳談にては。俊乗坊の詞也。‥‥是より芳談には解脱上人の詞のうちにあり。‥‥B芳談には。聖光上人の詞也。‥‥C是芳談には。松蔭顕性房の詞也。‥‥D芳談には。行仙房の詞也。‥‥

と、『一言芳談抄』ではなく『一言芳談』の内容となっている。「芳談には」とあり、「季吟云」ではないので、『一言芳談』にこう記されているということである。
このようなことからも、北村季吟等の生きていた江戸時代前期には『一言芳談』の原文が(たぶん写本で)存在し、市中には『一言芳談抄』と共に流布していたと考えられるのである。
 現存する『一言芳談抄』には大きく二種類のものがある。続群書類従にある『一言芳談』や『一言芳談抄』(慶安元年一六四八林甚右衛門刊本)に見られる「有云。恵心僧都、伊勢太神宮へまいりて‥」で始まり二巻に分けたものと、『標迹摯竏鼬セ芳談鈔』(元禄二年一六八九報恩寺湛澄著)に見られるように「明遍僧都云、穢土の事は‥」で始まり、三巻に分けて一(三資・清素・師友・無常)二(念死・臨終・念仏・安心)三(学問・用心)と分類されたものとがある。
 後者の分類による部立てはよく理解できるし、書かれている言葉が分散されているのもよく分かる。しかし、前者の抄の順番には不自然な並び方が多すぎるのである。角川文庫『一言芳談』(梁瀬一雄訳注昭和四十五年刊)には順番に番号を振ってその目次を載せているが、いかにもその配列がバラバラな感じがする。例えば「一言芳談抄巻之下」の一部を抽出すると

一二五 法然上人、常の御詞に
一二六 又、いはく、あの阿波介が念仏も
一二七 又、いはく、十声、一声等の釈は
一二八 ある人、明遍に問うて、いはく、    学問の程
一二九 聖光上人いはく、弁阿は、助け    給へ、阿弥陀仏
一三○ 又、いはく、故上人宣ひしは、    往生の爲に
一三一 信空上人、問うて、いはく
一三二 然阿上人いはく、三心を具せざ    る者も
一三三 又、いはく、凡そ、浄土宗の元意
一三四 聖光上人いはく、凡夫は、歴縁・    対境の名刹をば
一三五 法然上人、御往生の後、三井寺    の住心房に
一三六 然阿上人いはく、別時まではな    くとも
といった具合である。この後も一三九に「法然上人いはく‥」一四二に「然阿上人いはく‥」と続く。原本の『一言芳談』をいかにも、作者の意のままにバラバラに抽出したという感じが否めないのである。その時、「又いはく‥」を他の人の言葉の次に置くということが起きたのではないだろうか。この『一言芳談抄』を後に部立て別に並べ替えて整理されたのが『標迹摯竏鼬セ芳談鈔』であろう。
『徒然草』にはこの第九十八段の他に、第三十九段、法然上人の言葉「又往生は一定とおもへば一定。」に
 一言芳談云。法然上人のいはく。往生は決定とおもへば定て生る。不定とおもへば不定なり云云。これにて兼好もかけるなるべし。〔徒然草文段抄〕
また第四十九段の「心戒といひける」のところで
踏雪抄云。一言芳談云。心戒上人つねに蹲踞し給ふ。ある人其故をとひければ。三界六道には心やすくしりさしすへてゐるべき所なき故也と云云。〔徒然草文段抄〕
と、踏雪抄と共に一言芳談を引例している箇所があり、徒然草文段抄の著者の北村季吟は『一言芳談抄』を元に注釈した加藤盤斎の『徒然草抄』(盤斎抄、踏雪抄)を読んでおり、又、三十九段では法然上人についての注釈を「法然上人。野槌云、源空也。‥‥」と、自分が実際に読んだ書物の『野槌』を挙げて説明している。このような事例からも、季吟は実際に『一言芳談』の原本を読んでいたとしか考えられないのである。
明治以降も、様々な人が徒然草の注釈書を刊行したが、北村季吟等の古注の『一言芳談』の内容と、現存する『一言芳談抄』の内容のものとが交錯している。俳聖松尾芭蕉の師でもあり、『土佐日記抄』『源氏物語湖月抄』『枕草子春曙抄』など日本の叙情の原型を作り上げたとも言える偉大な先人、北村季吟の影響が大きいのではないかと思われる。私が最初にこのことに気付く切っ掛けとなったのは岩波文庫の『徒然草』(昭和三年一九二八、一九八五年改訂版)であり、第九十八段の遁世者はの注釈には「聖光上人もしくは敬仏房の語。」とあった。最近での注釈は、一言芳談抄の内容に傾いていっているようであり、一言芳談抄も『一言芳談』と名前を変えてきている状況であり、この一言芳談の謎について、今まではっきりとは誰も言及したことはなかったようである。兼好の愛読した『一言芳談』は、それを抜粋して刊行した『一言芳談抄』が現存する形となり、江戸初期にはその二つの注釈が存在したが、木版により広まった抄のみとなりつつあり、『一言芳談抄』そのものが『一言芳談』になってきている。しかし、いつか『一言芳談』の原本(芳談抄のような木版でなく写本であろう)が発見されて、改めて季吟等の古注の正確さが証明されることを期待したいものである。
一旦、人によって変えられた歴史は、なかなか元には戻らぬものである。奥の細道に「壺碑(つぼのいしぶみ)」として描かれた『多賀城碑』の存在も、徒然草に描かれた『ぼろ塚』の所在地も、明治以降に突然変えられて、最近になってまた再認識されるということがなされてきた。古注など、先人の残したものが無惨にも無視され、消されていく事象も決して少なくはない。この物の多い時代、次々に処分され、消されていくなか、歴史の貴重な遺産や精神まで巻き込んでほしくはない。一言芳談の謎もそんな事象の一つとして、考察の対象としていただきたい。(了)

筆者紹介=かわぞえ えいいち
62歳。茨木市立東雲中学校教諭(再任用)。大阪府高槻市在住。