浄土宗で法然の後を継いで二祖となった聖光房弁長(1162〜1238)は鎮西上人とも呼ばれ、九州を代表する人物の一人であるが、彼の辿った跡が地名として残っていくのは圧倒的に法然と出会う前であり、浄土宗二祖としての聖光より、その修行のすさまじさや彼の与えた影響の強さなど、さながら弘法大師空海を思わせるものがあり、それが地名として残っている。
彼は十代の頃、霊峰英彦山に千日参りをするという願をかけ、九里も離れた明星寺(飯塚市)から今でいう千日回峰のような行を欠かさず行った。一回参るごとに松の木を一本ずつ植えて行の日数を数えたことから、後に日数原と呼ばれる松原が出来、彼岸原という地名になって残っている。その行は往路九里、復路九里の計十八里に併せて海抜千二百bの頂上までの登り下りの繰り返しなので未明より夜遅くまでほとんど走り詰めの行、そのため決まった時刻に白い衣の怪しい獣が走るという噂が立ち、その獣を退治しようと鯰田城主葦ケ谷右京が矢を射かけ、法衣の袖に当たり「ああ寿命めでたし。まさしく神明仏陀の御加護であろう」と聖光上人が驚きながらも喜び、城主は懺謝罪したということから、天道の地に寿命、中矢(中屋)などの地名が出来ている。また違う民話では鯰田城主ではなく、草むらでじっと待ち構えていた若者たちが、上人が通り過ぎるのを待って背後から次々と弓で射かけたが、不思議なことに勢いよく飛んでいた矢が、上人のすぐ後ろで一本残らず地面に落ちてしまったと伝えられている。また、同じく福岡県穂波町にある大将陣山には、山の水が枯れて困っているという村人に、上人が杖を立てて引き抜くと、杖を抜いた跡からこんこんと清水が湧き出てきたという「聖光上人杖立の池」があり、この話はほとんど弘法大師伝説と見紛うばかりのものとなっている。
彼は、その後比叡山で法然と並び称された寶地房証真の許に学び下山後、油山学頭にまで登り詰めるが、若い頃に修行した明星寺を再建しようとし、その五重塔本尊の仏像を仏師康慶(慶派の祖、運慶の父)に依頼するべく再京したのが縁で、法然に出会うことになるが、この明星寺にまつわる地名にも面白いいわれがある。
木屋瀬は長崎街道の宿場でもあり遠賀川沿いにある。聖光が明星寺を再興されたとき豊後臼杵家より材木の寄付があったという。その材木を船に乗せ芦屋川から上らせてここに小屋を懸けて保管したと伝えられている、それより木屋瀬と呼ばれたという。木屋瀬の近くに聖光の生誕の地香月があり、吉祥寺が二祖誕生寺として藤の寺として地域の信仰を集め、花の風物詩の拠り所の一つとなっている。ちなみに聖光は香月城主秀則の弟則茂の子であり、『吾妻鏡』にその武勇の記されている勝木則宗は秀則の子、聖光と則宗は従兄弟の間柄になる。
聖光は建久七年(1196)に京都四条綾小路に仏師康慶を訪ねたが、仏像が出来上がるまでの数ヶ月、康慶の家の離れの小庵で待つ。その間に法然を訪ね、そのまま法然に心酔することになる。現在知恩院のある若水の法然の許に通ったその小庵は今は聖光寺として四条河原町藤井大丸の横の筋に現存している。翌年、法然の勧めもあって一旦完成した仏像を持って明星寺に帰っている。「帰りて仏像を塔に安置し供養の儀を遂ぐ」(聖光上人伝)とあるが、『鎮西聖光上人香月系譜』にはさらに「明星寺の塔成就供養の日、その飯(いい)塚の如し。此の所を飯塚と名づく」と書かれている。飯塚の名の由来がこの聖光の修行した寺の明星寺に関わるものであり、今は元首相の麻生太郎の地元として知られている。飯塚市のHPによれば飯塚の地名の由来については神功皇后にまつわる「いつか〜」が飯塚になったいう別の説もあるということである。
聖光房弁長との関わりから、最後は飯塚の地名の由来について述べたが、四十二の僧坊を持っていたという明星寺も今は小さな御堂を残すばかりのものになっている。五重塔は既になく、従って康慶作の仏像もない。聖光の活動も善導寺中心となり、浄土宗二祖として法然の信仰を継いでいくこととなり、弘法大師を彷彿とさせていた法然以前の聖光は影を薄めていくことになる。康慶の小庵から法然の許に通った聖光もその造仏の営為は雑行として、本来の信仰から外れたものとみなされることになってしまった。吉祥寺秘仏の腹帯阿弥陀仏像は彼の自ら彫ったもので康慶の弟子の運慶、快慶にも比肩されてよいものであるが、浄土宗二祖としての彼の存在がそれを薄くしている。地名にまつわる聖光房弁長からいろんなことを考えてしまった。