「お師匠様、『選択本願念仏集』の書写をお許し頂き、この綽空、身に余る幸せ、何と申してよいか分かりませぬ。」「綽空よ、この教えを絶やさずに精進して欲しい。今は月輪殿(藤原兼実)も既に失脚なさり、わしの命もそう長くないかもしれぬ。念仏に対する世間の動きにも厳しいものがある。寿命通りにはいかぬことになるやもしれぬ。おぬしら若い力で念仏をどうか絶やさないで欲しいのじゃ。」「お師匠様、先に鎮西にお帰りになられた弁阿様にもこの選択集の書写を許されたのでしょうか。」「綽空、このようなことは決して口外せぬようにと申したばかりではないか。おぬしの言うように、弁阿には既に書写を許しておる。ゆめゆめこのようなことを外で申すでないぞ。もしものことがあっては、弁阿に災いが降りかかるかもしれないからのぅ。」「お師匠様、もちろん口外などいたしませぬ。お師匠様にもしものことがあれば、この綽空、命に代えてもお師匠様をお守りいたす所存でいますので‥。私もいろいろと世間では言われているようですし、私も‥」と綽空、つまり後の親鸞は先ほどから言いかねていた事を一気に源空に向かって吐き出した。「お師匠様、お願いがあります。弁阿様にお師匠様の御影をお送りしたいのです。私はお師匠様の身近におりますのでいいのですが、遠く異国にある弁阿様には心強いものとなると存じます。お教えのみが全てで、お師匠様の御影を写した絵を頼りにすることなど雑行であることは、百も承知ですが、今、お師匠様のお姿を拝しながら励んでいる我らは、お師匠様と地獄にすらお供できるほど心強いものがあるのです。どうか弁阿さまにお師匠様のお姿を送らせて下さいませ。」綽空にも、師の源空がこの世からいなくなってしまう不安が膨らむようになり、源空の御影が欲しいという思いをもっていたのが、こういう申し出になってしまった。「私はいいのですが‥」など、心にもない取り繕いの言葉であった。「そうじゃのう。弁阿にわしの姿をのぅ。」源空は微笑をもって、綽空の申し出に応えた。九州男児という言葉があるが、弁阿はまっすぐな男だ。共に源空の許で修行していた親鸞にもそのことはよく分かっている。仏師康慶の別宅から若水にある源空の許へ通った弁阿は造仏についても抜群の技量を持っていた。そんなことはおくびにも出さずに源空、つまり法然に仕えて、ひたすら念仏を唱えていた。親鸞にとって、聖覚法印と弁阿、つまり聖光坊弁長こそが最も信頼できる先達であった。
 親鸞は、著書『顕浄土真実教行証文類』の『第六・化身土文類』のなかで、元久二年(1205)法然上人から選択集の書写を許可されたこと、同じ年の4月14日、書写したものに『選択本願念仏集』という題名と「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」という副題と釈綽空という名前を法然自らが書いてくれたこと、上人の御真影(肖像画)をお借りすることができ、描かせていただいたこと。その年の閏(うるう)7月29日、描いた肖像画に上人が直筆で「南無阿陀仏」の名号と「若我成仏十方衆生 称我名号下至十声 若不生者不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生」 (もしわれ成仏せんに、十方の衆生、我が名号を称せん。下十声に至るまで、もし生まれずば正覚を取らじ。彼の仏いま現にましまして成仏したまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すれば、必ず往生を得。)という善導大師の『往生礼讃』の言葉を書かれたことなどを記している。
しかし、この御真影の経緯については不自然なものを感じざるを得ないものがあった。選択集の書写という教えの継承については充分理解出来るが、現にいる法然を目の前にして、雑行の象徴とも誤解されかねず、その死後をも想定するような御真影については言い出しにくいものだからである。
 昭和五六年、九州歴史資料館調査で弁長の建てた善導寺に伝わる法然画像『鏡御影』の右側裏側に「元久二年二月十三日」の文字が赤外線照射により逆字で現れた。これは親鸞が選択集の書写を許された頃とほぼ同時期であり、やや親鸞よりも早い時期になっている。遠く九州の地にある聖光坊弁長への消息等は自然の流れでもあるし、親鸞への御真影の贈与がごく自然になるための布石ではなかったか。法然にとって、この二人は最も信頼できる高弟であったし、親鸞の頼みを快く引き受けたのであろう。かくて聖光坊弁長は浄土宗二祖となり、親鸞は浄土真宗の始祖となって、共に法然の教えを継承していくことになる。