流氷記抄
神さびてにわかに明るき海となる夜明け岐羅比良坂下りつつ
霧ふきて落ち葉しぐるる谷合いににわか雨降るわが涙かも
失いし愛のごとくにひそやかに枯れ葉ひとひらふるわせて落つ
山あれば人天に向く阿寒富士雌阿寒岳と並びて聳ゆ
藻琴山涌水より来し網走の水はころころのどしみとおる
網走に来て網走と書くようやくに流刑にとらわれいし心より
刑務所も二つ岩海岸も校区にて網走二中声太き子ら
堅雪は氷となりて我ばかり滑りて転ぶ街角のあり
雪の町夕暮れどきは人絶えて電信柱の連なりており
電線に鴉連なる雪道を幼き一人とぼとぼと行く
魚のごとかすかに口の動く見ゆ凍りたる夜の電話ボックス
控えめに明るき窓か鉄筋の囚人監舎のたそがれてゆく
ストーブの内側たやすくさらされて炎の上に石炭をつぐ
わが校舎に垂れし氷柱の重みにてトタン擦りつつ雪落ちんとす
雪明り青く注げる放課後の長き廊下をぎしぎしと行く
雪の上鮮やかなればさらされて生ゴミ鴉が群がりており
我が帰るたびに出でくる猫ありて彼も孤独の目を輝かす
やがて冬されど彼らのかぐわしき学校祭の歌声ひびく
十月になればストーブたく夜は寒くなるわが心を燃やせ
滞まりて僻地教師となる姿わが眼裏に執念く残る
魯迅作『故郷』音読幾度も十月異郷に年重ねつつ
潮干きてだんだら残る砂浜に白き鳥わが心をつつく
直視して生くべしと思いて見る鏡ひきつりそうな笑いに向かう
網走の港と町とを見下ろせる岐羅比良坂より我は帰りき
雪積みて険しき崖のひとところアイヌひそみし洞窟のあり
雲海の如く湯気立つ雪原の紫だちたる日暮れ帰り来
ゆっくりと秘かに町の上昇す真白き羽毛降らせつつおり
キタキツネ歩みしのみの流氷原その下にして育つ魚あり
細胞のつながり我も流氷のひとつひとつを踏みしめて行く
表面は平らなれども雪踏めばわずかへこみし流氷のあり
黒ずみし薄き氷が海の目のごとくまともに我が前にあり
手のごとく指のごとくに天に向き流氷逆立つ一群がある
踏むたびに我が足音の響くらし崩れつつ立つ流氷の見ゆ
流氷がひずみのごとく盛り上がる思えば余剰の地に人は住む
流氷に巨大に咲きし青き花輝きにつつ開きゆく海
流氷の間にまに生きしささら波海生き生きと輝かせおり
緑葉樹繁りし崖も細き木木まばらに刺さる雪景となる
校庭の雪はねあげし折々に黒きポプラの枝天に満つ
冬の滝我が前にして凍りたりここまで逃げ来しわれにあらねど
流氷が津波のごとく近づくを能取岬の果てにみている
海に消え海に生れし流氷の叫ぶがごとく岸に迫り来
流氷をめぐりて飛べる海鳥よ曇りてあれば響きつつ鳴く
遠がなしく響くキツネの叫び声真夜流氷の海をみている
流氷原鋭く裂けて青々し潮の香のして海ひろがりぬ
流氷よ海に還れよ網走にこのままいては戻れなくなる
凍死などしているなかれ夜をこめて家出の生徒捜しつつおり
校庭のスケートリンクに積みし雪ごみのごとくに日々払いゆく
雲母雪まといて走る風のむた集団下校は黙しつつゆく
唐突に苛立ちやすき吹雪にてわが煙筒の笛吹きている
次々と窓たたきつつこびりつく雪より熱く燃えて生きたし
滝のごと吹雪きて視野はひたひたとわが空洞を浸しつつおり
雪積める校庭に並びいるポプラ見上ぐる外なく人天に向く
流氷が去れば春来る網走を思いつつ見るむら雲の空
百舌の置きし獣のようにアンテナに膨らみながら陽がとどまりぬ
冬薔薇は乳首のごとくやわらかき棘つけて今日の雨に打たるる
頭だけ少し動きて静かなる冬田に憩う鳩の群れあり
沈みゆく心抑えしわが前に寒雲の群れ移動しつづく
人去りて星の光を集めいる夜のリフトの鉄のかがやき
夜の斜面乾ける雪を踏みゆきてけものの声をわれは放てり
紫の少しまじりし空にして輝く光をまとう朝空
顔上げぬままの生徒を気にとめて授業の声のつまりゆくなり
大人になる前のきざしか女生徒のくくくと笑い笑いつづくも
網走先生アバちゃんなどと生徒言い我が網走も明るくなりぬ
網走の吹雪の話して帰る我になまぬるき冬過ぎて行く
連結を離れしホース炎天に放り出されて水吐きており
一人居はカメラのごとく移動して部屋には我の視野のみがある
わが心明るまぬ日よ幻に美幌峠の風の中におり
わが心抑えつつ見る屋上に旗はためけり生きも帰りも
マンションの部屋に眠れるわがめぐりガス水道の管ばかりにて
わが部屋に夜更け近づく足音す訪いくる人のなしと思うに
目的もなく歩み来たれば総持寺の水子地蔵に人集まりぬ
風吹きて散るにもあらず曼珠沙華緑にまぎれゆく立ちしまま
わが前に色ボールペン散らばりぬ終日去らぬかなしみを持ち
地下街にたゆたいながら人の群れこのまま死まで移動しつづく
犬の顔雨に打たれて横たわる骸あり夜を帰る路上に
わが前に見よとぞ白きくしゃくしゃの紙のかたまり立ち上がりゆく
冬の光よどめる部屋に一人いて水母のごとくさらされて居り
今日一日己ればかりを愛しみし我をみつめてわが顔がある
朝霧は視野を閉ざして我が裡の苦しかりにし過去よみがえる
グラウンドに朝の霧満ちサッカーをする生徒らが見え隠れする
生徒らに網走先生と呼ばれいるようやく席の定まるらしき
刑務所より逃げて来しごと言われいる我は勝者のごとくふるまい
竜の玉ひそかに群るる坂道をふぐりの冷えし犬が過ぎゆく
わが心わが体さえむさぼりぬ思い出という生き物がいて
風のむた歩めば夜の校庭にメタセコイヤの裸木揺れる
わが裡に荒れゆく部分持ちながら荒れゆく生徒に対処しており
「邪魔くさい」「イライラする」を繰り返し崩壊してゆく生徒の群れあり
だぶだぶのズボンはきいて遅刻する彼に構わぬまま授業せり
対教師暴力破壊盗みなどしたい放題して出てゆくのか
燃ゆることの少なくなりて生きゆくかコーヒーカップのかがやき鈍し
訳もなく憤りのみこみ上ぐる夕方駅を出でてしばらく
このままでいいのかなどとたそがれてゆく遠山を見つつ帰りぬ
わが倒れ込まんばかりに街並を夕べより夜の丘にみている
幾列も並ぶ明るさ家族群暮らす窓みゆ夜の電車より
どのように生きてゆくのかわからねど幸せと思おうどの場面でも
口中の苦くなりつついる会議折りおりにして哄笑の涌く
唐突の事故の記事見て慰める我がままならぬ時のたまゆら
キツツキのごとくに軽き音たてて玉葱刻む独りの夜を
海鳴りのごとくに聞こゆ子供らの遊ぶ声にて目を覚ますとき
耳も目も内に向かいて複雑な階下りゆく眠りに入れば
タンポポの黄の数増えて歩みゆく今かなしみなぞどこにもないぞ
すみれ咲く川土手ありしと車にて帰りし後に色ひろがりぬ
夜の車下萌え踏みてやわらかき土の匂いにさらされて立つ
新しき学年なれば緊張の顔あり窓辺に黄梅の咲く
アスファルトうねりのごとく続く道雨に煙りて山茱萸の花
ネコヤナギ川より伸びて鮮やかに涙のごときあまたかすみぬ
駅前にけじめもなく家群がりてためらいにつつ電車が停まる
反応の乏しきときを指摘さるる我には聞こえぬ言葉がありぬ
葦の原見え隠れせし鴉一羽帰りて後もしばらく残る
吹き来たる春風のなかイヌフグリ激しく揺れる畦の一隅
煙草吸いて集うと連絡ありて来し小公園には人影もなし
さまざまな人の名前の詰まりいる新聞読みて今日も終りぬ
ああ鳥よ魚よ我は一日を地を這うのみに過ごして帰る
電車より吐き出され階下りゆく人群れ誰も誰も黙りぬ
人けなき深夜の桜照らされてひびくがごとし静けさのなか
夜といえど杉大木の影に入るわが存在のなくなるしばし
わが体吹き抜けてゆく風ありてときに独りに耐え難くなる
時過ぎてゆく恐怖さえ薄らぎてただ足伸ばしたくて眠りぬ
家に居れば金出せ出せと言うがごと勧誘チラシばかり訪いきぬ
湖の上をたばしる風ありて髪揺れやすき君さらいきぬ
かすかなる光となりて湖の上吹き抜けてゆく風のあり
夕さればひぐらし来鳴くひとむれの杉の香のたつ風の中にあり
君待ちて我が座りいる夜の広場まわりの石は露に濡れつつ
火のごとく高速道路に沿いて咲く夾竹桃よりとびたつ烏
地に落ちた時に花咲く雨の華 こらえきれずに来る君を待つ
眠られぬ夜の明けぬればわが頭蓋明るき雨の音満ちわたる
我もまた輝く風となりていん尾花が原に今日も来ている
夕方になればますます緊まりゆく若狭の海の山の間に見ゆ
死後渡る道のごとくに平らにてただに明るき海展けおり
にわか降る篠突く雨に電柱の黒く重たくそぼ濡れて見ゆ
篠突く雨《死の付く雨》と表われてワープロ何を考えている
カーブ切る時にいきなりなだれ来る海は光の粒あつめいて
うつせみの君をいぶせみ焦がれ待つ己が体を夕日が透きてゆく
雨やみて生きる外なしあしひきの山襞までも鮮やかに見ゆ
目つむれば明るき涙は惑星となりて視界にはだかりて見ゆ
歯科医にて麻酔かけられ横たわる死体のごときわが意識あり
煩わしき職場なれども折々に無垢なる生徒の心に触るる
苦しみて目覚めし朝に軽やかに尾を振りて飛ぶまだら鳥あり
千代の富士千秋楽に尻餅をつきてかくして昭和終わりぬ
歌作るこころにひそみいるらしきかなしみまとい生きゆく我か
雲の縁光りて徐々に移動する今朝春なのに冬より寒し
口のなか二度まで噛みて憂鬱な春の曇りの午後はじまりぬ
明日待ちて共に眠りぬ店頭の魚の屍体と浅蜊の群れと
寒雲の低く豊かに流れゆくひねもす心鎮まらぬまま
寒天のように光が置かれいる冬の日白き部屋に我がいる
明かりつけテレビのスイッチ入れながらたまらなくなる我が不在あり
ヘルメット戦士のような若者がピザ宅配して笑顔ふりまく
蛍光灯点くまでの間にため息をひとつつく我が癖のひとつか
修学旅行随行五首(白馬・立山)
眼前に叫びも声もかすかにてリフトは霧の冥路を下る
空しさと華やかさとが一瞬に跳び魚のごとジャンプ飛び立つ
たちまちに捕らわれ焼かれ食べられる鱒いきいきと生きていたのに
流氷のごと雲海ははるかにて立山聳ゆ我らが頭上に
降り置ける雪をまといて立山は天の真青に透きて聳ゆも
網走二中の頃