田中榮歌集
      『水明』

昭和四十八年
紀の川
水上はなお霧らいつつ紀の川の川筋立てて流れくる見ゆ
病む足を曳きてわが来し青葦原闇を孕みてうねりうねれる
紀の川の岸辺の水泡相寄りて川より明るし風に吹かれつつ
黄のにごり鎮まりがたき紀の川をながく覗けり犬のごとくに
夏雲の下濁りくる紀の川は青き藻流す千切れちぎれて
紀の川の岸べに低く住みつきて少し干したる棕梠刷毛の束
若き祖父故郷出んとしてここ越えき雨ふる紀の川河明りして
週末
駅出でてエスカレーターに降り居り週末のわが眼しょぼしょぼとして
寂かなる午後を歩み来し路地の上に覆いとりいる霊柩車あり
芝のうえ渡る衰えし雄蟋蟀いつまでも見えてふく風の中
北風のなかに葉を捲きこもる虫われと照りつつ夕暮となる
かわきたる葉の上に鳴きいし雨蛙かすかに月のかがやきを帯ぶ
白雲の多くなる月見ていたり職辞めん嘆きしずまるわれは
朝々のビルの蔭にてバス待つと義肢のひかりて少年ら来つ
義妹逝く
西空に風灼けしたる繊き月黒髪の汝を葬りきて見つ
玄関の三和土にタイプ打ち居りて言いし嘆きもいましずまりぬ
背信に耐えてバルコンに子の尿をさせいしが見ゆ世に亡きものを
近づかぬ子らの中にいて死の床に史記を読みいし心を思う
植えおきて汝は逝きたりガーベラのひとつ咲く朱に冬の日のさす
昭和四十九年
新しき山
街のなかに成りし新しき山ありて人去れば立木寒ざむと見ゆ
月光に本疎の萩の花失せて何にさまよう冷えとおるまで
照る月の暗き田の面に動くもの稲刈るひとり白犬といる
冬涸れし池の底ひに海猫の群れいて予感のごとく光れり
北の空きょうも澄みつつ暮れながら釦垂れたる上衣を吊す
わが命ぜし仕事苦にしつつ逝きたりし人思わしむ雪明りして
勧告に応ぜず勧めし幾年か踊り場に朝々息しずむる見き
日の没りに縁輝ける雲一片それのみを心に描きてねむる
恙ありて
怯えつつありし日の暮紫陽花の花から焚けば炎は澄みつ
病みたれば磯に棄てらるは己とも思い読みつぐ巡礼行記
病みつつも永く生きたし夕空に背のびをなしてものを干す妻
絶望をよそおいて人を嘆かしめ白じらと幾年過ぎて来にけり
雪の上に傾く一木雪つみてゆく枝々が闇に見えくる
萌え出でて水をはなれぬ睡蓮に少し日のさし暮れてゆきけり
癌病むと疑わるる日こもりいて仕事をすれば小さきよろこび
残業
ペン投げて職を辞めんと言う一人見つめていたり残業の灯に
残業にて濁る頭かと思うとき燕の巣より雀が覗く
相ともに残業に励みし五十日若きはついに心通わず
来る日々も電話に責めらるる中にいて見て居き遠く光る埋立地
戦争の中にて今より自由なる時間ありしかと思うおどろき
人去りし事務所寂かにてねんごろに便器を磨く老ひとり居り
退職
生き難き心まどえば夜半灯し赤彦の年譜読みて寝んとす
官去るとたゆたう心よかの杜甫は猿の余せし団栗食いき
山に入る道に白じろ照れる日を苦しみ持ちて我は見ており
ひかり来る労働はついにあらざりき狭き己の範囲守りて
わが腕に見ゆる爪あと黒ずみぬ争いしあとの心より早く
わが退職さまざまに誤解されいるを怯えつつきき帰り来りぬ
汗垂りて己悔しみ臥る午後ひと弔いに出でゆかんとす
奥谷漠君追憶
生きまどう我を励ます君なれば血を吐く身にも長しと思いき

老たすけ石を運べる声すなりわが臥す外の秋雨の中
庭に出て遊ぶ小蛇を見たるのみ人の声なき一日を臥しぬ
買い得たる台記よろこびて電話くるる友も久しく失業をせり
街追わるる毛物にも似て濁り波暑き日に照る川を見て居り
大川の流れの上をとびゆきて川の半ばに返す甲虫あり
コンサート始まる前の警官に笛習いおり濠の辺にして
一日
カタカナを一日書きつづけ指痛む仕事絶ゆるを思うにもあらず
世に処して聡明なる友ら思いつつ一日人の名の分類をせり
仕事なき今に思えり労働に飼い狎らされしい心の昏さ
職替えて不幸になりし例いくつ思い歩めり砂利道の雨
時雨の中みずから光もつごとき紫苑ひとむらに我は近づく
海・砂丘
桶ひとつ寒潮に浮かべ栄螺とる潮北すれば北へ流れて
波の退くときに鳴る砂利きこえいて流木の上に二人やすらう
冬海に待つ何もなしおもむろに光の柱北へ移りぬ
こころ又急かれつつ登る岬の道紅きわまる黄櫨一木あり
雪附けぬこの崎荒き波寄せて抗うごとく鴉がひとついる
海の辺の風と光にゆきゆきて一日もの言わぬ唇かわきたり
砂丘にいまだ芽ぶかぬアカシア群海よりただに横しぐれせり
砂丘のうえ海よりただに吹かれきて砂の嵐に呼び交う鴎
砂丘のうえ砂の移動のつづく音ひびきいて昏き時のすぎゆき
残雪
曇りひらく風ともつかず過ぎながら枯芝は一日澄む水湛う
馬酔木の花ふふむ葉叢にのこる雪半ば透きつつ夕暮となる
衰えし眼にて数字を書く一日残雪をふく風ひびくなり
冬田の上に放られしままの耕耘機つねに鋭きものひびき過ぐ
月蝕をなかにして冴ゆる月光の夜ごろを経つつ心衰う
歩く
空打ちて落ちくる噴水にさわぐ水見ていたりしが又歩みゆく
大樟の下の落葉の黄に照りて人を拒めり雨の一日を
軍鶏の宙に蹴り合うを見ていたりながく歩み来し雨の日の暮
職去りしわれに今年の花馬酔木房多くして輝きを見す
職退きし我と知りたる友二人なぐさめ元気となりて去りたり
つれづれのかかる寂しさ室におく鯨の男根に陽がさして居り
じしばり
断たれたる棚の藤波いろ濃くて寄る虫もなし雨ふりしきる
職去りて迷いつつ来し一年か乾く土よりじしばりを抜く
わが庭にそそげるひかり睡蓮の水の上にきて死ねる蜂あり
夜の外に通ずるは黒き電話にて働く妻のかなしみが来る
年ながく勤むる妻思う掃きてゆく塵の中にて針光るとき
貧に耐え生きゆく様を人見るなわれは廻らす葱の鉾立ち
遠きひかり
さまざまに草紅葉して濡るる道従きくる糠蚊も今日は厭わず
きこゆるは小学の友の直き声ひねもすにして舗装路を測る
花終えし楡の大木に雨ふりて幹しずくせり野の中にして
遠くより来るひかりにて花浮かぶ紫苑あり夜のしぐれそそぎて
歌会前はやきて庭土見つめいし癌手術後の君思い出づ
火力発電所
高層の鉄骨照る中ひと時を胡蝶群過ぐ海へむかいて
油槽いくつ霧にしずまる道に会う人にはあらず芳香族の香
われよりも汚るる空気吸える木か銀杏の若木伸ぶひょろひょろと
補償金渡る側よりくずれゆきはやたのめなし個人の良心
敵側にころびしを明せと迫る中しずかなり闘いを経て来し友は
分裂する公害闘争に苛立ちきゆうべ血のいろにともす煙突
欠けてゆく原告団よ裁判のすみし靴音きき帰りゆく

昭和五十一年(一九七六)
新墾
二人して二人食うもの植えゆくに海よりの雪しばしばにくる
地の上に出でし蟇吹かれおり塵芥かむる眼たえず潤みて
冬畑に刈草焼きて火を守る妻若わかし火に映るたまゆら
いつもくる鶫水飲み去りたれば又起ちて新墾の笹根を拾う
冬ぐもる日暮充ちくる鳥の声待てばああ森は伐られいたのだ
山畑に今日も君きて拓きおり馘首されたる社の帽子かむりて
野の冷えの身に徹るまで耕せばこのまま夜となる鈍色の雲
ありありて生き難き思いつづくなる夜灯ともして足洗い居り
きたぐに(一)
北の海ゆうべ霧らいて岸壁に網たたみおり親子らしき五人
霧の中に日は白じろと暮れながら屋根に居ならぶ背黒鴎ら
わが海の鴎より人を怖れざる鴎があるく雪どけの地
子を背負い冬田にあそぶ少女いて逝きたるきみが面影に立つ
雪の野に貨車群とまる須臾にして雪積りゆく連結器のうえ
貨車の群きりはなし来し機関車をこめて降り居り野につもる雪
有珠山は雪被きいて育みし新山に砂こぼるる音す
四方の山雪被くなか灼けて立つ新山にあり鴉と交りて
火山泥の上に生いたる白楊の木はやさしく照りぬ落葉のひかりに
湖の奥卍とふぶきくる雪のまたしずまりぬ氷の上に
凍りたる湖吹雪くときむきむきに坐る白鳥雪にまぎるる
雪の野の西日のひかり返す中苦しみて一人堆肥を運ぶ
曠野の中泥める轍ひかりいて黒々し地平に日は沈みゆく
夏日
夏日さす竹群にきて竹伐るにわが鋸の音は風にまぎれず
眼に沁みる汗にかまわず竹伐れば今日はつねなる不安来らず
海の霧ながくとどまる今朝の庭紫草は終の花をこぼしぬ
子持たねば罪少なしと過し来てやさし一日の乳の香の中
人事異動きまらず食の細りゆく妻を見て居り朝ゆうべに
若き部下なじまぬに苦しみいる妻の今日はやく臥す鞄を置きて
河口
人厭うこころに来たる河口は雷過ぎし天し垂れたり
灰いろに翳立つ製鉄所この夕べ岸越えて海の溢れんとする
終焉の日のごと高炉しずまりてテトラポットに雨脚しげし
雨ぐもり閉ざす製鉄所地に照りて熔鉄を運ぶ貨車過ぎゆきぬ
暮れ近き大川の面は縞なして方向変うるレガッタ声残しゆく
荒き雨しばしば過ぎし渚にて廃船焼く火のまた焔あぐ
折にふれて
天眼鏡に覗くトレースに苦しめど墨を入れたる線光あり
朝宵に膝ふかく寄る木の机木の釘ようやく表わるるなり
家ごもる二年にわが知る心惚け村を歩ける老の幾人
雪隠に今日の心をしずめんに霧の中なる杭打機の音
定年後もつとめ休日に逝きたるを今の世の幸という一人あり
わが喘の癒えざる日々に何時の間にか塗り替えられし煙突があり
職のなき一日雇われて標打つと入りゆく峡は霧あふれたり
野の中に冬枯れて立つ楡二木枝々打ち合うときに通りぬ
石榴三つ机に置きて灯ともしぬ世のもの音の遠く過ぎおり

昭和五十二年(一九七七)
学ぶ
職去りて学べる己疑えど雨の中ちる葉をふみて来ぬ
働き来し肉むらきしきし水に拭く若ものと学ぶ冬の教室
教室にかすかな笑いの声あげてわが前におり車椅子の少女
労働を厭い過ぎ来し半生の何に怖るる西日さす室に
冬の川
地平より川あらわれて来る濁り次第にかなし今日の歩みの
橋裏の何に漏る水かがやきて雫して居り冬川のうえ
電球ひとつ前の世のごと落ちおりて道に硝子の吹かるる音す
急流にところをかえず泳ぐ鴨眼に沁みてゆうべ帰りぬ
冬ぐもる畑のはずれの赭き杉幸せなきごと折おり動く
天窓の硝子に直ちに接したる無明界にて雨流れおり
朱のいろ何時までも残る枯菊を今日焚かんとす心ゆらぎに
ああ野場鉱太郎氏
鉱太郎すでにあらぬか中空に乱れつつ降る雪を見て臥す
鋭き電話来るをつねに怖れいて訪いたきときに君は亡きかな
常臥しの身にて闘わんと告げ来しにおどおどといて君を逝かしぬ
様々に人言う中に常臥して書きて生きにき君が十幾年
サボテンの花
わが窓を逆さに伝う野良猫の筆耕のわれを見下して過ぐ
かすかなる仕事といえど議事録に動悸などして暑き日暮れぬ
眠れると思いいし妻だしぬけにわが日当の安きを言い出づ
怠りて何に怖るる地に低きサボテンの花より来るひかりあり
覚悟して職去りしかど何時しかにはかなし畳の上の明け暮れ
一人仕事は一人励ます他なくて対う狭間をこむる朝霧
水族館にて
水族館昼暑くして海亀のいく度も水槽に当る音する
赤潮のプールに海豚餌を待てり垣越えて海は午後の日の照り
子をとられ広くなりたる柵の中ペンギンはひたすら水に泳ぎぬ
屋上の暑きにいたり人間われと胸ささくれし鴉一羽と
野尻湖他
朝の湖霧霽れゆける岸の辺に硝子の屑を捨てる音せり
海の辺に露けき何の木と知らず白き蛾ひとつ幹のぼりゆく
秋となる湖のひかりの寂かにて岸の砂地は波紋たたみぬ
小さなる松毬ふたつ供えいて涼しとぞ思う一茶の墓は
頬高く眼くぼめる一茶の像近づけば親しわが祖父に似て
突堤
すでに火の絶えたる高炉二基見えて曇る方より鳥渡りゆく
秋の日の河口に曳かれ来し筏犬を連れたる老が乗りたり
還るなき人恋いゆける突堤に眼鏡をぬらす海の上の雨
しずかなる光と思い来し河口の潮目にもまれ過ぐる藻のあり
妻に依る今の暮しのすべなくて突堤を走るひたすら走る
運河のなか浄まりし砂の岸あれば寄る海鳥よ霧の夕べに

昭和五十三年(一九七八)
冬晴
鳥糞より生いでし五寸の黄櫨の木のもみじして居り石に影して
人声の遠き一日手にふれて日のぬくみあり馬酔木の花芽
寒ざむとわが臥しおれば虹立つと叫びあげ居り母の子の声
畑の土養うと切る君が藁稔らぬ米の多くまじりぬ
去年よりも衰う気力に畑にて鶫にのこすキャベツ一株
冬晴のひかり明るし昼ふけを唯ひとつ過ぐる電気機関車
今年はや花序を出だしし寒鳳蘭凍らんとする空気に動く
かくありて惚けると思うな晴るる日は海越えて島の赤き崖立つ
瓢湖
冬ふかし湖にながく沿う道の北へ向きつつ濡れひかる見ゆ
雪空に幕打つごとき音のしてとぶ白鳥は水をはなれず
餌のとき知れる白鳥幾百か首立ててくる岸に対いて
凍る湖吹雪きくるとき白鳥のいよいよ白しみな佇ちていつ
四方見えぬまでに吹雪けば白鳥の首のべてとぶ声のひびきて
帰る日の近き白鳥に病めるもの見ず湖は濁り波立つ
舗装路に巌のごとき雪ありてひびきつつ海の風は吹き当つ
地を出でて
かつがつに仕事のありて経し三年思いつつ居り草の香がして
地を出でし竹の子は露を保ちおりぎしぎしと一日文字書きて過ぐ
青の中に黄を噴きいずる一木あり心翳りてくるを拒みつ
定まりし職業もたぬを罪のごと言われつつ今日も校正に来つ
読み合せする声一途に疲れおり君も三十年の小学校教師
稍とおく消防車集うひと時を不意にひもじく書店に居たる
九州にて(一)
楝の花かすかに匂う下に佇つ心分ちつつ過ぎし二十年
かつて見しと変るなき山の頂を霧を踏みつつ妻と歩みぬ
山道の隅所に亡き父の待てる夢路の朝の妻に語らず
今日妻のやさしき声ききて空にありああ限りなく敷ける白雲
逝く夏
五月雨に幹の裂けたる柳一木窓に見え居り夕昏みつつ
焼く鯖の雫しきりと火を消して独りの思いに耐えんとぞする
委員会に文案責められ来たる妻録音きき居り夜半ひとりして
幼くて識りし蔑みのひそめるか言いかえ言いかえて語彙を探せり
文字識りて初めて雲が美しと識字学級の媼が言いぬ
夏灼けし木々の中にて今日見出づ馬酔木の花芽のうるむ紅
一日の曇りの果てに出でくれば鴉とびつつ羽根を落せり
紀の川は濁りににごり逆波の洗う護岸に日当たるしずけさ
河の辺につながれ夏逝く白樫の筏かわけり水の上にして
野分すぎし名残の海に泳ぐ声砂吹く風の中にきこゆる
水明り
ひとり来てこの水明りに対うとき川上も川下もくもり閉ざせり
草焼きし土手に茎立てし曼珠沙華移ろう朱も今日の耀き
へくそかずらからみ茎折れし三枝のうす紅の花今ちらすなり
山頂に生い出しセイタカアワダチ草黄の花はふるる深きくもりに
音もなく木の葉ふりくる小公園車椅子の児と日を浴びている
公園の屋台に夕風はふきながら紅白の幕をたためる夫婦
夕光に裡はや昏き竹群に今年竹ありてきしる音する
夕ぐるる前の明るさ一日の塵受けし薔薇の花かわき居り
冷えびえと花の上にいる蟷螂は二日経にけり何するとなく

昭和五十四年
冬木
川の洲の冬木に海鳥群れおりて枝撓むまで吹かれつつ居り
枯れし野にいろ深みくる紀の川は流すものなし晴るる冬の日
亡き友に問うごと玉葱植えゆくにふく北風は帽飛ばすなり
炒り子の香みちたる部屋にねむる母ときにうとみて寒き日をいる
一年半ありしアルバイトを惜しむこころ白昼にきる爪とばしいつ
風の中に囲を守る蜘蛛この日頃体透きつつ冬を越すのか
何時までの勤めかと言いわが妻の爪先立ちて窓を拭きゆく
幾度の悲運に遇いても面変りせざるとうケ小平つくづくと見つ
歳晩
年の暮に仕事なくなりて来て遊ぶ水族館にとおる児の声
われ見しより十幾年か海亀の灯の下に寄る眼は澄みて
イルカの芸仕終えし青年潮みずに手を洗いいき物憂き様にて
いとまあるかかる寂しさ首朱き駝鳥の片目に見つめられたる
些事抄
のぼり来し三十二階にとぶ鳥のいたく荒べる風切羽見つ
ウインドーに幾百の薔薇の花充ちて雫きおり昼のくらがりの中
朝より群るる若きらと見る映画「兵士トーマス」に泪を落す
白藤の花のちりくる風の中石に腰するやや老ゆる妻は
病む神経いたわりかねて春の日の暮るる一時鳩と過しつ
年久しくひとつ幻覚に苦しめるわれに従きくるわが妻思う
孟宗の四五本の林に風ありて朝あさ露かざす筍を待つ
夏かすむ海辺にしき寄る波見れば母を看終えんこと残り居り
帰り遅き妻を待ちいる宵々に発電所高層の裸灯ともる
住民運動利用し世の中に出し一人会えばひそかに住民を厭う
韮の花
暮れのこる峰に鳴きいる法師蝉去年も今頃呆然といき
汗垂りて畑打てば少し清まるか夕べは韮の花そよぎ居り
朝々の涼しくなりし土の上にならび影ひく韮の白花
秋萌えし梨に再び咲く花に海の霧ありしばらくの間
心倦む一日磨きし窓硝子ひかる雨粒暮るるまであり
妻死にて子を育ている弟の一人寝る夜を折おり思う
才能に容貌にはやくあきらめる少年の吹く鋭き口笛
きたぐに(二)
砂浜にひとつ螽斯の老いし声オホーツクの海は底鳴りのして
歩み来し砂浜に一本のロープありオホーツクの黒い海を引っぱる
雁は雁、白鳥は白鳥寄らずして濤沸湖のうえ雲迫るなり
のぼり来し岬山のうえ平にて隈笹を霧の過ぐる音する
隣室につぶやく英語きこえくる寒々し斜里の夜にねむりき
枯れがれの野付岬の道秋アジを積めるトラックの潮こぼしゆく
冷えとおる風に歩めばむらさきとなる国後島に基地が光れる
午後三時過ぎて凍みくる岬の道女人夫に行き会いしのみ
見のかぎり続く原野よぶら下がり架線移動する電気工おり
昏れてなお畑に蕪ひく一家閉山の炭鉱を下り来しという
有珠山の噴火にのこりし北の谷みどり鋭く光るときあり

昭和五十五年(一九八0)
父の忌
人気なく来し地下道のカーブミラー写す階段は闇につづきつ
紛れきて夜の講義をききており窓に息ながく鳴れる北風
雲の裏ゆく日がありてかかる時胞子こぼすらし庭の羊歯叢
手を後ろに組みて坂をば登る母今日しずかにて父の忌が過ぐ
ちちのみのみ墓の松も枯れゆくと立ちて見て居り寒き庭の中
足ぬらし歩みて来れば落葉ゆくこの水底も暗くなりいつ
微笑
廊下にて見知らぬ病む人のせし微笑われの一日の心を支う
この廊下昏き病棟につづきいて鏡は壁のみ写すときあり
喪くしたる足も訓練衣につつむ君今日は明るき顔に臥しいつ
寒き雨ふりそそぐ中の七面鳥頭より息立てて地の上歩く
餌をやる媼今日来ずふる雨に電線に百の鳩らつらなる
小プールに絶えずアシカの騒ぎつつ水こぼしいき寒き日の暮
大島
三原山火口すぐる風ききて居りともに登り来し盲の人と
噴火口しずまりて細ぼそと立つ煙けむりはまじる冬厚き雲に
大石田
雪原をにごりつつ来る最上川昼すぎて波立つ響あげ居り
最上川の水に迫れる雪原の断面はひかる音なきままに
亡き人を偲び大石田の雪をふむ古き鐘の音幾度かして
茂吉先生坐りしという川岸の雪なき土に鳥影のさす
最上川大きく曲るところより月山は白しくもりに沈みぬ
一日又一日
わが庭の竹群冷ゆる昼すぎに若竹の秀を切りて捨てたり
暮るるまで澄める一日の寒空を畳に寝ねてわれは見ていき
一日一日近づく退職日言える妻今朝は氷雨の中を出でゆく
後任の決りて淡々といる妻がゆうべ厨に花の香を言う
この檻に子を生さずして古りてゆく狐並びぬ冬日さす中
公園の隅にきていねむりして居りし晩年の永井壮吉あわれ
勤め退き病むごとき疲れ訴うる妻をし目守る一日又一日
梟の眼
ま昼間を見ひらく梟の眼に映るおのれのかげを覗きて帰る
風落ちし濠の水の上ほしいまま首を伸ばせる亀がただよう
舗装路に当り何処にゆきたるや土竜の出でし穴にふる雨
海かすむ今日は厨にうたう妻勤めいし頃より明るくなりて
街上に撃たれし学生を収めゆく暇なく崩るるデモ隊をうつす
ガス弾にけぶる光州の街映るパンツひとつに曳かれゆく少年
わが町にきみら学びし朝鮮語その国に還り又黙すなる
朝鮮人きみら密議する酒売りて命つなぎき戦後幾年
肺病みて働けぬわれに幾度か米くれたりき「不逞者」きみは
密醸にて検挙されたる父持ちいし胸うすきチョゴリの少女忘れず
津軽他
風はやき岬につきて海猫の絶えずめぐれり高さ保ちて
竜飛岬荒き磯回をわが来れば海猫死せり寄る蠅もなく
若かりし死かとも見ゆる海猫の骸の注ェを起す風あり
荒磯には死せる海猫眼を閉じて空に絶えざる海猫の声
ながき勤め終えし妻にて出でて来し旅の列車に多く眠りぬ
蒼きまで七日の月は冴えおりて恐山結界の沙を照らせり
夜の湖にひびくかなかな聞きて歩む早く寝ねたる妻を置き来て
汚点
鉢植えの花なきサフラン徒長してしだれし葉より露こぼしたり
ただひとつ残り怖れいし鈴虫の声絶えて黒し瓶の中の土
水に浮く鴎も汚点と見ゆるまで雨ふり昏む川の辺に居り
海ゆかば水漬く屍わかものの波乗り遊ぶ野分の海に
負いゆかん障害ときけどただ笑う少年の前にわれも笑いぬ
かたくなに黙し従きくる少年に胸張り歩めとわが言いしのみ
真夜白く点す灯の下あやまてる自動改札機に叩かれて立つ
悼永田茂氏
妻逝きて一時こころはなやぎしをわれは寂しむ君が一生に

昭和五十六年(一九八一)
返り花
昨日今日冴ゆるさくらの返り花空にひびきて海の音しぬ
職退きし妻ときて坐る草の上鋭き水鳥の声がきこえぬ
海へ出づる鱗雲あり職退きて二人いる日にふたり疲るる
ふらふらと来し街ふらふらと帰らんに研がれし如き踏切が見ゆ
夕ぐれを旗なびきゆく何のデモか私語多き列われは過りぬ
仕組まれし事のまにまに身を処してああ今日旧き友を失う
背信と責めくるをむしろ支えとし暗く冷たき階下り来ぬ
断交を言いつつ又も電話くるつづまりは君も寂しき一人
九州にて(二)
朝来し太宰府天満宮さむくして髪結い合える巫女達の居り
木も草も露置く朝の観世音寺青杉を焚く音に驚く
旅を来し心やすけき青杉を燃やせる老と火に対い居り
地平には三日月見えて空を飛ぶ都府楼址と思う闇黒のうえ
ピノキオ
無影灯の下に手術を待ちて臥すわがためきびきびと動く看護婦
手術受けしこころ素直に帰るなり街空をしきりに鴎流れて
朝のひかり移ろう早きこの濠の氷のうえに並ぶ真鴨ら
朝の街にちりくる雪よ手を折りしピノキオのわれ妻に従う
年明けし朝の街きてこころ和む病院の中の炊事場のこえ
吹きされし元日の街上声ひびき軍歌過ぎたり何のまぼろし
帰るとき待たず死にたる鴨一羽友の曳く波にしばしばゆらぐ
軟風
鬱々と居りし昼すぎ枯芝を焼けば美し地を走る火よ
ギブス外せし手はやわらかき風に会う心充つるごといたる半日
歩道の辺に靴修繕の老がいて低く火を焚く冬の夕ぐれ
話しつつのこる鋭さ知るときに本の見本を置きて帰りぬ
食通の話題となりて阿れる君を意識す鋭かりしを
花の香
月照らす麦生のひかりよ一人のため死に得ざる命時すぎにけり
年々の花の香に汝を思い出で痛むこころも妻知りて過ぐ
月の下の笑いも永遠と思えれど机に拾うわれの白髪
命あるうちに会いたしと言い来しが月の光をへだててねむる
見えぬもの
白内障病みてしずけき母ときて桜の花照る下土に佇つ
視野昏む眼と知れど今もなお足早に歩む母のかなしさ
患者らの絶えし真昼間盲目の理療士ひとり口笛を吹く
町長の代作為し来し五年に見えずなり来し市民と思う
竹群に照る今年竹その幹を叩けば裡にくぐもる音せり
春より夏へ
千日前店先のサンダル盗みゆくさびしき眼とわが眼会いたり
泰山木梢の花のなくなりて地に敷くを日ぐれの風が動かす
古川にひかり残りいて暮るる道先生の後きてわれはつまずく
停年後もまた勤めんと言い給う問いたき短歌のことは問わざりき
人厭う一日のゆうべやさしかる先生の録音の声耳にあり
しろがねに花に照る日のきびしくて裏返したしこころ・肉むら
危機感をあふり今また迫るものつねに美しき言葉を装う
地下街を一片衣かえしゆくその草いろをわれは憎めり
四五人の踊る彼方の闇ふかく様ざまに思う過ぎし人々
海の上の夕棚雲のくれないをしみじみと見き今日一人いて
きたぐに(三)
日の矢射ると見しは錯覚濤沸湖ただ水気立つときに来て見つ
湿原に遊ぶ乳牛或るものはももいろの乳房水に浸せり
北の海夕べ霽れきて砂浜を昆布拾いつつかえる母と子
水平にとぶ鴉は餌を運べるか知床岬の風筋を越ゆ
垂直にそば立つ岬山に白きもの海鵜の巣にて雛の声する
男らの獲り来し鮭を選別す臓を抜かれて積まれしものを
鮭の中に坐り冷えつつ鮭を選る残る鮭の山減るとも見えず
鮭の山遮二無二選りて等外と投げらるる鮭は三和土にひびく
塩積みて外海へ出る船積みこぼす塩は凝りたり波止場の上に
遠く来て昨日も今日も霧の街激しき楽を欲りて歩みぬ
朝来し汽水湖霧らいいて岸壁に行方もあらぬ水泡たゆたう
牡蠣採りいしアイヌら今見ず新しき牡蠣殻積む上に霧のすぎゆく
北限の桜の老木囲われて六月の土に萼のこしたり
遠き岬
遠き岬秋に入りつつ灯ともさぬ灯台は夕べくもりに紛る
目処もてる短挺いくつ波曳ける港見ていて時は逝くなり
とのぐもる岸辺に憩えば映すものなくゆく川の時に仄めく
丘の上に赤く十字架点りいて蒸し暑し声なく妻と争う
草の上に蛇なめらかに皮脱ぎし後をふかれいつわれは茫々
原稿紙二枚の中に二か所まで推敲のあと見ゆ芥川の遺書
わがあらぬ後もやさしかれ夕ぐれて路地かえりくる妻の足音

昭和五十七年
大作
打ち合いて余剰なる枝落したる楡二木立つ夕映えの中
群はなれ少数となりし鴨いくつその先頭の一羽かがやく
death by hanging 声のひびきのなおありて裁き免れし象徴ひとり
代作の文に幾許の毒盛りてねむらんとす月のひかりに
月下美人遅く太き芽出したるを日々に目守りぬ心老いたり
年金に頼りつつ生くる心根の漂泊者よりも頽れゆくらし
文学にあざむかれ文学に拠る生も過ぎんとす夜の潮騒も立て
誕生日居酒屋に来て酔わんとす代作に得し謝礼がありて
一年を断ちし交わりも今日言わず友と踏みゆくしげき落ち葉を
畔の上に置き忘られし稲一束稲架にかけにゆく農なりし友は
雪の上
雪のうえに歓喜のごとく日のさして透きとおりたり木賊ひとむら
寂かなる部屋覗くときたまたまに終の日の襁褓母が縫いいぬ
戒厳令のワルシャワの児ら灯の下に寄りて祈れりサンタ・マリアを
軍制の下に坑閉ざしこもりたる労働者ありと伝え来しのみ
眉根よせ闇に立ちいん阿修羅像思いつつねる人を厭いて
友よ
死病なればあきらめいるかわが友の今日も会社に計器よみにゆく
しかすがにおびゆる友か今日もきて黙す畳に煙草火こぼす
君の葬りも出来ずならんと灯の下にぽつりと言いて友帰りゆく
幼きより農たりし兵たりし太き指敬いいしが病みて起てざる
磯の上にのこる塩白くひかりつつ祈らんとせり友のいのちを
暗転
道の上に置かれしローラー車銹流す一夜雨霽れしままにくもりて
しんしんと新芽立ちたる大樟の裡昏くして古葉ふり込む
当もなく終点までバスに乗りて居りかかる平安を人に告げなく
暗転となりし舞台を去りゆける女がのこせり小さき嚔
海峡はきょう霧ながら岬山に傾ける木も墓もひかりぬ
旗のごと岩礁の上に立てるもの海鵜にてながき曇りに浸る
転身のはやく富む彼に面倒を見ようかと言われ迷いしあわれ
舗装路に夏の落ち葉の吹かれゆくせせらぎよりも寂しきその音
雷は遠く去りつつ咲き出でん月下美人の花梗さゆらぐ
疲れたる顔を並べてふたり寝る一夜かがやく花の下にて
家出せし隣家の嫁の帰りきて子供らと風呂に入る声きこゆ
新秋
エレベーターに楽の音かすかにきこえつつ講義の前の心ひとりなり
ビルディングの地階の椅子に昼下がりねむる青年を今日も見てすぐ
教室にのこりておれば学びたき思い告げくる掃除婦があり
晩夏の光は街を染め居りて陸橋に昏し神説くひとり
電飾に夜々を灯さる広場の樹日ぐれかわきし葉音立ていつ
長き坂わが登り居りその果てに秋日にかわく円錐の二樹
養魚池に秋の日さして餌食らう鮎群るるとき匂いを放つ
水めぐる養魚池に鮎ら群るる中迅くめぐりぬ死にたるものは

あとがき
 これは『岬』につぐ私の第二歌集にあたり、昭和四十八年から昭和五十七年に至る十年間の作品を自選した。大方は故高安国世先生の選を経たものである。
本来はもっと早く上梓する筈であったところ、ここ二、三年来身辺がにわかに忙しくなったばかりでなく、相当の覚悟をして作歌に当たったつもりであるが、その貧しさに慊焉の感があって、ついのびのびになってしまった次第である。
 本集でも分るとおりこの時期、ある先進の顰みにならって職を去ったが、文学一筋というわけにはいかず、かえってアルバイトを転々とする方が多かった。
 しかし、そんな私にもかかわらず高安先生は絶えず気をつけて下さり、NHK文化センターの短歌講座が始まると先生は助手に推薦くだされ、先生の亡くなられるまで続いた。その間、もっとも熱心な受講者でもあったはずであるが、果して先生はこのような集をもお許しになるであろうか、どうか不安の残るところである。
 本集の題名は「ひとり来てこの水明りに対うとき川上も川下もくもり閉ざせり」という一首によった。山並みひとつ隔てた紀の川は私の母なる川であり、年久しくもろもろのエトスを寄せてきたところでもある。
 先生が晩年、老を意識され、自然への参入を実行された年に私もなったわけであるが、『塔』の仲間たちと自立を目指し、先生の至られた境地に少しでも近づきたいと希うものである。
 終わりに出版に当り、いろいろお骨折下さった季節社の政田岑生氏に心からお礼を申し上げる。
昭和六十年九月 田中  榮