明日香二十九号
午後七時暗くなりたる八月の半ばか風も沁みわたりくる
思い詰めて夏の真昼の雑踏のなか透明に人見えて過ぐ
骨となり死を確かめた筈なのに訪ねてきそうな義父待っている
四十前に死ぬこそよけれと兼好はつぶやきながら余生過ごしき
土となり塵芥となりして蝉の音絶えて八月終わりとなりぬ
やめたいもやめたくないも本音にて流氷記わが身を削りつつ
昏睡の義父に関わる一本の電話のベルか二度聞きて取る
目を閉じたままに烏の会話聞くあの世この世の境目ながら
強靭な子孫を残す意味合いがヒトは変わりぬとりとめもなく
本当はそうでなくても雰囲気に浸って泣いてしまうことあり
道の外れ薮の茂りにトカゲいていそいそジュラ紀に逃げてしまえり
迷うなら先ず夏木立眠りより覚めれば森を渡る風あり
草いきれの向こうに確かに幼年期手をつながれていし僕がいる
義父死して二十日この頃さめざめと妻泣く顔を見ること多し
亡くなりし義父に似し人見るごとに語りかけたき胸詰まりゆく
義父死して一ト月九月草むらの鈴虫耳へ耳へとひびく
骨になるまで確かめた筈なのに義父の訪ねてきそうな午前
緑田にすらアスファルトの道伸びて夏アザミ幻影のごと咲く
草いきれ漂う土手に夕方の川面はとろりとろり輝く
義父死してひと月ようやくしみじみと心震えて秋の風吹く
すれ違うだけの人波地下街に会うが別れの流されて行く
窓の外五メートル程人歩む一齣移る飽くこともなし
地下鉄の数駅急ぐ視界には会うが別れの人ばかり来る
人の死を聞けど体調悪き日は己が命にこだわりて過ぐ
雨の後にわかに浮かびし水溜まりアオスジアゲハ揺れつつ止まる
群れて飛ぶアオスジアゲハ秋月の盆提灯の仏壇かなし
納棺は堅きなきがら巡礼の死装束の義父(ちち)横たわる
朝夕は涼しくなりて際やかな夏の光を吸う百日紅
総合誌我に関わりなく並ぶ歌壇の悪意善意を知らず
大勢に従わぬゆえ第三の男の白き微笑みかなし
ゴミのごと死はあるべしと枯葉散るしばらく風となりて我がいる
お前ほど暇じゃないぞと聞こえくる忙しくてという言い訳が
待つ人と通過する人踏切を過ぐたびしばし目を合わせつつ
踏切に待ちつつ今まで行き過ぎた時や心をご破算にする
ゴキブリのいかにも無念そうな死が歩いて力尽きし形に
緑葉の上に小さく日を浴びてホトトギス咲く魂のごと
虎の尾の花いっせいに揺れている少し涼しくなりし夏の日
次々に形と色とを変えながら光と風を抱くプラタナス
果てしなく心遊べば果てしなき宇宙も小さな煙のひとつ
快く沁みる程よき秋の風一兆年さえ一瞬にして
天才で不遇な歌人が妻にしかられて小さな外出をする
アカシアの枯れ花垂れて実のように秋の緑の中に収まる
ボタンヅル影もなき白散りばめて緑の中に光のごとし
仙人草白き十字の花の群れ墓地の墓なき一角に咲く
昼の闇ツルボかすかな明かりにて地より冷えつつ彼岸近づく
幽霊になっても逢いに来てほしい娘は天の義父慕うらし
道の端ゲンノショウコの小さき花くっきり白く続くたまゆら
夕焼けのやけに明るくくっきりと虹立つ野分け近づいてきて
同じ人類の起こしし自傷にて貿易センタービル姿なし
それぞれに敵も味方も正しくて神の名をもて争いをする
目つむりて聞けば夜明けの空を鳴く枕草子の烏もありや
飛鳥川多武峰より下りて来る少女に赤き花ひろがりぬ
目つむれば光景風景情景の明日香の花の束の間が見ゆ
見たこともない道眠りの中にある辿れば赤い橋に来ている
大滝のごとくに萩の花群れて万葉紅(あか)き飛沫満ちみつ
大滝の水脈(みお)のごとくに萩の花崩れゆかんとする刹那咲く
唐突にチョンギス草より草へ跳ぶその顔女官の微笑みに似る
狼の群れもいつしか風に揺れエノコログサの群れとなりいる
石舞台遠くに見えてしばらくはヌカキビ風に揺ら揺れて立つ
槍のごと雌日芝雄日芝咲き群るる丘に魔神の我が踏みて入る
ヌカキビの群れ咲く処萩一枝伸び来て明日香彩り優し
天に浮くまで鮮やかに飛鳥野は彼岸花咲く血を辿るごと
よく見ればススキとアキノキリンソウ少し明るく揺れる音する
葛の葉の裏返るたび少年に戻りて我は野に立ちつくす
ふと見れば野に一片の光あり我が命かとしばらくをいる
多分我が木魚のような頭蓋骨カラッポカラッポ快く鳴る
自ずから光る金色すすき穂の向こう彼岸の青々と空
萩の花垂るる辺りの吹きだまり風草テントウ虫掴まりぬ
再生の出来ぬ事実を映しいるビデオカメラのモニターが見ゆ
文字化けのように脳裡に次々に不可思議模様眠られぬ夜は
飛鳥よりこの曼珠沙華咲くならん大陸が島奪取して後
毒抜けば食用ともなる彼岸花真っ赤に明日香あちらこちらに
今は鈴虫の奏でる石舞台蘇我馬子は悪人なのか
何ゆえにかく神の名を使うのか貿易センタービル崩れゆく
誠意ある便りたちまち返り来る犬養孝先生ありき
伸びやかに生徒演じる劇のごと人生もかくあればいいのに
思惑の違いに揺れているひと日以心伝心とは言うけれど
リストラの友の葉書を見て居れば早く着替えてよと妻が言う
カタバミより出でし小さき韮の花ヤマトシジミが束の間止まる
京都より摂津富田へ秋雨に濡るる山山霧らいつつ見ゆ
闇の中逝きにし人あり目を閉じて思い見んきりぎりす鳴く夜は
文化祭ならば明るき声音にて合唱ひびく色とりどりに
義父死して二タ月義父の訪れぬ部屋には金木犀の香が立つ
肉親は悲しむ余裕すらなくて今ひたひたと義父の死が在る
容疑者の自宅より出で餌を運ぶ強制捜査の隊列が見ゆ
街の一角となりいて金色の稲穂の匂いの風満ちてくる
草の名を知らばしばしばチカラシバ握るともなく親しみて過ぐ
ススキの穂輝く処にゆらゆらと揺れるトダシバ踏みつけて行く
果てしなく遠き星よりリモコンで操作されゆくヒトの群れあり
目つむれば脳裡に銀河まばたきの間にまに人は生き急ぐらし
まばたきはトンネル異次元空間にさ迷うごとくぼんやりといる
金網を張りし空き地にびっしりとエノコロキリン草の名あわれ
葉書さえ書かぬ奴らが見よがしに携帯電話のメールを送る
日溜まりに照る鶏頭の赤き肉よりイチモンジセセリ飛び立つ
刻々とただ時のみが過ぎてゆく流氷溶けて海となるまで
夏に枝を切らなば金木犀の花たわわに実りの香に満ちてゆく
寺尾勇先生と。 | |||