l流氷記四十一号『槌の音』八十首
目を閉じれば白き道東の景色にて海別岳浮かぶ遠景が見ゆ
蓮群れて風音立てて心地よき篠山城に秋深みゆく
秋山は黄泉路か母の写りいし深耶馬渓に迷いつつ入る
深耶馬渓鹿鳴館に蕎麦食いに来て奇岩立ち紅葉も見ゆ
玖珠川の瀬音聞きつつ母と来しこの天ヶ瀬の湯に浸りいる
癇癪の後は気弱になる父か母亡くなりし後のかなしみ
電気あり瓦斯あり自給自足とは名ばかりテレビの中の世界は
線香の煙に高塚地蔵尊現世利益の人群れつづく
恩讐の彼方か青の洞門に槌の音聞き人は過ぎゆく
味わうでなくただイライラと過ごしいる中途半端な時間に怒る
藁の上動かぬノスリ見つめつつ稲穂の匂いに捕らわれて過ぐ
炊飯器荒波繁き灯台の心を持ちて眠る朝方
信号を待ちつつ過去は過ちを抑えきれずに来ること多し
取り立てて言わぬなぜなら目糞にも鼻糞にもなりたくないから
呆気なく母亡くなりて一枚の遺影に見つめられつつ暮らす
三十年刻み続けし鑿の跡青の洞門今くぐりぬく
突然に津波のように寄せてくる炊飯器の音聞けば朝来る
ため息か愚痴か怒りの妻がいて歌湧くゆえか無事今日も過ぐ
あと何年生きる烏か黎明の脳裡に高く鳴きつづけおり
虫の声聴かなくなりて五時暗く家の明るさ見つつ帰りぬ
雄を負うオンブバッタがつつましく草に安らう母はもうなし
真緑の顔の精霊バッタいて見つめられつつ家出でんとす
カマキリに射すくめられつつ人間も心優しき生き物となれ
赤焦げて夕べガマズミ辛き過去音なきシーンとして蘇る
十三歳大人と子供併せ持つ君らと生きて今有り難し
どのように生くのか君らの人生の一シーンにいる我揺れながら
ここだけにしかない論理が突然に現れて悪にされることあり
一日の一コマにしてそれぞれの顔して車すれ違い行く
人間をきっとどこかで操っている神ありと帰り急ぎぬ
亡き母に現在形で物言えばもう半年か息白く見ゆ
雨の夜は母が訪ねて来てくれる眠りの森に迷いいるべし
母想うたび胸詰まりつつ眠る夢の中では死者生きるらし
肉親の死が力になることわりが紅葉もやがて散りてしまえり
一昔前といえども時代劇出演者はほぼ故人となりぬ
簡単にあの母親では駄目という教師の口調聞きつつかなし
蛍光灯消せば深夜の眼裏に海月浮かびてながては消ゆ
眠られぬままの朝方ドラ猫のうなり声わが心にひびく
こつこつと近付いて来て遠ざかる足音あれば眠れずにいる
目つむれば海月となりて消えてゆく深夜の蛍光灯のたまゆら
秒針と冷蔵庫の音聞こえいるあけぼのか目はまだ閉じたまま
悪辣に言わねば生徒動かぬか家路が暗く迫りては消ゆ
夕茜空の向こうにぽっかりと出口のような月浮かびいる
歳経れど所詮は母の洞のなか彷徨いながらいよよさ迷う
母の死はどうにもならねどたちまちに余韻のように日が過ぎてゆく
不愉快な笑いの中にいて我と同じ気持ちの生徒をさがす
人生は修行場観自在菩薩酸いも甘いも噛みしめながら
肉体を無くした母がわが夢の幕の向こうに潜みいるらし
今が次々に昔に変わってく自分にも死が確実に来る
我が命捨てられるのを待つように空のくずかご部屋隅にある
流氷の寄せ来る音を聴いている眠りは遠き海上にあり
真夜中といえども働くさまざまな音聞こえくる耳を澄ませば
網走駅降りて二中へ歩みゆく道筋夢といえども続く
秒針が時刻む音響きくる深夜は人の領域ならず
冷蔵庫時々うなりこの家と喧嘩している丑三つ時は
意識して耳を澄ませば秒針や鼓動の音のなかに我がいる
心臓の鼓動呼吸を繰り返し人は生き継ぐ珊瑚のごとく
重心を移しつつ行く歩みさえ意識してまた今日も過ぎゆく
枯れ葦の間にまに群れる浮寝鳥月夜の湖面輝きながら
雪落ちてこんとばかりに雁がねは遠く微かに雲隠り鳴く
心なき雨にもあるか母亡くて半年会わぬだけだというに
人責めて越すに馴染めずこの職場十年しどろもどろに過ごす
慌ただしく去るものあれば弦月もこの世の出口と想いつつ見る
小春日の枝に安らぐ母子猿幸せは人のみにあらなく
転勤で網走二中に戻る夢見ており寒波冷えしるき夜
朝のまどろみに内心焦りつつあっという間に時過ぎてゆく
フセインの赤き喉元さらされて自由は武器の向こうに遠し
流氷の群れが日本を目指しいるイラク派兵に揺れる日本を
腰痛が虫の音のごと広がりて冷たき深夜眠れずにいる
死んだ筈ないやないねと母のいる夢こそうつつ愛あふれなば
時を経て思うことあり生きるには慣れねばならぬ匂いがありぬ
歌一つ出来るよろこび沁みてくる何事もなき一日なれど
時代劇いつもついでに殺される人あり一件落着なんて
さまざまな夢の一つに過ぎぬ世か昨日も今日も忽ちに過ぐ
大勢の流れに逆らいながら行く氷塊もありいずれ負けれど
夢のまた向こうの夢に幾たびもひとり流氷原にわがいる
網走にいる分身か流氷の近く迫るを自ずから知る
本当に網走に来てしまう夢うつつなのかも折々に見る
凍りつつ彷徨う流氷群見えて大鷲となる眠りに入れば
湧網線まだ在りし頃旧校舎網走二中にわが勤めいし
石炭を継ぎつつ会話はずみいし網走二中もはるかとなりぬ
雑記
◆四十号刊行が十一月だつたので今は年刊四冊のペースになってしまった。年鑑等に不定期刊と記したのは正解だった。今までもそうだったが、他からの強制や義務感だけでやりたくなかったし自分の中から発するものでなければという姿勢は強く持っていたい。流氷記が四十号になり、これから本統のものを作っていかなければならないのだ。五号を過ぎた頃には結社に入って勉強をやり直してはいかがですか、という葉書が届き、二十号を越えたときには、流氷記の役割は終わったのではないかというメンバーの厳しい声も聞いた。でもその都度、だからこそ流氷記の存在意義があるのではないか、ここから本当の流氷記が生まれるのではないかと奮起してきた。禅の公案にもあるようにとどのつまりの地点から本当の世界が拓けるのだ。生前の寺尾勇先生から、流氷記のような形は今までの文学史上類のないものだから決してやめずに続けるように、とのお言葉があったことに思いを寄せている。ひねくれ者のせいなのかもしれないが、流氷記にしか出来ないものを追求していきたい。◆先日、数十首の歌を記したメモ帳を無くしてしまった。すぐにどんな歌だったか思い出してもう一度作ろうとしたが、半分も出来なかったし、思い出したものも先に作ったものとは違う。同じ歌は出来ないものだが、自分自身の中でも再現することが出来なかった。つまり過去の自分すら他人と変わらず、時間の一つ一つの貴重なこと、二度と得られないことを実感した。何でもないことだったが自分にとってはこの時期を乗り切れる契機ではないかと少し嬉しくなった。◆思えば小さな頃から、大きな目的のために敢えて負の方を選ぶという性向があった。世間が望み皆が指向することを自分がするということに恥じらいを覚えることが多かったように思う。学歴や肩書きなどにこだわる時むしろ苦しみがあった。でもそのことが流氷記に方向を定めてくれる気がする。◆先日の新聞に山極寿一さんが類人猿と猿の違いについて書いていた。喧嘩が起これば猿は強い方に加勢し優劣関係に忠実、類人猿は弱い方に加勢し食料分配も弱い方の要求から行われるというのだ。強者が弱者に場所や権利を譲ることでの共生を喜びとする心を持っているとのこと。残念ながら日本の政治の現状も我が職員室も教室も類人猿の心を持っているとは言えない。とすれば、猿、類人猿とさらに賢いはずの人間とは何なのだろうか。猿が猿の心のままに小賢しくなっただけなのだろうかと暗澹とした気持ちになるのは寂しい。
編集後記
歌を忘れたわけではなかったが歌に集中することの出来ない時が長く続いた。今も続いているのかもしれない。でもこれは僕にとって必要なこと。西陵中学校も十年目を過ぎ、次の職場を考える期間がそうさせたのかもしれない。西陵中学校の色んな要素が確かに歌を作らせた。周りの優しさも厳しさも意地悪さもあったのかもしれない。さまざまな要素が歌の環境を育ててくれたのだろう。いつまでも槌の音を響かせていきたい。二月中旬は娘と網走を訪問する。僕の流氷はあらゆる処まで漂って叙情の世界を表出していきたい。そろそろまた船出の時だ。