流氷記四十四号夜汽車の歌

英雄も犯罪者も死を弄び人の歴史の不可解続く

わが舌は鰈のごとく潜みいて朝の眠りに蝉の声聴く

わが舌のウミウシふわり潜ませて海の底だと意識している

雀鳴き始めし朝の快き喧噪にまどろみてわがいる

滝穿ち蝉時雨降る早朝はサナギのごとく横たわるべし

海底に潜みて舌を泳がせる眠られぬ夜をまんじりともせず

わが内に無数に生きる細胞や菌も聴くらし朝蝉時雨

引き出しにしまうごと母容れられて骨のかけらとなりて帰りぬ

口腔の中に潜みしウミウシの舌こそ自分自身となりぬ

ひらりひら舌閃かせ潜みいる海底にあり目を閉じるたび

わが内の六十兆もの細胞を笑わせながら今日も無事過ぐ

我もまた地球と同じ内に棲む善玉悪玉仲良く暮らせ

幸不幸悪も正義も車窓よりビルの向こうに日の沈む見ゆ

戦争で人殺しした人も増えのっぺらぼうの道続くのみ

鶏頭はおみなのうなじ思わしめ母の二周忌すっく伸び立つ

本当のこという人は嫌われる社会か今も昔も同じ

本来は大地潤すためのもの大小便を人もてあます

周りにはコーション神父の目もあれど躊躇わず我が道歩むべし

つみびとのように自分が語られる類なきものは気に障るらし

救急車待ちて路上に臥しし人われに重なりまんじりともせず

わが裡を流れる大河真夜覚めて浸りつつおり否応もなく

我が脳に動脈瘤ありありありと氷塊岸にとどまるごとし

草の根のごとき動脈わが脳に張りめぐり精神が棲むらし

すんなりと常に流れてゆけぬもの動脈瘤あり親しくなりぬ

蜘蛛膜下出血予備の爆弾が目の裏側にくっきりと見ゆ

萩の枝の小道を塞ぐ庵見ゆ秘かに逢いしこと浮かびつつ

叢が次々駐車場になり虫の音を聴く悦びながら

例外や境不明の文法を教えるやるせなさ持ちながら

心地よい黄泉路か朝のまどろみのなか鈴虫の音を聴いている

虫の音を聴きつつ眠る幸せというべし辛きことも忘れて

偶像をしか信じない人の群れイエスをののしり石投げつける

現身のイエス罵る人達が幸い祈る十字架に向き

満月の下轟々とひびき去る夜汽車の客の心となりぬ

今日だけの事実であれよ臨終の母の微笑み眼前にして

眠りつつ走る夜汽車の汽笛聴くはやる心のはるかとなりぬ

やがて地を離れて夜汽車果てしない闇へと途切れとぎれに続く

この歩みいつか途絶えるところあり朝顔の花今朝はしぼみぬ

朝顔は雨に打たれて輝くに醜き心で階下りゆく

調子よき英語のリズムに乗り踊る日本か息を止めて見ている

グラウンド溜まりまだらに照りてくる野分の雨の弱まらなくに

溜まり来し夏の憂いを流すがに秋霖つづく木々きらめかせ

低き雲ゆっくり光りながら行く体育大会予行はつづく

くぐまりて生徒の歓声ひびきいるグランド秋は海底のごと

遠く聞く夜汽車に乗りてわが心旅立ちながら眠りへと入る

わが家も四角い箱の積み重ね夜汽車となりて向かう星あり

突然に人の悪意が見えてくる目を瞑りても深夜眠れず

無彩色万華鏡わが眠られぬ瞼の奥に流れつつ見ゆ

女性器のような牡蠣の身かぶりつく美味か不味いかいまだ判らず

表層を飛び交う言葉の奥にある心を観つつ対話は弾む

褒められて嬉しい嬉しくない気持ち独り彫琢積み重ねつつ

ここにいたら母さん喜ぶだろうなぁ次々開く花火観ている

美味い店入るたび母にたべさせて上げたかったが込み上げてくる

仕方ない死ということか猫の死を跨いで車あまた過ぎゆく

日々眠るは夜汽車のごとし次々に輝きと闇眺めつついる

目を閉じて銀河世界に入る夜汽車車窓は過去へ過去へ流れる

飛鳥川多武峰より夕方の風は馬子の墓石巡る

にわか雨降りて木陰の曼珠沙華独り輝くのも悪くない

飛鳥人そこにいるよな萩の花しばらく風の間にまに揺れる

金色に輝きながら夕陽待つススキに風はささやきわたる

曼珠沙華燃える稲田に浮かびいる橘寺和を尊しとなす

鬱々として楽しまぬ夕方は人の会話も尖りつつ入る

透明で大きな細胞連なりて夜汽車は走る満月の下

墜ちそうな満月に向き空っぽの夜汽車は徐々に小さくなりぬ

窓際の我を写してその果てに夜汽車は流氷原のただ中

雨を呼ぶ風ひんやりと過ぎて昼オシロイバナの揺れやまずいる

寝て見える所に母の写真ありなあ母さんと言いつつ過ごす

姑と義妹のいじめに筑後川腰まで入りし母と我一つ

体熱に寄り添うように飛んで来てつぶされる十月の蚊あわれ

バーチャルが本物になる喜びとかなしみ今も死を怖れつつ

通過する夜汽車の窓にいる我とそれを見ている我とがありぬ

ぎらぎらと欲求もまた溢れくる中学生より疲れて帰る

龍のごと雲躍る空広々として淀川は地を下りゆく

歯の抜けた箇所つかさどる脳幹が腐り始めてゆく気配あり

母のこと考え思いに浸るとき楽になるわが束の間がある

ぬばたまの夜汽車の窓は明るくて目を閉じるたび母顕れる

こんなにも死に親しくなり母のいる夢にたちまち吸い込まれゆく

山壊し川を氾濫させて雨今朝はカラリと秋晴れとなる

屋根叩き頭蓋を叩き時雨降る夜が明けるまで目は閉じておく

殺されていい人なんていないのに我にも殺意湧くことがある

飼い主の引っ越し過ぎてもたれ泣く仔猫と目の合うこと怖れいる

ニンゲンは改良されて来たのかとこの頃不思議に思うことあり

ホンモノも季節も人の都合にてニセアカシアは今日十二月

現実はやさしくすればなめられる中学校も世間の縮図

細胞の一つ一つがより生きよ生きろと叫ぶわが体あり

わが内を隈無く巡る血を思い布団の温き隙間に眠る

流氷となりて眠れば眼裏の海に無数のクリオネ泳ぐ

クリオネは羽根きらめかせ懸命に赤き心の鼓動を伝う

目を閉じて見れば明るく果てしない流氷原を夜汽車が走る

母の死としとしと雨の火葬場に乾いて軽き骨片拾う

徐々に死に近づく我か眠りいる日と日の境貫く夜汽車

啄木と茂吉と我を並めくれし人に歌わん腐ることなく

人良きが弄ばれて殺されるこの世の習いいつまで続く

作品の出来ないことが一番の苦しみ世間の只中にいて

白鳥のように飛びたいおらびつつ流氷原を見下ろしながら

母さんとつぶやくだけで苦しみが少し和らぐような気がする

ぐしゃぐしゃと絡まり身動きさえ出来ぬスランプ抜けよ知恵の輪のごと

今日は冷えしるく虫の音などとうに聴かなくなりて年の瀬となる

頭への血管詰まりいると聞く我はもともと呆けているに

心して独りなるべし生きながら我がシャレコウベ風化してゆく

窯元に川副川添姓のある伊万里焼見て半日遊ぶ

電球の烏賊船並ぶ呼子湾さざ波あちらこちら輝く

残酷で美味いイカ活け造り食べ呼子に泊まる家族たまゆら

島が出来山が出来する必然の地震津波を受け入れて観る

空気・海・適温などたまたま人が住める地球に思いみるべし

人でなく狐か鷲になって流氷原を行く眠りに入れば

災害も多大の死よりも正月は芸能人のお笑いに満つ

心とは裏腹言葉ぶつけくる父に抗うすべもなくいる

冤罪に満ちてこの世は実直な人ばかりかく災いに遭う



◆四十三号から長い時間が経ってしまった。文庫本『流氷記』の発行以後、何とも言いようのない苦しい倦怠期を迎えてしまっ
た。作品が出来て自分の世界を見つめられれば何があっても怖くないのだが、作品が滞るたび脆弱で不安な自分を感じるのみ
だった。それでも無理矢理にでも創作に向かえるように、学校の印刷機に頼らない「インデザイン」というソフトと流氷記の印刷が
精確に出来るカラーレーザープリンターを購入した。今までのように切り抜きの編集で機械の機嫌に頼ることのない印刷で出来
るのかどうか、不安と楽しみの混じるなか何とか四四号がスタートする。部数も半分以下の手作りにしてプロの印刷屋さんに負

けないものとなっているのかどうか。何とも不安の多い今号となったが、温かくお見守りいただきたい。

編集後記

文庫本流氷記は僕の手元だけで二千部、その他全国の書店に並んだ。朝日新聞や京都新聞、角川短歌にも採り上げられたが
、ぼく自身の中では次のステップがなかなか踏み出せない面倒なものになってしまった。文庫発行を機に部数を三百部(七百部から)に戻したい、より狭く我が儘なものにしたい、という周りの期待とは反する思いが強くなってきていた。この間、夢遊病のような曖昧さが続いたが、きっとこれからの創作の世界に生かしていきたい。孤独な夜汽車のように空をめざして。