54号『父惜春』の歌

二上山見るたび大津皇子思う無実ゆえ謀られながら死ぬ

宝満山に登りて無実叫びいし菅原道真雷神となる

唾と血に汚れた真のキリストを貶みながら賛美歌歌う

価値観の違う世界を裁こうと人の傲りがまた顔を出す

なぜこんなつまらぬ人に裁かれるイエスの心と重なりていつ

人の為だったら命も棄てられる清き思想もテロへと変わる

竹群れの中の竹垣へと伸びて南天の実の赤深く濃き

気がつけば今では菫は摘まぬ花道の端手につつましく咲く

進まずに消えずに止まる時間あり冬バラ濡れて我が前に立つ

山茶花の視野歩みいる我にして苦しみ癒えぬまま年を越す

殺されて調理されれば美味しくて人クリスマス正月祝う

罪もなく裁かれし人満ちみちてヒトは滅びを加速していく

良心の声かき消され吊し上げられればそれを笑う人あり

砕け散る水の滴り悔しくて眠れぬ耳に執念くひびく

アメンボのように手足を伸ばしいてオリオン冬の夜空に灯る

徳川の世の幻がテレビでは放映されて正月も過ぐ

理不尽で辛きも怪我の功名にせんとひたすら歌作りいる

吉宗はもっと質素な出で立ちとテレビの虚像の誤り正す

歌作るために逆境あるのかと所詮浮き世を笑い継ぐべし

数年を辿れば母が生きている夢こそ現溶けてゆくべし

飼い犬に手を噛まれるというたとえこの世の辛い習いのひとつ

辛けれど歯を食いしばり過ごすべし逆境こそが人強くする

幸せで曲が出来ぬと嘆きいし浜口庫之助思い出づ

次々に周り亡くなり涙ぐむ父あり人ははかなきものぞ

父も又難受けやすき感性と才持つ人と改めて知る

我が齢父も受難のありしこと思えば少し気が楽になる

降って湧いた災難なればやり過ごすより仕方ない時過ぎるまで

満足と無念が交差しておりし父は八十二と三ヶ月

いつの世も妬みと誹り満ちみちてかなしみまといつつ生き抜かな

くっきりと月浮かびいて我が前を青い流氷原がひろがる

真贋を見分ける才のあることも妬み誹りの要因となる

知らんふりするのも才能だと思う今にして知る世の才覚を

よく見れば桜の冬芽にぎやかに淡き小さき雪受け止める

悪い夢見ているのだと思うのみいずれは覚めるまでのしばらく

キリストは悪意と罵声の群衆に囲まれながらゴルゴダ上る

一番鶏早く鳴かせて菅公を苛めし後に天満宮あり

罪人となりしキリスト賞賛も罵声に変わり殺されに行く

クリスマス清しこの夜キリストを苛めし人もその他も歌う

羽抜かれ焼かれて鶏は不本意なままクリスマスの生け贄となる

キリストやジャンヌダルクの残念の心継ぐべし歌うたうべし

なぜこんなつまらぬ人の言いなりになるのか怒り込み上げてくる

芸能人格付けチェック大方は質よりラベルにだまされたんだ

神の名の下に殺戮繰り返し人絶滅までそう遠くない

泥土の中から蓮の花は咲くその出生を人問うなかれ

二万人レイプされたるサラエボの悲痛の叫び今なお続く

レイプされ生まれいし子も大切にしてサラエボの花と呼ぶべし

子ども産むように雌雄は出来ている生き物の喜びと哀しみ

内戦の傷跡に住むサラエボの小さな白き花愛すべし

内戦の死者二十万サラエボの哀しみ今も根強く残る

砲弾の跡痛々しきサラエボの人哀しみを踏みしめて生く

殺し合い憎み合いして混じり合う人よ民族なんか背負うな

兄弟で民族違うなどと言い二十万人殺戮されき

流氷記楽しみにして待っている人あり生きてゆかねばならぬ

善良な市民を裁く善良な人あり互いに憎しみながら

敵味方曖昧なまま殺し合いしサラエボ内戦傷生まなまし

排除される側より見れば健全の中に異常な暴力がある

完璧の他は許せぬ生徒あり危うき心なのだと知らず

スターリン窓の景色がシンメトリーならねば壊し粛清つづく

聖戦も英雄もなく累々と死と苦しみが果てまで続く

戦争や殺し合いとは言うけれどただ殺されるだけの人あり

殉教者と胸張りながら父知らぬ少女はサラエボに生を受く

サラエボの強姦の被害二万人その傷癒えるまで祈るべし

トラウマとなれば泣くよりしょうがない波打ち寄せて砂更しゆく

罵られ唾を吐かれて死ぬ前のイエスキリスト身近に思う

信号が今朝は見るたび赤になる道も時間もなお続くのみ

笑えない腹立つばかりどうしてもミスタービーンが好きになれない

誤解され曲解されて殺されし人かも曲がりくねって木々あり

妬まれて厄介がられて殺されてから美化される人の群れあり

雨の夜のバス待つ我に昇降機明るく灯りながら上下す

黒い霧事件池永正明の無実といえど負うもの多し

秋月に縁あるゆえ親しみて上杉鷹山折々思う

嘘ばかりの七家騒動乗り越えし上杉鷹山幸運もあり

毛沢東金日成スターリン独裁全うして亡くなりき

生まれては消えゆく定め絶え間なくひたすら落ちる雪を見ている

歌作ることが許せぬ人もいる大きな小さな権威かざして

ここまでに歳を重ねてしまったか焦るばかりでどうにもならぬ

コスタリカ真に戦争放棄せし小国なれど大きく見える

枯れ萩のしきり揺れつつさざ波の輝く光の前にか細し

フォーマットしたくて雪降る水仙の群れる岬に一人来ており

網走に流氷接岸すると聞く窓にようやく雪降りて見ゆ

今日あたり流氷接岸するだろう心がどこか網走にいる

くっきりと月が間近に見えている流氷原あり影蒼くひく

空低く蓮葉氷の続きいる無彩の白き海果てしなし

氷海の上に雪降り続く朝なぜか明るき沈黙がある

茜空不意に幼き頃のこといつみきとてか心に残る

いつもとは違った人が見えてくる思わぬ受難に戸惑いながら

一首評風に飛ばされ溝川を追いかけ捜す夢‥汗まみれ

よく見れば枇杷の花咲き白き蝶あちらこちらに止まるがごとし

身に沁みて縛れる朝は澁き茶を湯呑みに両手で包みつつ飲む

雪ののち晴れの明るき窓の外暗き厨に茶飲みつつ見る

溝端に枯れ葦すっくと立ちながら雪降る視野に輝きて見ゆ

道の端落ち葉集まるひとところ土となるべく人生きて来し

シャンソンを心傷みて聴いている昼にはフランス語がここち良い

九十八歳になりぬと評に添え葛西操の生き生きといる

とんでもない人との出会いも人生の大事な過程なのかもしれぬ

その言葉許せぬなどと啖呵きる教師もかなり底意地悪き

思い遣り大切なのだと感想をイケズな生徒がさらりと書きぬ

邪魔者は問答無用に誅すべく小栗上野介斬首さる

視野はただ映画のごとくしめやかに雪は斜めに移りつつ降る

唐突にするかしないか問うてくる上書き保存閉じられもせず

うねりつつ咳きながら冬の海つらく厳しき心をえぐる

父の死を聞きて戸惑う落ち着けよどこかで父の声が聴こえる

父の死を聞いて成績処理急ぐこの世の厳しい現実がある

唐突に遠いドラマのように聞く父の死が現実となりゆく

奥の間に優しい父が横たわるもう動かない安らぎに満ち

昼前に死んだばかりの新鮮な父横たわり見れば安らぐ

死して父横たわる家の庭隅にスミレ開けば涙流るる

手術出来ず一つ残りし動脈瘤破裂して父またたくまに死す

突然の父の死惜しむ人多く誇りを持ちて葬儀を終わる

突然の臨終羨む人もあり全て模範となりて父逝く

プレー中倒れて死すと聞いてよりグランドゴルフの名前を知りぬ

ホールインワンの直後に蹲る美事な父の最期となりぬ

父の死を悼み悲しむ余裕すらなくて葬儀は着々と過ぐ

父亡くてああ桜咲く誰に告げ愛でればいいかわからなくなる

歌詠まぬ四十幾日父の死を認めたくなき自分がありぬ

桜咲き舞い散る花を浴びて行くああ父母はこの世にいない

少しでも自分は進化しているか父母想えば心もとなし

沈む日が河口を染めてしみじみと父母のなき齢となりぬ

今は亡き父母想い散る桜見ているうちに緑となりぬ

春を待つ (大阪春秋一三〇号)

つみびととなりて都を追われいる菅公心戸惑いのまま

間違った方が大手を振って行く妙な景色はどの世にもある

よく見れば桜の冬芽賑やかに淡き小さき雪受け止める

日本すらまだためらいの中なのにコスタリカあり非戦を誓う

逢い見ての後の心のその後にしみじみ愛を思うことあり

雑記・父の死  ◆父が突然亡くなった。三月六日午前十一時十五分。これが父の死亡の時刻。十一時少し前に突然父が入院したと仕事先に電話があり、何が何か分からぬ間に突然亡くなったとの知らせに。聞けば、グランドゴルフ大会の最中に倒れ、救急車で運ばれて病院での死亡とのことであった。父は手術でも取れなかった動脈瘤を抱えていたので、それが破裂すると駄目だとわかっていたので、すぐに了解はできた。大会は始まったばかりで、父の番になり、ホールインワンをして、すぐによろよろと蹲り、応急処置を受けて救急車で運ばれてとのこと。ほとんど苦しんだ時間がない。それが救いであった。振り返れば、その四日の日の夜に父から突然電話があった。秋に保津川下りに行ってその景色と風情に感動して桜の季節には父を連れて保津川下りに行こうと言っていたので、その話をしたときに、父は「行けんかもしれんぞ」と弱い口調で応えたのが気になっていた。腕の付け根あたりが痛くなることがあるのでちょっと気になるということだったけれど。日頃展覧会などには出品しない父が、乞われて年長者の書道展に阿弥陀経を書いたものを出品して最高賞の八幡区長賞を受賞したことなど、珍しく書の話などもした。唯一の孫娘にもその受験のためにしばらく会えず、それでも私学の特別クラスへの特待生合格が決まり、喜んでいた最中のことでもあった。最近は父は僕の短歌作品も書くようになってきていて、書いて欲しい作品を書いておいたものを送っていたのがその四日に届いたのでという電話だった。新鮮な父の遺体が横たわっている家に夕方帰宅したが、上の父の書斎に上がってみると、僕の短歌作品が机上にあり、最後の短冊が「地表まで雪は呼吸を止めず降り人の歩みを美しくする」であった。もっともっと書いて貰えるものと思っていたのに‥‥と複雑な思いで父の書斎を眺めるのみであった。会うまでは死体を見るのが怖かったが、母の遺体と同じく、父が新鮮な体で横たわっているのを見ると、なぜか安心するものがあった。僕が遺体と対面したとき、一瞬父が微笑んでいるように見えた。その時から幾分父の顔が柔らかくなったと妹が後で言っていた。悲しいとか辛いとかいう感情でなく、ただただ力が抜けて、生きていく力の半分が消失したような感覚だった。僕の存在は、こんなにも父に支えられていたのだろう。父の分厚い寝間着の中にくるまって寝、作品を書いている父の許でいつもそれを眺めていた幼年時代。家がそのまま書道塾になり、いつも筆を握っていて、今でも鉛筆の握り方を知らない。大学も国立一期受験の時に高熱を出し(三九度あったのでたぶんインフルエンザ?)大学も二期の奈良教育大学特設書道科に、それも父を追いかけてのことだった。当時大学は天石東邨、谷辺橘南、乾鍵堂。他に梅如適や田中塊堂や沖六鵬なども講師、文字通り日本一の教師陣であり、個人的に小坂奇石に師事し書の世界も追いかけたが、どうも展覧会中心のどろどろとした部分も垣間見るようになって馴染めず、谷辺先生との縁から短歌を始めるようになり、当時高安国世先生主宰『塔』の編集部で仕事をすることになった。父は最後まで自分の言葉を書にすることはほとんどなかったので、そういう父に対しての秘かな対抗の気持ちもあったのかも知れない。そんな僕の生き方を最近は父も少しは認めるようになり、作品も書いてくれるようになった。特に那智の滝へ一緒に行ったときの歌「冬山の青岸渡寺を出でて見ゆ白き一筋ただ動くのみ」を好んで書いてくれ、その那智の滝を思い出しているようだった。父が書壇とは無縁の所で自己を貫いたように、僕も歌壇とは離れて活動している。父の葬儀場は父の作品で飾り、たくさんの参列者があった。惜しまれもし、ホールインワン後の急死に羨ましがられもして、話題の多い人の死の光景であった。その後、父の書作品は海岸の大きな石碑や遺跡の説明盤や神社の石碑や神額に至るまであることが改めて明らかになりつつあり、短冊や色紙、書の手本等とも併せて、父の作品集を編まねばならぬ思いとその状況に今置かれて、出版社ともこの夏に刊行するように準備と話が進んでいる。父の書は〈カワゾエハジメ書体〉とも言うべき独特で美しい形を持っており、出版社もこんなに完璧で美しい書は見たことがないと感嘆しきりである。この流氷記は遅れてしまったが、父の仕事を見つめながらのことであり、いずれ作品の成長に繋がってゆけるものと信じたい。とりとめもない雑記になってしまったが、父の死とそれによる流氷記の刊行の遅れの言い訳を述べさせてもらった次第である。

編集後記
この54号は早く出すつもりで二月末から用意して3月上旬にはと心の準備を進めていたが3月6日に父が突然亡くなってしまい、ついにここまで伸びてしまった。母が亡くなったときにはたくさんの歌が出来たが、父の残した書作品を追いかけているうち、自分の作品どころではなくなってしまった。それほどに父の偉大さが前に立ちはだかってきた。今までは父が生きていた。田中栄が亡くなり道標をなくしたと思っていたが父の姿を無意識に追っていたのかもしれないと今では思う。父の作品集と共に新たな世界を拓いていかなければと期待もあるのだ。