流氷記56号歌集『迷羂索』

父と母亡くして何もかも虚しされど世の中何も変わらず

一円の損に怒りて万円は笑う心の不可思議あわれ

京都線坐れば島本桂川新しき駅人あまた乗る

理髪中の鏡に映るわが姿父と重なる齢となりぬ

からかわれているのだろうか駅前のポケットティッシュついに貰えず

そこだけにしかない論理溢れいる国も職場も人の世なれば

何を急きこの世の終わりのように啼く蝉の読経の早朝にいる

今はもう叶わぬことと思うのみ父と母のいるあたりまえ

眼裏の中に揺らめく夜光虫眠れぬ我の心の襞か

少しずつ上から解体されてゆくフジテック塔テックとなりぬ

崩れゆくもののあわれはフジテックテックとなりてなお崩れゆく

夕焼けも西の国では昼陽にてかなしみなきかなしみこそまこと

北摂の山色づきて夕暮れは獣の群れの動くがごとし

その上を雲ゆったりと流れつつフジテック塔流されてゆく

フジテックジテックテックと低くなる様を見ている数日哀し

次々に行き交う列車見下ろしてフジテック塔壊されてゆく

ジテックとなってしまいしフジテック塔を優しく満月照らす

いつの間に虫も鳴かなくなりていし冷たき夜の独りの部屋は

フジテックジテックテックとなってゆき今クの半ば塔崩れゆく

柿の実がたわわに残る隣人の洗濯物見て無事安堵する

フジテックタワー解体父母の亡くなりて後と記憶に残る

北摂の山の傾りは色づきてあまたの獣横たうごとし

赤牛の背中のごとく鮮やかに紅葉をまとう山並み続く

フジテックジテックテックク崩れゆく塔の名前も今はもうなし

笑えない笑いの中にいて笑う心も体も引きつりながら

次々にフジテック塔壊されて今朝見し高さ半ばとなりぬ

七月に古川裕夫亡くなりしこと知る喪中葉書が届く

文字震いやっとの筆跡晩年の田中栄も古川裕夫も

流氷記に川添英一万歳と書きて古川裕夫今亡し

フジテックの文字無き塔が煙突に見えてほどなく消えてゆくらし

生まれては消えゆく命乗せてゆく時間は続く止まることなく

島本という駅降りて水無瀬宮神の瑞々しき水を汲む

死者はみな神となりゆく水無瀬川空縁取りて紅葉流るる

見渡せば山も色づく水無瀬川夕べは夢見心地となりぬ

さまざまな過去が雑多に入り混じる夢あり今日も眠りゆくべし

さまざまな過去の家あり今日の夢いかなる家と人待ちている

死ぬまでの時間は誰も持ちながら知らんふりして日々過ぎてゆく

いい年でありますように祈りつつ父を想えば父よみがえる

昨年の今ごろ父は生きていたなど想いつつ今年も暮れる

大阪の地下の通りの雑踏は死者も混じりてすれ違いゆく

淋しくてたまらぬ父の晩年に浸りつつ読む日記の文字を

ようやくに撓りて雪の落ちてゆく椿の赤く鮮しく見ゆ

夕刻の窓に広がる水仙を見下ろして過ぎ闇となりゆく

くっきりと枯れ蓮群れて立ち並び無彩の名画眼前に見ゆ

愚かにも神や仏を言い訳に人殺しする習いがありぬ

地獄餓鬼畜生修羅の人らにも幸訪れよ南無阿弥陀仏

口腔は海底なればウミウシの舌泳がせて我は眠りぬ

蛇口とはヘビの口にて水滴がたらりと夜の静寂に続く

悪漢がなければドラマにならないとやや思いつつ生徒を叱る

いずれ死ぬやがては死ぬと突然の人の死を聞く戸惑いながら

女歯科技工士の胸間近にて戸惑いながら治療受けおり

秋来ぬと目にはさやかに敷き詰めし小石のごとき雲広がりぬ

小車の丸き黄色に日常の不思議不可思議噛みしめて過ぐ

夕焼けに街はゆっくり沈みつつ一日の確かな終わりに続く

こんなこと釈迦が言う筈ないお経唱えて僧は坂下りゆく

夢の中父現れてあの声と笑顔を残しいずこへと去る

五十代麻丘めぐみ十代も今も肯う微笑みながら

蛇となり川となりして眠りいる猫の声音に起こされるまで

一人欠け二人欠けして親族の形も徐々に変化していく

父独り心細さと残念の晩年思う識域のなか

伯父の死の時に親族代表を我に譲りし父直に逝く

簡単に殺し人死ぬ謎解きのドラマ訝しみつつ観ている

あと幾日生きる熊蝉油蝉とどろく桜の木の下にいる

年寄りとかつて思いし歳となり逆らい難きあきらめ多し

猫さかる声に苛立ち出でし朝無彩の景色に囲まれている

救われぬ人らを救うべく立ちて不空羂索観音かなし

わが心晴れるにあらねど雪柳白きを見れば和らぎており

今日一日余命短くなったこと思いて鏡の向こうに眠る

目はかすみ歯は抜け耳は塞がれる瞬く間に時過ぎゆかんとす

七面鳥殺して誕生日を祝うヒトと人との歌声ひびく

人もまた淘汰さるべく今日もまたインフルエンザの死者の報聞く

木枯らしを聞きつつ思う真実は常に狙われ壊されやすし

夜の闇に刺客紛れて木枯らしの阿鼻叫喚を聞きつつ眠る

由布の峰昇る朝霧湯煙の向こうに見えて温まりおり

露天湯に雪しみじみと落ちてくる白き空のみ由布岳見えず

湯けむりと雲かき分けて煌々と月照る由布の露天に遊ぶ

月天心由布の山影まで照らし幸せと思う湯に浸りつつ

胎内に居る心地して由布の湯は過去も未来も温まりゆく

孫の代より岐れるに聖光と親鸞熱く法然を継ぐ

親鸞のみ残る感あり法然を継ぎし名もなき人々多し

ただに水溜めつつ眠る膀胱となりてぴたぴた日を継ぎており

茜空映して赤き安威川も常新しき水流れゆく

鳥は羽人は道具を使い飛ぶ空といえども地球の皮膜

未来を食べ過去となしゆく今という決して掴めぬ怪獣といる


[大阪春秋一三八号]
いつみきとてか 川 添  英 一


フジテックジテックテックと塔高く聳えしが今更地となりぬ

フジテック塔を映しし安威川も空行く雲が今映るのみ

行き帰り右に左に川は見ゆ常新しき水輝かせ

亡き父や母に似ている老人を今日も昨日も意識している

北摂の山の上雲の夕映えていつみきとてか歩きつつ見ゆ

(『流氷記』主宰)