眼 裏 月  (流氷記五十九号歌)


はらわたのように置かれたポリ袋三羽のカラス執念くつつく

雨に濡れ輝きながらアスファルト歪つに街の電柱映す

フジテック塔の辺りと何処からも見えしが塔は今はもう無し

夕方になりても凍てつく電線の向こうにぼやけた満月が見ゆ

流氷が網走沖に近づくの報道あれど聞き流しいる

流氷のあふれて積みし所より彼方に海が青々と見ゆ

流氷のようにこの世に生きて来ししぶとく後も生きていくべし

二月末走るように坂上り来る自転車数台息弾ませて

緊張と沈黙テスト五十分咳き込む音のひびく束の間

そこだけにしかない論理弄ぶどこにでもいる人の群れあり

五百米泳いだ後の疲労感何とも良くて日課となりぬ

鉛筆と咳とあちこち鼻すする三学期末テスト始まる

阪急電車通る所を見下ろしてわが自転車も家路を急ぐ

魂が吸い寄せられていくような満月この世の出口が見える

見下ろせばグランド雨の道筋が血管のごと輝きて見ゆ

金網の向こうにしばし通過して阪急電車の轟きわたる

考えるゆえに我あり生と死を繰り返しつつ地球は回る

人生が分からぬままに過ぎていく終着点が見えているのに

何となく過ぎてここまで生きてきてやがては消えていくことになる

思春期という新鮮な匂いして中学生見ゆ我が眼交いに

人生で一番良い時なのだろう中学生とたわむれながら

肩書きを外せばただのつまらない男の姿見えてしまえり

なぜかくも人の足下ばかり見るようやくここまで生きてきたのに

中学生に元気をもらいながら生くもう出汁ガラのようにしおれて

昨夜雨降らねば清き水となり安威川流れる厳かにして

秋月の生家に梨の白き花幼き我に鮮やかに見ゆ

若き母に強く手を握られしこと幼き頃の思いの一つ
鮮やかな土となるべく梅の花ひとひらひとひら吸い込まれゆく

鈴の音の聞こえて巡礼過ぎゆきぬ祈りつつ人生きていくべし

その笑顔見るたびほのかに温かい優しい気持ちが湧き出でてくる

亜美の透き通った美しい声が満月のごと心に沁みる

偽りのない真心にしみじみと我の心も愛満ちてくる

純な貌純な心に触れるたび生きる歓び湧き出でてくる

喜びの一つ煉瓦の隙間からスミレの花のありありと咲く

白なれど色鮮やかな梨の花そぼ降る雨にしめやかに咲く

庭先に一木輝く木瓜の花開きすぎたるままに咲きおり

終日をそぼ降る雨に濡れながら山吹開く見れば安らぐ

明け方の星のごとくに浮かびいる筆竜胆の花開くとき

足下にヒトリシズカの花咲けば後ずさりしてしばし見ている

そこに我が入るべき心地して通る蓮華群れ咲く野が広がれば

オレンジ色小さな花が揺れているナガミヒナゲシ一輪なれど

珍百景驚き笑う日本の平和な年はいつまで続く

何糞と思えば少し若返りよりよき明日へ向かい行くべし

安威川の土手やわらかに黄色づき米粒詰め草だらけとなりぬ

やわらかな緑の中に星のごと米粒詰め草鮮やかに見ゆ

落武者の逃るる森に鮮やかな鎧の大銀条赤葉巻

踏切をいかにも急いでいるように電車が走り何処へか去る

自転車の車輪回転するたびに次々思想現れては消ゆ

花と葉と色鮮やかに山吹の梅雨の晴れ間の昼に輝く

何事か深夜ひたすら甲高く猫訴える声が聞こえる

目を閉じて天も地もない果てしない宇宙の闇に体ごと入る

目を閉じてしまえば幻こそうつつ亡き父母の声も聞こえる

ニンゲンの都合によって分けられた善玉悪玉菌も生くべし

ウミウシのようにわが舌動きいる深夜も絶えず唾泡立たせ

金八のモデルの一人となることもありて教員生活長し

金八の教頭の役やりますと早崎文司も今はもう亡き

我が授業数日後ろで見ておりし後のドラマが評判となる

眼裏の模様に浸り泳ぎいる深夜の我は魚となりぬ

眼裏に宇宙の形あらわれて体まるごと吸い寄せられぬ

冷蔵庫家震わせて一人泣くひびき聴きつつ眠りへと入る

夢の中なれども我はさまざまな人生歩む味わいながら

よろよろと歩くゴキブリあまりにも我と重なりすぎて笑えぬ

サクサクと玉葱噛んで爽やかに今日が始まるような気がする

切れ端のようなわずかな時の間を今生きている死を待ちながら

骨となり灰となりして死んでいく未来に向かい生きる他なし

目つむれば無数の流れ星が見ゆいずれは我も星となるべく

口の中濡れて海持ちながら生くウミウシの舌ゆらゆら揺れて

味噌汁が喉食道を下る時わが内側も無事でいるらし

一週間あっという間に過ぎていて未来も残り少なくなりぬ

一週間前が昨日のように見え時間が呆気なく過ぎていく

恐れるというのでもなくおろおろとただ死を待っている我がある

突然に人の死を聞くもう骨と灰になってしまった後に

冥福を祈るなどとは言い切れぬただ死を信じられぬ死を聞く

まだ少し早いと二度寝して眠る夢次々と展かれて見ゆ

さまざまな微生物棲むわがからだ善玉悪玉知るよしもなく

夢を見て眠る楽しみ父呼べば父現れて力をくれる

あまりにもなめらかに時過ぎてゆく容赦なくわが死さえ追い越し

夢の中幼い頃の家にいる父母がいて守られながら

口の中常濡れながら白昼も夜も夢見て人生きている

さまざまな心の周波数があり以心伝心こころを覗く

想い出の父の齢を越えている現つに気づき愕然とする

手と足とたたんで伸ばし平泳ぎかように時も進みゆくべし

眠そうに何考えるカエルの目しながら水を掻き分け進む

取り敢えず手足たたみて考えるともなきカエルの目をして眠る

水草に止まる小さなアマガエル目を閉じて今滴くとなりぬ

次々と道展かれてペタル漕ぐ小さな未来なれども向かう

その途中止まりたくなる時もあり川面を見つつ安威川渡る

北摂の空燃えながら安威川の溶けて流るる一筋が見ゆ

くっきりと満月この世の出口にて見るたび心吸い込まれゆく

昨日観たような錯覚持ちながら日曜夕刻笑点を観る

あと何日生きていけるか夕刻に行き交う人を見つつ思えり

虚飾なき池上彰の質問に政治家言葉をなくすことあり

改めて問われゆくべし日本がいい顔ばかりしてきた戦後

そこだけにしかない論理価値観が職員室の会話にもある

新鮮で美味しいなどとテレビ言う弱肉強食世の常なれば

ポルポトを毛沢東を賛美した新聞記事もかつてはありぬ

プノンペン解放などと聞いて書く記事あり大虐殺の結果を

戦争に負けた日本が大国の悪の全てを担いゆきけり

授業中覚えてしまえるように何度も繰り返す言葉の群れあり

信頼し話したことが暴かれておかしな具合に伝わっていく

足下を見ては密告ばかりする人あり人が恐ろしくなる

どうにでも言える論理がいつの間に罪を伴う掟となりぬ

きっぱりと詩人として死にたいのだと島田陽子もわが裡にいる

富士山のように皿倉山が見え我が家は山の中途にありき

坂上がるほどに数字も上がりゆく山王町四丁目に住みき

章ちゃんと清隆さんと兄弟のように遊んだ幼き日があり

家ごとにコンクリートの井戸があり覗けば月がぽっかりと見ゆ

章ちゃんは田中章二は体操の三兄妹弟の父親となる

郊外へ共に引っ越し章ちゃんの田中家も先隣にありぬ

五十年昔のことが鮮やかに今よみがえる昨日のように

山王町思えば父も母もいて昔は竹久夢二も住みき

カラコロと下駄の音して穴ぼこの道には子供の声あふれおり

海が見え海の向こうに日が沈む少年期あり詩人となりぬ

山王町思えば幼き我となり若くて美しい母がいる

丹前や浴衣や着物着て通る下駄の音して過去よみがえる

山王町思えば父も母もいて幸せなりき貧しけれども

夢をもちいきいき生きている時が夢の中にて今よみがえる

山王町崖の上より見下ろせばスペースワールド今下に見ゆ

丸井戸を覗けば常にくっきりと満月見える少年期あり

水脈へ土管が縦に突き刺さる丸井戸水道以前よりあり

山王町現在形で住んでいる人もあるべし今も昔も

目覚めたら違う人生歩んでるそんなはかない夢を見ている

七月の稲の緑のさわさわと視野いっぱいに風含みゆく

安威川の河原は草の丈高き野性の緑が風にうごめく

さよならと言える親しさ幸せを味わいながら家路を急ぐ

河土手を背にして公孫樹並木見ゆ緑に緑の絵の具のごとし

我にしか出来ぬ生き方ばかりにて除外例なき死に向かいいる

八月の稲は緑にあふれいて葉も実もみどり風に吹かれて

悔しさと不安をバネに生き生きと過ごせたとふと思うことあり

初恋のときめき訳もない笑い中学生といる嬉しさは


眼裏月のこと
 章ちゃんが花園幼稚園に行っていた時にその制服姿をかすかに覚えている。章ちゃんが僕より一つ上で、その一年後に僕も幼稚園に行っているので昭和三十年代から四十年代にかけてのことである。僕が生まれた頃は別の町にいて知人の家に居候をしていたようだ。二人がキスをしているところを見られてという件を父の日記から発見したことがあった。すぐにその日記は別の所に隠されてしまったが‥。父と母は従兄弟同士で、小さな時から父は母のことを気にかけていたらしい。西瓜など何かを持ってきては母の元に通い、母によれば憎事ばかりしていたという。面と向かっては好意を伝えられずに、母の見合いが決まった時、叔父さんの元に泣きついて行きそれで決まったという。父と母の結婚が昭和二五年二月二六日で僕の生まれが翌年の二月十日。母の実家の上秋月で生まれてしばらくは上秋月か父の実家の屋永に母と預けられていたので、郷里を離れて八幡で働いている父にとっては母と僕と共に暮らせる家が急務であった。戦争中は大刀洗の少年飛行兵から出発した父は戦後しばらくして八幡製鉄の起重機の操縦士となって働き、家を手に入れるために数年は休みなく働いて、当時は裏田町と呼ばれていた山の中腹の家を格安で手に入れたらしい。当初は天井から星が見えていたという家も日曜日毎に大工仕事で家族の住める家へ進化させていったようだ。電気はかろうじてあったが水道もガスも通っていない。台所も土間になっていて、大きなバケツに井戸から汲んだ水をひしゃくで掬って使う。七輪での炊事、家の前では朝早く団扇で仰ぐ七輪からの煙があちこちに立ちこめていた。子供たちの仕事である。テレビは今の天皇の皇太子時代の結婚式の時にもまだなくて、笛吹童子、赤銅鈴之助、まぼろし探偵など、椅子に乗らないと僕には届かないラジオの前で聴いていた。そんなラジオも、どこに人が入っているのだろうと覗き込んでいたくらいで、毎日わくわくしながら聞いていた。子供が集まるとどこからかいつの間にか「アッカ・ドーォ・ス・ズ・ノスケ♪」の合唱が始まった。七輪からプロパンガスへ、そして都市ガスに至るまでかなりの年月があった。水道も井戸から共同の水道、そして家に一つの水道に至るまで間があった。そんな時代にいつも覗き込んで夢のような気分に浸っていたのが、家の裏側にあった、直径一メートル程の径のコンクリートの丸井戸である。井戸は各家が水道を持つようになっても使われていた。釣瓶に引っかけた綱の先には二つのバケツがあり、一つが井戸に浸かっている時は一つが釣瓶に引っかかって上にある。西瓜を冷やしたり、行水に使うなど、井戸は常に身近にあった。十数メートルの深さがあり、井戸を覗くと明るい満月がそこにはあった。井戸を覗くと月が見える。まんまるい月が見える。真っ白いきれいな月で、真っ暗な地の底に浮かんで、何かの入り口か出口のようにも見えた。何考えるでもなくふらりと井戸を覗き込んでは不思議に気が安らいでいた。
 家にテレビが入り、土間だった台所を板張りにして冷蔵庫や洗濯機も置かれるようになった。白黒の十四インチのテレビが大きく見えた。月光仮面や少年探偵団や白馬童子と、ヒーローも変わっていった。道は相変わらず土か砂利道で、男たちは道のあちこちに小さな穴を開けてランチンと呼んだラムネ玉で遊んだし、女たちはケンケンパーの白石の模様が道にあふれていた。家には風呂が無く、銭湯では子供たちは男女の別がまるでなかった。夏は行水であちこちで大人の裸も見られ、それが当たり前だったし、変だとも思わなかった。そんな時代が刻々と変化していった。章ちゃんは、屈んだぼくの真上で一回転して着地したり、逆上がりの出来ない僕の横で大車輪をしたりして、オリンピックを目指すようになったし、僕は僕で、詩人か作家か芸術家かといった自由人を夢見ていた。章ちゃんと一緒に行った中央町の丸物百貨店で見た山下清のような生き方にあこがれていたのかもしれない。白黒テレビを見ていたとき、これに色がついたらどんなに幸せだろうと思っていたが、今、色がつきハイビジョンになっても幸せかどうか。とは言え、歳を取るとこの頃の生活が懐かしくなり、満月ともなると、丸井戸に映る明るい月と同じに見え、この世の出口のように思えると同時に懐かしさがこみ上げてくるのである。

編集後記
★この四月に茨木市立養精中学校から東雲中学校へ転勤となった。昨年度は2年生を持っていて、同校で3年生担当を希望していたのだが、再任用の身、どのような思惑が働いたのかは分からない。生徒も別れを惜しんでくれて今号にも三六名の養中生の一首評が入っている。★東雲中では一年生全6クラスを一時間だけ担当、2年生の週4時間を二クラス担当することになった。2年生の教科書に短歌があり、1年生では教科書以外のものを教えるということで、文法の他に、芭蕉、蕪村、一茶の俳句から始まり、正岡子規から俵万智までのたくさんの短歌を覚えさせた。短歌のリズムに慣れてきたところで自作百首の歌を紹介した。急に僕の歌に興味を示したようで、東雲中の一首評が瞬く間に増えていき、四四人になってしまった。万葉以来日本に伝わる短歌は彼らの心にもインプットされているのがよく分かる。その一首評から彼らの心の一端を知ることが出来る。★自作百首の歌を改めて作ってみて、十代に作った歌が多数あるのが嬉しい。アンリ・バルビュスに『地獄』というのがある。若い頃彼女のために詩を作り彼女の棺と共に地中に詩を埋めてしまう。最高のものだと思っていたその詩を掘り出して見ると、とんでもなくひどいもので、彼女に浮かれて書いていただけの駄作であったというもの、それを地獄だと表現している。幸いにそんな若き日の歌を選べるのが嬉しい。流氷記五七、五八号の最近の歌もあって、自分もそう衰えている訳でもないと励まされる。前登志夫の褒めてくれた「潜みいる悦びなれば指先に葡萄の房の美しくあれ」のように外した歌もたくさんあるので、何か御意見いただけると有り難い。★僕の歌は平明で技巧を凝らしたものがほとんどないと、高階時子さんが書いてくれたが、確かに僕は技巧など全く考えにはない。とはいえ、言葉が五七五七七になっておれば、それでいいのか、というと、こだわりがある。田中栄さんによく「川添君、それは俗だよ!」と言われたが、平明であっても俗にならないようにしている。といって、それは感覚的なもので、言葉で説明できるものではない。芭蕉の言う「軽み」のようなものなのかもしれない。★一昨年大正大学で発表した一言芳談のレジュメをそのまま採録した。今も主張は変わらず資料も増えている。今は中断しているが、また改めて歴史研究等にも発表していきたい。★再任用も三年目になり、いつまで流氷記が刊行できるか分からない。流氷記もいつまでも作っていたいし、仕事もずっと続けていたい。そんなことが我が儘になってしまうことがあるのかも知れない。