夜の大樹を 百首

曼珠沙華の淡き記憶の夕闇を空のみ明るく雲なだれゆく

疑わず待つ苦しみに耐えていて沈みきるまで夕陽は熱し

溶けそうな無数の指がとり囲み私を無言に指さしている

苦しみに別れてきたというのですか?ゆうやけうつす川浸す足

コスモスの花散る夜の木枯を昇りつめたる花びらのこと

こうもりの白き歯のこと思いいる風さわがしき地下道に入る

ひとつの雪ひとつの雪おともなく涙ながれし時移りゆく

地表まで雪は呼吸を止めず降り人の歩みを美しくする

ふりしきる雪の閉じられゆく窓とほのかにさびし我のうしろ背

洗面器の水掬うため空を見し掌をさらさらと水のこぼるる

蛍光灯が笑った笑った冷えたまま私を笑って消してしまった

眠そうなナイフの光に血まみれに林檎の皮がほどかれてゆく

冬の卓 輝きばかりのスプーンがコーヒーカップにたてかけてある

仔猫・猫・固い貝殻・貝の肉・・・買いますかわいらしい奥さん

猥雑に言う窓際の生徒の背なめつくし雲がちぎれんとする

弾きしのち母がガソリンもて洗う黒い手 鴉が燃えながら飛ぶ

干潮の浜辺をピアノが泣きながらひきずるように歩いている

肩冷えて夜を目覚めしひたすらに螺旋階段赤子がのぼる

フイルムをたどりて冥し雪の野をひたすら機関車群突っ走る

寒い朝息吹き返す真っ青な無数の父と共に走りぬ

生きて死ぬ生きて死ぬとぞ父の顔持ちて雪降る野辺に来たりぬ

泣きじゃくりガラス戸たたいた手が音が赤い破片となりて散りゆく

眼割る思いに夕陽砕きいる硝子の数だけ映る夕陽を

「父殺し」ノートに綴りゆく夕べ黄のガラス戸に閉じ込められき

すさびゆく猫の声音のしみ透る夜の関節炎ひびく海

フイルムのような眠りに際やかな蝶となりつつ入る冬の午後

机の上 時計がひとつ夕映えて己が時刻をふるえておりぬ

いま一歩のところでボールを封じいるボールペン角なき文字つづるため

紅茶より湧きくる蝶の燦燦と己が体のなかに燃えゆく

根のごとき己がかたちの静脈が真夜蛍光をたどりゆきけり

冬の市たちまち閉じてゆくところシクラメンひとつ残りて白し

黒枠の四角い夏へ逃走す後なまなまと線路を残し

白き色はたはた赤に真向かいし蝶を殺めき陽は没りてゆく

刻々と日は逃れゆき山に没て傾く大地に耕す人ら

夕映えは沈み大地にもがく森 蝶を燃やせしてのひらあつく

いっせいに鳥飛び立ちし森想い思えば夜明けの風吹きてきぬ

胎内に滴る熱い涙かも眠りのなかにしきり降る雨

矢を射てばたちまち消ゆる海ありて眼下に堅き夕映となる

水の香の漂う夕べを閉ざしいんまなうら無数の海猫が飛ぶ

醒めきらず途絶えし眠りの死を思う我らつめたき抱擁のまま

法師蝉鳴きいし夜をあかあかと焔の中に闇はひそまる

首飾りの鎖の天に向かう夜半 首ほどかれて人は滅びぬ

青き水こおろこおろのまぶしさよ森追いかけてくるひびく足

星のように輝く水を欲りながら根は支えいん夜の大樹を

蠍座のさそりの骨を砕きたく駆けいしむこうの波高き海

どこに母を閉じ込めいしか星赤き夜につぎつぎと割る大き石

君の身に縦に流れる海ありて見ており渦巻く夕べの海を

草噛みて逃げゆく我に風強き野はにびいろの光さらしつ

夕闇になおも明るく空瓶を吸いつつ白いストロー刺さる

潮騒のしばらく途絶えし風おもう夕べ紫の鐘鳴りわたりき

天翔けてゆくごと背のさびしかり星出でてのちの夕映

雨の音地にいっせいにはばたきて胎児のごとく我ははなやぐ

ゆっくりと重き地平を沈みゆく我が眼球が我をみている

首吊りて後の廓にことごとく丸い窓ガラスをはめにゆく

無花果は領土かなしきまで実りひえびえと沈みゆかんか陽は

踏まれし後徐々にほぐれてゆく落葉が不意に笑いのごと盛りあがる

草いきれのあわいに雨のふりそそぐ耳のごときを削がれておりぬ

自転車に乗りて倒れし影が見ゆ一気に大木をせりあがる風

静かなる海を聞くためはるかはるか双眼鏡を持ち海へ行く

思いきり猫背になりて幼き日のわが捨てられし森を背負いぬ

海風の熱やや冷めて干されいし烏賊の無数の影にとらわる

尾をふりて駆けゆく犬の遠ざかる闇一点より風なまぐさし

蟻地獄、沼に沈んでゆくように切れ目なく人ら地下へつづける

風が秋だと思えるようになるまでをすすきのようにかがやくひとり

剃刀がたちまち波紋をひろげゆく水よあやまつ目のごとく澄め

人の死を聞きて眠れる沈みつつマリンスノーの中駆けやまぬ

車ののち猫の横切る幾度か郵便ポストの見える街角

内臓の中どこまでも落ちて行く針はり叫ぶ光を放て

光の束を鍛える如し沈まんとする陽の下に聞く槌の音

一粒の葡萄の薄き皮むけば口腔にぬめぬめ眼球の膚

ひるがえり風にふかるる木の葉なり彼の日翳りし人を想いぬ

星ふりて夜はつめたく流れいん水平線の見えるガラス戸

生れては消えゆく羽をくゆらせて煙草よ憩う我の指先

鳥影の鈍くかすめる昼があり血のしみつきし路上を歩む

雲の影風を巻きつつ下りる丘 泳ぐがごとき疾走の馬

限りなし海は翼を閉じて伏すかつて不死鳥の飛びし夜明けを

沈まんとする陽に向かう風ならば翼と思え輝くものは

叫びたきまでに冷えいし夜更けまで広告たたみいし新聞舗

秋萩帖 岬のごとく海待てばおもむろに髪和紙にこぼるる

朝を吸い昼を吸いしてなだらかに真っ赤に天を向く墓石群

白い椅子浜辺にひとつふらふらと食べられそうに男がすわる

さまざまに壜の中より湧き出でし小さき蝿小さき羽根を光らす

石垣にふきつける風なまぬるく咳すれば湧く蝶が無数に

いつよりか親しくなりしクレーンがビル食べつくす怪獣となる

ひるがえる一瞬にして火をまとう昼顔があり・・・さらば夏!

靴音が踏みつけ奪いゆくものを腫れもの熱くみている午前

ひとところ明るい橋に到るまで闇にほどかれつつ駆けてゆく

たちまちにして関わると風のむた雑草群より絮ふかれとぶ

まばたきのごとくに去りてゆく蝶よ驚きやすき我に驚き

万年筆水に浮かべりとめどなく一筋インクの黒吐きながら

激怒して我はみている流木の転がされついに動かなくなる

寂しくて浜を歩めばうつせ貝ふつふつとわがうつせを開く

駆けてくる子の膝狩りにシクラメン青き広場のすみずみ灯る

いらだちて階下りしときつつぬけに闇にまぎれて鳩の群あり

ルイ・ジュヴェとひくく極みのごとく言う父よいかなる生欲りていし

ひと息に上りつめれば白昼の屋上磁石の匂いをさらす

猫の目のごとく絞ればひややかに火は木を抱く闇をたたえて

君といて厳しき眼して笑うかすかに引き金はきしみつつ

血管の束を抱きし腕時計机上にありて夕日を浴びる

ゆうやみが酢のごと白くただようと花の下にてひと冷えてゆく

『塔』の頃